徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔99〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(1)中尊寺から遠野まで

毛越寺にあった芭蕉の句碑

◎私を奥州路へと駆り立てるものとは

兵どもが夢の跡~衣川の戦いがおこなわれた場所

 磯釣りの取材が立て込んでいた十数年前まではよく東北地方に出掛けていた。それがある時期から四国が主体となり、少しづつ北へ足を向けることは少なくなった。

 それでも、2011年に東日本大震災が発生したときには慰問を含め年内に3度、東北の太平洋岸を訪れ、その後も数年間は復興の進展具合を見に出掛けていた。が、自分のイメージする復興のありかたとは随分異なっていることを知り、それとともに東北へ足を運ぶことはなくなってしまった。

 今回、14泊15日の予定で8年振りに東北旅行に出掛けたのは、その後の復興の姿を確認することだけでなく、取材の合間に出掛けた懐かしい場所、行きたい気持ちはあったけれど日程の関係でまだ足を踏み入れていなかった場所などを訪問したいという目的があったからである。

 今回の旅で、東北の良さを改めて認識したものの、その一方で、まだまだ未訪の場所が数えきれないほどあることが知らされ、もし私に「次」が残されているとするなら、今度はそうした場所を中心に旅をしたいと思ってしまった。それほど、東北は私の心を落ち着かせ、かつ心を掻き立ててしまうという相反する魅力に満ちた場所なのである。

 考えてみれば、私の最初の一人旅も東北を目指したものであった。15歳の6月、東北(秋田)を目指して上野駅に出掛け、とにかく最初来た列車に乗って、ただただ北に向かったのであった。その列車がどこを目指しているのか確認もせずに。

 15歳の私を東北に誘ったのは芭蕉の『おくのほそ道』を知ったからである。それゆえ、私の東北の旅では必ず、芭蕉に関係する場所が含まれていた。もちろん、今回もそれは変わらず、ところどころで芭蕉の姿が登場する。

 まず最初に立ち寄ったのは、『中尊寺』であった。

 「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。」

中尊寺~五月雨には会わなかったけれど

参道(月見坂)入口

 中尊寺に立ち寄るのはほとんどの場合、男鹿半島取材や下北、津軽半島取材・旅行の帰りであった。花巻市内か北上市内に宿を取り、朝食をとってから中尊寺毛越寺(もうつうじ)を見学し、そして帰途につくというのがいつものコースであった。

 震災の慰問の際は、いわき市小名浜から海岸線を北上し、国道6号線が使えなかったときは一旦中通に出て福島原発周辺を迂回し、相馬からまた海岸線を通り、仙台、石巻、南三陸気仙沼、大船渡、釜石、宮古、久慈、八戸と進み、それから南下して国道4号線、東北自動車道を使って花巻・北上に出て、やはり中尊寺毛越寺に立ち寄った。

 いずれにせよ、私にとって中尊寺毛越寺は、東北の旅の帰りにその場所とその空気に触れる安らぎの場所として存在した。もちろん、私はどの寺に行っても参拝はしないので、その場所で何かを願うなどということはまったくなく、あたかもそれが自然物として「そこにあった」かのごとくに、足を止め、その存在者が醸し出す空気に触れるだけであった。

 それが今回は、帰りは日本海ルートを使うことに決めていたため、東北自動車道に出るのは福島市からとなるので、岩手県南部にあるこれらの寺の近くを通ることはない。それゆえ、私にとっては異例ではあるが、最初の目的地としてこの二つの寺を選んだ次第であった。

杉並木が続く「月見坂」

 五月雨の 降り残してや 光堂

 中尊寺に訪れる人の大半は、金色堂がお目当てだろう。私も初めて金色に輝く存在を目にしたときにはしばし心を奪われたが、数分もたたないうちに熱は冷め、ただ絢爛豪華なだけの姿には感動を覚えることはなくなった。それでも、この寺を訪れた際、3回に1回はここを拝観するのは、芭蕉の気持ちを忖度するためであった。

