徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔79〕琵琶湖周辺から醒井宿の清水を求めて

バイカモの花と虫。醒井宿の地蔵川にて

◎奥琵琶湖地区を散策する

今津浜水泳場の賑わいは今いずこ

 今津といえば『琵琶湖周航の歌』にも出てくるくらい名の通った場所のはずだが、実際に訪ねてみると実に閑散としている。もっとも私が出掛けたのは夏前だったので岸辺で遊ぶ人が少ないのは当たり前だろうが、それにしても建物群も相当に古めかしく、もはや盛りは過ぎてしまったという感がある。

今夏は華やぐのだろうか

 松の木とコラボしている写真のカフェも手入れが十分に行き届いていないようで、このままの状態では夏を迎えられるかどうか、他人事ながら危惧してしまう。余計なお世話だろうが。

ゲンゴロウブナの産卵地として知られる貫川内湖

 琵琶湖周辺には「内湖」と呼ばれる小さな池がたくさんある。かつては琵琶湖に含まれていたのだろうが、本湖の水量が低下しつつあるために分離されてしまい、今では水路で本湖と繋がっている状態だ。

 ゲンゴロウブナは琵琶湖の固有種で、その養殖個体が「ヘラブナ」として各地域の釣り堀、釣り池、溜池などに供給されている。この貫川内湖はヘラブナの原種であるゲンゴロウブナの産卵地として知られている貴重な池なのだ。

◎賤ケ岳の麓を訪ねる

賤ケ岳の麓にあった禅寺

 羽柴秀吉柴田勝家との戦い場としてよく知られる賤ヶ岳(しずがたけ、合戦は1583年)は『琵琶湖八景』のひとつに数えられているぐらいなので山頂からの眺望は良さそうだし、麓からはリフトが出ているので登るのは楽そうだし、と考えて出掛けていった。が、生憎の小雨混じりのために良い景観には触れられそうになかったのでリフト利用は断念し、代わりに麓の木之本町を少しだけ散策した。

 写真の西光禅寺には人気はまったくなかったが、建物は立派そうだったので撮影だけをおこなった。

琵琶湖と余呉湖との間にある賤ケ岳

 麓の集落には思いのほか家々が立て込んでいて、賤ヶ岳の姿は左手の家のアンテナの上方あたりに微かに見えるだけだった。標高421mの低山なので、それほど目立つ山ではないのだ。「合戦」があったからこそ、その名が記憶され、また難読漢字であっても多くの人が読めるのだろう。

賤ケ岳麓の集落には立派な家屋が立ち並ぶ

 それにしても、この集落には写真からも分かるとおり立派な家屋がやたらと目につく。これらが我が府中市にあれば「豪邸」と呼ばれてもおかしくないほど、一軒一軒の規模は大きい。

 とはいえ、この集落を30分ほどうろついたのだが、観光客らしき人に会っただけで、住民と思しき人にはまったく出会わなかった。

余呉湖をうろつく

和歌と羽衣伝説で知られる余呉湖(よごこ、よごのうみ)

 余呉湖の近くは何度も通っているが、湖そのものに触れたのは今回が初めて。余呉湖と琵琶湖との間に賤ヶ岳があることから、「賤ヶ岳の戦い」の関連で余呉湖を知っている人が多いと思う。が、和歌や俳句や羽衣伝説などで知っていたり、この湖の成り立ちの歴史、あるいは「鏡湖」という別名を有していて「写真映え」のする湖として認識されている場合もある。

余呉の海の 君を見しまに 引く網の 目にも懸からぬ あぢのむらまけ(西行

稲掛けの とるや芒の 余呉の海(秋櫻子)

余呉の海はヘラブナ釣りが盛ん

 余呉湖と琵琶湖とはこの湖にしか存在しない「固有種」が多いことでも知られているが、その理由は明確で、約3万年前まではこの湖と琵琶湖とは繋がっていたからである。現在は琵琶湖とは49mの落差があり、その間には賤ヶ岳(写真ではヘラブナ釣り師の傘の真上の山)があるために、琵琶湖と余呉湖が一体だったとは信じにくいかもしれない。

