◎備中高梁に向かう
津和野を離れ、私は高梁市を目指した。高梁市の成羽町には写真の「高梁市成羽美術館」があるからだ。もっともそれは高梁市街からは西に8キロほど離れた場所にある。成羽町(旧川上郡下川原村)は画家の児島虎次郎が生まれ育った場所である。
児島虎次郎については本ブログの第92回で大原美術館のところで触れている。大塚国際美術館で初めて絵画の素晴らしさを知った私は、その後、数回は美術館に出掛けたり、図書館で美術書をめくってみたりしたが、あの『エデンの園』のような絵と出会うことはなかった。それが、大原美術館で児島虎次郎の絵を知って、『エデンの園』に近いほどの衝撃を受けた。それゆえ、山陽路の旅の帰りには児島の生誕地にある美術館に立ち寄ることを決めていたのだった。
想像していたよりもはるかに立派な建物に驚かされたが、郷土が生んだ名士のひとりである児島の故郷なのだから、これくらいの美術館があっても当然かと思え、さらに、児島の絵の価値を考えれば、もっと豪華であっても妥当性はあるだろうとも思った。
この建物は第三代目とのことで、安藤忠雄が設計したいかにも現代風の建造物であった。常設されているのは児島虎次郎の作品と児島が蒐集した古代オリエントなどの考古学的博物品、それに毎回テーマを決めて一定期間展示する作品展などからなっている。
ここでも作品展にはさしたる興味は生じなかったが、やはり児島の作品には大いに感銘を受けた。ただ、大原美術館に展示されているもののほうが個人的には惹かれるものが多かったのも事実だった。それでも、彼の作品群に触れられたことで、ここに来た甲斐は十分にあった。
残念ながら大原美術館でもここでも作品の撮影は禁じられているため、本項で紹介することはできない。
高梁市は備中松山藩の中心地で、備中松山城は「天空の城」のひとつとしてよく知られており、古い町並みもよく保存されているので、訪れる人は多い。
私がこの町を訪ねたのは、前述の成羽美術館で児島の作品に出会うことと、江戸末期の藩政改革者として名高い山田方谷(ほうこく)の業績を改めて認識することが主目的ではあったが、『男はつらいよ』のロケ地でもあったということも理由のひとつに挙げることができる。
備中松山城は標高487mの臥牛山の山裾(標高430m付近)にあることから、武家屋敷は麓の標高70m付近に集まり、今も写真の武家屋敷通り界隈にはその風情が強く残っている。
頼久寺の開基は不明だが、1339年に足利尊氏が全国に建立した安国寺のひとつだと考えられている。1504年に備中松山城主となった上野頼久が寺院の並びを一新し、頼久の死後、その名をとって頼久寺と改められたとのこと。
備中松山の地は関ヶ原の戦いで家康側についた小堀家が継ぐことになり、2代目の小堀政一が荒れ果てた松山城を再建するとともに、政務はこの頼久寺で執った。その際、作庭家でもあった政一は庭園を現在の形に整備した。
この小堀政一はのちに小堀遠州と呼ばれるようになった。駿府城の普請奉行であり、名古屋城の天守を整備した建築家でもあり、小堀流と呼ばれる流派を生み出した茶道家としてもよく知られた存在である。
本ブログでは、第79回に琵琶湖周辺を紹介した際に、「五先賢の館」の項でこの小堀遠州について触れている。
写真は、小堀遠州が1605年頃に頼久寺の庭園として整備し、現在では国の名勝に指定されている「禅院式枯山水蓬莱庭園」の姿の一部である。背後にある愛宕山(標高427m)を借景とし、作庭の基本である石の配置が素敵で、手前の砂の波紋は大海を見事に表現している。
遠州の庭としては初期の作品ではあるが、写真の「鶴石」や周囲の「亀石」などを、さほど広くない敷地に適度に配置し、あたかも広い海の中に大小の島々が浮かぶ壮大な世界が現前しているように形作っており、見る者の想像力を豊かにしてくれる庭ではあった。
