徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔37〕八王子の城跡を歩く(2)悲劇の八王子城(前編)

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8年前に建てられたガイダンス施設内の展示(現在はコロナ禍で休館中)

八王子城造営にいたる時代背景

 天正18年(1590年)6月14日、現在の埼玉県寄居町にある「鉢形城」は豊臣勢の北国支隊ら35000の兵に包囲されながら約一か月間の籠城戦を戦ったものの遂に開城した。城主の北条氏邦(氏照の弟)は降伏したが、北国支隊のリーダーであった加賀の前田利家豊臣秀吉に彼の助命嘆願をおこなったことで許され、後に氏邦は前田家の家臣となった。

  鉢形城が落ちたことで、残された北条側の支城は八王子城のほか、忍城(埼玉県行田市)と津久井城(神奈川県相模原市)だけとなった。忍(おし)城について本ブログでは、行田市古代蓮や古墳群を見るために訪れた際に触れている(cf.16・古代蓮の項)。忍城は北条氏に従属する国衆である成田氏の居城で、「浮き城」とも呼ばれた難攻不落の城だった。八王子城(6月23日)や津久井城(6月25日)が落城した後も石田三成率いる秀吉軍からの攻撃に良く耐え、結局、小田原城の開城(7月5日)が決定されたことで忍城も籠城を解くことになった。津久井城は北条家当主に支配権があるものの実際の領地運営の多くを城主(内藤家)に委任されていた。八王子城の落城後に徳川軍の本多忠勝が中心となって津久井城に攻め込んだが、大きな抵抗もなく落城した。

 八王子城北条氏照が造営した山城である。先の「滝山城」の項で述べたように、1569年の武田軍の侵攻によって滝山城は落城寸前にいたったこともあり、より守りが強固な城の必要性を氏照は痛感していた。その一方、彼は北条側の軍事外交権の一切を任される立場であったため、城建設に実際に着手したのは80年代に入ってからとされている。70年代は北条氏が4代当主氏政(氏照の兄)のもとで領域を下野(栃木県)や下総(千葉県)にまで広げた時期で、下野の小山領や下総の栗橋領は氏照の支配下に組み込まれた。かように氏照にはこの時期、頼りないダメな兄の氏政に変わって北条家の勢力拡大のために奔走していたので、八王子城の造営を指揮する余裕はなかったと考えられる。

 八王子城の構想自体は1570年代にはすでにあったとされ、77、78年頃には根小屋地区(家臣団の集落地)の建設が始まっていたという説がある。さらに、『新編武蔵風土記稿』には、「天正6年(1578年)北条陸奥守氏照、滝山の城をここに(深沢山のこと)引移しける時、當社(牛頭山神護寺のこと)を城の守護神と定めける」とあり、八王子城への移転を78年であると記している。もっとも、79年の武田勝頼との戦いではあくまで滝山城を本拠にする予定だったようなので、要害地区(城の中核部分)そのものの建設はまったくといいほど進んでいなかったと考えられる。80年の3月に氏照は、織田家へ家臣の間宮綱信を使者として派遣したが、その際、間宮は安土城をつぶさに見学し、その地で得た知見を八王子城の造営に生かしたとされている。とりわけ、石垣の構築法は安土城に酷似していると考えられている。このように、70年代には八王子城の萌芽はあったものの、本格的な工事は行われていなかったと思われる。

 氏照が八王子城造営に最終的なゴーサインを出したのは82年(本能寺の変があった年=”十五夜に(1582)本能寺の変を知る”と年号を暗記した)だという説がある。この年に武田軍は織田軍に攻め込まれ、武田側の要衝であった高遠城(長野県伊那市)を守っていた武田勝頼の異母弟である仁科盛信が、織田信忠(信長の長男)軍に殺害され僅か一日で落城した。この高遠城の敗北によって武田側は一気に劣勢に追い込まれ、同年に武田氏は滅亡したという経緯があった。これを知った氏照は織田軍、さらに豊臣秀吉軍に対抗するために鉄壁の守りを有する山城の建設を急ぐことになったと考えられている。

 八王子城が氏照の居城であったことを示す史料は『狩野宗円書状』が初見らしい。これは天正15年(1587年)3月に記されたもので、遅くとも87年には城としての体裁がそれなりに整っていたようだ。それより早い時期に氏照が八王子城に入っていたことを示す確実な証拠はないらしいが、史家の間では傍証から84年頃には滝山城から八王子城に移ったと考えられているようだ。これは、氏照に関して残されている史料からは84年以降、「滝山城」の文字が一切、現れなくなったからとのことだ。八王子城移転は84年説、87年説があるにせよ、この城の規模はとても巨大な(敷地面積は400ha以上)もので、しかも山城であるために、落城した90年6月の時点では未完成だったする説は非常に多い。

なぜ、八王子城なのか?

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八王子城は深沢山(現在は八王子城山)に造営された

 北条氏照はなぜ、平地にではなく、時代に逆行するような山城をあえて築いたのだろうか?なぜ、八王子の深沢山に城を築くことにしたのだろうか?

 戦国時代の後半期ともなると、城は軍事拠点としてだけでなく政治・経済の中心地的な意味を有するようになる。そもそも室町時代貨幣経済が急速に発展した時期でもあった。貨幣経済そのものは鎌倉時代に中国から「宋銭」が入ったことで盛んになり始めていたが、室町期は中国から「永楽通宝」が入って日明貿易勘合貿易)が盛んになり経済は大いに発展を遂げた。優美で煌びやかな北山文化金閣寺が代表的)、簡素で洗練された東山文化(銀閣寺が代表的)が室町時代に栄えたのは、その背後に経済発展があったからと考えられる。

 戦国時代は群雄割拠の混乱期であり経済発展は一時、停滞していたこともあったようだが、戦国大名はその力を蓄えるためにも農業政策を重視したことも確かである。当時の言葉に「ただ草のなびく様になる御百姓」というのがある。当時の農民はある点では身軽なので、領主の悪政に対しては、いつでも村を捨てる(逃散)覚悟があった。それゆえ、支配者は農民との良好な関係を保つよう努力した。氏照が築いた滝山城であれば、先の項で述べたように城内の中腹には2つの池があったのだが、これは家臣団のための溜池というばかりでなく、谷戸に住む農民のための農業用水としても用いられた。後述するが、これは八王子城でも同様で、城内を流れる城山川にはいくつか堰を築いて池を造り、この水を下流に住む農民に提供していたと考えられている。

