徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔64〕甲府盆地の縁辺探索(2)~盆地の西や南側を徘徊

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リニア実験線と走行試験車両と甲府盆地

◎韮崎はニラの先っちょ!?

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韮崎台地は横から見てもニラの葉先のよう

 韮崎市山梨県の北西部に位置し、中心街は甲府盆地の北西端にある。第62回で盆地の形を「飛べない蝙蝠」に例えたのだが、それでいえば左翼の先端に韮崎は存在することになる。

 韮崎の名は、その地の形状に由来するとされている。釜無川と塩川(一部は須玉川)とに挟まれて削り残された台地が、横から見ても上から見ても、ニラの葉っぱの先端部に似た形をしているからというのがその理由。上の写真は、釜無川の右岸から台地の南東端を見たものだが、確かに「ニラの葉先」に見える。上からの場合、グーグルマップの航空写真を参照すると、ニラの葉先状態が一層顕著に分かる。

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台地の上へと駆け上がってゆく中央本線

 韮崎の中心街は両河川の合流点が形成した氾濫原にある。国道20号線(甲州街道、R20)は釜無川の左岸のすぐキワを進むが、中央本線は氾濫原の低地から台地の上へと通じていく。写真は韮崎駅を側道から見上げたもので、ホームの標高は361mだ。中央本線が、塩川を越えて氾濫原に入ったときは340mの位置だったが、少しずつ高度を上げて台地の中心に向かっていく。韮崎駅を過ぎると、線路は台地上に乗り上がるため、切り通し(一部はトンネル)を形成しながら高さを稼ぎ、次の新府駅の標高は448mとなっている。

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台地の東端に立つ「平和観音」

 写真は、「韮崎台地」(七里岩台地)の南東端に立っている「平和観音」を、市の中心街から見上げたもの。撮影地点の標高は355m、平和観音が立つ位置は392mだ。平和観音は1961年に建立され、高さは16.61mある。一帯は「観音山公園」として整備されている。桜の名所でもあるらしい。

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台地の上から市街地を眺める

 平和観音前方の末端崖上(標高377m)から市街地を眺めたのが上の写真。左手に続く森は塩川左岸のもので、右手の森は釜無川右岸のもの。その間に両河川の合流点がある。左手には中央本線韮崎駅の姿も見て取れる。

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武田勝頼が造った「新府城」跡
の入口

 観音山公園を離れ、私は台地の上を北西に進んだ。台地上の道を進むのは今回が初めてだ。私は韮崎市を訪れたことは何度もあるが、その大半はアユ釣りのためだ。R20沿いの釜無川、R141(佐久甲州街道清里ライン)沿いの塩川は、ともに流れが緩やかなので釣りやすい場所が多い。が、近年は魚影が薄くなった(とりわけ釜無川)こともあり、竿を出すことはほぼなくなってしまった。

 台地の上を走る県道17号線(七里岩ライン)は、結構アップダウンがあり、曲路も多い。台地の上には幾か所にも小高い山が並んでいるためで、それらを避けるために道は曲がりくねっているのだ。

 小高い山のひとつに「新府城」の跡がある。撮影地点の標高は473m、城跡のある頂は524m。新府城は1581年、躑躅ヶ崎館に代わる砦として武田勝頼によって造られた。が、勝頼は織田信長勢に攻められ翌年に自刃しているため、城は完成を見ていないとのこと。私が気に入っている戦国武将の一人である北条氏照が築きかけた八王子城と同じような運命を辿っている。

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釜無川右岸から新府城跡がある山を望む

 写真は、新府城跡のある山を釜無川右岸から撮影したもの。川に架かるのは桐山橋で、ずっと以前、この橋周辺で私は何度かアユ釣りをした。橋は標高400m地点にあるので、城跡との比高は124mある。しかもこの南西側は断崖絶壁なので城自体の守りは堅い、城主の力量はともかく。

◎韮崎岩屑(がんせつ)流と七里岩

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釜無川左岸に連なる七里岩

 以前のように釜無川でアユ釣りをする機会がなくなったので、写真にある「七里岩」の姿を見ることは相当に少なくなった。それでも、年に数回は甲斐駒ヶ岳を眺めるために、尾白川の極めて澄んだ水の流れに触れに行ったり、日本の駅の名ではもっとも美しい語感を有していると勝手に思い込んでいる「信濃境」駅を訪ねたりするだけのためにR20を韮崎から茅野方向に走るので、七里岩に触れることがまったくなくなったわけではない。

 七里岩は広義には、長野県富士見町(信濃境駅がある)から韮崎市まで30キロほど(約七里)続く台地(韮崎台地とも)のことで、狭義には釜無川左岸に続く河成崖を指す。崖は樹木に覆われている部分もあるが、写真のように広く岩肌が露出している場所も多い。

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塩川・須玉川の右岸側にも河成崖が続く

 七里岩の南西面は釜無川が削ったものだが、北東面は塩川やその支流の須玉川が削ったものだ。R20からは南西面が見られる一方、中央自動車道は塩川、須玉川沿いを走っているので、七里岩の北東面を見ることができる。

 写真は中央道・須玉IC近くのR141沿いから、七里岩の北東面を眺めたもの。崖下を流れているのは須玉川だ。この川は写真の場所のすぐ下流で塩川に合流するが、それまではこの須玉川が七里岩の北東面を産出した。

