徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔33〕「とはずがたり」に「かたらいの路」を語る~多摩丘陵散歩

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高幡不動尊の見晴台から府中、都心方向を望む

まずは「高幡不動尊」から多摩丘陵

 鎌倉時代末期に記されたとされる『とはずがたり』は、後深草院二条(本名不詳)が14歳から49歳までを回想するという形式をとる日記文学だ。前半3巻には作者が後深草院の女房(宮中に仕える女官)であったときの数々の情交が生々しく記され、後半2巻では31歳で出家した二条が諸国を遍歴した記録をはじめ、終盤では後深草院崩御やその菩提を弔う様子を記している。前半の愛憎劇はそれなりに面白みがあるが、徘徊好きの私としてはやはり後半の2巻に心惹かれる。二条は西行法師の影響を受け、後世の松尾芭蕉と同じように「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」(おくのほそ道)、歌枕を求めて各地を旅した。

 「清見が関を月に越えゆくにも、思ふことのみ多かる心の内、来し方行く先辿られて、あはれに悲し」

 「富士の裾、浮島が原に行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば……煙も今は絶え果てて見えねば、風にも何かなびくべきとおぼゆ」

 「業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、『尋ね来し かひこそなけれ 隅田川 住みけむ鳥の 跡だにもなし』」

 以上は巻四からの抜粋だが、前回少し触れた『更級日記』同様、「清見が関」(静岡市清水区興津)、「富士山の噴火」、「在原業平の和歌=『名にし負わば いざこととはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』」など同じ歌枕や人物を描いているのは平安・鎌倉貴族の基礎教養なのだろうか?

 俗世を捨てて出家した彼女だが、それでも煩悩は捨てきれずに後深草院との情交を回顧するなど、世俗的な欲望を完全に断ち切り「遁世者」として自由に生きることはできなかった。その悔悟と苦悩が「とはずがたり」せざるを得ない行為として客体化されたのだ。そのおかげで、750年後に生きている私は、その艶めかしくも美しい日記に触れることができているのだが。

 今回は、3年ほど前まではよく徘徊した多摩丘陵の「かたらいの路」を久しぶりに歩いてみた。この道の基本コースは高幡不動尊境内から丘陵地に入り、多摩動物公園の北側フェンスに沿って尾根道を西にたどり、旧多摩テック方向へ進むルートである。しかし、私の場合は、多摩テック方面にはあまり行かずに、住宅街を西に抜けて平山城址公園へ進むのが好みだった。今回もそのルートを取ったため、「かたらいの路」を完全にトレースしたわけではない。

 多少、アップダウンのある道を進むのだが、大半は丘陵の尾根伝いに開かれた道のため、高低差は40m程度(標高131~173m)でしかない。ただし全ルートでは、高幡不動尊の仁王門がある場所の標高は約69m(いつものように国土地理院・標高の分かるweb地図参照。以下、標高や約を省略する場合あり)、尾根道の最高点は173mと比高(高低差)は100mほどになるので、全ルートを歩くことを考えると少しの苦労ぐらいはあると言えなくもない。

 「かたらいの路」とはいえ、ここへは一人でぶらりと出掛けることが大半なので、誰かと語らいながら歩くわけではない。しかし、現地で出会う人とはときおり言葉を交わす場合があり、そんなときには「問われて」から語り始める。が、ときには「問わず語り」までしてしまうこともあるし、今回のように誰にも問われていないのに勝手に「かたらいの路」について「とはずかたり」を始めてしまうことすらある。

 基本的には尾根道を歩くので周囲は林ばかりだが、ときには視界が開けて山麓や遠くの街並み、多摩地区に住む人々にはなじみ深い山の連なりを見通すことができる場所もある。とくに冬場は木々が葉っぱたちを脱ぎ捨てるため一層、見晴らしは良くなる。が、今冬はまるで春の初めのような天気が多いためにやや湿気が多く、以前に訪れたときよりも遠くの景色は少し霞んで見える。冒頭の写真は高幡不動尊境内にある巡拝路の見晴らし台から府中市にある3棟のタワーマンション、ならびに都心のビル群やスカイツリーを望んだものだが、乾いた北西風が強い真冬らしい天候の日であれば、遠くの景色もはっきりくっきり見えるのだが。それが少し残念な日和だった。

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仁王門前の交差点から高幡不動尊の境内を見る

 高幡不動尊については以前述べている(cf.17・浅川旅情)ので今回はあまり触れない。 不動尊へはいつもは車で行くのだけれど、一月は参拝する人も多いだろうから駐車場探しが大変になるかもと考え、さらに平山城址公園駅まで歩く予定もあるため、珍しく電車で出掛けた。京王線高幡不動駅からは徒歩3分で写真の仁王門前に着くので電車利用でもアクセスは便利だ。初詣はいつまでに行えば良いのかは不明だが、一年間の無事を祈願するのだから早い時期のほうが良いのは当然だろう。個人的には祈願する気持ちは全くないのでどうでも良いことなのだが、初詣の意味合いからすると「一月中」というのが答えになるだろうか。ともあれ、一月中旬であっても結構な人出があった。

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土方像や五重塔より、「かき」の存在が気になった

 前に紹介したように高幡不動尊は私が敬愛する土方歳三菩提寺であり、写真左手の露店の上に見えるように土方歳三像がある。また、整備された五重塔もこの不動尊を代表する派手な建造物で遠くからでもよく目立つ。今回は境内を抜けてすぐに「かたらいの路」を進む予定なので、双方ともちらりと見上げるだけで目指す方向に歩を進めようとした。が、その前に露店に並んでいる「あたご柿」が気になり、像や塔よりも山盛りの柿に惹きつけられてしまった。柿は果実の中ではもっとも好きな存在だからだ。

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山内八十八ケ所巡拝路入口

 かたらいの路へ進むには北山麓の平地にある不動尊の中心部から坂を上がって境内の南側に至る必要がある。かたらいの路は丘陵の尾根筋にあるのだ。したがって、境内の森(多摩丘陵自然公園)にある道を南方向に上ることになる。歳三像と五重塔との間にある道を入るとすぐに大きな立て札が目に入る。写真の「山内八十八ケ所巡拝路入口」の表札は「かたらいの路」方向へ進むルートに当たるため、この場所が「かたらいの路」の出発点と勝手に考えた。

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巡拝コースには何番札所かを示す表札と空海像がある

 四国八十八ケ所霊場巡りは私にとって永遠の課題となっている。車移動中心の霊場巡りは何度もおこなっているが、歩き遍路は未経験だ。年齢を考えると、1300キロすべてを歩き通すのは不可能だし、今までの経験から思うに、歩き遍路といっても移動には一般車道を用いることが意外に多いので、歩き甲斐のある道だけを選んでとぼとぼと進もうと考えてきた。が、釣りへの関心がますます高まっているので、一年365連休(今年は366連休)の生活なのになかなか時間が取れないというのが実情になっている。

 高幡不動尊にあるような八十八ケ所巡りは各地にあって、その多くは四国八十八ケ所を巡るのと同じご利益があるという「うたい文句」が掲げられている。不動尊の巡拝路は約一時間で完歩できる。これで本場と同じご利益があるとはとても考えられないし、そもそも私の場合は「ご利益」そのものの存在を認めていない。ただ、巡りたいという気持ちがあるだけだ。

 当初は最短コースを通って境内裏に出る予定だったが、写真のような表札があると「十一番札所は何という寺だったか?」と考え、その名が浮かぶと今度はその寺がたたずむ風景を思い出そうとし、かつその行為が楽しく思えたので、すべてとは言わないまでも少しだけ寄り道をすることにした。

 写真の「十一番霊場」は徳島県吉野川市(表札では麻植郡だが現在は吉野川市)にある「藤井寺(ふじいでら)」だ。八十八ある寺の内、「じ」ではなく「てら」と読むのはこの寺だけだ。一番の霊山寺(りょうぜんじ)から十番の切幡寺(きりはたじ)までは比較的平坦なところを通る撫養(むや)街道沿いにあるため、歩き遍路でもほとんど困難さはない。八番の熊谷寺(くまだにじ)と十番の切幡寺が少しだけ街道から丘に上がる山寺風だが、私の足であってもまったく問題はない。十一番の藤井寺は街道を離れて一気に南下することになるが、それでもまだ四国山地の北山麓にあるため、その寺の標高は35mに過ぎない。しかし、次の十二番焼山寺(しょうざんじ)が関門で標高は705mある。十一番との比高は670mだが、途中には750m地点、430m地点がある。つまり、藤井寺から一気に715m上がり、320m下っては385m上がることになる。通常は6時間コースと言われているが、歩き遍路を試みる人の多くは750m地点で断念するらしい。折角、頑張って高みまで来たと思ったらまた一気に下りそしてまた上るという行く末を思い、残念無念にも麓に降り、徳島線鴨島(かもじま)駅で涙に暮れるのだ。こうした難所はいくつか先にも控えており、お遍路の行く手を阻むことから「遍路ころがし」と呼ばれている。私の場合は初めから「ころび遍路」のため、難所は車やケーブルカーを使った。

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二十四番は室戸岬にある最御崎寺(ほつみさきじ)

  二十四番札所は最御崎(ほつみさき)寺で室戸岬の高台にあり、境内の標高は165mもある。二十三番の薬王寺から土佐(高知)最初の札所である最御崎寺までは国道55号線を南下して75キロ進み、最後に国道の標高9m地点から急坂を156m上ることになる。ここも「遍路ころがし」のひとつだ。私は相当の昔、磯釣りに出掛けるために雨中の国道55号線を車で走っていたとき、大雨の中びしょ濡れの姿で室戸岬方向に歩を進めるお遍路の姿に触れた。このときから、私の霊場巡りは始まった。それまで何度か四国には出掛けていたものの霊場にはまったく関心がなく、たとえば足摺岬に出掛け三十八番札所の金剛福寺が駐車場の目の前にあっても立ち寄ることはなかった。それが、雨の舗装路をひたすら歩き続けるひとりのお遍路の姿に数秒触れただけで、四国霊場巡りという趣味が私に加わったのだ。私は「狂なるもの」に興味を惹かれる。

 空海(俗名佐伯真魚)は、室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれる隆起海食洞で悟りを開いたとされ、そのとき彼が目にしたのは空と海だけだったので「空海」を名乗るようになったとされている(異説多し)。私は空と海との間にある岩場で、いまだ悟りは開けずただ磯釣り(鮎釣りも堤防釣りもだが)ばかりしている。釣りに関しては片目ぐらいは開いたと思っているのだけれど。

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見晴台から高幡不動駅周辺の街並みを望む

 巡拝路は境内の南側にある標高128mの愛宕山を取り巻くように整備されているので、ところどころに見晴らしの良い場所がある。写真は「見晴らし台(標高120m)」として整備された場所から足下の景色を写したものだ。立川市方向に伸びる多摩都市モノレール、画面を横切る多摩川とそれに架かる石田大橋も見える。

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見晴台から国分寺市方向を望む

 中望遠レンズを使って、少し詳細に周囲の景観を撮影することにした。上の写真は国分寺市方向を見たもので、右の2棟は国分寺駅の、左の1棟は西国分寺駅の近くにあるタワーマンション。 下の横に連なる茶色の帯は多摩川の土手だ。

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都心方向を望んだもの

 都心方向を中心に写してみた。中央にはスカイツリー、右手には新宿駅西口の高層ビル群や都庁などが見て取れる。冒頭の写真にある景色のやや右寄りを見たものだ。

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立川駅方向を望む。遠くには男体山が微かに見える

 立川駅方向を見た。中央は立川駅の西にある高層ビルだが、その右側にうっすらと見えるのは日光の男体山、ビルの左手に見えるのは赤城山だ。空気が澄んだ晴れた冬の朝方ならもう少しはっきり見えるはずだ。多摩丘陵からは、足尾山地、日光連山、赤城山榛名山の姿を見て取ることができるのは案外知られていない。筑波山だって十分に見える。なお、低い位置に横たわっているのは狭山丘陵だ。

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西側には関東山地の連なりが見える

 見晴らし台では西側が林で展望が開けていないので、巡拝路に戻って関東山地が望める場所に移動した。左からピークをたどっていくと、奥側にあるのが大菩薩連嶺(2057m)、その右が三頭山(1531m)、雲に霞んでいるが奥側に飛竜山(2077m)、手前側に奥多摩湖のすぐ横にそびえる御前山(1405m)、隣はご存じ大岳山(キューピー山、1267m)、その右の手前の連なりの一番右側が御岳山(929m)、その奥側には2つのピークが重なり合って見えるが、右のほうが鷹の巣山(1737m)、すぐ左のピークが雲取山(2017m)、雲取山に向かい合ってやや尖った山頂をもつのが芋の木ドッケ(1946m、ドッケは鋭い頂という意味)、右にたどって酉谷山(とりだにやま、1718m)、一番右にある少し手前側の小ピークの連なりが有間山(1213m)だ。府中市多摩川左岸側からもこれらの山々は晴れて澄んだ日には見えるのだが、高幡からとは見え方が微妙に違うので少し異なる表情に接することができて嬉しくなる。

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中望遠レンズで大岳山周辺をのぞいた

 今度は中望遠レンズで多摩地区のランドマークである大岳山周辺をのぞいてみた。中央の大岳山は、やはり「キューピー山」の俗称に恥じない姿をしている。左の御前山は、小河内ダムへ遊びに行く人にとってはお馴染みの山だ。右手には前述のようにピークが重なって見えるが、右側のやや反り返った頂をもつのが鷹の巣山で、後ろにある左側がややなだらかなピークをもつのが東京都の最高峰である雲取山だ。大岳山の右に連なるやや平坦な尾根をもつ山が鍋割山(1084m)で、写真に入れ忘れたがその右に続くのが御岳山の奥の院(1077m)となる。

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大好きな大菩薩連嶺の雄姿

 私は幼い頃から大菩薩連嶺を望んでいて、これらの山が雪を被った姿を見て、南アルプス赤石山脈)と勘違いをしていた。小学3年の頃だったと思う。今はそんな思い違いはしない。国道20号線を大月市方向に進むと大菩薩はよく見えるし、そのまま笹子トンネルを抜けて日川筋に北上すると大菩薩湖(1476m)や上日川峠(1545m)に至る。この道が好きで何度も出掛けたことがあり、そこでは間近に大菩薩嶺を見ることができる。峠からは高低差は500mほどなので、京王線高尾山口(190m)から高尾山(599m)に登るよりやや厳しい程度だ。それでも気象条件は相当に異なるので、手軽なハイキングと洒落込むわけにはいかない。熊が顔を出すことも多いようだし。私は山を見るのは大好きだが、山に登るのは好きではない。

 イギリス人の登山家であるジョージ・マロリーはエベレストに登る理由を問われて「そこにエベレスト(山)があるから」と答えたが、私が「なぜ山に登らないのか」と問われたら「山に登るとその山が見られないから」と答える。本当は、ただ無精なだけなのだが。

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秩父の山もなんとか望めた

 秩父方向もなんとか望めた。左のピークは大持山(1294m)、右のピークは秩父の象徴である武甲山(1304m)だ。右の2棟のタワーは国分寺駅北口の、その右に見えるのが立川駅の高層マンションだ。

高幡不動尊を抜けてかたらいの路の山道を進む

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高幡不動を抜けて住宅街に入る

  巡拝路から離れ、かたらいの路を進むとすぐに写真の住宅街に出る。ここの標高は115mなので、高幡不動尊の境内にあった巡拝路入口を示す表札のところからは45mほど上った場所が不動尊境内と南平一丁目の住宅地という境外との境となる。聖界と俗界のボーダーであるこの地点は、すでに多摩丘陵の中腹なのだ。

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かたらいの路から外れないように、住宅街にある標識通りに進む

 しばらくは住宅地(南平一丁目、三沢五丁目)を歩くことになるが、写真のように分岐点には道標があるのでこれにしたがって進めば山道の入り口にたどり着くことができる。

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写真の「南平東地区センター」の建物が目印

 道標通りに進むと写真の「南平東地区センター」が見える。この地点の標高は131mだ。住宅地内でもすでに16mほど上ったことになる。この辺りが住宅街の分水嶺となり、北側は野猿(やえん)街道まで下りその地点は79m、南は京王線多摩動物公園駅近くまで下り、その地点は93mである。したがって、この住宅街の天辺付近に住む人は、京王線南平駅(78m)からだと53m、動物公園駅からでも38mの高さを上る必要がある。多摩丘陵を削って造られた住宅地なので道もかなり急勾配であり、路面が凍結する時期では車の移動ですら難儀しそうだ。

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南平東地区センターの上(山道入口)から見た都心方向の景色

 東地区センター横の階段を上がり、かたらいの路は住宅街から山道に入る。その入り口(標高138m)から都心方向を眺める。新宿の高層ビル群やスカイツリーまで見通せる。

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ハイキングコースはよく整備された道になっている

 かたらいの路は、かつては野猿峠ハイキングコースと呼ばれ、しばらくは左側に多摩動物公園のフェンスを見ながら進むことになる。

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武州江原山講社。とくに云われは記されていない

 道を進むと、間もなく写真の「武州江原山講社」(標高156m)の新しい建物が見えてくる。とくに由緒書がないので詳細は不明だが、木曽の御嶽山への登拝の安全を祈願するための講社なのだろうか?

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コースは小さなアップダウンが続く

 かたらいの路は小さなアップダウンを繰り返しながら西へ進む。写真のように大半は左手に動物公園との境界を示すフェンスがある。右手には麓の住宅街や遠くの山々が樹木の間から顔をのぞかせる。

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道は下りに入り、展望の良い場所に至る

 道は南平住宅の南端に至るため徐々に標高を下げていく。写真の足元の地点で141mで、住宅地の手前で北側の林が途切れるために視界が開けてくる。

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今まで視界に入らなかった丹沢山塊の姿も見えるようになる

 道は南平二丁目住宅の南端に降りる直前に北側の樹木が伐採されていることで視界が大きく開ける。関東山地だけでなく、一部ではあるが丹沢山塊を代表する山も見えてくる。左のピークは丹沢の最高峰である蛭ヶ岳(1673m)、右のピークは大室山(1587m)。大室山は丹沢山塊の北西側に位置し、山の北側には道志川津久井と山中湖を結ぶ「道志みち(国道413号線)」が通っている。私の地元の府中市からもよく見え、雲に隠れた富士山の位置を探す手掛かりとなる山であり、鮎釣りで何度も訪れている道志川の位置を他人に教えるランドマークとなる山でもある。

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真西方向には人気の高尾山がよく見える

 大室山方向から視線をやや右に向けると、近年、ますます人気が高まっている高尾山(599m)が見える。1972年以前は標高600mと言われ、私自身もそのように記憶していたのだが、再測量の結果599.0mとなり、最新のデータでは599.3mとされている。かつて、標高を600mに戻す計画がおこなわれ、登山客に頂上まで石を運んでもらう計画が画策されて挫折したが、今ならあと20センチなので、600mまで回復することは、登山客ひとりひとりに石一個を運んでもらえば可能なのではないだろうか。何しろ年間260万人が訪れる世界一登山者数が多い山なのだから。600mにすることに意味があるとは思われないものの。

 2007年以前は平日に行けばさほどの混雑を感じなかったが、2007年のミシュラン観光ガイドから三つ星が与えられてから人気が沸騰し、さらにジジババの間に登山ブーム、健康ブームが広がったこともあって、都心の雑踏のような光景が展開されるようになってしまった。高尾山は、私が自力で登ったことのある山の最高比高(409m、599-190)であり、これを更新するためにはあと一時間頑張って隣の小仏城山(写真右側、670m)に至ればよく、比高は479mとなり自己新記録の達成となる。そのためにも是非、混雑の緩和を期待する。

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ここでも関東山地の眺めは良い

 大岳山(キューピー山)を中心とする関東山地の低山の連なりがよく見える。鍋割山の隣の御岳山奥の院(1077m)も、その右の御岳山(929m)や日の出山(902m)などがしっかり確認できる。奥側の雲取山や鷹の巣山の並びは、ここからだと重なりが弱くなっているので、はっきりと区別がつく。一方、芋の木ドッケは雲に覆われて見づらくなっている。

 手前には、最近とみに賑やかになったJR中央線豊田駅周辺の街並みや、浅川の流れを見ることができる。それにしても、日野台地上はとても速いスピードで開発が進んでいるようだ。少し速すぎるのでは、と思う。

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北側の風景。狭山丘陵や遠くの日光連山が美しい

 北方向に目を向けると、狭山丘陵の連なりだけでなく、遠くに男体山をはじめとする日光連山や赤城山が見える。高幡不動尊の「見晴らし台」からと同じ場所を見ているのだが、立ち位置が少し変わるだけでも景色がかなり異なって見えるのが、尾根歩きの楽しみのひとつである。

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山道はここで一旦終了し、少しだけ住宅地の際を進む

 山道は写真の地点(標高137m)で一旦終了し、南平二丁目にある住宅地の際を100mほど西に進む。左側のフェンスは多摩動物公園との境で、まだしばらくはこのフェンスが左側に立ちはだかっている。

再び山道へ、そして動物公園内を覗き見する

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再び山道へ。ここで見返りする

 住宅街から再び山道に入った。写真は、その住宅地方向を振り返って見たものだ。このため、今までとは逆で、右が公園側になる。一方、左側は急斜面になっていて住宅はなく、麓に都立南平高校がある。

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見返り写真。園内の「チンパンジー舎」が見える

 さらに山道を上り、再び振り返る。正面に見えるのは「チンパンジー舎」で、彼・彼女らが動く様子も見て取れた。この地点の標高は163mだ。

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柵の中央部に張られている鉄板についての但し書き

 今までの写真でお気づきだと思うが、金網の柵の中央にはずっと鉄板が張り巡らされている。視線の先の高さにあるために「目隠し」と思われるが、動物園側からのお願いとして、写真のような但し書きが至るところに張られている。鉄板は目隠しではなく、動物が柵を上って園内に侵入することを防ぐための策とのこと。この但し書きがないと、鉄板は散策者による覗きを防止するための対策だと誤解される可能性があると考えてのことだろう。最近はさして重要でないことでもクレームをつける輩が多くなっているからなのか。

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折れた幹の傷をかばう葉っぱたち

 おそらく昨年の台風によって幹が折れてしまった樹木と思われるが、その傷をかばうようにそこにだけ色づいた葉っぱが残っていた。小枝の向きからして隣の木のものと思われるが、周囲の木々には葉は散り去ってすでになく、ただここだけに残っている不思議を感じ、思わず撮影してしまった。林の中の景色としてはこれが一番、印象深かった。

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コアラ館前の広場

 散策路からは柵越しにコアラ館前の広場が望めた。金網の間にレンズを入れ、園内をのぞき見したのだ。多摩動物園のコアラと言えば、1984年に日本に初めてコアラがやって来たときに6頭のうちの2頭がここに導入された。それを見るために6時間も行列したことを記憶している。自分ではまったく興味はなかったが、半ば強引に見学同行を迫られ仕方なく行列に加わった。コアラが見えたのはほんの一瞬だったように思う。

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かたらいの路の最高点から山々を望む

 かたらいの路の最高点に近い場所(170m)にきた。動物園内はさらに高く、172m地点に「みはらし広場」が整備されている。そのこともあってか見晴らしはかなり良い。何度も挙げているように左の大菩薩連嶺から右の日の出山までを一枚に収めた。三頭山と御前山との間、写真中央付近にあるのが飛竜山(2077m)で奥秩父を代表する存在。秩父市と山梨の丹波山村との境にある。やや雲がかかり、さらに山は雪を被っているので少し見づらいが、標高170m地点だからこそ見えるのであって、府中市多摩川左岸からは背伸びしてもほんのわずかしか見ることはできない。