頼久寺の近くには、写真の「岡村邸」の立派な門があった。この屋敷の佇まいは山田洋次監督もおおいに気に入ったようで、『男はつらいよ』シリーズに2回も登場させている。
私は、すぐに尻が痛くなること、じっとスクリーンを見ていることができないため、映画館で映画を見ることはあまりしなかったが、『男はつらいよ』だけは別で、おそらく百回以上は見ている。
初めて『寅さん』を見たのはまったくの偶然で、浅草の劇場でおこなわれた『藤圭子ショー』の前座で第5作目の『望郷編』が放映されたことによる。初めはなんでこんなものを見なければならないのかと少々憤慨したが、じきにストーリーと映像美に引き込まれ、藤圭子の歌に比肩できるくらい感動したのだった。
ちなみに、藤圭子は私が今までの人生で唯一、自分の部屋にポスターを貼ったことのある人物だ。彼女以外、現在に至るまで、ポスターというものは貼ったことがなく、壁にあるのはカレンダーだけだった。当時、多くの友人は麻田奈美の『りんごヌード』を誇らしげに飾っていたものだが。
ともあれ、『男はつらいよ』に嵌ってしまったことがその後の私の人生を決定づけてしまったようで、未だに私がフーテン暮らしをしているのは、寅さんの影響が極めて大だからだ。
件の岡村邸は、さくらの旦那である「ひろし(諏訪博)」の実家として第八作と第三十二作に登場している。第八作で「高梁」の存在を知った私は「いつかは高梁へ」という思いをずっと抱き続けていながら、実際に訪れたのは今回が初めてであった。
◎紺屋川通りを歩く
頼久寺通りは紺屋川と交差するのだが、その直前に写真の「頼久寺町橋りょう」があったことから、その下をくぐって通りから離れ、紺屋川沿いにある紺屋川通りを散策することにした。
紺屋川通りにはJR伯備線の踏切があった。踏切前には腰を下ろしたり、立ったままで列車の通過を見ていると思しき人が数人いたが、実際には、皆は列車を見ている訳ではなく、橋の下を流れる川の中で魚取りをしている子供たちの様子を伺っているようだった。列車好きで川好き、魚好きの私にはどれにも興味・関心があったものの、列車の本数は少なそうなので、ここでは列車の存在を優先させた。
通りには、かなり歴史がありそうな教会があった。由緒書によれば、岡山県ではもっとも古い教会堂で、プロテスタントの教会堂としては同志社のチャペルについで日本では二番目に古いそうだ。
1879年に高梁ではキリスト教が宣教され、翌年に新島襄がこの地を訪れたことで活動が一気に広まり、82年に高梁基督教会が創立され、89年に写真の教会堂が建設された。現在は岡山県指定史跡に認定されている歴史のある建造物である。信仰心のない私だが、建物の歴史的価値は実感できる。
紺屋川は写真のように、踏切地点からゆっくりと町中に下っていく。通りは川の左右にあり、ところどころに桜や柳が植えられ、また弁財天が祀られている。川は高梁川に注ぐが、通り一帯は「美観地区」に指定されており、古い町並みや適度な自然が残され、心休まる景観に触れることができる。
町並み美観地区には、写真の「高梁分団第一部・消防器庫」の建物があった。造りからして、かつては商家だったと思われるが当初、私は郵便局か何かに用いられているものだと思った。しかし、建物の上部に「高梁分団第一部・消防器庫」と記してあり、確かにすぐ横には「火の見やぐら」と「半鐘」があった。
消防器具を保管する場所には似つかわしくない建物ではあるが、このミスマッチともいうべき存在が、また備中高梁の歴史を物語っているのだと考えると、意外にも得心がゆくものがあった。
すぐ隣には、現在は幼稚園として使用されている藩校「有終館」跡の敷地があった。幼稚園ということでのぞき見する訳にはいかないが、開放されていないところをみると、門回り以外にはもはや往時を知るものは残っていないのだろう。
