徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔63〕甲府盆地番外編・恵林寺、武田神社界隈を散策

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よく知られた偈(げ)が掲げてある恵林寺の三門

 甲府盆地には見所が多すぎて、一泊二日で訪れただけではひとつひとつの場所にはあまり多くの時間を割くことができなかった。駆け足で巡った場所の中には、次回には時間を掛けて徘徊したいと思えた場所がたくさんあった。幸い、府中から甲府盆地の入口(勝沼IC)まで中央道を使えば一時間余りで到達できるゆえ、日帰りの予定で何度か訪ね直してみた場所も多い。

 第62回では簡単にしか紹介できなかった「恵林寺」とその界隈、次回に触れる予定にしていた「武田神社」は追加訪問が重なったために分量が多くなりすぎると思われたために、今回は「番外編」の項を立ててこれらについて触れることにした。

恵林寺(えりんじ)とその界隈

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庫裡(くり)と本堂(の一部)

 前回に触れたように、拝観料500円也をケチったことから、国の名勝指定を受けている恵林寺庭園を見学せずに「笛吹川フルーツ公園」へ移動してしまった。そこで日を改めて甲府盆地に出掛け、なによりもまず恵林寺に立ち寄ることにした。

 庭園は本堂の裏手(北側)にある。そこを見学するためには、写真にある「庫裡」に立ち入り、入口右手にある券売機(白いボックス)で拝観券(500円)を購入してから、靴を脱いで上がり、拝観順路にしたがって本堂の裏手まで進まなければならない。

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小部屋から少しだけ庭園の姿が見えた

 庫裡と本堂との間に小部屋があり、その部屋の中から庭を眺めたのが上の写真。庫裡と本堂とをつなぐ北側の渡り廊下が見え、その向こう側に庭園が広がっているのが分かる。ただ、この場所から直接、本堂の北側に出ることはできない。

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本堂の内部をのぞく

 本堂南側の廊下から、本堂の内部をのぞくことができた(立ち入ることはできない)。ここには本尊である「釈迦如来」が安置されている(とのこと)。

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恵林寺庭園その一

 本堂の西側には、歩くとうぐいすの鳴き声のような音がする「うぐいす廊下」、信玄が生前に対面で模刻させた等身大の不動明王が安置されている「明王殿」、原則非公開となっている「武田信玄墓所」、恵林寺の再建に尽力した柳沢吉保(彼も広義には武田一族)の墓所や霊廟がある。が、いずれも撮影は不可となっているため、ここに掲載することは叶わなかった。それゆえ、これらとの対面にはさほど時間を掛けず(うぐいす廊下は興味深かったので何往復かした……お前はガキンチョか!)、いよいよ恵林寺庭園をじっくりと拝見することにした。

 『作庭記』については第40回でも少しだけ触れているが、今回は夢窓疎石が作庭した名所に触れるということもあって、改めてその書を再読してみた。『作庭記』の名は江戸時代に『群書類従』を編んだ塙保己一が付けたもので、平安時代の中後期に編纂されたときは『前裁秘抄』または『園地秘抄』などと呼ばれていたらしい。原本は残っておらず、現在に伝えられている書は1298年に写本された「谷村家本」が底本になっている。

 その冒頭には「石を立てむ事、先づ大旨を心得可き也」とある。本文には「池を掘り石を立てむ所には、先づ地形を見立て、便りに従ひて池の姿を掘り島々を造り、池へ入るる水落並びに池の尻を出だす可き方角を定む可き也」とある。

 第2章?の冒頭にも「石を立つるには様々有る可し。大海の様、大河の様、沼池の様、葦手の様等也」とあり、次に石の置き方を細々と述べている。以下も同様で、6章?には「石を立てむには、先づ大小の石を運び寄せて、立つ可き石をば頭を上にし臥す可き石をば面を上にして庭の面を取り並べて……」「石を立てむには、頭麗しき石をば前石に至る迄麗しく立つ可し」とある。

 第7章?に至っては、「石を立るには多くの禁忌あり。一つも是を犯しつれば、主常に病有りて終に命を失ひ、所の荒廃して必ず鬼神の住処と成る可し」と見出しを立て、「家の縁より高き石を家近く立つ可からず。是を犯しつれば、凶事絶えずして家主久しく住する事なし」「雨滴りの当たる所に石を立つ可ならず。其のとばしり掛かれる人に悪瘡出ず可し」など、三十一項目に渡って石の配置の際にやってはならないことを書き並べている。