 が、そもそも琵琶湖の原型は、約400万年前に起きた断層のずれに水が溜まったのが始まりで、しかもその場所は現在の三重県伊賀市伊賀忍者、もしくは松尾芭蕉の生誕地として有名)だったのである。それが次第に北上しながら拡がりをもつようになり、現在の位置に固定されたのは約40万年前のことなのである。こうした古代湖としての成り立ちが「固有種」を生んだのである。

 そうした大地の躍動を考えると、賤ヶ岳のわずか421mの出っ張りや、琵琶湖との49mの落差など「誤差の範囲」程度しかないとも考えられる。

 それはともかく、この余呉湖にもゲンゴロウブナ由来のヘラブナが盛んに放流されており、写真のような水上の釣りデッキが設けられている。また、ワカサギ釣りも盛んなようだ。

鯉のアタリを信号で釣り人に伝える仕掛け

 陸からは、写真のような置き竿を数か所に配置してコイのアタリを待つ釣り人がいた。釣り人は車の中に待機し、アタリが出ると電気信号で釣り人のところまで情報が伝わる。私も一時期はコイ釣りにはまっていた(第26回参照)こともあって、こちらの仕掛けに俄然、興味がわいた。しかし、コイ釣りは典型的な「待ちの釣り」なので、実際に釣り上げる場面に遭遇できることは滅多にない。

ここには大鯉(80センチ以上)が当たり前の存在

 私がブルーギルを狙っている中学生と話をしているとき、件のコイの釣り竿が大きく曲がっていた。急いでその場所に駆け寄ったところ、獲物のすでに巨大な玉網(三角状)の中にあった。

 サイズは80センチ弱といったところ。釣り人によれば、このサイズは余呉湖では標準的なもので、狙っているのはあくまでも1mクラスであるらしい。もっとも釣りの場合、大きい魚だけを釣るというのは不可能に近く、結局、数を釣り上げる中で大型に出会う機会を増やすということしかない。

 こちらとしては大きなコイの姿を確認したということで十分に満足したので、この場を離れ、余呉湖を周回する道路を経て次の目的にへと向かった。

◎浅井氏の故郷を訪ねる

麓から山城がある小谷山を望む

 余呉湖を離れ、国道365号線を南下して「小谷城」方面に向かった。雨模様だったため(言い訳で、本当は疲れ切っていたから)に小谷城に上ることは断念し、代わりに、『小谷城戦国歴史資料館』に立ち寄った。

 小谷城は小谷山(標高495m)の南の尾根筋に築かれた山城で、1523,4年頃、浅井亮政が初代城主であり、久政、長政の3代が城主だった。日本の山城としてはもっともよく知られており、上杉謙信の居城として知られている春日山城などとともに「日本五大山城」に選ばれている。