◎山田方谷の業績を深く知る
高梁市が生んだ、もしくは深く関係する著名人と言えば、平松政次、水野晴郎、米川正夫、団藤重光、三島中洲、板倉勝静、小堀遠州、木口小平、鶴見祐輔などが挙げられるが、絶対に忘れてはならない人物と言えば、児島虎次郎と山田方谷であろう。児島虎次郎についてはすでに触れているので、ここでは山田方谷について少しだけ述べてみたい。
山田方谷(ほうこく)の存在を知った(記憶に残った)のは今から十数年前だが、かの上杉鷹山をしのぐ藩政改革者として一部で評価されているというだけで、彼が備中松山藩の人であったことはすっかり忘れていた。それが今回、高梁市に立ち寄ることを決めてから、少しだけこの地のことを調べてみたとき、山田方谷がとてつもない傑物であったということが分かり、彼について書かれている本を何冊か読んで見た。
さらに、高梁市には「山田方谷記念館」があることを知り、必ず訪ねてみようという思いに至ったのである。
藩の財政改革者と言えば、米沢藩の上杉鷹山がよく知られ、内村鑑三の『代表的日本人』にも西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人とともに取り上げられている。鷹山は20万両あった藩の借財を減らすために諸々の改革をおこない、その政策は後の藩主にも受け継がれ、100年後には5000両の黒字に転換させた。
が、米沢藩よりもはるかに小さな備中松山藩は石高が5万石とされていたが実際には2万石以下の収入しかなかった。そのため借財は10万両にも上っていた。藩主が板倉勝静(のちの老中首座)になると、彼は山田方谷を登用し藩財政の元締役に任じた。その結果、僅か8年で借財をすべて返済したどころか、10万両の蓄財を達成した。鷹山を遥かに上回る実績を短期間で達成した奇跡の人であった。
司馬遼太郎が、方谷に弟子入りし長岡藩で活躍した河井継之助を主人公にした『峠』という作品の取材のために高梁市を訪れた際、当地の人から山田方谷を主人公にしたらどうかと勧められたとき、「山田方谷は偉すぎる」といったという逸話が残っている。ほとんど欠点らしいものがない傑物は小説の主人公にするには面白みが欠けるのかもしれない。それほど、彼は偉業を成し遂げているのである。
記念館前だけでなく、至る所に写真の幟が掲げられていた。「方谷さんを大河ドラマに!」という願いは高梁市民だけでなく、彼の業績を知るものにはそうした思いを強く抱いているかもしれない。残した業績に比して、あまりにも知名度は低いからだろう。
もっとも、昨今の大河ドラマは、脚本も演技も小学生レベルの内容なので(こう言ったら小学生に叱られるかも)、とても方谷さんの真髄を表現することはできないだろう。稀代の歴史小説家である司馬遼太郎さえ作品化には二の足を踏んだのだから。
山田方谷(安五郎、1805~77)は農業兼菜種油商の長男として生まれる。神童と言われ、僅か4歳で新見藩儒の丸川松隠の門に入り、5歳のときに新見藩主の前で揮毫を披露した。が、母親や父親が相次いで亡くなると実家を継ぐことになり、油商に励んだ。
が、方谷の学問の才が認められ、備中松山藩主の板倉勝職(かつつね)から二人扶持を賜り、藩校の有終館での修行を許され、4年後には会頭(教授)に就任した。
1833年に王陽明の『伝習録』を読み陽明学を本格的に学習し、翌年には江戸遊学が許され、昌平黌の塾長であった佐藤一斎の私塾に入り、佐久間象山と日夜、議論を戦わした。話によれば、方谷は象山との論争には一度も負けたことがなかったという。
36年に帰藩し、有終館の会頭に任じられ、38年には自分の邸宅に私塾の牛麓舎を開いた。身分に関係なく、学問を志す者はだれでも受け入れた。門下生には後に二松学舎大学を開き、宮中顧問官にも任じられた三島中洲がいた。