 『作庭記』の底本は13世紀にまとめられ、恵林寺庭園を設計した夢窓疎石は14世紀の人なので当然、この書に触れているはずだ。そう思って私は庭園を眺め、石のひとつひとつに疎石の感性的かつ秩序的世界が繰り込まれていることを理解しようと努めた。しかし、芸術的センスがゼロの私には、ただ美しい、とだけ思った。 

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恵林寺庭園その二

 先の写真は庭の西部分、上の写真は東部分を撮影したもの。どちらにも滝を配しているが、西側の滝はやや落差が大きく、こちら側はやや小さく造られている。それに比するように西側の池は大きく東側は小さくなっている。

 「滝を立てむには先ずづ、水落の石を選ぶ可き也。其の水落の石は、作石の如くにして面麗しきは興無し」と『作庭記』にあるので当然、これにしたがって配置されていると思われる。

 このように、作庭家には石が最重要なので、夢窓疎石は「疎石」という法諱法号、戒名)を付けたのだろうと考えたのだが、実際には、中国の名勝である「疎山」や「石頭」に遊ぶ夢を見たので、「疎石」と付けた(らしい)。

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恵林寺庭園その三

 写真は、庫裡の西側通路から本堂の東脇にまで達している庭を眺めたもの。本項の3枚目の写真は、この部分を南側から見たものだ。庫裡と本堂との間まで池が広がり、ここで疎石の庭の実存的世界は閉じている。観念的世界は別として。

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寺に住み着いている「ちゃーくん」

 庫裡の中には「売店」があり、恵林寺に関係する記念品や土産品が置かれている。私には無関係な存在だが、それらを遠目に眺めていたとき、一匹のネコが私の足元にやってきたのが分かった。そいつは完全に人馴れしているようで警戒心はまったくない。

 売店の一角に展示されていたイラストのネコにそっくりなので、足元のネコにその絵を指し示すと、そいつは棚の上に飛び乗って、絵と並んでこっちを向いた。ネコの横には彼(ちゃーくんはオス)の素性を紹介するパンフが置かれており、それは500円で売られていた。売り上げはネコたちの食事代になるらしい。

 仏教には「放生」という考え方がある。寺に住み着いてしまった彼は、恵林寺の一員として拝観者の出迎えを担当しているようだ。

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修行中のネコ

 庫裡の外には、違うネコが柱でしきりに爪を研いでいた。こいつも人によく馴れているようで警戒する気配はまったくなかった。これから、木登りの修行に専心するのかも。誠に真剣そのものであった。それは、目を見りゃ分かる、フニャー。

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境内に建つ「信玄公宝物館」

 庫裡の南東側には写真の「信玄公宝物館」がある。私は「宝物」にはさほど関心がないために入館しなかった。たとえ入館しても写真撮影は一切、禁止とされているので内部を紹介するわけにはいかない。

 資料によれば、軍旗としてあまりにも有名な「孫子の旗」(風林火山の旗)、信玄愛用の太刀(来国長、国の重要文化財)、短刀(備州長船倫光、国の重文)、「扇面図絵」、「花菱紋蒔絵鞍」、「軍配団扇」などが展示されているとのこと。信玄に関心のある人は立ち寄っても良いだろう。私は戦国武将の個々人にはさして興味がなく、時代の変遷のほうに関心がいく。メジャーな人物たちは語り尽くされている感があるので、ローカルでマイナーな北条氏照滝山城八王子城主)なら心惹かれることもあるが。

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三門に掲げられた「偈」

 恵林寺の建築物では、やはり三門に一番の感興を覚える。前回は向かって左側の偈だけを掲載したので、今回は右側の偈も合わせて写してみた。三門の向こうに見えるのは開山堂だ。

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信長に焼かれる前に使用されていた三門の礎石

 三門(というより恵林寺全山)は天正10(1582)年4月3日、織田信長勢に焼かれてしまった。現存する三門は江戸時代に再建されたものだが、写真にあるように、以前に使用されていたと考えられる三門の礎石が、傍らに展示してあった。