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低空を飛ぶ米軍機。本当に五月蠅い(うるさい)

 低空飛行訓練するC-130米軍輸送機が発する音は本当に五月蠅い(うるさい)。私はよく福生市多摩川左岸にも出掛けて山々を眺めるのだが、その際、わが愛する大岳山を中心にして爆音を発しながら低空飛行する横田基地所属の輸送機をしばしば見かける。横田空域(横田進入管制区、横田ラプコン)には一切法的根拠がないにもかかわらず、日米合同委員会によって米軍の専制的使用が認められおり、日本側はその空域を通るときはその都度、米側に許可を受けなければならないことになっている。一年前に羽田空港に着陸する飛行機の一部通過が認められ、その結果、羽田空港の増便が可能になった。が、日本の上空を飛ぶのにわざわざ米側の許可が必要であることの不条理はまったく解消されていない。C-130の低空飛行も合同委員会によって認められ、しかも合意内容を超えた無法を米側はしばしばおこなっている。この日も2機の輸送機が訓練をおこなっていた。合意の範囲内の高さだと思うが、こんな低空で日本の飛行機が飛ぶことは非常時以外にはあり得ない。

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オランウータンがいる施設を望む

 園内にある「みはらし広場」の下には写真のようなオランウータンがいる施設がある。園内からこちらを見ている2人の女性は、オランウータンではなく、カメラを構えている私の姿に驚いている、あるいは興味を抱いているようだ。おそらく、園外に散策路があることを知らないからだろう。いや、脱走したオランウータンがカメラを持って遊んでいる姿を想像して、驚きつつも興味を抱いているのかもしれなかった。半分、当たっていると言ってもいいかも。

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最高点(173m)から一気に下った場所。ここで動物園ともお別れ

 オランウータンの施設が見えた場所(170m)から道は159mまで下がるとまた上りになり写真にある送電線の下をくぐると標高173mの最高点まで上る。そして下った撮影場所(165m)が多摩動物公園と別れを告げる地点になる。この写真は最高点(送電線鉄塔が立っている場所近く)方向を振り返っているので動物園は右手に見える。そういえば、ずいぶん昔になるが、私には送電線の行方を追う趣味があった。こうして高圧鉄塔を間近に見ると、「送電線の旅」を再開したくなった。

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動物公園に別れを告げると道は徐々に下りになり、一般道に出る

 かたらいの路は多摩動物公園に別れを告げると下り坂になり、もうまもなく一般道に出ることになる。写真は、やってきた道を振り返って見たもので、写真の奥から手前側に下ってきた。公園と別れた場所(165m)からは少し上り坂となり、標高171mに達し、そこから一般道(139m)までは下りが続く。写真のように道には落ち葉がたっぷりと積もっているのでとても滑りやすくなっている。階段を設置している場所もあるが一段の落差が大きいために少し歩きづらい。といって際を歩くと滑りやすい。山道では下り坂のほうが要注意である、とくに年配者は。

平山城址公園から平山城址公園駅まで

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閉鎖された「さかい公園」

 坂を下りて一般道に出たら、かたらいの路は左折して旧多摩テック方向に進むのだが、今回は右折して「さかい公園」の北側から住宅地に入り、平山一丁目住宅の南端を進んで平山城址公園を目指すことにした。理由は、こちらのほうが楽だったから。

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「さかい公園」閉鎖の通告

 「さかい公園」で少し休息を取ろうと思ったのだが、公園の入り口は写真にある階段部をのぞいて閉鎖されていた。階段以外の入り口は車を簡単に横付けできるので、園内にゴミを投棄する人が多かったからのようだ。たしかに多摩丘陵中に車が進入できる林道には粗大ごみの投棄が目立ち、それは近年、ますます増加している。「日本人はマナーが良い」というのは一般論としては嘘で、人が見ている前では「マナー良く」ふるまうが、人が見ていないところではがらりと態度を変える場合が多い。人目がなくても神の目がある。しかし、神はいない。

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平山城址公園入口に達する

 平山城址公園は東西に長い敷地をもつ。多摩テック側から来る場合は東口が利用でき、園内を上り下りしつつ写真の場所にたどり着くのだが、今回は住宅地から京王電鉄の研修所前を通ってやってきたので、アップダウンはやや少なかった。

 写真の正門(北中央口)付近を見ると城跡風だが、それは写真の場所だけで園内にはとくに城の跡はない。「城址」よりも「公園」に重きを置き、アップダウンのある散策路で体力を増強したいという人に向いている場所だ。

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正門前から秩父方面を望む

 正門は標高168mの地点にあるため、北側の見晴らしが良い。写真中央には豊田駅の建物群があるが、遠くには有間山、大持山、武甲山の連なりが見える。その右には丸山(960m)、堂平山(876m)など東秩父に広がる山並みが見える。さすが、公園は平山氏の見張り所があったところだ。

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歩いてきた丘陵地を望む

 視線をやや右に転じると、平山住宅地の向こうに今まで歩いてきた丘陵地が見える。中央部にある鉄塔が、かたらいの路の最高地点付近にそびえていたものだ。

 こうして眺めると、鉄塔や送電線がいかに尊大な存在であるのだろうかが分かる。ちなみにこの「府中線・柚木線」は、町田市真光寺町にある電源開発西東京電力所から多摩動物公園日野バイパス(新20号線)と旧20号線が合流(または分岐)する高倉町西交差点の上を通り、八王子市石川町にある南多摩変電所から創価大学の上を通り、JR五日市線武蔵五日市駅の南にある小峰公園脇の新多摩変電所に至る。

 高圧鉄塔や送電線の雄姿にはしびれるが、高圧電流にはしびれたくない。

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城址公園の中。城跡というよりよく整備された公園

 公園内に入ってもとくに城郭だった徴はなく、丘陵地帯にある整備された公園という風情で、散策路や展望台、広場が点在する。

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湧水が集まってできた猿渡の池

 園内は凹凸が激しいため、窪地には写真のような湧水を集めた池がある。湧水というと清水をイメージするが、底に泥が堆積した沼といった感じでエビやザリガニの住処か?

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野猿峠散策路からみた柿の実

 正門を出て少しだけ西に進んだ。かたらいの路と同じ多摩丘陵の尾根にある散策ルート(背後に動物園はないが)なのでこの日はこれ以上進まずに道を戻り、平山季重(すえしげ)神社に向かうことにした。

 林を見ると、1月中旬にも関わらず柿の実が生っているのに気付いた。近所に住みこの散策路をよく歩くという人もそれには気づかなかったようで、私がカメラを向けているので初めてその存在を知ったとのことだった。柿の実は日常性の中にひっそりと溶け込んでいたのだが、柿が大好物の私はその存在をすぐに見抜くことができた。しかし、実を収穫することは不可能だ。何しろ、足元は急峻な崖だったからだ。

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平山季重神社の鳥居と祠

 平山季重神社のさほど広くない敷地(標高170m前後)は平坦だ。住宅地に向かって突き出している部分にこの神社はあるが、その左右の崖下には住宅地が広がっている。神社の東側の住宅地は標高150m、西側は135mなので、かつても突き出ていたことは確かだろうが、土地開発のために崖を掘り込んできたとも考えられるので、境内はもう少し広かったに相違ない。先ほど挙げた公園の正門付近にも広くはないが平坦な場所があり、その標高は168mなので、神社や正門がある一帯にかつて城郭があり、その城郭跡に神社が造られたとすると合点がいく。

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小さな祠は北を向いている

 神社の祠は平山季重の武勇に比してとても小さい。季重(1140?~1212?)は武蔵七党のひとつである西党を組織した日奉(ひまつり)氏の流れをくむ。武蔵国船木田荘平山郷を本領としたため平山姓を名乗った。源義朝軍に加わり保元・平治の乱で活躍し、1180年以降は頼朝の配下となった。その後、義経の平家追討軍に加わり、84年には木曽義仲軍と戦い、その勇猛果敢さは「豪座随一」と称された。一谷合戦では熊谷直実(なおざね)と先陣を競い、屋島壇ノ浦合戦でも精力的に戦った。89年には頼朝の奥州合戦に加わり、95年には頼朝の東大寺落慶供養に供奉(ぐぶ)した。

 平山城が建てられたのは15世紀半ばから16世紀前半ということなので、季重が生きた時代からは300年後となる。小さな祠は北を向いている。彼がもっとも華やかに戦ったのは義経と生きた時期だった。奥州衣川に散った義経の無念に思いを馳せているのだろうか。

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この日の終着点は平山城址公園駅

 今回の徘徊の終着点は京王線平山城址公園駅だ。この地点の標高は86m。平山季重神社の170m地点から一気に下り降りたことになる。この軽やかさは義経の「ひよどり越え」のようだと自画自賛した。

 駅の近くには平山図書館があり、それに付設された「平山季重ふれあい館」を少しだけのぞいた。季重の資料は図書館内にあるとのことだったので参照しなかったが、下の巨大な絵幕には圧倒された。それだけ、平山の地に季重は大きな存在なのだろう。

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ふれあい館の壁に掲げられた絵幕の一部

 駅で電車を待った。この駅で上りの電車を待っているとき、はるか昔にここに立っていたことを思い出した。小学校の3、4年頃だったように思う。周りにも自分と同じようなガキどもがいたので、遠足の帰りだったのだろうか?行った先はまったく覚えていないが、この駅の周辺で遠足先といえば平山城址公園以外にはなく、しかし、公園には子供が学んだり楽しんだりする場所はない。が、この駅であったことは確かで、駅舎は新しくなり、周囲の景観もまったく変わってしまっているはずなのに、ホームのすぐ横にあった家の庭の木の存在は記憶にある。それは柿の木だった。実がたくさん生っていた。それだけはしっかり覚えている。当時から一番好きな果物だったからだ。

 かたらいの路でとはずがたりに語るもの。それは「柿」である。 

〔32〕普通の府中市(2)~その町中を歩く

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大國魂神社の随神門と参道を望む

転換の10世紀

 菅原孝標(すがわらのたかすえ、10~11世紀の人)は菅原道真の直系という名門の出身でありながら平凡な人生を送った。受領国司として上総介・常陸介の任についたことは判明しているが、これは両国が「親王任国」だったからその記録が残っているにすぎない。晩年もどこかの国司として赴任しているが、その国名は定かではない。桓武天皇平城天皇などが子沢山だったことから親王家に充てる官職が不足したため、「常陸国」「上総国」「上野国」の三国を「親王任国」に定め、親王をその国の「太守」に就かせた。親王は遥任(ようにん)であって、現地へは受領国司である「~介」が赴いた。菅原孝標は1017年、上総介として東国に向かい無事4年間勤め上げ1020年、京に戻った。特記事項はなく、その後も中級貴族として平凡な人生を送り没年は不詳である。

 彼に娘がいなければ、孝標の名が歴史に残ることはなかっただろう。ただし娘の名は不詳だ。1020年、京に戻るときに13歳だったので、1008年生まれとされている。帰国途上、すみだ川を渡る際には在原業平の歌を思い浮かべ、竹芝の浜にも立ち寄っている。言問橋近くにはスカイツリーがあるし、竹芝には伊豆諸島に渡るための大きな桟橋があるが、彼女の場合、別に「東京ソラマチ」に行く用事も「八丈島」で磯釣りをする用事もなかっただろうし、そもそも11世紀にはそんな施設はなかった。大磯では「もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ」と周囲の人が言葉遊びに興じるさまに印象付けられ、噴火活動中の富士山に接し「山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と記している。

 彼女の残した『更級日記』は私が読んだことのある数少ない日本古典文学の傑作だ。彼女が記したとされる『浜松中納言物語』は三島由紀夫に大きな影響を与え、彼はその物語を下敷きにした四部からなる小説『豊饒の海』を創作し、入稿した日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。

  * * *

 律令国家の基盤であった班田制は口分田を支給される農民に租税を課するものであったが、重税に苦しむ人々は逃亡、浮浪、偽籍などで負担を逃れようとした。その結果、国家財政は疲弊し下級官人への給与の支給は困難になってしまった。このため、10世紀前半には寺田、神田、荘田以外の公田に税を課す制度に変わった。人に対する課税から土地に対する課税へと変更されたのだ。また、国家の政治体制も官僚制機構から摂関や令外官である蔵人など天皇の私的機関が政治の中心となり「王朝国家体制」へと変質した。

 また地方支配制度も変質し、有力な寄生的官僚貴族が「守(かみ)」の地位を独占するようになり、各国には権限が集中化された受領国司が派遣された。国衙での政治は受領だけでは運営できないため、在地の有力者が郡司として官人化された。任用国司よりも地元の首長層を重用した理由は、彼らが土地の事情に詳しいということのみならず、経済的にも豊かだったからである。10世紀は地球規模での温暖化が進んでいたので開墾が積極的におこなわれ、「富豪の輩」が増加していた。一方で下層農民の困窮化もひどくなる一方だった。受領国司は地元の有力者を登用することで「私腹を肥やした」のである。中央政府にしても、受領の「私富」が増えることは、それが国宛の賦課の増大にも繋がると考えて黙認していたらしい。いわゆる賄賂政治が横行していた。政治家・官僚の頭の中はいつの時代も変わらないようだ。

 上に挙げた菅原孝標もこのように専制化された受領の地位に就いた。1020年に京に戻った孝標は上皇の広大な邸宅を手に入れて住んだらしい(『更級日記』による)ので、平凡な人物であっても受領の立場は「甘い汁」が吸えたようだ。

 こうして、「転換の10世紀」は政治経済社会体制を大きく変質させ、11世紀末の院政、12世紀末の鎌倉幕府誕生へと進む先駆けとなる時代となった。治安維持の専門職として武士階級が発生したのも、転換期によくみられる「政情不安」や「経済格差の拡大」が要因だったと思われる。

大國魂神社に出掛けてみた

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大國魂神社の初詣風景。2020年1月2日、拝殿前の様子

 大國魂神社東京五社のひとつに数えられるそうだ。あとは「東京大神宮」「靖国神社」「日枝神社」「明治神宮」なので、五社の五番目だろう(個人の感想です)。7世紀には武蔵国府の「国衙の斎場」に位置付けられていたようだが、五社の仲間に入れるのは、源義家源頼朝北条政子北条泰時徳川家康徳川家綱のお陰もあると思うので、先に少し触れた「転換の10世紀」の恩恵を得ていると言えなくもない。

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お参りをするために並ぶ人々

 今年の1月2日、大國魂神社に出掛けてみた。初詣というわけでは決してなく、すぐ近くに用事があったためコンパクトカメラ持参で「覗き」にいってみたという次第である。予想した以上の参拝客がいた。お参りする人の列は大鳥居までどころかけやき並木の途中まで続いていた。これには「源義家」もびっくりしていたに相違ない。

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おみくじ売り場は何か所もあった

 私には寺社にお参りするという習慣はまったくない。幼い頃や連れに強制される以外は、お賽銭をあげることもない。小さいときは大國魂神社で「賽銭拾い」に精を出していたので、生涯における賽銭の収支はたぶん「黒字」だ。元三大師・良源さんには申し訳ないが、おみくじも強制される以外は購入しない。枝などに結んであるおみくじを解いて見たことは何度もある。運勢を知るには「無料」に限るのだ。お守りを頂いたことは何度となくあるが、それを持って歩いたことも、車にくっつけたこともまったくない。幽霊もUFOも見たことはないし、そもそもその存在を否定している。

 が、神社仏閣の存在は大好きで、恐山にも中尊寺にも毛越寺にも鹿島神宮にも靖国神社にも川崎大師にも延暦寺にも金閣寺にも東大寺にも薬師寺にも長谷寺にも伊勢神宮にも熊野速玉大社にも熊野那智大社にも四国八十八か所霊場にも松陰神社にも宗像大社にも何度も出掛けている。しかし、どこに行っても祈ることはない。神社仏閣がある風景が好きなのである。そこに神秘性を感じる。ただそれだけで十分なのだ。

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普通の日でも参拝する人は増えているようだ

 大國魂神社の社史によれば、創建は景行41年(西暦111年)の5月5日とのこと。大國魂大神大国主神の託宣によるらしい。7世紀半ばからこの地に武蔵国府が置かれたので、神社は国衙の斎場としての機能を果たすようになった。都より赴任した国司は、まず管内の神社に巡拝するという決まりがあったようだ。また、毎月の朔日(1日)には国内諸神を勧進して神事をおこなった。さらに、国衙はその付属神社(武蔵国では大國魂神社)を前提として、国内の主要神社の序列化を図った。これが一宮から六宮となり、国衙の近くにある大國魂神社は武蔵総社六所宮と呼ばれるようになった。一説には、毎年、国司が一宮から六宮まで巡拝するのが大変なので、それらを合祀した総社を設けて巡拝を省略したというものがある。11世紀後半、国府に近くに総社が設けられるという制度が全国に広まったという点を考えると、受領国司への権限集中が背景にあり、その権威の象徴としての地位が総社に与えられたと考えるほうが適切なように思える。

 『源威集』によれば、奥州の安部一族の反乱を鎮める(前九年の役)ために北に向かう源頼義陸奥守)が、武蔵総社に北方を見張らせるため、それまで社殿は南向きであったものを北向きに変えさせたという話がある(1051年)。南向きだと立川段丘の上から多摩川多摩丘陵を望むだけだが、北向きになれば国分寺に対面し、目の前には広々とした平地がある。神社の前にはいつしか府中三町(本町、番場、新宿)ができ、けやき並木が北に伸びている。今日に至る府中市の小さな発展に、この北向きへの変更が大きく寄与しているようだ。

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けやき並木に立つ源義家

 1062年、前九年の役で勝利をおさめ凱旋した頼義の息子の八幡太郎義家は大國魂神社に立ち寄り、けやきの苗1000本と供物として「すもも」を寄進した。並木を整備したのは徳川家康とされているが、府中とけやきの縁を生んだのは義家だったのかもしれない。また、大國魂神社では7月に「すもも祭り」が開催されるが、これも義家の寄進に淵源があるのだろう。

 今ふたたび頼義・義家父子が現れたならば、奥州ではなく今度は長州に向かい「愛ある」政治ではなくIR利権に群がる安部一党の征伐をおこなうかもしれない。今度は神社は西向きとなり、凱旋のあかつきには苗1000本を寄進するだろう。もちろん、「けやき」ではなく「桜」であるに相違ない。

 * * *

 武蔵国一宮は多摩市一の宮にある「小野神社」とされている。小野郷は日野市南部、多摩市、稲城市辺りにあったとされ、「小野牧」は931年、中央に馬を奉じる「勅旨牧(御牧)」となり、小野諸興(もろおき)が別当に就いた。諸興は武蔵国の権介にもなり、押領使として軍事指揮権を有した。この小野氏は11世紀頃から八王子の横山荘(船木田荘)に移り、横山氏を名乗ることになった。これが武蔵七党の代表格である「横山党」の端緒である。

 武蔵国二宮は、あきるの市にある「二宮神社(小河神社)」とされている。現在の日野市を中心に勢力を拡大した日奉(ひまつり)宗頼は武蔵守に就き、勅旨牧である「小川牧」や「由井牧」を支配した。二宮神社はこの小川(小河)にあり、日奉氏は神社の地頭にも就いている。後に日奉氏は武蔵七党のひとつである「西党」を組織したが、これは本拠であった日野が府中の西にあったからとされている。二宮神社は『延喜式』の神名帳にはない式外社ではあったが、有力な武家の間ではよく知られていた存在だったらしい。後北条氏の氏照は八王子の滝山城を一時本拠にしたが、その際、二宮神社を祈願所にしていた。

 武蔵三宮は大宮市にある「氷川神社」とされている。この神社は旧官幣大社で、大國魂神社は旧官幣小社なので、こちらのほうが格上と思われる。このためもあってか、氷川神社では武蔵国筆頭の神社として「武藏国一之宮」を名乗っている。初詣客も氷川神社は200万人以上なのに対し大國魂神社は50万人ほどなので、一般的な認知度は氷川神社のほうが上かも。それに、横浜市山下公園につながれている船の名前にも採用されているし、おばちゃんたちに絶大な人気の「演歌」歌手も、本姓は山田だが、芸名にはその神社名を採用している。

 武蔵四宮は秩父神社である。神社のサイトをのぞいてみたが、こちらも四宮では誇れないのか、知知夫国の総鎮守を冒頭に掲げ、由緒書には「武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至ってます」とあり、「四宮」は出てこない。秩父からは秩父将常(11世紀の人、平将恒とも、桓武天皇6世)が出ており、後の秩父氏、河越氏の祖となった。特に河越重頼は、源頼朝伊豆国に流されている折に仕送りを続けたことでよく知られている。子の重員(しげかず)は「武蔵国留守所惣検校職」となり、武蔵国武士団の最高指揮官となった。川越市の基礎の基礎はこの時代に造られたといって良いだろう。

 武蔵五宮は埼玉県児玉郡神川町にある金鑚(かなさな)神社だ。鑚(さん)の字が難しので「金佐奈」とも表記される。神流川(かんながわ)へ鮎釣りに出掛けるとき、関越道・本庄児玉ICで降り、国道462号線を西に進んで神流川に出る。その手前にある神社なので名前だけは以前からよく知っていた。五宮であることも知っていた。しかし、気持ちは釣りのほうへ完全に向いているので、この神社を見学(私の場合は参拝しない)したことはない。所在地は神川町字二ノ宮となっており、武蔵国の二宮を名乗っていたこともあったようだ。資料によると、金鑚(かなさな)は金砂が元になっていたそうだ。金砂は砂鉄を意味するように神流川は砂鉄の産地であったらしい。神流は「鉄穴(かんな)」つまり砂鉄の採集場を意味するので、川の名前自体が砂鉄が取れる場所ということを表している。この神社には本殿はなく背後にある御嶽山をご神体とする。こうした原始神道の例は奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社が最古のもので、そこでは背後にある三輪山をご神体とする。

 武蔵六宮は横浜市緑区西八朔町にある杉山神社だと考えられている。鶴見川流域やその周囲には杉山神社が72社あると『新編武蔵風土記稿』にあるそうだが、この神社は武蔵国都築郡にある唯一の式内社なので、ここが六宮であるという蓋然性が高いらしい。大國魂神社の「くらやみ祭」では、ここの宮司と氏子会の代表が神事に参加しているので、大國魂神社側としてはこの杉山神社が六宮であると認定しているようだ。

 * * *

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北条政子の安産祈願に使節が訪れた宮乃咩(みやのめ)神社

 大國魂神社が武蔵総社六所宮として中世期に登場するのは1182年のことである。源頼朝正室である北条政子の安産祈願に使節が摂社である宮乃咩(みやのめ)神社に派遣されたという記録がある。ところで、当時は夫婦別姓だったのだろうか?