小雨混じりだったので、今回は資料館をのぞくだけ

 歴史資料館には興味深い資料がまずまず集められてはいたが、館内はすべて撮影禁止だったため、外観しか写すことはできなかった。

 浅井長政は信長の妹の「お市の方」を継室として迎え、信長とは良好な関係にあったが、浅井は信長と敵対する朝倉義景と同盟関係を結んだために関係は悪化した。

 1570年の姉川の戦いでは信長、秀吉、家康VS朝倉、浅井の図式となり、信長勢の勝利に終わったが、堅牢強固であった小谷城は死守した。

小谷城の魅力をアピール

 しかし1573年、小谷城は信長によって落城し、長政は自害した。お市の方はその後、柴田勝家正室になった。

 小谷城は秀吉が受け継いだが、いささか交通の便が悪い場所にあるため、75年に秀吉は長浜(当時は今浜)に移り、小谷城は廃城となった。

 そうした「悲劇の城」的な要素があるため、この歴史資料館では、写真のような幟を掲げ、小谷城の魅力を大々的にアピールしている。 

◎五先賢の館~予想もしなかった偶然の出会い

五先賢の館

 旧浅井町(現在は長浜市)では日本の歴史上で優れた人物を5人も輩出している。この館の存在を知ったときには2人の人物しか知らない(覚えていない)状態であったが、ここを訪ねて様々な資料に触れたことで、残りの3人の業績と人物名が結びついた。日本史の入試では、この5人はすべて押さえておくべき必須の人物である。「相応和尚」「海北友松」「片桐且元」「小堀遠州」「小野湖山」の5賢人だ。

 地元の小学校では、この5人の業績を頭と体でしっかり学ぶそうだ。こうした下積みがいずれ、この地区から6人目の賢人を生むはずだ。

 ちなみに、我が府中市はゼロ先賢である。

庭園に入るための編み笠門

 五先賢の中でもっともよく知られているのが小堀遠州(1579~1647)であろう。

 茶人としては千利休古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、将軍家の茶道指南役でもあった。彼の茶道は「わび・さび」の世界に加え、美しさ、明るさ、豊かさを表現しているところから「綺麗さびの世界」と称されている。

 また、造園家としても超一流で、桂離宮大徳寺南禅寺などの庭園を作り出している。また、私の大好きな「水琴窟」の原点である「洞水門」も彼の発明である。

遠州流庭園

 さらに幕府の作事奉行としても活躍し、駿河城、二条城、名古屋城の修築なども手掛けている。

 私は庭園を見てもその良さを理解することはまったくできないが、それでも一流の庭師が手掛けた庭に接すると、心の底から安らぎを覚えるのは確かである。

 写真の庭園は「五先賢の館」のもので、遠州流の庭を再現している。

 当初は「五先賢の館」が存在することすら知らなかったが、小谷城跡に上がらなかった代案を探していたときに、地図上からこの館があることを知った。期待感はまったくなかったが、意に反して、数多くの発見を得たことは望外の喜びであった。

 「見たいものしか見ない」という姿勢を維持していたら、この館には訪れなかったはずだ。また、小谷城を訪れていたらここに立ち寄るという気持ちどころが、存在を知らぬままに生涯を終えてことは確実だ。

 小雨に大感謝である。

◎大収穫の西野水道

2代目の西野水道(放水路)は現在、琵琶湖東岸への連絡通路

 五先賢の館に大満足した私は、次の目的地である「西野水道」に足を運んだ。この水道(放水路)は3本あり、現在は3代目(1980年完成)が放水路として利用され、2代目(1950年完成)は遊歩道として、初代(1845年完成)は歴史的建造物として保存されている。

放水路の先には湿地帯が広がる

 放水路建造の目的は周辺地域の度重なる洪水被害を防ぐためであった。この地の寺の住職であった西野恵荘の発案で彦根藩の協力を得て計画が進められたが、地盤の関係で難工事が続き220mの放水路が完成するまでには発案から約10年の歳月を必要とした。

 1938年には新たな放水路建設が着手されたが戦争によって中断され、46年に工事が再開され50年に完成した。その後、しばらくは初代と二代目の2本が併用されたが初代の老朽化が激しいために3代目の建設が進められ、80年に完成した。この結果、2代目は琵琶湖への連絡通路(遊歩道)に用いられることになった。

放水路のはるか先には竹生島が浮かぶ

 放水路からは水だけでなく多くの土砂も運ばれるため、放出口周辺には広大な湿地帯が形成されている。なお、この湿地帯には散策路が整備されている。

放水路の出口では小鮎釣りが盛ん

 3代目の放水路の出口側(琵琶湖側)では幾人かが遡上を試みる小鮎を狙って釣りをしていた。サビキ仕掛けのような道具立てで小さな鮎をコンスタントに釣り上げていた。遡上前の鮎は動物食なのでそうした仕掛けでも狙うことができる。これが川に遡上すると食性が変わり、今度は藻を主食とするようになるので、サビキ仕掛けや餌釣りでは狙えなくなる。