 ちなみに、信長はその2か月後の同年6月2日に”本能寺の変”にて死去している。もちろん、仏罰ではなく、単なる権力抗争の末にである。

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恵林寺の西隣にある「信玄館」の信玄像

 恵林寺のすぐ西隣に「信玄館」という名のお土産店・食事処がある。その玄関のすぐそばに置かれているのが写真の「黄金の武田信玄像」だ。黄金像の左側には甲州名産の大水晶もあった。武田家と金との関係は本ブログの第50回で触れている。確かに武田家の繁栄は金の採掘によるものが大きいだろうが、信玄が単なる金好きだったとは考えられない。金のピカの信玄像は凡俗の極みだろうが、それはそれとしてこの大きさなら人目を惹くだろうから、商売人としては当然の営為である。事実、こうして観光客は立ち寄るし、私も撮影している。

◎放光寺と「ころ柿の里」と

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放光寺の山門

 新義真言宗智山派の放光寺は、12世紀の末に創建された法光山高橋寺に源がある。創建者の安田義定は、「甲斐源氏」の祖とも言われる新羅三郎義光の孫にあたり、彼の兄弟筋から甲斐武田氏が生まれている。

 法光山高橋寺は真言宗山岳仏教に進展した時期に創られたため、当初は高橋荘(現在の甲州市塩山一ノ瀬高橋)にあったとされる。一ノ瀬高橋というと、第50回で「おいらん淵」について述べたところで、その地名(実際には一之瀬高橋トンネル)に触れている。

 寺が一ノ瀬高橋にあったのでは安田家にとって参詣しづらいということから、現在の地(甲州市塩山藤木)移され、名は高橋山多聞院法光寺に改められた。なお、現在の放光寺の表記になったのは16世紀末と考えられている。

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放光寺の仁王門

 安田氏と武田家とには血縁関係があることから、武田信玄はこの寺を祈願所と位置付けた。先に挙げた恵林寺とは南北に500mほどしか離れていないこともあり、信玄から厚い保護を受けていたようだ。が、そのことが災いし、1582年、恵林寺に相前後して信長勢によって焼き討ちにあってしまった。したがって、この寺の建造物はその後に再興されたものである。ただし、「阿弥陀三尊」「大日如来」「不動明王」「愛染明王」などの寺宝は奇跡的に兵火を免れたそうだ。

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放光寺の本堂

 放光寺の本堂は、柳沢吉保の援助によって17世紀の後半に再建された。一重入母屋造りで、禅宗の方丈型になっており、これは江戸時代中期の特色を示す重要な遺構とされている。

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境内で見られた紅葉

 なお、この寺は「花の寺」として知られていて、”恵林寺の桜”、”放光寺の梅”と並び称されている(そうだ)。私が訪れた晩秋の時期は、生憎と花の季節からは外れているので華やかさはなく、ただ紅葉した木々が色を添えているにすぎなかった。それはそれで興趣はあった。 

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境内に置かれていた人形塚

 境内の西側(笛吹川寄り)に墓所が広がっているが、その入口付近に写真の「人形塚」があった。毎年、12月23日が「人形供養の日」と定められ、各家庭から様々な人形がこの塚の前に持ち込まれ、住職がここで供養をおこなうとのことだ。

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「ころ柿の里」にある「西藤木の水車」

 恵林寺塩山小屋敷、放光寺は塩山藤木にあるが、明治初期からこの一帯(笛吹川左岸)は松里村と呼ばれていた。1954年に村は塩山町(現在は甲州市塩山)に加わって廃村された結果、「松里」の字名はなくなったが、現在でも一帯は「松里地区」と呼ばれているようで、この地区を散策すると「松里」の名を幾度も目にすることがある。

 写真の水車小屋は「西藤木の水車」と呼ばれ、笛吹川から松里地区に引き込まれた「小屋敷堰」の流れを使って利用されていた。元は江戸時代末期に個人が造ったものだが、やがて地域が譲り受けて共同水車となった。その後は放光寺の管理下に入ったそうだ。

 なお、この地では「堰」を「セキ」ではなく「セギ」と読む。

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甲州百目柿の取入れ

 松里地区でよく目にするのが大きな実を付けた柿の木だ。甲州市の松里といえば「枯露(ころ)柿の里」として知られている。11月初旬に収穫されてから、軒下に吊して天日干しされる。「甲州百目柿」そのものは渋柿だが、40日ほど干すことによって脱渋され、柿本来が有している濃厚な甘みを味わうことができるようになる。枯露柿は私の好物のひとつなのだ。少々甘すぎるのが欠点ではあるが。

 天日干しの場合は柿全体に満遍なく光を当てる必要があるため、実を常にコロコロと転がすように向きを変える。このため、コロ柿(ころ柿、枯露柿)と呼ばれるようになったとのこと。