 話を元に戻す。上記のように経済の発展から城は平地に造り、天守閣や御三階櫓(やぐら)から庶民の暮らしを睥睨するという姿が一般的になって来てはいたのだが、氏照には武田勢、さらに織田や秀吉勢の攻撃から守り抜かねばならないという事情と、安土城の鉄壁な防御態勢を学習済みであったことから、あえて守り優先の山城の構築を考えたことだと思われる。

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八王子城の出城があった小田野城

 八王子の深沢山は地理的に絶妙な位置にある。北側には案下道(現在の陣馬街道)、南側には古甲州道が通っている。いずれも、甲斐から武蔵に抜ける重要な道である。案下道には和田峠、古甲州道には小仏峠がある。1569年の滝山合戦では小仏峠を越えてきた武田勢の別動隊である小山田信茂の軍勢の奇襲に苦戦を強いられた。この反省から小仏峠側の守りを固める必要があったのだ。一方、案下道側には氏照が育った大石家の浄福寺城(八王子市下恩方町)があり、さらに家臣の小田野源太左衛門が居る小田野城(八王子市西寺片町、真下に都道61号線・美山通りのトンネルがある)という出城があった。

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深沢山九合目からの眺め。関東平野が一望できる

 後述するが、八王子城跡のある場所の多くは国有林となっているために現在は樹木の伐採が禁じられており、登山ルートの大半は見通しが良くない。しかし、写真の通り九合目付近(標高約430m)は足元が切り立った崖になっているためか樹木がほとんどないので関東平野がよく見渡せる。城があった当時は周囲の状況を知るために当然、樹木の大半は伐採されていたはずだ。西側には景信山(標高727m)、南側には高尾山(標高599m)があるために見通しは良くないが、北側の案下道方面、北東側の滝山城、拝島方面、東側の武蔵国衙(つまり府中)方面、南東の鎌倉方面は登山道の至る場所からはっきりと視認できたと考えられる。そうでなければ、敵の動きは察知できないからだ。

氏照と宗教

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八王子城中の丸跡に建つ修験者像

 氏照は小田原北条家の軍事外交権を掌握していた武闘派という面だけでなく、様々な宗教政策を用いて自らの領地に住む民衆の人心掌握を図っていた。実際、八王子城が落城する際の戦いには多くの宗教関係者が参加していた。 八王子市を代表する寺で、童謡『夕焼小焼』の鐘の音の候補のひとつとされる「宝生寺」(cf.18・浅川旅情後編)の十世頼紹、西蓮寺の六代住職の祐覚、大国魂神社(当時は六所宮)の大宮司の猿渡(さわたり)盛正はこの戦いに北条側で参戦して戦死している。

 また、氏照の配下には多くの修験者・山伏がいて、八王子城小田原城との伝令役、敵方(上杉勢、武田勢、豊臣勢)の動きを探る間諜役として活躍していた。そもそも、深沢山そのものが修験道の聖山であり修行場であった。八王子西部の山間地には熊野修験の霊場が多く存在し、もっともよく知られているのは深沢山の隣にある高尾山だろう。また、周辺には「今熊神社」や「熊野神社」が数多く存在している。

 修験道の開祖といえば有名な役小角(えんのおづぬ、役行者)の名が挙がる。奈良の吉野山から紀伊・熊野山中への大峰奥駈道を開拓したことで知られている人物だ。その流れをくむ本山派修験宗の総本山は京都にある聖護院である。聖護院といえば「聖護院八ツ橋」「聖護院大根」「聖護院かぶ」などがとても有名だが、私にとっては府中一中時代の修学旅行の宿泊先が「聖護院御殿荘」だったということにもっとも強い印象があり今でも記憶にある。京都や奈良で何を見学したのかは全く覚えていないが、修学旅行専用列車が「ひので」だったこと、その夜行列車「ひので」の車内で学年一の美少女に頭を強く叩かれたこと、そして件の御殿荘の部屋で枕投げどころか布団投げをおこない「ふとんがふっとんだ!」と叫んでいたことなどが懐かしき記憶として鮮明に残っている。

 15世紀後半に著された『廻国雑記』は北陸、関東、奥羽地域の寺や名所を巡った紀行文で、当時を知るための史料的価値はきわめて高いという評価があるが、これを著した道興准后は聖護院の門跡であった。この作品は表面的には歌枕を訪ね歩く旅の様子を記録したものとされているが、道興准后の真の目的は、各地を巡って熊野先達の組織化を図るというものだったとされている。こうしてこの時期に、八王子方面を支配していた大石氏、ついで北条氏照が修験者との結び付きを強固なものにしたのだろう。

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八王子城跡の登山道入り口にある鳥居

  深沢山には「八王子神社」がある。開祖は普賢菩薩・妙行で、山頂の岩屋で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れ、八王子権現社の設立を勧請したという。牛頭天王は京都祇園社の祭神であり、日吉山王権現とも称される。日吉(ひえ)は比叡=比叡山を表し、天台宗の本山であると同時に山岳信仰の中心地でもある。また牛頭天王スサノオの本地とも考えられているので、この宗教的立場は山岳信仰天台宗神道が融合したものである。妙行が開いた八王子権現朱雀天皇に認知され、牛頭山神護寺(現在の宗閑寺)の名が与えられた。この信仰は八人の王子を祭神とするため、ここの地名は八王子と称されるようになった。

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八王子市の名の由来となった八王子神社

 八王子神社の社殿は八王子城跡・中の丸にある。なにやらうらぶれた様相ではあるが、この山は前述のように国有林となっているので改築・新築は容易ではないのかもしれない。屋根の一部が折れ曲がっているのは、昨年の台風15号の強風によるものだろう。

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隙間だらけの社殿の中をのぞく

 隙間だらけの社殿の中をのぞいてみた。中には小さいがそれなりの風格をもった社があった。バラック風の社殿はこの立派?な社を保護するための覆いと考えれば、うらぶれた外観も了解可能かもしれない。そう、平泉・中尊寺金色堂を守る「覆堂」のごとくに。いや、それにしてもみすぼらしい。ここは市名の発出点なのに!

