◎R411の旅の続きです
本ブログの第47回から51回まで、5回連続で国道411号線(R411)を使って八王子市から甲府市まで訪ねる旅を紹介した。当初の予定ではその締めくくりとして甲府盆地について記すつもりで、甲府(舞鶴)城、武田神社、昇仙峡、曽根丘陵古墳群、信玄堤などをすでに訪ねて撮影し終えていた。さらに追加撮影をするための下調べを進めていたのだが、折しも新型コロナ騒ぎの第3波が発生してしまったため、甲府行きは断念した。もっとも、今までの最大の波である第5波の最中に紀伊半島を2回訪ねているし、山梨県の桂川水系ではしばしばアユ釣りを楽しんでいたのだけれど。
ともあれ、新型コロナ新規陽性判明者数は今のところ減少傾向にあり、自粛ムードも溶解しつつあるので、約一年振りに甲府盆地へ出掛けることにした。一応、R411の旅の締めくくりという位置づけにしたが、実際には府中からは中央道を使って甲府盆地に入った。盆地内には名所旧跡は多いが、そうした場所の一部はすでに紹介しているので、今回はおもに盆地の縁辺部を訪ね歩いた。
なお、写真の一部は昨年の晩秋に撮影したものも用いているが、全体の景観には変化はほぼない(雪や雲や木々の色づきは少し異なる)ため、とくに断りは入れていない。
◎甲府盆地は、羽ばたくコウモリのごとく
甲府盆地は「逆三角形」に例えられる。右(北東)の角からは笛吹川が、左(北西)の角からは釜無川が流れ下り、両者は下(南)の頂点のすぐ近くで合流し、富士川となって盆地を出て南へと下っていく。
ただ実際には、山地から盆地に下る河川は無数にあり、それらが複合して扇状地を造り上げている。そのため縁辺部は複雑に入り組んでいて、逆三角形というより、奥秩父山地に向かって飛んでいきたいと願っている、翼を広げたコウモリ(蝙蝠)のような形を甲府盆地はしているではないか?と、私には思える。とはいえ盆地なので、これは「飛べない蝙蝠」なのだが。
『飛べない蝙蝠』は1974年に発表された小椋佳の作品であり、私は20代の頃に下手なギターを弾きながらもっとも多く歌っていた曲だという鮮明な記憶がある。そんなことから、甲府盆地全体を地図で確認すると、逆三角形ではなく、決まってコウモリの姿を連想してしまうのかもしれない。
甲府盆地は地殻運動によって生まれた構造盆地である。この地にはユーラシア、北米、フィリピン海という3つのプレートが会合しており、それらが圧縮し合っていることで逆断層(糸魚川・静岡構造線断層帯や曽根丘陵断層帯)による沈降域が形成された。これが甲府盆地の原形となった。
盆地の東には関東山地の大菩薩連嶺、西には赤石山脈(南アルプス)とその前山である巨摩山地、北には関東山地の奥秩父山地、南には御坂山地が連なっている。それらの山々から数多くの川が流れ下っていて、その川たちが無数の砂礫を山から沈降地内に運び込み、盆地の砂礫層は1000mほどの厚さがあると考えられている。
山から下ってきた無数の河川は、やがて笛吹川と釜無川(笛吹川を取り込む前の富士川の呼び名)のどちらかに集結し、最終的には笛吹川が釜無川に合流する。そこから富士川は、富士山の西方にある山地の間を穿入蛇行しながら南へ進む。その場所で甲府盆地は「閉じて」いる。
盆地というと「閉ざされた世界」をイメージしがちだが、甲府盆地には周囲の地域から多くの道(街道、往還)が、盆地につながる大中河川に沿って古くから整備されていたため、河川や道によって外の世界とは大いなる結び付きがあった。それゆえに、歴史研究家の網野善彦(現在の笛吹市御坂町出身)が言うように、甲府盆地や甲斐の国は「開かれた山国」だったのである。
盆地の東側でいえば、北東部(コウモリの右翼の先端部)からは笛吹川と重川(おもがわ)が流れ込んでいるが、前者に沿って国道140号線(雁坂みち)が通じていて、その道は「秩父往還」とも呼ばれている。また後者沿いには国道411号線(大菩薩ライン)が通じていて、それを「青梅街道」と呼ぶことは、すでに「R411」の項で何度も触れている。