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釜無川橋から川の流れと七里岩とを眺める

 約20万年前、八ヶ岳の南面が大きく山体崩壊し、大量の火山岩を主とする多種多様な岩塊や基質が流下して甲府盆地を覆った。その厚さは200m、最長到達距離は48キロ、総体積土量は10立方キロと推定され、日本最大の岩屑(がんせつ)流(岩屑なだれ)と考えられている。後述する曽根丘陵公園付近でも、七里岩と同じ成分を有する岩屑が発見されており、この韮崎岩屑流は御坂山地の麓まで達していたのだ。

 韮崎岩屑流は、一般には「韮崎泥流」と呼ばれている。この岩屑(泥流)に覆われた土地を、釜無川や塩川・須玉川が長い年月をかけて懸命に削り、現在のような河岸段丘を形成したのである。台地の南東端が、ニラの先のような形になるほどに。

 台地の上には八ヶ岳から滑りながら、あるいは転がりながら落ちてきた巨大な岩塊が造った「流れ山」が残っており、その数は100個以上あるとされている。それゆえ、上の写真から分かる通り、台地の上部は凹凸が激しいのだ。先に触れた新府城跡も、この流れ山のひとつに築かれた。

 新府城跡を離れた私は、少しだけ台地の上の道を北に進み、穴山町辺りで台地を東に下ってR141に出た。中央道・須玉ICの近くである。R141を少しだけ北に進み、写真撮影に適した場所を探し、そこで撮影したのが、ひとつ上の写真だ。

 次に、釜無川側に出るために台地を西向きに越え、釜無川橋北詰にある「釜無川ポケットパーク」に駐車し、橋上から撮影したのが上の写真だ。ポケットパークの標高は513m、橋下の河原は485m、左岸上に見える流れ山は606m、その向こうに続く山は633mある。

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露出した岩肌と”流れ山”

 釜無川右岸に出るために徳島堰頭首工に向かった。釜無川橋から下流側2500mほどのところにある堰だ。しかし、行ってみると堰付近は立ち入り禁止となっていたので、その下流側に徒歩で移動して右岸にでた。

 写真は右岸から、流れ山とその岩肌が露出した部分を撮影したものだ。撮影地点の標高は452m、流れ山は622mである。”古座川の一枚岩”の壮大さには遥かに及ばないものの、こうした景観も興趣は大いにある。

◎盆地の北西辺りを見て回る

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北杜市武川町にある水車の里公園にて

 甲府盆地の北西端をどこにするか意見は分かれるだろうが、ここでは釜無川支流の大武川辺りだと勝手に考えた。格別な理由はなく、ただ単に、この近辺の景色が好きだからということにすぎない。

 写真は、大武川左岸にほど近い場所に整備されている「水車の里公園」から甲斐駒ヶ岳(2967m)方向を眺めたもの。駒ヶ岳はこの公園のほぼ真西にある。「駒ヶ岳」の名を有する山は日本には18座(国土地理院地図による)あるが、この甲斐駒ヶ岳の標高がもっとも高く、奇跡的なほど美しい山容をもつものはないだろう(個人の感想です)。

 水車の里がある地点の標高は533mで、大武川と釜無川との合流点はぼぼ東にあって、それまでの距離は1キロほど。合流点(標高485m)一帯には氾濫原が広がっているが、それは主に釜無川右岸地域に多く、傾斜がやや急な大武川左岸には少ない。

 なお、水車の里の周辺に田畑はそれなりに存在するが、これは大武川自体が蛇行して造った氾濫原を開拓したものと思われる。

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大武川周辺に辺境武士団がいた

 大武川を中心とする武川筋には辺境武士団があって、甲斐武田氏が誕生したときにその家臣となり、甲信国境の防衛に従事した。この武川衆から柳沢氏が生まれ、その子孫の柳沢吉保(1658~1714)は、甲府藩主となって武田氏なきあとの甲府を再興した。

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大武川が釜無川に合流するところ

 写真は、釜無川橋の上から大武川が釜無川に合流する地点を撮影したものだ。釜無川自体も赤石山脈を水源としているので、最上流部は西から東に向かって流れ下っていくのだが、支流の多くも同様の流路をとっている。北からいうと、流川、神宮川、尾白川、大武川、小武川のいずれも西から東に向かって流下し、釜無川右岸側に合流している。このため釜無川本流は度重なる支流からの圧力を受け、その流れ自体も東寄りに流路を取らざるを得なくなっている。こうして、釜無川は常に左岸方面により強い力が働くため、韮崎岩屑流を大いに削り取り、連続した河成崖を生み出したのだ。

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穴山橋以南からR20は釜無川左岸を走る

 写真の穴山橋は、先に挙げた釜無川橋の3.5キロほど下流に架かっており、R20の旅程にとって重要な存在となっている。この橋から下流部分では、R20は川の左岸にあり、この橋で右岸側に移って信州を目指していく。

 R20が川の右岸側に移動した理由は明瞭で、写真からも判別できる通り、橋の上流部分は七里岩が左岸ギリギリまで迫っているからだ。この穴山橋下流からは、釜無川の流れを北東側に押し付けるほど勢いのある支流はないため、いつしか七里岩と釜無川との間には平地が出来て、その平地の上をR20は甲府を目指して進んでいく。

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特異な合成地名である「清哲町」

 盆地の縁辺を探るために、今まで通ったことのない道をよく使った。それゆえ、知らなかった地名に出会うことが多かった。その代表格が写真の「清哲町」で、10月下旬に盆地の西縁を訪ねるときに初めて使った「韮崎南アルプス中央線」(県道12号線)を走っているときに「清哲」の名を目にしたのだった。穴山橋から武田八幡宮に向かう途中のことだ。

