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知人から「最近、ブログの更新がおこなわれてないが、もう死んだのか?」といった内容のメールが来た。まだ死んでいるわけではないけれど、確かに4月28日を最後に、新しい徘徊記録は載せていない。友人は、私が「飽きっぽい」ことを知っているので、それを揶揄するために「死んだのか」と聞いてきたようだ。もっとも、すでに死んでいるとしたら、そのメールを読むことはできないし、返信はなおさらできない。
残念ながら、友人の期待に反してまだ死んではいないが、更新が途絶えていること事実で、それにはいくつかの理由があり、その最大のものは数か月前に入院・手術をおこなったことが切っ掛けとなっている。手術の翌日、私は「死ぬほどの痛み」を体験した。記憶にある限り、それは今まで経験したことのない「痛み」であった。その痛みから解放されつつあったとき、私は生き方を少しだけ変更するという決意をした。その結果、ブログ更新の優先順位が下がり、変わって「終活」がランクアップし、それに付随した諸事に時間を割くことが続いているのだ。
思えばその痛みは、昨年の11月に城ケ島で磯釣りをしたときのことが端緒になっている。岩場をあちこち歩き回って釣り座探しをしている際、少し高低差のある場所に降りる必要があったとき、迂回するのが面倒だったので年甲斐もなく飛び降りることにした。そのとき、右足の踵をやや激しく打ち付けたようで、しばしの間、動くことさえ困難になった。それでも15分ほどで痛みは少し和らいだので、釣り座探しを続行し、その日はそのまま磯釣りをおこなった。メジナはあまり釣れなかったけれど。
翌日まで踵の痛みは残っていたが、歩行に難儀するほどではなかったので、通常の生活(近隣の徘徊中心)を送った。ただ、右足の痛みを庇いながら歩いていることは確かなので、知り合いなどから「足をどうかしたのか?」と聞かれることはままあった。
12月にはブログのネタ探しで狭山丘陵に何度も出掛け、一日当たりの歩数が2万歩近くなることが何度かあった。それが可能だったため、右の踵の痛みは医者に診察してもらうほどの状態ではないと考えた。反面、右足を庇うようにして歩いていたためか、今度は左足の股関節付近に痛みを感じるようになった。私の場合、生きる姿勢だけでなく歩く姿勢も悪いとかねがね指摘されていた。それに加えて、右の踵の痛みが元になって、左股関節への負荷がより増幅して左股関節付近の痛みとして表出したのだろう。
今年の1月に落合川散策を始めた時分には、一万歩を超えたあたりからは毎度、左股関節周りの痛みがひどくなり、5分ほどの休憩を余儀なくされるようになった。それでも、一度痛みが引いてしまえば、歩行を再開してもその日のうちに次の激痛に襲われることはなかった。
状況が変わったのは2月に秋留台地を歩いていたとき。高低差のある場所を選んで歩いていたためもあり、激しい痛みが一日に数度、襲うようになった。また、下旬には磯釣りにも出掛けたのだが、このときは岩場を長めに歩いたこともあって、竿を出している最中ずっと痛みが続き、釣りに集中することはできなかった。そんなこともあって、ブログのための徘徊先は「小名木川界隈」や「日野の用水群」など高低差が少なく歩行が容易な平地の多い場所を選んだのだった。
5月下旬ともなれば鮎釣りが開幕する。この痛みを抱えたまま河原を歩いたり、川の流れに抗して竿を出し続けることは不可能とも思えてきた。何とか、痛みの原因を探り、それを矯正する必要に迫られてきた。股関節が原因であれば整体院に通うことで「だましだまし」鮎の季節を乗り越えることは可能かと思われた。一方、痛みの原因が まったく別なところにあり、しかもそれが手術を要するという次第になれば、鮎釣りの開幕に間に合わなくなる危険性もおおいに考えられた。