彼の藩政改革は49年に板倉勝静(かつきよ)が藩主を継いだことによって始まる。勝静は養子で、松平定信(寛政の改革で知られる)の子孫であった。方谷は元締役に任じられ、50年から数々の改革をおこなった。
倹約令や財政の公開、信用を失っていた藩札を焼き捨てて新藩札(永銭)を発行、新田開発などをおこなった。が、もっともよく知られており、かつ、藩の財政を豊かにしたのは「殖産興業」であった。
この地には鉄や銅が多く産出されたため、製鉄業や製銅業(刃物、鍋、釜、鋤、鍬、千歯コキ、釘などの商品化)を大々的におこない、併せて植林、茶やたばこの生産などを進めた。さらに、こうした産品は高梁川の流れを利用して、高瀬舟で玉島港まで送り、加えて大型船を購入して直接、江戸まで輸送した。
また、軍制改革(農兵制の整備)も忘れてはならない。農閑期には若い農民を集めて射撃訓練をおこない、主に辺境防衛にあたらせた。おりしも、長州から久坂玄瑞が訪れていたが、この様子を見て驚愕したという。のちの高杉晋作が奇兵隊を組織したが、それは方谷がおこなった農兵制がモデルだとも言われている。
方谷の生き様は一言で表すとすれば『至誠惻怛(しせいそくだつ)』であった。分かりやすく表現するなら、真心と慈愛である。また彼は『中庸』の言葉を引用し、「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」や「天人の理をきわめ、性命の源に達し、大賢君子の境地にまで上る」という言葉をよく用いていた。
ただ、山田方谷や板倉勝静にとって時代が彼らを翻弄した。板倉は譜代大名であったため、奏者番兼寺社奉行に任命された。が、まもなく井伊直弼による安政の大獄が始まり、板倉は方谷の助言を得て井伊のやり方を批判したために罷免された。
その後、井伊が暗殺されたことから寺社奉行に返り咲き、さらには老中に昇進した。が、彼の担当は「外国掛り」であり、自身は「佐幕攘夷論」を有していた。このため、戊辰戦争では幕府側として戦い、板倉は一旦捕虜になったものの旧幕軍が奪回して会津、さらに仙台、箱館(函館)に渡った。一部の備中松山藩士もこれに加わり土方歳三とともに新政府軍と戦った。方谷はこれをみて藩士を箱館に送り、板倉を救出した。留守を任された方谷は自分の判断で新政府軍に降伏し、藩の民衆の身を守った。
明治新政府は方谷の能力をよく知っていたことから大蔵大臣に推挙したがこれを固辞した。一方、岡山藩の池田家からは閑谷学校の再興を依頼され、これを引き受け、新たに閑谷精舎として再建を図った。彼にとっては地位や名誉はほんの些細なことで、大事なのは学問を身に付けること、すなわち自分自身を高めることであった。
◎高瀬川渓谷を少しだけ見学する
この日の宿は新見駅前のビジネスホテルを予約していた。国道180号線が高梁川に沿って走っており、この道を北上すると新見市街に達する。JR伯備線もほぼ並走している。高瀬川が下刻した谷筋を国道も鉄道も利用しているのだ。
途中に、写真にある「絹掛の滝」が見えた。国道沿いにあり、駐車場も整備されていたので、車をとめて立ち寄ってみることにした。
その名の通り、岩肌に絹を掛けたように見え、なかなか美しい姿をしている。落差は60mもあり、実際の姿は写真よりもはるかに見応えがある。
この辺りの高梁川は「井倉峡」と名付けられている。渓谷自体はそれほど迫力があるものではないが、この滝と、下に挙げる井倉洞は一見の価値は十分にある。
落差は60mと言ったが、よく見ると上部は段々になっており、「絹掛」に見える部分は50mの高低差である。
滝の下部には、写真のように「鯉」が滝のぼりを試みている。滝の大半はほぼ垂直なので、さしもの鯉も下部で固まっていた。現在では模造品にしか見えないが、かつては本当の鯉だったかも知れない。少なくとも、そうではないという証明は案外、難しい。