右翼先端の下側には、上の写真にある日川が流れ込んでいるが、川の右岸側の上部には国道20号線、つまり甲州街道が走っている。
右翼の下部では、御坂山地に源を有する金川が、南東から北西に向かって流れ下って笛吹川に合流するが、この金川に沿って国道137号線が河口湖へと通じている。このR137には「御坂みち」の名があるが、古くは「鎌倉往還」として利用された。
このほか、御坂山地からは浅川、境川、滝戸川などの中河川がいくつも笛吹川に流れ込んでいる。こうした河川沿いにも林道が切り開かれていて、河口湖や精進湖方面につながっている。
中央道を利用する人は「甲府南インター」のすぐ近くに「境川PA」があるのをご承知かと思うが、そのPAは境川町にある。上の写真は、その境川PAの北端から南アルプス方面を眺めたもので、間ノ岳や北岳が雪化粧を始めていた。
次に盆地の北側を見てみると、そこにはコウモリの頭部(とくに両耳)のごとくに盆地が突き出ている。それは、奥秩父山地から2本の川が盆地中央に向かって流れ込んで扇状地を形成しているからだ。東側は相川が造った扇状地で、扇央に武田神社がある。西側は荒川で、その扇状地は甲府市と甲斐市にまたがっている。なお、荒川の上流部には甲府市を代表する観光名所である昇仙峡がある。
相川は甲府市内で荒川に合流し、その荒川は甲府市域を南下し、御坂山地にかなり近づいた場所で笛吹川に合流している。
今度は盆地の西側に目を転じてみよう。コウモリの左翼の先端部には釜無川が流れていることはすでに触れた。その川の支流である塩川は盆地の最北西端からは本川と並走するように南東へと流れ下っていて、韮崎市と甲斐市の境界辺りで合流している。
釜無川すなわち富士川は赤石山脈の鋸岳、塩川は奥秩父山地の金峰山や瑞牆山(みずがきやま)を水源としているので、中下流部で並行して流れているといっても出自は異なる。釜無川は糸魚川・静岡構造線(糸静線)断層帯付近を、塩川は岩村田・若神子構造線付近を流れているが、両構造線は八ヶ岳の南側で著しく接近しているために並走することになり、盆地が開けた場所に至って両河川は合流するのである。
甲府盆地を語る際に忘れてはならないのが、写真の御勅使(みだい)川だ。巨摩山地に源を発し、ほぼ西から東に流れ下って釜無川に突き当たる。釜無川が塩川の流れを引き受けた場所から1400mほど下流のところだ。写真から分かる通り、川床が砂礫であるために流路が定まらず、おまけに勾配が急であるため、大水のときにはすぐに氾濫し、この川が合流する釜無川一帯に幾度となく大きな被害をもたらした。
甲府盆地に拠点を構えた武田氏にとってこの川の整備が一大事業であって、「信玄堤」でその名を残す釜無川左岸の改良工事も、元を辿れば御勅使川の大氾濫が主要因であった。
盆地の南部(コウモリのしっぽ)では2つの流れがひとつにまとまるだけでなく、盆地そのものが閉じていく。釜無川は北西方向から下ってきて盆地の広がりの中に達すると今度は真南に下り、やがて御坂山地に近づくと今度は南西に向きを変えて出口を探し始める。写真は、富士川大橋から釜無川の最下流部を望んだもので、すぐ右手(東側)には笛吹川の流れがある。
笛吹川は盆地に入るとそのまま南西方向に下り、御坂山地の北縁に近づくと、そのヘリに沿って西南西方向に進み、出口を求めて釜無川の左岸近くにまで達する。山地の北縁に位置する曽根丘陵沿いには「曽根丘陵断層帯」が走っているので、川はそれが形成した「窪地」に沿って流れ下っているのかもしれない。
写真は釜無川(左手)と笛吹川(右手)が並走している姿を富士川大橋上から眺めたもので、両者は3.5キロほど並んで南下してから合流する。このため、合流点より上流一帯には氾濫原性の低地(低湿地)がかなり大きな範囲に広がっている。とりわけ釜無川の左右両岸には低地が広範囲にあり、「西南湖」「東南湖」といった字名さえ残っている。さぞかし湿地帯が多かったのだろう。
