徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔12〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その1)

金沢は金沢区が一番!?

f:id:haikaiikite:20190607133054j:plain

シーパラダイスにあるアトラクションのひとつ「バイキング」

 金沢大学医学部出身の知り合いがいて、その人は実に“金沢愛”に満ちていた。埼玉生まれの埼玉育ちなので”郷土愛“とも違う。加賀の金沢ではとても素敵な青春時代を送ったのだろうか。とにかく、何かといえば金沢の良さを熱弁するのだ。そこで、隣人愛を有する私は、『広辞苑』(当時は第五版だった)の「金沢」の項には、第一に「横浜市金沢区」、第二に「あなたの愛する金沢市」が出ているのだということを親切心から教えてあげた。するとその人は、手にした『広辞苑』を振りかざしながら「岩波書店に抗議する」と息巻いた。さぞかし重かったことだろう。しかし、彼女の異議申し立てにもかかわらず、昨年(2018年1月)に改訂版が出た第七版でも、金沢市は第二番のままだった。

 人口は、金沢区は198771人(19年3月現在)、金沢市は464220人(19年5月現在)で金沢市の圧勝。その地位は、金沢区横浜市の18ある行政区の一つなのに対し、金沢市は石川県の県庁所在地でやはり金沢市の圧勝。金沢区の花は“ボタン”一つなのに対し、金沢市は”ハナショウブ“、”サルビア“、”ベゴニア・センパフローレンス“、”インパチェンス“、”ゼラニウム“の五つ。これも金沢市の圧勝だ。

 が、金沢市金沢区に敵わないものが二つある。「金沢文庫」と「金沢八景」の存在だ。前者は“日本最古の武家文庫”として教科書に出てくるし、後者は“近江八景”と並んで「~八景」の代表格で、かの歌川広重が“ヒロシゲブルー”を駆使して“金澤八景”を描いている。一方、金沢市には「兼六園」があるが、これは日本三名園の一つにすぎない。

 と、『広辞苑』の執筆者はこのように考え、一番目には金沢区を挙げたのではないか、と、私は推察する。

富岡地区にある”ふなだまり”と”八幡様”

f:id:haikaiikite:20190607133749j:plain

高層マンションとふなだまり公園。池の水はしょっぱい

 金沢区横浜市のもっとも南に位置し横須賀市と接している。20年ほど前、三浦半島金沢区横須賀市三浦市)や南房総での取材が立て込んでいたこともあって、約3年間、金沢区に家を借りていたことがある。この地ではいろいろな人や場所との交流が生まれたため、金沢の地については多摩の田舎の住民のわりには結構、認知しているほうなのだ。写真にある「富岡並木ふなだまり公園」も当時、近くに住む知り合いから教えてもらった場所だ。

 公園内の池と思われる水辺は、近くにある”福浦岸壁”とは北側水路で通じているためほどんど海水に近い。前方に見える高層マンションの敷地はかつては海だったところで、ベンチがある辺りが海岸線だったはずだ。つまり、この辺り一帯は富岡の入江だったのであり、この水辺はその名残なのだ。

 この水たまりでは結構、海釣りが盛んでクロダイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが狙える。ボラこそ近所に住む暇なおじさんたちの遊び相手だが、クロダイは50cmほどの大型がいるので本格派も訪れる。水たまりでは分かりづらいが、南側にある海に通じている水路をのぞいてみると、大型クロダイの群れが視認できる。一度、この水路をたどり、どのあたりまでクロダイが生息しているのかを確認したところ、京浜急行京急富岡駅近くにまでいることが分かった。「クロダイは人気(ひとけ)のある所を狙え」というのは釣りの格言なのだが、ここのクロダイは住宅地ばかりではなく、商業地区にまでも出没しているのだ。そのうち、駅近くのコンビニで買い物をしているクロダイの姿がユーチューブにアップされるかもしれない。

 写真の背後には「富岡八幡公園」があり、その一角には以前、富岡漁港があったそうだ。この辺りは「宮の前(八幡宮の前だから)」と呼ばれていて、かつては砂浜もあった。公園の姿形に触れてみると、以前は海岸だったのだという風情は残っている。この”宮の前海岸”は「海水浴発祥の地」とのことでそれを記した碑もある。江戸時代からも海に入る習慣はなかったわけではないが、当時は「潮湯治」といって、皮膚病や神経痛の治療や老廃物の排出など”温泉の効能”と同等の目的のために海に浸かったらしい。それが明治期になり、治療から遊び目的に変化した。その最初がこの富岡の海岸だったのだという。

 もっとも、この話は他にもあり、とくに大磯海岸が”発祥の地”としては有名だ。こちらは江戸末期から明治期にかけて活躍した松本良順による記録が残っている。良順といえば奥医師として徳川家茂の治療をしたり、維新後は帝国陸軍の初代軍医総監になったりしたことで知られているが、近藤勇と親交があり新選組の隊士の治療を行っていたという話が、私は一番好ましく思っている。

f:id:haikaiikite:20190609172054j:plain

富岡八幡宮の鳥居の前はかつて海岸だった

 富岡八幡宮と聞くと、東京都江東区にある”深川の八幡様”を先に思い浮かべ、歌川広重の”名所江戸百景”や”江戸勧進相撲”、さらにはおととしの連続殺人事件が連想される。が、江戸の富岡八幡宮は江戸時代初期に創建されたのに対し、金沢区八幡宮は1191年、源頼朝の命によって造られたものなので、歴史はこちらのほうが圧倒的に古い。

 金沢区のパンフレットによれば、1311年の大津波の際、富岡地区に住む人々の命と暮らしを守ったことから「波除八幡」とも言われるようになったとのことだ。先に述べたように、写真の鳥居の前はかつて海岸であり、八幡様の境内は高台にある。集落はこの裏手に広がっているので、確かに八幡様が津波を防いだと考えることは可能だ。

f:id:haikaiikite:20190609174028j:plain

こじんまりとした境内と本殿

 写真のように、境内はそれほど広くはなく、本殿もまた”深川八幡”に比べるとかなり小さく、かつ地味だ。しかし、周囲にある社叢(しゃそう)林はとても見事で、たしかにこれならば、大津波から集落を守ることは十分にできそうだ。この社叢林=鎮守の森は、横浜市の天然記念物に指定されている。

 八幡様自体には行事のとき以外は訪れる人はそう多くないようだが、周囲は”富岡八幡公園”として整備され、ここを散策コースとして利用している住民は多い。近くの”並木団地”に住んでいる知人も、この公園にはよく子供と一緒に遊びに来ていたが八幡様にはお参りしたことがないと、罰当たりなことを言っていたことを思い出した。

八景島は入場無料

f:id:haikaiikite:20190609194621j:plain

八景島に通じるマリンゲートと福浦岸壁

 シーパラダイスがある八景島横浜市が造成した人工島で、島内へは写真の”マリンゲート”か金沢シーサイドライン八景島駅前にある”金沢八景大橋”を利用する。前者は有料駐車場を利用する人が主に使い、後者はシーサイドラインを利用する人や後述する「海の公園」から島に入る人が主に使用する。両者の中間には国道357号線の「柴航路橋」があるが、一般には開放されていないので関係車両以外は通行できない。

 私は京浜急行金沢文庫駅から後述する”称名寺”方向へ進んだところに家を借りていたので、八景島へはよく散歩や食事、買い物に出掛けていた。島内に入るのは無料なので、シーパラダイスにあるアトラクションをぼんやり眺めたり、レストランを利用したり、百円ショップで買い物したりした。島(面積約24ha)自体は横浜市のもので、シーパラダイス(面積約8ha)は西武系資本が横浜市から島の一部を借りているだけのため、シーパラの敷地を含め島内は自由に散策できるのだ。もちろん、アトラクションや”アクアミュージアム”などを利用する際は料金が発生する。

 写真にある岸壁は島外のもので、金沢埋立地とか福浦埋立地などと呼ばれている場所の海岸線全体を囲んでいる防波堤だ。全長は2キロ以上あるが、そのほとんどの場所で釣りができるため、東京湾内では有数の海釣り場として知られている。25年以上前、取材で私の磯釣りの師匠と一緒にここを訪れ、それを雑誌やスポーツ紙に掲載したことが、のちにここに住むようになる切っ掛けを作った。その際、私たちが参考にした釣り雑誌ではこの場所は「福浦3号埋立地」と紹介されていたのだが、釣りは埋立地そのものではなく、その岸壁でおこなうので、私は勝手に「福浦岸壁」と書いてこの場所を紹介した。現在では、この釣り場はほとんど「福浦岸壁」の名で雑誌等に掲載されているが、その端緒は私である。実にいい加減なものだ。

怖い思いをするのにお金がかかるのは、実に不可思議

f:id:haikaiikite:20190609204647j:plain

この三角の立ち姿だけで八景島のアクアミュージアムとすぐに分かる

 シーパラダイスの施設では、やはり「アクアミュージアム」(水族館)とそれに付設する「アクアスタジアム」が有名だ。この施設の利用には3000円(65歳以上は2450円)かかるので今まで4回しか入ったことがない。ただ、6月いっぱいまでは「あじさい祭り」期間とのことで、アトラクション利用を含めたワンデーパスが65歳以上は1800円(通常は3600円)になるらしいので、今一度、行ってみようかとも思っている。

 水族館には700種類、12万点の生き物がいるので見ごたえは十分。一方、イルカやアシカのショーがあるスタジアムは、プールが広すぎるためなのか生き物と人間との波長が微妙にずれてミスがやや目立つので、その点に興味がそそられる。ショーという点では「鴨川シ―ワールド」は規模がやや小さいためかミスが少ないので面白みは半減する(個人の感想です)。

f:id:haikaiikite:20190609211633j:plain

107mの高さから落下する”ブルーフォール”。単品では1000円也

 アトラクションには怖いものが多い。私は遊園地は嫌いなのだが、それは怖いからだ。何が愉快で怖い思いをしなくてはならないのか。ジェットコースター(シーパラでは”サーフコースターリヴァイアサン”と名付けられている。『ヨブ記』もホッブズもびっくりする名前だ)も相当に恐ろしいが、”ブルーフォール”と名付けられた世にも恐ろしい乗り物が存在する。三角屋根やコースターと並び、その青く高い塔(高さ107m)はかなり遠くからでもよく目立ち、シーパラの存在を誇示している。

 茨城県にある「牛久大仏」は高さ120mあり、その巨大さにはただ驚かされるだけだが、その天辺から飛び降りる人はまずいない。それと似たような高さからこのブルーフォールは落ちるのだから、そんなものを体験する人の気が知れない。ちなみに、華厳の滝の落差は97mなので、このアトラクションは自殺の訓練場に相違ない。しかも、これを利用して怖い思いをした上にお金を払うのである(前払いだと思うが)。

 見ているだけでも怖いので、私は思わず何度も見てしまったのだが、利用者のほとんどは笑っているのである。そこで私は係の人に「これを利用して怖い思いをするとお金が貰えるのか」と尋ねたのだが、返ってきたのは笑顔だけだった。

 

f:id:haikaiikite:20190609213722j:plain

長閑な乗り物のシーボート

 写真の”シーボート”では親子で楽しむ長閑な光景が展開されていた。こうした日常的な景観は見ていても面白くないので、すぐにこの場を立ち去った。やはり、遊園地には”怖さ”と”馬鹿々々しさ”とが同居していないと興味は湧かない。ただし、自分で利用するのは真っ平御免だが。

広大な人工海浜を有する「海の公園

f:id:haikaiikite:20190609214926j:plain

人工海浜からシーパラを望む

 約1キロの長さの海浜を有する「海の公園」 は、先述した福浦埋立地八景島とともに1970年頃に始まった「金沢地先埋立事業」の一環として造成されたものである。まず、80年頃に福浦埋立地が、85年頃に八景島が、そして88年頃に海の公園の整備が完成した。もっとも、人工海浜の部分は元々砂浜があった場所なので、80年頃には先行オープンしていた。さらに、89年にはこれらをつなぐ「金沢シーサイドライン」が開通し利便性が高まった。

  横浜市では唯一、海水浴ができる砂浜をもつ公園だが、前からあった砂浜では規模が小さいので、千葉県富津市の山砂を運び込んで拡張した。この際、山砂はすぐに浜砂には転用できないため、沖合の海底で5年間養生したとのこと。また、これは関係者から直接聞いた話だが、浜砂は年々刻々と流失するので、追加する砂は外国のものを買い取って、やはり沖合で養生したものを使用しているとのことだった。

 砂浜ではアサリなどが自然生息しているので、大潮の干潮時には「潮干狩り」が盛んにおこなわれる。自然のものが相手なので料金はかからない。

 写真は海浜の北東側を写したものだが、八景島方向に伸びた岬の海岸線には大きな安山岩を並べ磯風を表現している。その先にわずかに見える橋は、”金沢八景大橋”だ。

f:id:haikaiikite:20190610091614j:plain

公園の南側には”金沢八景”を代表する「野島」の姿が見える

 視線を南に転じると、海浜の先にある小高い山が見えてくる。標高57mと高さはないが、そのたたずまいには特徴があり、一度見ると忘れることはない。「金沢八景」を代表する「野島」の姿である。その手前に並ぶ建物群は金沢漁港のものだ。先には三浦半島の中央に連なる山々の姿も確認できる。それらの先には相模湾が広がっている。

金沢八景に至る道筋にあるものに触れる

 海の公園から「金沢八景」の本丸の一つである「称名寺」へは徒歩で数分だ。だが、ここでは少しだけ寄り道をしてみた。シーサイドライン八景島駅と、金沢シーサイドタウンとを結ぶ橋から望む景色は私のお気に入りのものだからである。

f:id:haikaiikite:20190610094247j:plain

橋から柴漁港マリーナ、シーパラ方向を望む

 マリーナのプレジャーボート群、その先にあるシーサイドラインの路線、さらに柴航路橋のブリッジ、シーパラの”アクアミュージアム”と”ブルーフォール”、さらにその先には住友重工の横須賀造船所の巨大クレーンが一望できる。八景島周辺にある特徴的な建造物が一度に見られる場所なのだ。

f:id:haikaiikite:20190610095620j:plain

橋から柴漁港内を望む

 一方、こちらは先の写真と同じ橋の上からだが、今度は柴漁港とその先にある柴町の景観だ。先の写真とは撮影時間差は3時間ほどあるため、こちらは夕暮れが迫りつつあるときの景色だ。私がかつて、この辺りをよく散歩していたときの帰途に就いたときに目にしていたものだ。かつてとは異なり船はおしゃれになり、建物群も随分と新しくなってはいるが、柴漁港のもつ情緒感にはあまり変化はないように思えた。変わりゆくものの奥底にある変わらないものを見出す喜びをこの場所からは抽出できた。

f:id:haikaiikite:20190610101038j:plain

何故か人が運転するシーサイドライン

 特に必要はなかったが、「金沢シーサイドライン」にも短区間八景島駅から野島公園駅)だけ乗ってみた。逆走事故を起こし数日間運休していたシーサイドラインが運行を再開した日だったからである。運転席には、いつもはいないはずの運ちゃんが座っている。本来は無人走行なのだが、事故の教訓から、しばらくは有人運転を続けるらしい。これは「安全確保」のためではなく「安心感確保」のためであろう。