 琵琶湖の鮎は減少しつつあると聞いていたが、ここでの釣りを見ている範囲では、まだまだ相当数の個体が残っているようだ。

この急流を小鮎たちは上ってゆく

 放水路を入口の上部に架かる橋の上からのぞいてみた。写真でも分かるとおり、流れはかなり急であり、しかも休息を取れるような大きな石の裏側は存在しない。私が見ている範囲では遡上する小鮎は皆無であったが、たまたま通り過ぎた地元の人に尋ねてみると、結構な数の小鮎(5センチ前後)が群れを成して上っていくのをよく見掛けるとのことだった。数日前にも見たと話してくれた。

 その話を聞いて、私は中島みゆきの名作『ファイト!』の詞を、思わず口ずさんでしまった。

流れの中で小鮎の姿を探したのだが……

 急流の中にはいなくともトンネルを抜け出てやや流れの緩やかになった場所ならば鮎の姿には触れられるだろうと思って放水路脇の道をうろついてみたのだが、残念ながら見出すことはできなかった。見つけたところで、それがどうなんだと問われれば返す言葉はそれほど見つからないが、しいて言えば、これが”釣り人の性”なのだということを強調しておきたい。

田んぼではサギも鮎を探していた

 立派な放水路が完成したお陰で水の管理はまずまず行き届いているようだった。余呉川が造りだした耕作地は思いのほか広く、この田畑が多くの恵みを生み、それが木之本で見た立派な家屋に繋がっているのかもしれない、などと考えた次第である。

 写真にあるサギは私と同様に小魚を探しているのだろうが、探すという行為は同一であってもその目的はまったく異なる。

◎尾上港と琵琶湖東岸

尾上港と竹生島

 この日の宿泊地は長浜市内なので、西野放水路からはそう遠くない。ということで、琵琶湖東岸をやや時間を掛けて探索することにした。

 県道44号線を湖に沿って移動すると、湖の漁港とは思えないほど広々とした港が目に入ったので立ち寄ってみることにした。

岸壁からブルーギルや小鮎を狙う

 長めの岸壁では多くの釣り人が竿を出していた。大半の人は「ブルーギル」を狙っているようだった。たまたまこの日は、琵琶湖全体を挙げて「ブルーギル退治」のための釣り大会が開かれていた。そのこともあってか、小雨の中でもこうして大勢の人が集まって来たようだった。

 湖の中を覗いてみた。水がやや濁っているので写真にはっきり映し出すことはできなかったが、10センチ前後の鮎が大きな群れをつくって泳いでおり、また集団でコンクリート底に付着した藻を食む姿も見て取れた。

 河川に遡上しそこなった鮎はここで一生を終えるのかもしれない。といっても、鮎は「年魚」なので、僅か一年足らずで寿命を終えるのだが。

湖上でブラックバスを狙う

 湖上には数隻のボートが出ており、ルアーフィッシングを楽しむ人々の姿もあった。こちらは、大型のブラックバスを狙っているようだった。

 港内を覗いたとき、かなり大きなブラックバス(50センチ以上)が岸のすぐ近くにまで寄っていた。このブラックバスブルーギルが増殖してしまったため、固有種の多い琵琶湖の生態系は大きく変わってしまった。

 変えることは容易だが、復帰するためには長い年月と多大な苦労が必要となる。これは何も琵琶湖の生態系に限ったことではないが。

◎湿地帯を見学する 

湖北野鳥センター前の湿地

 琵琶湖は「ラムサール条約登録湿地」であるため、湿地帯の保全には十分な努力を払っている。今回、特に私の目を惹いたのは、湖北野鳥センター前から「道の駅・みずどりステーション」前の湿地帯だ。