 1186年には頼朝の命により、武蔵守義信を奉行として社殿が造営され、1232年に北条泰時の命で社殿が修復されたという記録もあるらしい。

 1591年には家康の命により六所宮に500石が寄進された。大宮の氷川神社には300石だったので、初詣客数では大きく負けているものの家康の寄進量では勝利したようだ。ちなみに、秩父神社は57石、神田明神は30石だったそうだ。また1606年には、「八王子千人同心」を組織したことでも知られる所務奉行(勘定奉行)の大久保長安によって社殿が新築された。しかし、46年に発生した府中本町で起きた火事によって社殿は消失してしまった。その後、4代将軍家綱の命により老中・久世広之の差配により67年、社殿が再建された。このとき建築されたものが現存する本殿である。46年のときの本殿は正殿が三棟あったが、67年に再建されたときは簡素化され、三殿を横に連ねた相殿(あいどの)造りになった。また、三重塔、楼門、鼓楼は再建されなかった。が、後に鼓楼が復活し、楼門は守護神像(矢大臣と左大臣)を配置した随神(身)門が造られ2011年、御鎮座壱千九百年事業として改築された。本項冒頭の写真が今現在ある随神門だ。以前のものは「くらやみ祭」の際に神輿が通りづらかったため、改築の際に間口が広げられた。

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隋神門の北側、並びに東西にはずらりと屋台が並んでいた

 初詣には何の関心もない私だが、大鳥居から隋神門までの参道、並びに東西に並ぶ屋台には心惹かれるものがあった。しかしここを訪れた2日には直前まで昼食会があって、普段ならまず食すことのない「回らない寿司」を目いっぱい腹の中に入れていたため、焼きそばやたこ焼きの存在はさして気にならなかった。それより、この人込みから早く逃れたかった。

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社叢林を代表する樹齢900年の大イチョウ

 本殿裏にある社叢林(しゃそうりん、鎮守の森)は、子供時代の遊び場だった。ここで私はサルになったりターザンになったり鬼になったりした。しかし、現在は立ち入ることはできず、ただ柵の外から見上げることしかできない。写真のイチョウは樹齢900年とのこと。その他、ムクノキや大ケヤキもある。「大ケヤキ」と聞くと東京競馬場の名物をイメージするかもしれないが、あれは「大エノキ」であるということは以前の項で触れている(cf.26・多摩川中流散歩)。

府中名物・けやき並木

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桜通りから見たけやき並木

  けやき並木は府中を代表する名所である。私自身は生まれたときからこの並木は身近にあったのでとくに強い思い入れはないが、府中以外に住む人がここにやってくると、「町中にこんな大きな木の並木道があるなんて!」と感動するようだ。国の天然記念物にも指定(1924年)されている。江戸時代、並木といえばかつてはスギやマツが定番で、ケヤキのような広葉樹が植えられている例は珍しいらしい。現在ではサクラ、プラタナス、ポプラ、ハナミズミなどの並木道は当たり前になっているが。

 写真は国分寺街道を北から南方向に見たもので、「けやき並木北交差点」は「桜通り」と「けやき並木」が交差した場所にある。現在ではこの交差点が並木の終点とされ、大國魂神社の大鳥居が始点とされている。この600mの間の道の両側にけやきが植えられ、私が子供の頃は大木揃いだった。しかし、並木道のほとんどが舗装されてしまった現在、環境悪化で巨木は次々に枯れてしまい、多くは若木に植え替えられている。このため、かつてのような「鬱蒼とした」並木道とはなっていない。かつて府中の並木道の荘厳さに感動した人々が現在の姿を見ると、必ずや違和感を覚えるに違いない。

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府中駅西口横にある碑

 前述したように、府中とけやきとの結びつきは源義家の寄進が始原だったと考えられる。並木が現在のような姿になったのは徳川家康の命によるらしい。中央に本道(馬場中道)があり、東西の側道はそれぞれ東馬場、西馬場と呼ばれている。

 写真のように本道だけでなく左右の側道もすべて舗装されている。これではけやきは呼吸困難に陥り、大きく育つことはもう望めないだろう。私が幼い頃は京王線は高架化されていなかったので写真の辺りには踏切があり、その南側に京王バスの停留所があった。側道は未舗装で、泥濘にならないように小砂利が敷かれていた。このため、けやきの巨木はまだかろうじて命を長らえることができていた。

 * * *

 府中のもう一つの名物といえば「くらやみ祭」である。例年、5月5日の神輿渡御のときは大賑わいになる。府中が賑やかになるのは初詣、「くらやみ祭」ぐらいだろうか。もっとも、競馬場界隈は毎土日曜日、それなりの人出はあるが。

 例大祭(俗称くらやみ祭)は例年4月30日から5月6日までおこなわれ、3日から5日が特に賑わう。5月5日は大國魂神社が誕生した日とされ、かつては「国府祭」として開かれていたようだ。3日の夜には「競馬式(こまくらべ)」がおこなわれる。武蔵国には「牧」が多かったことは先に述べている。「石川牧」「小川牧」「由井牧」「立野牧」「秩父牧」「小野牧」は勅旨牧に指定されていた。馬の名産地であっただけに、お祭りのときにもお披露目をおこなっていた。現在でも、6頭の馬が神社前の旧甲州街道を三往復する。4日は子供神輿、山車、そして大太鼓が拝殿前に集合する。

 5日の夜が「くらやみ祭」の本番で、一宮から六宮、それに御本社と御霊宮の八基の神輿が拝殿前から旧甲州街道にある御旅所まで渡御する。かつては深夜におこなわれ、すべての灯火が消えた中、しずしずと進んだそうだ。資料には「暗夜の如く人ひそまりて、咳一つするものなく、おのおの息を殺せり」とある。いかにも「神事」らしい。その一方、6日の早朝には明かりを灯し、今度は威勢よく還御したらしい。が、神輿渡御はやがて神聖さを失い、賑やかそして喧騒の中でおこなわれるようになり、町中の風紀も相当に乱れたため、1959年に渡御は午後4時と明るいうちに開始されることになった。しかし、これでは「暗闇」での祭りではなくなったという声が高まったため、2003年からは午後6時開始となった。それでも特に大きな問題は起きてはいないようだ。皆、礼儀正しくなったのだろう。

 なお、府中市では町おこしの一環として映画『くらやみ祭の小川さん』(主演六角精児、高島礼子)を製作し、19年の10月から上映されている。郷土愛の欠片もない私や私の友人は鑑賞していないが、兄や姉たちからも映画の話は聞いたことがない。人生の転機を向かえ生きる目標がなくなった主人公は、たまたま祭りの準備に参加することになり、その過程で地域の人々との交流が生まれ、新たな生きがいを見出したという、いかにも道徳の教科書の題材になりそうなストーリーを聞くと、ますます見る気が失せる。が、全編、府中市が舞台となっている(当たり前だが)らしいので、その点には少しだけ興味がある。

浅間山は古墳ではなかった

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浅間山の標高は約80m。徘徊には最適な丘だ

 府中市の東北部の一角に浅間山(せんげんやま)がある。平らな立川段丘の上にそこだけが小高い丘なのだが、私や私の周辺の庶民はその姿を見て、皆が古墳であると信じていた。田舎の府中市とはいえ、さすがに周囲の開発が進み高めの建築物が多くなったためにその姿は遠目からは見られなくなったが、以前は集落を離れるとすぐに丘の形が視認できた。私や知人は北東方向にその姿を見ることが大半だった。丘からいえば私たちに南西側の姿を見せていた。

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今は平地からはこうしてみるのが精一杯だ

 写真は、浅間山の姿を西側から見たものだ。ここもまもなく建売住宅が並ぶようなので、丘の全貌を見るためには、もはや高いビルに上がらなくてはならないだろう。この姿を遠目に見て、前方後円墳ではないのかと多くの人が思い、家でも何度かそうに違いないという話になった。皆、知っている古墳の姿は図鑑の中にしかなく、掲載された前方後円墳を横から見た写真と浅間山の姿は確かに似ていた。上から見た写真は仁徳天皇陵のものがほとんどで、一方、浅間山の航空写真はなかった。

 自転車に乗って浅間山の周りを走ってみれば、前方後円墳のような縦長の姿はしていないことはすぐに分かるし、巨大な方墳と考えたとしても頂上が3つあるので、古墳とは全く異なる姿であるということはすぐに誰にでも分かる。が、誰も、その労を取ることはしなかった。私を含め、浅間山を古墳だと思い込んでいた人々は、ただ南西側の姿だけでそう判断していたのである。これは、〇が横に二つ並んでいれば「目に違いない」と思うのと一緒で、愚か者というほかはない。

 浅間山は1970年に都立公園として整備された。ここにはニッコウキスゲの変種であるムサシノキスゲが日本で唯一自生しており、市民の有志がこの花を守り続け、絶滅の危機を救った。今では毎年の5月中旬頃、山の斜面のあちこちで黄色い花を咲かせる。また、キンランやギンランもほぼ同じころに開花するため、ゴールデンウィーク後からは散策者がかなりの数、集まってくる。

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浅間山の「おみたらし」

 浅間山は私の散策コースのひとつになっており、自宅を出発して「府中の森公園」を抜けて浅間山に至り、まずは最高峰の「堂山」を目指す。その道の途中にあるのが写真の「おみたらし(御水手洗)」で、わずかではあるが湧き水が流れ出ている。小さな山だが広葉樹が多く茂っているので保水力があるためか、チョロチョロとではあるが湧き出ている様子を見ることができる(湧き出ていないときもある)。

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最高峰の堂山山頂にある浅間神社

 頑張って坂道を上る(頑張らなくても上れるが)と、標高79.6mの堂山の頂上に着く。ここには浅間神社がある。写真からも分かるように祠のある場所は墳丘になっている。確かに、浅間山は古墳だったのだ、規模は小さいけれど。後述するように、この山からは富士山が望めるので、それで富士山信仰由来の浅間神社が造られたのだと考えられる。

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堂山から国分寺方向を望む

 標高約80m(麓は52m)、標高差28mの「登山」ではあるが、葉の落ちた冬場は周囲の景色に触れることができる。写真の中央やや右のツインタワーは国分寺駅北口に最近できたもの。遠くには関東山地の連なりが見え、中央やや左の三角形の頂をもつのは武甲山だ。

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小金井市方向を望む。手前に見えるのは多摩霊園

 今度は武蔵小金井駅方向を望むと、手前には多磨霊園(多摩墓地)が見える。東京ドーム27個分の広さがある公園墓地で、ここもまた私の徘徊場所だ。著名な埋葬者が多いので、その墓を捜し歩くのが興味深く、私の趣味のひとつになっている。園内には桜が多く、花見シーズンには見物人が多く集まる。武蔵小金井駅の南口には新築のタワーマンションがある。古き良き田舎町の駅前商店街が近代化されたのには寂しさを強く感じる。ただし、中央線が高架化されたことは大歓迎で、小金井街道の踏切渋滞がなくなっただけでなく、そこを迂回する車による”もらい渋滞”が減少したのも大歓迎だ。武蔵小金井行きバスが早く着くようになったのも朗報のひとつだ。

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浅間山からはもちろん富士山が望める

 浅間山は以前は「人見山」と呼ばれていたらしい。独立丘なので周囲がよく見渡せたからとのことのようだ。山の南側には「人見街道」がある。これは以前にも触れたことがあるが、大國魂神社と杉並区にある「大宮八幡宮」とを結ぶ重要な街道だったらしい。浅間山はその街道をゆく人の姿を監視するにはもってこいの場所だったのだ。

 写真の標識は前山から中山にいたる途中にあるもので、ここから富士山の雄姿を望むことができる。私がここを訪れたのは午後3時過ぎなので逆光がまぶしくて富士の姿はかろうじて見えたものの、写真を撮ることは不可能だった。

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富士の姿を見ようと頑張る人たち

 晴れ渡っている日だったので、確かに富士山は見えた。ただし、時間帯が良くなかった。あと一時間遅ければ落陽とともに富士は見えるだろうし、丹沢山塊もよく見えるはずだ。朝早い時間であれば空気も澄んでいるので富士山を含めた山々はよく見えるはずだ。地方整備局も考慮して、この方角にある樹木は伐採して視界を確保してくれている。私の場合、午前中に散策することはないので、この地点からはっきりくっきりの富士を見たことはないのだが。

 中山から下りはじめ、来た道を戻る。この散策をおこなうと、約8000歩を稼ぐことができる。帰途、大抵、浅間山の成り立ちを考えてしまう。平地に墳墓を築いたのではないことは分かった。次に考えるのが多摩川との関係だ。約3万年前、古多摩川は北方向に大きく蛇行して国分寺崖線を造った。その際、浅間山は削り残していた。2万年前の蛇行では立川崖線(府中崖線)を造っているのだから、もう浅間山には何の影響もない。

 しかし、問題点がひとつある。浅間山の一番高いところは80m。例によって『国土地理院・標高の分かるweb地図』を参照すると、先ほど写真で見たツインタワーのある国分寺駅北口は73m、武蔵小金井駅南口は69mだ。浅間山最高峰と同じ経度の中央線沿線は、国分寺駅武蔵小金井駅の間で、しかも小金井により近い場所なので標高は70mだ。とすれば、多摩川はその地点では標高70mの高さまで流れていたことになり、その際、浅間山は川面から10mほど顔を出していたことになる。つまり、国分寺駅武蔵小金井駅のある武蔵野段丘とは別の成り立ちがあったと考えなければならない。山が武蔵野段丘の一部であるならば標高は70m前後でなければならないからだ。

 そこで浅間山の成り立ちを調べてみると、ここの地質は、関東ロームの下に「御殿峠礫層」があり、その下の基底部が「上総層群」であることが分かる。「御殿峠」は国道16号線が八王子市街から南下し橋本方面に抜ける途中にある標高187mの峠だ。多摩丘陵にある峠としてよく知られた名前だ。この辺りの丘陵地は「多摩Ⅰ面」といわれるもので、丘陵は大栗川や乞田川に侵食されている。御殿峠がある舌状丘陵地は浅川と大栗川の間にあって北東方向に伸びており、多摩動物公園はこの丘陵地上にある。この丘陵は多摩川で遮られているものの、もし多摩川がないと仮定すると、まさに浅間山に至るのである。御殿峠礫層を含む「多摩Ⅰ面」は約50万年前、古相模川が造った扇状地と考えられている。その証拠として御殿峠礫層には丹沢山塊由来の「閃緑岩」や「緑色凝灰岩」が多く含まれている。浅間山を歩くと中腹に小石が多く含まれている場所が散見されるが、その中にそうした石を見ることができる。ちなみに、大栗川や乞田川の流路は古相模川の名残なのだ。

 以上のように、浅間山は約50万年前、古相模川によって造られた扇状地の先端部と考えられ、後に多摩川が流路変更して狭山丘陵の北側から南側に流れを変えることによって古相模川が造った扇状地を削り、その上に古多摩川が造った扇状地が形成されたものの、浅間山だけが削り残されたと考えると合点がいく。武蔵野台地多摩川が造った段丘化された開析扇状地だが、浅間山周辺だけは相模川多摩川が造った合成扇状地の名残なのだ。こんなことを考えながら、浅間山から家までの時間を過ごす。

 浅間山から富士山を望む人には、富士山の手前にある大室山をはじめとする丹沢山塊の山並みにも目を向けていただきたい。この山(浅間山)の故郷は丹沢にあるのだから。もっとも、御殿峠礫層の上にあるロームは富士山から飛んできたものだから、富士も故郷には違いない。

私は小学5年生の時に「カント」に魅せられた

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私は写真の中央部辺りで生まれた

 子供の時は京王線も遊び場のひとつだった。写真は府中駅南口から今は亡き伊勢丹府中店方向に伸びるペデストリアンデッキから新宿方向を眺めたものだ。左側が府中駅のコンコース、右側が複合商業施設『くるる』で、その向こうにタワーマンションがある。私は、その『くるる』とマンションの間辺りで生まれた。もちろん当時、そんな建物はひとつもなく、京王線のすぐ南側にあった空き地の一角の「小屋」で生まれたのだが。3歳のときに京王線のすぐ北側の小さな家に越したのだが、生まれた「小屋」の記憶は微かにある。北側に移ったとはいえ、家の近くの踏切を渡ればすぐ生家に着くし、悪ガキ仲間の多くは南側にいたので、現在『くるる』がある場所辺りが私の最初の縄張りだった。京王線の線路内にもすぐに入れたので、釘を拾うと線路の上に乗せ、電車に轢かせてはそれを遊び道具に用いた。平らになった釘を曲げ、それを竹の棒の先に付け、それで近所の家の木に生っていた柿や栗などを盗むのである。

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1993年から使用されている府中駅北口

 家の前のすぐに京王線が走るところに住んでいたので、電車が発生する音にはすっかり慣れ、静かな場所では眠れないほど、京王線は身近な存在だった。電車を見るのは大好きだったが、乗ることはあまりなかった。切符を買うお金がなかったからだ。それが、小学5年生のときに事情が一変した。近所に住むH君と同級になったからだ。彼が近くに住んでいることは知っていた。しかし、違う生活圏に居たため一緒に遊ぶことはなかった。それが同じ組になり話す機会ができた。彼は京王電鉄(旧京王帝都電鉄)の社宅にいた。ときおり彼の自宅にお呼ばれした。社宅とはいえ一軒家だった。彼の家の裏に京王バスの事務所があり、駅に近いこともあってか、電車の関係者も事務所に集まっていた。事務所の横には焼却施設(といってもドラム缶がいくつか並んでいるだけ)があり、そこで回収した切符などを燃やしていた。が、なぜか未使用のバスの回数券や電車の切符も捨てられており、中には燃えずにそのまま残っているものも数多くあった。H君はその存在を私や私の悪ガキ仲間に教えてくれたのである。

 私は使用可能な回数券や切符を拾い集め、それを使って京王線京王バスに乗ることにした。バスには弱いので友達と一緒のときだけ乗った。電車は大好きなので一人でも乗った。東京(区内に行くときは東京に行くというのが多摩の田舎者のしきたりだった)方面は自分には眩しすぎると思ったので、せいぜい調布までが限界だった。一方、八王子にはよく行った。京王八王子駅の終点に着くという到達感が得られるのが楽しみだった。というより、電車が止まらないのではないのかという不安感も起こりドキドキもした。終点の先に線路はなかった。「線路は続くよ、どこまでも」などという歌があったが、私は続かない線路があることをここで実体験した。歌と現実の世界は根本的に違うのだということを了解した。こうして子供は大人の世界に触れていくのだ。

 一番よく出かけたのは「中河原駅」までだった。駅に近くには「矢部養魚場」があって、数多くあるイケスの中には色とりどりの鯉が泳いでいたからである。彼・彼女らが泳ぐ様子を見ているだけで楽しかったのだ。

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分倍河原駅と中河原駅との間にある曲線路

 が、中河原行きには鯉見学以上の楽しみがあった。分倍河原から中河原に向かうとき、線路はまず府中崖線を下っていく。それだけでも楽しいのだが、その先に大きな曲線路がある。そこで方向を70~80度変えるのだが曲率があまり大きくないため、電車はスピードをさほど落とさずカーブを疾走するのだ。電車はかなりの速さ(実際には時速80キロ程度だったが)で曲がるため、内側に傾きながらぐんぐん進む。この迫力に接するため、府中・中河原間を2、3往復することもあった。もちろん運転席のすぐ後ろに立って、前方を眺めながら直線路から曲線路に突入するときの傾きを体感した。運転手によって突入の仕方が違うことも知った。やや遅めにカーブに入り少しずつスピードを上げて抜けていく教科書タイプ、反対にスピードをむしろ上げながら突入し、上げ過ぎてブレーキを使用してしまうあわて者もいた。速度計も注視した。大半は75から78キロなのだが、なかには85キロでカーブに突入してしまう乱暴者もいた。速すぎるときは体が外側に投げ出されるような感じがあった。この遠心力を体感するのも楽しみのひとつだった。

 私はH君にこの体験を熱く語った。小学5年生にもかかわらず塾に通っている勉強好きの彼は、電車が遠心力に負けないようにするため、曲線路では内側のレールと外側のレールとでは高さが異なり(これは事実として知っていた)、この高低差のことを「カント(cant)」というのだと教えてくれた。彼の父親は京王電鉄に勤めているので、その受け売りだったと思うのだが、それをわざわざ親に聞いたというのは、彼も私同様にカント主義者だったのかもしれない。

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カントを分倍・中河原間の踏切で確認する

 自転車やバイクでカーブを曲がるときは体と自転車やバイクを内側に傾ける。自動車ではハンドルとアクセルワークで曲線を曲がる。自動車のテストコースやインディ500のような周回路コースでは曲線路でも高速で走れるようにバンク(横断勾配)が設けられている。そして線路にはカントがある。ただしカントにも限界があり、2005年、JR福知山線が尼崎で脱線事故を起こし多数の死傷者を出したのは、電車が想定スピードをはるかに超えて曲線路に突入したためである。運転手は乗客の命を守るという基本を忘れ、「時間」にとらわれてしまったのである。

 人は時間と空間という直観形式の中で生きているが、直観だけでは盲目であり、概念が人に内実を与える。運転手は「直観なき概念は空疎であり、概念なき直観は盲目である」というカント(Kant)の言葉を知るべきであったし、「理性の公共的使用」を心掛けるべきであった。人は「~できる」のではなく「~すべき」存在なのだ。

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カントのお陰で今日も京王線は曲線路を疾走する

 京王線は今日も私が大好きだった曲線路を疾走している。乗客はカント(cant)によって一定の安全性が確保されている。ただ、人には「悪への自由(根源悪)」があるため、絶対的安全性が担保されているわけではない。カント(Kant)はそう語っている。

 * * *

 先日、三浦半島へ初釣りに行ってきました。釣果はともかく、景色はまずまずでした。何カットか写真を撮ったのでワンカットだけ掲載します。

 本年はオリンピックという迷惑行事がありますが、それにめげず、良い年をお過ごしください。

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三浦半島・毘沙門の磯にて

 

〔31〕府中は、不忠ではなく普通の町です(1)

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府中には武蔵国府があった

府中には不忠者もいるが、ごく普通の町なのだ

  私は府中市生まれの府中市育ちで、人生の大半を府中市で過ごした。とはいえ、実際にはしばしば全国各地を放浪していた(いる)ので、住民票が府中市にあった(ある)というだけかもしれない。また、府中市内といっても同じ場所に住み続けたわけではなく、調べてみると7か所を転々としていた。府中市が好みというより、たまたま府中市で生まれ育ち、それで特別な不都合が生じていないので、勝手知ったる土地のほうがいろいろと利便性が高いので、というぐらいの理由だろうか。

 日本全国47都道府県すべてを徘徊しているので、あちこちで「どこから来たのか」という質問を受ける。「東京」と答えると質問者は少しだけ羨望の眼差しに変わる。しかし、「東京の府中市」と言うと、「あぁ」という声が漏れる。それには「東京」で都会を、「府中市」で田舎をイメージするからのようだ。熱せられて冷めるという感覚が、ため息の発生理由らしい。これには当初、やはり東京者は「区民」でなければならず、「市民や町民」であってはないからなのだろうと想像したのだが、どうやらそれは違っていて、「市」ではなく「府中」のほうにより強く反応しているのだということが後に分かった。「府中」という地名は全国津々浦々に存在しているので、普遍性が強く「特別感」を抱くことがない、というのがその理由らしい。このことは実際に何度か相手に確認したことがある。「府中なら、オラの田舎にもあるだよ」と。ちなみに「東京都」は全国にひとつだが、「東京亭(とんきんてい)」という名の中華料理店なら日本各地にある。

 私が放浪中に出くわした「府中」は多数ある。例えば四国に行ったとき、香川県讃岐国)の坂出市(瀬戸大橋を倉敷市から渡った先)には府中町があり、府中湖があり、高松自動車道には府中湖PAがあって、そこでよく休息をとった。JR予讃線には讃岐府中駅がある。徳島県阿波国徳島市を走るJR徳島線には府中駅があって、その所在地は徳島市国府町府中だ。ただし、この「府中」は難読駅名としてマニアにはよく知られている。もちろん「ふちゅう」とは読まず、「こう」と読むのだ。これは、「国府」は「こくふ」とも「こう」とも読むところからきている。一説には、「府中(ふちゅう)」は「不忠(ふちゅう)」と音が同じなため不敬に当たるというので、「こう=孝」と読むようになったというのがある。しかし、地理や歴史を少し学んだ人であれは、「国府津」は「こうづ」と読むし、国(国府)は郡(こう)が元になったと考えられているので、府中を「こう」と読んでも何の問題はない。