たまたま知人に「股の痛み」について話したところ、彼は同じような体験をしたとのことだったので詳しく聞いてみた。彼の痛みの原因は「前立腺肥大」によるものであって、結構、つらい手術と回復のための長いリハビリが必要であったとのことだった。早速、ネットで情報を入手すると、この病気は早めに対策を施さないと治癒までにかなりの時間を有することが分った。私の痛みの症状とは関係性が薄そうであったものの、一方、小便の切れが悪く残尿感がある、そのためにトイレに行く回数が増えるという点は妥当性が高かったので、早速、泌尿科のある病院を探した。偶然、家から近く、かつネット予約ができる医院が見つかったので行ってみることにした。
尿検査のあと医者の診察が始まった。下半身を露出させられてあちこちを触られ、あまつさえ肛門に指を入れられた。触診の結果は問題がなかったようだが、念のためにとレントゲン撮影を受けた。尿検査や触診、さらにレントゲン撮影の末、前立腺肥大ではまったくないことが判明した。ひとつの杞憂は消え去ったけれど、股の痛みの原因は不明のままなので、医者に他の原因は考えられないのかと尋ねてみた。ひとつは帯状疱疹の前段階、ひとつはガンの初期症状が考えられるとのことだった。という訳で、再度、尿検査がおこなわれ、違う角度からのレントゲン撮影、さらに腫瘍マーカー検査のために血液をたっぷりと取られた。結果は一週間後に判明するとのことで、翌週の同時間に訪れることになった。結局はすべてが「無罪」にはなったものの、痛みから放免されることはなかった。
泌尿科では何の解決には至らなかったため、再度、ネットで情報を収集することにした。今度は「痛み」ではなく、左下腹部の「腫れ」をメインに検索した。痛みが発生する部分が腫れていたからである。すると、「鼠径(そけい)ヘルニア」いう項目が多数出てきた。「鼠径部」とは足の付け根部分のことで、この辺りの腹膜に穴が開いてそこから腸が飛び出してくるという症状が鼠径ヘルニアだ。いわゆる脱腸である。「腫れ」だけに着目すればこの病名が妥当しそうだが、その一方で、股関節部分の痛みとの関連性は必ずしもあるとは思えなかった。
翌日、血圧の薬などの処方箋をもらうため「かかりつけ」の内科医のところに行く予定があったので、ついでに「鼠径ヘルニア」の可能性があるか否かを尋ねてみた。その医者は若い頃に大病院の外科の医局にいたことがあり「鼠径ヘルニア」の手術も担当したことがあったとのこと。当時は結構、大変な手術で、かつ治癒率はけっして高くなかったそうだ。さらに、よほどうまく縫合しないと生涯、ガニ股で歩かざるをえなくなるらしい。手術をしたほうが腸閉塞や腸捻転といった「死に至る病」になる危険性は減じるものの、私のような年齢になれば脱腸のままでも歩行困難になるよりはましで、生活の質も低下しないとその医者は言った。腸閉塞の危険性と手術による後遺症とを比較考量すると、医者個人の見解としては、かつてのような外科的手術であれば推奨しないとのことだった。が一方、近年は新しい手術方法が確立しつつあるので、「腹腔鏡手術」であれば短期間で済み後遺症も少ないので受けてみてもいいのではないか、とも述べていた。「前立腺肥大」の危惧は外れ、さらに「鼠径ヘルニア」も該当しないとなると無駄な労力と出費がかさむことになる。が、今度も外れだとしたなら、とりあえず今季は整体院通いで鮎シーズンを乗り越えれば良いとも思えたので、ヘルニア手術の専門医院での診断を受けることにした。
多摩の田舎にある町医者だと、まずは仮の診断がおこなわれ、紹介状をもらってそれから地域の基幹病院にいくことになる。コロナ禍ということもあり、それでは相当な時間のロスが生じるため、鼠径ヘルニア手術を得意とする都内の専門病院をネットで探すことにした。
その手の専門病院は都内には数多くあるようで、中には日帰り手術(朝に手術をして夕方には帰宅できる)を「うたい文句」にしているところさえあった。それはそれで不安な点もあるため、まずは、近年ではもっとも一般的らしい、腹腔鏡手術で一泊二日という点を推奨している病院を探してみた。といっても、鼠径ヘルニアであるか否かの診断が先決なので、都内にあっても府中から通いやすく、かつネット予約が可能な医院を探してみた。こう考える脱腸人は多いようで、ネット予約では空きは見つからなかった。といって、一軒一軒、電話で確認するのは面倒なので、改めてネット予約を受け付けている病院を再検索してみた。