 「七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。」

 芭蕉中尊寺を訪れたときには境内は荒れ果てていたようだ。ただ、金色堂(光堂)だけは覆堂に中にあったために風雨にはさらされず、なんとか輝きだけは失われていなかったのかもしれない。

 現在はよく整えられた杉木立のなかに月見坂(比高50m)があって、再建された多くの建造物を左右に見ながら金色堂のある覆堂までゆっくりと散策できる。 

弁慶堂

 月見坂を登って最初に見える建物が左手にある「弁慶堂」。参道沿いにある多くの建物は江戸時代の中期以降に再建されたもので、写真の弁慶堂も文政10(1827)年に建てられたものである。かつては愛宕堂と呼ばれていたが、義経や弁慶の木造が安置されていることから明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになったとのことである。

衣川方向を望む

 弁慶堂のほぼ向かいには展望広場があり、「東物見台」と名付けられている。写真はその物見台から衣川方向を眺めたものである。

地蔵堂

 次なる建物は「地蔵堂」で、1877年に再建されたとのこと。本尊はその名の通り地蔵菩薩である。隣には小さな祠があり、道祖神が祀られている。

不動堂

 本堂のほぼ向かい側にある「不動堂」は1977年に改築されたもの。本尊である不道明王は1684年、仙台藩主により天下泰平を祈願して贈られた。祈祷堂として、家内安全、病気平癒、交通安全、合格祈願などを願って祈祷する人が多いという。ただし、この日には参拝する人の姿は少なかった。

覆堂

 標高92m地点にあるのが写真の覆堂で、この中に金色堂がある。金色堂は撮影不可なので、ここに掲載することはできないが、大半の人は教科書や資料集、写真集などでその姿に触れていると思う。

 1124年、奥州藤原氏初代の清衡公によって上棟した金色堂は堂の内外に金箔を押し、巻柱、須弥壇、長押には夜光貝を用いた螺鈿細工、透かし彫り金具、漆蒔絵などの装飾も施されている。

 須弥壇の中の中央部に初代の清衡、向かって左に2代の基衡、右手に3代の秀衡の遺体が安置され、さらに4代の泰衡の首級も収められている。

 写真では見物客の姿は見えないが、堂内は観光客(修学旅行客や外国人観光客の姿が目立った)で満杯状態だった。確かに煌びやかだし、仏像の配置も見事というほかはないが、これが極楽浄土の世界であるなら、大半の人はすぐさま死んで、あの世とやらに行きたくなるのではないか。

 しかし、実際には覆堂の中で自死する人の姿はなかった。どうやら、ほとんどすべての人は信仰心からではなく興味本位で寺を訪れているのだろう。これでいいのだ。

経蔵

 覆堂(金色堂)の裏手にある建物。かつては螺鈿八角須弥壇が設置され本尊の文殊五尊像が安置されていた。また、国宝の紺紙金字一切経も置かれていたが、いずれも現在は宝物館(讃衡蔵)に保管されている。

 1122年に造営されたが14世紀に火災に遭い、その後に現在の形に再建された。現在の本尊は騎師文殊菩薩である。

 かつては金色堂と並んで中尊寺では最重要の建物であったと考えられるが、現在はかなり荒廃しており、その対比に歴史を感じさせられる。 

関山天満宮

 境内の最奥に鎮座するのが、写真の関山天満宮。関山とは中尊寺山号である。

 創建は鎌倉時代の末期で、菅原道真の後裔である五条為視が平泉に下向した際、乙王丸が生まれたことから北野天満宮から道真の分霊を勧請し、併せて本地仏の観世音菩薩を祀った。

 建物そのものは印象に残るほどのものではないが、写真から分かる通り、その高台に至る階段に長い歴史を認識することができた。

芭蕉像と『おくのほそ道』の一節

 私が中尊寺を訪れる切っ掛けとなったのは、もちろん芭蕉の『おくのほそ道』を読んだからである。金色堂の存在だけでは一度だけで十分なのだが、芭蕉が訪ねたということがあるからこそ何度も立ち寄っているのである。

 中尊寺もその点はすっかりお見通しのようで、写真のように芭蕉の像だけでなく、『おくのほそ道』の平泉の項の全文を碑に刻んでいる。それゆえ、「五月雨の」の句だけでなく「夏草や」の句、さらに曾良の句までも碑にはきちんと登場する。