 日本三景の一つ、「天橋立」を観光した人ならご存じだろう。そこは京都府宮津市丹後国)にあるが、天橋立を一望できる名所として「天橋立傘松公園」がある。それは高台にあるので多くの観光客はケーブルカー・リフトを使って麓から公園に出向く。その出発駅を「府中駅」という。字名として「府中」は残っていないようだが、駅の近くには「府中公園」「府中小学校」「府中こども園」「府中駐在所」などがある。若狭湾には福井県小浜市若狭国)がある。ここには古い町並みが残っているので何度も出掛けたことがあるが、若狭舞鶴自動車道・小浜ICは小浜市府中にある。

 ことほど左様に、「府中」はいろんな場所にある。千葉県南房総市安房国)にも、岐阜県垂井町美濃国)にも、和歌山市紀伊国)にも、鹿児島県霧島市にも、石川県七尾市能登国)にも、大阪府和泉市和泉国)にもあり、広島県には府中市(東京の府中のライバル)も府中町もある。つまり、府中は日本各地にあるごくありふれた普通の町なのだ。もちろんこの理由は、ご存じのように旧律令国令制国)の国府があった場所を、後に府中と呼ぶようになったからである。

府中を知ってもらうためのキーワード

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三億円事件現場付近

 前述したように、「府中から来た」と返答しても、東京以外の人々には「東京にも府中があるの?」と、さらなる疑問を抱かせてしまう。この疑念を解くためには、「東京の府中」ならではの紹介の仕方があるはずだと考えてみた。重要なのは「周知された事柄」と結びつけることだ。それにはカギとなる言葉が必要だ。「東京の府中といえば〇〇である」の〇〇を探すことである。

 府中市ともっともよく結びつく出来事として知られているのが「三億円強奪事件」であろう。1968年12月10日に発生したので、あれからすでに50年以上を経ている。当時、三億円といえば巨額に思えたが、今でも同様なのは三億円強奪が並外れた事件であったというだけでなく、50年もたったのにそれが今でさえ大金と思えるほど、日本経済がそれほど発展していないということのほうに驚かされる。

 私は府中警察署の近くに住んでいたので、事件発生後は、ほぼ毎日のように警察署周辺の喧騒に触れるためにうろついていた、やじ馬根性丸出しで。友人からは「お前が犯人ではないのか」と言われたが、モンタージュ写真が出回るに及んで、その声は静まった。犯人はかなり色男らしかったからだ。私が犯人でないことは自分がよく知っていた。その日は学校に行っていたからだ。火曜日は授業が7時間もあったので、多分、2、3時間は授業に出ていたはずだ。仮に出ていなくとも悪友と学校付近にいたことは事実だ。帰りの電車の中で、事件の発生を知ったという記憶がある。私には現場不在証明があった。その証言は「悪意の友人」からだけでなく「善意の同級生や教員」からも得られるはずだ。しかし、共犯の可能性は排除されないのだが。

 何度か刑事が自宅に聞き込みに来たということは兄から聞いた。近所の人は犯人に疑われ、マスコミにも明らかに当人と特定できるように取り上げられた。そのため、彼れはノイローゼになってしまったらしい。今ならSNSで晒されるが、当時はマスコミがこぞってプライバシーを蹂躙した。

 事件現場は府中市栄町三丁目で、府中刑務所北側の「学園通り」上で発生した。白バイに偽装したオートバイは栄町一・二丁目の間の路地から学園通りに出てきたのだが、その路地は私にとって単なる想い出以上の価値がある通りだった、犯罪とは無縁なことで。

 府中を知らない人にも「三億円事件があった府中ですよ」といえばよく通じたし、こちらから東京の府中市から来たと言えば、相手側から「三億円事件があった場所でしょ」との言葉が返ってきた。今では事件そのものは風化してしまっただろうが、老人界隈では「懐かしい出来事」として最近でも語られることが時折はある。その語り口は一応にうらやまし気、である。本当に羨ましい。

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東京競馬場正門付近

 日本ダービー東京優駿)がおこなわれる東京競馬場府中市にある。目黒にあった競馬場が手狭になったため、広大な空き地(多摩川の氾濫原)がある府中(当時は府中町)に1933年、移転してきた。府中競馬場とも呼ばれることがあるので、競馬好きの人ならすぐに府中市と結びつく。田舎に住む釣り好き(とくに磯釣り好き)は概ねギャンブル好きなので、土日の釣行時にはラジオ持参で釣り場に来る輩が結構いた。

 田舎の釣り仲間に「家から競馬場までは徒歩10分の距離にある」と告げると、いかにも羨まし気な表情をする。「中学生のころから馬券を買っていた」と言えば彼らは尊敬の眼差しに。さらに、「小学生のころはレースコース(当時、そんな言葉は知らなかったのでたぶん馬場と思っていたような)を走ったこともある」と語れば呆れ顔になり、「競馬場のスタンドではかくれんぼ、場内の池ではザリガニ釣り、正門前の水路では魚取りをした」とまで述べると、彼らは平常心に戻った。ともあれ、子供・少年時代は、競馬場が恰好の遊び場だった。あの頃は今とは異なり、いつでも自由に競馬場内に入れたのだった。

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府中を代表する「公共施設」である府中刑務所

 三億円事件の現場は府中刑務所の北隣だが、たとえその事件が起こらなくとも、この刑務所は府中を代表する「公共施設」であると主張されるだろう。上述の競馬場には「府中」の名は冠されていないが、刑務所のほうは立派に「府中」と名乗っているのだから。この刑務所は都内から田舎の府中に1935年に移転してきた。

 しかも今はどうだか知らないが、かつては「初犯では府中のムショには入れない」と言われていたほど、刑務所としては「名門」だったのである、累犯者限定刑務所として。写真の表札は国分寺街道沿いにあり、その向かいには東京農工大学農学部キャンパスがある。大学には勉強すれば入れるし、キャンパス内にはたとえ勉強嫌いであっても誰でも自由に入ることができる。しかし、府中刑務所内には誰もが自由に入れる、とはいかないのだ。入るのが難しい。これが名門の名門たる所以である。

 中学校(母校の府中一中は刑務所の近くにある)の卒業式間近、悪ガキ仲間と「将来、府中刑務所で再会しよう」と誓った。仲間すべてとそこで会えるとは思わなかったし、中には網走や仙台送りになる可能性を有した奴もいた。しかし確実に言えたことは、ムショ内で再び出会っても何の不思議もない馬鹿者ばかりが遊び仲間だった。残念ながら、まだ私はその約束を果たせずにいる。私の記憶が確かならば、府中刑務所には初犯では入れないだろうし、それに何より、私は初犯者ですらないのだから。

 以上、「三億円事件」「東京競馬場」「府中刑務所」の3点が東京都府中市をイメージする際のキーワードになると考えうる。人生の多くのときを府中の地で過ごした者としての率直な意見である。あえて、あと2つ挙げるとすれば、「多摩川競艇場」か「関東医療少年院」だろうか。しかし、後者は最近、昭島市に移転してしまった。残念なことである。

 上記のような府中市のイメージを写真撮影の前に、やはり私と同様に府中に長く住む小中学校時代からの知人に話したところ、「武蔵国府のまち府中市」の存在も有名なのではないかと諭されたのだった。そういうわけがあって、冒頭には「武蔵国府跡」の写真を掲げた次第である。

国府国衙・国庁・府中などなど

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大国魂神社の東隣にある武蔵国衙跡

 中世史の研究書によれば「府中」の初見は1190年の丹後国の記録とのこと。文書等に「府中」の名が頻出するのは14世紀前半の「建武の新政建武中興)」以降のことで、国府に代わって多用されるようになったようだ。武蔵国府の場合、府中と呼ばれるようになったのは1319年からである。しかも当初、府中は国府全体を意味せず、国府にある建物や国府の中の役所の一角を示していたにすぎなかった。それが後醍醐天皇の新政が始まると官人層の士気が高まり、国司や守護を積極的に補佐することで政治化し、役所の力が強まったことで府中は役所名から都市名へと変化した。つまり、府中の名は、単に国府というより中世政治都市という意味合いを有していたようだ。律令国家体制の維持は7世紀後半から10世紀頃までが盛んだったので、それ以降は「国府」という概念自体があまり重要視されなくなったこともあるのだろう。

 9世紀後半からは世界規模での温暖化現象があって海進化が進んだため、海に近いあるいは川に近い低地にあった国府は移転を余儀なくされた。武蔵国府は同じ場所にあり続けたが、お隣の相模国府は3遷説まである。まるで孟子の母親みたいだが。しかも、初期国府は海老名市辺りか小田原市辺りかは判明せず、最盛期は平塚市付近、後半期は大磯町と、4か所が候補に挙がっている。

 さらに、遷府以前に国府の位置が特定できていない場合も多い。国府があった場所を探すためには『日本紀略』『三代実録』『和名抄』『拾芥抄』などの資料を参考にするか、発掘調査、「国府」「府中」などの地名、さらには国分寺や総社の位置からの推定などに頼っていることもあるようだ。五畿七道(66国のみ、2島は除く)を調べてみても、国府所在地が一か所に定まっているのは「和泉国」「駿河国」「伊豆国」「武蔵国」「安房国」「下総国」「飛騨国」「越前国」など19国に留まっている。これに対し、後述する国府と対で存在する「国分寺」のほうが、はるかに多く実物も資料も残っているので、場所が特定されている割合は相当に高い。

 武蔵国府が現在の府中市にあったことはほぼ確かなこととされている。上の写真は、大國魂神社の東隣にある「武蔵国衙跡地区」のものであり、本項の冒頭の写真は「国司館地区」のものである。どちらも最近に整備され公開されているもので、府中のイメージアップ作戦の一環だろう。ただし、国庁の位置はまだ定まっていない。

 ここで新たに「国司館(こくしのたち)」「国衙(こくが)」「国庁」という言葉が出てきたので整理してみよう。文化庁では以下の通りに定めている。

 「国府の施設は、国内行政の中枢施設である国庁、行政事務を分掌する曹司、国司が宿泊する国司館、庸丁らの居所である民家から構成されている。このうち、国庁と曹司群とを合わせて国衙という」

 そもそも、ここまで出てきた「国」という概念は7世紀半ば以降のものを指す。いうまでもなく、その発端は645年の「乙巳(いっし、おっし)の変」で、それ以降におこなわれた、いわゆる大化の改新で展開された律令国家体制における「国」のことである。この国概念は明治維新まで続き、今でも江戸時代の「藩」と並んで地名を表す重要な指標となっている。ただし、藩といっても大名領を示す通称でしかなく、しかも変遷が大きい。さらに幕府の天領はこれには含まないので日本全土を表す用語としては必ずしも適当ではない。このため、現在でも7世紀に定まった「国」のほうが「藩」よりもはるかに利便性は高い。会津藩長州藩との対立を理解する場合は別にして。

 全国という言葉がある。これは世界の国々すべてを意味しない場合がほとんどで、通常は日本全体を表す。ここでいう国は、律令制で定められた国=令制国と考えると良い。全体があれば必ず部分がある。ここでの部分が令制国、すなわち武蔵国相模国など66国・2島(壱岐対馬)であってそれら全体を表現するときに使う言葉が全国であると考えると分かりやすい。

 律令国家以前にも国はあった。基本的には国や県(あがた)があり地方の有力者が国造(こくぞう、くにのみやっこ)や県主についていた。こうした地方分権的なシステムから中央集権的な律令体制に変わる切っ掛けが乙巳の変であり、それに伴う大化の改新だった。記録によれば、旧国を支配していた国造は全国に135あったとされている。この135の国を解体して、新たに国・郡・里(のちに郷)という形に組み替えた。

 たとえば武蔵国には、无邪志(むざし、無耶志、無射志など)国造と知々夫国造があった。无邪志国造は現在の埼玉県行田市付近にあったようだ。以前に本ブログで埼玉(さきたま)古墳群を紹介したことがあるが、その辺りが旧无邪志国の中心であり、そこに残っている大きな古墳はその国の有力者の墓と考えられている。こうした旧国が解体され、まず評(こうり)に編成替えがおこなわれた。これをおこなったのは中央から派遣された統領、太宰であり、彼らが地域事情に照らして数評をまとめ令制国を造り、評(こうり)が郡(こうり)となった。評(郡)の編成が先であったのか、評の編成替えと国の編成とがほぼ同時に行われたのかは諸説あり、私が参考にした書物でも相反する見解が多く、今でも一致は見られていないようだ。考えうるに、この作業の進展には地域差がかなりあったのだろう。評の長官(評督)と次官(評助)には旧国造などの有力者が任命されており、評の拠点である評家(のちの郡家)と呼ばれた官衙の力量によって郡が先であったり、国と郡の成立がほぼ同時であったりしたのだろう。ただし、国の中核をなす国司は中央から派遣されており、しかも7世紀半ばの国司は仮のものであったらしく、数評(数郡)をまとめた国も670年代では確定されたものではなく、正式な国境画定は683~85年の天武天皇期だったとされている。

 この流れをまとめてみよう。評が設置されたのち、670年頃に仮の国司が有力な評に派遣され、まずは国司館(こくしのたち)が造られた。その近くに行政作業をおこなう曹司(局、つぼね=官司の庁舎)が整備され、国の体制造りがおこなわれた。680年代に国境が画定されると曹司が国庁(中枢施設)・曹司(行政施設)に整えられ、その一帯が国衙と呼ばれるようになり、その国衙がある場所を国府と呼ぶようになったようだ。

武蔵国府としての府中

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JR府中本町駅の東隣にある国司館跡

 上で述べたように天武天皇期に国境が画定され、武蔵国東山道の一国として出発した。王朝があったとされるヤマトを中心にする畿内には五国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、それに他の地域を七つの道(東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道)に分けた。これは明治維新まで続き、維新以後、蝦夷の地が加えられ、そこは北海道と呼ばれるようになった(五畿八道)。ただしこの七道は行政区ではなく、中央の巡察使国司を監察するため、便宜的に分けられた区分に過ぎない。武蔵国は当初、東山道に入れられていたが、771年には東海道に組み入れられている。各道には巡察使が移動しやすいように直線的で幅広(9~12m)な官道が整備された。府中市でも、国分寺国分尼寺の間から京王線分倍河原駅の西側辺りまで東山道武蔵路が直線的に通っていたことが判明している。

 ところで武蔵国だが、先に挙げたように「无邪志」と「知々夫」とが合わさって「无邪志(むざし)国」が成立した。したがって初期のころは「むさし」ではなく「むざし」と発音されていたらしい。これが8世紀の初頭に国印を鋳造するためにすべての国を2字で表すことに決められたことから「武蔵」の字があてられるようになった。

 武蔵国には21郡(多麻・秩父・久良・橘樹・都築・荏原・豊島・入間・足立・埼玉・新羅(後に新座)・高麗など)が属し当時としては大国に数えられていた。无邪志の中心はギョーザが美味しい店がなかなか見つからなかった「行田」だったにも関わらず、「おおさわや」というギョーザが美味しい店があった「府中」になぜ国府が造られたのだろうか?それには、行田に「埼玉(さきたま)古墳群」が残っているように、府中には「熊野神社古墳」があることから類推できる。

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上円下方墳という珍しい形をした熊野神社古墳

 熊野神社古墳は府中市西府町2丁目にあり、国道20号線・西府2丁目交差点のすぐ横にある。神社自体はそれほど大きくはないが、社の裏手には小山があり、それが古墳かもしれないという噂は古くからあったらしい。そういえば次回に触れる予定でいる浅間山だって府中の庶民界隈では前方後円墳らしいと勝手に噂していたが。

 その小山が調査されたのは20世紀末からで、2003年から本格的に調査・発掘が進められたことで、古墳の中でも珍しい形をした「上円下方墳」であることが判明した。この形のものは奈良と京都にまたがる地にある「石のカラト古墳」が一例目で、ここの熊野神社古墳は三例目だった。しかも他の2つより規模が大きく、上円の直径は16m、下方の辺は32mあり、面積でいえば「石のカラト古墳」の4倍の大きさがあった。府中市では「日本最大の上円下方墳」と自慢していたが2013年、六例目である川越市の山王塚古墳(直径47m、辺63m)が発見されたことで、 一番の座を降りることになった。「2位じゃダメなんでしょうか?」

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熊野神社古墳全景

 古墳時代は3世紀半ばに始まり、当初は「前方後円墳」が中心だった。最古の前方後円墳奈良県桜井市にある「箸墓(はしはか)古墳」で、卑弥呼の墓と噂されており、私は桜井方面を訪ねたときは必ずこの墓に会いに行っている。7世紀に入り、古墳時代も終末期をむかえると、六角形や八角形といった多角形のものが大半となる。なかでも天智天皇陵(山科陵、御廟野古墳)は上が八角形、下が方形で一見すると上円下方墳を思わせる。このため、この上円下方墳は天皇陵の原型と考えられおり、以前に紹介した多摩陵大正天皇)や武蔵野陵昭和天皇)はこの形に造られている(cf.18・浅川旅情後編)。

 こうしてみると、この熊野神社古墳もよほど位の高い人が埋葬されていると考えられるが、残念ながら今のところ人物は特定されていない。しかし、多麻郡の有力者であったことは確かだろう。さすれば、この多麻郡は埼玉郡に劣らず大きな勢力を有していたのだろうから、国府がこの府中にあったとしても何の問題もないようだ。

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熊野神社古墳の石室の様子を表した図画

 石室内を見ることはできないが、墳墓の前には写真のような図が掲げられている。私にはまったく不明だが、研究者によれば、この石室の形は武蔵国の他の古墳でもよく見られるもので、終末期古墳特有のものではないらしい。外観は新型だが内側は古典的なところから、埋葬されていた人物は多摩土着の田舎の有力者と推定されているようだ。

国庁はどこだ?

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国司館跡に展示してある模型

 武蔵国府は現在の府中市にあることはほぼ判明している。他の多くの国のように何か所に遷府したこともなく、資料不足で特定できないということもない。1700か所を超える発掘調査の結果、国衙の位置や国司館の位置もほぼ特定されている。国衙の中心は大國魂神社の東側にあり、本項でも先に国衙跡の写真を掲載している。年末年始以外はほぼ無休(9~17時)で国衙跡の見学ができる。また、初期国司館があったとされる場所も、JR府中本町駅の東側の御殿地地区といわれるところにあったことが発掘調査によって判明している。この場所もまた2018年11月に史跡広場として一般公開されている。さらにここでは、「武蔵国府スコープ」をゴーグルのように装着して、当時の建物の様子をVR(ヴァーチャル・リアリティ)で再現した映像を見ることができる(無料)。ここもまた年末年始以外はほぼ無休(9~17時、ただしスコープの貸し出しは一部制限有り)で見学することができる。

 国司館があった場所は立川段丘のキワに位置しているために眺めはたいそう良かったらしい。過去形なのは現在、南側は大規模マンションの建物で、南西側は府中本町駅から競馬場につながる遊歩道設備のために視界が塞がれているからである。中央から派遣された国司たちはここから多摩の横山や丹沢山塊、その先にある富士山、西にある大菩薩連嶺や大岳山などの山々を望んでいたに違いない。さらに徳川家康はこの地に「府中御殿」を築き、しばしば鷹狩りや鮎漁を楽しんだとされている。しかし1646年の大火で焼失し、それ以降は農地として利用されていたようだ。

 このように、国衙国司館はその場所は特定できているにもかかわらず、国府の中枢機関である国庁の位置はいまだに不明のようだ。

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神社の東側の京所(きょうず、きょうづ)のどこかに国庁があった?

 国衙跡が判明し、その中心部に大きな建物があったことが発掘調査でほぼ判明しているので、国庁の位置は、写真で紹介済みの「武蔵国衙跡」で決着が着きそうなものだが、まだ特定はされていないようだ。

 1820年頃から武蔵国庁の場所探しは始まったようで、今まで5か所が候補に挙がった。「京所」のほか「御殿地」「坪宮(つぼのみや)」「高安寺」「高倉」である。「御殿地」は直前で述べたように国司館があったことは判明している。府中本町にある「坪宮」は大國魂神社の境外摂社で、ある資料によれば无邪志国の初代国造があったとされる場所だ。「高安寺」は足利尊氏が再興した寺として知られ、武蔵国安国寺として位置づけられた。ここが国庁と考えられたのは国分寺との関係で、国分寺の金堂・講堂の中軸線を南に伸ばすと高安寺に至ると考えられたためらしい。これは判明済みの出雲国庁と出雲国分寺との関係の類比から考察されたものらしい。「高倉」は京王線分倍河原駅の西側にあり「高倉塚古墳群」として知られている場所である。ここでは国府関係の遺跡があったとされる言い伝えがあり、古墳群の中には无邪志国の国造のものがあるだろうと思われてきたかららしい。

 国衙の場所の特定により、国庁があったとされる場所は、現在ではほぼ「京所」で間違いないとされている。ただし決定打が未発見なのである。これには9世紀に発生した2度の大きな地震が関係しているとも言われている。武蔵国では9世紀の初めの弘仁年間にマグニチュード(M)7.7の、9世紀末の元慶年間にはM7.4の大地震が起きており、それらによって国庁の施設は壊滅し、移転を余儀なくされたことにより詳細な場所特定が不可能になってしまったと考えられている。

 武蔵国庁には少なくとも9人の国司がいた(その他、員外国司というものもいた)。守(かみ)、介(すけ)は各1人、掾(じょう)、目(さかん)は各2人。この順番で位が下がる。これを四等官といい、さらに書記官である史生(しじょう)が3人いた。広義の国司はこれら9人を、狭義には守のみを指す。武蔵守の初代は特定できていないが、初見は「引田朝臣祖父(ひけたのあそんおおじ)」で『続日本紀』にある。

 やや有名人といえば「高倉(高麗)朝臣福信(たかのくらあそんふくしん)」で、祖父は高句麗滅亡に際して日本に渡ってきた渡来人である。660年代の朝鮮半島は非常に不安定となり、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いでは日本・百済(ひやくさい、くだら)連合軍と唐・新羅(しんら、しらぎ)連合軍の戦闘、664,667年には唐の高句麗出兵などがあって、朝鮮半島から多くの人が日本に渡来した。彼らの多くは追っ手を避けて東国に移動した。716年には高麗郡、758年には新羅郡(のちに新座(にいくら)郡)が成立し武蔵国編入した。

 高倉朝臣福信は高麗郡出身で、伯父の肖奈行文(しょうなのこうぶん)が儒学博士として朝廷に仕えるために一緒に奈良へのぼり、福信はその地で名をあげ従三位の地位にまで出世した。さらに「朝臣(あそん)」の姓まで受け、高麗から高倉に改姓した。朝臣天武天皇が684年に制定した「八色の姓(やくさのかばね)」では第二位の地位に当たり、第一位の「真人(まひと)」は皇族にのみ許されているので、一般人としては最高の地位を得たことになる。この高倉福信は二度、武蔵守に任じられているが、実際には府中には赴任していないようだ。これを遥任(ようにん)といい、次の位の「介」が事実上のトップに就く。これを受領(ずりょう)という。

 ところで、高麗郡は現在、埼玉県日高市になっており、そこにはJR川越線八高線高麗川駅があり、西武池袋線高麗駅もある。近くには高麗川が流れ、高麗神社もある。ここへは、私は予備校生時代に敬愛してやまない鈴木武樹先生(故人)や大学院生、若手研究者とともに、古代日本における朝鮮文化の影響をテーマとした資料調査に訪れたことがある。記憶にはないが当然、話題の中では高倉福信の名が挙がっていたはずだ。

 武蔵国とは関係はないが、相模国国府が大磯町に移転したということは先に述べたが、この大磯にも高麗山、高麗神社(高来神社)、唐ヶ原など、朝鮮文化の影響を受けた史跡があり、ここにも鈴木先生らと調査に出掛けた。日高市の高麗も大磯の高麗も、渡来人の故郷である朝鮮半島の地形によく似ているらしい。そんな話も同行した在日韓国人の研究者から聞いたことがある。