写真は、富士川大橋上から合流点(標高237m)付近を望んだもので、上部を走る中部横断自動車道の橋脚付近で両河川は一本化され、文字通り「富士川」となって駿河湾を目指していく。
盆地が閉じた場所では西から巨摩山地、東から御坂山地の裾が迫っているため、富士川の川幅はとても狭くなっている。それゆえ、上流部が大増水した際には水は狭窄部を流下しきれずに川面を上げ、バックウォーター現象を起こして合流点付近一帯に溢れ出ることになる。こうしたことが古くから幾度となく発生したため、「甲府盆地湖水伝説」が生まれた。
伝説によれば、今から1300年前の養老年間に行基がこの地に来て、左右の山を切り開いて盆地に溜まった水を落としたという。中国初代王朝である「夏」を建国したとされる禹(う)王は黄河の治水をおこなったことで知られるが、この行基の業は禹王の成したことに匹敵するということから、この場所は「禹之瀬(うのせ)」(標高234m)と名付けられた。伝説は、伝説に比して語られる。
現在の禹の瀬は1987年から95年にかけての工事によって切り開かれたものが基になっている。伝説では「禹之瀬」だが、現在では「禹の瀬」と表記される。なお、日本の地名で「禹」の字があてられているのはここだけとのことだ。
写真は御坂山地に属する日陰山(日蔭山、1025m)の北斜面(標高764m付近)にある「枕状溶岩」を撮影したもの。枕状溶岩とは、粘り気の弱い溶岩が海中に流れ出ると表面張力によってチューブ状になり、その断面が積み重なったものを言う。俵状溶岩とも呼ばれる。ということは、かつて御坂山地は海底にあったことになる。
御坂山地を形成している御坂地塊はフィリピン海プレート上の伊豆・小笠原弧にあって、かつては本州の遥か南の海底に位置していた。フィリピン海プレートが北上してユーラシアプレートや北米プレートに衝突してそれらの下に潜り込むが、厚さのあるフィリピン海プレートは全部が沈み込めず、上部にあった御坂地塊ははぎ取られて本州に付加された。その盛り上がりが御坂山地で、それ以前に付加された櫛形山地塊(巨摩山地の元型)、その後に付加された丹沢山地、伊豆半島と同じ成り立ちである。いずれも南から圧縮され続けているため、年々、それらの高さは増していっている。
枕状溶岩は日本各地で観察されるが、それが見られる場所はすべて、かつては海の底にあったことを示している。ということは、甲府盆地湖水伝説どころではなく、海底伝説があっても不思議はない。
石和温泉駅の北側に大蔵経寺山(716m)があり、その西方に八人山(572m)があるが、その山間に写真の「横根積石塚古墳」(標高343m地点)がある。日本の古墳は土盛りだが、朝鮮半島(とくに高句麗)には写真のような石積みの古墳が多く見られた。
本ブログの第51回で触れているように、甲斐国は大陸文化の通り道であったし、巨摩郡(巨麻郡)の存在が示すように、朝鮮半島から多くの人々が渡来した。51回では言葉だけ挙げていた「積石塚」に、今回は訪れてみた。
横根地区とお隣の桜井地区では合わせて145基の積石塚古墳が発見されている。この地にも開発の手が及んでいるため、保存されているものは多くないようだ。
第51回では、甲斐国には御牧(勅旨牧)が3か所あったということにも触れている。写真の穂坂町地区に、その御牧があった(穂坂牧)という記録が残っている。ただし、写真の場所かどうかはまったく不明だ。写真の場所も含め、何度も噴火を重ねた複成火山である茅ヶ岳(1704m)の南西側の裾野には広々とした場所が至るところにあるため、牧場があってもまったく自然である。