 人名はともかく、地名に「哲」が付く場所は、私にはまったく記憶がなかった。それもそのはず、”哲”を含む地名は日本には2か所しかなく、山梨県岡山県(こちらは哲多町)にひとつずつだ。そのどちらも、その地で著名な哲学者を輩出したから、という訳ではないようだ。

 意味や語源が分かりづらい地名は「合成地名」であることが多い。例えば「大田区」「昭島市」「忍野村」が合成地名の例としてよく取り上げられる。大田区大森区蒲田区が、昭島市昭和町と拝島村が、忍野村は忍草村と内野村が、それぞれ合併して誕生した地名である。したがって、大田や昭島や忍野それ自体は、合併以前にはまったく存在しなかった地名なのだ。

 ところで、清哲町(現在は韮崎市清哲町)の先駆である「清哲村」は水上村青木村、折居村、樋口村が合併してできた。その際、四村の名からそれぞれ「水」「青」「折」「口」を取り、それを2つの漢字に合成した。ただし、水はそのままではなく「サンズイ」に用いられた。なかなか哲学的なのである。

 清哲町自体は釜無川右岸に位置する韮崎市のいち地域にすぎないが、町の真西に「鳳凰三山」がそびえている。中央道を甲府から諏訪方面に向かうとき、左手に極めて特徴的な山容をした鳳凰三山が見えてきたら、その麓の一角に「清哲町」があることを思い浮かべてほしい。今後、私もそのように心掛けることにする。脇見運転は危険だけれど。

 ちなみに岡山県の哲多町(新見市哲多町)は合成地名ではない。由来は不明だが、私の想像では「新見市」にヒントがあると思われた。新見は古くから「たたら製鉄法」が盛んだったことで知られている。原材料は砂鉄である。この地域では鉄が多く採れたと考えられ、それゆえ「てつた=鉄多⇒哲多」と呼ばれるようになったのではないかと推測される。あるいは、哲学好きの住民が多かったからかも知れないが。

◎韮崎は武田氏発祥の地

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甲斐武田氏発祥の地

 甲斐源氏の祖は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光とされている。ただ、義光は甲斐守に任じられたものの、実際に甲斐の地に赴任したかは定かでない。武田氏が甲斐の地に土着したのは、義光の子の義清、そして義清の子の清光だと考えられている。義清は常陸国武田郷に配されて勢力を拡大したが地元の有力者から反発を受け、子の清光は乱暴狼藉を働いたことから、父子揃って甲斐国に配流された。

 父子は甲斐の地で力を蓄え始め、清光は子沢山であったことから彼らを甲斐国の要衝に配したため、甲斐源氏は大きな発展を遂げた。とくに、遠光の系統からは小笠原氏や南部氏が生まれ、信義は甲斐武田氏の祖となった。

 写真は、その武田信義の館があったとされる場所(韮崎市神山町。標高392m)に建てられた案内板などを撮影したもの。次に挙げる武田八幡宮二ノ鳥居とは直線距離にして780mのところにある。今では、館の敷地とされるところの大半は畑や宅地になってしまっているものの、甲斐人の多くが誇る甲斐武田氏は、実質ここから生まれたといっても過言ではないほど重要な史跡なのである。

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武田八幡宮の二ノ鳥居(両部鳥居)

 写真の二ノ鳥居(両部鳥居)は武田信虎、信玄の時代に再建され、武田家滅亡後に徳川家康の命で修復がなされた。現在のものは寛政元(1789)年に再興されたものという記録があるとのこと。高さ7m、笠木の長さは9.8m。

 鳥居に掲げられている額には「武田八幡宮」とあり、これは信玄が書いたとの記録が残っているそうだが、現在ではまったく判読できない状態にある。

 この鳥居から、次の三ノ鳥居までは330mほどの距離がある。また、この鳥居は標高433mのところにあり、三ノ鳥居は467m、拝殿は485mである。境内は巨摩山地の東斜面に築かれており、周囲はかなり深い森林地帯である。

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三ノ鳥居(明神鳥居)と随神門

 写真から分かるように、三ノ鳥居の正面に石垣、背後に控えている随神門の前にも石垣が築かれている。このように、社頭に石垣がある形式は他にあまり例がないとのことだ。ちなみに、随神門は1841年に再建されたものだそうだ。

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八幡宮の拝殿

  随神門を過ぎると神楽殿があり、その上方に写真の拝殿がある。御神体への祭祀や拝礼をおこなう場所だが、私はそうしたものは一切行わないので、写真の階段を上ることはなかった。

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八幡宮下から盆地や奥秩父山地を望む

 写真は、八幡宮前から韮崎台地方向を望んだもの。台地の手前に釜無川があり、その地点の標高は360m、台地上は410m、台地の背後の塩川は355mとなっている。その先は奥秩父山地の山並みだ。

◎御勅使川と釜無川と信玄堤と

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御勅使川中流にある石積出の遺構

 武田八幡宮を離れ、韮崎南アルプス中央線を南に進んで御勅使(みだい)川筋に向かった。第62回でも触れたが、この川は甲府盆地の歴史を、とりわけ武田信玄を語るときにはもっとも重要になる存在なのだ。

 御勅使川は普段は水量が少ないものの、水源域に大雨が降ると一気に大増水して流域の人々の生活を苦しめてきた。普段から流量が多ければ自然に河道が形成されるのだが、この川は少しも流路が定まっていなかった。このため、この川は長い年月をかけて東西7.5キロ、南北10キロにも及ぶ大扇状地を築いた。が、大増水の際は常に「暴れ川」となって扇状地を襲った。