 運行開始以来30年間、逆走のようなトラブルは皆無だったので、無人運転でも全く問題はない。今回の事故は「無人運転」が原因ではなく、運行制御回路の断線を検知しないというシステム 上の欠陥が原因らしい。つまり、人に由来するものではまったくない。したがって、有人でも事故は防げなかった蓋然性が高い。

 電気系統のトラブルが原因と考えれば、同じような事故は自動車でも起こりうる。今の自動車は電気系統に依存する割合が極めて高いからだ。アクセルもブレーキもトランスミッションも電気で制御されている。さらに最近ではハンドル操作も電気で制御するものがある。たとえば、以前のものはブレーキペダルとブレーキ制御装置はワイヤー(針金)でつながっていたが、現在はワイヤー(電線)でつながっている。さらに、ハイブリッド車や電気自動車はより複雑な電気制御システムで成り立っている。このため、自動車の逆走事故はその99.9%が「踏み間違い」だとしても、電気制御システムの構造上の欠陥もしくはシステムの劣化による誤作動も考慮に入れる必要は絶対にあるはずだ。人に頼るだけでなく、機械に頼るだけでもなく、人と機械との接触面(マンマシーン・インターフェース)を今一度、きちんと考察してほしいものだ。

いよいよ、金沢の本丸に触れる場所に足を踏み入れる

f:id:haikaiikite:20190610104205j:plain

称名寺の赤門

 金沢地先埋立地であった福浦、八景島海の公園から離れ、いよいよ金沢の歴史の本丸に足を踏み入れることになった。金沢北条氏の菩提寺であり、金沢(六浦)の舟運にかかわる人々を掌握していた有力勢力でもあった”称名寺”の門前にたどりついたのである。この寺には多くの歴史が詰まっている。実に魅力的な寺なのだ。

 以下、「その2」に続きます。更新は6月19日の予定です。

〔11〕駒込界隈を巡る

武蔵野台地のヘリを訪ね歩いてみた

f:id:haikaiikite:20190531111610j:plain

六義園の内庭に至る門

 駒込界隈には特別な用事はほとんどないのだが、時折、この町を散策してみたくなることがある。この地では時(とき)は幾筋もの流れをもっていて、人の歩みでは追いつけない時、数百年いや数千年前に止まってしまった時、文明の流れより遥かにゆったりと流れる時、人の息遣いに同調して流れる時など、この地はいろいろな容貌を有しているようだ。

 本郷に用事があって、それが早く終わったときは本郷通りをゆっくり北上し、都度、寄り道をしながら駒込駅まで歩く。まれに駒込に行く必要が生じたときは、予定された時間よりかなり早く到着し、駅周辺を散策する。駒込の町は豊島区に属するが、南へ行くとすぐに文京区になり、北や東に行くとすぐに北区になる。駒込武蔵野台地のヘリにあり周囲には坂が多い。このため行政区域の境が複雑に入り組んでいるのだろう。

 駒込の地名の由来は、駒=馬、込=混、で「馬が多く集まっているところ」だそうだが、その一方、駒も込も同時に混に通じるとするならば、「地形が入り組んでいるところ」と解することもできそうだ。どちらが正しいか、あるいはどちらも異なるかは別にして、この地形がこの地の魅力を生み出してきたのは確かである。

谷田川の流れが駒込の地形を造った!?

f:id:haikaiikite:20190531114336j:plain

駒込駅の横にも坂がある

 「大地は神が造った。ただ、オランダだけはオランダ人が造った」という有名な言葉があるが、駒込の地形は、地区の東を流れていた「谷田川」がその創造に貢献している。この川は現在は暗渠化されているのでその流れを見ることはできないが、その上を「谷田川通り」の名の道路が走っている。この川は、現在は台地のヘリから出る湧水が道路下を流れるだけだが、かつては石神井川の主要な通路でもあった。このため流路はかなり広かったようで、現在の駒込駅の東側まで段丘崖を造っている。

 もっとも、駒込は山手線の駅がある町なので周辺の開発のスピードはすさまじい。段丘崖であったという痕跡は少なく、なだらかに整地された斜面が大半だ。その限り、「駒込の地形は谷田川が造った。ただ、駅周辺はデペロッパーが造った」といっていいのかもしれない。

六義園を初めて訪ねる

f:id:haikaiikite:20190531130514j:plain

入口すぐにある記念撮影どころ

 六義園駒込駅のすぐ南側にある。もっとも、駅近くの染井門(駅から徒歩2分)は通常時には閉鎖されており、入口(正門・駅から徒歩7分)は庭園の南側にある。入園料は300円。敷地が8万8千平米もある「回遊式築山泉水」なので見どころは多い。とくに内庭に入るとすぐ目の前にある「しだれ桜」の巨木は有名で、3月の開花期には大名行列ならぬ大行列ができる。秋の紅葉シーズンも人気があり、ともにライトアップされることでいっそう艶やかになる。駒込六義園がある場所は文京区本駒込)はツツジも有名な場所だが、私が訪れた5月末は時季外れでツツジは終末、アジサイは尚早といった感じで花は少なかった。それでも新緑は美しく、とても都会にある庭園とは思えないほど緑は濃かった。

f:id:haikaiikite:20190531135208j:plain

藤代峠から大泉水を望む

 六義園徳川綱吉側用人だった柳澤吉保が、和歌の趣味を基調として造らせた大名庭園だ。吉保は「むくさのその」と呼んでいたが、現在は「りくぎえん」と読まれている。「ろくぎえん」でも良さそうだが、ここは漢音できちんと「りくぎえん」と呼ばれている。意外に知られていないが「六」は”りく”が漢音で”ろく”は呉音だ。

 呉音は6世紀ごろ、仏教とともに大陸から流入されたので、仏教用語の多くは呉音で読む。「六道」は「ろくどう」が呉音読みで「りくどう」が漢音読みだ。また古く(平安期以前)から日本に流入した言葉も呉音で読むことが多く、律令用語や万葉仮名も呉音読みが基本だ。たとえば「令」は呉音で「りょう」、漢音で「れい」。当然、『万葉集』の言葉は呉音で読むはずなのだが‥‥。

 一方、現在は呉音や漢音の区別は良い意味でいい加減で、読み方にこだわると「東京」は漢音読みで「とうけい」、呉音読みで「とうきょう」となる。実際、明治期には漢音読みにこだわり、東京を「とうけい」と言っていた人が多かったらしい。まあ、言葉は融通無碍なので「言ったもん勝ち」なのである。「れいわ」のような例は多い。

 閑話休題、「六義」の名から儒教思想を連想したのだが、実際は中国詩の六つの類型にならった和歌の六体を意味しているそうだ。「風」「雅」「頌(しょう)」「賦」「比」「興」の六つで、前三者は詩の性質・内容、後三者は詩の表現を意味するとのこと。このため、万葉集をはじめとして多くの和歌にうたわれた和歌山県の名勝地(本家は中国の古典)が庭の素材になっている。写真のキャプションにある「藤代峠」は園内の築山だが、この名は和歌山県にある峠名から借りたものだ。

f:id:haikaiikite:20190531140842j:plain

大泉水に浮かぶ蓬莱(ほうらい)島。向かいにあるのは吹上茶屋

 海をイメージした”大泉水”には「蓬莱島」が浮かんでいる。この島の名の”蓬莱”は神仙思想のひとつで、蓬莱という仙境には仙人が住んでいると考えられた。

 ”蓬莱”と聞いてすぐに思い浮かぶ人物といえば、秦の始皇帝に使えた方士の徐福だろう。始皇帝に”不老不死の霊薬”を探すといって、蓬莱島(山)へ出掛けるための莫大な資金を拠出させ、東方に旅立って秦に戻ることがなかった人物だ。

 彼は山東省出身なので、その地の東方にある島といえば日本とも考えられる。実際、日本には”徐福伝説”が多く伝承されている。たとえば、和歌山県新宮市には”徐福の墓”とされるものがあり、その地は現在「徐福公園」として中国風の楼門や大きな徐福像があり、私もそこには何度か訪れたことがある。もっとも、徐福公園に行くことが目的ではなく、第一には作家、中上健次が18歳まで過ごした土地の空気に触れるため、第二には「熊野速玉大社」や「熊野本宮大社」へ訪れるための拠点として新宮市に宿泊し、たまたま散策中にその公園を見出しただけなのだが。

 ともあれ、ここ六義園には、和歌山の景観や和歌に詠まれた名勝地、古代中国の伝承などが吉保のイメージによって再現され「八十八境」として具象化されている。

江戸庶民の富士山信仰が生み出した神社

f:id:haikaiikite:20190531213259j:plain

江戸庶民が熱狂した富士信仰の一拠点

 六義園の次に向かったのは、やはり文京区本駒込にある「駒込富士神社」だ。

 江戸時代の庶民の間には「富士信仰」が流行した。富士は”不死”もしくは“不尽”に通じるため、富士講と呼ばれる巡礼組織が数多く作られた。最盛期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど盛んだったらしい。もっとも庶民には本当の富士山に出掛けるのは体にも懐にも負担が大きいので、富士山の小型版を町内に築いた。これが富士塚と呼ばれるもので、高さは4~10mのものが大半だ。

 駒込富士神社にある富士塚は、この地にあった前方後円墳の円墳部分を利用したという説がある。写真にはないが、右手には本物同様、岩穴もある。ここの特徴といえば、町火消の人々に愛されたということから、彼らの旗印である”纏(まとい)”の絵や火消の組を表す石碑がたくさんあることだろう。

坂を下ると都電の姿が目に入った

f:id:haikaiikite:20190531215448j:plain

坂の下に見えた都電の姿

 神明都電車庫跡公園に向かった。駒込界隈は細い路地が複雑に入り組んでいるので、どの方向に進んでいるのか分からなくなることがある。しばらく迷ったのち、写真の景色が目に入ってきた。視線の先に”都電”の姿があったので、そこが目指す公園に違いなかった。この緩い坂もかつては急だったはずだ。

f:id:haikaiikite:20190531220136j:plain

1949年に造られた6063号。最後は荒川線で活躍した

 公園内には写真の車両だけでなく貨物車もあった。しかしどちらも柵の中に鎮座しているため、乗ることはおろか触れることさえできなかった。この6000形の車両は都電では一番多く用いられていたため、私がイメージする”チンチン電車は”はこの姿だ。

 公園内には緑が少なく、やや厳しめの日差しの下では長居はできそうになかった。植物としてはビヨウヤナギとランタナ(写真の花)がよく咲いていたが、アジサイは開花の始まりで、七変化の一変化目だった。

段丘のヘリに造られた駒込東公園

f:id:haikaiikite:20190531221648j:plain

緑が多い公園で、しっかり段差もある

 駒込東公園は豊島区にある。文京区からまた駒込駅近くに戻ってきた。前の公園は段丘崖の下にあったが、また坂を上ってここにやってきたのだ。ここは丁度、崖のヘリにあり、公園自体もこの段差を利用して造られている。もちろん、この段差は前述した谷田川が生み出したものである。さほど広くはないが、緑がとても多いためか木陰にあるベンチに腰掛けて休憩している人が4人いた。ここでは、時間はゆったりと流れているようだった。

アザレア通り駒込駅東口に通じている

f:id:haikaiikite:20190531223320j:plain

庶民的な香りがするアザレア通り商店街

 公園を出て、次なる目的地である「中里第二踏切」へ向かう途中、「アザレア通り商店街」に出た。この通りの背中の先には駒込駅東口がある。 なかなか庶民的な香りがする商店街で、下町ならではといった感じだ。

 アザレアはツツジの英名で、写真のようにツツジの花がしっかりと描かれている。ツツジソメイヨシノと並び、駒込を代表する花だ。豊島区の花にも指定されている。もっとも、元園芸ファンとしては簡単には肯けないものがある。アザレアは園芸の世界では西洋ツツジを意味するからである。ここはせめて「つつじ通り」と呼んでほしかった。

 こういうことはこの世界ではよくあり、アジサイといえばガクアジサイや西洋アジサイを指し、小型に改良された園芸品種は学名から採ってハイドランジアと呼んでいる。ちなみに、ハイドロは水のことである。アジサイには雨がよく似合う。

今のうちに見ておきたい、山手線唯一の踏切

f:id:haikaiikite:20190601095523j:plain

山手線唯一の踏切。もうすぐなくなるかも

 駒込界隈に来たとき、必ずと言って良いぐらいの頻度で立ち寄るのが、ここ「中里第二踏切」だ。駒込駅と田端駅との間にある、山手線唯一の踏切である。駒込駅東口から徒歩数分のところにあるので、さほど時間に余裕がないときでさえ大抵の場合、この踏切の近くに立って、山手線が通り過ぎるのを待つ。これが中央線だったり南武線だったりすれば当たり前すぎる景色なので、わざわざ見に出掛けようとはしない。山手線の踏切であることに価値がある。

 しかし、山手線と谷田川通りが交差するこの踏切も、2020年に立体交差に向けた概要が決定されるというので、そう遠くない将来この姿は見られなくなる。そうなると、私にとって駒込に来る動機は相当希薄になる。そのように思うと、山手線の車両にデコレートされた「スシロー」の宣伝写真が悲しみを帯びて見える。クルクル回る寿司も、最近は回らなくなってきているし、クルクル回る山手線には踏切がなくなるし‥‥近代化は人の心身を疎外する。

初めての旧古河庭園~美の背後にあるもの

f:id:haikaiikite:20190601101848j:plain

5,6月はバラの季節。訪れる人は多い

 旧古河庭園は北区西ヶ原にあるが、駒込駅からも10分ほどの距離にあるので最寄り駅のひとつになっている。本郷通りの妙義坂を下って上って庭園の入口に至る。この下り上り、すなわち谷状の地形も、谷田川が形成したものだろう。

 六義園同様、この庭園に入るのは今回が初めて。「浅見光彦」を探しにこの近くへは何度も来たことがあるが、たとえ150円という格安料金で美しい建物や庭園に触れられるとしても、やはり「古河」の文字には抵抗があった。