すると、ひとつだけ空きのある病院が見つかった。それも3日後の午後4時からの枠で、この先のひと月間で空きがあるのはそれだけだった。その病院はネット検索をしたとき比較的早めに見つかり、しかも雰囲気もアクセスも良さそうだったので有力な候補に挙げていたのだが、その際は予約枠に空きはまったくなかった。しかし約一時間後、再度検索したときに空きがひとつだけあることを発見した。おそらく、この一時間の間にキャンセルが発生したのだろう。すぐに予約を入れた。
当日、京王線と中央線を乗り継いで病院に向かった。この日は診断だけの予定であった。私としては、とにかく一刻も早く「病名」が知りたかったのだ。さすが都内にある病院だけに建物は立派、室内は豪華、職員数は多く礼儀正しく、待合室で呼び出しを待つ人々はひとり(私のこと)をのぞいて都会人で裕福そう。
待たされることは覚悟していたが、予約時間を5分ほど過ぎただけで私の名が呼ばれた。診察室に入り、こちらの用件を伝えると、医者はすぐに診察を始めた。そしてあっさり、腫れている私の左下腹部を結構力強くつまみつつ(痛みはなかった)「鼠径ヘルニア」であると宣告した。
医者は私に椅子に腰かけるように指示し、次の3つのうちのどれを選択するかを聞いてきた。(1)診断だけで終える(2)最寄りの総合病院での再検査。そのための紹介状は書く(3)後日、ここで手術をするので予約を入れる。以上の3つだ。実に分かりやすかった。
手術を選択した場合、どういう経過をたどるのかを尋ねた。すると医者は助手に手術の予定日を調べるように命じた。そして以下のように告げた。入院は基本的に一泊二日。入院日に手術をおこない、翌日の状態にとくに問題はなければ退院できる。ただし、三週間程度は「激しい運動」「腹部をひねるようなスポーツ(例えばゴルフ)」「階段や坂道の上り下り(日常生活以外の)」は厳禁とのことだった。
私のとっては、釣りがいつできるようになるかがもっとも重要事項だったので、その点を質した。「釣りなら三日後ぐらいにできる」との答え。医者がイメージする釣りは池や堤防でのんびり竿を出すといったもののようなので、私のおこなう釣りは岩場や河原を移動するものだと告げると、それなら三週間後、できれば一か月程度は様子を見たほうが良いとのことだった。
あとは、いつ手術がおこなえるかが問題だ。助手が予定表を調べた結果、三週間後に空きがひとつあるとのことだった。手術が三週間後、予後が順調であれば、術後一か月で釣りができる。となれば、鮎釣りの解禁日にはなんとか間に合う計算であった。
私がそんな計算を頭の中でおこなっているとき、医者はさらに次の言葉を発した。「手術をすればヘルニアは治癒するが、それで足の付け根の痛みが解消されるわけではない」と。確かに、脱腸の部分をつままれたとき、その場所での痛みはまったく感じなかったことを思い起こした。一方、手術をすれば腸捻転や腸閉塞の危険性が減じるということも頭の中での考えに加わった。何しろ、それらは相当に激しい痛みを引き起こすようなので。
医者のこうした明確な物言いに、私は「この医者は信用できる」と思い、手術を希望した。結果、その日のうちに6つの検査と身体測定をおこなった。もちろん、血液や尿もたっぷりと取られた。後日、検査の結果が出て手術には何の問題もないとのことだったので、私は手術日を待つことになった。
手術は午前9時に始まる。その2時間前、左手の甲に「局所麻酔テープ」を貼った。麻酔薬を入れるための注射針はやや太いこともあり、針を刺すときにかなりの痛みを感じるらしい。そこで、事前にもらっていたテープを貼っておくと、痛みは相当に減じるとのこと。ただし、2時間前ぐらいに貼らないと効果はないそうなので、午前7時に貼ることを指示されていた。
病院には8時20分に到着。手術着に着替え、同45分に手術室前で待機。同55分に入室し手術台に横たわる。かなりの緊張感。まずは麻酔医がテープをはがし、針を入れる場所を確認。全身麻酔はすぐに効果を発揮するので、気が付いたときは手術は完了しているとのこと。全身麻酔は一度経験しているが、その際は、麻酔医の予告に反し、20分ほど意識はかなりはっきりしており、皮膚を切られているときも、体内に器具を入れられているときもその様子はよく分かった。痛みが少しだけ緩和されていることがせめてもの救いだった。しかも、手術が終わっても麻酔薬の影響で朦朧感は5時間ほど残った。それゆえ、今回も同様かと観念していた。