 写真の「石積出・二番堤」は、御勅使川が山間から開けた場所に流下する位置にある(標高493m)。流下する方向を安定させるために石堤群を設置したもので、一番から五番までが発掘され現存している。国の史跡に指定されている石積出は、武田信玄の業績のひとつとされているが、信玄の時代に石積の技術が確立していたかどうかは定かではなく、江戸時代以降に造られたと考える向きも多い。

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この辺りが御勅使川扇状地の扇頂だ。

 石積出・二番堤の遺構は、写真左手に写っている自動車のすぐ横にある。この辺りで流下する方向を定めておけば、少しは暴れる範囲を狭めることができたのだろう。

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公園から砂防堤を望む

 写真は、御勅使川右岸に整備された「御勅使南公園」の敷地から上流方向を眺めたもの。この公園は釜無川との合流点から2~4キロのところにある。敷地は東西に細長く2キロの長さがある。散策路だけでなく、クロスカントリーコースやラグビー場などが整備されている。

 写真から分かる通り、上流部だけでなくこの場所にも砂止め用の堰堤が多数設置されている。なお、撮影地点は公園のほぼ東端からであり、その標高は353mだ。

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枯草だらけ

 写真は、その堰堤群のひとつを間近に眺めたもの。右岸の低水敷には上流から流れてきた枯草が積もっている。川の水は濁っていたので、上流部で多めの降水があったと思われるが、水量は多くはなかった。しかし、この水量では枯草が大量に溜まることはないので、一気に水かさを増し、そしてすぐに水が引いたのだろう。それだけ、この川の勾配はきつい(平均斜度2.5度)のだ。

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御勅使川と釜無川との合流点

 公園を離れ、釜無川との合流点のすぐ下流側に位置する国道52号線に掛かる「双田橋」近くに移動し、橋上から合流点(標高308m)を眺めた。写真は真西方向を写していることになるので、南アルプスや巨摩山地の姿がよく分かる。

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双田橋から赤岩方向を眺める

 今度は、橋上から下流方向を眺めた。釜無川の左岸では土手の整備がおこなわれていた。川を横断している道路は「中部横断自動車道」、その後ろには次に触れる「赤岩」と赤坂台地がある。

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赤岩がカギ

 写真は、信玄堤を構築する際にカギとなった赤岩を撮影したもの。河原の標高は298mだが、高岩の上は327~332mほどある。茅が岳の山裾がこの一帯にだけ南西に張り出して台地(登美台地)を造っており、その南端は、さらに赤坂台地と名付けられている。その台地の南南西端を釜無川が削っているため、ここだけに河成崖が出来ている。

 R20はこの崖上の近くを走っているが、甲府市街から韮崎に抜けるとき、私はいつもこの台地の高まりが気になり、この場所が「竜王町(現在は甲斐市竜王)」だったということは、若いときから私の記憶にあった。赤坂台地の名を知ったのはずっと後のことだが。

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双葉水辺公園から赤岩や信玄堤方向を眺める

 赤坂台から釜無川を眺めようとしたのだが、適当な場所が見つからなかったため、川の左岸に整備された「双葉水辺公園」に行って、その敷地の南端から釜無川を眺めてみた。左手の高台が赤岩、水門の向こう側に「信玄堤」、その先に信玄橋(県道20号線)がある。

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左岸堤防を守るための聖牛が並んでいる

 双葉公園から、少しだけR20を利用して川の下流方向に進み、同じく左岸に整備された「信玄堤公園」に移動した。撮影地点は、左岸に整備されている「信玄公園」の土手の上(標高302m)。すぐ右手に赤岩、その先に水門、さらにその向こうに見える「中部横断自動車道」の直下に「双葉水辺公園」、遠くには八ヶ岳のなだらかな山裾が見えている。

 左岸の際に設置されている「聖牛」は護岸を川の強い流れから守るもの。本ブログの第28回で玉川上水を取り上げたとき、流路変更のための「牛枠」について触れているが、それと同じもの。木の枠を造り、それを蛇篭(じゃかご)で押さえている。かつてのテトラポッドである。

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公園内から南アルプスを望む

 信玄堤はその名があるように武田信玄が築いたとされているが、実際には、平安時代にも御勅使川や釜無川の氾濫に住民は苦しんでいたという記録があるぐらいなので、相当な昔から川の左岸には護岸堤防は造られていたはずだ。

 とりわけ信玄の時代には大掛かりな工事がおこなわれ、まずは御勅使川の流路を変更・固定した。現在の御勅使川は先に挙げたように、R52の双田橋近辺で釜無川に合流しているが、信玄の頃はそれより2キロ以上の下流(現在の武田橋辺り)に合流点があった。そのため、釜無川の流路自体も東に押しだされ、その流れは現在のR20辺りに向いていたと考えられている。地図でいえば、中央道の「甲府昭和IC」から「小瀬スポーツ公園」方向に進んでいたらしい。そのため、甲府盆地は常に洪水の危機に瀕していたのだ。

 信玄は御勅使川の流路をやや北に移すため、上流部では先に挙げた「石積出」で方向を定め、中流域には「将棋頭」と呼ばれる護岸を整備した。それによって、御勅使川は赤岩に衝突するように流れるようになった。流れは比高30mもある高い岩に当たるため、その勢いはかなり弱まった。そして、その下流部分(現在の信玄堤公園)の堤防を整備し、盆地を大洪水から守ろうとした。