 ここには余呉川本流が流れ込んでいるため、川が運んできた大量の土砂が低湿地を形成し、写真のように至るところに露出した砂州があり、そこに樹木も多く生長している。

ラムサール条約登録湿地は水鳥の楽園

 こうした湿地帯には緑が多いだけでなく、水鳥たちの格好の住処になっている。

余呉川は湖岸に多くの砂州を生み出す

 写真からは少し分かりにくいが、余呉川の河口からは結構な長さの砂州が伸びていた。こうした場所に近づくことはできないが、そのことが琵琶湖の環境保全に役立っているのだろう。

長浜市街を少しだけ散策

秀吉が築城した長浜城豊公園より

 1575年、長浜は羽柴秀吉小谷城から今浜の地に城を築いて以来、城下町として発展した。その後は大通寺の門前町や北国街道の要衝として栄えた。

 写真の豊公園は、長浜城の跡地を整備したもので、再現された天守閣は歴史博物館として利用されている。

通りには老舗の商家が立ち並ぶ

 門前町として栄えた長浜市街地には、写真のような歴史を感じされる商家が立ち並んでいる。その古い町並みはよく保存されているので、ぶらりと散策するには絶好の場所だ。もっとも私の場合は、体力と気力、それに次の予定のためにほんの少しだけ見物したにすぎないが。

火縄銃の町だった長浜は金物の町

 長浜は銃の生産地としてよく知られ、日本では堺、根来(ねごろ)とともに三大火縄銃生産地であった。今回は後述する「バイカモ見物」に時間を割きたかったので立ち寄らなかったが、「国友鉄砲ミュージアム」はお勧めの場所である。

 こうした歴史があることから、長浜では写真のような金物店もよく残っている。

長浜でも鯖は売り物のひとつ

 長浜は北国街道の要衝であったことから、北陸地方の産物もよく流通していた。その影響からか、写真のような「鯖」を売り物にする店も目についた。

北国街道沿いにある長浜名門の安藤家

 安藤家は室町時代からこの地に住んでいた旧家で、賤ヶ岳の合戦では秀吉軍に協力した。そのこともあって、長浜の自治を司る「十人衆」にも選ばれている。

 明治以降は近江商人との婚姻関係を結んだことで商人となり、主に東北地方を商圏とした。

 写真の住宅の内部は贅を尽くした装飾が、北大路魯山人の手によって施され、庭園も見事なものだが、残念ながら現在は休館中である。

◎清流(地蔵川)とバイカモを求めて醒井(さめがい)宿に立ち寄る

中山道醒井宿といえばバイカモの里

 中山道の宿場町として栄えた醒井(さめがい)は米原関ヶ原の間にあって、私は時間がある時はよく高速道を米原インターで降りてこの町に立ち寄った。写真にある通り、ここは「居醒の清水」や「バイカモの里」として魅力的な場所だからだ。

駅横のトイレの壁には

 JR東海道本線の醒井駅の南口に有料駐車場があるので毎度、ここに車をとめて町中を散策する。駅前のトイレに立ち寄ったところ、巣立ち前のツバメが私を見て少し警戒していた。

醒井小学校の玄関口

 立派な玄関口を有した建物があった。ここはかつての小学校の玄関口だったとのこと。

醒井と言えば居醒の清水

 『古事記』や『日本書紀』に登場するほど、この場所の清水があまりにも有名なことから、古い建物の壁にも「水」の文字が誇らしげに掲げられていた。

醒井宿は中山道61番目の宿場

 宿場町としてはそれほど規模が大きくないが、何しろ、ここを流れる「地蔵川」が魅力的なのである。

三島の項でもお馴染みのバイカモ

 本ブログでは第68回で三島の清水を紹介したときに「バイカモ」について触れているが、私がこの「バイカモ」の魅力に取りつかれたのは、ここ醒井を流れる地蔵川に触れてからのことである。

バイカモユキノシタとの共演

 バイカモ(梅花藻)はキンポウゲ科キンポウゲ属の多年草で冷水を好む。適水温は15度前後とされている。したがって温暖な地域では湧水のある場所でしか育たない。また、流れのない場所では生育しないため、水槽で育てることはまず無理だ。