 大正時代に整備されたこの庭園は、古河財閥の3代目の古河虎之助(古河市兵衛の実子)の邸宅として1919年に整備された。石造りの洋館は段丘上に、洋風庭園は段丘崖に、日本庭園は段丘下というように、武蔵野台地のヘリをうまく使ったとても趣きのある空間である。広さは約3万平米で、おおよそ六義園の3分の1だ。

f:id:haikaiikite:20190601103755j:plain

心字池を中心にした日本庭園

 バラが開花中のこともあってか日本人女性の姿が目立ち、男女比は2:8といったところ。外国人観光客も多いが、こちらは日本庭園の方に興味がありそうだ。洋館や洋風庭園に見られた騒々しさもないので、のんびりと散策するには断然、こちらの方が良い。雪見灯篭、枯滝、十五層塔などの配置も素敵だ。

f:id:haikaiikite:20190601104739j:plain

大滝は段丘崖の段差を利用している

  段丘崖の西側はなだらかに成形され、そこにバラ園やツツジ園を配置し、東側はその段差をうまく利用し、森の中で音を立てて落下する滝を演出している。写真ではうまく表現できていないが、実物は見事に「自然美」を再現している。

 この広大な敷地は、幕末から明治期に活躍した陸奥宗光が明治20年(1888年)頃、別宅にするために購入した。陸奥といえば幕末には坂本龍馬と常に行動を共にし、勝海舟の海軍操練所にも入った。維新後は一時、不遇期はあったが、伊藤博文山縣有朋らの助力もあって、政治家として活動した。とくに外交面で手腕を発揮し、幕末期に結ばれた不平等条約の改正(治外法権の廃止)を成し遂げたことは、歴史の教科書にもよく出てくる業績だ。

 が、勝海舟陸奥を”人に使われるときは才能を発揮するが、人の上に立つ器ではない”というように評したように、負の一面がある。それは、1891年の帝国議会での対応に現れる。田中正造足尾鉱毒事件における古河側の責任を問う質問主意書を提出した際、陸奥は「主意書の意図は不明」として誠意ある回答を示さなかったのだった。

 陸奥の次男であった潤吉は、当初、実子のなかった古河市兵衛古河財閥一代目)の養子となり二代目を継ぎ古河鉱業を興した。この二代目のときに足尾鉱毒事件は最悪期を迎え、田中正造の戦いは本格化した。田中が私財を投げうって反対運動を進めているとき、陸奥は西ヶ原の一万坪弱の土地を別宅にするために購入したのだ。この土地は二代目のときに古河財閥のものとなり、三代目によって大庭園が完成するのである。

 私の心のどこかにこの知識が居着いてため、この庭園を避けていたのかもしれない。政治家としての陸奥への評価は高いが、人としての評価は格段に低い。

ソメイヨシノ発祥の地

f:id:haikaiikite:20190601113101j:plain

ソメイヨシノはこの蔵のある地で栽培された

 写真の旧丹羽家住宅蔵は駒込3丁目にあるが、かつてこの一帯は染井村と呼ばれていた。”染井”は地名としては残っていないが、写真の掲示板のようにこの名前を使うことは多い。”染井通り”、”染井稲荷神社”、”染井霊園”などで、私が旧古河庭園から歩いてこの住宅蔵のある広場に来たときも”染井坂通り”を上ってきた。この住宅蔵は1936年に造られたものなのでソメイヨシノには直結しないが、この蔵を建てた丹羽家とは大きな関連がある。

f:id:haikaiikite:20190601115333j:plain

門と蔵のある広場は植木職人の丹羽家の敷地だった

 丹羽家はこの染井地区では有力な植木職人だったことは、写真の”腕木門”からも想像できる。腕木と呼ばれる梁(はり)で屋根を支えることから腕木門というそうだが、一介の職人ではこのような立派な門を構える家を持つことはできない。この地で江戸後期、エドヒガンザクラとオオシマザクラが偶然なのか意図的なのかは不明だそうだが交配され新種のサクラが誕生した。いくつか生まれた中からもっとも特徴的な1本を選び、それを接ぎ木して増やしたということが現在分かっている。

 はじめはサクラの名所である奈良の吉野山にちなんで”吉野桜”と名付けられたが、吉野にあるヤマザクラとは異なる種であることが分かり、この地にちなんで”ソメイヨシノ”と名付けられて日本中に広まった。あくまで"吉野"にこだわっている点が面白い。学名は"Prunus×yedoensis"である。ここには染井も吉野もなく、江戸が入れられている。

 ここで160年ほど前、ソメイヨシノが誕生したと考えると、この何の変哲もない広場がなんだか輝かしく見えてくるから不思議だ。

太田道灌ゆかりの神社

f:id:haikaiikite:20190601123723j:plain

太田道灌が3度祈願し3度とも勝利した「戦勝の宮」

 グーグルマップを見て駒込駅へ行く道を探していると「妙義神社」の名を見つけたので立ち寄ってみることにした。神社にではなく”妙義”のほうに惹かれたのだ。群馬県にある妙義山はその奇妙な形に興味があるのでよく出掛けるが、その地にある妙義神社駒込妙義神社の関係にも少し関心があった。が、その関係は不明だった。もっとも、”妙義”そのものの語源が諸説ありすぎてまったく解明できないのである。

 群馬の妙義神社は家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願など庶民の現世利益を実現してくれるようだが、駒込のほうは”戦勝の宮”、”勝負の神様”という群馬のそれとは少し毛色の違う神社のようだ。その理由は、ここに戦勝を祈願した太田道灌と関係があるようだ。

 戦上手としてよく知られた道灌だが、やはり神にすがることはあったようで、この妙義神社には3度戦勝を祈願し3度とも勝利した。そのために道灌は様々なものを寄進したという記録が残っているそうだ。残念ながら太平洋戦争でそのすべては焼失した。それでも、道灌との関係を知る資料は他に残っていたようで、再建する際には”道灌霊社”が造られている。

 現在は古くなった社殿や境内にある建物を復興造営中のため境内は狭くなっているため、ここでゆっくりすることはできなかった。

f:id:haikaiikite:20190601130633j:plain

四辻の中央にある電柱

 妙義神社から本郷通りに出る参道はとても細い。現在は住宅が密集しているが、利便性を高めるためか安全性を確保するためか、少しだけ道が拡張されている。しかし、電柱だけはかつてからあった位置に残されているので、四辻のほぼ中央に立っていることになった。これも、下町ならではの光景かもしれない。

f:id:haikaiikite:20190601131949j:plain

妙義坂にある子育地蔵尊

 本郷通りに出た。駒込駅方向からくると下り、旧古河庭園方向に進むと上り、この坂は”妙義坂”と命名されている。妙義神社があるからだ。東京には坂が多い。当然、近くの神社に由来するものも多い。”阿弥陀坂”、”無縁坂”、"観音坂”、”地蔵坂”、"不動坂”など無数にある。

 妙義坂の途中にあるのが写真の子育地蔵尊だ。地元の有志が子孫繁栄を祈願してお堂と地蔵尊を建立したのだが、戦争末期の空襲によって消失し、地蔵尊だけが再建された。地蔵堂の中には二人の少女の供養碑もある。かつてこの近くで交通事故で亡くなった少女を供養するものだそうだ。以来、この地蔵尊は子孫繁栄だけでなく、交通安全も見守っている。

下町情緒のある駅前通り商店街

f:id:haikaiikite:20190601133819j:plain

駒込駅東口に通じる駒込銀座通り

 谷田川通りと駒込駅東口を結ぶ細い通りが駒込銀座通り。写真のようにここを通る人はかなり多い。その狭さとおおらかな雰囲気は下町情緒たっぷりといったところ。実際には、どこの駅前にもある店も多いのだが、その一方、地元ならではの店が混在し、感じの良さを生み出している。

 最近では「さつき通り」の垂れ幕を飾り、「銀座通り」からの脱却を図っているようだ。前述した、駅の東口から南東に伸びるのが「アザレア通り」、北西に伸びるのが「銀座通り」改め「さつき通り」となれば、ツツジの仲間での対比が生まれる。4から5月はツツジ、5から6月はサツキの季節。いい塩梅である。

 駒込界隈を巡り、関連するいろいろな人物名に出会った。古河市兵衛であり田中正造であり太田道灌である。このブログで触れた人物だ。徘徊にはいろいろな発見がある。次はどんな人物や事柄に出会うことができるか、楽しみは尽きない。

 

★このブログは毎週土曜日の更新を心掛けてきましたが、6から9月は鮎釣りシーズンのため、しばらくは10日、20日、30日に更新させていただきます。天気と気分と出会い次第で変わりますが。

〔10〕羽田空港周辺を飛び歩く

10代の頃、羽田空港は私の逃げ場だった

f:id:haikaiikite:20190524104001j:plain

京浜島つばさ公園から空港を望む

 10代の半ば頃からしばらくは羽田空港に出掛け、展望デッキから飛行機の離発着をのんびりと眺めるということがよくあった。

 学校に行くことは、最初の一か月で興味を失った。朝、京王線新宿駅までは一応行くのだが、混雑する山手線に乗るのが嫌で、通勤・通学ラッシュが一段落するまで新宿駅のホームで待った。いざ電車に乗ると、今度は駅には下りず、外の景色や乗客の行動を観察しながら時間をつぶし、まあるい緑の山手線で都内をぐるぐる回った。学校に着くころには、4時間目が始まっていた。

 山手線にいささか飽きた頃、今度は浜松町駅東京モノレールに乗り換え、羽田空港まで出かけることが多くなった。別に飛行機に興味があったわけではなかった。小学生の頃、一度だけ乗ったことがあったが、別段、感激はなかった。それよりは、新幹線のほうが乗っていて楽しかった。だから、小さい頃は、飛行機の運ちゃんではなく、電車の、さらにいえば新幹線の運ちゃんに憧れを抱いていた。

 一方、乗り物を見る側の立場となると、新幹線は一瞬にして目の前を通りすぎてしまうので面白みはない。それより、空港を飛び立つ飛行機が残す軌跡をたどるほうが、また空の中から点ほどの小さい姿を現した飛行機が段々とそれを拡大させながら空港に近づき、轟音を立てて着陸する様子を眺めるほうが楽しかった。今でも、年に30回ぐらいは飛行機の離発着を見るだけのために空港へ出かける。もっとも、今は羽田ではなく調布ではあるが。

飛行機の離発着を眺めるスポットの代表格だった”浮島町公園”

f:id:haikaiikite:20190524110828j:plain

川崎市の浮島公園には飛行機撮影ファンが多く集まる

 今の羽田空港はターミナルが立派になり過ぎ、かつ人も多過ぎるため、飛行機をのんびりと眺めるという気持ちにはとてもなれない。そこで、空港内ではなく周辺部から楽しむということになる。飛行機の動きを追いながらそれに自分の異郷への憧れも載せるなら離陸のときが良いが、迫力という点では着陸時のほうが断然面白い。私には、飛行機の離発着を写真に収めるという動機も趣味も今までなかったので、その撮影は今回がまったく初めてといっても良い。しかし、”眺める”という体験は、若い頃から今でもずっとしているので、羽田空港周辺の主だった”ビューポイント”は認知している。

 今回は、行きやすく眺めやすいポイントを飛び歩いてみた。マニアには”とっておきの場所”があるのだろうが、私にはそんなものはないので、既知の場所をあれこれと動きまわった。併せて、”羽田”という町にも、多摩川河口という場所にも魅力はたくさんあるので、”つばさ”だけを追う散歩ではなかった。

 古くから「航空機撮影ファン(撮りヒコ)」によく知られているのが、川崎市川崎区にある「浮島町公園」である。今では、「東京湾アクアライン」の浮島インターや首都高速湾岸線の浮島ジャンクションがあるところといったほうが馴染み深いかもしれない。

 ここにはかつて(今もなくなったわけではないが)「浮島町海釣り施設」があり、真上を飛び交う飛行機、眼前を悠揚と進む大型船などの姿を見ながら釣りができる場所として人気があった。が、その無料駐車場が”廃車置き場”と化してしまったため駐車スペースはなくなった。そのためアクセスが極めて困難となり、今では釣りに訪れる人は皆無に近くなった。一方、カメラ小僧やカメラ爺は自転車という機動性の良い乗り物を使ってここを撮影スポットに利用している。

 今回、近くにコインパーキングがないかどうか調べてみたのだが、周囲は工場や倉庫街なのでその手ものはまったくなかった。が、”にこにこパーキング”といって羽田空港を利用する客の車を数日間預かる駐車場が時間貸しで利用できるということが分かった(4時間以内1000円)ので、かなり割高ではあるがここに車を止め、公園まで出かけた。

 公園内には10名ほど、カメラを構えた”航空機ファン”がいた。皆、高級一眼レフに600ミリの望遠といういでたち。私といえば、コンパクトミラーレス一眼に普及品の中望遠ズーム。これではとても太刀打ちできないので、”空港に降り立つ飛行機を撮る”という作戦から、”空港に降り立つ飛行機を撮る人々を撮る”という戦術に改めた。

 ファンたちは一様にスマホのアプリを使って、どんな飛行機が降り立ってくるのかを調べながら撮影態勢をとっている。降りてくる機種によっては誰も見向きもしない一方で、一斉にカメラを構えるという動きをとることもあった。そんなときは、たしかに通常とは異なるデコレーションが施されている飛行機が下りてきた。私には、飛行機よりもそうした行動をとる人々の動きの方が興味深かったが、それでは大枚1000円を払った甲斐がないので、着陸態勢をとる飛行機が入りつつカメラを構える人々も入る場所でその撮影機会を待った。

 なお、写真内の海上に見えるのが2015年から使用されている”D滑走路”だ。桟橋状の構造物になっているのは、多摩川の流れを妨げないためだ。なにしろ、この新滑走路は多摩川河口の半分以上を占めているのだから。

 ともあれ、なんとか撮影ができたので、ここを離れ、次の”航空機撮影”基本スポットである城南島や京浜島へと移動することにした。

羽田空港はただ今、オリンピックに向けて工事中

f:id:haikaiikite:20190524120917j:plain

空港周辺も”オリンピック景気”に沸く

 次の場所に移動する前に今一度、川崎側から空港を望んでみようと、殿町(とのまち)にあるコインパーキングに車を止め、多摩川右岸堤防に出てみた。この辺りは「キングスカイフロント」と呼ばれるようになったそうである。自動車工場の跡地に、ヨドバシカメラのアッセンブリーセンターだけでなく、ライフサイエンス・環境分野の研究開発拠点を誘致した。それ自体は好感のもてる開発方針だが、命名がいただけない。「高輪なんとか」といい勝負だ。地区名が殿町だから”キング”、対岸に空港があるので、”スカイフロント”。なんだか人を小ばかにしたような名称である。