注射針を打たれた。テープの効能か痛みはほとんど感じなかった。麻酔医は麻酔薬を入れることを私に告げ、カウントダウンを開始した。サン、ニィ……。
イチはなかった。その代わり、手術が終わり病室に移動する旨を告げられた。朦朧感もなかった。ニィの言葉を聞いたことは覚えていた。それも直前の言葉として。手術室の時計を確認すると、確かに時は3時間ほど経過していた。しかし、私としてはニィの言葉が終わった直後としかまったく思えなかった。
私は睡眠の質が悪いので、夜中に何度も目が覚める。その都度、見ていた夢を想起する。朝方に見る夢はもっとも印象深いはずだが、10秒もしないうちに内容はすっかり忘れる。ただ、多くの夢を見たという記憶だけは残る、ときには「豪華30本立て」といったほどに。しかし今回、麻酔で眠らされている時間は「刹那」であって、無に等しいものだった。
病室に移動させられ、室内のベッドに寝かされた。手術箇所の痛みはまったく感じなかったし意識ははっきりしていた。腹には3か所穴が開けられ、その穴から入れた器具を使って、人工膜を縫い付けられたり、腹膜の穴を塞がれたりしたにも関わらず。腹はやや膨れていた。これは手術のために炭酸ガスを注入したからで、早晩、ガスは体内に吸収されるとのことだった。
担当医は午後からの手術を終え、5時に病室にやってきた。私の予後の状態を見て、「これなら明日の朝、退院できる。明日、私は休暇日なので、他の医者が診断にくる」と告げて帰っていった。夜間に何かあったら当直医を呼ぶこと、とも言われた。
夕食は午後6時だった。朝も昼も何も食べていなかったものの空腹感はなかった。何しろ、腹は炭酸ガスで満たされていたのだから。ここの食事は見た目が豪華であった。よくある病院食とはまったく様相が異なっていた。私でも名前を知っている有名なシェフがここの食事を監修しているとのこと。それゆえ、見た目は手の込んだ「フレンチ」なのだ。ただし、味はやはり病院食だったが。
同じ階であれば歩いても良いと医者からは言われていた。むしろ、ある程度は動いたほうが回復は早くなるという。とはいえ、館内を歩き回っても面白くもなんともないので、自動販売機で飲料水を仕入れる以外は室内にいた。痛みこそないものの歩行の際には少しだけ眩暈を感じた。麻酔薬の名残りだろうか?
午後7時、施術した部分に痛みを感じ始めた。最初こそチクチク程度だったが、痛みは次第に強くなり、ジンジン、さらにガンガンというほどにまで狂暴化した。そのため、午後8時、処方されていた鎮痛薬(ロキソニン)を飲んだが、痛みが収まる気配は全くなかった。それまではやることがないので本(軽い小説)を読んで時間をつぶしていたのだが、もはや読書に集中する気力はなくなった。そこで、テレビをつけたのだが、もともと興味がないこともあり、痛みから気をそらしてくれる役割を番組は有していなかった。
眠気は私を誘いには来ず、痛みだけが腹部に居座り続けた。穴を開けられた部分(右腹、へその穴、左下腹部)の3か所だけでなく、あの股関節部分の痛みも共演に加わっていた。この四重奏にはとても耐えきれないので、午後11時、看護師を呼んだ。ロキソニンではまったく効果がないので、今度は座薬が使われた。それによって痛みは少しだけ和らいだものの、心の安らぎにまでは至らず、結果、眠りに落ちることはなかった。
午前一時、様子を見に来た当直医に、痛みのことを告げると、その医者は施術部位の確認をおこなった。かなりの腫れがあり内出血の可能性が高いが、この程度だと格別にひどいわけではないと言われた。ただし、本人(医者のこと)は内科医なので確定的な診断は行えないとのこと。詳細を朝方に来る外科医に伝えるので、一番で診てもらえるように手配してくれるとのことだった。