 なお大磯調査の日は3月2日で、大学入試の前日だっため鈴木先生の忠告もあり早めに引き上げたという記憶もある。合掌。 

国府国分寺

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武蔵国分寺跡

 国府を語るときには国分寺(2島の場合は島分寺)についても触れなければならない。先にも述べたように国府の場所は特定できなくとも、国分寺は国家だけでなく地域住民の保護もあってかよく保存されているものが多く、武蔵国分寺の場合のように、建物は存在しなくともその位置は明確になっているものも多い。

 私は四国が好きでよく出掛けたが、ついでに八十八か所霊場に訪ねることも多かった。阿波国(徳島)では15番霊場土佐国(高知)では29番霊場伊予国(愛媛)では59番霊場讃岐国(香川)では80番霊場として、国分寺はすべて八十八か所の中に組み込まれていた。

 国分寺の名は地名としてもよく残り、武蔵国国分寺は市にまでなっているが、日本全国に国分寺町国分町、字名として国分寺、国分が多数あり、それは府中や国府以上に多いようだ。さらに、国分尼寺もあったことから尼寺という字名も残っている。

 国分寺は741年、聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって建設がスタートしたが、その先駆けとして737年には「各国には釈迦仏像を安置せよ」という命が出されていた。背景には天然痘の大流行があり、当時、政治の実権を握っていた藤原不比等の4人の息子は相次いで命を落とし、光明皇后も4人兄弟を失っていた。この天然痘は猛威を振るい、なんと日本人口の3分の1が失われた。ヨーロッパ中世ではペスト(黒死病)で人口の3分の1や4分の1が失われ国の有り様が大きく転換したことが何度もあったが、日本ではこの天然痘の流行が天皇に「鎮護国家」を決意させ、各地に国分寺の建立を命じたのである。ちなみに政治は藤原四兄弟が死去したのちに橘諸兄が実権を握り、留学生だった玄昉(げんぼう)や吉備真備をブレーンとして安定を図ろうとした。

 国分寺は、「国の華として仰ぎ見るのに良い場所」「水害の憂いなく長久安穏の場所」「南面の土地」「雑踏から離れた場所」が選ばれ、国司国分寺を監督するために交通至便で国府に近い場所も必要条件となっていた。

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国分寺の必要条件は七重塔

 武蔵国分寺は国府の約2.5キロ北側にある。先に挙げた国府に近い場所というだけでなく、交通至便な場所という条件も満たしている。国分寺国分尼寺の間に東山道武蔵路が通っているのだから。

 国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」で国分尼寺は「法華滅罪之寺」である。国分寺は僧20名からなり、国分尼寺は尼僧10名からなる。広義の国分寺は尼寺も含むので、狭義の国分寺国分僧寺と言って区別する。国分僧寺は「金光明最勝王経」を国分尼寺は「妙法蓮華経」を書写し、それぞれ10巻を建立した「七重塔」に納めることになっていた。この三者国分寺の必要条件だった。

 大国とされた武蔵国国分寺にふさわしく、ここは広大な敷地を有していた。東西約1.5キロ、南北1キロという国内最大級の寺院だった。面積だけでいえば、平城京四大寺院をしのいでいた。国分寺崖線前の立川段丘面には、それだけの広さを持つ平地があったのだった。

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武蔵国分寺金堂跡

 国分寺の伽藍は、基本的には北から「講堂」「金堂」「中門」「南大門」が中軸線を通して造られる。ただし、相模国分寺のように金堂が中軸線から外れているものもある。七重塔は武蔵国分寺の場合、中軸線の東側にあるが、安芸国分寺のように塔は中軸線の西に建てられている場合もある。いずれも、その場所の地形に配慮してのことだろう。しかし、南面に関しては例外はない。

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国分尼寺国分僧寺の西側にある

 武蔵国分(僧)寺跡の西側に国分尼寺跡がある。この間をかつては東山道武蔵路が通り、現在はJR武蔵野線が走っている。僧寺に比べると敷地はかなり狭いものの、こうして見ると広々としているとの感じを抱かせる。

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国分尼寺金堂跡

 写真のように、金堂跡もよく整備されている。二寺とも国分寺市西元町にあり、市の努力によってどちらもよく管理されている。

 二寺制を主張したのは天然痘で4兄弟を失った光明皇后の強い願いでもあった。しかし、尼寺は規模が小さく、国分寺の研究自体が僧寺中心だったこともあって、尼寺の場所が特定されていない国は約半数あり、そもそも未詳のものさえ30%ある。ここにも日本女性の地位が世界ランキングで121位と非常に低いことが関係しているのかもしれない。墓に眠る光明皇后の心中はいかばかりか?

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三億円事件の犯人はこの路地から学園通りに出た

 急遽、国分寺についても触れることにしたので、27日、慌てて自転車にて国分寺跡に向かった。国分寺街道を北上し、明星学苑前交差点を左折し、すぐ先にある路地に入る。それが写真の場所だ。三億円犯人は雨除けのビニールカバーを偽装した白バイにくっつけたままここから出てきて右折し、東芝府中に向かう現金輸送車を追った。当時は一方通行ではなかった。現在は一方通行になっているので、今なら偽装白バイは逆走してきたことになり、本物の白バイに捕まった蓋然性もある。そうであるなら、強奪事件は発生せず、結果、府中の知名度は低いまま推移した。

 もちろん、そんな過去はない。自転車で慌ててこの路地に入るとき、別の想い出が蘇った。来た道を少し戻りこの場を撮影し、そして国分寺跡に向かった。

 犯人はこの道から出てきた。私の少年時代の甘くも切ない想い出はいつもこの道を入っていった。あの事件があった時期、私はまだ夢の途中だった(cf.4・国分寺崖線)。

 そして今も夢の途中だ。かつては「亜麻色の髪の乙女」とこの道を歩き、今は青みがかり、場所によっては茶色がかった黒っぽい磯の魚を追い求めている。

 これでいいのである。

*府中の項は次回に続きます。

〔30〕奇跡の玉川上水(3)~拝島から小平監視所まで

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昭島市昭和の森付近を流れる玉川上水

多くの分水を有する玉川上水

 玉川上水江戸府内への飲料水供給が主なる目的だったが、ほかにも生活用水、防火用水、庭園用水、濠用水などにも利用された。さらに、多摩地区の新田開発のために多くの分水路が造られた。分水口の数は33とも34ともあるとされている。

 大規模な分水路としては「野火止用水」「千川上水」「青山上水」「三田上水」が有名である。とくに野火止用水は、以前の回でも挙げたように、玉川上水開発の最高責任者であった川越藩主・松平信綱の要請によって上水完成(1653年)の2年後の1655年には開削が始まり、先に何度も挙げている安松金右衛門の指揮のもと、わずか40日で完成している。

 川越藩の南部にある野火止地区(現在の新座市)は松平信綱菩提寺である「平林寺」がある場所だが、この一帯は北西に柳瀬川、南東に黒目川が流れており、その間にあって高台に位置するため新田開発に必要な水の確保が難しかった。ちなみに、例によって「国土地理院・標高の分かるwebマップ」で調べてみると、野火止の中心地である平林寺付近の標高は約41m(以下、標高、約は省略する場合有り)、一方、寺と同緯度近辺の柳瀬川は19m、黒目川は17m辺りに位置するため、両河川から野火止台地に水を導入するのは不可能である。したがって、野火止開発には玉川上水からの分水路を掘り進めてくる必要があった。前にも述べたように、松平信綱玉川上水開発を指揮したのはこの「野火止用水」の確保が眼目にあったといっても過言ではない。実際、野火止用水玉川上水の水の3分の1をもらい受けることになっていた。そのため、玉川上水の流路は野火止用水の取水口が造りやすい場所が選ばれたということはすべに述べた通りである。

 今回の最後に挙げる予定だが、野火止用水の取水口は「小平監視所」(95m)付近に設置され、16キロ離れた平林寺(41m)まで流され、それ以降は3つに分枝され、最終的には荒川の右岸側にあって現在の志木市を流れる新河岸川に至る。

  1696年に完成した千川上水は、西東京市武蔵野市の境にある「境橋」辺りで玉川上水から分水され、豊島区西巣鴨辺りまで開削され、湯島聖堂寛永寺浅草寺六義園などの水源として利用された。なお、この上水の設計者は西回り航路や東回り航路を開拓した政商の河村瑞賢だった。この上水についてはいずれ触れることがあるだろう。

 その他、四谷から芝の増上寺辺りまで開削された青山上水、笹塚から白金の自然教育園辺りまで開削された三田上水もよく知られた分水路であった。

拝島駅北口から東に向かう

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平和橋のすぐ西側には拝島駅横田基地とをつなぐ引込線の鉄橋がある

 玉川上水の流れは拝島駅北口辺りで母なる多摩川とは完全に袂を分かち、今度は五日市街道に並行するごとく東方向に進んでいく。向きを南東方向から東方向に変える直前にあるのが写真の「平和橋」だ。橋の西隣には鉄道が敷かれている。横田基地内に引き込まれる鉄道路である。

 橋のたもとには「平和橋のいわれ」を記した石碑がある。地元の篤志家が資金を出して橋が建設されたのだが、その篤志家の子供が先の大戦で戦死していたことから、恒久平和を祈念して「平和橋」と名付けられたそうだ。その横に基地に物資を運ぶために敷かれた鉄道路がある。「平和」の名は、はたして「希求」を込めてなのか、「皮肉」を込めてなのかは不明だ。

 横田基地内には、在日アメリカ軍司令部だけでなく、2012年からは府中市にあった航空自衛隊総司令部がそこに移され、日米の連携が強化されている。今のところ、日本の「平和」は駐留米軍によって守られてきたことは事実だろうが、これからもそれが続くかどうかはまったく不明だ。だとすれば、これまでの平和は単なる「祈り」だっただけなのかもしれない。

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玉川上水を跨ぐ西武拝島線

 平和橋から、上水に沿った散策路は両岸に整備されている。左岸から流れを追うと逆光が差し込むために細部を伺うのが難しい場合もあるため、基本的には右岸側を歩くことにした。右岸の小道には樹木がよく茂っており散策にはもってこいの場所になっている。

 平和橋のつぎは「こはけ橋」で、その下流側に写真の西武拝島線玉川上水を跨いでいる。この鉄道は上水を横断するといったんは上水の北300mほどのところまで進むものの徐々に上水側に近づき、つぎの西武立川駅では200mほど北、さらに武蔵砂川駅では100mほど北、そして玉川上水駅では北側すぐを並走することになる。したがって、今回歩いた辺りを訪ねる際は、西武拝島線を利用するのが便利だ。

 なお、拝島線の手前で左岸側にもあった散策路はいったん途切れるので、上水に沿って下流側に歩くときはこはけ橋を渡って、右岸側に移動する必要がある。今回の場合はもともと右岸側を歩いてきたのでそのまま進むことができたのだが。

 拝島線玉川上水橋梁を過ぎ、その下流側に「ふたみ橋」があるので、ここを渡れば左岸側に出ることができる。拝島線の線路脇から上水の北側には無名の空き地がある。現在では空き地だった東側には日帰り温泉施設(昭和温泉『湯楽の里』)ができたので景観は少し変わってしまった。ここは地下1800m付近から湧き出た温泉を汲み上げて使用しているらしい。散策路を歩いているとき、たまたま声をかけられた81歳(自己申告)の女性は、週に3回程度、その施設に通っているらしい。道理でそのご婦人はとても若々しく、どう見ても79歳にしか見えなかった。もちろん冗句である。

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上水はいったん暗渠化される

 元は全面開水路であった玉川上水は、「昭和の森ゴルフコース」の北側で330mほど暗渠化される。これは、JR五日市線昭島駅の北側一帯には「昭和飛行機工業」の航空機製造工場および飛行場があり、その滑走路を整備するために玉川上水の一部が暗渠化され、それが現在も残っているのだ。

 昭和飛行機工業は1937年に設立され、38年にDC-3のライセンス生産を始めた。戦後は一時、航空機事業が禁止されたものの解禁直後からはYS-11の開発・生産を分担しておこなっていた。昭島市の工場は1969年に米軍から返還され、その跡地にゴルフ場が造られ、さらに84年には昭島駅寄りに大型ショッピングセンター「モリタウン」が開設された。その後も諸施設が続々と造られ、昭島市北口はかなりの賑わいを見せている。

 上水に戻るが、拝島上水橋の下流右岸側には上水公園、ならびに昭和の森ゴルフコースが広がっているため、散策路はこちら側にはなく、ゴルフ場の東側までは、遊歩道は左岸側のみとなる。このため、拝島駅北口からずっと上水の右岸側を歩いてきた私は、拝島上水橋を渡って左岸側に移動した。今回の冒頭に掲げた写真は、左岸側から上水を望んだもので、そのために光を正面から受けてやや見づらくなっていたものの、紅葉が美しいと思えた場所だったのであえて掲載してみた。

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暗渠の上には緑道公園が整備されている

 前述したように工場に敷設された滑走路部分の上水路は暗渠化されたままだが、現在はその上に写真のような緑道公園が整備されている。右手には工場跡地に造られたゴルフの練習場がある。写真左手にはマンションや住宅地があるがその北側に拝島線西武立川駅がある。

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暗渠から解放された上水の流れ

  写真は、約330mの暗渠から解放された玉川上水である。暗渠の対義語は開渠(もしくは明渠)なので、「解放」ではなく「開放」の文字が妥当なのかもしれない。しかし、暗闇から解き放たれて明るい日差しを浴びることができたと考えるならば、やはり解放のほうが好ましいと思った。そこで、ここではあえて「解放」を使った。ちなみに、「渠」は溝や水路を意味している。したがって、開渠=開水路となる。

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台風で倒された大木

 暗渠のすぐ下流には、台風15号による強風で倒された大木が横たわっていた。流れを塞き止めているわけではないのでそのまま放置されているが、かつてこの木が元気だったころ枝々がしっかり育んでいた葉たちはすっかり枯れてしまっていた。さらに、すでに命を落としてしまった小枝も流れに身を任せるままとなった。

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砂川用水取水口の清掃作業

 すぐ上流にあった倒木による影響だけでなく、初冬は枯れ葉や枯れ枝が多く流れ着くので、砂川用水取水口では担当者が懸命に取り入れ口を塞いでいる葉っぱや小枝や枯草を取り除く作業をおこなっていた。この取水口は昭島市つつじが丘に架かる松中橋の南詰西側にある。

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右手の柵の下に砂川用水、左手に玉川上水。その間に散策路が続く

 砂川用水は松中橋南詰で取水され、しばらくは玉川上水の右岸側に沿って東進する。その後、一番橋、天王橋まで並走し、今度は天王橋で出会った五日市街道に沿って立川市国分寺市小平市へと進む。小平市上水本町で今度は玉川上水が五日市街道に出会うので、砂川上水は再び玉川上水と並走することになる。しかし、小金井市梶野町付近で街道や上水に別れを告げて南進を始める。ここからは「梶野新田用水」と呼び名が変わり、最終的には三鷹市深大寺用水に合流する。

 写真は松中橋下流の散策路を撮影したものだ。右側に写っている柵の下に砂川用水の水路があり、左手のフェンスの向こう側に玉川上水が流れている。写真から分かる通り、この区間の散策路には上水側に大石が並べられている。近年では散策路はしっかり固められているので決壊の危険性は高くないだろうが、かつてはそうでなかったかもしれず、ならば、大石を並べて安定性を高めていたのかもしれない。

 ところで、1657年に開削された砂川用水が五日市街道に沿って流れているならば、その4年前に掘られた玉川上水はなぜこのルートを採らなかったのだろうか。それは、ひとえに今まで何度も挙げている「野火止用水」との関連である。

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渋滞ポイントとしてよく知られている天王橋交差点

 天王橋交差点はいつも混雑している。写真を左右に横切る道が五日市街道であり、斜め上方向に見えるのが武蔵村山と八王子とを結ぶ多摩大橋通りである。こちらは青梅街道と甲州街道を南北につなぐ道なので交通量が多い。もちろん、五日市街道の重要性は言うまでもない。天王橋交差点は交通の要衝であるために渋滞ポイントになってしまうのは致し方ない。私はこの交差点をできるだけ避ける道を通るのだが、やむなく通らざるを得ない場合は、日中でも4、5回の信号待ちを覚悟している。

 前述のように、この天王橋から玉川上水と砂川上水との並走はいったん終わり、同じ東方向に進むにせよ、玉川上水はやや北上し、砂川用水は街道に沿って気持ち南下する。砂川用水は元来、立川市の上砂町、砂川町、柏町、幸町付近を潤すために開削された水路なので、その先にある国分寺崖線越えは考慮されていなかったと思われる。それでも、五日市街道沿いに進んでいるので、崖線の高低差は了解済みだったのは確かだ。

 一方、玉川上水があえて街道沿いには進まず、やや北向きに進むのは、野火止用水の取水口を埼玉方向に近づけるためである。後述するが、その取水口は拝島線玉川上水駅付近にあり、ここは五日市街道とは約1キロ離れている。そして、分水という大事を果たした上水は少しずつ南下し、小平市の上水本町(一橋大学小平国際キャンパスの南側辺り)で五日市街道に再び出会う。

立川断層と立川崖線

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難関に挑む前の小さな障害、残堀川との交差

 天王橋からその下流にある「稲荷橋」の間はやはり右岸側には沿道がないため、暗渠下で松中橋を渡って右岸側を移動していた私は天王橋を渡って左岸側に移動し、少しだけ左岸側を歩いて稲荷橋北詰に至るとこの橋を渡って右岸側に移動した。この先はずっと右岸側を移動することができ、井の頭線三鷹台駅付近まで散策路が続いている。

 その稲荷橋から下流を望むと、写真の景色が目に入った。もっとも、写真は200ミリ(標準換算)の中望遠レンズで撮影したもので、実際に目にしたスリットはもっと小さく見えたのだが。そのスリットは残堀川との交差手前側にある。

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残堀川の下方に入る玉川上水

 写真は上に挙げたスリットへの進入口を右岸側から見たものだ。右手やや上方にある柵の下に残堀川の水路がある。玉川上水の流れは勢いをつけて残堀川の下に入り、それを過ぎたところで顔を出す。スリットはその間にゴミが溜まらないようにするためのもので、スリットの上に見えるゴミの山は、それから除去されたものが蓄積されてできている。

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水の流れがほとんどない残堀川

 写真のように残堀川にはほとんど水がない。下草の状態を見てみると、一時はある程度の水量があったことが分かる。しかし、雨量が少ないときは流れはほとんど見えなくなり、下流方向では「空堀」であることがしばしばある。

 この川は瑞穂町箱根ヶ崎にある狭山ヶ池を水源として立川断層に沿って南東に流れ、立川市柴崎町付近で多摩川に注いでいる。かつては湧水を集めたきれいな水が流れていて、多摩川中流の項で触れた「矢川」に流れ込み、そのまま府中用水の助水としての役割を果たしていたらしいが、玉川上水の完成に伴って流路変更され、先ほど挙げた天王橋付近で上水に流入した。

 しかし、近代に入って都市化が進むと残堀川の汚染がひどくなったために上水とは切り離され、再び流路変更されて現在の位置になったが、このときは上水の下を通ることになった。しかし、大雨が降ると水が溢れ、下水道化した汚水が上水に流れ込むため、1963年、付け替え工事がおこなわれ、今度は上水が残堀川の下に潜ることになった。なお、上水は「サイフォンの原理」を利用してその流れを維持している。

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新家橋から見た上水の流れ

 一番橋、天王橋、稲荷橋、残堀川との交差点、新家橋、見影橋まで、玉川上水は一直線に東北東に突き進んでいる。このまま進んでいけば現在の玉川上水駅南口に至ることができ、野火止用水の取水口に到達できる。しかし、事はそう簡単ではなかった。見影橋の先には、難関が待ち受けていた。

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見影橋の南詰西側にある源五右衛門用水取水口

 見影橋の手前には、写真の「源五右衛門用水」の取水口がある。この用水は、砂川の開拓者である砂川家が自分の敷地にある水車を回すために造ったものである。公の上水を個人的な目的のために使用できたのは、それだけ砂川家には政治的な影響力があったのだろう。そうした決定が他にはほとんど及んでいないのは、幕府の「閣議」で「砂川家は私人だが公人でもある」との答弁書が作成され、詳細な議事録はシュレッダーにかけられて処分されてしまったからだろう。しかし、写真のように、この場合は水門という実体は残っている。本陣新大谷での宴の領収書は見つからないにせよ。

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見影橋南詰から見た右岸の沿道

 写真は、見影橋の南詰から上水右岸に沿う道路を下流方向に見たものである。明らかに高低差が発生していることが分かる。この高低差は、「立川断層」がもたらしたと考えられている。

 広義の立川断層は、埼玉県の飯能市大字上下名栗(旧入間郡名栗村)から南東に進み府中市の西府町付近にある「立川断層帯」を指す。約33キロに及ぶ断層帯で、1000年に0.2から0.3m、上下のずれが発生していると考えられている。大きな活動は約2万年から約1万3千年前に起こり、東北側が約3mほど隆起した。こうした活動は約1万から1万5千年間隔で起こるとされてきた。今後30年以内に大地震が発生し、その大きさはマグニチュード7.4(最大震度7)とされ、その発生確率は0.5から2%らしい。

 しかし最近の研究には、断層の痕跡は12キロと短く、瑞穂町の箱根ヶ崎から立川より北の12キロにとどまり、しかもこの1万8千年の間に3回の地震があり、直近のものは14、5世紀に発生しているため、次の地震は相当先になるという説もある。それゆえ、立川断層の名は相応しくなく、「箱根ヶ崎断層」に改めるべきとも主張されてもいる。

 私は今秋、著名な地震学者の大地震の予測についての講演を聞いた。数万年前の記録というのは、それ1回限りの記録しか多くは残っておらず、それ以前の状態が分からない以上、次があるともないとも全く予測できないのが実情らしい。つまり、科学的な予測を立てるには、資料が限りなく乏しいというのが事実だとのことだ。

 とはいえ、日本列島は4つのプレート境界上、もしくはその近傍にあるのは確かなので、どこで発生するのかはともかく、いつ大地震が起きてもおかしくないというのも事実であろう。

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見影橋下流方向で右にカーブする上水

 見影橋下流200mほど先で上水は直進を止め、大きく右に曲がって南東方向に進んでいる。ここでまた、国土地理院のweb地図で周囲の標高を確認してみた。カーブ直前の標高は約103m、上水がそのまま直進するとすれば、その先の標高は106mで、3mほど高くなっている。この段差が立川断層のずれによって生じたとすれば、確かに北東側が3m隆起しているのは事実である。地震以外の原因による段丘崖の可能性は排除できないにせよ、上水が直進するとなれば、かなりの深さを切り通す必要が生じてくるのは確かなことである。

 一方、曲がった地点では右岸側が103m前後、左岸側が105m前後になっており、これならば上水の自然流下は可能になっている。しかも、この流路と立川断層帯の地図を重ね合わせるとピッタリ合致するのだ。

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上水は断層に沿って進み、ゆっくり左に曲がって断層帯を脱出する

 上水は断層帯に沿って150mほど進み、ゆっくり左に回りながら断層帯からの脱出を図っている。写真は下流側から上流方向を見たものなので、流れは手前方向にある。したがって、向かいの高い方が左岸側、手前の低い方が右岸側になる。左岸側の標高は105m、右岸側は103m。脱出のためには、やはりやや掘り込む必要があるようだ。

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断層帯に沿って進みやがて左に曲がる様子

 写真は、断層帯に沿って進み、その先で左に曲がり、それからの脱出を図っている姿を右岸側の道から見たものだ。今度は下流方向に見ているので、右手がそのまま右岸側になる。道の先が少し登っているのは、断層帯の上部に上がっていくからだ。もちろん、水は上ることはできないので、前の写真で見たように、掘り込みはやや深くなっている。