 川の向こう側に姿を現したのは、国際線ターミナルの改良とそれに付設するホテル、商業施設、会議場、温浴施設、大型駐車場の巨大工事現場だ。完成後は「第3ターミナル」と呼ばれることになっている。オリンピック開催までの完成を予定しているらしい。また、川の中に見える橋脚(ピア、ピーヤ)は川崎側の国道409号線と、空港内を走る「環状八号線」とを結ぶ「羽田連絡道路」(仮称)のものである。こちらもまた、オリンピックに向けたものである。これらの工事でも国立競技場のそれと同様、月28日の長時間労働が日本人・外国人労働者に強いられていることだろう。

 東京オリンピックという”馬鹿げた”運動会のために、他に使うべき必要のある貴重な財源と人材が、ここにもまた”無駄”に投入されている、一部の”利権屋”のために。

f:id:haikaiikite:20190524134954j:plain

多摩川の左岸から望んだ空港周辺

 城南島に立ち寄る前、多摩川河口周辺の様子が気になったので、少しだけ多摩川左岸にも寄ってみた。ここでも河川の改良工事がおこなわれていた。ここいらは”羽田漁港”とも呼ばれ、遊漁船の発着場になっている。その施設は写真のとおり極めて古い。個人的にはこの”古さ”と空港の新しさの対比が好みなので、この景色は可能な限り残してほしいのだが、近代化の波はこの旧港まで及びそうで物悲しい。前方に見える多摩川の河口も、D滑走路に塞がれているようで息苦しそうだ。

海遊びもできる城南島海浜公園。ただし遊泳禁止

f:id:haikaiikite:20190524135742j:plain

城南島の”つばさ浜”では貝掘りの人もいた

 羽田空港の真北にある城南島は埋立地で、工場や倉庫などがとても多い。島の東側の沿岸が海浜公園になっている。公園からは、大井ふ頭の”ガントリークレーン群”や青海、有明豊洲、辰巳一帯の高層ビル群、東京タワー、スカイツリーなどが望め、ここでは釣りもできる。東側の対岸には巨大な中央防波堤埋立地があり、その間を東海汽船ジェットフォイルや大型貨物船が走る姿を見ることもできる。一方、公園の南東側は一部”つばさ浜”と命名された人工砂浜が、その陸側にはバーベキュー場がある。

 この日は大潮の干潮時にここへ到着したので、砂浜では潮干狩りを楽しむ人の姿が散見された。また、気温が高く、真夏を思わせる強い日差しが照り付けていたため、水遊びをする人、肌を焼く人などもいた。ここの海水はあまり綺麗ではないので、”遊泳禁止”の表示が掲げられている。

 天気予報では南風が強くなると告げていたので、この公園の真上を通って羽田に着陸する飛行機が見られると期待したのだが、ここに来た当初はあまり風が強くなっていなかった。こうなると、羽田では通常時のA、C滑走路が使われることになる。この場合、公園から見られるのはC滑走路からの離陸ということになるので、やや期待外れだった。それでも、護岸ギリギリまで寄れば離陸時の撮影は可能と思い移動したところ、南風が強くなってきたため、C滑走路では、南に向けた離陸が始まった。

f:id:haikaiikite:20190524142415j:plain

城南島でも航空機撮影ファンは多かった

 こうなると、着陸にはB、D滑走路が使われることになるので、城南島は期待した通りのビューポイントになった。着陸する飛行機を撮るだけならここで十分だが、やはりここでも”着陸する飛行機を撮る人を撮る”を心掛けた。すると案外、位置取りが難しいことが分かった。飛行機が頭上を通るので、人と飛行機を同じ画面に入れるのが大変なのである。飛行機が通り過ぎた状態であればその位置が低くなるので人も入れやすいが、今度は逆光になるので色が飛んでしまうのだ。

 丁度、桃色にペイントされた大型貨物船が中央防波堤との間の水道を通りそうだったので、飛行機の着陸と船の入港、さらに、向かいのガントリークレーンを入れれば、多少飛行機の姿は小さくなってもなんとか”絵になる”と期待してシャッターを切った。満足とはいえないもののギリギリ合格点かも。

B滑走路への着陸機を見るなら京浜島つばさ公園が最適

f:id:haikaiikite:20190524143745j:plain

B滑走路に着陸する飛行機と新管制塔

 京浜島は空港の北西側にある。島の東側が”つばさ公園”になっており、B滑走路に降り立つ飛行機を間近に見ることができる。ここならば私のカメラでも十分に着陸する飛行機をメインにした写真が撮れる。強くなった南風様様である。

 飛行機だけではつまらないので、新管制塔と旧管制塔(予備管制塔)を背景にできる撮影ポイントを探した。着陸する飛行機を眺めるだけならこの場所でも今まで何度も経験してきたが、撮影は今回が初めて。前回の”チンチン電車”ぐらいの遅さなら普通に撮れば良いのだが、着陸時でも新幹線ほどの速さがある機体を撮るのはかなり難しい。飛行機だけなら”速度感”を出すための流し撮りで良いのだろうが、背景もきちんと明瞭に入れるには速いシャッターで両者を収めなければならない。そうすると、今度は被写界深度が浅くなるため、どちらかがボケることになる。幸い日差しが強く、やや絞り込んでも速めのシャッターが使えたため、なんとか飛行機のブレを抑えることができた。”撮りヒコ”ならこうした写真は躍動感がないためにボツにするだろうが、”初心者”ならやはりギリギリ合格点だと勝手に考えた。

 この場所には無料の駐車場があるが、そのスペースは狭いため、多くの人は路上駐車する。道路の幅の割には交通量は少ないので”黙認状態”といったところ。以前に立ち寄ったときには空港との間の水道で釣りをする人が結構見られたので、釣り人も入れた写真も撮れると考えていたのだが、この日は一人だけいた。それも希望のフレームからは外れるところで釣りをしていたので、ここでは除外した。

羽田の地を”信仰”で守り抜いた穴守稲荷

f:id:haikaiikite:20190524190806j:plain

現在改修中の穴守稲荷神社

 羽田村はかつて、農業と漁業が盛んだった。浅い海は江戸時代から新田開発され、目の前には”豊饒の海”が広がっていた。豊かな田畑や豊富な魚介類の多くは多摩川が運んだ栄養分がもたらしたものだろうが、その一方、”暴れ川”である多摩川は度重なる氾濫を生じさせた。堤防に開いた穴から人々の暮らしを守るという目的で造られたのが「穴守稲荷神社」だ。もともとは、今は羽田空港の敷地になっている場所にあったのだが1945年、その地を米軍に接収されたため、現在の京急穴守稲荷駅近くに地元の人々の力で再建された。

f:id:haikaiikite:20190524192652j:plain

改修中のため、境内の脇に保管されている赤い鳥居とキツネ像

 稲荷は”稲成り”の言葉通り、豊作を祈る農業神だったが、現在では産業興隆、商売繁盛、家内安全なども祈られるようになった。また、神の使いとして稲荷には”キツネ”が欠かせない。稲荷信仰の総本山は京都の伏見稲荷大社で、外国人観光客にも人気があるのが”千本鳥居”。ここ穴守稲荷でも数多くの赤い鳥居が保管されているので、本社には及ばないものの、改修工事完成後には見事な赤い鳥居の行列が再び見られるはずだ。

f:id:haikaiikite:20190525104726j:plain

今は羽田空港から旅立つ人の安全を守っている大鳥居

 写真の大鳥居は、かつて穴守稲荷が現在の空港の敷地内にあったときのものだ。滑走路の拡張の際、この鳥居の移動だけは住民の抵抗もあって敷地内に残されていたが、その後の再拡張のとき、1999年に海老取川河口左岸側に移動してきたものだ。すぐ隣には環状八号線が走っており、この道を使って空港ターミナルに向かう旅人は結構多い。そんな人々の多くが、この赤い鳥居を目にしていることだろう。その中の幾人かは、この鳥居に”旅の安全”を祈願しているに違いない。羽田の人々に大切にされてきた鳥居だけに。

羽田の町中を飛び歩く

f:id:haikaiikite:20190525110153j:plain

橋の上から羽田第二水門周辺を望む

 羽田は古い町である。1889年にいくつかの村落がまとまって羽田村ができ、1907年には羽田町になっている。

 私はかつて、ここに羽田空港があるのでこの地を羽田と呼ぶようになったのだろうと勘違いをしていた。”羽”は飛行機を連想させる。”名は体を表す”からである。が、実際は、ここに飛行場ができたのは1931年で、そのときは「東京飛行場」といわれていた。ここが羽田空港と呼ばれるようになったのは戦後のことで、名付け親は進駐軍(米国陸軍)である。

 話は逸れるが、私は陸上競技が好きで、普段ほとんど見ないテレビも陸上競技の中継だけはかなり見る。競技結果にも関心があり今年の2月、走り高跳びで久しぶりに日本記録が更新された。その選手名は戸邉(とべ)直人。新記録に挑戦する際、関係者や観客は心の中で、そして声に出してこう叫んだであろう、「とべ、跳べ」と。”名は体を表す”。アメリカでも、やや旧聞に属するが、女性のフリン中尉が、部下の女性の夫と不倫関係になり、それが発覚して除隊することになった。ニュースでも「フリン中尉、不倫で除隊」などと取り上げられた。”名は体を表す”。

 閑話休題、前述したように羽田村は多摩川の度重なる氾濫に苦しんだ。そこで、川の左岸には写真のような「水門」が造られている。また、写真では少しわかりづらいが、水門の奥には”赤レンガ堤防”がある。この赤レンガ堤防は道路に沿って海老取川河口近くまで続いている。多摩川は大都市を流れる川なのだが、その堤防は他の大都市を流れる河川の堤防とは違い、例外的にほとんどが土盛りだ。しかし、氾濫が多かったこの地区には、コンクリート壁や赤レンガ壁が必要だったのだろう。

羽田七福いなりめぐり

f:id:haikaiikite:20190525114326j:plain

鴎稲荷神社は七福いなりめぐりの五番目

 羽田では毎年の1月1日から5日まで、「羽田七福いなりめぐり」が行われている。スタンプラリーのように、一番の”東官守稲荷神社”から七番の”穴守稲荷神社”まで、別格の”玉川弁財天”を含めると八つを巡拝するという催しだそうだ。全部を巡っても2時間ほどだとのことなので当初は一番からスタートしようとしたのだが、そうすると空港からは少し離れることになるため、今回は空港近くの御稲荷様をグーグルマップで探し、七福めぐりとは無関係に巡ってみた。

 そのひとつが、写真の”鴎(かもめ)稲荷神社”だ。ここは「開運招福」を祈る御稲荷様で、漁師がこの稲荷に祈願するとカモメが飛来し大漁になったことから、鴎稲荷と呼ばれるようになったそうだ。

 写真の右手の「羽田道」の標柱にあるように、この稲荷の前の道は、海老取川にかかる弁天橋に通じる旧道だったのである。それだけ、多くの漁師がこの道を使って漁に出たり、獲物を運んだりして賑わったのだろう。

f:id:haikaiikite:20190525121104j:plain

白魚稲荷神社は七福めぐりの六番目

 白魚稲荷神社は、「羽田七福いなりめぐり」の六番目の御稲荷様だ。ここは「無病息災」という福を招いてくれる。武蔵風土記には「土人呼テ白魚稲荷ト云漁人白魚ヲ取コロ初テ得シ時ハマツ此社ニ供フル故ニカクイヘリ」と社号の由来が述べられている。

 ここでいう”土人”は地元民という意味で、差別的意味はまったくない。以前、「北海道旧土人保護法」を巡って、アイヌ土人と呼ぶのは差別的ではないかという論争が巻き起こった。しかしこの法律の趣旨は、以前から北海道に住んでいたアイヌ の権利を保護しようとするもので、「アイヌ=以前から住んでいた地元民=土人」という位置づけなのである。「土人=南洋のクロンボ」と一緒にするなと考える方が、よほど差別的だろう。この稲荷の名の由来も「土人=漁人」の図式で、字が読める人であれば、以前は漁師が数多く土着していて、彼らが漁の安全を祈願していたという様子が見て取れる。

 以上の通り、結果的には「七福」のうち、”鴎”、”白魚”、”穴守”の三稲荷を巡ったことになった。しかし、カメラのメディアには「稲荷」と名の付く場所が上記以外に三つ写っている。それだけ、この地では”稲荷信仰”が盛んだったのであろう。

 漁師の仕事は常に「死」と背中合わせだ。また、この地の人はいつも多摩川の氾濫と闘わなければならなかった。それでもこの地を愛したのは、豊かな海が眼前にあったためだった。

再び、多摩川の左岸に戻る

f:id:haikaiikite:20190525124423j:plain

羽田漁港に停泊する遊漁船

 町中巡りを終え、再び多摩川左岸の土手に出た。鄙(ひな)めいた 羽田漁港には夕日を浴びた遊漁船が停泊していた。その先にある羽田空港からは機体を黒く塗られた飛行機がA滑走路から飛び立っていった。

 

f:id:haikaiikite:20190525124952j:plain

左岸土手上から”大師橋”を望む

 左岸土手上から多摩川の上流方向を望むと、今にも壊れそうな”遊漁船倉庫群”と近代的な首都高速道路の”新大師橋”と産業道路の”大師橋”の対比が趣き深い。これは、あたかも今日の格差を象徴しているかのようだ(この表現法は三島由紀夫やカントが好むもの)。実際、大師橋の下には、ホームレスの人々のテントが2張りある。

 私は土手の上を歩き、海老取川河口まで戻った。近くのコインパーキングに駐車していたからだ。夕まぐれが迫る中、土手上の道路では多くの男女が散策していた。海老取川河口にはひとりの釣り人がいた。おそらくスズキを狙っているのだろう。

 この辺りの汽水域には生物が豊富だった、近代化の波が押し寄せる前までは。人はある豊かさを失うと、その一方で異なる豊かさを創造しよう試みる。しかし大半の人はその狭間にいて、ただ翻弄されるだけである。この地のように、たとえ”豊饒の海”が眼前にあったとしても、だ。

f:id:haikaiikite:20190525132124j:plain

水難者を祀った無縁仏堂とその先にある空港施設

 

 


  

 