新見市井倉周辺には石灰岩から成る「阿哲台地」が広がっている。標高は400~500mの台地で、その間を高梁川が下刻している。石灰岩の元はサンゴ礁なので当然、かつては海底にあったものである。それらが隆起し、広大な石灰岩台地を形成した。
日本は鉱山資源に乏しいと考えられているが、セメントの原料になる石灰石は100%の自給率を誇っている。石灰石=セメントと連想するが、石灰石がもっとも用いられているのはセメントではなく、鉄鉱石の不純物を除去するための副原料として用いられることがもっとも多い。
高梁川右岸には、写真の蒸気機関車D51が展示されていた。1943年に製造されたもので、石灰石の運搬に用いられたのだろうが、塗装がなかなか洒落ていた。この車両はお召列車をけん引するためにも使われたため、特別な塗装が施されていたとのことだ。
高梁川が削り取った石灰岩の岩肌はなかなか見事なもので、この姿から私は、本ブログでも何度か取り上げている和歌山県南部を流れる古座川の一枚岩を思い出してしまった。古座川の方は比高が150mとも200mとも言われている。が、写真の地点の標高は135m、崖の天辺は390mなので比高は255mもある。高さはこちらの方が50m以上も高く、おそらく横幅も一枚岩よりずっと長いと思われる。ただし、「気品」という点では一枚岩の方が数段、優っていると思われた。岩は大きければそれだけで貴いというわけではない。これは岩や山だけに限ったことではないが。
こうした石灰岩の台地の中にあるものといえば、もちろん、鍾乳洞であろう。実際、ここには「井倉洞」と名付けられた鍾乳洞があった。ただ、私が訪れたときには入場可能な時間が過ぎていたので、その中を見て歩くことはできなかった。
今回の旅ではすでに秋芳洞を訪ねているので、ここの見物はパスしても良かったのだが、新見の宿でこの井倉洞について調べてみると、秋芳洞とはまた異なった特徴を有していることが判明したことから、翌朝に見学することを決めたのだった。
◎新見駅周辺を歩く
新見駅前のビジネスホテルを予約したのだったが夕食は頼んでいなかった。というより、夕食の支度はそもそもなかったのだった。そのため、新見駅周辺をうろつき、食事がとれる場所を探した。
駅前には小さなロータリーが整備されていたが、食事ができる場所がないばかりか、人影もまったくなかった。タクシーが一台だけ客待ちをしていたが、そもそも列車が来る気配もなかったため、その車もいつの間にか姿を消していた。
馬に乗った青年と腰掛けて書状をしたためている女性が、やや距離を取りながら対面している2つの像が置かれた広場(といってもさほど広くはないが)が駅舎のすぐ近くにあった。
「縁(えにし)の広場」と名付けられているくらいなので、馬上の青年と離れて対座している女性とは何らかの関係があるのだろう。
由緒書によれば、室町時代(15世紀頃)に新見には東寺の荘園があり、馬に乗った若者は直務代官として派遣された僧だとのこと。名は祐清(ゆうせい)。女性は「たまがき」と呼ばれ、祐清の身の回りの世話をしていた。
東寺の取り立てが厳しかったことから祐清は農民から反感をかっただけでなく、殺害されてしまったという。そこで彼女は、祐清が死んだこと、彼の遺品を形見として所有したいという旨の書状をしたためて東寺に送った。
15世紀の農民の女性が直接記した書状ということで、現在は「たまがき書状」として国宝に指定されているとのことだ。
相思相愛だったのか、彼女の一方的な想いだったのかは不明だが、何となく悲しさと寂しさとを感じさせる「物語」ではある。