一睡もできなかった。自分がまったく眠っていないと思っていても、ほとんど場合、意識時間の流れには空白があるので、少しは眠っているというのが実際だ。しかし、今回の場合、時の流れにまったく隙間はなかった。何しろ、ずっと朝方まで、目の前にある時計の秒針を見つめていたのだから。一分間という時が、実はとてつもなく長いものであることを知った。そうであるからこそ、ウルトラマンはたったの三分間で、あれだけの仕事を成し遂げることができたのだろう。
朝方、外科医が助手を連れて私の部屋にやってきた。助手は穿刺器具やガーゼをなどを持参していた。医者は私の腹部を見るなり、「これなら通常程度の腫れで、とくに問題となるような内出血はない」と言い、「予定通り午前9時には退院できる」と告げてすぐに帰っていった。こんなに痛みが酷いのに帰れというのか、と私は憤りを抱くと同時に落胆した。所詮、病人は医者に対しては無力である。
午前7時に朝食が運ばれてきた。朝もまた「フレンチ」風、味噌汁付ではあるものの。私は4分の1ほど口を付けたが、それが限界だった。退院手続きのための明細書を持った看護師が9時に部屋に来た。こうなれば、退院するしかないのだ。
少しだけ持参した身の回り品をバッグに入れ、牛歩戦術を余儀なく採用せざるを得なかった私は、一階にある会計窓口へトボトボと向かった。4階の病室から1階の窓口まで、健常者なら2,3分でたどり着く(エレベーターがすぐにつかまるなら)距離なのに、このときの私は10分以上の時間を要した。
会計を済ませたものの、ここから家までどうすれば良いのか、私は途方にくれた。つくづく、迎えを断ったことを後悔した。病院から中央線の駅までは5分も掛からない距離にあるが、このときの私には30分は必要と思えた。しかも、改札口からホームへは下り階段がある。仮にそれがクリアー出来たとしても、新宿駅で京王線に乗り換えるのはさらに難題であった。
私は電車利用を断念し、タクシーで帰ることにした。病院の電話を利用して車の手配をおこなった。タクシーは5分ほどで病院の玄関にやってきた。都心を走るタクシーの運転手には多摩の田舎の地理は不案内だと思い、「とにかく京王線の府中駅方向に向かって下さい」と告げた。すると愛想の良い運ちゃんは、「府中なら私の隣町なのでよく知ってますよ」と言った。勤務先は都心にあるが、自宅は国分寺市だとのことだった。
田舎者同士なのですぐに意気投合した。自宅の住所を告げると運ちゃんはすぐに合点してくれた。首都高や中央道はかなり混雑していたため、府中までは1時間以上かかったものの彼のお陰(仕事)もあって無事に家に到着することができた。車中では運ちゃんとずっと話をしていた(私からが約9割)ので、腹部の痛みをしばし忘れることができた。ただ、日本の道路によくある大きめの目地段差を超えるときに車がガツンと突き上げを喰らうと、そのたびに私はウッという声を漏らした。そうしたこともあって、運ちゃんはより慎重な運転を心掛けてくれるようになっていた。
タクシーを降り、自宅のドアまで10mほどの距離を歩く際、手術した部分の痛みがぶり返してきた。なんとか室内に入り、まずは居間の椅子に腰掛けた。何をする気力もなく、といって何かをしないではいられないという相反する思いもあった。が、この腹部の痛みを抱えながらときを過ごすことをおもうと暗澹たる気分ならざるをえなかった。とりあえずテレビのスイッチを入れた。昼(夜も同様)のバカ番組にはまったく興味はないけれど、当座は何等かの「にぎやかし」で気分を紛らわすことしか思いつかないのだった。
20分ほどボケーッとしていると、なんとなしに痛みが少し和らいだような感覚があった。そこで、まずは身の回りだけでも片付けようと思い、椅子から立ち上がるべく左足を少しだけ動かした。
その瞬間であった。激痛が全身を貫いた。それまでは、とりわけ手術の際に穴を開けた右腹の上部、へそ回り、左下腹部の3か所がヅキンヅキンという痛みを訴えていたのだが、不用意に左足を横に動かした結果、この数か月の痛みの源泉であった左足股関節部分に衝撃を与えてしまったようだ。頭の天辺からつま先まで激痛が走ったと感じたのち、右腹部から左股関節までの痛みが点から線、さらに帯状にまで広がった。
痛みによって神経まで変調をきたしたようで、目をつぶっていても目の前で火花が散っているのが見て取れた。とにかく身動きすることはままならず、じっと激痛が収まるのを待つしかなかった。