〔09〕徘徊老人・東急世田谷線散歩

こんなに立派になっちゃって

f:id:haikaiikite:20190517172056j:plain

立派になった電車と夏を彩る花(ニオイバンマツリ)

 ボロっちい電車といえば、多摩の田舎では南武線、歌の世界では池上線というのが通り相場だった。

 南武線は、私の地元を通っているので、幼い頃から何度となく利用している。小学生の頃、母と、横浜に住む叔父のところに出掛けたときにも一度乗った。この電車のあまりのボロさと遅さと揺れ具合に母は閉口し、次からは渋谷周りで東急東横線を使うことになった。確かな記憶ではないが、車体の底板が一部壊れていて、車内からは曲がりくねった線路が見えたこともあったような。

 池上線は、知り合いの幾人かが旗の台駅洗足池駅の近くに住んでいたので、一年に数回、彼らの縄張りまで出掛けるときに利用した。駅間が狭く、いくつ駅を過ぎたのかすぐに忘れて友達に聞いた。電車は古く、ドアのそばに立っていると、隙間風に震えなければならなかった。

 とはいえ、1960~70年頃の電車といえば、概ねこんな感じだった。私が東京に行くとき(多摩の住民は新宿に行くときは”東京に行く”と言う)もっとも利用していた京王線ですら、60年代に初代の5000系車両が運行されるまでは、お世辞にも立派とはいえなかった。

 こんな南武線や池上線だが、彼ら?に言わせると、もっと格下の電車があるとのこと。それが、下高井戸と三軒茶屋とを結ぶ玉電(現在の世田谷線)だ。「俺たち(南武線や池上線)はいかにオンボロであろうとも一応は鉄道線だ。けど、ヤツ(玉電世田谷線)ときたら、”チンチン電車”じゃないか」。

 京王線に乗っていて、下高井戸駅を通過する際には、停車中の玉電の姿がよく目に入った。その古さと規模の小ささはある面、感動ものですらあった。「いつか乗ってみたい」、南武線や池上線にはない、そう思わせるような蠱惑(こわく)的なものが、玉電にはあった。

 そんな玉電も1969年に世田谷線に改称され、さらに1999年から現行の300系車両が導入された。「こんなに立派になっちゃって」。いささか魅力は減じられたものの、「チンチン電車」の香りは今でも感じられないわけではない。

世田谷線の起点は三軒茶屋

f:id:haikaiikite:20190517173230j:plain

三軒茶屋駅を出発する下り線

 世田谷線の起点は三軒茶屋駅で、終点が下高井戸駅になる。私には下高井戸駅に馴染みがあるので、この路線を語るときはどうしても下高井戸・三軒茶屋間となってしまうのだが、下高井戸駅発は上り線になる。今回は、下高井戸から三軒茶屋まで電車に乗り、帰りはあちこちブラブラしながら徒歩にて三軒茶屋駅から下高井戸駅間を訪ね巡った。路線延長は丁度5キロだが、寄り道が相当に多くなるので、約10キロは歩くことになる。

 世田谷線は、東京では「都電荒川線」とともに二つだけある「軌道線」のひとつである。軌道線というのは一般道路上に敷かれた線路を走るもので、”チンチン電車”とか”路面電車”などの名称で語られることが多い。が、荒川線の方は一部、道路上の軌道を走る(さらに駅とは言わず停留場という)ものの、世田谷線はすべて専用軌道(正式には新設軌道)であって、南武線や池上線と同等なはずである。世田谷線がそれにもかかわらず軌道線なのは、その出生背景に答えがある。

 世田谷線の前身であった「玉川電車(略して玉電と呼ばれることが多かった)」は、渋谷から二子玉川まで、そのほとんどを国道246号線の上に敷かれた線路の上を走る”路面電車”であった。そして1925年、その支線として三軒茶屋・下高井戸間を結ぶ世田谷線が開通した。この路線には主要な道路がなかったため、全区間に軌道が新設された。が、本線が軌道線であったため、1969年に本線が廃止されたあとも、世田谷線の法的な地位は、軌道線として位置づけられたままだった。

 ところで、世田谷線のレール間の幅(これを軌間とかゲージと呼ぶ)は1372ミリである。鉄道ファンはよく、「標準軌」とか「狭軌」とかの言葉を使うが、これは欧州の軌間が1435ミリであるため、これを標準軌と呼んでいるだけだ。日本では新幹線がこの「標準軌」であるが、JRや大手私鉄の大半が、1067ミリの軌間を使っている。日本ではこの1067ミリが「標準軌」で、1435ミリは「広軌」と呼んでも間違いではない。

 世田谷線の1372ミリは馬に引かせた客車の軌道の幅であるため、「馬車軌間」とも言われる。実は、京王線(本線のみ)もこの馬車軌間である。軌間が異なると、他の鉄道との相互乗り入れが困難になるため、都営新宿線は他の地下鉄とはちがい、例外的にこの馬車軌間を使っている。京王線は朝夕のラッシュ時には列車間がすぐに詰まりノロノロ運転を余儀なくされ一部からは”団子運転”と揶揄されているが、もしかしたら、今でも電気で動くのではなく、実は馬が引いているのかもしれない。

 ともあれ、世田谷線は出自が「馬車鉄道」であるため、すべて新設軌道を用いていても、扱いは”チンチン電車”になるのであろう。

路面電車扱いは、「若林踏切」を見ると分かる

f:id:haikaiikite:20190517183811j:plain

環状七号線と交差する世田谷線

 軌道線とはいえ、世田谷線には多くの踏切があり、電車が通過する際は遮断機が下り、人も自転車も自動車も通過待ちをする、一つの例外を除いて。それが、写真にある”若林踏切”だ。お分かりのように、ここには遮断機がない。

 環状七号線は交通量が非常に多く、通常の踏切では大渋滞が発生する。が、この踏切では「道路交通法」が車両側にも優先適用されるため、青信号の際は、自動車には「一旦停止」の義務はない。一方、電車の方も信号を遵守し、赤信号の際は踏切への進入はできず、青信号待ちとなる。それが下の写真だ。

f:id:haikaiikite:20190517184655j:plain

赤信号のため、電車も人と同様、信号待ちをする

 少々見づらいが、左手にあるトラックの屋根の上の信号を見ていただければ分かるように、道路を横断する側は「赤」なので、人も電車も信号待ちをしている。これが、”路面電車”たる所以なのである。 

松陰神社を散策する

f:id:haikaiikite:20190517210925j:plain

松陰神社の鳥居

 世田谷線には駅が10あるが、もっとも出掛けたくなる名前の駅が「松陰神社前」だ。駅からは参道のような商店街があり、その名も「松陰神社通り」という。駅から北へ300mほど行くと神社の鳥居が目に入る。鳥居の左側に、この神社の由緒が述べられた掲示がある。この地は長州藩主の別邸があったところで、松陰が刑死した4年後、門人たちによってこの地に墓が改葬され、さらに1882年に松陰を祀るための神社が創建された。私は、山口県萩市には幾度となく出掛けており、その際には必ず、当地の松陰神社に訪れるのだが、世田谷区にあるここは、今回で4度目の訪問だ。

 幕末には魅力的な人物(司馬遼太郎の影響が大きい)が多々現れているが、個人的には吉田松陰にもっとも好感を抱いている。その思想こそ私とは大きく異なるが、その壮絶とも言える生きざまに魅力を覚えるのだ。丁度、フランス革命時のロベス・ピエールの如くに。

 松陰は5歳の頃からスパルタ教育を受け、9歳のときには藩校の『明倫館』に出仕し、翌年には教授をおこなっている。神童という言葉が彼には相応しい。この点にはただ驚くだけだが、私が松陰を好むのは、友人との東北旅行の約束を守るだけのために脱藩したこと、日米和親条約の締結を終えたペリー艦隊が下田に滞在しているとき、その船に乗り込もうとしたことなどの行動力に、である。とくに後者は、「外国の文化を直に学ぶため」とされているが、一方で、「ペリーを暗殺するため」という説もあるようで、個人的には、”暗殺”を試みようとしたというほうが、松陰の生き方としては正しいように思われる。”至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり”の言葉そのものの生き方をしたのだから。

 また、松陰は陽明学最左派の李卓吾の影響を受けており、彼の著作である『焚書』をよく読んでいたという点も興味深い。「相手が出世間の学人でなければ、一緒に学問を論じることはできない。しかし、世俗を超越した人とはなかなか出会えるものではない」(『続焚書』より)という隠遁生活を希求した李卓吾の考え方と、革命家でもある松陰の思いとは必ずしも一致するものではないかもしれないが、松陰の生き方にはどこか超俗的な面があるのは確かで、この点、相通じるものはあったのかもしれない。そういえば、李卓吾は「童心」を最重視していた。これは「いつわりのない真心」という意味で、この点では松陰とはピッタリ合致すると言えるだろう。

f:id:haikaiikite:20190517214831j:plain

神社内にある松陰像。視線の先には、松下村塾を模した建物がある

  神社内には吉田松陰像があり、その向かいには松下村塾を模した建物もある。松陰の門下生には優れた人物が多かったが、彼らは皆、早世した。あまり目立たなかった者が生き残って維新後に権力を握った。松陰の理想とする世界とはかなり隔たった政府の有り様だったろうが、このように”過激な思想”は歴史的には常にファインチューニングされ、大局的に歴史は”漸進的”に発展する。ロベス・ピエール後のフランスがそうであったように。

世田谷にも城があった

f:id:haikaiikite:20190517221038j:plain

建物はないが、空堀、石垣、土塁などが残っている

 世田谷にも城があった。目黒でも”サンマが取れた”ぐらいなので、ここに城があってもおかしくはない。15、6世紀にあった平城で、奥州吉良氏が城主だった。吉良氏は足利氏の一門で、元は三河を本拠としていたが、やがて奥州探題となって足利氏を支えた。しかし衰亡し、小田原北条氏の援助を受けて世田谷に居を構え、小田原城攻略の際の豊臣勢にここを奪われるまで続いた。建物はまったくないが、写真にあるように石垣など、その痕跡はある程度残っている。

 現在は世田谷城阯(じょうし)公園として整備されている。ひっそりとした森があり、静かに読書する人、犬につられて散歩に来た人などが散見された。

上町車庫と「江ノ電601号」 

f:id:haikaiikite:20190518104906j:plain

上町駅の横にある車両基地には色とりどりの電車が待機している

 世田谷城と世田谷八幡宮は吉良氏つながりで関連性があるので、城阯公園の次は八幡宮と考えたのだが、三軒茶屋方向に進む電車から「上町車庫」が見え、それが気になっていたので寄り道をした。といっても、世田谷線は駅間が短いので、この寄り道でも数百メートルの距離でしかないが。

 世田谷線は2両編成の車両が10編成ある。各編成は色分けされているので、見ているだけで楽しくなる。写真左のオレンジ色の車両が三軒茶屋に向かっている上り線で、右手の3編成が待機中の車両だ。軌道には草が茂り、「草原(くさはら)電車」という名が相応しい、のどかな世田谷線である。

f:id:haikaiikite:20190518112429j:plain

宮の坂駅横に鎮座する”江ノ電601号”

 世田谷八幡宮は、宮の坂駅のすぐ西側にあるが、その駅の横を通るとき、古ぼけた車両が展示してあるのが目に入った。かつて玉電で使われていた車両で、玉電本線が廃線になった際、一部の車両は当時、東急の子会社であった「江ノ電」(現在は小田急系)に払い下げられたのだった。600系車両の1番なので”601号”なのだが、江ノ電での第二の生活を終えたのち、里帰りしてこの宮の坂駅横に展示された。乗り降りが自由にできるので、現在は、子供連れの女性たちの社交場にもなっているようだ。

世田谷八幡宮ののどかな境内では?

f:id:haikaiikite:20190518114541j:plain

世田谷八幡宮では神職がカメラマンも務める!?

 世田谷八幡宮は、世田谷城を拠点とした吉良氏がこの地を支配したときに整備したものだ。この地域の神社としてはなかなか有名なようで、秋の例祭では”奉納相撲”が農大の相撲部によっておこなわれるそうだ。

 敷地内には世田谷招魂社や厳島神社などがあり、のんびりと散策するのにも適した場所である。私は信仰心はまったくないが、こうした森閑とした場所を徘徊するのをとても好んでいる。

 この日はたまたまある家族の”出産祝い”があったのだろうか、神職がにわかカメラマンとなって記念撮影をしていたのがとても微笑ましかった。この風景は、神道だけでなく、プロテスタンティズムにも浄土真宗にも通じるものであろう。

豪徳寺と井伊家と招き猫

f:id:haikaiikite:20190518114752j:plain

豪徳寺の本殿は1967年に新造された

 かつて世田谷区の半分の土地を所有していたという豪徳寺は、彦根藩井伊家の菩提寺である。この辺りは先の吉良氏が所有していたのだが、それが滅んだ後、徳川家の譜代大名であった彦根の井伊家の所領になった。

 井伊家に伝わる伝説では、2代目藩主の井伊直孝がこの地で鷹狩りを行った際、寺の白い飼い猫が手招きをしたので、それに応じてこの寺で休息をとった。すると、急に猛烈な雷雨となり、近くの大木に落雷した。雷雨の被害に遭わずに済んだ直孝は、そのお礼に大量の資金を寄進し、そのお蔭で豪徳寺が再建されたとのこと。この手の話はよくあるので、あくまでも”伝承”にすぎないのだろうが、豪徳寺では”猫が福を招いた”ということで、”招き猫伝説”を広めることになったそうな。

f:id:haikaiikite:20190518120644j:plain

招福観音横には招き猫の置物がたくさんあり、観光名所になっている

 三重塔の干支(えと)の彫り物には、ネズミの中に猫が混じり、「招福観音」境内の中には、招き猫の置物が多数並べられている。私が訪れたときには大勢の外国人観光客がいて、とても興味深そうに招き猫の陳列を眺めていた。

 この招き猫はここで置物を買い求め、福が生じたのち再びここを訪れ、お礼にその置物を奉納したというものが多いそうだ。

 ここの招き猫は”右手”を挙げているが、他では”左手”を挙げているものもある。右手は”金”を招き左手は”人”を招くそうだ。豪徳寺の伝承では白い猫が右手を挙げて直孝を招いたので、ここの場合は”右手を挙げた白い猫”がすべてである。