駅前には夕食を探しに来たのだが、食事ができる場所はひとつもなかった。私と夕食には縁(えにし)はまったくないのかも。結局、数百メートル歩いて国道沿いにあったコンビニで弁当を購入した。これもなかなか侘びしさと寂しさを感じさせる話ではないか。
◎井倉洞~日本一高低差のある鍾乳洞
今回の旅で、鍾乳洞はすでに「秋芳洞」を見学済みなのだが、阿哲台地の地下にある「井倉洞」は長さこそ1200mと短いが、高低差は90mあり日本の鍾乳洞では一番だそうだ。
石灰岩の壁から流れ落ちている滝は、「クレオパトラのショーベン滝」=無名の滝ではなく、井倉滝という面白くもなんともない名前が付いているようだった。滝の高低差は70mなのでかなり立派ではあるものの、その居住まいは、いささか不自然さ感じさせなくもなかった。
受け付けは川の右岸側にあり、写真の橋の上にあった。河原には数人、観光客らしき姿があったが、鍾乳洞見学はわたしが本日の第一番目とのこと。受付のおばちゃんも相当に年季の入った姿をしていたが、私のやや(かなり)くたびれた姿を見て、「高低差があるので大変だ」とか「洞内には水の流れている場所が多いので滑りやすい」とか親切(お節介)にアドバイスしてくれた。誰もいない洞内で、徘徊老人が行倒れになってしまうことを危惧しているかのようだった。それでも私は、入場料1000円を払って橋を渡り、洞内へ進むことにした。
通路は想像していた以上に狭かった。が、そのことがかえって鍾乳石を間近に見られるため、決して苦にはならなかった。
炭酸カルシウムを含んだ水がやや多めに天井?から滴り落ちてくる。そのためもあってか、写真のような形容しがたい形の鍾乳石が至るところに存在するので興味は尽きない。
色が黒いのは乾燥が進んだためであろうか。ただ、天井の形も常に変化しているので、写真のように再び、水を浴びることになると、形状は数千年の時を経て変化してゆくのだろう。
秋吉洞には「大黒柱」と名付けられた「つらら石」と「石筍」とが繋がったものがあったが、こちらの大黒柱もしっかりと天井を支えていた。しかも、より力強く。
規模が小さいので、秋芳洞のような「百枚皿」はないが、写真のような小さな水溜まりにあちらこちらに点在していた。
こちらは極めて太った石筍で、「水衣」と名付けられていた。周辺の造形も間近でつぶさに観察できるので、こちらの鍾乳洞により親近感が湧いてきた。
写真は、鍾乳洞の天辺近くにあった池で、水の中からニョキニョキと石筍が顔を出している姿が興味深かった。
この先からは一気に出口まで下ってゆくことになる。見所がまったくない訳ではないけれど、上って来た場所に較べると興味深い場所は極めて少ない。
洞内は確かに狭いが、秋芳洞よりもはるかに変化に富んだ鍾乳石に触れることができるため、比高90mはさほど苦にはならなかった。
下りは写真のような床が続いていた。炭酸カルシウムが形成した細かな皺がとても面白く感じた。こうした細かく小さな皺であっても、ひとつひとつ、相当な年月を経て形成されているのだろう。
出口付近には写真のような小さな祠があった。こうした洞穴も相当な年月を経て形成されたのであろう。もはや成長する機会を失った、風化したつらら石が少しもの悲しさを感じさせた。
井倉滝の正体が判明した。川が岩を下刻して造った滝ではなく、洞内に溜まった水を洞外に排出しているのであって、それがあたかも滝のように見えるというのが実相だった。そうであるなら、井倉滝よりも私が命名した滝名の方がより実態にあっていると思える。ただし、そのままでは岡山県から許可はおりないだろうが。
* * *
山陽道、そして一部、山陰や中国山地内への寄り道の旅はここで終了した。もっとも、滋賀県の近江八幡市で一泊し、八幡堀や安土城跡などを見学したのだが、本項の趣旨とは大きく離れるので、それらは割愛した。
次回からは「みちのく一人旅」(仮題)となります。