写真は、真衣野牧があったとされる場所。それが武川町の牧原であったかどうかは同定されていないが、巨摩山地の麓であること(ここだけではないが)、甲斐駒ヶ岳(2967m)がよく見えること(それもここだけではないが)から、さらに牧原という字名から、「甲斐の黒駒」の産地と考えられなくはない。
以上、ここまでは甲府盆地の特徴をよく表す、主だった場所を紹介してきた。
◎盆地のヘリを東側から訪ね歩く
甲府盆地の縁辺を巡る徘徊は、写真の「勝沼口」から始めた。写真中にある道路は国道20号線で、左にカーブして日川を越えている新しめの道は「新甲州街道」の「勝沼バイパス」で、旧甲州街道(県道306号線)は直進して勝沼宿の中を走っている。
写真右手の、盆地に張り出しているように見える山は「積石塚」のところで触れた大蔵経寺山のもので、その麓に石和温泉街がある。頂に雲を纏っている奥の山々は巨摩山地、赤石山脈である。撮影地点から巨摩山地の麓までは、直線距離にして約28.5キロ。かように、甲府盆地は相当に広いので、私の徘徊手段は主に車となる。
勝沼口の北側斜面に、写真の「大善寺」がある。718(養老二)年に行基が開創したとされている。聖武天皇から「柏尾山鎮護国家大善」の寺号と勅額を受けたことで歴代朝廷の厚い保護を受けた。それが災いし、平安末期から鎌倉時代にかけては、敵対勢力によって何度も焼かれたとされている。
国宝に指定されている写真の本堂(薬師堂、標高488m)は1286年に建造され、現在の姿は1954年に大改修を受けたものである。国の重要文化財に指定されている「薬師如来像」や「日光・月光菩薩像」は秘仏として、堂内にある国宝の「厨子」に納められている。
私は500円の拝観料を納めたが、これは駐車料金として払ったつもりでいたので薬師堂の中には入らず、写真にあるように外から内部を眺めただけだった。基本、「のぞき」はするが拝観はしないのだ。
この寺は「武田勝頼終焉の地」としても知られており、勝頼は薬師堂に一夜籠り、武田氏再興を祈念して翌日に自刃した。
さらに、この寺は「ぶどう寺」としても知られ、かつまた自家製(寺家製か?)のワインや、「史蹟ワイン民宿・大善寺」の運営もおこなっているようだ。この寺を「ぶどう寺」と呼ぶことについては、第51回に触れているので、そちらを参照していただきたい。
近藤勇(大久保剛、大久保大和)率いる甲陽鎮撫隊(新撰組)と板垣退助率いる東山道先鋒総督隊別動隊とが一戦を交えたのが大善寺近くの柏尾坂であった。僅か2時間で甲陽鎮撫隊は敗走した。1868(慶応四)年3月6日(旧暦)のことであった。
大善寺境内のすぐ東側が「柏尾古戦場跡」とされ、写真の「近藤勇像」が建っている。周りは雑草だらけ、おまけに近藤勇像はクモの巣に覆われていた。さぞかし、近藤は無念であろう。巣を払ってあげたいが、私はクモが大の苦手なので、早々に逃げ出した。
大善寺や古戦場跡はR20の北側沿いにあるが、道の南側を流れる日川に「勝沼堰堤」があるというので、それを眺めに行くことにした。道すがらに「シャトー勝沼」のブドウ園(”柏尾祇園の滝”という洒落た名前が掲げてあった)があったので、さしあたり、そのブドウ園を外から観察してみた。今回の冒頭写真は、その作業の様子を西側から撮影したものだ。
南側からのぞいてみると、写真のように園内に捨てられたブドウがたくさんあった。中には園外にも十分に食べられそうなブドウが置かれていたので、それを拾って賞味しようと思った。が、作業の責任者らしき人が私のほうを見ていることに気付いたので断念した。残念無念である。
1907(明治40)年の大洪水の結果、日川に砂防堰堤建設の必要性が生じたことから17(大正6)年に竣工したのが、写真の「勝沼堰堤」で「近代土木遺産」として認められているそうだ。18.5mの高低差がある人工滝は「祇園の滝」と命名されているとのことで、先に挙げたブドウ園の名の由来になっている。