 碑文はあまりにも達筆すぎて読むのは困難を伴うが、私は大抵、東北旅行の際には『おくのほそ道』の文庫本を携帯しているので、碑に刻まれた文を読まずとも芭蕉がこの地で抱いた感慨を知ることができるのだ。

旧覆堂

 金色堂の建立から50年ほど後に簡素な屋根が掛けられ、1288年に鎌倉幕府によって金色堂を完全に覆う「鞘堂=覆堂」が造営された。

 金色堂は昭和の大修理に伴い、先の写真に挙げたような立派な覆堂によって守られることになったが、かつては写真のような建物に守られていた。

 この旧覆堂は室町時代に完成したと考えられており、その頃の建築技術を知るうえで重要な建物であることから、現在の地に移築された。中は”がらんどう”なので立ち入ることも写真を撮ることもできる。

弁財天堂

 1716年に建立。弁財天と言えば「水の神」としてよく知られているとおり、周囲には池が配置されている。本尊は「弁財天十五童子」で、仙台藩主の正室である仙姫から寄進されたとのこと。その他、幟にあるように「千手観音菩薩二十八部衆」も安置されている。

阿弥陀堂

 1715年に再建された阿弥陀堂はその名の通り、本尊である阿弥陀如来が安置され、蔵王権現も合祀されている。さらに大黒天も安置され、堂は小さめながら内部は賑やかである。

峯薬師堂

 本尊の薬師如来は現在、宝物殿に安置されている。建物は別峯にあったが、1689年に本堂の隣に移設された。

境内にあった郵便ポスト

 月見坂の傍らには、写真の郵便ポストが置かれていた。世界遺産内にあるポストだけに、”World Heritage”の表記が誇らしげであった。

 もちろん、本堂にも立ち寄ったのだが、相変わらず参拝しないこと、人が大勢いたことなどもあって早々に撤退し、その代わりに写真のポストを眺めた。

◎高館にて衣川の戦いに思いを馳せる

高館から北上川を望む

 頼朝に追われた義経一行は奥州藤原氏三代目の秀衡に庇護されたが、秀衡の跡を継いだ四代目の泰衡は頼朝の圧迫により、この高館の地(北上川右岸)にいた義経一行を襲い、義経は自害、弁慶は仁王立ちのまま往生した。1189年のことであった。

義経

 後に仙台藩主第四代の伊達綱村義経を偲び、写真の義経堂を建て、義経の木造を安置した。

義経の供養塔

 また、高館の地には写真の供養塔も建てられていた。

 高館の地は結構狭いが、これは北上川が浸食したためで、かつてはそれなりの広さがあったらしい。たしかに、川はここで左にカーブしているため、浸食を受けやすい場所であったことは容易に想像できる。

芭蕉の句碑

 義経が自害した数か月後、藤原泰衡も郎党の河田次郎に殺害され、さらにその河田も頼朝の追手によって殺害された。

「さても、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。」と芭蕉は高館の地で記し、

 夏草や 兵どもが 夢の跡

 と詠み、同行した曾良も、

 卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな

 と詠んだ。奇しくも、義経が自害したときから丁度、500年目のことであった。

 「兵」とは義経、弁慶だけではなく、義経を比護した奥州藤原氏、さらに裏切った郎党など奥州で散った数多くの武将のことであろう。

 また、兼房とは義経に付き従った老臣で、白髪を振り乱して奮戦し、義経の自害を見届けた後は館に火をかけ、火中に身を投じた。芭蕉一行が訪れたとき、丁度、卯の花(ウツギ)が咲いており、その花の白さから兼房の白髪頭を連想させる、曾良の秀作である。 

毛越寺(もうつうじ)浄土式庭園を散策する

南大門跡

 毛越寺の前身は850年、慈覚大師円仁が建てた嘉祥寺とされ、中尊寺と同時代に発祥した。中尊寺藤原清衡が整備を始めたのに対し、毛越寺は第二代の基衡、第三代の秀衡の時代に伽藍が整備され、最盛期には堂塔が40,僧房が500も造られたと言われている。