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百目柿は「干し柿」に変身する

 百目柿の名は、実の重量が百匁(もんめ)=375グラムほどあることが由来で、かつては百匁柿だったが、いつしか百目柿に替わったそうだ。なかには500グラムほどの大きな実に育つ個体もあるとのこと。この柿は大きく、とても目立つ存在だが、渋柿ゆえに鳥に食い散らかされることはない。

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百目柿の天日干し

 11月中旬にこの地を再度訪れたときは、収穫された百目柿が天日干しされている様子をあちらこちらで見ることができた。渋柿のタンニンは可溶性なので、そのまま口に入れたのではタンニンの渋みを強く感じてしまうために、柿が有している甘味成分を楽しむことはできない。が、日に晒すことでタンニンは重合して不溶性になるので、柿を口にしてもタンニンは溶けず、渋みを感じることはなくなる。

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庭先に干された柿と枝に残った柿

 徘徊中には写真のように、干された柿と収穫されずに枝に付いたままの柿とを目にすることもあった。柿にもいろいろな行く末がある。

 私は果物の中では柿がもっとも好きで、この駄文を打ち込んでいる際にも柿を口にしている。私が食べているのは「おけさ柿」という商品名で、品種は「平核無」という渋柿だ。いわゆる”たねなし柿”は天日干しではなく、アルコール漬けか炭酸ガス処理をおこなってタンニンを不溶化している。ときおり、完全に不溶化されていないものもあり、甘みと渋みとを同時に感じてしまうこともある。それはそれで季節や果実としての実存を感じることができるので、欠点とばかりは言えない。不都合な真実なのだが。

武田神社とその界隈

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武田神社の大鳥居

 武田神社は1919年、武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が拠点にしていた「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた。武田氏館とも)」跡に造られた。信虎が躑躅ヶ崎に館を築いたのは1519年のことで、甲府市ではこの年に甲府甲斐府中)が誕生したと考え、2019年には「こうふ開府500年」、また信玄は1521年に生まれたので、今年(2021年)は「信玄公生誕500年」ということで、二つを合わせた記念事業をおこなっている。

 『妙法寺記』には、明応元(1492)年に「甲州乱国に成り始めるなり」とあり、甲斐国は武田一族内の覇権争いだけでなく、駿河からの乱入もあって信虎が生まれた明応三(1494)年、家督を継いだ永正四(1507)年にはまだ混迷の中にあった。が、川田館(石和温泉の近く、現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎に居館を移転した永正十六(1519)年には甲斐国の有力者がこの地に続々と集まってきたために、信虎の権力は一層強まり、天文元(1532)年に『妙法寺記』には「一国御無異になり候」とまで記されるようになった。

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神社の本殿を眺める

 武田信玄は、甲府市民や山梨県民にとって唯一無二の英傑のようで、たまたま私が神社で話し込んだ地元の人は「山梨には信玄ぐらいしか有名人はいないから」と語っていた。こうした思いは地元民には古くからあったようで、武田信玄を祀る神社を躑躅ヶ崎館跡に創建したいという動きは、1915(大正4)年、信玄に「従三位」が追贈されたことで気運が一気に盛り上がり、翌年には「武田神社奉建会」が発足し、結果、19(大正8)年に宿願であった神社の完成を見た。

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境内にある甲陽武能殿

 境内にある写真の「甲陽武能殿」では”舞”の練習がおこなわれていた。甲陽とは「甲斐の国が輝く様」を意味し、武能の「武」は武田の武であり能楽の「舞」にもつながり、武芸を嗜む者は同時に舞も嗜み、その拍子を武芸に取り入れるという意味を表しているとのことだ。

 「舞」と聞くと私は折口信夫の『舞ひと踊りと』の小文を思い出す。「日本の芸能には古来から「まひ」と「をどり」とが厳重に別れてゐた。いろんな用例からみても、旋回運動が「まひ」、跳躍運動が「をどり」であったことが明らかである」「多くの場合、舞ひと言ふのは、大様で静かな性格をもつた神の一面を表す事が多い。踊りは、幾分荒々しい粗野な感情を表現する「でもん」・「すぴりつと」の類の動作であることが多い。」「我が国に行はれてをつた幾多の鎮魂の舞踏である所の遊びが、次第に舞ひの方に傾いて、名もさう呼ばれるやうになつた。踊りは専ら、伊勢踊り・念仏踊り・神送り踊りの類の激しいものになつて行つた。」と折口は述べている。