 こうした努力は信玄一代でおこなわれたわけではなく、その後も改良に改良を続けて徐々に今のような形になったのだ。

 写真から分かるように、公園内に用水路が導かれ、周囲にはケヤキやエノキといった巨木が多数植えられている。これらの木々が広く深く堤防一帯に根を張ることで、地面が強化されたのだ。

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信玄堤の守護神

 公園の一角に「三社神社」がある。甲斐国の一宮(浅間神社)、二宮(美和神社)。三宮(玉諸神社)を勧請して、水防の神として建立された。鳥居の足の太さが特徴的で、どんな大洪水があっても絶対に挫けないという決意が感じられる。

南アルプス市ふるさと文化伝承館に立ち寄る

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展示内容が極めて充実している「ふるさと文化伝承館」

 信玄堤公園を離れ、信玄橋を渡って釜無川右岸に出た。信玄橋西詰からは直線距離にして1700m、御勅使川右岸からは440mのところにある「南アルプス市ふるさと文化伝承館」を訪ねてみた。

 ここは、信玄が御勅使川の流路を赤岩に衝突するように付け替えたとされるその川筋にあたる。伝承館のすぐ隣には「能蔵池」があり、これは御勅使川の伏流水を集めてできたとのこと。一帯は厚い砂礫層で覆われているため、伏流水は無尽蔵にあるだろう。

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一押しの円錐形土偶

 館内には市内で発掘・保存された縄文・弥生時代の遺跡、それに近代の昔懐かしい民具などが多数展示されている。とりわけ縄文遺跡は、第62回で紹介した「釈迦堂遺跡博物館」に負けず劣らずの充実具合だ。

 私がもっとも印象深かったのは写真の”妊婦”の土偶。膨らんだお腹に手を当てている姿は、この上もないほどの美しさがある。

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強く惹かれた「人体文様付有孔鍔付土器」

 こちらも土偶と同じくらい興味を抱いてしまった土器。人が描かれているので「人体文様」、上部に穴が開いているので「有孔」、その下に出っ張りがあるので「鍔(がく)」、合わせて「人体文様付有孔鍔付土器」。名前は見たまんまだが、この土器が何に利用されたのかは不明とのこと。

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友人・知人そっくりの顔

 土偶の表情はとても豊かで、写真のように極めて個性的な顔立ちをしているものもある。釈迦堂遺跡にも同じようなものがあったが、土偶の顔の多くに友人・知人を連想させるものがある。写真の顔にしても、まったく同じという訳ではないが、似た顔の人物はすぐに数人、思い浮かべることができる。

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実用本位の弥生式土器

 弥生式土器の展示も多くあった。が、この時代になると意匠には面白みはなく、実用性を重視したものが多い。脱呪術的ではあるが、とはいえ、人間そのものが進歩したからという理由ではまったくない。

◎盆地の西縁を徘徊する

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名は体を表す。櫛の形をした櫛形山

 信玄堤や伝承館などに立ち寄るため、盆地の縁からは少し離れてしまった。私は次の目的地に移動するため、中部横断自動車道に並行して走るR52を利用して南下した。途中、写真にある櫛形山の姿を撮影するために、少しだけR52を離れた。

 標高2052mで、日本二百名山に選定されているこの山は、名前の通りの姿形をしている。赤石山脈の前山である巨摩山地を代表する山で、巨摩山地は櫛形山山塊が元になってできた付加体だということは第62回に触れている。

 巨摩山地がフィリピン海プレートに乗って赤石山脈に押し付けられた付加体だということは両者は成立過程がまったく異なっていることを意味する。両者間に早川が流れていて、その川筋が糸魚川・静岡構造線だと考えられている。

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棚田から盆地の中心部を眺める

 南アルプス市にはよく知られた棚田があるとのことだったので、その場所を訪ねてみた。櫛形山の真東にあり、その山の地すべりによってできた斜面を利用して棚田が造られている。南アルプス市中野にあることから、「中野の棚田」と呼ばれている。棚田は、おおよそ標高520mから410mの斜面にある。堰野川を主流とする沢が数本、その棚田の中を流れており、各々の田んぼに供給している。

 写真は、棚田の天辺から甲府市街を中心とした盆地を眺めたもので、例によって、特徴的な存在である大経蔵寺山の姿もしっかり見えている。

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棚田から御坂山地方向を眺める

 写真は、前の写真より少し下の地点から御坂山地方向を撮影したもの。盆地を横切っている川は釜無川笛吹川の両河川。R140が渡る三郡西橋は、その道(秩父往還)の終点地点だ。

 棚田の下方に小高い丘がいくつも点在している。それらは地すべりの結果、高所から移動した「流れ山」の一種かも、と考えた。いくつかの論文を調べてみたが、これらの丘について触れているものはなかった。ただ、櫛形山の東面は地すべりが多発しやすい地質だという記述はあった。実際、櫛形山の形状を見るかぎり、地すべりの結果であのような山肌が出来たということは十分に推察できる。

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大法師公園から笛吹川釜無川の流れを望む

 中野の棚田から南方向に移動して、富士川(狭義の)が誕生する地点をやや高い位置から眺められる場所を探すことにした。南巨摩郡富士川町鰍沢(かじかざわ)にある「大法師公園」が見晴らしの良い場所との情報を得たので出掛けてみた。ちなみに、この公園は桜の名所として知られている。

 写真は、その公園内にあって盆地や富士川の出発点を見渡すことができる場所(標高343m)から、釜無川笛吹川が並走している地点を見たもの。右手の橋が「富士川大橋」、中央を横切っているのが、先に挙げた「三郡西橋」である。富士川橋西詰には「道の駅・富士川」がある。第62回に挙げた、両河川の並走や合流点を撮影する際にお世話になった(駐車場とトイレだけ)施設だ。