 伽藍は1226年の大火、1573年の兵火によって焼け落ちてしまったが、1954年に始まった発掘調査によって、堂跡は往時のまま保存されていることが判明した。1989年には本堂が再建されている。

 山門は一関城の大手門が1921年に移築され、今回訪れた際には改修工事がおこなわれていた。

浄水を湛えた”大泉が池”~一見すると単調に思えるが

 中尊寺に初めて訪れたときにはこの寺まで足を伸ばすことはなかったが、何度か訪れたときにこの寺も訪問し、以来、中尊寺よりも毛越寺に滞在する時間の方が遥かに長くなった。ある時など、体力が消耗していて「月見坂」を上る余裕がなかったときなど、この寺だけを訪問したことさえあった。庭園巡りは距離こそ長いが、高低差が無いのが特徴的だからなので、疲労した体には適しているからであった。

 一見するとただの広い庭園だが、日本最古(世界最古とも)の庭造りの作法が記述された『作庭記』に描かれた世界が見事に再現されていることも、この庭の魅力であって、池並びにその周辺の姿をつぶさに観察すると、ただ広いだけの庭では決してないことが理解できる。

『作庭記』の世界を現実に表現

 池は時計回りに進むことが推奨されている。が、そうしなければならない決まりはとくになく、できれば時計回りに一周した後、今度は反時計回りに進むと、同じ池とは思えないほど違った世界が眼前に現れてくる。

 この日は次に「遠野」を訪れる予定にしたために時計回りに一周しただけだが、それでもしばしば来たルートを見返り、同じ場所に存在しながら2つの世界を現出させている景観を楽しんだ。

 写真の築山は見る角度によって姿がまったく異なり、あたかも無数の山が存在しているかのごとくに表現されている。作庭の基本は石の配置にあると『作庭記』にあり、ここの前期式枯山水はその世界が現出されている。

開山堂

 池の西側にあるのが写真の「開山堂」。訪れたときは修復中だったために中を覗くことはできなかった。開山堂の名から想像できるように、慈覚大師円仁の像や藤原三代の画像が安置されている。

金堂円隆寺跡

 池の北側には金堂跡がある。藤原基衡の勅願によって建立された。1226年の火災によって焼失したが、54個の礎石が残されている。

 『吾妻鏡』によれば、「吾朝無双」と称えられるほど万宝を尽くして建てられたそうだ。中尊寺金色堂の内部を見れば、ここも金銀など贅を尽くして建造されたことは想像できる。

 本尊は運慶作の丈六の薬師如来だったとのこと。ただし、その運慶が、かの著名な運慶であるかどうかは判明していない。何しろ、現在では記録以外は残っていないのだから。

遣水(やりみず)

 遣水もまた『作庭記』にある通りに曲線を描いて池に導入され、石も見事に配置されている。平安時代に造られた遣水としては唯一、現存しているもので歴史的にも貴重なものである。

 毎年、新緑の頃に「曲水(ごくすい)の宴」が催され、平安時代の雅な姿が再現されているそうだ。

石仏と常行堂

 石仏の背後にあるのが「常行堂」で、1732年、仙台藩伊達吉村によって再建された。

 本尊は阿弥陀如来で、その両側に四菩薩が安置されている。奥殿には秘仏摩多羅神(修法と堂の守護神)が安置されている。奥殿は33年に一度開帳されるらしい。

 なお、この摩多羅神は、地元民には作物の神として崇められているとのことだ。

 私は、常行堂の姿よりも写真にある石仏のほうに関心を抱いてしまった。この石仏についてはとくに解説はなかった。

出島と池中立石

 やはり、庭には石の配置が肝心要で、石を並べた出島と約8度に傾けられた立石の存在が見事である。もちろん、立石は見る角度によっては直立しているようにも目には映る。この立石があることで、波静かな池が、見方によっては大海に思え、立石が荒波を力強く受け止めているように写ってくる。