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望遠レンズで高尾山方面をのぞいた

  二の丸(松木曲輪)からは八王子山岳信仰の親玉格である高尾山が見える。写真は標準換算350ミリの望遠レンズでのぞいたものなので、肉眼ではもう少し小さく見える。写真にある建造物はケーブルカーの駅舎かと思われる。

 深沢山(現在の八王子城山)と高尾山との間には古甲州道が通り、現在では中央自動車道首都圏中央連絡自動車道(通称は圏央道)とが通っている。中央道は古甲州道に並行しているので深沢山と高尾山との間の谷底を走っているだけだが、圏央道は両者をトンネルを使って串刺しにしている。ラジオで交通情報を聞いていると、高速道路の渋滞情報ではよく「圏央道八王子城跡トンネルで〇キロ渋滞」「圏央道・高尾山トンネルで△キロ渋滞」というアナウンスが流れる。両者のトンネルの間はわずかばかりだけ地上に顔を出し、そこには中央道とをつなぐ八王子ジャンクションがある。中央道のほうは地表を進むのでまだましだが、圏央道のほうは青梅側から合流するにせよ厚木側から合流するにせよ、トンネルを出るとすぐ側道に入らなければならないため、トンネル出口付近の事故はとても多い。心霊スポット好きの知人はこれを八王子城の悲劇の祟りだと言うのだが……お前の頭のほうが祟られているのでは、と反論したくなるが……最近では大人の対応をしている。

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神護寺があった場所には氏照と家臣団の墓がある

 氏照は1559年頃に由井(現在の八王子市域)の領主として浄福寺城に入り領国支配を開始した。それまでは由井源三を名乗っていたが、この時期からは養子先の大石姓を用いるようになった。

 61年には高尾山に椚田(くぬきだ)谷の一地域を寄進した。その背景には、当時は越後の上杉謙信と関東の地の争奪戦をおこなっていたため、武運を祈願し、あわせて人心収攬を図るという目的があった。62年には青梅の金剛寺に門内不入権を与え寺領を安堵した。65年には座間の星谷寺に竹林伐採を禁じる制札を立てた。これも寺領が外部の者に荒らされないよう保護したものだ。同年、府中の高安寺に寺中棟別銭免除を認めた。いわゆる不輸権の承認である。67年には八王子の大寺である宝生寺を滝山城下への移転を勧告した。これは未達成であったものの、城下に著名な寺を置くことで人心の掌握を一層、推し進めようする考えに基づいている。69年頃に牛頭山神護寺を深沢山の麓に建立した。さらに71年には神護寺境内での殺生、竹木伐採、乱暴狼藉の禁止をおこなった。81年には高麗郡(現在の狭山市)にある笹井観音堂の年行事職の任免権を氏照が得た。この観音堂は聖護院本山派の武蔵国の拠点のひとつであったため、氏照は修験者・山伏との結び付きを一層、強めることになった。

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神護寺は現在、宗閑寺と呼ばれている

 中世、寺社の力はとても強く、ときには将軍や朝廷の存在を脅かすほどの存在であった。鎌倉時代の初期には新仏教の浄土宗・浄土真宗臨済宗曹洞宗などが武家や庶民の間に広まり、それに対抗すべく、旧来からある天台宗真言宗も勢力を拡大し政治に対抗した。例えば1414年の『高野山文書』には以下の下りがある。「部外者の検断吏が境内に入り、そのに逃げ込んだ誰かを罪人だと称して、問答無用で理不尽に殺害することは認めない。犯罪者であることが事実だとしても、高野山の沙汰所の許可を得てから逮捕せよ」。これは、高野山境内の入口に立てられた制札の文言である。

 中世の寺社は「アジール」としての性格を有していた。アジールは「平和領域」「避難所」という意味がある。「駆け込み寺」「縁切寺」も一種のアジールである。一般には「平和聖性にもとづく庇護・およびその庇護を提供する特定の時間・場所・人物」とアジールは定義されている。

 アジールの背景には宗教的・魔術的観念が必要不可欠で、アジールには周囲よりもオレンダまたはハイル(ともに神的な力を意味する)が凝集されており、オレンダ・ハイルに接触した人間はアジールの保護を受ける。これを「感染呪術」とか「接触呪術」といい、人々が神仏に触れたり(ex.とげぬき地蔵)、神社仏閣に参拝したり(ex.初詣)、お札やお守りを有するのはオレンダに感染し、自己の安寧を図るためだ。

 塀に「立小便禁止」と記すより、鳥居の絵を描くと効果があるとされているようで、今でもときおり見掛けるが、これもアジールの一種と考えられる。観念的動物である人間は鳥居に立ションするのは憚られるが、犬には信仰心がないので効き目はない。私の場合はオレンダには感染しないので鳥居の絵は通用せず、むしろ的になる。とはいえ、緊急避難時以外は塀に立ションはしないが。近代になると社会は合理化が進み、政治も「伝統的支配」や「カリスマ的支配」から「合法的の支配」へと移行する。ウェーバーはこれを「脱呪術化」と呼んだ。

 氏照は先に述べたように寺社勢力を取り込むことによって領地支配の安定化を図った。しかし、それだけでは民衆の心を真に掴むことはできない。そのためもあってか、1573年には西蓮寺内にある「御嶽権現」の落成を祝って「龍頭舞」が氏照の命によっておこなわれ、以来、この行事は現在でも伝統芸能として八王子市石川町で挙行されているそうだ。また、やはり現在、狭間町でおこなわれている「獅子舞」は90年に氏照から獅子を拝領したことが起源とされている。このようの、民衆と一体となって祝い事をおこなう。これもまた「ハレの時と場所」を共有するアジールの一種と考えられる。

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宗閑寺の梵鐘は八王子城合戦に備えて供出させられた

 小田原北条氏とは直接のつながりはないが(最近の研究では伊勢新九郎は北条氏の遠縁であることが判明している)、鎌倉時代に執権政治をおこなった北条泰時は1232年に「御成敗式目」を制定している。この第一条は「神社を修理して祭りを大切にすること」、第二条には「寺や塔を修理して僧侶としての勤めをおこなうこと」とある。第三条に至って「守護の仕事について」の定めが出てくる。御成敗式目武家社会の伝統や慣習を明文化したものであるにも関わらず、冒頭には「宗教政策」についての定めがあるのだ。また、小田原北条家の祖である北条早雲伊勢新九郎)は北条家の家訓として「早雲寺殿二十一箇条」を定めたが、この第一条は「仏神を信じなさい」とある。やはり、冒頭には宗教について述べている。ことほど左様に、この時代は政治と宗教が密接に関係していた。