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大法師公園から両河川の合流点付近を望む

 写真は、両河川の合流点付近を望んだもの。合流点は「中部横断自動車道」のほぼ真下にある。この合流点から狭義の「富士川」が始まる。

◎御坂山地の山麓付近を訪ね歩く

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富士川の玄関口、鰍沢口駅舎

 富士川の「禹之瀬」については第32回で触れているので、ここでは富士川の出発点としてよく知られている「鰍沢(かじかざわ)」について少しだけ触れたい。

 鰍沢は、江戸幕府の命によって角倉了以が開削・整備した富士川舟運の基地(河岸、かし)があったところである。その地名は富士川右岸に残り、先に挙げた「大法師公園」も、第62回で挙げた「禹之瀬」も鰍沢に属している。

 盆地内で産出された物資はこの河岸(かし)に集められ、船で駿河国に運搬された。また駿河国でとれた海産物や塩は富士川を遡ってこの地に陸揚げされた。甲斐国にとって非常に重要な物流の拠点であったが、今となっては往時の面影はまったくない。

 写真の身延線鰍沢口駅(標高244m)は西八代郡市河三郷町にある。富士川の左岸に位置するので、鰍沢とは少し離れた場所にある。それゆえ、駅名は鰍沢ではなく鰍沢口になっている。もっとも、品川駅は港区に、目黒駅は品川区にあるぐらいなので、ここも鰍沢だけで十分だと思うのだが。

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鰍沢口駅のホームを眺める

 日中の運行は一時間に2本程度。身延線の車両もJRの他のローカル線同様に立派なものなってしまったため、車体を見ても興趣は湧かないが、それでも「ワンマン」や「かじかざわぐち」の文字を目にすると、ローカル度は高まる。

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市川郷一之宮浅間神社の大鳥居

 鰍沢口駅を離れ、御坂山地の山麓を北北東に進む道を使って、写真の「一宮浅間神社」(西八代郡市川三郷町高田)に向かった。道は富士川大橋東詰めから北北東に続くルートにあり、なかなか爽快さを感じさせるものだが、道路名はとくにない(笛吹ラインとも)「広域農道」のようだ。この道を2キロほど進んだところに神社があった。

 境内はそれほど広くはないが、朱に塗り替えられてさほど時間を経てないためが建造物はとてもよく目立つ。ここに立ち寄った理由は、「一宮浅間神社」の名が気になっていたからだ。というのも、第62回で甲斐国の一之宮浅間神社笛吹市一宮町一ノ宮)はすでに触れているので、そちらの神社との関係が知りたかったのだ。

 なお、ここと以前に挙げた神社とは、直線距離にして21キロ離れた位置にある。

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神社の神門と拝殿

 社伝に寄れば、貞観六(864)年の富士山大噴火により翌年、勅命によって八代郡に官社となったというから、この点は一宮町の一之宮と同じだ。ただ、その後の推移が異なっているようで、一時、武田信玄の保護を受けたが、現在の形になったのは徳川家によるもの。1603年に再興され、現存する建造物は元禄十七(1704)のものとされている。

 ところで、”一宮”についてだが、一宮町の「一之宮」は甲斐国の一宮で、こちらの一宮は「市川郷」の一宮である蓋然性が高い。その理由になる訳ではけっしてないものの、明治4年の太政官布告では、こちらは「村社」に、あちらは「国幣中社」の社格となっているからだ。 

◎曽根丘陵古墳群と考古学館

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東日本最大級の前方後円墳と言われている銚子塚古墳

 例の快適な山麓の農道を進み、次なる目的地である「曽根丘陵公園」(甲府市下向山町)に向かった。中央道・甲府南ICのすぐ南に位置するその公園には、先土器時代から古墳時代にかけての遺跡群、山梨県立考古博物館、レクリエーション施設などがある。

 曽根丘陵とは市川三郷町から甲府市境川町辺りまでに広がる御坂山地の山麓を指す。”曽根丘陵”の名は、第62回で触れた「曽根丘陵断層帯」でよく知られている。これは甲武盆地の南麓にあって、全長は32キロほどある。断層帯は大きく3つに分かれ、南西から北東にかけて「曽根丘陵断層群」「一宮・八代断層」「塩山・勝沼断層」と名付けられている。南端は、上に挙げた「市川郷一宮浅間神社」辺り、北端は、第50回(R411の4回目)の最後に挙げた重川に架かる小田原橋辺りと考えられている。

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円墳の丸山塚古墳

 曽根丘陵は笛吹川左岸の山麓にあって、笛吹川左岸よりも10mほど高い位置に写真の丸山塚古墳がある。川の氾濫原よりもやや高い位置に古墳が造られたことになる。

 円墳の直径は72m、高さは11mで、5世紀の初め頃に造られたと考えられている。竪穴式石室から発見された副葬品から、後述する銚子塚古墳に埋葬された人物の後裔だろうと推定されている。

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曽根丘陵公園から南アルプスを望む

 丸山塚古墳もそうだが、写真の銚子塚古墳にも上がることができる。眺望は素晴らしく良く、写真のように晴れて空気が澄んでいる日には南アルプスの高峰を眺めることができる。右のピークは日本で二番目に高い北岳(3193m)。

 銚子塚の名が付いた古墳は山梨県にいくつかあるため、ここは”甲斐銚子塚古墳”とも呼ばれている。長さ169m、高さ15mで、4世紀後半に造られたと考えられている。前方後円墳であること、”三角縁神獣鏡”などの副葬品から、畿内ヤマト王権とのつながりが指摘されている。