◎古き良き遠野を求めて

遠野伝承園

 名前にはそれ自体で情緒を感じさせるものがある。その代表が地名では「遠野」であり「安曇野」であり、川名では「渡良瀬川」である。私は子供の頃に本はまったく読まなかったが、地図を見るのは大好きだったので、これらの名は10歳になる前から知っていた。情緒という言葉は知らなかったが、それらの名に触れると心の奥底から旅情が湧きたつ思いを感じていた。いつか行ってみたい場所として。

 18歳で自動車の免許を取得すると、まずは安曇野に行き、それから渡良瀬川にも出掛けた。さすがに遠野は遠いので20歳を過ぎてからだったが。さらに渡良瀬川は「渡良瀬橋」を知って以来、私の聖地になった。このことは本ブログですでに触れている。

 上野や中野という地名からでは旅情をまったく感じないのに、なぜ遠野だとそれを抱いてしまうのだろうか?「遠い世界」や「遠くに行きたい」という言葉から「遠」には確かにある種の「憧憬」を感じさせるものがある。

 私の生家の近所には、地元を代表する大金持ちの「遠藤さん」が居た。卑しい私にはその遠藤さんには大いに憧れを抱いたが、それは憧憬とは異なる種類のものであって、「遠野」に対する感情とはまったく別者なのだから、「遠」という語とは全然関係はなく、遠藤さんが近藤さんであったとしても、私が羨ましく思う気持ちには変わりがない。

 初めて遠野にやってきたときは、失望感の方が大きかった。同じく憧れの地であった安曇野の方は清き水の流れがあり、何よりも壮大な北アルプスの峰々が私を圧倒した。一方、遠野といえば田畑が続くばかりで、これならば沖積低地が続く府中の多摩川左岸側と大して変わらない景色だったからだ。

 それが遠野の地を異なる視点から見られるようになったのは、ひとえに柳田国男の『遠野物語』を読んでからだった。姿かたちは府中の沖積低地と似ていたとしても、その地に蓄えられた物語の濃度が、まったく違っていると思えたからである。 

伝承園内に残された蔵

 遠野の持つ物語性に接するため、私は1984年に開館した「遠野伝承園」を訪ねた。かつての遠野には当たり前に存在していた人々の生活文化を保存・再現した場所であり、菊池家住宅だった「曲家」、水車、養蚕所などのほか、柳田国男に遠野の民間伝承を伝えた佐々木喜善の記念館などがある。

民芸品が数多く展示されていた

 『遠野物語』(1910年)を読む限り、かつての遠野には山の神、里の神、家の神、山女、雪女、カッパなどが存在し、怪異な話が数多く登場する。民間伝承というものは概ねそうしたものであり、私が小さい頃は府中にも妖怪に出くわしたという話はごく普通にあり、キツネに騙されることなどはごく日常的だった。遠野ではそれが誇張されて伝えられてきただけであろう。自然が多く残る場所ほど、人知が及ばない出来事は数多く発生する。とりわけ夜は、現在とは異なって真っ暗闇であることから危険に満ち満ちており、大人たちは子供が夜に出歩かないように怖いお化け話を沢山、聞かせたのであった。 

カッパ釣りをするオジサン

 遠野でもっともよく知られているのはカッパの存在だ。後述するように、この地ではカッパ釣りが公認されているのである。のみならず、釣ったカッパを遠野テレビに連れてゆくと、賞金1000万円がもらえるそうだ。そのこともあってか、伝承園の片隅にいた人もカッパ釣りに熱中し、その果てに人形化してしまった人もいた。

クマガイソウ

 こちらは、遠野ともカッパとも無関係ではあるが、伝承園の裏庭には、ラン科アツモリソウ属のクマガイソウとアツモリソウが群生していた。

 もちろん、クマガイソウの名前は一の谷の合戦(1184年)で名を挙げた熊谷直実に、アツモリソウは彼に討たれて戦死した平敦盛に由来している。

アツモリソウ

 アツモリソウ属に分類されたのは、膨らんだ形の唇弁が武士が背負っていた母衣(ほろ)に見立てられたためである。

 アツモリソウの花はランの仲間ではもっとも大きな花を咲かせ、また色も艶やかである。これは敦盛が美少年であったことに由来すると考えられる。

 ちなみに、熊谷直実平敦盛高野山で供養し、そののちに出家し法然に仕えている。

 遠野には直接、関係はなくとも上記のような来歴のある花が美しく、しかも数多く咲かせてあることも、伝承に満ち満ちた土地柄に相応しいことと言えるだろう。実際、このラン科の花々は管理がかなり難しく、熊谷直実の生まれた地ではクマガイソウの花園を造ったものの、すべて枯らしてしまって閉園に追い込まれている。 