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今度は国分寺崖線を越える必要があった

 断層を乗り切った玉川上水は、向きを少しずつ東北東に変え、野火止用水取水口に定めた場所へと進んでいかなければならなかった。しかし、その前には国分寺崖線を越えて武蔵野段丘面に乗る必要があった。

 砂川町4丁目から6丁目付近の崖線の高低差は1~2mほどで、まださほどの段差はない。これが南にいくにしたがって差は増大するために、できるだけ北側の位置で崖線を越えたいのだ。

 写真は、砂川4丁目と6丁目との境辺りで、上水と住宅地の位置の高低差がもっともある場所だった。左手の林の横に上水のフェンスがあり、その左下に流れがある。堀は必ずしも深いというわけではなく、上水の水面のほうが側道面の位置よりも高い「天井川」的なところもあった。写真の土手の高さは104m、一方側道は102mほどで、上水は恐らく102.5mほどのところを流れていると思われた。

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玉川上水駅方向に進む上水と側道

 こうして上水はほんの少しずつでありながら高度を下げ、しかし崖線の下には降りず、ゆっくりと少しだけ北側に寄って流れていった。写真からでも、先のほうが少しだけ土手が低くなっていることが分かるだろう。これは、土手が低くなっているというより、上水路が段丘上に上がりつつあるということなのだ。この辺りの標高は100mほどで、上水の縁の高さでも101mほどなので、ここではもう上水路は完全に段丘上にあることが分かる。

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上水の堀は、川底は玉砂利、側面は玉石で補強されている

 川床をやや深めに掘る場合には、川床に玉砂利を敷き詰め、側面はやや大きめの玉石を並べて補強している。崖線を横切るということはローム層が薄い場所を通過することであり、場合によっては砂礫層にまで達してしまう危険性があるからだ。「水喰土」から流れを保守するため、多摩川に豊富にある玉砂利や玉石を運び込んで補強材として利用しているのだ。立川断層と国分寺崖線という難敵に対処するための工夫だ。

玉川上水駅小平監視所

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玉川上水駅南口。上が多摩都市モノレール、下が西武拝島線

 立川駅多摩湖とを結ぶ「芋窪街道」は、武蔵野台地を南北に行き来する人々にとっては重要な道だ。そのため交通量はとても多くよく渋滞が発生していた。特に写真の場所は今でこそ街道は拝島線をアンダーパスしているもののかつては踏切があったために渋滞のネックになっていた。

 気のせいかもしれないが、西武線の踏切は早めに閉じ、遅めに開くという印象がある。これはJR線でもよく感じる。この点、京王線小田急線は踏切が閉まっている時間はやや短いように思える。ともあれ、玉川上水駅横の踏切は駅に近いせいか電車の動きが遅いためにより閉鎖時間が長く、いつもイライラしていた。それが立体交差になったために踏切待ちという要因はなくなったものの、渋滞がすべて解消されたという訳ではない。やはり、根本原因は東西を結ぶ道に比べ、南北を結ぶ道が圧倒的に少ないということにあるのだろう。その大前提として、武蔵野台地多摩川が造った扇状地で、川も鉄道も道も皆、高いところから低いところに向かうせいだ。

 それはともかく、上水はこの玉川上水駅のすぐ南にある。ここの標高は98m。五日市街道から1キロ近く離れ、大役を果たすためにここにきたのである。

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玉川上水駅から東に300mほど進んだ場所に分岐点がある

 玉川上水駅の東側に野火止用水の取水口がある。ここで上水の流れの3分の1ほどが、埼玉県の新座市方向に進んで行き野火止台地の田畑や人々の喉を潤す。写真のように、分岐点は埋め立てられており、取水口の面影はまったくない。用水を埋め立てた場所には、帯状に樹木が植えられている。

 野火止用水跡に沿って松の木道路があり、また拝島線もそれに沿って次の駅である東大和市駅に向かう。一方、大役を務めた上水は最大の目的地である四谷大木戸に向かうために向きを少しずつ南側に修正し、とりあえずは五日市街道との合流を目指す。その追分場所が写真の辺りである。

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分岐点の手前にある小平監視所

 羽村取水口で取り入れられた多摩川の水は、現在ではこの「小平監視所」が上水としての終着点である。監視所内にはプールがあり、水に混ざった砂がそこで沈殿し、写真のスリットで浮遊物が除去され、水質を「監視」された後、水は地下水路へと流れ込む。地下の導水管を経て東村山浄水場まで進み、最終的には東京都民の飲料水となる。

 東村山浄水場には狭山湖多摩湖の水も集められている。狭山湖の水は多摩川の小作地区で取水されたもの、多摩湖の水は玉川上水第三取水口から流れて蓄えられたもの。つまり、別のルートを経ても、大本はすべて多摩川の水なのである。

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上水の堀には水はなく、遊歩道が整備されている

 玉川上水路に入ることは禁止されているが、ここ小平監視所下の堀にだけは立ち入ることができる。上水の水はすべて消え、空堀になっているからだ。そこには写真にあるような遊歩道が整備され、かつての上水の掘割を見て取ることができる。この辺りはローム層が深いためだろうか、川床は不透水粘土層でしっかり守られているためだろうか、ほぼ素掘りのままの姿をしている。

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整備された護岸から「湧き出る」新たな水

 遊歩道の左岸側(ここでは上流側に視線を向けている)にある石の間から水が湧き出ている。が、その周囲の堤壁といい、水の湧き出る様子といい、何やら不自然さがあるは否めない。それもそのはず、この水は、昭島市にある多摩川上流水再生センターで高度に処理された水が地下の導水管を伝ってここに流れ込んでいるのである。

 玉川上水の水は、1965年までは新宿区の淀橋浄水場まで流されていた。しかし、そこが廃止されたために上水も小平監視所で流れは止められ、しばらくは「空堀」状態だった。それが「清流復活事業」によって1984年、上記の処理水が監視所下から流されることになった。

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再生された上水の流れ

 こうして玉川上水の流れは復活し、現在では小平でも小金井でも三鷹でも杉並でもその流れを見ることができる。しかし、上水の流れは絶えないものの、しかし元の水にあらずなのだった。とはいえ、再生水といっても多摩川の水には違いなく、直接的な連続性は失われても間接的な連続性は保持されている。

 ともあれ、今現在、水は流れている。それは事実である。

〔番外編〕清水みなとの名物は?

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私の鮎師匠・興津川の名物釣り師の石垣さん

 静岡市清水区は、私の第3の故郷になりつつある。清水へは、少年期は家族で石垣いちご狩り、三保の松原、登呂遺跡見学(ここは駿河区だが)に何度か出掛けた。青年期は仲間とのドライブでいちご狩り、三保の松原に何度も出掛けた。壮年期は新聞、雑誌の取材、メーカーのフィールドテストでクロダイ釣りにとてもよく出掛けた。そして徘徊老年期、数年前から清水区を流れる興津川にアユの友釣りでしばしば出掛けている。この川の釣り期は長く、5月20日の解禁日から11月末頃まで6か月以上、友釣りが楽しめる。駿河湾からの天然遡上アユが非常に多いためでもある。放流アユに頼っている河川では釣り期は3か月ほどしかない。そうした川より2倍以上もの長期間、友釣りが可能なのである。

 水質はかなり良く、したがってアユの食味はとても良い。もっとも、私はアユはほとんど食さないので、もっぱら、釣り味を楽しむのだが。この川は魚影の濃さは折り紙付きだが、釣りづらさも特筆ものだ。魚が多すぎるのか、アユの「追いっ気」は薄いため、なかなかハリに掛かってくれないのだ。この難しさもこの川の魅力で、他の河川では友釣りが終了してしまう9月から11月までは、ほとんど毎週、この興津川に出掛けては、友釣りの難しさと格闘している。「困難に立ち向かうこそ勇気」と心に決め、自虐的態度をもって川に屹立しているのだ。

 が、この川の魅力は釣りの難度の高さ以上に、この川で出合う人々との交流にある。名前はよく知らない(私は人の名前を覚えることがほとんどできないからなのだが)、年齢も知らない、住んでいる場所も知らない、職業も知らない、価値観も知らない。唯一知っているのは「釣りバカ」ということだけだ。集合場所は、興津川の右岸に近い「いしがき小屋」。上の写真のモデルである石垣一至さんが経営するオトリ小屋である。このオトリ店に集まる釣り人は友釣りの世界ではよく知られた名手が多いが、誰一人として、それを誇るためにこの「小屋」に集っているわけではなく、この店主の人柄に魅せられて訪れるのである。

 石垣さんを語り尽くすことは不可能で、その不可思議さは、写真の表情がある程度、語っているように思われる。バカボンのパパがこの人物に出会ったならば、「不思議だが本当なのだ」との名台詞を漏らすことだろう。

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日程変更のため、少人数で開かれた忘年会

 この「いしがき小屋」での忘年会が12月8日に開催された。当初は7日の予定だったがその日は悪天候が予想されたため、急遽、8日に順延された。このため、約半数の参加予定者が出席不可となってしまい、昨年の会よりかなり寂しい人数となってしまった。写真は午前10時半、乾杯直前のものだが、その後、5人が遅れて参加し、一滴の酒も用意されていないにも関わらず、お開きになったのは午後4時過ぎである。

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料理の多くは石垣さんが調理した

 釣り人にお酒は必ずしも必要でなく、釣り談義で心を酔わせることができる。中心話題は、やはり昨今の河川環境。興津川は解禁当日は例年以上の釣果に沸き立ったが、翌日の大雨でしばし釣りは中断。その後も少し回復しては大雨の繰り返しで、釣果はいつもの年の半分以下。そもそも、増水で竿が出せない日が多かった。この影響は産卵期にも及び、11月中旬の最盛期でさえ、産卵行動をとるアユの数は激減していた。アユは一年魚なので、今秋の産卵減少は来春の稚魚の遡上数に悪影響を与えるのである。いつもは「バカ話」で盛り上がるのだが、今年ばかりは「地球温暖化」がアユ釣りに与えるリスクを話題にせざるを得ない状況だった。

 忘年会は、来年の5月20日の再会を約してお開きになったものの、「いしがき小屋」には釣り期が終わっても釣り人はほぼ毎日集まることになり、真冬は小屋内の暖房設備がある場所で「よもやま話」に花を咲かせるのだ。かく言う私も、冬場は伊豆半島や焼津、御前崎付近にも海釣りで出掛けるので、獲物があったときはそれを持参して小屋にはせ参じるのである。

 これが、ここ数年の、私の第3の故郷での生活である。

清水にある未訪問の場所にも出かけてみた

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日本平から清水港を望む

 忘年会の当日は、清水の定宿である「駿河健康ランド」(興津川河口の右岸側にある)に泊まり、翌日は西伊豆の堤防でウキ釣りを楽しむことにした。しかし、天気予報が「快晴」を告げていたので急遽、清水見学に変更した。清水には観光、釣りを合わせれば恐らく200回近くは訪れているはずだ。しかし大半は釣りであり、観光となるとその一割ほどである。しかも、調べただけでも、「日本平」「東照宮」「次郎長の墓」は未訪であり、それ以外の「観光地」にも訪ねていない場所があり、8日の晩はネットで清水の観光スポットを探し、9日は久しぶりの清水観光を行ってみた。

 今回は「番外編」なので、写真を中心に紹介していく。

日本平東照宮界隈

 9日の朝、空にはしっかり雲が覆っていた。天気予報を信じた自分が馬鹿だった。それでも出発を遅らせた以上、もはや釣りに変更する気力は失せていたので、富士山の見えない日本平三保の松原もまた趣があるかもしれないと考え、宿を出立して日本平に向かった。

 富士山はすそ野が見えるばかりで大半は雲に覆われていた。しかも、湿度がかなり高いようなので、視界もかなり悪るかった。そこで、景色見学は後回しにして、まずは「日本平ロープウェイ」を使って東照宮に向かうことにした。

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楼門

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東照大権現

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仁王ではなく武将

 まずは楼門があった。後水尾天皇が勅許した「東照大権現」の勅諡号(ちょくしごう)が掲げられていた。家康は単なる武将ではなく、薬師如来が仮の姿(権)として地上に現われた神となったのである。その神を守護するために、寺院であれば仁王が居る場所には武将の像がある。

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本殿の屋根

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拝殿

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気になった意匠

 50年に一度塗り替えられる東照宮の建物はとても煌びやかだった。もちろん、私は「拝む」という態度を表したことがないので、ここでもただその意匠を見るだけだった。

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家康廟所

 本殿の上には廟所宝塔があり、信心深い人が私の代わりに拝んでくれていた。右手にたむろす人は「金のなる木」が気になっているようだった。来世より現世利益である。もっとも、この現世利益を求める気持ち(釣果を含めて)も私にはない。すべては結果ではなく失敗を多分に含んだその過程が楽しい。それは限りなく苦痛でもあるのだが。

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久能山下のいちご街道

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天使の梯子が降りてきた

 久能山といえば東照宮かもしれないが、私にはその崖下にあるいちごハウスがとても気になる。そこの石垣いちご狩りが、私が初めて清水を訪ねた目的だった。もっとも、私の、ではなく私の家族の、であったが。

 海に目をやると、陽光を受けた輝きが広がり始めていた。雲間からは無数の天使の梯子が降り注いていた。海のヤコブはこれら天使とどう戦うのだろうか。

 少しずつ、晴れ間が顔を出してきている。日本平からの眺望に期待がもてた。

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デジタルタワーと夢テラス

 晴れ渡ってきた。デジタルタワーの隣には「日本平夢テラス」が2018年11月に完成し、360度の眺望を楽しむことができるようになった。

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静岡市中心部を望む

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富士と沼津市民が誇る愛鷹山と清水みなと

 人々の歓声が聞こえた。富士山に掛かっていた雲が切れ始め、その頂上が姿を見せてくれたのである。人々はテラスに並び、カメラやスマホを富士に向けてシャッターを切っていた。当たり前すぎる景色だが、やはり美しい。空気がさほど澄んでいないのでハッキリクッキリとはいかないが、それでも富士は富士である。

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夢テラスができる前のビューポイント

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赤い靴母子像

 野口雨情の『赤い靴』のモデルになった母子は清水の出身とのことなので、清水の住民が中心となって募金運動が展開され、1986年に写真の母子像が完成した。この女の子、実は異人さんに連れられてアメリカに行っちゃったのではなかったらしい。養子先のアメリカ人宣教師が帰国する直前に女の子は結核に罹り、完治することなく9歳で亡くなったとのこと。すると、横浜の波止場から船には乗らず、山下公園で養父の面影を追っていたのだろうか?氷川丸の間近で海を見るめる赤い靴を履いた女の子、君の名は?きみちゃんだった。

 本当だろうか?

三保の松原など

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羽衣の松三代目

 三保半島は安倍川が河口に運んだ土砂が海流や荒波によって運ばれて造られた砂嘴(さし)である。海岸には砂が堆積し、それから内陸部を守るために造られた防砂林が三保の松原だ。万葉集にも出てくるほど古くから知られた松林だが、ここが観光地となったのは「羽衣伝説」が広まったためだろう。ここを訪れる観光客は、天女が羽衣をかけた松はどれなのだろうかと気に病むので、地元では三代目、羽衣の松を写真のように保護している。伝説なので、それを探し求める必要ではないと思うのだが。人は観念よりも実体を求めるものらしい。

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松原には富士がよく似合う

 個人的には府中市から見る富士がもっとも美しいと思うのだが、一般には三保の松原から見る富士の人気が高い。

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御穂神社に続く「神の道」

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御穂神社のおみくじの評価を論じる若者たち

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天女が飛び立ちそうな御穂神社の屋根

 三保の松原からは500mほど御穂(みほ)神社に向かって松林の道が伸びており、これは「神の道」と呼ばれている。参道と考えるとごく普通だが、「神の道」と名付けられると厳かな感じを抱くことができる。

 御穂神社には天女が残した羽衣の切れ端が保存されているそうだ。このため、私は神社の屋根がひどく気になった。もしかしたら、天女が飛び立つ瞬間を目撃できると思ったからだ。残念ながらそれを目にすることはできなかったが、写真には、その姿があるかもしれない。

清水の次郎長

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梅蔭禅寺にある次郎長像

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次郎長の生家

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次郎長の墓

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石松の墓

 時代劇の代表的人物といえば「清水の次郎長」であり、配下の大政、小政、そして森の石松だ。あまりにも有名すぎるので実在の人物とは思えないが、実際の次郎長(山本長五郎、1820~93)は清水の発展に大きく寄与したことが多くの記録に残っている。しかし、私にとっては清水の開発に尽力した後半生よりも侠客・博徒であった清水一家の大親分であったころの次郎長が好みだ。

 侠客は職業というより「態度」なので、次郎長の職業は「博徒」だろう。しかし、清水発展のための公共的な仕事にも数多く従事していたため、清水一家を束ねる「団体役員」と表しても間違いはないはずだ。

 私が次郎長の生家を訪れた9日には、観光客は皆無だった。また、次郎長の像や墓がある梅蔭禅寺にも私以外はいなかった。

 「精神満腹」とは山岡鉄舟が次郎長に「悟りとは何か」と聞かれたときに答えた言葉で、のちに次郎長はこれを「座右の銘」にしていたようだ。梅蔭禅寺の碑にも、資料館の中にも、「精神満腹」の言葉が掲げられている。精神満腹=悟りの境地=解脱だろうが、解脱=永遠の死を意味するので、座右の銘にはならないような気がする。一切皆苦こそ真実だろうと、一切皆楽をモットーとする私はそう思う。

いちご海岸通りを行く 

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いちご海岸通りから見たハウスと久能山

 梅蔭禅寺から登呂遺跡に向かった。ナビは久能街道を使用することを勧めるので、南下して海岸線に出た。久能山下の海岸通りは、石垣いちご狩りが有名で、1月上旬から6月中旬まで、通りに並ぶいちご園で楽しむ(味わう)ことができる。久能山が所属する有度山(うどさん)は海底の堆積層が300m以上隆起してできた山だが、基本的には安倍川が山から運んだ砂礫層が中心のためにとても崩れやすい。このため、海流や荒波の影響を受けて海岸線は大きく侵食され、しかも崖崩れをよく起こしているので、現在、海岸線に近い部分はなだらかな斜面になっている。その斜面を利用し、石垣を組んでイチゴの栽培をしているのが久能山いちごで、観光地が近くにあることもあってか、いちご狩りも非常に盛んになった。私が初めて清水を訪れたのも、このいちごが目当てだったと記憶している。小学生の頃だ。

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シーズンに向けて、イチゴの栽培に余念がない

 久能街道は「いちご海岸通り」の名のほうが相応しいと思えるほどビニールハウスが無数並んでいる。私は車を止めて、そのハウス群の間を散策した。写真のように、ハウス内には石垣が組まれ、その上に栽培されている。いちごは水耕栽培も可能なので、水はけの良いここの土壌はこのフルーツには最適な土地なのかもしれない。しかも南側は海に面し、陽光に満ち、黒潮の流れによって冬でも暖かい空気が流れ込んでくる。

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東照宮の門前。久能山頂までは1100段以上ある

 有度山の一番南側の山を久能山と呼び、その頂きに東照宮がある。私は日本平からロープウェイを使って東照宮まで行ったが、写真の場所から1100段以上を登っても行くことができる。記憶の中には東照宮は訪問済みだったと思ったがロープウェイを使ったことはなかったはずだ。日本平に行ってはいないのだから。

 それが、この景色に触れたとき、記憶が蘇ってきた。いちご狩りを終えたのち、東照宮に行こうと家族皆でこの階段を上がり、森の中に少し入ったところで断念したのだ。わずか100段ほどで終了。家族そろって根性がなかった。

登呂遺跡

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復元された竪穴式住居群

 登呂遺跡は静岡県駿河区にある。もはや清水ではないが、清水を訪れた際に何度かここに寄ったことがあるので、今回、40年振りくらいに出掛けてみた。周囲は完全に新興住宅地になっているので、古の面影はなかったが、それでも住居群はしっかり管理され、弥生時代をイメージさせることは可能だ。なお、弥生時代は前5世紀から後3世紀頃と記憶していたが、近年では前10世紀頃に始まったとされるらしい。

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住居と高床式倉庫、それに火をおこす人

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こちらも復元された住居と倉庫

 「とろ」と聞いて、「登呂遺跡」を思い浮かべる人は歴史好き。「トロ」を思い浮かべる人は寿司好きか常識人。「トロツキー」を思い浮かべる人は革命家か単に変な人。「とろい奴」を思い浮かべる人は、神経質な人かS君の同級生。

清見

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清見寺山門

 清水に戻った。興津には由緒のある建造物がある。その代表が清見寺(せいけんじ)であり、西園寺公望が晩年を過ごした「坐魚荘」である。今回は前者の清見寺だけに立ち寄った。境内にある五百羅漢像が見たかったからだ。

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山門と本堂との間を走る東海道本線

 東海道が寺のすぐ前を通っているということで、東海道本線が街道に沿って敷かれる際、線路は境内を貫くことになった。山門と本堂との谷間を電車が通過する。線路は丘を切り通して敷かれているので、参拝者は山門をくぐると、線路を跨ぐように架かっている橋を渡って境内に立ち入ることになる。

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咸臨丸碑

 咸臨丸は日米修好通商条約批准書交換のために、勝海舟を艦長として米国に渡った船として名高いが、戊辰戦争では幕府軍の船として新政府軍と戦い、清水港内で敗北し多くの戦死者を出した。戦死した乗組員の遺体は逆賊として海や浜に放置され腐臭を放っていたが、その遺体を収容して清水の地に埋葬したのが次郎長だった。その後、次郎長と榎本武揚(元海軍副総裁)は清見寺内に「咸臨丸殉難碑」を建てた。碑文には「食人之食者死人之事」とある。「人の食を食する者は、人の事に死す」と読み下す。戦死者を放置した新政府軍のやり方を批判する意味合いがあるようだ。

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五百羅漢その一

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五百羅漢その二

 五百羅漢は、川越の喜多院や小田原の玉宝寺など各地にあり、都内にはそのものずばりの五百羅漢寺がある。清見寺の五百羅漢像は境内の斜面に置かれている。

 羅漢(阿羅漢、阿羅漢果)は初期仏教や上座部仏教では修行者の最高位を表していた。大乗仏教でも当初は菩薩の位であったが中国や日本に伝わるにしたがって大衆化され、単に修行僧を指すようになった。そのためか、五百羅漢像はそれぞれ異なった表情やしぐさを有しており、すべてが苦(一切皆苦)であることを示している。

 写真にあるのはほんの一部の像に過ぎないが、あなたの有している苦は、どの像に表現されているか探していただきたい。どれも当てはまらないだろうし、すべてが妥当するとも思われるだろう。それに相違ない。

**追加**

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富士宮市人穴付近から見えた赤富士

 12月20日にも清水に出掛け、帰りの道から赤い富士山が見えたので、思わず記念撮影をしてしまった。午後4時40分頃、静岡県富士宮市人穴にて。

 

〔29〕奇跡の玉川上水(2)~取水口から拝島まで

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羽村取水堰を望む

頑張った人々、そして地域

 奇跡の玉川上水の完成は、庄右衛門、清右衛門の兄弟(以下、玉川兄弟と略す)の努力によるところが大きいとされるが、実際には無数の人々の多大なる苦労の末に成し遂げられたと表するのが妥当だろう。川越藩主・松平信綱の配下の安松金右衛門はもちろんのこと、羽村取水堰の工事には羽村、川崎村(現羽村市)、五ノ神村(現羽村市)、草花村(現あきる野市)、熊川村(現福生市)、福生村、箱根ヶ崎村(現瑞穂町)、河辺村(現青梅市)、千ヶ瀬村(現青梅市)など12ヵ村の人々が関わった。ここでは「檜原村の鬼源兵衛」の活躍もあった。寒村である檜原村ではとても工事に人を送る余裕はなかった。そこで村を代表して源兵衛一人が参加した。彼は大岩を軽々と持ち上げては川岸に放り投げ、一人で九人分の仕事を成したとされている。もちろん伝説にすぎないだろうが、こうした話が残るほど、工事には多数の人々が強制参加させられたようだ。