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曽根丘陵公園内にある県立考古博物館

 公園内には写真の「山梨県立考古博物館」がある。古墳群には何度も接しているが、博物館に入るのは初めて。県立だけあって、山梨県各地の遺跡から発掘されたものが展示されており、その数やバリエーションは”釈迦堂”や”伝承館”を圧倒する。ただし、私のようなド素人からすると、そちらのほうが展示の仕方に工夫があったように思われた。

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豊かな表情や形状を有する土偶たち

 やはり、私がもっとも好むのは表情豊かな土偶で、縄文人の観念性の高さ・強さを感じてしまう。また意匠も謎めいて印象深い。

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古墳時代の鏡

 写真は、とぐろを巻いた龍が王を見立てた中央部の鈕(ちゅう)を取り囲んでいる様子が描かれた「盤龍鏡」。笛吹市御坂町の「亀甲塚古墳」の出土品で、古墳時代前期のものとされている。

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日蔭山山中から盆地を望む

 曽根丘陵公園前には笛吹川を渡ってきたR358が通っており、多くの車を中央道に送り込んだ(甲府南ICで)あと、その道はすぐに南下して御坂山地を越えて精進湖に抜けている。その道には大いに興味をそそられたが、第62回で紹介した「日蔭山枕状溶岩」により一層、強く惹かれていたので、途中から旧道に移って未舗装路を進んだ。

 それはとんでもない悪路の連続だったし、溶岩の姿も他で見たものより相当に見応えはなかった。それゆえ、もはやその場所に出掛ける気持ちはまったくないが、途中(標高656m地点)で見た盆地の景色だけは強く印象に残っている。

◎八代ふれあい公園にて

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八代ふるさと公園にある「岡・銚子塚古墳」

 曽根丘陵公園から山麓の道を6.5キロほど進んだところに「笛吹市八代ふるさと公園」(標高410~428m)があった。

  写真の前方後円墳は園内にあって、古墳全体が展望台になっている。前方のほうは遊び場としてよく整地されているので、初めは古墳の前方だとは気が付かなかった。より高い後円墳のほうは階段付きで天辺からの見晴らしは相当に良い。

 この古墳は「岡・銚子塚古墳」と名付けられている。先に挙げた甲斐銚子塚古墳と同時期に造営されたものと考えられているが、発掘された副葬品に明確な相違点があるとのことだ。また、甲斐銚子塚は標高260mほどのところ、こちらは422mのところなので、両者は別個の集団であったと推察されている。

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円墳と桜の大木と

 岡・銚子塚古墳の東側50mのところにあるのが「盃塚(さかずきづか)古墳」。直径23m、高さ4.5mの円墳で5世紀になってから造営されたと推定されている。2002年に発掘調査がおこなわれたが、それまで墳丘は著しく損傷していたため、主体部の形状は不明とのこと。ただ、鉄刀などの副葬品が見つかっているので、墓が完全に壊されたいたわけではないそうだ。現在は写真のように復元されており、隣の古墳同様、天辺に上がることが可能。

 こちらの古墳で特徴的なのは、傍らに桜の大木があること。斜面を下る散策路は桜並木になっており、花の季節には多数の見物客が押し寄せるという。写真から分かる通り甲府盆地の姿を見渡せるため、格好の夜景スポットでもある。夜桜と盆地の夜景は絶景というほかはないだろう。

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ふるさと公園から笛吹川フルーツ公園方向を望む

 公園から、第62回で紹介した「笛吹川フルーツ公園」方向を望んだ。写真ほぼ中央に写っているベージュ色の建物が「フルーツパーク富士屋ホテル」、その下方にドームがある。こうしてみると、山の斜面はかなりの高さまで果樹畑として開拓されていることが分かる。

◎花鳥山展望台でリニアについて考えたことなど……

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県道からリニア実験線を眺める

 笛吹市八代ふるさと公園から金川の森に移動するとき、県道の上からリニア実験線の「明かり区間(地表に出ている区間のこと)」が見えた。地図を調べると、向こう側に見えるトンネルの上部辺りに「花鳥山展望台(笛吹市八代町、標高493m)」があって、そこからは実験線が間近に見えるらしいので、立ち寄ってみることにした。

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花鳥山からリニアの試験運転を見物

 正式名称『中央新幹線(東京都・名古屋市間)』(通称・リニア中央新幹線)は、2027年の開業を目指して工事や実験や環境破壊が進んでいる。写真は、13年8月に完成した「山梨実験線(全長42.8キロ)」でおこなわれている試験運転を撮影したものだ。上野原市から笛吹市の間を何度も行き来しながら、様々なテストをおこなっているようだが、展望台から見る限り、テストはまだ初期の段階のようだ。

 リニアは全線が複線であるはずだが、現時点では片側のガイドウェイしか利用されていない。写真の列車は左側を下り(笛吹市側)方向に進んでいるが、今回の冒頭写真の実験車両は上り(上野原市側)方向に進んでいるが、やはりガイドウェイは左側を用いている。つまり、列車のすれ違い試験はまったく行われていない状態だ。

 リニアの問題点のひとつに電磁波の発生がある。片側走行だけでも電磁波による影響が危惧されているが、これが列車同士がすれ違う際にどのような悪影響が発生するか、実際のところ、まったく不明なのだ。

 電磁波以外にもリニアの問題点は数多くある。南アルプスを貫くトンネル工事によって大井川の水量が減少することは話題になっているが、すでに実験線の工事で大月市上野原市の沢が涸れて被害が出ていることが報告されている。