写真のブドウは、勝沼堰堤のすぐ上方にあった畑のもの。葉は枯れ始め、大きな房に実ったブドウの粒も傷み始めている。ブドウ自体は枝や蔓がたわむほどに無数に実っているのだが、取り入れが始まった様子はなかった。
さらに、ブドウ袋を付けたまま朽ち果てている品種もあった。ブドウ袋は梅雨入りの前に付けられることが多く、実を害虫から守る、雨水による感染症の広がりを防ぐ、強い日差しから実を守るなどの役割を有しているので、少なくとも6月中までは丹精を込めて育てられていたに違いない。
私がこのときに見た範囲では、ブドウ畑に人がいる様子はなく、畑の一角に造られた建物(作業所兼売店)も、ここ最近に利用されているとは思えないほど埃にまみれていた。何かの事情で廃業を余儀なくされてしまったのかは不明だが、見事に実っているブドウたちが多いだけに、なにやら寂しさを抱いてしまった。
ブドウ畑を離れて大善寺の駐車場に戻って車に乗り、次の目的地である「釈迦堂遺跡博物館」(笛吹市一宮町、標高458m)に向かった。博物館は中央道・釈迦堂PAのすぐ北側の高台にあり、PAの駐車場からも歩いていくことができる。この博物館の存在は以前から知っていたのだが、入場するのは今回が初めてだ。この日は御坂山地の山裾を走る一般道を使って向かった。大善寺から博物館までは、直線距離では2.8キロしかないので、わざわざ中央道に入る必要性はなかった。
1980~81年、中央道建設工事に先立って大掛かりな発掘調査がおこなわれた結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代などの埋蔵物が多く発見された。とりわけ、縄文時代のものは日本有数の出土数を誇るとのことだ。博物館内には写真から想像できる通り、国指定の重要文化財だけでも5599点が展示されている。
実用性重視の弥生土器に比べ、縄文土器は意匠に変化が富んでいるので実に見応えがある。「水煙文土器」がここではもっともよく知られている展示品だが、私は、写真のヘビの飾り?を有した土器(一部は復元されてい入る)に一番の興味を抱いた。呪術性の現れなのか単なる装飾なのかは不明だが、このほかにも多彩な生き物が土器には文様づけられている。
人の顔の装飾も多数あり、部品として造られたのか欠け落ちたものかは分からないが、表情が豊かなのに驚かされる。中には、今は会うことがなくなった私のかつての知り合いに類似した顔付きのものがあった。私は思わず、彼の名を呼びそうになった。こんな場所で会えるとは、土偶というより奇遇である。
ヒスイの原石も展示されていた。ヒスイは、現在の新潟県糸魚川市で産出されるものなので、これらは糸静線を通ってこの地に運ばれたのだろう。ヒスイ文化は5000年前の縄文中期に始まったと考えられている。装飾品や勾玉などに加工されるが、当時の技術でどのように加工されたのか興味深い。一説には「竹ひご」を使って穴が開けられたとのこと。「雨垂れ石を穿つ」の体であろう。
黒曜石の原石や鏃なども展示されていた。黒曜石は信州産のものが多いので、その運搬もやはり糸静線が用いられたのだろう。その一方、伊豆諸島・神津島産のものもある。こうしたヒスイや黒曜石の存在は、この地が「開かれた盆地」であることを証明している。
その他、駿河湾産のハマグリの貝殻もあった。我々が想像する以上に海と山との交流は盛んだったようだ。
博物館を出て山裾の道を西に進み、御坂山地の高台(標高406m、笛吹市御坂町)から北方向を眺めてみた。人家が立ち並んでいるのは丘になっている場所で、その下に金川が造った扇状地が広がり、北側の奥秩父山地の下の右手(東側)には重川が造った扇状地、左手には笛吹川が造った扇状地が見える。
甲斐国分寺址(標高363m)は笛吹市一宮町にある。この辺りは金川扇状地に属する。資料館や復元された建物などはないが、金堂跡、塔跡、講堂跡、回廊跡がよく整備され、それぞれに礎石などが置かれている。