 招き猫といえば、彦根市ゆるキャラひこにゃん”はこの豪徳寺伝説がルーツになっている。10年近く前、私が彦根城を訪れた際、いつになく騒がしい人の群れがあった。私も好奇心があるのでその群れに近づいた。なんと、”ひこにゃん”が地元のテレビ番組の撮影のために彦根城に来るとのことだった。それを聞くと、馬鹿々々しくなってすぐにその場を離れた。"ひこにゃん”はそれまでその顔つきからイヌだと思っていたが、そのとき、”にゃん”だからネコなのだと気づいた。にゃんとも恥ずかしい誤解だった。ともあれ、”ひこにゃん”の”白さ”は豪徳寺の猫の色に、その被り物の”赤”は「井伊の赤備え」に由来するそうな。

 豪徳寺以外では、両手を挙げたり、色も白以外のものもたくさんある。”招き猫伝説”は各地にある(空海説や浅草説など)ため、いろんな招き猫が”開発”されているようだ。私の場合、伝承には興味があるが、置物そのものにはまったく興味がわかないので、仮に招き猫の置物を頂いても、すぐに「もやさないごみ」の袋に入ることになる。

f:id:haikaiikite:20190518122119j:plain

吉田松陰とも因縁がある井伊直弼の墓

 豪徳寺彦根藩菩提寺であるため、井伊家代々の藩主とその室の墓がある。当然、”安政の大獄”で名高い井伊直弼の墓もある。吉田松陰はこの大獄に連座して1859年に処刑されたのだが、その翌年、井伊直弼も”桜田門外の変”にて暗殺されている。松陰が処刑されてから5か月後のことだ。

 吉田松陰は”松陰神社”に眠り、井伊直弼は”豪徳寺”に眠っている。因縁深いこの二人の墓は、直線距離にすれば約1キロのところにある。

山下駅豪徳寺駅

f:id:haikaiikite:20190518123230j:plain

山下駅を出て宮の坂駅に向かう世田谷線。上にあるのが小田急豪徳寺駅

 世田谷線から豪徳寺に行くには山下駅宮の坂駅を利用する。参道から山門に至るには宮の坂駅のほうが少し近い。しかし、小田急線の豪徳寺駅に隣接しているのは山下駅なので、実際には山下駅で下車する人の方が圧倒的に多いようだ。山下駅からは小田急豪徳寺駅の前を通り、結構にぎやかな商店街を抜けて豪徳寺に至る。

 世田谷線の車内でも”小田急線の豪徳寺駅をご利用の方はここでお乗り換え下さい”といったような放送がある。これならば、”山下駅”のような豪徳寺をまったくイメージできない名前より”豪徳寺駅”を使った方が、利用者にとっても分かりやすいと思うが。

 写真からも分かるように、世田谷線の白い車体には”招き猫”がデザインされている。猫は白く、右手を挙げている。いわゆる”豪徳寺パターン”である。ならば、豪徳寺には敵愾心はないと想像できるので、豪徳寺駅への変更は可能だろう。それとも、小田急線への敵愾心なのか。ちなみに、下高井戸駅世田谷線京王線も共通している。邪推すれば、世田谷線には”松陰神社前”があるからなのだろうか。

世田谷線には月見草がよく似合う

f:id:haikaiikite:20190518125449j:plain

草原の中を走る世田谷線

 世田谷線は沿線の人にも愛されているようで、線路脇には住民の協力によって花壇が多く設えられている。アジサイタチアオイが多いので、6月には美しい花の中を走るカラフルな電車が見られるし、一方、乗客も色とりどりの景色を望むことができる。

 私が徘徊していた時期は、上記の花たちは花芽を膨らませてはいたものの開花には至っていなかった。咲いていたのは大方、”貧乏草”(ハルジオンやヒメジョオン)だったが、松原駅と下高井戸駅の間にある赤松公園脇では、線路内に咲く”ヒルザキツキミソウ”が満開になっていた。これは植栽ではなく自生したものだろう。

 ツキミソウは初夏の花の中では好きなもののひとつで、これとアカバナユウゲショウが路傍に咲いているのを見ると、「もうすぐ鮎の友釣りの季節だなぁ」と想う。どちらもマツヨイグサの仲間で、5月初旬から開花する”雑草”の一種である。それにしても、名称が優雅で、牧野富太郎先生には叱られるが、この属の花だけはカタカナ表記ではなく漢字表記したい。”待宵草”属の”昼咲月見草”や”赤花夕化粧”というように。

 ともあれ、月見草が咲く中を走る世田谷線を撮りたかった(三軒茶屋に向かう電車の中からこの花が咲き誇る姿を見つけていた)ので、下高井戸駅に向かうときに、ここでカメラを花の前で構えつつ、電車が来るのを待った。

 富士ではなく、世田谷線には月見草がよく似合う。

古さが魅力の下高井戸駅界隈

f:id:haikaiikite:20190518131526j:plain

高井戸駅に入線する招き猫カラーの世田谷線

 下高井戸駅は新しくなり、車両もまた新しくなって古の面影はないが、下高井戸駅から一歩外に出ると、私が京王線の車内からずっと以前に見ていたままの景色がそこにはあった。下高井戸駅前市場や下高井戸商店街である。単なるノスタルジアだけでなく、ここでは人の営みを感じることができる。

f:id:haikaiikite:20190518132553j:plain

高井戸駅前市場には”人と人との近接感がある”

 私の地元では古い商店街をすべてつぶし、店は大部分、大きな建物の中に閉じ込められた。そこには歴史はなく、歴史を残すこともない。

 世田谷線は新しくなったけれど、沿線には数々の古い町並みが残っていた。人と人との距離の近さ、それがこの沿線の一番の魅力なのだ。

〔08〕徘徊老人・足尾~渡良瀬川上流紀行

f:id:haikaiikite:20190510142127j:plain

足尾砂防ダムから渡良瀬川が始まる

5月11日は足尾銅山鉱毒事件の転換点の日

 1974年5月11日、国の公害等調整委員会は当時の古河鉱業の加害者責任を認め、鉱毒事件の被害者に対する補償金の支払いを命じた。これは、1970年の「公害国会」以来、高度経済成長による”歪み”が社会問題化し、これ以上環境悪化を放置できないということをやっと認識しはじめた国の対策のうちの象徴的出来事であった。今から46年前の5月11日のことであるが、そもそも、足尾銅山鉱毒事件はすでに1880年代から問題化し、91年からは、田中正造が度々、当時の帝国議会で指弾してきたことだった。国が企業の社会的責任を認めるまでには、実に90年近い歳月を必要としてきたのだ。

 古河市兵衛足尾銅山を買収したのは1877年のこと。今話題の渋沢栄一も、買収資金の多くを拠出している。江戸時代にはすでに掘りつくされていると考えられていた銅山だが、80年代に入り有望な鉱脈が次々と見つかり、83年には早くも産銅量は日本一となっている。一方、精錬所から出る多量の亜硫酸ガスによる被害は地元の松木村などに広がり、ここは廃村となった。

 煙害は山の樹木も死滅させ、周囲の山々には一木一草もない状態となった。森林が失われたために山の”保水力”が失われ、その結果、渡良瀬川下流域は度々、大洪水に見舞われた。そればかりか、鉱毒が肥沃だった田畑に広がり大きな被害をもたらした。

 この対策のため、治山工事として”はげ山”への植林活動が1956年頃から始まっているが、写真からもわかるように源流域の山々の緑はさほど回復していない。

f:id:haikaiikite:20190510150228j:plain

足尾砂防ダムの上部には3つの谷川が流れ込む

砂防ダム内は大量の土砂が堆積

 はげ山となった山々からは大きく、3本の谷川(久蔵川、松木川、仁田元川)が流れ込んでいる。そのうち、松木川が主流で、日本百名山の一つである皇海山(すかいさん、2144m)に源を発している。松木渓谷はその景観から”日本のグランドキャニオン”とも呼ばれているらしいが、峡谷化した主要因は煙害による樹木の喪失なのである。

 3つの谷川が砂防ダムの直上でひとつになり、渡良瀬川となってダムから落下している。谷川が削り取った山肌は細かな土砂となって下流域を襲うため、1947年のカスリーン台風の大被害を切っ掛けとして砂防ダムの必要性が認知され、55年にダムは完成した。

  砂防堰堤の谷川面では大量の土砂が積もっており、3本の川は谷を流れるというより、砂浜を這うように流れるといった感じである。前述のように、まだ山の養生は始まったばかりのような状態のため、山からの土砂の供給は当分続くことが予想されるので、今度は堆積した土砂の掘り起こしが課題となりそうである。

f:id:haikaiikite:20190510152537j:plain

小さな流れの中には、赤銅色に染まったものもあった

 堰堤にほど近い場所の細い流れの底には赤銅色の堆積物が見られた。本流筋こそ比較的綺麗に見える谷川だが、こうして細部を観察してみると、ここが銅山であったことの素性は隠しようがない。

砂防ダムから渡良瀬川の物語は始まる

f:id:haikaiikite:20190510183807j:plain

3本の谷川が1本の流れになって渡良瀬川がはじまる

 砂防ダムの堰堤は一部低くなっており、ここから3本の川が集めた水が1本の川となって流れ下る。この落下点から渡良瀬川が始まる。もちろん、河川全体としての渡良瀬川は、皇海山が貯めた湧水の一滴から始まってはいるのだが、堰堤の上までは松木川の名前で支流の水を集めつつ多くを蓄えてきた。

f:id:haikaiikite:20190510184700j:plain

川は谷を一気に下ることがないよう、いくつもの段差がつけられている

 砂防堰堤から解放された水の流れは、本来であれば一気に流れ下りたいところだが、落差が急で両岸の岩が比較的もろいため、勢いを減じるための段差がいくつも造られている。この先にも小さな堰堤が多数作られ、流れを抑え込むのと同時に砂止めの役割を持たされている。

1989年、精錬所は事実上、操業を停止した

f:id:haikaiikite:20190510185841j:plain

30年前に役目を終えた旧精錬所

 川の右岸にある巨大な煙突が特徴的な旧精錬所だが、ここを訪れる度に劣化の度合いを増しているように感じられる。大きな富と、そしてより大きな害悪をもたらした”象徴”として往時の姿を残しているのは、「足尾銅山世界遺産登録を推進する会」の運動と関係があるのだろうか。それはともかく、この精錬所跡は”負のレガシー”として可能な限り、その姿を留め置くべきだろう。 こんな谷底に精錬所を造ると、煙が谷間に充満し被害が拡大するということすらわからない無知の印として。

足尾の産業遺産

f:id:haikaiikite:20190510211227j:plain

集落と精錬所をつなぐ橋

 「ふるかわばし」は、それまでの木造の「直利橋」に代わって1911年に建造された。長さは48.5m、幅員は4.8m。この上を電気鉄道のレールも引かれたそうだ。一時は歩道として利用されたこともあったが、老朽化のため現在は立ち入り禁止になっている。日光市によれば”足尾銅山の誇れる産業遺産”とのこと。

f:id:haikaiikite:20190510211931j:plain

間藤駅から精錬所をつなぐ線路。現在は廃線

 かつては主要な輸送路として鉄道が用いられていた。現在は”わたらせ渓谷線”として桐生から間藤までの運行で、間藤から精錬所までは廃線となっている。鉄道跡は危険防止のため全面立ち入り禁止となっている。

f:id:haikaiikite:20190510212751j:plain

銅山が活況を呈して頃は、この間藤集落は大賑わいだったらしい

 川の左岸には、間藤集落がある。谷のすれすれのところまで住居があったと思しき石垣や石積階段が残っている。また山側も同様で、山裾まで住居跡がびっしりある。集落の中央を通る県道250号線は幅員に余裕がある。往時の往来の激しさを物語っているようだ。一方、写真のように住宅と住宅との間の道はとても狭い。山間の狭い空間に多数の家を建てる必要があってのことだろう。

 足尾町は2006年に日光市編入された。間藤集落の北側の山を越えれば、そこには中禅寺湖があるのだ。銅山が盛んな頃、足尾町は栃木県内では宇都宮市に次ぐ人口数で、約4万人が住んでいた。それが現在では2千人を下回っている。足尾でもっとも活況を呈していたのがこの間藤地区だったそうで、集会場に残っている当時の写真を見ると、今となっては信じられないぐらいの賑わいだったようだ。

無縁石塔

f:id:haikaiikite:20190511110150j:plain

松木村の無縁石塔

 間藤集落にある龍蔵寺は一見、どこの田舎にもある小さなお寺だが、その本堂の小ささに比べ、墓所の広さに、墓の多さに驚かされる。それはそのまま、現在の集落の閑散さとかつての繁栄との対比を象徴している。

 境内には、ひときわ目立つ石塔がある。旧松木村の”無縁石塔”だ。かつてあった松木村は、銅山からの悪影響をもろに被った。かつて盛んであった養蚕は、煙害のために桑の木が全滅したことで廃業した。20ヘクタールの農地は、煙害のため無収穫地となった。このため、1902年、一戸2名のみを残して廃村となった。石塔は、悔しさを抱きつつ、かつてあった村を静かに見つめているようだ。

わたらせ渓谷線の終着駅

f:id:haikaiikite:20190511111655j:plain

平日の間藤駅はひっそりとした空気がただよう

 休日は「トロッコ列車」で渓谷美を楽しむ旅行客で賑わう間藤駅だが、平日はごく普通の車両が、桐生駅間藤駅を行きかう。写真は昼時の運行車両なのでとくに利用者は少ないのかもしれないが、車内を見回したところ乗客の姿は1名だった。1、2時間に1本という数の運行では、定期的に鉄道を利用する住民はいないのだろう。もっとも、間藤集落で見かけた住民とおぼしき人はすべて高齢者。山の手入れをする業者の姿もあったが、この人々は車利用なので、渓谷線を使う合理性はない。

 桐生市から足尾へはよく整備された国道122号線が走っている。この国道は足尾の集落をバイパスし間藤の手前で北上を続け、15キロ先で”いろは坂”の下に出る。日光観光のための乗用車や物資流通のトラックが多い国道だが、99%以上は間藤集落に入る直前の旧道と合流する”田元交差点を右折して日光市街方向に進む。

 トロッコ列車の利用客は途中の”渓谷美”を味わう。間藤駅は、ただその列車の終着駅以上の意味を有してはいないのだろう。一方、産業資本主義の”廃墟”と渡良瀬川の源流点を幾度となく訪ね歩く私のような存在は、単なる”変な人”にすぎない。

草木湖とダムと渡良瀬川の第二の源流

f:id:haikaiikite:20190511114702j:plain

草木湖の先には男体山がそびえる

 1976年に竣工した草木ダムは、渡良瀬川の氾濫抑制と発電事業、それに飲料水、農業用水の確保、さらに鉱毒の沈殿などを目的に造られた。利根川水系に造られた大規模多目的ダムのひとつで、東京都民にもここの水が供給されている。ここでは他のダムにはない水質検査が適宜おこなわれており、異常な数値は計測したことがないとのことだが、”ニッポンの統計”は簡単に操作されるので、真偽は不明だ。