遠野といえば”カッパ”

 遠野と聞くとすぐに思い浮かべるのはカッパの存在だ。『遠野物語』にも当然取り上げられているが、意外にも5話(55話から59話)しか登場していない。それでも遠野といえばカッパを連想する如く、観光地として人気があるのが「カッパ淵」である。

 カッパは一般に妖怪に分類されているが、その人物が実は本当はカッパではないのかと思えてしまうことがよくあった。私が通った小学校にも中学校にも「カッパ」と綽名のついた教員は存在し、街を歩いていてもカッパによく似た人に出会うことは多いし、友人のお兄さんなどカッパの絵よりもカッパにそっくりである。

カッパ淵の横に置かれたカッパの像

 カッパを『河童』と表記すると、私は芥川龍之介の最晩年の作品を思い出す。今回、遠野を訪れることを決めたときも、その小説を読み返してみた。1927年に書かれた作品ということもあり、芥川は地下に住む河童の世界を描きつつ、実は人間社会を風刺し、半ばの絶望感を込めて自由が失われつつあるその時代を鋭く批判している。この作品が書かれる2年前に治安維持法が制定されていることと大いに関係があると思われる叙述が河童の世界を借りて批評しているからである。のみならず、それはそのまま人間存在そのものに対する絶望でもあるのだ。

 『河童』が書かれたのは2月11日で、その年の7月24日に芥川は自殺している。その日が「河童忌」と名付けられているのは、『河童』という作品が芥川の遺書のひとつであると考えられているからであろう。

 私は伝承園を出て、すぐ近くにある「カッパ淵」に向かった。その淵は常堅寺の裏手にあり、昼間は境内を通って淵に行けるが、朝夕は寺の脇にある道を通って淵に出ることになる。

 この常堅寺は『遠野物語』に88話に登場する。「土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭なり。」と記されていることから、この地では由緒ある寺のようだ。物語では、寺を訪れた老人が、茶を畳の間にこぼしたままその日から姿を消してしまった(老人はその日失せたり)とあるので、恐らくカッパに誘拐されたのだろう。

 カッパ淵には小さな祠があり、写真のように2体のカッパの像が置かれている。このカッパは青く塗られているが、物語の59話には「外の国にては川童の顔は青しと云ふやうなれど、遠野の川童は面の色赭(あか)きなり。」とある。このカッパの色のことは芥川も柳田国男の作品から知ったのか、東北のカッパは赤いと記している。

 それゆえ、なぜカッパ淵のカッパの像が青いのか知りたいところだったが、未だにその理由は不明のままだ。

カッパ釣りの仕掛けが常設

 カッパ淵と名付けられていても、それほど深い場所があるとは思えなかった。この流れは小烏瀬川(こがらせがわ)の枝流なので、水量もそれほど多くはなく、観光ガイドにあるような「清い流れ」でもなく茶褐色に濁っていた。ここがあえて淵と呼ばれるのは、川底に穴が開いていて、その穴からカッパが出入りしているのだと思われた。

餌はもちろん「キュウリ」

 後述するように、遠野ではカッパ釣りが公認されている。それゆえ、カッパ淵には好物のキュウリが餌に用いられている。

 カッパの好物がキュウリであることはよく知られているが、それが事実であるかどうかは不明だ。一説には、カッパは水の神であって、水神には新鮮な野菜や果物を捧げることになっており、その代表としてキュウリが選ばれたとされている。