どうにか目を開けることができるようになった。が、目の前にあったのは異様な世界だった。ダイヤ状の形をした濃いめのクリーム色の模様が縦横に整然と明滅しながら十数個並び、その向こうに部屋の内部の姿が見えるのだが、そこに展開されているのは60年以上前の壊れかけたモノクロテレビの映像のようで、ざらつき、輪郭がぼやけた灰色の世界があった。ただ、それは異界の映像ではなく、自宅の部屋の内部であることだけは分かった。
私は再び目を閉じた。が、部屋の映像は消えても、明滅するクリーム色の模様だけは見え続けた。大きな衝撃のために、脳が幻影を映し出しているに違いなかった。
帯状になっていた痛みは少しづつ分散化してきた。同時に幾分、模様の色が薄くなってきたように思われたので、思い切って目を開けてみた。まだまだ目の前にはダイヤ模様が明滅してはいたものの色は淡くなり、一方、部屋は少しだけではあるが形や色を取り戻しており、つけたままのテレビの映像もなんとか見分けられる状態になっていた。
時間が経過するにつれ、痛みはやや穏やかになり、それにつれて眼前の世界は平常を取り戻し始めた。並行してダイヤ状の模様はより薄くなっていき、約10分後、視界は日常と同等になった。同時に腹の痛みも帰宅直後程度にまで収まった。
眼前の世界が落ち着いてから5分ほど安静状態を保った。腹部の痛みもこれ以上は酷くならないと思えたし、ここまま座った状態では物事が進まないので、まずは椅子から離れる動作を再開することにした。先ほどよりも慎重に左足を横にずらした。とくに痛みは増加しないので、立ち上がる動作を開始した。
その瞬間、先ほどと同等の激痛が全身を走り抜け、またまた、かの幻影が展開され始めた。これで2回目、こんなことならいっそ、気絶してしまったほうがどれだけ楽なのだろうかと思った。以前、転倒した際、左手の薬指に針金を貫通させたことがあった。その際にも目から火花が散るような痛みはあったが、幻視はなかった。その針金を医師や看護師、3人がかりで抜いてもらったときも、激痛とともに傷口から血が噴き上がるのを見たが、気絶はせず、幻覚も現れなかった。
またしても、目を閉じて痛みが和らぐのを、幻影が消え去るのを待つより致し方なかった。先ほどと同様、こうした状態は10分強続き、その後次第に収まっていった。今度は20分ほど動くことを我慢し、3度目がないことを祈った。が、期待に反し、3度目もまた起こった。
3度目の状態を耐えているとき、私は「死」を思った。前日の手術の際の、麻酔で昏睡状態にあったときのことを考えてみた。あの約3時間、私の意識はまったくの空白であった。もし、あの手術の際に何かのミスで私が死に至っていたとすれば、こんな苦痛に出会うことはなかった。「サン、ニィ」という麻酔医の言葉が私の最後の記憶となり、その後は完全に無となる。ということは、そのカウントダウンはおろか、私が生きてきたことの総てが無となり、私の記憶はすべて消去してしまうのだ。苦が消えるだけでなく、楽という思いもまったく残らない完全に無の世界であり、無さえ存在しないことになる。
もっとも、人類は未だかつて「自分の死」を体験したことがない。それゆえ、死後のことは無記としか表現できない。「いやぁ、あのとき一旦死んじゃってさ。でも案外、死んでみるのはいいものだよ」などと語る人は皆無である。自身の死後を語るなどということは絶対にないのだ。通俗本などではときたま、「生き返った人の話」を面白おかしく取り上げるが、それは「生き返った」のではなく死んではいなかっただけなのだ。
30年ほど前に「臨死体験」を語ることが話題になった。最近死去した文筆家の立花隆がその最前線にいたと記憶しているが、その内容はあくまで「臨死」=「死に損なった」人の話に過ぎず、「死後」を語ることではなかった。そんなことは不可能だからだ。臨死体験は近似死体験とも言うらしいが、死んでしまうことと死に損なったこととは天と地ほど差がある。死に限りなく近づいたことと、死んでしまったこととはまったく異なる事態なのだ。