 「御成敗式目」は中学校社会科にも出てくる(多分?)ほど日本史では基礎中の基礎知識なのだが、これが制定されるようになった背景は案外、知られていない。当時、1230年に始まった「寛喜の飢饉」が猛威をふるっていたのだ。30年7月には岐阜や埼玉で降雪があるなど冷夏と長雨続きだった。だが、31年には一転して酷暑となり、「天下の人種、三分の一失す」と言われるほど不作の連続だった。こうした領民の苦難を精神的に救済するため、何よりもまず為政者が神仏の敬うという方策がとられたのである。併せて改元がおこなわれて「貞永」に変わった。「御成敗式目」が「貞永式目」とも呼ばれるのはこのことによる。

 氏照もまた早雲に倣い宗教や宗教家を保護したが、それには限界があった。豊臣秀吉との対立が深まりつつあった1587年、鉄砲、大筒、弾丸の材料が底をついたため寺社にある梵鐘の供出を開始したのである。牛頭山神護寺の鐘も例外ではなかった。さらに本来、公界者(俗界と縁を切った者)であるはずの修験者・山伏を伝令や間諜に使い、俗世間に引き戻した。また、農民も八王子城建設に駆り出され、さらには兵士に加えられた。

 アジールとしての八王子城は一転、戦場へと転化したのである。

 

*後編に続きます

〔番外編〕花に誘われ春紀行

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春の妖精・カタクリの花

花の命は短いけれど

 前回でも述べたように3月下旬は、今や山野草の代表格となったカタクリの花が満開になる時期だ。例年は埼玉県小川町にある「カタクリニリンソウの里」に訪れ、山の斜面に植えられているカタクリと、手前の平らな場所に群生して咲くニリンソウに逢いに出掛けているし、今季もその予定だったけれど、当日に急用が入ったために午後からしか時間が取れなかったので埼玉まで行くことは断念し、代わりに前回に紹介した武蔵村山市にある「野山北公園」の『カタクリの里』を再訪した。

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カタクリの花の群生

 3月下旬、野山北公園の丘の斜面に植えられている無数のカタクリは、全体としては7、8分咲き程度で、完全に花を開いているものもあれば開花途上のもの、まだ蕾状態のものもあった。ここの規模は小川町のそれの5分の1程度だが、見ごたえは十分にある。公園並びに周辺には散策コース、丘の斜面に設えられた遊具施設、運動場、無料釣り堀、それに立ち寄り温泉もあるので、多彩な楽しみが体験できる場所だ。カタクリは”スプリング・エフェメラル”(儚い春)の象徴的存在なので、花に触れる期間は短いけれど、春の到来を実感するためもあって「カタクリの里」周辺を訪れる人は多い。

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まだ開花途上のものも多くあった

 私の場合は「カタクリ」と「野山の散策」の二つの目的だけにここを訪れるが、それでも年に7,8回はこの里山に出掛ける。もっとも、カタクリは春のひとときを楽しませてくれる花だし、野山の散策は五月蠅い虫と長虫が姿を現さない冬・春に限られるので、カタクリに触れると、その年の「野山北公園」詣は終了となる。

 花の命は儚いけれど、地下で命を繋いでくれている間は再び、次の年も私の目や心を楽しませてくれる。近い将来、私はここを訪れることはできなくなるだろうが、花はそんなことには関わりなく、季節の廻りにしたがって人々を和ませる。

ゼラニウム・フェアエレン

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ゼラニウムには無数の品種がある

 フウロソウ科ぺラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草で、種類の多いゼラニウムの仲間では「センテッド(ハーブ)・ゼラニウム」に分類される。葉や茎に香りがあり、バラ、オレンジ、レモンのような芳香を有するものが多い。写真の”フェア・エレン”はパイン(松)の香りがすることで知られている。

 ヨーロッパの集合住宅の窓辺には”ウインドウボックス”が設えられており、ここには花を置くという習慣がある。窓辺を花で飾るというのは個人の趣味というより市民としての公共心を表現することに結び付けられている。そこに飾られる花の大半は四季咲きの「ゼラニウム」であり、夏場はこれに「ペチュニア」が加わる。

 日本でも長年、園芸品種を育てている趣味人は四季咲きのゼラニウムを好んでいるようだが、新興住宅地を徘徊して玄関や庭先にある花に接してみると、この花を見かけることは案外少ない。くだんのゼラニウムはもはや古典種であって、今の人の心を惹きつけることはないのだろうか。残念なことである。今の時期はパンジービオラが盛りだが、少しずつチューリップが開花し始め、その花期が終わると次は初夏の花の代表格である「ペチュニア」がポットやプランターの主役に躍り出ることになる。

 ゼラニウム(Geranium)の属名は現在ではペラルゴニウム(Pelargonium)だが、18世紀の博物学者で「分類学の父」(ラテン語二名法を確立)と呼ばれているスウェーデンのリンネがこの花をゼラニウム属に分類したため、今でも園芸店や園芸家には「ゼラニウム」と呼ばれている。園芸品種名としてのゼラニウムには、四季咲きのゼラニウム(古典種)のほか、多彩な花色をもつ改良種で一季咲きの「ペラルゴニウム」、蔓(ツル)性品種である「アイビーゼラニウム」、そして写真に挙げた「ハーブ(センテッド)ゼラニウム」の4種に大別される。私が20年ほど前、園芸にどっぷりとはまっていた頃は、いつもメインの花として四季咲きゼラニウムを庭やプランターに置き、ハンギングポットにはアイビーゼラニウムを用いることが多かった。

キジムシロ(雉筵)

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ヘビイチゴミヤマキンバイと同じ仲間

 バラ科キジムシロ属の越年草もしくは多年草。春から初夏にかけて日本全土の野山に咲くありふれた花で、ヘビイチゴミヤマキンバイと同属。花の大きさは10~15ミリ程度とひとつひとつは小さいものの、緑の葉の上に咲く黄色の花弁がよく目立つ。ミヤマキンバイ(深山金梅)は高山植物として大切に扱われるが、本種やヘビイチゴは雑草扱いされるので注目されることはまず少ない。しかし、よく見るとかなり美しい存在である。

チオノドクサ(雪解百合) 

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早春から咲く球根性多年草

 キジカクシ科チオノドクサ属の球根性多年草クレタ島キプロス島、トルコが原産地。耐寒性があるので植えっぱなしでも例年、晩冬には目を出し、早ければ2月には花を咲かせる。スイセンと同じ季節の花と思えば良い。

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青紫の花びらが美しい

 写真のものは「ルシリエ」「ルシリアエ」「フォーベシー」などと呼ばれている品種で交雑が進んでいるためか色の濃淡がかなりある。また、花色が白やピンクのものもあるが、個人的にはこの花弁の先端が青紫で中心部が白色のものが好みである。