 開削は取水堰付近から始められて、順次、四谷大木戸まで掘り進められたとされているが、こうした手順では僅か7か月で完了することはなかったと思われるので、上水の経路にあたる村々の人々が強制的に駆り出されて、図面にしたがって同時並行的に開削していったと考えるほうが適当だろう。

 羽村を起点に、川崎村、福生村、熊川村、拝島村、上河原村、砂川村、小川村、鈴木新田、小金井新田、大小金井村、田無村、保谷村、梶野新田、境村、西窪村、上連雀村、吉祥寺村、牟礼村久我山村、上高井戸村、和泉村、代田村、下北沢村、幡ヶ谷村を通って四谷大木戸に至る。ここに挙げた村々(享保以降に開拓された場所は村ではなく新田と称する)の住民の多大な労苦の末に「奇跡の玉川上水」は完成した。

 もっとも、開削が終わっても水がすぐに四谷大木戸まで届いたというわけではなかったようで、最低でも半年、後に現われた新井白石の記述によれば完全通水には約3年掛かったとされている。最新の技術を用いて造られた大型ダムですら試験湛水(たんすい)に半年から数年かけて安全性をチェックするのだから、約370年前の素掘りで造った上水道がそう簡単に通水するはずがないのは当たり前のことだ。ローム層は火山灰なので透水性が高く、きちんと高低差が測られて水が自然流下したとしても途中で土中に染み入ってしまう水は多かったはずだ。また、前回に触れた「水喰土(みずくらいど)」のような砂礫層を通過する場所もあっただろうし、ローム層と砂礫層との間にある薄い「沖積粘土不透水層」を開削中に誤って突き破ってしまったことだってあっただろう。

 そんなときは、多摩川に無数にある小砂利を川床に敷いたり、堤壁に玉石を並べたりして透水量を減らしていったようだ。さらに、赤土に石灰を混ぜると二和土(にわど)といってセメントのように固くなることは古くから知られていたので、この技法も用いられていたのかもしれない。

 いずれにせよ、不備が生じる度に周辺の村人は幾度となく工事のために招集(この場合は召集か?)されたはずである。なにしろ、玉川上水江戸府内の文字通り「生命線」だったのだから。

玉川上水、立川崖線を乗り切る旅にでる

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羽村取水口第二水門

 第一水門で多摩川の水を取り入れた玉川上水は余水があればすぐ下にある小吐水門で多摩川に戻し、主流は写真の第二水門を通過する。いよいよ43キロ、7時間の旅が始まった。

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上水の右岸側にそびえる調圧水槽

 第二水門のすぐ下流の右岸側には、150トンの水を貯水できる「調圧水槽」がある。この設備は、台風19号の際に江戸川の氾濫を救った「地下神殿=外郭放水路調圧水槽」と役割は同じで、緊急時にはこの設備に水を溜め込むことで流量を調整するのだ。あっちは地下に造った広大な貯水槽だが、こっちは高さ約25mの貯水塔だ。

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東京水道取水口。ここから導水管を伝って多摩湖

 第二水門から300から400m下流には写真の東京水道取水口がある。第二水門を通過した主流は早くも分岐される。ここまま玉川上水を流れ下ることができる水はそれほど多くなく、かなりの量は写真の正面に見える水門から地下水路(東京水道)に流れ込み、東大和市北部の狭山丘陵にある「村山貯水池=通称・多摩湖」に蓄えられる。そして東村山浄水場や境(武蔵野市浄水場に送られ、都民の飲料水となる。

 ちなみに、狭山丘陵は古多摩川が削り残した丘で、ある時期、多摩川は丘陵の北側を通っていたことがあるようだ。狭山丘陵の標高は150から160mあるのに対し、早稲田大学の所沢キャンパスは110m地点にあり、西武線所沢駅は73m、清瀬駅は55mと、青梅を扇頂とする扇状地は狭山丘陵の北側にも広がっている。丘陵の南側には、言わずと知れた武蔵野段丘や立川段丘がある。つまり、武蔵野台地は段丘化した扇状地であり、こうしたものは開析扇状地と呼ばれる。

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東京水道取水口を逃れた水たちは第三水門を通過して主流へ進む

 手前の貯水プールの向こう側に見えるのが玉川上水の主流で、左に見えるのが東京水道取水口だ。選ばれし水たちだけが第三水門を下って上水道を進み、最初の難関である立川崖線との闘いに挑むことになる。写真からも分かるように、崖線は上水近くに迫ってきている。というより、実際には上水道が崖線に近づいているのではあるが。

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右岸側に整備されている遊歩道。春は桜花が楽しめる

 第一水門から下流の宮本橋まで約1キロの間には右岸側に遊歩道が整備され、傍らには桜が植えられている。春には桜花が満開となり、大勢の花見客で賑わう。この遊歩道を進むと、上水が立川崖線を切り通して立川段丘面に乗る様子を見ることができる。

 写真の左手が立川崖線で、遊歩道は明らかに盛り土され、この間を上水は流れている。写真の場所は羽村大橋下流辺りで、第三水門を少し下ったところだ。上水は標高125m、崖線上を走る奥多摩街道は132m、右手に見える住宅は122m。取水口の標高は125m、ここまでは誤差の範囲でしかない。前回述べたように、玉川上水は1キロ進むごとに2.2m下るという極めて緩やかな斜度なのだ。第三水門手前では多くの水を蓄えられるように深く、そして広く設計されているので、そこの水面は取水口よりやや高くなっている。それゆえ、第三水門直下では流れにやや勢いがついている。

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遊歩道の盛り土は少しずつ高度を増しているように見える

 写真は羽村大橋の次にある堂橋の下流辺りを見たものである。上水は124m、崖線上は132m、遊歩道下は121mと、さほどの変化はないようだが、実際に歩いてみると、右手の住宅街は遊歩道より高低差が少しだけ増したように思える。少しだが、確実に上水は段丘崖に切り込んで進んでいる。

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堂橋と新堀橋の中間辺り。すでに上水は崖中にある

 堂橋と新堀橋の中間点付近。崖線上は131m、上水は124m、崖下の集落は120m。崖線との差はまだ7mのままだが、集落との差は少しずつ広がっている。上水が沖積低地を流れるだけでいいのなら、この地点で取水口(標高125m)からはすでに5m下っていることになるが、課題はただ流れることにあるのではなく、崖線を乗り切ることなのだ。「水たちにとっては小さな一歩だが、上水にとっては偉大な飛躍なのである」。アームストロング船長なら、さしずめこう語るに違いない。

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遊歩道はすでに土盛り上ではなく、崖中を切り通す

 新堀橋まで来ると、遊歩道は細くなり、すでに盛り土上ではなく崖中を通ることになる。右手には高台が現れ、そこの最大標高は128m、一方、上水は123m、左の段丘上は129mである。上水は少しずつ崖を切り通し、その流れの位置は取水口より2m下がっており、水が自然流下する状態を保ち続けている。

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新堀橋から上流部を望む

 新堀橋から上流部をのぞくと、切り通しを流れる上水の左右の堤壁には無数の樹木が茂っていて、さしずめ、渓谷を思わせる景観が広がっている。こうした景色は下流の加美上水橋、そして宮本橋近くまで続いている。しかし、ここは自然美を親しむために整備された流れではなく、あくまで、目的は江戸府内の飲料水確保のためなのだ。

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宮本橋から上流方向を望む

 宮本橋近くまで来ると、どうやら上水は立川段丘上にほぼ乗ったようであり、右岸側(写真では左側)に続いていた遊歩道はもはや舗装された道になっていて、その脇には住宅も散見されるようになった。その住宅地の標高は125m、上水は122m、左岸側(写真では右側)にあったはずの断崖はもはやなく、右岸側の住宅地と同じ高さの125mになっている。ただし、水面は若干深い位置にあるが。

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宮本橋から下流方向を望む

 右岸側に続いていた遊歩道は宮本橋で途切れ、上水に沿って歩くためには、写真の左手に写っている奥多摩街道の歩道を使わなければならない。しかし、歩道橋の少し先では歩道がなくなるので、川沿いというより車道を隔てた歩道を進む必要があった。

 ここで、この宮本橋周辺の地形を確認しておこう。宮本橋の東側(上水の左岸側)の標高は124m、西側も同じく124m、上水は122m。多摩川本流は橋の西側200mほどのところを流れ、標高は113m、橋の東側600mほどのところにある福生駅は131m程度だ。さらに福生駅の東側600mのところにある八高線東福生駅は138m地点にある。つまり、玉川上水は立川段丘に乗ったとはいえ、まだまだ段丘のヘリをたどっているにすぎないのだ。この辺りの段丘崖は急峻なものではなく、やや緩やかに傾斜し、そして多摩川に近づく場所で一気に河川敷まで落ち込んでいるという二段構えになっている。

 上の3枚の写真を今一度、目にしていただければ分かると思うが、上水は一直線には掘られておらず、小さなカーブが連続している。これは、段丘崖が緩やかに下り、そして一気に落ち込んでいくその間を求めながら進んできたからである。多摩川に寄り過ぎれば流下速度は確保できるものの、もはや立川段丘に上がることは不可能になる。一方、福生駅側に寄れば下流側のほうが高度が増してしまうために流れは止まってしまう。自然流下を確保するためにはさらに切り通していく必要性が出てくるのだ。それも、かなり下流まで。

 簡素な水準器、そして夜間に使用した線香や提灯の明かり、こうしたものだけを頼りにして計測した絶妙なルートを選んで掘り進められた。これが可能であったのは、この地域の出身であったとされる「玉川兄弟」の知識と、開削に駆り出された地元民との協力が奏功したと考えられる。むろん、川越藩の安松金右衛門の英知がここに加わったことはいうまでもないが。

清岩院橋から水喰土公園まで

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清岩院橋西詰南にある中福生公園

 奥多摩街道玉川上水に沿って熊川方向に進むのは、福生駅から圏央道・日の出インター方向へ西に伸びる通りが上水を渡る新橋までで、次の清岩院橋までのわずかの間だが、街道は上水沿いから離れる。したがって、羽村取水口から遊歩道や街道を歩くことで常に目にすることができた上水の流れは、ここで初めて視界から離れることになる。しかし、清岩院橋を渡るときに上水と再び出会い、今度は右岸側に沿った細い道を歩けば、その流れと同伴しながら下ることができる。

 その細い道と、今度は上水の右岸側を走ることになった奥多摩街道との間にある公園が、写真の「中福生公園」である。写真では見えないが、画面の右手側に細道と上水、左手に奥多摩街道が走っている。玉川上水は標高122m付近を流れ、この公園は117m付近にある。この辺りの地形を広くみると、公園の北東側100m付近にある福生市役所は128m、上水左岸にある墓地は127m、奥多摩街道は盛り土上にあるので120m、街道の西側にある住宅街は117m、そのさらに西にある福生高校は115m、そして多摩川河川敷は110mとなっている。ここでも立川崖線は二段構えになっていて、丁度、上水はその一段目の際にあり、中福生公園から二段目がはじまり、緩やかに下りながら河川敷の手前で一気に落ち込んでいる。

 公園には緑と水が多く、湧水を集めた池と噴水設備がある。この湧き水は崖線の一段目の下、つまり上水の右岸下から染み出ているようで、この公園だけではなく、前述の「清岩院橋」の名の由来になっている清岩院の境内もまた上水の右岸側にあるため、湧水の恵みを受けている。

 玉川上水の左岸側を走っていた奥多摩街道が、清岩院橋を渡って今度は上水の右岸側を走るようになった、つまり道がクランク状になったのは、公園の東側にある墓地を避けるためだったと考えられる。というより、そこが墓地になったのは丘状になった地形とも関係があるのかもしれない。丘の手間では、街道は123m地点を走っている。しかし、丘は127mの高さがある。その高台を避けるために、上水の左岸側から右岸側へ移動したのだろうか。が、そうであるならば、今度は「盛り土」が問題となる。丘を切り通すのか、117mの高さの場所に3mの盛り土をするのとでは、どちらが合理的なのだろうか?

 これを説明可能にするのが、上水の右岸にある細い道だ。この道は清岩院橋の下流にある熊野橋の手前で奥多摩街道に合流する。わずか150mほどの長さしかない短い小径なのだ。小径の標高は123mで、合流する熊野橋の西詰も標高は123mである。つまり、この公園の東側の高台にある小径こそ、かつての奥多摩街道だったのではないのだろうかと考えると、すべて合点がいく。盛り土された現在の街道は、最近になって造られた「新道」なのであろう。 

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熊野橋の次にある「かやと橋」から見た上水

 熊野橋西詰で街道と上水とは沿って走っている、しかしこの並走はわずか200mしか続かず、「かやと橋」から下流五番目にある「五丁橋」までの間、上水沿岸を通る道はない。もっともその橋のひとつ上流側にある「山王橋」の左岸上流側に、上水に沿った100mほどの道があるが、これは生活道路ともいうべき存在で、散策路的なものではなく、たまたま左岸に沿って造られたにすぎない。散策路として整備された沿岸緑道は、五丁橋のすぐ下流側にある「水喰土公園」に至らなければ出合わないのだ。この間、約1.3キロ、上に挙げた例外的な100m以外、上水に沿う道はなく、上水の流れに触れるためにはその間にある「牛浜橋」「青梅橋」「福生橋」「山王橋」「五丁橋」の上に立つ必要がある。

 もっとも、玉川上水に緑道が整備されていないのはこの区間までで、水喰土公園からは上水の片側、もしくは両側に散策路が整備され、上水が暗渠化される杉並区上高井戸付近までは、三鷹駅付近をのぞけば、ずっと下流まで上水に沿って歩くことができる。

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沿岸路がないので、気分転換に崖線下まで降りてみた

  約1.3キロもの間、上水に沿った道がないので、すでに上水が乗り越えてしまった立川崖線の様子を探るために「かやと橋」の西詰から続く道を下って崖線下まで降りてみた。写真は、その降りた地点からやや南に進んだ場所で、崖線の様子がよく分かる所だ。私が立っている場所は福生市南田園三丁目辺りで標高は110m、崖上に見える住宅地は122m。崖線の段差は12mもある。

 ちなみに、私が立っている場所から西へ300mほど進むと多摩川左岸の河川敷に出る。そこには多摩川中央公園があり、園内には前回に触れた五日市街道の「牛浜の渡し」跡がある。

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立川崖線下にある「ほたる公園」

 崖線からは多くの清水が湧き出ている。崖線の直下には小さな流れがあり、それが南に下りにつれて明瞭な流れを形成する。その湧水を集めてほたるの養殖をおこなっているのが、写真のほたる公園である。園内には立派な温室があり、それを取り囲むように散策路が整備されている。例年、6月の中旬にはこの公園を中心として「福生ほたる祭」が開催されているそうだ。園内で育てられた500匹ものゲンジボタルが幻想的な光を放ち、人々はその仄かな明かりに酔わされるかのように、特設ステージで繰り広げられる催し物や路地に設えられた模擬店で初夏のいっときを興じている。

 崖線下の流れを追うのは私の趣味のひとつだが、これに心を奪われると上水の行方を見失ってしまう可能性があるので、正気を取り戻した私は、公園の近くにあるスロープを登って奥多摩街道に出た。スロープ下の標高は109m、上の街道筋は121mである。その街道沿いには一度は入ってみたいと思いながらも未だに実現していない「幸楽園」という料亭がある。同じ音だが、表記がやや異なる格安中華チェーン店なら何度も入ったことはあるのだが。

 格安ではないほうの「幸楽園」の南側には「ほたる通り」があり、その道を東に進むと上水に架かる「青梅橋」に出会う。いつもの上水散策なら、橋の先にある熊牛会館前交差点を右折して新奥多摩街道を南に進んで五日市線熊川駅の南側から「山王橋」に至るのだが、今回はそのまま直進して山王橋通りに出会い、その道を南下して山王橋に至った。

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山王橋から青梅線の鉄橋方向を望む

 山王橋は五日市線青梅線とに挟まれた場所にあり、どちらの鉄道も橋からは100m前後の位置にある。両線が近くに走っているということは、拝島駅が近いということだし、そうであるならば、「水喰土公園」はより近いところにある。とはいえ、前述したようにこの橋ではまだ沿岸を歩ける道はない。また、水喰土公園は青梅線八高線に挟まれた場所にあるので、その入り口にたどり着くためには青梅線を越える必要がある。そのため、山王橋の東詰を東進し、青梅線の踏切を渡ってから今度は青梅線に沿って南下し、五丁橋の東詰に出た。

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五丁橋から上水の上流方向を望む

 五丁橋周辺の住宅地は細い道が入り組んでいて、これを迷路と呼んでも誇張ではなく、むしろマイルドな表現であると思えるほど複雑怪奇な町並みなのだ。もちろん、これは拝島駅から北に伸びる三本の鉄道路がそうさせたのかもしれないし、玉川上水の流れがそうさせたのかもしれない。ただし、俯瞰すると、この交錯した迷路は拝島駅の西側まで続いているので、この土地はパズル好きの人が集まって造成したのかもしれない。

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やっとたどり着いた水喰土公園の入り口

 五丁橋を西に進み、青梅線の踏切手前を左折して進むと公園の入り口に至る。前回も述べたように、この奇怪な公園名は決して奇をてらったものではなく、ここの地面は透水性が高いために水をすぐに吸い込んでしまうというところから命名されている。伝承には、玉川兄弟は福生から多摩川の水を取り入れ、ここで砂礫層に突き当たり流した水はすべて土中に吸い込まれてしまったために失敗した、いうものがある。福生から掘り進めたというのは事実とは思えないにせよ、この公園内に残る開削跡は玉川兄弟が上水路として掘り進ませたという可能性はある。実際、古い写真を参照すると、ここの前後600mほどに開削跡が残っているのが分かる。一方、この開削跡は分水路跡という説もあるのだが。

 実際の玉川上水はこの開削路のすぐ北を通っている。位置は最大でも20mほども違わない。しかし、地形の違いは明らかだ。失敗したとされる開削路はそれまでと同じ高さの場所を通っている。一方、実際の上水路は東側に広がる高台を切り通している。標高でいえば、失敗した開削路は標高121から120mのところを通っており、先に挙げた五丁橋付近の121m前後と同じ高さにあり、決して間違いとはいえない。それに対し、際の上水路は125mの高台を切り通している。しかもこの高台自体そう長くは続かず、拝島駅北側ではその姿を消している。

 考えうるに、ここでの失敗はルート選択にあったのではなく、開削自体に問題があったと考えられる。この場所付近は立川段丘のヘリ近くにあるため、ローム層がさほど厚くはないと考えられる。それでも、ローム層の下には必ず沖積粘土不透水層が薄いながらも積もっており、この下に透水性の高い砂礫層がある。一定の流量を確保するためには水路の幅と深さの割合を考慮する必要がある。粘土層までの深さがあまりない場合は水路の幅を広げることを重視し、くれぐれも粘土層までツルハシの先を入れてはならないのだ。おそらく、この場所では誤って粘土層を傷付けてしまい、砂礫層にまで達してしまったのだろう。それゆえ、水が土中に一気に吸い込まれて水路としての役目を果たすことができなくなったと考えられる。仕方なく、この区間では流路変更がおこなわれ、東側にある高台を切り通すことで新しい流路を造りあげたのだろう。

 一部の記録によれば、この600mの区間の移し替えはわずか4日間でおこなわれたとされている。おそらくこうした区間の微調整はあちこちでおこなわれたと考えられる。上水の開削は7か月でおこなわれたとはいえ、通水にはそれから最短で半年、最長では3年掛かったとされている。この半年から3年間がこうしたファインチューニングに費やされたはずだ。こうした改修工事はやはり、土木事業に精通した川越藩の安松金右衛門が主導したと考えられる。

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修正された流路とその上を走る八高線

 前述した理由から、水喰土公園の東側を流れる上水は写真のように切り通しの中を進んでいる。この上を八高線が通っている。折角なので、橋を通過する電車を写そうとその瞬間を待ち構えていたのである。それを思い立ったのは前の電車が通過した直後だった。5~10分ほど待てば次の電車が通過すると軽く考えていた。八高線は単線なので、同じ場所を上下線とも通過する。いくら田舎の電車でも15から20分間隔ぐらいで走るのだろうから7~10分ごとに電車は通るだろうと考えていたのである。

 写真のように、玉川上水沿いの散策路はこの公園内から復活している。撮影場所から拝島駅北口までは900mほどある。細く、そして暗い散策路なのだが、長生き好きの老人や賑やかな親子連れが結構、通るのだ。そのたびに、それらの人々の通過を妨げないように傍らに身を寄せなければならなかった。八高線を甘く見ていた。20分待っても電車が来る気配がなかったのでスマホを取り出し、ジョルダンの乗換案内で時刻表を確認した。日中の八高線は30分間隔の運行だった。私は勝手に、八高線南武線と同格だと思っていたのだ。そういえば、昨今の南武線は扉の横にあるボタンを押さなくても自動に扉が開くのである。25分後、やっと電車が来る気配がした。そして目の前を通過したのが近代的な姿を有した八高線だった。車体はこげ茶色ではなかったのだ。昭和は遠くなりにけり、である。

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玉川上水の上を通る国道16号線

 拝島駅北口付近まで来た。八高線の鉄橋の下をくぐると、今度は右手の高台に「玉川上水緑地日光橋公園」が上水と八高線との間に細長くある。そこは子供たちの格好の遊び場になっているようで、国道16号線の武蔵野橋に近づくにつれ、彼ら彼女らの歓声が聞こえ、橋下近くでは自転車に乗った子供たちとよくすれ違った。同行する母親の姿もあった。

 だれも玉川上水の流れには関心を示さなかった。日常化して全体風景に溶け込んでしまったためなのか、人々の視線は上水の流れには向いていなかった。それでも、上水は流れている。370年近く、ほぼ絶えることなく。

 *  *  *

 ”ホーキングの再来”と評される天才物理学者が著した『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ・NHK出版・2019)という本が評判だ。私も読んで見た。量子論の見地からは「時間は存在しない」と言えることがよく分かった。確かに、現代物理学の立場では「時間は存在しない」らしい。

 にもかかわらず、こよなく愛した人と過ごした時間は、今でも限りなくいとおしい。思い出の中に、しっかり時間は生きている。

〔28〕奇跡の玉川上水(1)~その流路と取水口が決まるまで

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江戸の奇跡的建造物・玉川上水の取水口周辺

玉川上水の謎に迫ろうとした訳は?