現代では、死は医師によって宣告される(もちろん当事者にではない)。それが「三徴候死」か「脳死」かは論争がある。とりわけ「臓器移植」を進めたい医師は後者を死としたいようだ。私が考える死はそのどちらでもなく、もはや生き返ることがなくなった状態を言う。医師も間違えることはあり、死の宣告後に「生き返る(実は死んでいなかった)」ということは皆無ではないだろう。この点、「火葬」は分かりやすいが、「土葬」の場合は数日後、棺桶が空になることがありそうだ。この場合、「生き返った」のではなく、息を吹き返した=死んではいなかった、ということになろうか。もっとも、死体が盗まれただけとも考えられるが。
激痛と幻視は3度目で終わった。3度目は幻視が消えても30分ほど椅子に座ったままほとんど身動きしなかった。多動性障害の気がある私にとって、体を動かせないということは苦痛そのものでしかないのだが、あの激痛と幻視に襲われることとの比較の末に、安静状態を耐え抜いたのだった。
結果、4度目はなく(今現在までも)、当夜は前日が一睡もできなかったこともあり、夜中に何度か腹部の痛みで目を覚ましたことはあったものの睡眠時間は8時間ほどとることができた。また、穴を開けた腹部の3か所の痛みも幾分か収まっており、股関節部分の痛みはほとんど感じることがなくなっていた。
もし4度目があったなら、私は自死を本気で考えたはずだ。もっとも、手首を切るのや切腹するのは痛そうだし、首をつるのは苦しそうだ。確実なのは、高い場所からの「飛び降り」かもと思った。
飛び降りなら、やはり「清水の舞台」からだろう。『清水寺成就院日記』には、1694から1864年の間(記録の欠落期間もけっこうある)に234人が清水の舞台から飛び降りたが、死亡したのは34人だったそうだ。舞台上から地上までの高さは12mだし、下は土の地面なので、怪我はともかく、死亡率は案外低い。ただし、60歳以上は6人中6人が死んでいるので、経験則からして私なら死ぬ確率は100%となる。
もっとも、1872年(明治5)に「飛び降り禁止令」が発布されたので、現在では飛び降りは難しいかもしれない。というより、私は高いところが苦手なので、高さ12mというとビルの4階に相当し、そんな場所から下をのぞいたら死ぬほど怖い思いをしなけれならない。これが10階以上であったら、私は飛び降りる前に死んでしまう。そうなると、飛び降り死ができなくなる。さらに医者からは、きつい坂の上り下りは腹部に大きな負荷がかかるために当面は禁じられているので、さしあたり4階まですら術後一週間は禁じられている、ということを思い出した。ことほど左様に、「飛び降り」を試みるのも意外に障害が多いのだ。
ともあれ、4度目の激痛はなかったし、その後は比較的順調に回復し、平地だが一日一万歩は早くも術後4日目に達成した。手術部位の痛みは10日程度でほぼ消滅した。といった経過により、5月下旬には磯釣りに出掛けたし、6月からの鮎の友釣りも、静岡県の興津川を皮切りに実現した。念願だった和歌山県・古座川への鮎釣り釣行(4泊5日)は2度も達成してしまった。
ひとつだけ日常に変化があった。先に触れたように「終活」を始めたのだ。あまりにも増えすぎた身辺の荷物整理である。不用になった釣り道具やカメラ、古い電器製品、熱帯魚飼育関連器具など、かなり思い切って捨ててしまった。もっとも大変だったのは溜まりに溜まった書籍類の処分だ。あちらこちらに積み上がっている本や雑誌をまずは手当たり次第に掻き集め、捨てるものと保存するものと仕訳する作業から始めた。
ここにも大きな障害があった。何度も読み返している本、一度読んだだけだが深く記憶に残っている本、途中で挫折した本、興味を抱いて購入したものの未読である本。これらが処分しても構わない本の間からときどき発見され、そうするとつい手に取って見開くことがしばしばあった。そうなると、片付け行為は一時中断となって、読書に耽ってしまうのだ。
常日頃から、私は一冊の本に集中することができず、いつも4,5冊ほどを並行して読んでいるだが、この中に本の山から掘り出したのもが付け加わってしまうのだから、同時並行に読み進める本が、多いときには10冊近くになってしまうのだ。こうなると、とても終活どころではなくなる。