 舞には型式性・物語性が、踊りには即興性があるようなので、かつて「東京音頭」や「まんまる音頭」を得意としていた私には舞は縁遠く、踊りのほうを好む。私が大いに興味を抱いている越中八尾の「おわら風の盆」(見るだけだが)は物語性がとても強く、かつ哀愁に満ちた動作(胡弓の音とともに)が展開されるため「舞」に近いように思っていた。しかし、八尾観光協会のHPには、風の盆の「踊り方」が掲載してあった。その名が表すようにやはり”盆踊り”なのだ。そうと知っても、風の盆の価値はまったく減じないが。

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大鳥居前から武田通りを望む

 神社の大鳥居前から甲府市街方向を見ると、写真にある「武田通り」が甲府駅に向かって南方向へ一直線に伸びていることが分かる。神社は相川扇状地の扇頂近くにあるので、道はなだらかに傾斜している。参拝客や観光客には便利だが、このような道が戦国時代にあったとすれば、躑躅ヶ崎館は簡単に攻め落とされてしまっただろう。

 大鳥居は武田神社の入口であり、神社に訪れる人の大半は写真の朱色の橋を渡って境内に入る。が、これらは神社が創建された際に造られたもので、もちろん戦国時代にはこのようなものはなく、ここには頑強な堀だけが存在していた。

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大手門への道筋

 躑躅ヶ崎館時代の正門(大手門)は、館の東側にあった。北側は扇状地の扇頂、西側には相川の流れがあって東側よりなだらかな扇央が広がっているため守りにはやや弱い。反面、東側は山裾が迫ってきているために守備固めがしやすくなっている。それゆえ、大手門は館の東側に造られたのだ。

 なお、写真の左側に大手門があり、右側には大手地区を堅めるための曲輪などの遺構が存在する。

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大手門は東に開いている

 写真は、神社の東側を通る道から大手門を見たもの。門の手前に堀がある。館は住居であると同時に「城」でもあるからだ。

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大手門前の堀の様子

 大手門前に架かる橋から堀を見たのが上の写真。北側は空堀になっているが、かつては満々と水を蓄えていたはずだ。

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大手門前から富士山を望む

 大手門前からは富士山がよく見えた。家々や電信柱の存在はともかく、信虎も信玄も勝頼も、確実にこの位置から富士山を眺めたはずである。約500年前に戦国武将が見ていたのとほぼ同じ、富士のある景色を私も今、目にしている。武将たちと時間は共有できないが、空間はその限りではない。それゆえ、時間は、決して”空間化”しえないのである。

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竜華池の土手上から大手地区と神社の森とを眺める

 大手門の東側にある旧大手地区の遺構の北側の高台に「竜華池」がある。大正時代に耕地を拡大するための一環として”ため池”として整備されたものらしいが、現在はフィッシングパークとして利用されている。

 写真は、その”ため池”のヘリから旧大手地区の遺構、武田神社の森、さらに南に広がる甲府市の中心街を望んだもの。大手門の標高は349m、遺構は349~353m、池のヘリは366mだ。神社の大鳥居から甲府駅北口までは2150mあり、北口の標高は276mである。

◎要害山と積翠寺(せきすいじ)と 

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積翠寺の東北東にたつ要害山

 躑躅ヶ崎館は平城でもあるが、基本的には武田信虎の居館であり、政治の中心地だった。そのため信虎は、最後の砦の役割を有する詰城(要害城)を、館から北東2700mほどのところにある要害山(780m)に築いた。館建設の翌年、永正17(1520)年のことだった。

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要害山登城道の入り口

 甲府駅北口から武田神社に向かう県道31号線(r31)は、大鳥居前から神社を迂回して相川沿いに進み、上積翠(かみせきすい)町の集落を通りすぎて山間に入り、甲府市と山梨市との境に位置する「太良峠(1118m)」へと至る。r31がまさに山間に入っていこうとする箇所の傍らに駐車場(相川右岸沿い)があり、相川を渡ったすぐの場所に、写真の”要害山登城道入口”がある。

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要害山登城道の出発点

 ここの標高は560mなので、要害山頂との比高は220m。曲がりくねった道が整備されていて頂上、すなわち要害城までは約1キロとあった。要害山とその裏手にある山(787m)の尾根筋に土塁、竪堀跡、曲輪、門跡などが残っているそうだ。そこに至る体力も気力もなかったので登城は断念したが、資料を見た範囲では、本ブログの第36回で紹介した「滝山城跡」と同様のものと思われた。