国分寺がこの地にあるということは、近くに国衙があったはずで、近くの地名を調べてみると国分寺址の西側3キロのところに笛吹市御坂町国衙(標高283m)の字名があった。武蔵国国衙(府中市の大國魂神社付近)から武蔵国国分寺までは2.6キロほどなので、この国衙と国分寺との距離間には妥当性がありそうだ。
もっとも、第51回で触れているように、甲斐国の国衙は当初、笛吹市春日居町国府に置かれていた。その場所は御坂町国衙の2.6キロほどのところにある。春日居町国府の近くに国分寺址はないが、その場所と一宮町の国分寺址とは4.6キロほどの距離なので、国分寺は初めからこの地に置かれていたと考えられなくはない。国衙は役所なので移転は比較的容易だが、国分寺は象徴的存在なので必ず、大洪水などの被害にあわないようにやや高い場所に造営される。
私が甲斐国分寺址を徘徊していたとき、国分寺・国分尼寺址巡りの団体客がやってきた。笛吹市の役人も説明役として数人同行していた。乗ってきたバス(写真の左端に写っている)は埼玉ナンバーだったので、武蔵国からやってきた史跡巡りツアーなのかも。
『日本三大実録』によれば、貞観六(864)年に富士山が大噴火して溶岩は甲駿の国境にまで達した。朝廷は大噴火による災害の発生は、駿河浅間明神の神官の祭祀が不十分だったからと考え、各地に浅間神社を創設することを許した。その結果、甲斐国にも建てられたのが一之宮浅間(あさま)神社で、写真の大鳥居は国道20号線(勝沼バイパス)沿いにある。
境内は大鳥居から北に300mほど進んだところにある。写真の拝殿(標高347m)は東向きで、参道とは90度、向きが異なっている。武田信玄はこの神社を深く信仰していたようで、彼が残した「紺紙金泥般若心経」は巻子本として神社に保存されている。信玄は他にも太刀や自詠の短冊、土地寄進などの文書44通を残している。
境内には「子持石」や写真の「陰陽石」が置かれている。前者は人の目に着く場所、後者は人の目に触れにくい片隅にあった。ケンさん(前回参照)にこの写真を捧げます。
浅間神社からは一気に北(コウモリの右翼の下端から上端方向)に進み、今度は奥秩父山地の南縁辺を徘徊することにした。「塩山フルーツライン」の南端は先に挙げた大善寺付近にあり、その道の北端に近い場所にあるのが写真の「塩山ふれあいの森総合公園」だ。第51回で触れた「中央線・塩山駅」(標高410m)から北に2.5キロほど進んだ山裾(標高543m)にある。
総合公園内にはグラウンド、散策路、遊具施設(フルーツパラダイス)、展望台などがあるが、私は見晴らしの良さそうな遊具施設前の駐車場に車をとめて少しだけ散策した。写真は遊具施設を見たもので、さすがにフルーツ王国・山梨県だけあって、遊具もフルーツの形をしている。
散策路から笛吹川が造った扇状地を見下ろした。左手に少し顔を出しているのは、塩山の名の由来となった塩ノ山(標高553m)の西端部である。正面は御坂山地、右に少しだけ顔をのぞかせているのは、お馴染みとなった「大蔵経寺山」の山裾である。
ふれあいの森を離れて西に進むとすぐに笛吹川扇状地に出る。信玄の菩提寺であった恵林寺(えりんじ、標高462m)に行くためである。私は恵林寺と聞くと、「信玄ゆかりの寺」というより、『大菩薩峠』に登場する魅力的な人物の一人である「慢心和尚」のほうをすぐに思い浮かべる。真ん丸な頭と顔、拳がすっぽり入るほどの大口の持ち主だ。こんな和尚に出会えたなら、私も少しは信仰心を抱くかも、と思わせるほどの存在感だ。
架空の人物を思ってもさほど意味があるとは思えないので、ともあれ写真にある総門(黒門)をくぐって参道を200mほど進んだ。