 水の確保に苦労した江戸府内は、3代将軍・徳川家光の時代に玉川上水の開削を決したとされる。明確な資料は残っていないが、慶安2~3年(1649~50年)頃のことのようだ。家光は1651年に死去したため、具体的な計画・実施・竣工は4代の家綱のときだった。53年4月4日に開削が始められ、同年11月15日に終了したとされている。わずか7か月余りで完成したことになる(異説は多い)。

 多摩川左岸の羽村取水堰から導入され、終点の四谷大木戸(現在の新宿御苑大木戸門あたり~桜を見る会にご出席される折には玉川上水のことも思い浮かべてください)まで約43キロ(一番新しい統計書では42.7382キロ)。この間の標高差は約92m(羽村堰125m、四谷大木戸33m)なので、1000m進むごとに2.2m下がるという極めて緩い傾斜の下で水が流れることになる。ちなみに、1813年の「上水さらい」(流れを全部止めて底にたまった土砂や汚物を取り除く作業)の際に羽村から四谷までどのくらいの時間で水が流れるのかを計測したところ、約7時間であることが判明した。つまり、平均時速約6キロで水が流れていることになる。現在とは異なり、”傾斜”以外には動力源がない「自然流下方式」なので、上水の流路の決定は最重要課題であった。

 残念ながら玉川上水の全体設計図面は残っておらず、後に書かれた『上水記』が重要な資料とされているが、なにぶん、開削から137年後(1791年)に記されたものなので、必ずしも正確な記録とはいえない。Web辞典の『ウィキペディア』には上水についての詳しい説明があるが、杉本苑子の小説『玉川兄弟』を参考にしたと思われる記載もあり、これも絶対的な信頼性は担保されていない。その他、羽村福生市の人々が残した資料も多く残っているが、やはりこれも伝聞が多いので妥当性があいまいな点も散見される。というわけで、玉川上水の流路決定には謎が多く、それだけに推理のし甲斐がある。私は土木工学についてはまったく無知で、地質学も同様に素人なので正しく考察することはできないが、とりあえず入手可能な資料を集め、さらに現地を徘徊し、その中で自分が理解可能な範囲でもっとも妥当性が高いと思われる「流路決定過程」を考察してみた。

玉川上水開削に至る過程

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玉川上水開削の最大の功労者、玉川兄弟の像

 徳川家康の江戸入府は1590年とされている。当時の江戸は「ここかしこも汐入の茅原」で、茅葺の家が100軒前後という寒村だった。家康はこの地を開発するために浅海を埋め立て、あわせて飲料水確保のため、配下の大久保藤五郎に命じて「小石川上水」の整備をおこなわせた。現在、東京ドームがある辺りが水源だったようで、ここの標高は10~12mほど、現在の神田駅付近は4~5mほどなので(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を参照。以下、標高、”約”は省略する場合有り)、自然流下で真水を集めることができた。また、赤坂の溜池(桜を見る会の前夜祭が格安価格で行われた某ホテルの南側)は長さ1400m、幅は45~190mもあるかなり大きな「ひょうたん池」で、ここも標高10mほどあるため、やはり上水道として導入された。江戸幕府は1603年に始まり、当時すでに10万人が住むようになったため、飲料水の確保は喫緊の課題だったのだ。一方、開拓された下町の井戸といえば地下から湧き出るのは塩水ばかりで飲用にはまったく適さなかった。

 そこで、上水道の整備が拡大されることになった。井の頭池(50m)、善福寺池(47m)、妙正寺池(45m)からそれぞれ水路を造り、これらを小石川上水と合流させ、「神田上水」として1629年に整備された。いずれの池の水も武蔵野台地のヘリから湧き出る清水が元になっているため、赤坂の溜池の水のような泥臭さはなく、好評の内に多くの在府する大名家や武士、町人に受け入れられた。

 しかし、3代将軍家光が参勤交代制を1636年に確立すると江戸の人口は急速に増え、神田上水だけでは飲料水は絶対的に不足するようになった。浅草(3m)や向島(0m)あたりの下町であれば荒川の水(赤羽で0m)や石神井川の水(王子で5m)の導入が可能だったろうが、大名家の多い場所(例えば紀尾井町で11~17m)では「赤坂の溜池」以外に頼る水はあまりなかったと思われる。

 こうした経緯で、新たなる上水路の開発が企図され、標高20~30m付近に広がる武蔵野台地のヘリにも届く水源地が求められた。当然、目を付けられたのが台地の南側を流れる多摩川だった。先述のように、玉川上水の計画が浮上したのは1649~50年頃とされている。開削の依頼を受けたのは江戸の麹町辺りに住む町人で土木工事業を営んでいた庄右衛門、清右衛門の兄弟(以下、面倒なので「玉川兄弟」と記す)だった。この兄弟の詳細は不明だが、出身は羽村福生村、年齢は30代前半という説が有力だ。上の写真は羽村堰の横にある広場に1958年に建てられた像で、立って堰方向を指し示しているのが兄の庄右衛門、腰を落として測量している風なのが弟の清右衛門だ。この2人には、どんな困難が待ち受けていたのだろうか?

流路の決定過程を考える

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多摩川本流と右岸に連なる草花丘陵

  玉川上水の終点は四谷大木戸とあらかじめ決していたようだ。ここから地中に埋めた石樋を伝って四谷見附まで流し、そこから石樋や木樋を巡らせて各地域に水を運ぶ計画だった。問題は、多摩川からの取水口をどの場所にするのかということ、四谷大木戸までの流路をどのように決定するのかという2点にあった。開削のゴーサインが下る1652年12月までの数年間、2人には取り組むべき課題は多数あった。

 武蔵野台地多摩川が造った扇状地といっても過言ではないので、川が流れる方向と同じく台地は南東に向かって標高を下げる。台地の北東側には荒川が流れ、しかもその川の流域の標高は多摩川流域に比べるとかなり低い。ちなみに府中競馬場の南側において多摩川は標高40m付近を流れ、この場所と同じ経度上にある埼玉県の行田市は私の好きな餃子に似た地名だが、それはともかく、荒川は行田市の中心部の南側を流れるが、その場所の標高は17mに過ぎない。つまり、武蔵野台地は南側が高く北側がかなり低くなっている。当然、台地のどこかに分水尾根があり、ここを突き抜けてしまうと上水は北東方向にある荒川が生み出した低地に流れ下ることになり、標高33mのところにある四谷大木戸に達することは不可能になってしまうのである。

 それだけでなく、そもそも上水が分水尾根に至る以前に、2つの長く高い崖が立ちはだかっていた。暴れ川だった多摩川が3万から2万年前、武蔵野台地に刻んだ2本の崖線である。まずは立川崖線(府中崖線)で、現在のJR青梅線青梅駅の南側辺りで発生し、狛江市の元和泉辺りで消滅する。国分寺崖線武蔵村山市武蔵村山療養センター辺りから立ち現れ、大田区田園調布付近で多摩川左岸に合流する。つまり、上水のルートを決める際には、この2つの崖線を乗り越えるか、崖線が発生する前に台地に乗せるか、崖線が消滅した下流側からスタートするかの三者のどれかから選ばなければならないのであった。

 まず、崖線が立ち現れる前のところに取水口を決めるとしよう。青梅駅の南側が扇状地の出発点(扇頂)になるので、その少し西側を考えてみる。川の右岸側には青梅市の観光地としてよく知られた釜の淵公園がある。その対岸(つまり左岸側)にある青梅市立美術館付近が扇頂のすぐ西に位置する。釜の淵公園には河原がありその地点の標高は150mだ。一方、美術館は185m地点にある。谷を下ってきた多摩川はその強い流れで岸や川底を深く侵食し、急峻な崖を形成したのである。取水口をここにするなら、導水路は35mもの深さまで掘り込む必要がある。当時の素掘り技術では不可能に近い。したがって、この案が採用されることはあり得ない。

 次に、崖線が消滅した下流側を考えてみよう。大田区田園調布のすぐ東側には「丸子橋」が架かっている。この辺りの標高を調べると8mである。これでは四谷大木戸の33mより低いので取水口には無能な地点である。

 したがって、崖線発生前の地点も消滅後の地点も取水口に選ぶことはできない。さすれば、2つの崖線を越えやすい地点を選ぶしかないのである。

 さらに、必至の課題もあった。野火止用水の敷設である。玉川上水をどこかで分水し、一部(一説にはその3分の1)を現在の新座市にある「平林寺」付近まで流す必要があった。これは、玉川上水建設の総指揮者であった川越藩主・松平信綱の要請だった。「野火止」という地名から分かるようにその地域には乾燥した冬場には自然火災(野火)が多く発生していた。しかし、いずれ述べることになるが、その場所は2つの小河川に挟まれた台地にあって水が乏しかったのだ。そこで「知恵伊豆」と言われ、徳川家光の絶大なる信任をを受けていた松平信綱は、玉川上水建造後にはすぐに野火止用水工事に取り掛かる算段をしていたのだった。平林寺の標高は41mだ。したがって、分水のための堰をどこに決めるにせよ、これよりも高い場所が分岐点のメルクマールとなるのだ。

 以上の点から、玉川上水開削のための留意点を整理してみよう。(1)立川崖線(府中崖線)を越えること。(2)国分寺崖線を越えること。(3)標高41mより高い地点を流れ、かつ、埼玉県新座市に用水を引けるような場所を通ること。(4)分水尾根を越えないこと。この4点がとりわけ重要だった。さらに(5)立川断層を越えること。(6)小河川をまたぐ必要があること。これらが加わる。

 こうした幾多の難題を解決する場所は果たして見つかるのだろうか。

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福生市福生付近を流れる玉川上水を熊野橋から望む

流路を探すヒントになったものは?

 現代であれば詳細な地形図があり航空写真もあり、測量機器も技術もある。しかし、当時は詳細な地形図はなく、測量といっても提灯や線香の明かりを頼るか、素朴な水準器を用いるか程度だった。もちろん、開削の際はすべて人力で、ツルハシで掘ってモッコを担いで土を運び出すといった作業がおこなわれるのだ。全体が草原であれば地形の把握は視認でもある程度分かるが、当時の武蔵野の地は雑木林だらけである。「一眸(ぼう)数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃(けい)の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野や林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて‥‥」。これは国木田独歩が1898年に発表した『武蔵野』の一節である。明治30年でも武蔵野には多くの自然が残っていた。玉川上水開削計画はその250年近く前である。畑はほとんどなく、密な落葉樹林帯がほとんどであったはずだ。冬場こそ葉が落ちるので少しは見通せたかもしれないが、その時期以外は葉が満ちて、しかも地面には下草だらけであったはずだ。これでは提灯や線香の明かりを頼りにした測量ですら満足にはできなかったに違いない。

 流路策定には概念図が必要である。そうした資料はまったく残っていないらしいが、実際にはあったはずで、これなしにはおおよそのルートすら決められない。武蔵野のすべての樹木や草原を焼き払ってしまえば別だが。

 おそらく、概念図作成のための一番のヒントは「街道」の存在だったと考えられる。玉川上水の資料には伝承に基づくものが多いが、中には土木工学者の視点から記されたものもある。そうした人は地形をマクロに把握する視座を有しているので、東西を結ぶ玉川上水の流路策定過程を考察するとき、やはり東西を走る「街道」の存在から地形の有り様を参考にするようだ。

 都心から多摩川方面を結ぶ街道がいくつかある。代表的なものは甲州街道、青梅街道、五日市街道、それに人見街道である。街道は人や物資の移動のために用いられる。当然、人が歩きやすい場所、物資を運びやすいルートが選ばれる。それゆえ、街道はできるだけなだらかな場所を選んで通っていると考えられる。また、街道筋には集落が生まれるはずだ。宿泊場所、馬の交換場所、水飲み場、休憩施設、商店などは当然できるだろうし、そうした場所で働く人々が周辺に集まってくるだろう。水の確保のために井戸が掘られる。それによってその地域の地層が判明する。畑が作られれば樹木は切られ、わずかではあるだろうが見通しは良くなる。集落の人々に聞けば、周囲の自然環境がより明らかになる。流路の策定には、こうした情報が大いに役立ったと考えられる。

 甲州街道の道筋では国分寺崖線の高低差がかなりあることが分かる。その反面、崖線上にある武蔵野段丘に乗ってしまえば、例えば現在の京王線千歳烏山駅付近から新宿まで大きな障害はない。もっとも、野川や入間川、仙川もそれなりの高低差を生んでいるが。

 青梅街道は両崖線の北側を通っているため、高低差に関しては問題はない。しかし前述したように、青梅で上水を段丘上に乗せるのはまず不可能なので、この街道筋は流路として考察するに値しないと思われる。武蔵野台地の地形を知る一助にはなるだろうが。

 五日市街道は江戸城修復のための石材を運ぶために開発された。その後も江戸府内に木材や炭を運ぶために利用された。物資の運搬が中心だけに、当然なだらかな場所が選ばれている。この街道は多摩川を越えるため、主に「牛浜の渡し」が利用された。そこはJR五日市線多摩川橋梁と五日市街道の多摩橋との間にあり、現在では左岸側に「多摩川中央公園」が整備されている。ただし、この場所では立川崖線がすぐ東北東側に迫り、高低差は13mある。その一方、この街道が国分寺崖線を越える場所ではまだ高低差は少なく2mほどしかない。これが五日市街道の200mほど南側から崖線は急速に高低差を産み出し、街道から400mほど南側では5m以上の差が生まれている。さらにその1キロ南では10m以上の高低差がある。したがって、国分寺崖線を通るルートを考えたとき、五日市街道沿いを選ぶというのがヒントになるといえるだろう。

 上の3つの街道に比べると人見街道知名度は低い。しかし、府中市大國魂神社から杉並区の大宮八幡宮を結ぶ道としてかつては重要視されていたようだ。この道は府中市側から進むと野川、国分寺崖線、仙川、神田川を横切るので、甲州街道と五日市街道との間の地形を知るには絶好の道になっている。つまり、武蔵野台地の南北方向の「大地の皺」を知るにはとても具合の良い道なのだ。

 このように見てくると、玉川上水の大まかな概念図が浮かび上がってくる。多摩川のどこか(といっても「牛浜の渡し」より北側)で取水し、ゆっくりと台地へと導きながら五日市街道筋に乗せ、そして適度な場所で甲州街道方向へ誘導し、千歳烏山以東で甲州街道に合流し、あとは微低地や微高地をパスしながら四谷大木戸まで導くというコースになる。

 またこれは人見街道を進むと分かることだが、仙川は結構、谷が深く、また神田川神田上水)との交差も避ける必要がある。小河川ならそちらをアンダーパスさせることは可能だが、仙川を越えるためには高さのある導水路を整備する必要があり、神田上水との交差は玉川上水の存在自体が無意味となる。したがって玉川上水は、仙川が湧き出る場所、そしてそれが流れる川筋よりも北側を通り、かつ神田上水と交差しない地点で南下させて甲州街道まで至るルートを考える必要があった。つまり、どの地点で五日市街道を離れ、どの地点で甲州街道に合流させるかの重大なヒントが、人見街道にはあったのだった。

 仙川は小金井市にあるサレジオ学園あたりに水源があり、しばらくは東に進む。そして中央線・武蔵境駅の南側辺りから南東方向に下り、三鷹市上連雀下連雀を通り、新川にある杏林大学病院の東側を通過して京王線・仙川駅の東側で甲州街道と出会う。したがって、玉川上水が五日市街道と別れるのは武蔵境駅の北側辺りからでなければならない。といって、吉祥寺駅近くまで進んでしまうと、今度は井の頭池が駅の南側にあるので、その前に玉川上水も南下する必要がある。こうして、甲州街道との合流点が徐々に明瞭になり、結局、京王線桜上水駅の北側付近で甲州街道に至ることになるのが合理的だ。

 なお、この際、先に挙げた分水尾根が井の頭公園の南側にあり、玉川上水は実にスリリングなルートをたどるのだが、詳細についてはいずれ触れることになるので、それまで乞うご期待!

今度は取水口の決定過程を探ってみた

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台風19号がもたらした被害は羽村堰でも見られた

 玉川上水の大まかなルートは、上に挙げた理由でほぼ確定したと思われる。次に問題となるのが取水口の場所決めである。これには詳細は不明だが、前回のブログで紹介した「府中用水」の開削が参考になったようである。前回にも記したように府中用水ははじめ上水道の整備を企図していた節があった。しかし、国立市にある青柳崖線で甲州街道沿いに乗せても、いずれ国分寺崖線が立ちはだかって計画は頓挫するのは確実なので、この用水は結局、灌漑用水としてのみ用いられた。

 一方、伝承では、玉川兄弟は府中用水を現在、府中市清水が丘にある「東郷寺」辺りで立川段丘上に乗せる計画を進めたという話がある。しかし、工事中に砂礫帯に突き当たり、水をいくら流し込んでも川床が砂礫では水を吸い込んでしまうために、この工事は断念せざるを得なくなり、関わった人は責任を負わされて処刑されたらしい。このため、のちにその辺りは「悲しい坂」と呼ばれるようになったという話なのである。物語としては興味深いが、何度も言うように玉川上水計画であれば、この部分の工事が仮に成功したとしても、その先にある国分寺崖線のところで挫折するので、この工事と玉川上水計画とを結びつけるのは無理がある。玉川兄弟が本気で上水開削の一環としてこの工事を進めたのだとしたら無能の誹りは免れえないだろう。仮にこの工事が本当におこなわれたのだとすれば、それは府中や調布においてのみの上水計画だったのだろう。ともあれ、国立の青柳近辺や府中の清水が丘近辺は玉川上水の取水口にはならないのだ。

 取水口の位置は絞られてきた。青梅市では川の断崖がきつくてダメ、昭島市の多摩大橋辺りから下流は府中用水の経験でやはりダメ。さすれば、想定可能な位置は、河辺・小作から拝島までの間に絞られてくる。しかし、河辺辺りはまだ河成崖が30mもの高さがあって開削は不可能だ。一方、拝島付近は秋川との合流点があって水量の増減が読めないので、これらも候補地にはできない。したがって、小作から福生辺り(拝島駅西側にある睦橋の上流)が有力候補地になる。

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福生市熊川にある水喰土公園内に残る遺構

 JR五日市線拝島駅熊川駅との中間あたりに「水喰土(みずくらいど)公園」がある。玉川兄弟はこの辺りを取水口として開削を進めたところ、写真のあたりに砂礫層が広がっていたため、流した水はすぐに地中に染み込んでしまったという。そのため、ここは「水を喰う土地」=水喰土と呼ばれるようになり、玉川兄弟は2度目の失敗(1度目は府中用水)を犯してしまったとされる。しかし、この辺りを取水口とするためには先に挙げた五日市街道の「牛浜の渡し」辺りから掘り込む必要があるが、その地点の標高は109m、水喰土公園の堀は119mなので、この短い距離で10mの高低差を埋めるには無理がある。この点は後に研究されたようで、玉川兄弟が掘った場所は経路のひとつではあったが浸水が激しいためにやや上部に移し替えられた(実際、このすぐ上(標高121m)に玉川上水の流れがある)という説、この堀は水喰土だったからではなく玉川上水の分水跡という説の2つが有名だ。

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玉川兄弟はこの辺りを掘って岩盤に突き当たった?

 また、玉川兄弟が取水口に考えたのは今少し上流の「永田橋」のすぐ上辺りという説もある。実際、写真のように「堀」らしきものが残っている。写真の下方辺りに「福生かに坂公園」がある。2度目の失敗は「水喰土」だったからではなく、ここを掘り込んだところ岩盤に突き当たってしまったためにそれ以上掘り込むことを断念せざるを得なかったから、というのである。しかしこれも不思議な話で、ここはすでに立川段丘に入り込んでいるので、上はローム層、下は砂礫層で、そのさらに下が上総層群の基底部である。地中深く掘り込んでいくならこの上総層群に突き当たることもあるだろうが、崖を掘り込んでいくのだから砂礫層に出会うだけで岩盤に当たることはないはずだ。これも、玉川兄弟の苦難を「物語化」したものにすぎないだろう。

取水口はいよいよ絞られてきた

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羽村取水堰第一水門

 取水口の位置はさらに絞られてきた。小作から羽村までの間である。玉川兄弟の失敗により、松平信綱は配下の安松金右衛門に指揮をとるように命じた。安松は播磨出身で河内で育った。西国は水害の多い場所なので、その地で育った安松は土木事業に詳しかった。実際、玉川上水だけでなく、野火止用水新河岸川や川越街道の整備も彼が指揮している。そうであるならば初めから安松が出てくれば良さそうなのだが、当時の町奉行の神尾元勝が玉川兄弟を指名したので、いったんは信綱も彼らに任せたのだろう。しかし、失敗続きで業を煮やし、結局、安松に指揮をとらせることになったようだ。

 安松は取水口の候補を3つに絞った。上から羽西、羽加美、羽東である。羽西には現在、小作取水堰がある。ここから多摩川の水を取り込んで山口貯水池(狭山湖)に貯め、浄水場を経て東京都の水道に送られている。羽加美は阿蘇神社がある辺りで、羽東は現在の羽村取水堰がある場所だ。

 取水口からは長い導水路が必要である。現代であれば取り込む水量は機械設備によって調整できるが、江戸時代にはそうした技術はないので、長い導水路で水量を調整しなければならないのだ。しかも取り入れるのは常に水量に増減がある自然河川からなのだ。一か所の取水口だけでの水量調整は不可能で、水が多い場合は下流の何か所にも吐水口を設けて余水を多摩川に戻す必要がある。このためには、しばらくは多摩川に近いところを流れる必要がある。また、流れの速さも調整しなければならない。最新の研究では、玉川上水のようなローム層を流れる川の場合は時速5キロ程度が適正らしい。速すぎれば両岸や川底を掘ってしまい、遅ければ泥砂が底に堆積してしまう。先に触れたように、玉川上水は時速6キロ程度で流れていたらしいので、両岸を石で補強し、川底に小石を敷けば、なんとか課題はクリアーできると考えられたはずだ。

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取り込みすぎた水を多摩川に戻すための余水口

 3案とも、長い導水路を求めうる場所にある。しかも、この長い導水路は、立川崖線を越えていく役目も負わされている。そこで安松の3案を検討してみよう。

 まず上流の羽西だが、現在、小作取水堰の標高は131m、左岸上の台地は145mと14mもの差がある。江戸時代の多摩川の上流には小河内ダムがなかったので、今より水量は豊富だったから水面はもう少し高かったと考えられるが、それでも10m以上の差がある場所を掘り込むのはやや厳しい。この点、やや下流の羽加美辺りの水面は129mで、阿蘇神社下の台地は136mとなる。その差は7mあるが、かつての水面の高さを考えるとその差はもう少し縮まる。3案目の羽東は水面が125m、台地が132mで、差は7mと羽加美と同じだ。ちなみに、玉川兄弟が目星をつけたものの岩盤に阻まれたとされる「福生かに坂公園」辺りでは、水面が114mで台地が126mとその差は拡大している。これは、立川崖線が多摩川左岸に迫ってきているからだ。

 以上の理由から、取水口の位置は羽加美か羽東に絞られた。両者の条件は同じである。それならば、導水路がやや短くて済む羽東のほうが少しだけだが労力は節約できる。こうした経緯をへた結果、取水口は羽東、つまり現在の羽村取水堰がある位置に決まったと考えられるのだ。 

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流路を変えるための「牛枠」。今ならテトラポッド

 写真は多摩川の流路を変えるために使われた「牛枠」と呼ばれる川倉で、これを多摩川の右岸側に並べて流れを左岸方向に導き、水が取水口に入りやすいようにした。今ならコンクリート製のテトラポッドを用いるだろうが、当時はそのようなものはないので、木材を写真のように組んで、これが水流に耐えられるように重石として竹で組み中に石を入れた蛇篭(じゃかご)を積み上げた。

 現地に行くとよく分かるのだが、多摩川羽村堰の手前で大きく流れを変え、南向きだったものが東向きになって堰のほうへ向かっている。これは南下する流れの先に草花丘陵があったためにコースを東方向に変えざるを得なかったのだが、その流れを固定するように、丘陵の前にはこうした牛枠が並べられているのだ。一方、右岸側にはあとから造成したような(実際、造成したのだが)低い台地がある。これは明らかに流路変更の結果として生まれた空間で、その場所を宅地(かつては畑か?)として造成したと考えられる。

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 今回は導水路脇をたどり、拝島駅付近まで歩いた。が、その前に「立川崖線をいかに越えたのか」という大きなテーマが残っている。この点もやや長くなりそうなので、今回はこれにて終了です。撮影はほぼ終わっているので次回は早めに更新します(釣行が多く控えているので分かりませんが)。