 ダム湖の草木湖は群馬県みどり市にある。湖のバックウォーターあたりから渡良瀬川はしばし栃木県を離れ、群馬県を流れることになる。重力式コンクリートダムであるここは堤壁の高さが140mもある巨大構造物である。今回訪れて初めて知ったのだが、堤壁の下に行く道があり、公園として整備されたその場所からは140mの高さの構造物を下から見上げることができる。

 堤壁の近くには”東第二発電所”の建物があった。ダム湖の水の多くは他の目的のために別のところに誘導されるのだが、渡良瀬川の本流の水量を維持するために、ほんの少しだけ放水路を伝って放水されているのだ。この流れを利用して発電事業を行っているのが第二発電所なのである。

f:id:haikaiikite:20190511120932j:plain

草木ダムの巨大な壁と小さな放水口

 私は、可能な限り堤壁に近づいてみた。そして、放水口を見つけた。写真の右手にある小さな流れが、中下流渡良瀬川の源なのである。ここは、渡良瀬川の第二の源流といえる存在なのだ。

 小さな3本の谷川が渡良瀬川を造った。しかし、人の手が山を荒らし、本来、森が蓄えるはずだった雨水をほとんど直に放出し、大きな流れを造ってしまった。渡良瀬川が暴れ川になったのは、人為によるものだった。それを抑えるために足尾砂防ダムを造り、草木ダムを造っている。

 足利市渡良瀬川右岸で出会った老人との会話を思い出した。「私が幼いころは、よく橋の上から川に飛び込んで遊んだものです」。このダムがまだない頃は、渡良瀬の流れはもっと豊かだったのだろう。「でも、川は時々、真っ赤に染まることがあり、そんなときは、地域や学校から、すぐに川遊び禁止の指令がでました」とも寂しそうに語ってくれた。

 それでも渡良瀬川は流れている。いや、川が流れているのではなく、水が流れているのである。そのように、渡良瀬川は、いつもそこにある。 

 

◎追記

 この小さな旅のときも足利市に宿をとった。この日は前回とは異なり終日、晴れだった。夕方、私は川の右岸に立ち、沈みゆく夕日と金色に染まる川面を眺めていた。渡良瀬橋に沈む夕日を撮影する予定だったのだが、景色に見とれていたため、写真を撮るはずだったと思い出したときは、日はほとんど沈んでおり、残光だけが橋をそして天を染めていた。

f:id:haikaiikite:20190511123754j:plain

渡良瀬橋の向こうに沈んでしまった夕日

 

〔07〕徘徊老人・越生~山吹、ツツジ、滝と峠と

越生町には訪ねたい場所がいろいろある

f:id:haikaiikite:20190503144742j:plain

越生は梅林と同じくらいツツジで有名

 埼玉県の越生(おごせ)町といえば、まず「越生梅林」を思いうかべる。ここは関東三大梅林のひとつとされている。また、梅の実の生産高でも、越生は埼玉県随一らしい。さらにいえば、ユズの生産高は関東一とのこと。

 ところで、三大梅林のあとの二つは「水戸の偕楽園」と「熱海梅林」らしいが、これは誤りの可能性が高い。なぜなら、熱海市静岡県なので中部地方に属するからだ。もっとも、関東地方の法律上の定義はないので、静岡を関東に含めても誤りにはならないだろうが。ウェブサイトで「関東三大梅林」を調べると、どうしても熱海を含めたいらしく「神奈川県熱海市」とある。確かに神奈川県であれば関東地方には違いないが、熱海が神奈川県に属するというのは、牽強付会という他はない。ここは素直に、神奈川県小田原市の「曽我梅林」を挙げておくのが無難ではないか。ことほど左様に、ネットの情報は「怪しい」ことが多々あるので要注意だ。

 私が越生町を目的地として初めて訪れたのは35年ほど前で、梅の花目当てだった。が、その後、越生には梅林以外にも訪ねてみたい場所が多々あることを知ったので、以来、数年に一度程度だが、梅の花の季節以外にもここを日帰り旅の目的地にするようになった。それが「五大尊つつじ公園」であり「山吹の里」であり「黒山三滝」であり「奥武蔵グリーンライン」である。

 越生町を訪れた5月2日は、雨のち曇り、ときどき晴れという「猫の目天気」だった。写真撮影には決して良いとはいえない天候だが、とにかく知人と「犬の駆け足」といった感じで、目的地を訪ねて歩いて(おもに車利用だったが)みた。

越生は「山吹の里」でもある

 兄や姉(全部で4人)に太田道灌の名をあげると、全員が「江戸城」と答える。別のときに山吹の花を指し示すと、今度は全員が「太田道灌」と答える。いずれも「パブロフの犬」状態の反応だった。この「江戸城太田道灌⇔山吹」というトリアーデは、他の人に尋ねてもほとんど同様の返答がある。かなり普遍性をもった三位一体なのかも。

 自生しているのか植樹したのかは不明だが、越生には山吹の花がとても多い。県道を走っていても、山里の道を走っていても、里山を歩いていても、やたら山吹が目に入る。これには太田道灌と山吹との関係を示す「逸話」が作用(反作用?)していることに間違いはないだろう。

 太田道灌越生に隠居していた父親のもとを訪ねる際(鷹狩りに来たという説もある)、不意の雨に遭ったので、茅屋(ぼうおく)に住む農家に立ち寄り、蓑(みの)を貸してもらうよう頼んだ。しかし、そこに住む小娘は、蓑を差し出す代わりに八重山吹の花を無言で道灌に指し示した。この予想外の行為に怒った道灌はその場を立ち去り、後にこの小娘の行為を非難する形で人に話したところ、皆から道灌の無知を指摘され、以来、道灌は武道だけでなく歌道にも励むようになったという、”いかにも”という出来過ぎた話だ。

  七重八重花はさけども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

  兼明親王 『後拾遺和歌集』より

f:id:haikaiikite:20190503161151j:plain

県道沿いにある「史跡山吹の里」には茅屋と八重山吹の群生がある

 小娘はこの歌を材料に、「蓑」と「実の」とを掛詞(かけことば)にして、蓑を持ち合わせていないことの詫びを表したのだ。実際に八重山吹は実生しないのだが、田舎の農家の小娘がすぐさまこんな機転を働かせることができるとは考えられないので、後世に作られた小話にすぎないだろう。反面、太田道灌は武人としても歌人としても優れていたのだろうが、いささか功を誇り過ぎたために謀殺されたという事実と照らし合わせると、この話は出来過ぎ以上の意味を持つのかもしれない。

 太田道灌の墓は越生にもある。著名な人は分骨されることが多いので、何か所かに墓があることが多い。この地では「龍穏寺」の小高い墓所に埋葬されている。

f:id:haikaiikite:20190503182623j:plain

山間にある龍穏寺。境内には山吹とシャガが多く咲いていた

  前述したように、道灌の父親はここ越生で隠居生活を送っていたので、父子は並んで眠っている。太田道灌の往時の権勢を思うと墓はあまりにも小さいが、この謙虚さが彼にあったなら、もっと違った形の道灌像が歴史に残ったであろう。

 

f:id:haikaiikite:20190503182926j:plain

道灌とその父の墓。思いのほか小さい

五大尊のツツジは見事に咲き誇っていた

 五大尊の山すそにある公園には、10種類、約1万本のツツジが植えられている。”関東一”をうたっているが、その真偽はさておき、例年、大型連休時に咲き誇るツツジ群は今年も健在で、見事というほかはない。中には樹齢300年以上という”古木”もあるが、ツツジは樹齢が1000年といわれているので、300年といえばまだ”壮木”かもしれない。

 ツツジは普通の街中の街路樹や庭木としていたるところで見られるが、そのほとんどが刈り込まれているため、ツツジは低木と思っている人が多いようだが、実際には5mほどの高さになる樹木なのである。

f:id:haikaiikite:20190503184005j:plain

里山の斜面を利用して植えられている。見ごたえはあるが、”歩きで”もある

 五大尊の境内には、”札所巡拝碑”がある。四国八十八カ所霊場だけでなく、西国・坂東・秩父百観音霊場の「写し霊場」コースが整備されている。ツツジを見物しながらコースを巡ると、全国の霊場を巡るのと同じご利益があるとされている。私は本場の四国八十八カ所霊場をすべて回ったことがあるが、幼いころからの習性として、お参りは一度もしたことがないので、ご利益を受けたことがない。

 五大尊は密教系で、不動明王降三世明王大威徳明王、軍荼利(ぐんたり)明王金剛夜叉明王という五大明王を指すとのこと。五大尊堂と霊場写しコースを巡り、お祈りし、かつツツジの美しさに触れれば、きっと良い事があるだろう‥‥多分あるいは、もしかしたら、運が良ければ‥‥

小さな滝は深い森の中にある

 越生梅林のある里山道からゆっくりとすそ野を上って行くと、”黒山三滝”に通じる道に出会う。「黒山三滝入口」の標識があるのですぐに分かる。道の右手には駐車スペースがあり、この日は満杯に近い車が止まっていた。滝までは、ここから三滝川に沿うだらだらとした坂道を上って約15分で最初の滝である「天狗滝」の入口に到達。

 天狗滝は、三滝では一番落差があり約20m。が、岩石が崩落しやすい場所にあるため、滝近くまで行くことはできない。滝の近くまで寄らないとその全貌を見ることはできないのだが、”ここから先は立ち入り禁止”の言葉を無視してまで前に進むほどではないと思ったので、立ち入れるぎりぎりの地点から滝を見上げた。今年は川、沼、池、湖の多くで水量が不足しているため、この滝もかろうじて水が落下しているといった状態であった。

f:id:haikaiikite:20190504120242j:plain

左から女滝、男滝、天狗滝。水量の少なさが迫力を減じている

 天狗滝入口から男滝・女滝まではあと数分。昔ながらの風情の土産店の前を過ぎると滝に出会える。上方にあるのが男滝(落差10m)、その下にあるのが女滝(落差5m)。ここも水量が極めて乏しかったので、迫力という点では感じ入るものはなかった。が、周囲の森を見回すと、その急勾配といい、足場の悪さといい、整備されたハイキングコース以外、上るのは極めて困難と思えるほど森は深いようだ。

 それもそのはず、この黒山一帯は、以前から修験道の修行場として使われており、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が開いたとも言われている由緒正しい修行場なのである。

 滝自体はレッドチャートと御荷鉾(みかぶ)緑色岩との境に形成されている。特に天狗滝ではチャートの赤い岩肌がよく見えるはずだが、あまりにも苔むしているため確認は難しかった。一方、三滝川、その本流筋の越辺(おっぺ)川では、緑色岩が河原に多くころがっている。

 駐車スペースの車の多さに比べ、滝を訪れる人は極めて少なかった。黒山三滝からは奥武蔵グリーンラインの傘杉峠に抜けるハイキングルートがあるので、そちらに向かったのかもしれない。一方、駐車場で出会った人々はハイキングのいでたちではなかったので、近くの”古式ゆかしい”お店で時間をつぶしていたのかもしれない。

峠道にある奥武蔵グリーンラインを行く

 黒山三滝から東秩父村に抜ける”奥武蔵グリーンライン”は尾根筋を進む林道で、道はかなり細い。落石も多い。さらに何度もハイキングコースと交錯しているので、事故の危険性もある。が、ここをあえて進むのには訳がある。ところどころであるが、景色が素晴らしいのである。

f:id:haikaiikite:20190504122839j:plain

顔振峠からの眺め。大地の皺がよく見える

 三滝から林道を進み、最初に出会うのが顔振(かぶり、かあぶり、こうぶり)峠。標高は500m。この高さが具合良く、前方に広がる幾重もの尾根筋や丘陵が「大地の皺」のように見える。数年前、峠の茶屋で知り合ったお爺さんとその皺の数を数えたら13本もあった。ここより低い場所では手前の山が視界の先をふさぐので見える皺の数は少ない。ここより高い場所では、皺の凹凸がはっきりしなくなるので、皺を数える動機が希薄になる。

 義経や弁慶の一群は、奥州へ逃れる際にこの道を通ったそうな。この峠から見る景色があまりにも素晴らしく、前に進む足をしばしば休めてこの景色を見るために振り返った。ここから”顔振”の名がついたそうな。

 この日は雨あがりの束の間の晴れ間だったので水蒸気が立ち込めていたためか、視界良好とはいかなかった。それでも、13筋目の丹沢山塊もかすかながら見えた。写真の右手にある、この中では一番高い山が大岳山(おおだけさん、1267m)。私の地元では”キューピー山”と呼んでいて、多摩地区中部に住む人々にとっては自分の位置を知る”ランドマーク”になっている。が、ここからではとても”キューピー”の頭には見えない。ちなみに、峠の茶屋のご主人に山の名を尋ねると、「大岳山かも」という面白くもなんともない答えが返ってきた。確かに、ここからでは山のコブ程度にしか見えない。この写真にはないが、この右手には正三角形の頂上を持つ蕎麦粒山(そばつぶやま、1473m)がよく見え、これが顔振峠のランドマークになっているのだ。

峠道を歩く~峠の向こう

 道はかつて、異界につながる恐るべきものと考えられていた。漢文学者の白川静によれば、”道”の字の首は、異界の人の首という意味を表し、しんにょうは行くを表す。つまり、道を行くときは異界の人の首を捧げ持ち、それを呪力として邪気を払いながら進むのである。道は他者との交流によって豊かになるものとして存在するのではなく、なるべく忌避するものであったようだ。

 こんなことを最高の釣り仲間であったN氏(故人)に話をしたところ、「それなら、峠道であればもっと奇怪なものに多く出会えるはず」と言い、人生の最後に作る予定の映画を『峠の向こう』にすることにしようと、彼は決然した。

 良い景色を求めてグリーラインをさらに進み、関八州見晴台(標高771m)に行くことにした。車を路肩にとめ、約10分坂を上ると見晴台に着く。

f:id:haikaiikite:20190504131038j:plain

見晴台への峠道。雨上がりなのでやや滑る

 峠道を歩いていたとき、再びN氏のことを思い出した。

 N氏は都心の一等地に豪邸を構える大金持ちの映画監督(担当はドキュメンタリーと美術)。一方の私は、多摩のド田舎のあばら家に住む、しがない予備校講師(担当は数学と政治経済)。N氏は私の15歳上。普通なら一緒にいるはずのない二人を結びつけたのは”釣り”。大きな磯釣りクラブに入り、そこでN氏と出会い、意気投合した。磯釣りはクラブ員と出掛けることが多かったが、渓流釣りには二人で行った。彼の車で行くときはいつもクラシック音楽がかかり、私の車のときは中島みゆきオンリー。彼は大酒のみで私は下戸。