参道の先には朱塗りの「四脚門」(赤門)がある。1582年に織田信長の軍勢に全山を焼かれたのち、1606年に徳川家康が再建したと言われている。四脚門といいながら、柱は6本あるのはこれ如何に。中央にあるのは扉を支えるための門柱で、これは脚には入らない。門柱や屋根を支えるため四隅に控柱が4本あるので四脚門という(らしい)。
私は門から入る(出る)際に、下部の出っ張りに足を引っ掛けて転ぶ危険性を考え、門の脇から入った(出た)。
四脚門の先に庭があり、その先に、あまりにも有名な「滅却心頭火自涼」の偈(げ)が掲げられた三門(三解脱門)がある。これは、信長の焼き討ちにあって焼死した住職の快川紹喜(かいせんじょうき、1502~82)の辞世の偈とされている。彼は美濃国出身の臨済宗妙心寺派の僧で、1564年に信玄に招かれて恵林寺の住職になった。これにより、武田氏と美濃の斎藤氏との関係は深まった。
写真にはないが、右手には「安禅不必須山水」の偈がある。並べて読めば、「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず、心頭滅却せば火も自(おの)づと涼し」となる。この偈の原典は唐の詩人の作品にあるとされている。
山門の先に写真の「開山堂」があり、その後方(北側)に本堂が控えている。さらに、本堂の裏手に国の名勝に指定されている庭園がある。開山堂の扉は閉じており、近づくと「夢窓国師像の調査点検の為、当面の間閉めさせて頂きます」と記した貼り紙が目に止まった。
恵林寺は1330年、禅僧で作庭家として世界的に名高い夢窓疎石(夢窓国師)が開基したとされ、庭園も彼の作である。ここでも拝観料(500円)を払わなかったため、本堂や、庭に通じる「うぐいす廊下」、庭園を目にすることはなかった。
庭園には興味がないわけではなく、夢窓疎石が作庭した「天龍寺」「西方寺」「南禅院」(以上京都府)「竹林寺」(高知県)「建長寺」(神奈川県)などには何度か訪れている。近々、甲府を再訪する予定なので、そのときは庭だけでも見てみようと考えている。「信玄公宝物館」(拝観料500円)には入らないけれど。
恵林寺を離れ、国道140号線を使って南西方向に移動し、山間にある「笛吹川フルーツ公園」を目指した。公園は奥秩父山地の南東向き斜面にあり、標高460~590mに位置し広大な面積を有している。
敷地の上部には「やまなしフルーツ温泉ぷくぷく」「横溝正史館」「恋人の聖地」「富士屋ホテル」などがあるが、それらにはまったく用はない。ただ、盆地を眺めるのに見晴らしの良い場所を探すためにここに来たのだった。というのも、中央道を走っているとき、笛吹川右岸の上部斜面に大きな施設が造られたのを以前から見知っていて、その存在が気になっていたからだ。中央道や盆地内からよく見えるということは、反対に、その地は見晴らしが相当に良いはずだ、ということは誰にでも分かる。
上の写真は、公園内から「勝沼口」や勝沼ぶどう郷方面を眺めたもの。日川尾根の山裾では、かなり高いところまで開発の手が入っていて、その大半はブドウ畑になっている。
入口広場の上に設けられた花壇脇から、大菩薩連嶺や日川尾根方向を望んだ。後方にある高い山の連なりが大菩薩連嶺で、左手に特徴的な姿をした大菩薩嶺(2057m)が見える。連嶺の手前にあるのが源次郎岳(1477m)を主峰とする日川尾根。右手に少しだけ御坂山地が見える。
公園内には遊具施設が整っており、写真は「アクアアスレチック」広場で、人工的に造られた流れでは「鮎のつかみ取り」というイベントも開催されるらしい。盆地の後方に見える山々は、左手が日川尾根、右手が御坂山地。その間にあるのが「勝沼口」。
入口広場とカフェの入っているドームとの間に、階段状で広めの花壇が整備されている。この公園は無料で利用でき、駐車場は至るところにあるし、トイレやカフェ、休憩所、自販機も多いので、散策目当てで訪れる人をたくさん見掛けた。犬を連れて、犬に連れられて散歩する人は実に多かった。