といっても、終活を止めるわけにはいかず、それ以上に釣りを止めることはもっとできないので、どうしても今まで続けてきたものをいくつか中断する必要が生じてきた。そのひとつがブログの更新だった。こんなわけで、4月28日以来、新規の記事を立ち上げていないのである。けっして、まだ死んではいないのだ。
田川健三『書物としての新約聖書学』、桑子敏雄『感性の哲学』、三中信宏『系統体系学の世界』『分類思考の世界』、山岸俊雄『信頼の構造』、ル・カレ『スパイは今も謀略の地に』、四方田犬彦『日本の女優』、南直哉『超越と実存』、ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』、臼井吉見『安曇野』などなど。この他にも数多くの魅力的な本の発掘が、私の終活を妨げているのである。
そんな数多くの本の中でも、もっとも強く私を惹きつけたのが、朝倉喬司の『老人の美しい死について』(作品社、2009)であった。死を考えている最中であることもあり、私は再度、集中して読み始めた。
ここには「八代目市川団蔵」、「木村セン」、「岡崎次郎」の3人の老人の死が取り上げられている。歌舞伎役者の市川団蔵と、マルクス研究家の岡崎次郎は、その世界ではよく知られている存在なのでご存じの人も多いだろうが、一介の農婦にすぎなかった木村センの自死についてはほとんど知られていない。最近こそ著名な作家がその農婦の死を取り上げているので、少しは認知度が増してはいるようだが、2009年に朝倉喬司の本が出る前までは、無名に近い存在だった。私自身、評論家・呉智英の本などで彼女の遺書の一部は知っていたが、その全文を知ったのはこの本が初めてだった。
四十五ねんのあいだわがままお
ゆてすミませんでした
みんなにだいじにしてもらて
きのどくになりました
じぶんのあしがすこしも いご
かないので よくよく やに
なりました ゆるして下さい
おはかのあおきが やだ
大きくなれば はたけの
コサになり あたまにかぶサて
うるさくてヤたから きてくれ
一人できて
一人でかいる
しでのたび
ハナのじょどに
まいる
うれしさ
ミナサン あとわ
よロしくたのみます
二月二日 ニジ
木村センは1891年(明治24)群馬県吾妻郡中山村(現在は高山村)の農家に生まれ、18歳のときに同じ村の木村常次のもとに嫁いだ。幼い頃から働きづめだったこともあって、字を読むことは多少できても書くことはほとんどできなかった。ただ、常日頃から和讃を唱えていたので言葉自体は多く知っていたようだ。
木村夫妻には9人の子供(そのうち3人は早逝)があったが、木村家が借金を多く抱えていたため、センは嫁いだ後の45年間も働き詰めだった。子供が家で教科書を読んでいると「本べえ読んでるじゃねぇ、仕事をしろ」と叱るほど、センにとっては働くことがすべてであった。
1955年(昭和30)の1月の夜、センは庭にある手水場(便所)に行くとき、凍った地面に足を滑らせてころび大腿骨を折ってしまった。ほぼ寝たきり状態になり、働くことができなくなったセンは、ある覚悟を抱いた。
小学校入学を控えていた孫がコタツで絵本を読んでいたとき、センはなんとかコタツへ這って向かい、孫と一緒に手習いを始めた。センは文字を書くことを覚えたかったのだった。理由はひとつ、子供たちに「遺書」を残すためだった。
上に挙げた文が遺書の全文である。誤字脱字は多いものの、彼女の子や孫を思う気持ちがよく伝わってくる「名文」である。人々の心を大きく揺さぶり、かつ名文家さえも動揺させる遺書というのは、この木村センと、マラソン選手だった円谷幸吉とが残したもの以外は皆無と言えるかもしれない。
私は死後の世界はないと確信しているが、木村センはきっと「花の浄土」に住んでいるという思いはある。
遺書を残すだけのために木村センは文字を習った。センよりは少しだけ文字を知っている私には、残すものが見当たらない。
そうであるならば、せめて生きた証としてこのブログを継続することがそのひとつになるのかも知れないと、そういう思いが立ち現れてきた。
という訳で、5か月お休みにしていた徘徊老人日記を再開することにした。