 醒井地蔵川では石垣にユキノシタを植えている。この花は半日蔭から日陰の湿地を好むため、バイカモとは相性が良い。

バイカモマツバギクとの共演

 日当たりの良い場所では、写真のようにマツバギクとの共演が見られた。

流れの強い場所では水中花も

 1~2ミリ程度のウメに良く似た花を咲かせるので「梅花藻」と名付けられたが、「ウメバチモ」の別名もある。

 基本的には花は水上で開くが、流れがやや強い場所では水中花になる場合もある。

流れのやや弱い場所では水上花

 写真の場所のように、流れがやや弱い場所では水上花を開く。

小さいけれど可憐なウメの花

 茎は「キンギョモ」のような姿で、長いものでは2m以上にもなる。地蔵川では5月中旬から9月下旬が開花期。今季はやや開花が遅れているとのことだったが、満開に近い場所も少しあった。

地蔵寺の下から湧出するので地蔵川

 地蔵川の湧出点の上には地蔵寺がある。それだから地蔵川と名付けられたのかも。湧水点の周囲にも数多くのユキノシタが咲いていて、極めて優美な姿を私たちに披露してくれている。

地蔵川絶滅危惧種ハリヨの保護区でもある

 写真のように、地蔵川バイカモだけでなく、ハリヨという魚の生息地保護区としても知られている。ハリヨはトゲウオ科イトヨ属の魚で体長は5~7センチ、適水温は10~18度で、20度を超えると生息できないとされる。

 日本の固有種とも言われ、滋賀県岐阜県の湧水域にしか生息していない。以前は三重県にもいたらしいが現在は絶滅している。

 地蔵川の水温は年間ほぼ14度に保たれているため、ハリヨにとっては絶好の生息地なのだ。

湧水点は数多くある

 湧水点は地蔵寺下だけではなく、川の左岸、つまり山側の隙間から数多くの湧き間が存在している。

中山道東名高速

 写真の場所は、地蔵川沿いの整備された散策路からは少し離れた場所にあるところ。左手の護岸の上にあるのは東名高速だ。

 道は旧中山道であり、本来はそこまで行くつもりはなかったのだが、「西行水」という看板が出ていたので行ってみることにした。「西行」の名を見ればどうしても行く必然性が私にはあるのだ。

宿場の外れにあった「西行水」の名の湧水点

 ここにも湧き間が数か所ある。

ここも湧出量は豊富

 やはり地蔵寺下と同じように湧出量は豊富で、かつ、ユキノシタとのコラボも同じである。この西行水の流れは地蔵川に加わっていく。

観光ルートを外れてもバイカモは豊かに育っている

 西行水の場所から旧中山道を今少し進むと、再び、地蔵川の流れに出会う。ここには遊歩道などは整備されておらず、観光客の姿はまったくなかった。もはや観光ルートからは離れてしまっていた。

 そんな場所にもかかわらず、水中には数多くのバイカモがあって気持ち良さそうに流れに身を任せていた。

 それほどまでに、地蔵川は豊かさを纏っているのである。

     *   *   *

 若狭湾・山陰の旅の終わりには琵琶湖、それに近江の旅の最後には必ず立ち寄る醒井宿のバイカモ見物をおこなった。当初は京都に寄る予定だったが週末に当たってしまったためにルートを変更し、さらにいささか歩き過ぎたので日数を短縮した。

 琵琶湖周辺では天気に恵まれなかったが、それでも収穫は多かった。一方、若狭・山陰では新発見や新体験がいくつかあったものの、かつての魅力がどんどんと薄れてしまっていた残念な場所も多々あった。

 まだまだ行ってみたい場所は無数にあるが、時間(命)には限りがあるので、これからは出掛ける場所を精選する必要がある。もっとも、無計画に出掛けたときに思わぬ大発見があることも少なくない。誠に悩ましいアポリア(難題)である。