 リニア新幹線の問題点を列記すると①大井川の水源の破壊、②相当量の電磁波の発生、③南アルプス地域を中心とする生態系の破壊、④トンネル、立坑などの掘削で発生した残土の処理、⑤岐阜県東濃地区のウラン鉱脈の残土、⑥新幹線の3~5倍にもなる膨大な電力消費、⑦9兆円にも及ぶ多額の工事費とゼネコンの談合、⑧採算性・リニア新幹線が在来新幹線の利益をはく奪、⑨大深度地下のトンネル掘削による地上への悪影響、⑩東南海大地震による壊滅的ダメージなどなど、まだまだ問題点は多数ある。

 さらに、コロナパンデミックによって「リモート会議」などが普及したことで、東京・名古屋・大阪間を移動する必要性が大幅に減じ、リニア新幹線を造る必然性そのものが疑われるようになっている。

 「リモートが リニアのニーズ 消してゆき」

 これは新聞に掲載された川柳だが、もはやリニアは存在そのものが不用になっている。しかし、それでも工事は進むのだろう。膨大で強固な利権構造がリニアの背後にはあるからだ。これは沖縄の辺野古新基地建設と同様、日本が抱えた宿痾である。

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展望台の小屋に設置されているモニターの映像

 花鳥山展望台へは一部、狭い農道を利用するためアクセスがやや良くない。一方、駐車場やトイレ、自販機、ベンチなどが整備されている立派な広場だ。敷地の一角には雨が避けられる小屋があり、その中に写真のようなモニターが設置されていて、試験車両の位置や状態、実験線の勾配、曲線半径などが分かるようになっている。

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リニアの最大勾配は40パーミル

 モニターの情報から、リニアの最大勾配は40パーミルであることが分かる。リニアは鉄輪ではないので勾配はもっと急でも良いはずだが、なぜか鉄輪でも走行可能な勾配になっている。リニア問題を追究している学者によれば、リニアモーターカーでは問題点が多すぎることが判明した場合、鉄輪の運行に転換する可能性も考慮に入れているのでは、とのこと。

 これはトンネルの断面積の大きさにも言え、リニアは在来型の新幹線より車体の断面積は小さいはずなのに、リニアのトンネルのほうが大きく掘られているそうだ。リニア推進側はこの理由を、リニアは505キロの速さで走るためトンネルの断面積を小さくすると空気抵抗が大きくなり過ぎるから、としている。確かに首肯できなくもないが、これもまた、在来型への転用を可能にしているからだ、とも考えられるのだ。

 以上、いろいろ問題点を指摘しつつも、リニア実験線を眺めることはそれなりに興味深く、結局、試験車両が3往復するのを見るまで、ここに居続けてしまった。私は根っからの「鉄道ファン」なのだ。狭義には、リニアは鉄道ではないけれど。

金川の森、そして旅の終わりに

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陽だまりに集う老人たち

 花鳥山展望台を離れて御坂山麓を下り、金川の両岸に広がる「山梨県森林公園・金川の森」に立ち寄った。目的は、全国でも珍しい八角形の古墳を見るためだ。古墳は右岸にあるため、右岸側に整備されている第一駐車場に車をとめて、少しだけ公園内を歩いてみた。

 公園は大水害を教訓として、一帯に水害防備林を整備した事から始まっている。その後、スポーツ施設、レクリエーション施設、環境境域施設、散策路などが造られた。金川の両岸に広がるとても大きな公園である。

 サービスセンターの隣には大きめの池が整備されていて、そこには80センチはあろうかと思える巨大な色鯉が数多く泳いでいた。センターでは鯉の餌を販売しているおり、多くの人々が巨大な鯉たちに与えていた。

 池の一角では、近くの老人施設からやってきた人々であろうか、晩秋の短くも暖かな日差しを浴びて、色変わりした木々を目にしながら時を過ごしていた。

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珍しい八角形の古墳

 写真の経塚古墳は、7世紀前半に造営されたとされ、横穴式石室をもつ八角墳だ。この形の古墳は、天皇陵を含めても日本には十例しかないそうだ。1994年に大掛かりな調査がおこなわれ、この古墳が八角形であることが判明した。現在のものは、資料を基に完全復元したものだ。

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ぶどうの丘から天使の梯子に見とれる

 旅の終わりに、盆地を最後に眺めるため「勝沼ぶどうの丘」(標高500m)に登った(車で)。建物の中に入れば見晴らしの良い場所はあるはずなのだが、私の場合は食事をすることも土産を買うこともない。それゆえ、建物内ではなく、丘の上から盆地を眺められる場所を探し出した。これが案外、時間を喰った。

 この日は曇り時々晴れという天気だったので、遠望するには不向きなのだけれど、写真のように、雲間からは「天使の梯子」が無数に降りてきて、盆地のあちこちを照らし出していた。

 地上に降りゆく天使たちは、盆地の人々に幸福を、それとも災いをもたらすのか、何も分からない。そもそも、同じ出来事であっても、ある人は幸運を、別のある人は不運を感じる。そして、大方の人は、幸不幸を同時に抱く。

 私は、今年の10~11月に甲府盆地へ6度訪れた。昨秋を含めれば、10度出掛けたことになる。この地で、数多くの出会いや発見があり、幾度も心の高鳴りを感じた。それが、愚者の満足感だとしても、だ。

 

*次回は小田原市界隈を訪ねます。年末で用事が立て込んでいるため、更新は下旬になります。