カレンデュラ”冬知らず”(ヒメキンセンカ、ホンキンセンカ

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開花期間がとても長い

 キク科カレンデュラ属の多年草で原産地は地中海沿岸。キンセンカは改良品種がとても多く、寄せ植えや切り花としてよく用いられる。ここで取り上げたキンセンカはその仲間の中ではもっとも地味なもので、”ハーブ”として重用される以外は野草化し、道端でも見掛けることがよくある。

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日があまり当たらないときは花弁は閉じ気味

 「冬知らず」の品種名がある通り寒さにはかなり強く、日当たりの良い場所では1月頃には開花し6月頃まで咲く。学名は"Calendula arvensis"で、属名のカレンデュラの語源はカレンダーである。カレンダーは”帳簿”を意味するが、この花と帳簿との関係は不明だ。写真のように、曇りのときは花は半開き状態だが、ひとつ上の写真のように日当たりが良いときは花弁を目いっぱい開き、花の中心部も笑顔になる。

オダマキ(西洋オダマキ

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改良品種が無数にあるオダマキ

 キンポウゲ科オダマキ属の多年草。50センチほどの高さに直立し、上部に多数の花を咲かせる。日陰でもよく育ち多くの花を咲かせるので日当たりの少ない庭やベランダで育てることが可能だ。

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オダマキは交雑しやすいので、多数の花色がある

 セイヨウオダマキは元々、交雑種から育成されたものなので多数の品種があり、花の形や花色が異なるものがとても多い。

 山野草として扱われる日本原産のオダマキには、高山植物として扱われる「ミヤマオダマキ」のほか、「ヤマオダマキ」などがある。こちらは高さが10~20センチほどで、うつむき加減の美しい花を咲かせる。

オランダカイウ(阿蘭陀海芋、カラー、リリー・オブザナイル)

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カラーの仲間だが湿地を好む

 サトイモ科オランダカイウ属の球根性多年草。カラーの仲間はその立ち姿と清楚な花を有することから切り花やブーケ(花束)に用いられることが多い。カラーの語源はその花の形が襟や袖の形を整えるカラー(collar)に似ているから、清楚な美しさを有するのでギリシャ語のカロス(美しい)に由来するなど諸説ある。カラーは色が豊富だが"color"を語源とするわけではない。

 切り花やブーケに用いられるカラーは乾地で栽培されるものだが、「オランダカイウ」はエチオピアを原産地とするものでカラーの原種の中では唯一、湿地に育つものである。「リリー・オブザナイル」の別名があるようにアフリカでは大切な花とされ、エピオピアでは国花に指定されている。この花の学名は”Zantedeschia aethiopica”であり、種小名に「エチオピア」の文字がある。なお、写真は国分寺崖線の湧水を集めた「お鷹の道」に沿って流れる小川に自生するカラーを撮影したもの。

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オランダカイウは大きな仏炎包を有する

 カラーの花は「花弁」ではなくガクが変化したもので、その特徴的な形から「仏炎包」(ふつえんほう)と呼んでいる。後に挙げるが、「ミズバショウ」もこの「仏炎包」を有する。

ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作、アカバトキワマンサク

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赤い花は通常種が変異したもの

 マンサク科トキワマンサク属の常緑性低木。常緑性なので冬でも少し葉は残るものの春になると新しい葉が生長する前に写真のような花を付ける。通常のトキワマンサクははクリーム色の花を咲かせるが、突然変異で赤い花を付けるものが出来て、現在ではこの「ベニバナ」のものが主流になっている。写真のものはやや花が少ないが、マンサクの語源と言われる「豊年満作」のように枝いっぱいに細い帯のような花を付けるものも多い。 

ムラサキケマン(紫華鬘)

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ホトケノザに似た感じの花。毒草として知られる

 ケシ科キケマン属の越年草。やや湿った木陰などで見られる「雑草」。花の形は「ホトケノザ」に似ているが、こちらの草のほうが花数は多く、とくに頭頂部には写真からも分かる通りビッシリと咲く。花冠は筒状でその長さは10から20ミリ程度。先端部は唇形状に開く。草全体が有毒でアルカロイド成分を有する。この特性から薬草に分類される。これを食した場合の中毒症状は嘔吐、酩酊状態、昏睡、心臓麻痺などがある。ただし、現在のところ死亡例は発表されていないらしい。

シャガ(射干、胡蝶花)

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やや湿り気のある木陰に群生する

 アヤメ科アヤメ属の多年草。中国原産だがかなり昔に日本に入ってきたためか、学名は”Iris japonica"になっており、種小名には「日本の」とある。山里のやや湿った木陰にはどこにでも見られるが、この草花は種はできず地下茎のみで増えるため、人為的に移植したか、種を作る中国産のものが移入されているのかは不明なようだ。

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花は清楚でなかなか美しい

 花は白地に青とオレンジの模様が混じりなかなか美しい。今回は国分寺崖線下の小川、府中崖線下の小川、小金井の貫井神社境内などで群生する様子を観察した。数年前は武蔵村山市の六道山公園の散策路でこの花の大群生が見られたので今回、久しぶりに出掛けてみたのだが、残念ながらすべて撤去されていた。葉っぱすら見掛けなかったので、地下茎ごと撤去されたようだ。種子はないので、今後はシャガの群生を見ることはできないだろう。残念なことである。

 シャガの大群生といえば、奈良の吉野山の斜面を思い出す。数年前までは毎年、吉野山へ桜見物に出掛けていたが、山頂から下る際はいつも谷沿いの道を使った。そこには一面、シャガの大群生があった。一目千本のヤマザクラはこの上ないほど見事に咲くが、その陰にあっても、シャガの凛々しい花の群生は負けず劣らず見応えがあった。

ヤブレガサ(破れ傘)

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葉の形が破れた傘のようにみえる

 キク科ヤブレガサ属の多年草。山里の林の日陰場所で目にすることが多い。茎は高さ1mほどまでに伸びる。花は初夏に付けるが10ミリ程度の小さな花なので、開花に注目する人はまずいない。私自身、この花には何の関心も抱かない。

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ヤブレガサの新芽

 この山野草の魅力は地中から顔を出し始めた新芽の姿形にある。私は今の時期に山里へ散策に出掛けたときは木陰に入るとこのヤブレガサの新芽を探すことがしばしばある。新芽は写真のように綿毛に覆われ、破れた傘をすぼめたような姿をしている。これが愛らしいということで、自然のものだけでなく改良園芸種まで出回っている。斑入り(ふいり)のものがとくに人気が高いらしい。山野草の世界はかくも不可思議である。