 彼は渓流釣りのときは、できるだけいろいろな山の渓谷に出掛けることを望んだ。よく釣れる場所に出会っても、同じ場所へ再訪することは望まず、常に新天地を求めた。その理由は、『峠の向こう』のロケ地探しも兼ねていたからだった。大金持ちの彼は、気に入った山があったらそれをひと山ごと購入するというのだ。そしてそれを自分の映画の舞台に適するように改造するらしい。実際、以前に山に立てこもるゲリラを描く映画を作るときも、山を買い取ったとのことだった。

 が、知り合いの釣具店の若旦那にそそのかされて二人は鮎の友釣りを始めると、完全に釣りの方に熱中し、映画のことが話題に上ることは少なくなった。それでも、鮎釣り場に出掛けるときには山々を通過し、釣りをしているときにも山は常に目に入るので、話題から消えることはなかった。

 小さな集落に住む少女は、自身の好奇心から峠の向こうにあるとされる村に出掛け、そこで修羅の世界に出会う。這う這うの体で逃げ出した少女は自分の集落に戻るが、そこはさらに過酷な修羅の世界に変化していた。峠を越えるたびに村の世界は畜生→餓鬼→地獄と落ち込んでいくというプロットをN氏は私に語り、「脚本は君に任せたから」といってイワナやアユの骨酒をひたすら飲みまくって寝てしまうという日々が続いた。

 結局、映画は完成することなく、N氏はすい臓がんでこの世を去った。彼が死の間際に残したテープには、中島みゆきの『誕生』がエンドレスに録音され、その音楽に重ね、私への感謝と映画が日の目を見なかった悔悟の言葉が語られていた。

f:id:haikaiikite:20190504135130j:plain

峠の向こうには、やはり魅力的な景色が広がっていた

 関八州見晴台に到着し、周囲を眺めた。ややガスっていたため決して眺望環境は良くなかったが、それでも東京都心、丹沢山塊、秩父連山、日光連山が見て取れた。

 峠の向こうには綺麗な景色が広がっていた。しかし、詳細までは見えなかった。

 細部(ディテール)に宿るのは、はたして神々なのか、それとも悪魔なのか、私には知る由もなかった。

 

〔06〕徘徊老人~渡良瀬紀行

渡良瀬川との出会い

f:id:haikaiikite:20190426182959j:plain

渡良瀬川の右岸から流れを望む

 渡良瀬川の名前を知ったのは、小学生のときだった。本を読むことはまったくなかったが、地図や図鑑を見るのはさほど嫌いではなかった。悪天のために外で遊ぶことができなかったときは、兄と一緒に地図帳を広げ、地名探しゲームをよくおこなった。片方が地図帳の中から気になった地名や川、湖、山の名を読み上げ、それをもう一方が地図の中からそれを探すという他愛もない遊びなのだが、これが結構面白かった。地図の上だが、このころからすでに徘徊の兆しがあった。その遊びの中で、もっとも印象に残った川の名前が”渡良瀬川”だったのである。

 中学生になると、この川は「音の清らかさ・情緒深さ」とは異なり、長い間つらく厳しい戦いの舞台となっていた(現在も解決したわけではない)のだということを知った。断片的ではあるが、「足尾銅山鉱毒事件」「田中正造」「天皇への直訴」「谷中村の廃村」「渡良瀬遊水地」という言葉が情報として目や耳から入り込んだ。それでも「わたらせがわ」という音は、私にある優美で甘美な思いを抱かせ続けた。

 放浪が始まった高校時代からは、旅の友が『おくのほそ道』になったため、渡良瀬川についての思いは次第に消え、たとえ"マドレーヌを紅茶に浸し"ても、あの「音の清らかさ」は戻ることがなかった。もちろん、「鉱毒事件」は日本資本主義の典型的な汚点として満腔の怒りを込めて非難し、そのことを肌で感じ取るため足尾町へは何度も出かけていた。田中正造の”非立憲”に対する批判について学び、併せて田中正造の生家や墓地へも行った。当然、渡良瀬川にはかなり多くの回数、触れていた。しかし、川に対する抒情的な思いが蘇ることはなかった。

 それが、ある切っ掛けにより、渡良瀬川への切なる思いが再び私の心に生じたのである。それは、森高千里の傑作、『渡良瀬橋』を聞いたことからだった。

渡良瀬遊水地に立ち寄る

f:id:haikaiikite:20190426194328j:plain

遊水地の中核である谷中湖

 渡良瀬遊水地の南側にあって、その中核をなすのが”谷中湖(渡良瀬第一貯水池)”である。地図や航空写真で渡良瀬貯水池を見ると、ハート型をした池があるのがすぐに分かる。ハートの窪みあたりには史跡保存ゾーンがあり、遊水地を造るために廃村になった谷中村の役場跡や住居跡などが残されている。

 渡良瀬川利根川の支流だが、一級河川として流域面積は広く、沖積平野に流れ込むと高低差が小さいので、よく洪水・氾濫を起こした。鉱毒を含んだ水があふれ各地の田畑を汚染した。渡良瀬遊水地、とりわけ谷中湖はここで氾濫を抑え、また鉛毒を沈殿させて下流域、つまり利根川へ汚染が広がるのを防ぐ役割を持った。このために、利根川との合流直前の地にあった谷中村を潰したのだ。

 また渡良瀬川は、利根川との合流直前に思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)という大支流を合流させているので、水量は相当に豊富だったのだろう。このために、谷中村一帯が標的にされたのである。それにしても、渡良瀬川といい思川といい、なんて抒情的な名前を付けたのだろうか。

f:id:haikaiikite:20190426200234j:plain

写真右手が思川、左手が渡良瀬川

 私が出かけた日は午前中、雨模様であったので、谷中湖も両河川の合流点も雨に煙っていて見通しは悪かった。

f:id:haikaiikite:20190426200623j:plain

谷中村役場があったところ。土盛りされているのが分かる

 村役場や住居があった場所は必ず土盛りされている。これはもちろん、洪水から住居を守るための工夫である。史跡保全ゾーンには、こうした土盛りが点々として残っている。確かに、渡良瀬川の洪水・氾濫には厳しいものがあったことがうかがえるが、それだけなら、中部地方木曽川長良川河口付近にみられる”輪中”という対処の仕方があったはずである。やはり、「鉱毒の沈殿」という条件があったために、広大な湿地帯と沈殿池が必要とされたのだろう。

 谷中湖一帯は現在、運動公園や釣り場、散策路などが整備されている。また、渡良瀬遊水地は「ラムサール条約」の保全地に認定されている。しかし、土中には依然として多量の鉛毒が含まれていることを忘れてはならない。

f:id:haikaiikite:20190426203826j:plain

田中正造の墓がある雲龍寺には記念碑や救現堂もある

 田中正造の墓(他にもあるが)は、渡良瀬川左岸の雲龍寺(群馬県館林市)にある。ここは彼の運動の拠点でもあった。衆議院議員選挙に6回も当選した田中ではあったが、資産をなげうって反対運動を率いたため、72歳で病死したときは一文無しで、残ったものは袋ひとつ。中には聖書、大日本帝国憲法、小石3個などだけだった。

 私には墓参りの習慣はないが、ここ十数年、渡良瀬川を訪れたときは、ほとんどといっていいくらい、この寺に立ち寄り田中の活動のことを想う。そして、”小石3個”の重さをずっしりと感じる。

足利市の中央には渡良瀬川が滔々と流れる

f:id:haikaiikite:20190427101617j:plain

足利といえば足利学校をまず思い浮かべる

 足利市は観光地として年々、訪れる人を増やしているが、その多くは「あしかがフラワーパーク」で、今頃は”藤棚”で大賑わいだろう。私にとって花は好きなもののひとつだが、わざわざ混雑する場所にはいきたくないので、”日本一の藤棚”にはあえて近寄らなかった。

 足利市の中心部は渡良瀬川の北側(左岸側)にある。足利荘の発展に大きく寄与したのは足利尊氏だろうが、その基礎は彼の先祖が築いた。市街地の観光スポットとしては「足利学校」と「鑁阿(ばんな)寺」が代表的。これらはお隣同士なので、周囲の石畳の道ともども、散策には絶好の場所だ。ただし、学校の方は入学料(参観料420円也)を徴収される。

 学校事務局が発行するパンフレットによれば、この学校は”日本最古の学校”とのことだ。創建は奈良時代とも平安時代とも鎌倉時代とも言われてはっきりしないが、確実な資料としては室町時代の上杉憲実(のりざね)がこの学校を再興したことが記録にあるらしい。学校の住所は”足利市昌平町”とあるので、ここはすぐに「儒教」を中心にした学校であったということが分かる。昌平は孔子の生誕地だからだ。校内にある”孔子廟”は現在改装中なので、その姿を見ることはできないが、以前に見た記憶によれば、なかなか見事な建築物である。

f:id:haikaiikite:20190427104016j:plain

鑁阿寺の太鼓橋と山門。この奥に国宝の本堂がある

 鑁阿寺は学校のすぐ近くにある。元々は足利氏の居宅跡で、周囲を土塁と堀が取り囲んでいることから”城”とも目されており、実際、日本100名城のひとつに数えられている。鑁阿(ばんな)は難読漢字だし、難筆漢字ではあるが、何故か、漢字の書き取りテストではいつも平均点を下回っていた私はこれが書けてしまうのである。何しろ、”憂鬱”だって簡単に書けるのだから‥‥これにはトリックがあるのだが、これを教えると誰でも簡単に書けるようになるので内緒にしているが。

 鑁阿は、ここを寺とした足利義兼の戒名である。本尊が大日如来というから宗派は真言宗である。国宝(2013年に指定)である本堂と大きなイチョウが見事だが、私のお気に入りは入口にある橋と山門だ。そして堀には大きなコイ(人によくなついている)が多数泳いでいる。この日も、本堂を参拝する人より、写真のようにコイやハトに餌を与える人の方が多かった。仏のご利益よりも、現世の束の間の楽しみの方が価値が高いのだろう‥‥私も因数分解すれば同類項である。

f:id:haikaiikite:20190427110137j:plain

若者に人気がある織姫神社

 学校や鑁阿寺がジジババに人気があるとすれば、織姫神社は若者が多く訪れる場所だ。足利市は織物産業の長い伝統があるので、”織姫”を祭るのは当然のことだろうが、ここが人気スポットになっているのは、ここの地理的要素と派手な色彩と「宣伝上手」なことからであろう。

f:id:haikaiikite:20190427111254j:plain

織姫神社から渡良瀬川渡良瀬橋を望む

 ここは織姫山の中腹にあり眺めがかなり良い。なにしろ渡良瀬川のみならず、森高千里の「聖地」である”渡良瀬橋”を望むことができるからである。ここに来るには230段ほどの階段を上がるのだが、階段の装飾はとても良くできているので、疲労度を若干、和らげることができる。なお、この階段はトレーニングにもよく使われるようで、神社の御触れには「トレーニングより参拝客が優先」というのがある。

 朱塗りの派手な外装はふもとからもよく見え、入口には「ひめちゃんひろば」が整備されている。そして境内には「恋人の聖地」(2014年に選定)として「恋人の聖地の鐘」(西伊豆の恋人岬や能登の恋路海岸にあるのと同類)もある。縁結びの神としても知られ(何しろ織女といえば彦星なので)ここを訪れる若いカップルや良き出会いを求め祈る若い女性の姿も目立つ。

 ここ一帯は「織姫公園」としても整備され、またその周囲はハイキングコースにもなっているので、健康という病を罹ったジジババも多い。なお、神社裏や公園までは駐車場があるので車でも上がれる。楽をして上がる分、ご利益は少ないかも。

森高千里の聖地としての渡良瀬

 「わたらせ」という言葉の響きは森高千里をも惹きつけたようで、彼女は橋を題材にした詞を作る際、自分のイメージにあった橋の名を地図を手掛かりとして探したそうだ。そして、自分のイメージに合致する「渡良瀬橋」の名を見出した。たまたま、足利には学園祭等のコンサートで訪れる機会が何度かあり、その際には渡良瀬橋だけでなく、その周辺の街並みを散策し、歌詞の素材をあれこれ探した。そのひとつが”八雲神社”だった。

f:id:haikaiikite:20190427114128j:plain

森高千里の聖地のひとつである八雲神社

 八雲神社は「スサノオの命」を祭神とする。スサノオの歌の「八雲立つ」から採った神社名で全国各地にある。足利市にも数社(8社とも言われている)あるようで、神社本庁のサイトで調べたのだが、本庁に登録されているだけでも3社あることが分かった(同系の八坂神社を含めると4社)。したがって、名曲の『渡良瀬橋』の歌詞にある八雲神社がここであるどうかは分からないが、他の聖地との関係上、ここであるとの蓋然性は高い。

f:id:haikaiikite:20190427114939j:plain

床屋のかどにある公衆電話

 もうひとつの聖地とは、床屋の角にある公衆電話である。上の八雲神社のほど近い所にある。NTTとしては利用度の低いこの公衆電話を撤去する予定だったが、足利市や森高ファン、”渡良瀬橋”という曲のファン(私はここに属する)の強い要望もあって、今現在もポツンと立っている。交差点の近くにあり、かつ、ここは交通量が比較的多いので、写真を撮るにはかなりの勇気が必要だった。

f:id:haikaiikite:20190427115815j:plain

今回も渡良瀬橋と夕日とのコラボは撮れなかった

 午後2時頃からは渡良瀬川の右岸、5時頃からは左岸の河原に下りて、ずっと流れを見ていた。南風が心地よかったので、風邪をひかずに済んだ。

 夕日に映える渡良瀬橋を撮影したかったのだが、晴れ間は日中のわずかな時間だけで、午後5時前には雲が厚く空を覆ってしまった。川の左岸の砂利場から渡良瀬橋を見つめ、雲の切れ間から日が差して橋を金色に染めることを期待したのだが、西の空がほんのりオレンジ色になっただけだった。

 今回の渡良瀬の旅はここで終わった。

 善と悪、有と無、生者と死者、神の存在と非存在という命題であれば、弁証法的に答えを出すことは可能だろうが、渡良瀬川という名の「心地よい響き」と鉱毒が産んだ絶対悪との関係は、どうしても解きほぐすことはできない。

 それでも、その答えを探すべく、連休後、渡良瀬川の上流部を訪ねる旅が始まる。