 新鮮な野菜で良いのなら、キュウリである必要はなく、ナスでもニンジンでも良さそうだ。しかし、巻き寿司の代表格である「カッパ巻」には必ずキュウリが用いられている。これにははっきりした理由はなく、馬にはニンジン、ポパイにはホウレンソウ、カッパにはキュウリと、たまたま定まったのだろう。すべてのものが合理的であるはずがなく、「不合理ゆえに我信ず」であっても良いのだと思える。

カッパ釣りは誰でもできるらしい

 写真のように、カッパ釣りは誰でも可能だ。ただ「カッパ捕獲許可証」が必要で、この許可証は先に挙げた伝承園で販売されている(220円)。

カッパ釣りに嵌って人形になってしまった人

 カッパ淵を離れ、小烏瀬川の枝流を下ってみた。「蓮池カッパ橋」のたもとには、カッパ釣りに嵌ってしまい、そのまま人形になってしまった人がいた。仕掛けの先には小さな緑色のカッパが掛かっている。遠野テレビに持参すれば賞金が貰えるはずだが、もはや人形化してしまった存在にはお金は不要なのだろう。あるいは、遠野のカッパは赤くなくてはならないため、偽物と判断されるからかも。

カッパ以外にも、遠野にはいろいろな動物が住んでいる

 カッパ釣り師のすぐ横には、カッパを中心として、遠野に住むいろいろな動物たちが集結していた。中にはマスクをしたカッパもいた。カッパでもコロナに罹るのだろうか?おそらく、発症すると頭の天辺が乾いてしまうのだろう。

遠野郷八幡宮の参道

 カッパ淵を離れ、遠野の総鎮守である「遠野郷八幡宮」に向かった。1189年、平泉の藤原氏追討に従軍して功があり、源頼朝から遠野郷を賜った阿曽沼広綱がこの地に代官を送り、館を築いて氏神であった八幡神を祀って統治した。その際、横田城を築き、城の東北(鬼門)に八幡宮を勧請したのが始まりと考えられている。

 1950年に八幡神社を遠野郷八幡宮と改称し、67年には創建780年、遷宮300年を祝って幣殿や拝殿を改修した。その後も改修を続けたため、下に挙げたように立派な建物が並んでいる。

”猫じんじゃ”が付設

 参道の脇には、写真の『猫じんじゃ』が建てられていた。八幡宮の境内は閑散としていたが、この小さな猫じんじゃはなかなか人気があるようで、小さな猫のマスコットが数多く「奉納」されていた。

思いのほか立派だった社殿

 この八幡宮は「ゴンゲンサマ」の存在が知られているそうで、『遠野物語』の110話に、このゴンゲンサマの話が登場する。

 「ゴンゲンサマと云うは、神楽舞のの組毎に一つづゝ備はれたる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少し異なれり。甚だ御利生のあるものなり。」と記されている。

 このゴンゲンサマには毎年、1月15日の年越に拝殿でのみ拝することができるそうだ。

 その他、この遠野郷八幡宮の境内はとても広く、よく整備された場所であったことに少し驚かされた。このことからも、遠野の人々は伝統を大切にしているということがよく理解できた。

語り部から遠野の昔話を聞く

 この日は遠野駅近くのホテルに宿をとった。夕方に地元の語り部がホテルに来て、宿泊者に古くから遠野に伝わる話をいくつか「遠野弁」で語ってくれるという催しに無料で参加できるということで、昔話を聞いてみた。

 話自体はどこかで聞いたことがあるような内容のものが多かったが、語り部の語り口がこの地ならではの雰囲気を醸し出していたので、私にしては珍しく、人の話に聞き入ってしまった。

 昨年、山梨県桂川で鮎釣りをしている際、隣で竿を出している人が遠野出身だということで、竿を置いて話し込んでしまったことがあった。「遠野なんて、どこにでもある田舎の村に過ぎない」と、その釣り人はしきりに語り、わざわざあんなところまで東京から出掛けるということに驚きを感じたという。

 たしかに、遠野はかつて、日本のどこにでもあった農村の風景が展開されている場所に過ぎないけれど、それでも他の場所とは異なる空気や生気を感じることができる。

 その理由はただ一つ。ここが「遠野」であるという記号性を有している場所だからだ。