カキドオシ(垣通し、連銭草)

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ツル性の草花なので地面を這うように育つ

 シソ科カキドオシ属の多年草。花は10~15ミリ程度の大きさなのでこの花の存在に気が付かない人がほとんどだ。しかし、一度でもこの存在を意識すると毎春、野原でこの花を見つけることが楽しみのひとつになる。現実には、日本全国のどこにでも自生し、身の回りにある野原や道端でも簡単に見つけることができる。

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群生するカキドオシ

 そう、あなたがよく遊んでいた春の原っぱには、こんなにも小さいが、これほどに愛くるしい「雑草」が地べたを覆っているのだ。そして、まったく存在に気づかず踏みつぶしていたのだ。

カウスリップ(黄花九輪桜)

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残念な名前だが花はとても美しい

 サクラソウサクラソウ属の多年草。標準和名の”キバナクリンザクラ”ならその姿に相応しいが、英名の”カウスリップ”はとても残念で可哀そうな名付けである。cow-slipは「牛の糞」という意味になるからだ。それでもこの花は食用にもハーブとしても薬草としても用いられる。イギリス人は「牛の糞」を口にするのだ。一方、ロシアではこの花を「初花」と名付け、春の到来を告げる存在と位置付けた。属名がPrimula、すなわちプリムラ=プライムなのだから「初花」であっても何の不思議はない。

 姿形は、以前に取り上げた「プリムラ・ポリアンサ」に似ている。というより、プリムラの原種がこの花なのだ。園芸種のプリムラよりはやや背が高くなり花付きも今一つといった感じだが、写真からも分かる通り、本家本元ならではの深い味わいがある。もっとも、この品種の姿そのままに花付きを良くしたり花色を変化させたりした改良種もある。そちらのほうは何やら徒長(間延び)したプリムラのようで、個人的には好みではない。

ミズバショウ水芭蕉

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近年は至るところで栽培されている

 サトイモミズバショウ属の多年草ミズバショウ尾瀬の結び付きは誰もが知るところで、この花を見るためには「はるかな尾瀬遠い空」まで出掛けなければならないと思っている人は案外多い。実際には、池(沼)を有する「身近な公園」でも多く栽培されている。写真は「カタクリ」の項で挙げた武蔵村山市の野山北公園のもので、3月中旬から4月上旬頃が見頃だ。本場?の尾瀬では5月から6月上旬が見頃となる。低地では春が来ると、高地では夏が来ると思い出す花なのだ。今年はコロナ禍が拡大中なので、尾瀬ミズバショウも落ち着いて咲き揃うことができるのではないか?

 オランダカイウのところでも触れたが、白い花のように見えるのはガクが変化した仏炎包。花は中心にある「ツクシ状」のものでこれを肉穂花序(にくすいかじょ)という。ミズバショウの名は沖縄や奄美地方に群生するイトバショウに葉の形が似ており、清らかな水辺に生育することからこのように名付けられた。なお、イトバショウの葉の繊維は「芭蕉布」の原料になる。

イカリソウ(碇草、錨草、淫羊藿(いんようかく))

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名前の由来はその花の形にあることは言うまでもない

 メギ科イカリソウ属の多年草。たとえ、この花の名前を知らなくても船のイカリに似ているということはイメージされるはずだ。耐寒性があり日陰でもよく育ち花色がきれいな山野草として人気が高い。また、薬草としてもその効能はよく知られており、強壮薬として用いられる。中国名は「淫羊藿(いんようかく)」であり、その名前から推測できるように精力剤の原料となる。

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白花が特徴的なトキワイカリソウ

 写真のトキワイカリソウイカリソウの近縁種。人気の花ということもあっていろいろな原種や近縁種、改良種が見いだされている。初心者にも育てやすいということもあり、春の山野草として安定した人気を誇る。”夕映”や”多摩の源平”などという洒落た名前をもつ品種は愛好家の間で評価が高い。

スミレ(菫)

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タチツボスミレ~最近では一番多く見かける

 スミレ科スミレ属の多年草。スミレの狭義の学名は"Viola mandshurica"で、スミレ、や写真に挙げたタチツボスミレ、アツバスミレなどが種小名の”マンジュリカ”に属する。野原や山里、ときには公園や路地でよく見かけるスミレはタチツボスミレ(立坪菫)の場合がほとんど。葉が丸みを帯びた心形であればタチツボスミレ、葉が長楕円形であればスミレだと区別がつく。もっとも、スミレの仲間は原種だけでも60種ほど、さらに交雑種も数十種あると考えられているので、道端に咲いているスミレが園芸種のこぼれ種から生育した可能性もなくはない。なお、種小名の「マンジュリカ」は「満州の」という意味である。

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白い花に青紫のすじが美しいアリアケスミレ

 スミレ=Viola=ヴァイオレットなので花の色は紫と思いがちだが、写真のアリアケスミレのように白色のものもあり、アツバスミレは白と紫のバイカラー、キスミレはその名の通り黄色などの種類もある。世界では約300種もあるらしいので、スミレの世界は深さも広さもある。

 アリアケスミレの学名は”Viola betonicifolia"なので、狭義のスミレ(マンジュリカ)には属さず、通常は「スミレの仲間」として区別される。写真のスミレは愛好家の渾身の作なので色のバランスがとても良いが、花色は変異しやすいためどんな色の花が開くのかは育ての親の楽しみでもある。

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花弁のよじれが特徴的なニョイスミレ

 写真のニョイスミレ(如意菫、ツボスミレ、”Viola verucunda")もマンジュリカではないスミレの仲間。写真のように花弁がよじれて咲くのが特徴的。花は白を基準に紫色のすじが美しい。故志村けんの歌でよく知られる東村山の庭先にある多摩湖(実際には東大和市)の東側にある狭山公園の道端で見つけた。一帯は無数のタチツボスミレが満開状態だったがその一角だけにニョイスミレの群生があった。広大な公園の敷地の中で、ここだけにタチツボスミレではない種のスミレが咲いていたのである。合掌。

ショウジョウバカマ(猩々袴)