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武田信玄の誕生地とされる積翠寺(せきすいじ)

 要害山のふもとには写真の「積翠寺」(標高527m)がある。臨済宗妙心寺派の寺で、行基が開基し、夢窓疎石の高弟が中興の祖であったと考えられている。1521年に駿河の軍勢が甲府盆地内に侵攻してきたとき、信虎の夫人は懐妊中であったため積翠寺に避難し(要害山中とも)、ここで晴信(信玄)が生まれたとされている。

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積翠寺と四つ割菱と黄葉と

 r31から積翠寺方向を眺めたのが上の写真。黄葉したイチョウが陽光を受けて輝いていたのでいろいろな角度から撮影した。このカットには積翠寺本堂の屋根も写っていたのでこれを載せてみた。本堂の大棟には武田菱(四つ割菱)があった。

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積翠寺前から盆地を望む

 積翠寺のすぐ下を走るr31を少しだけ歩いたとき、甲府盆地を眺めるのに適した場所に出た。その地点で撮影したのが上の写真だ。相川扇状地の右手にある森が武田神社、神社の左手(東側)に見えるのが竜華池。先に挙げた大手門は神社と池との間にある。戦国時代には池はなかったので当然、山裾は躑躅ヶ崎館の東側すぐにまで迫っていたはず。大手門を整備するには絶好の地形だったことが良くわかる。

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武田神社の隣にある「古府中町1号公園」

 武田神社の西隣に写真の「古府中町1号公園」があった。とくに重要な場所ではないが、私の家のすぐ近くに「府中公園」があるので、比較をするために少し寄ってみた。”古府中”といっても、こちらの府中は1519年以降、私の住む府中は律令国成立以来で800年の差がある。ただ、古府中には郷土の英雄・武田信玄が存在したが、わが府中は歴史が長いだけで、普通の人しか輩出していない(第31、32回参照)。

甲府城舞鶴城)を少しだけ歩く

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遊亀橋北詰付近から甲府城跡を望む

 甲府城跡(舞鶴城公園)は甲府駅のすぐ東側にある。甲府城は戦国時代の末期、武田家なきあとの甲斐国を治めるため、豊臣秀吉の家臣が築城したと言われている。とくに浅野長政の功が大きかったとされている。秀吉は江戸に入った家康の勢力拡大を抑え込むため、甲府に有力な家臣を配置したのだ。 

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天守のあった石垣を眺める

 家康が天下を治めてからも徳川家にとって甲斐国は重要な地であったため、家康は城主として子の義直を配した。家康の生涯で唯一戦いに敗れたのは1573年の「三方ヶ原の戦い」であり、その相手は武田信玄だった。それもあって、家康は信玄を心酔していたようだ。また、甲府盆地は信玄を生んだ土地であるばかりでなく、その形状から防備に最適な場所だった。それゆえ、まだ幕府の体制が盤石ではなく、江戸を離れざるを得なくなった状況が発生したとき、家康は最後の砦として甲府の地を選んでいたと考えられている。

 甲府城が最盛期を迎えたのは、18世紀の初め、恵林寺のところでも触れた柳沢吉保が城主になったときであった。が、吉保の子の吉里が大和郡山城主に転封されて以来、甲斐国は幕府の直轄領になり、甲府勤番支配下に置かれた。

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城跡のすぐ隣が甲府駅

 享保12(1727)年に大火があり城の主な建物は焼失した。明治維新後の1873(明治6)年に廃城となり、その後は残った建物が撤去され、敷地には役所、学校、公会堂、試験場、中央線の線路などに利用され、一部が「舞鶴城公園」となった。

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天守跡から盆地と金川扇状地と御坂山地を望む

 公園の管理事務所がある遊亀橋北詰は標高271mのところにあるが、天守郭があったとされる場所は296m地点にある。そこから甲府盆地を眺めたのが上の写真で、これは金川扇状地方向を眺めたもの。御坂山地の連なりが見え、頂上にアンテナが並んでいる山が三ツ峠山(1785m)だ。

 こうして、盆地の南方向を見れば御坂山地と富士山、東方向には大菩薩連嶺、北方向には奥秩父山地八ヶ岳連峰、西方向には巨摩山地や赤石山脈が望める。甲府盆地は変化に富んでいて、訪れるたびにいろんな発見がある。

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 次回は、主に盆地の西側と南側とを紹介。更新は11月下旬を予定しています。