公園を離れて、笛吹川右岸にある「差出の磯」に向かった。第51回で触れたように、「差出の磯」と「塩ノ山」は『古今和歌集』にも歌われた甲斐国の名所である。「塩ノ山」についてはすでに触れているので、今回は「差出の磯」に立ち寄った。
ここは笛吹川の右岸にあって、多くの場所では川が山裾を削って広い河原を形成しているが、この場所だけは山を穿つことができなかったようで、断崖として残っている。それだけに古くから名所として覚え目出度かったのだろう。右岸の河原の標高は347m、断崖上は379mと、比高は32mもある。
写真はその天辺からではなく、崖下に降りる階段の途中から、笛吹川の流れがよく見える地点にて撮影したもの。右手に後述する「万力公園」のアカマツ林が少し、中央に「万力大橋」、川の左岸に山梨市の市街地が少し見える。
差出の磯の天辺付近には「差出磯大嶽山(だいたけさん)神社」がある。境内から見える富士山の姿は「関東富士見百景」に選ばれているそうだ。ここのお守りや御朱印は本殿に負けず劣らずカラフルで、その見本が多数飾られてあった。
厄除開運や健康祈願といった点にご利益があるとのことなので、コロナ禍の昨今では訪れる人が増えた(らしい)。私は短時間しか滞在しなかったが、見掛けた範囲では、参拝に訪れる人は若い(若そうな)人が大半だった。
敷地内にある「笛吹稲荷神社」は「商売繁盛」「芸能上達」にご利益があるそうだ。私にはいずれも無縁なので拝むことさえしなかった。が、赤い鳥居の並びが美しかったので撮影だけはおこなった。実際は写真よりも数百倍、麗しく輝いていた。
撮影技術も「芸能」のひとつ。より良い写真を撮るためには、この神社で上達祈願をする必要があったかも。これを”後の祭り”という。
この日の最後に訪れたのが写真の「万力公園」だ。万力という地名は、アカマツの防水林や洪水を抑えるための雁行堤防(霞堤)をつくった当時の人々によって「万人の力を合わせて強固な堤を造り守っていく」という決意から付けられた、と記してあった。
大嶽山神社とは同じ並び(笛吹川右岸)にあり、神社と公園の北端とは200mほどしか離れていない。差出の磯に突き当たった流れは下流域に乱流を発生させるため、この辺りでは氾濫がしばしば勃発したようだ。
その対策の場として下流域の低地(公園の南北は1000m、東西は最大200m。標高は340~331m)が選ばれて、防水林や堤が造られたのだろう。
現在では、公園の北端付近に川水を取り入れた溜池(ちどり湖)が整備され、そこから公園内を流れるいくつかの小川へ配水している。写真の噴水の源もそのひとつである。
公園内には堤がいくつか残っており、写真中央に見える堤も、かつての雁行堤のひとつだったのかも知れない。
公園の南端付近の堤防上から南側を眺めた。すぐ下流側には県道216号線の根津橋があり、そのすぐ南に中央線が走っている。山梨市の玄関口である山梨市駅は、根津橋東詰めから250mほどのところにある。
さらに下流側には、笛吹川と重川と日川とがそれぞれに造った扇状地が重なり合い、今度はそれが金川扇状地と衝突して複雑な微高地や微低地を形成している。それが宅地になり、畑になり、石和では温泉街になる。
盆地の向こうには御坂山地があり、その上から富士山が顔をのぞかせた。公園に着いたときは雲に隠れていたが、公園を離れる間際に姿を見せてくれた。暮方が近いこともあり公園内を散歩する人が増えてきた。が、私以外、富士山の姿に目を向ける人はいなかった。ここに訪れる人々にとって、この風景はあまりにも常態化しているからなのだろうか。
車に戻り、この日の宿泊場所である「石和健康ランド」に向かった。私にとって「健康ランド」に宿泊することが常態化しつつある。もっとも、その大半は「駿河健康ランド」なのだけれど。
*次回は、甲府盆地の西側について触れます。11月中旬に更新予定です。