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湿った谷間に咲く人気の山野草

 シュロソウ科ショウジョウバカマ属の多年草。日本北部、サハリン南部、千島列島南部を原産とする山野草。原産地から分かる通り耐寒性はとても強い。半日蔭のやや湿った谷間に咲く。また、雪解け水が流れ込む平地にも生息する。背丈は10~20センチほどのかわいらしい野草で、園芸種としても人気がある。ただし、花期が終わって種子を作り始めると花茎は30センチ以上に伸びることもある。花は赤紫色が基本だが、ピンクや写真のように白色のものもある。

アミガサユリ(編笠百合、バイモユリ、貝母)

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絶滅危惧種に指定されている山野草

 ユリ科バイモ属の蔓性の多年草。地下に鱗茎をもち、梅雨時期から休眠する”スプリング・エフェメラル”である。全草にアルカロイドを含む「毒草」であるが、この特性を利用して「薬草」として用いられることも多い。中国原産で700年前から栽培されていた。日本には江戸時代の享保年間に移入された。現在は野生化しているものもあるが、園芸種として販売されてもいる。近縁種にはクロユリなどがある。

ノウルシ(野漆)

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ウルシの名があるだけに有毒だ

 トウダイグサ科トウダイグサ属の多年草。かつては河川敷や湿地帯で群生していたが、開発が進んだことでその姿を見る機会は激減した。名前に「ウルシ」が付いているとおり毒草だが、本来のウルシとはまったく関係はなく、葉や茎からウルシに似た乳液を出すことから名付けられたようだ。この液体に触るとかぶれを起こす。花弁やガクはなく、花のように見えるのは葉の一部であり、雄蕊や雌蕊を包むような形になっている。これを「杯状花序」という。

ミミガタテンナンショウ(耳形天南星)

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独特な仏炎包をもつ花

 サトイモ科テンナンショウ属の球根性多年草。学名は"Arisaema limbatum"で、種小名の「リムバートゥム」は「耳の大きい」という意味。球根は有毒ながらでんぷん質を多く含むので食用とされることもある。 仏炎包の左右に張り出しがあるので、この特徴から「ミミガタ」の和名が付いた。山野の肥沃な場所によく生育するため、里山の散策では案外目にすることがある。

タンチョウソウ(丹頂草、イワヤツデ

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花や葉の形が独特な山野草

 ユキノシタ科タンチョウソウ属の多年草中国東北部朝鮮半島の渓谷の岩場などに自生する。耐寒性が強いために育てやすく、山野草の園芸種として人気があり改良種も多い。花色は白だが、改良種には咲き始めは赤色に染まるものもある。葉の形が「ヤツデ」に似ているので「イワヤツデ」という別名があり愛好家にはこの名のほうが通りが良い。タンチョウソウの名は、その花のつぼみが赤みを帯びていることに由来する。

ユキワリイチゲ(雪割一華)

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花も美しいが名前も良い

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。本州西部から九州の山林などに自生する。山野草として人気があるため園芸店で入手できる。地下に根茎があり、夏場以降は地上から姿を消す”スプリング・エフェメラル”の仲間。花付きはあまりよくないので、イチリンソウの仲間では育成がやや難しいとされている。近縁種にはイチリンソウニリンソウキクザキイチゲアズマイチゲなどがあり、いずれも春咲きの山野草として人気は高い。

ドウダンツツジ灯台躑躅、満天星)

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春は花、秋は紅葉が楽しめる

 ツツジドウダンツツジ属の落葉性低木。原産地は日本だが現在、自生地は少ない。ただし庭木、街路や生垣の低木としてよく用いられているので目にすることは多い。白い小さな壺形の花は葉が出る前に咲く。丈夫な木なので日陰でも育つが花付きは悪くなる。春は無数の小さな花、秋は赤く色づく葉が楽しめるので日当たりの良い場所で育てたい。

フリージア

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花色だけでなく香りも良い

 ユリ科フリージア属の球根性多年草。香りがとても良いので切り花や花束としてもよく用いられる。園芸種としても評判が良いためか改良種も相当に多い。花色は白、ピンク、赤、黄、オレンジ、紫、複色など多数あり、さらに一重咲と八重咲とがある。”ポート・サルー”、”スカーレット・インパクト”、”ハネムーン”などといった品種名で多数のものが出回っている。

ブルーベリー

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ブルーベリーは味も良いが見た目も良い

 ツツジ科スノキ属の落葉性低木。北アメリカ原産。ブルーベリーは果実がよく知られているが、花も意外に美しい。水はけの良い酸性土壌を好むので日本の庭木には最適だ。春には花を楽しみ、収穫後は味を楽しむ。ブルーベリーは目に良いとされているが根拠に乏しい。しかし、美しい花を愛でるのは目に良いことは確かだ。

ネモフィラ・マクラータ

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青い斑点が可愛らしい

 ”ネモフィラ・メンジェシー”についてはすでに触れている。「ひたち海浜公園」の大群生は今が見頃だが、コロナ禍のために今季は入園できない状態にあるようだ。個人的には写真の”マクラータ”が好みだが先にネモフィラを取り上げたときにはこの品種が見つからなかったということを述べた。が、先ごろ見つけたので撮影してみた。

ヒトリシズカ

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ヒトリシズカが賑やかに咲く

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茎が緑色の品種

 ヒトリシズカについてもすでに取り上げている。今回はその群生と、茎色が通常種とは異なるものと出会ったので撮影してみた。

 

〔番外編〕春を探して花季行(2)

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「華やかな魅力」が花言葉ラナンキュラス

 新型コロナの影響は近所にある市立図書館にまで及び、本を借りることができるのはネット予約のみで、館内閲覧での本探しは不可能になってしまった。本とのめぐり逢いは人との邂逅と同じような大きな喜びがあるので、ネットでの本探しは実に味気ない。ただでさえ読書量は少ないのに、本との本当の出会いの場が大きく失われたため、いよいよ読書時間はめっきり減ってしまった。代わりに増えたのはテレビのニュースチェックとスマホやPCでのゲーム時間。それに、日中の徘徊。今時分は春の花が続々と開花するので、雨の日以外は毎日のように花探しに出掛けている。とはいえ毎度、カメラ持参で出掛けているわけではないので、いい感じの撮影機会をずいぶんと逃しているのは残念だが事実だ。

 今回も前回に引き続き、近隣で見つけた春の花を紹介してみた。私が自動車免許を取って初めて運転したのは新型ブルーバード。以後、十数年間は「技術の日産」ファンを続けたので、トヨタの新型コロナにはまったく魅力を感じず、ブルーバードを4台ほど乗り継いだ。それが祟ったのか(もちろんそんなものはまったく信じていないのだが)、今になって「新型コロナ」に行く手を大きく阻まれている。それもあって、しばらくは素敵な本との思いがけない遭遇の機会は減少し、反面、大好きな春の花との「濃厚接触」の場面が増大しているという次第なのだ。これも、いいのだ。

アカバミツマタ(赤花三椏、ベニバナミツマタ

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ミツマタの園芸種であるアカバミツマタ

 ジンチョウゲミツマタ属の落葉性低木。枝は必ず三つに分かれるところから「三又」と名付けられたようだ。花は写真のようにかなり美しいが、有名なのは紙幣の原料に用いられていること。樹皮は強い繊維質を有しているので、強度がなによりも重要な紙幣の素材に使われている。

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花弁のように見えるが、実はガク

 筒状の花の集合体のように見えるが、実は花弁はなく、花びら状のものはガクの先端部が4つに裂けているためだ。「花」には適度に良い香りがあり、こうして接近して撮影すると気分爽やかになる。

ミツマタ(三椏)

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こちらはミツマタの原種

 ミツマタは中国原産の低木で高さは2mほど。写真からも分かる通り、たしかに枝は三つに分枝している。

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「花」はうつむき加減に咲く

 原種のミツマタの「花先」はほんのりと黄色くなり、こちらのほうが清楚な感じがする。切り花としても人気がある。花期が終わると枝には葉が茂るようになる。

トサミズキ(土佐水木)

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垂れ下がるように咲くトサミズキの花

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咲き始めたばかりのトサミズキ

 マンサク科トサミズキ属の落葉性低木。名前から分かるように四国原産である。葉に先立って枝からは紅色の花芽ができて、それから黄色の花が5から7個ほど垂れ下がるように(穂状花序)咲く。通常、樹高は2~4mほどだが、矮性の園芸種もあり盆栽によく用いられる。

ハクモクレン(白木蓮

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ハクモクレンモクレンの仲間では最も背が高くなる

 モクレンモクレン属の落葉広葉樹。通常、モクレンとは紫色の花をもつ「シモクレン」を指し、写真のように白い花を付け、10m以上の高さになるモクレンを「ハクモクレン」と呼んで区別する。本種はシモクレンに比べて半月ほど早く咲くため、3月中旬ではシモクレンの開花は発見できず、すべてハクモクレンだった。

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ハクモクレンの花。花弁は6から9枚ある

 ハクモクレンの花びらは6から9枚あり、さらに同じような大きさのガクも3枚ある。花は天上に向いて咲き、花弁は完全には開かない。なお、モクレンの仲間を「マグノリア」と呼ぶ自称”専門家”がいるが、これはモクレンの仲間をラテン語でMagnoliaと言うことに由来する。

コブシ(辛夷

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マグノリアの仲間のコブシ

 モクレンモクレン属(マグノリア)の落葉広葉樹。10m以上の高木になるが、ときおり、街路樹などにも用いられているのを見かける。さぞかし剪定が大変だと思われる。写真からも分かるように、先に挙げたハクモクレンと類似しており、コブシをハクモクレン(あるいはその逆)と勘違いする人も多い。早春、両者はほぼ同時に咲き、似たような(同属なので当たり前だが)花を付けるので混同しやすい。

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ハクモクレンは上方に、コブシは四方八方に咲く

 コブシとハクモクレンの違いは簡単に分かる。ハクモクレンの花は天に向かって咲くが、コブシは写真からも分かるように規則性がない。ハクモクレンの花弁はやや厚みがあるが、コブシの花弁はやや薄い。ハクモクレンは葉が出る前に咲くが、コブシは花の下に一枚の葉を出す。これさえ覚えておけば区別はすぐにつく。

 北国の春に、丘の上で白い花を付ける高木があればそれはハクモクレンではなくコブシである。千昌夫は、拳を振りながらこぶしたっぷりにそう唄っている。

 コブシは日本原産で、学名は”Magnolia kobus” である”。種名のkobusの語源は「こぶ」であるが、コブシの「こぶ」は何を指し示すのかは特定されていない。

オオカンザクラ(大寒桜)

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オオカンザクラは早咲きの桜

 オオカンザクラはカンヒザクラオオシマザクラの交配種。カンヒザクラの花は前回、写真に挙げたように紅色が濃く、下方に向いて咲く。オオシマザクラは白い花を付け、可食できるサクランボを実らせる。本種は花にやや赤みがあり、カンヒザクラの特徴をよく受け継いでいる木はかなり赤い花を付けるが、写真のものは色づきは普通である。

 桜並木といえばヨメイヨシノが定番だが、本種はそれよりも1,2週間ほど早く咲くため、見物客を早めに集めたい町ではその資源として本種を街路に植えているが、近年では、早咲きの桜といえばカワヅザクラがつとに有名になってしまった。

レンギョウ

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八分咲きのレンギョウ

 モクセイ科レンギョウ属の落葉性低木。公園や街路で3から5月にかけて咲いている姿をよく見かける。写真はまだ花と花の間には隙間があるが、満開になるとすべての枝にびっしりと花弁が付く。

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4枚の花弁は下向きに開く

 半つる性の枝を数多く有しており、大きく育ったレンギョウは枝が2,3mも垂れ下がることがある。原種の種小名は"suspensa"といい、これは垂れ下がるという意味をもつ。英語のサスペンションは「つるすこと」を意味し、ズボンを吊るすのはサスペンダー、タイヤを吊るすのはサスペンション(懸架装置)。

 私がよく散策する野川の土手にはこのレンギョウが多く植えられており、土手上から流れに向かって大きく垂れ下がった枝に無数の花を付けた姿は見事である。

ウンナンオウバイ雲南黄梅、オウバイモドキ)

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名前の通り中国が原産地

 モクセイ科ジャスミン属のツル性の低木。公園や庭園、庭木などによく用いられる。中国が原産地で、明治初期に日本に導入された。

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花は一重咲きが普通だが八重咲もある

 写真の花は一重咲き。八重咲のものもあるが、今回の徘徊では見つけることはできなかった。

モカタバミ(芋片喰)

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雑草扱いだが群生時はなかなか美しい

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草南アメリカ原産で、日本にはアジア・太平洋戦争後に輸入された。当初は園芸種扱いだったが繁殖力が旺盛のため各地に生育するようになり、現在ではほぼ雑草扱いになっている。花は3月から咲き始め夏場はいったん枯れるものの秋にまた咲き出す。

オオキバナカタバミ(キイロハナカタバミ

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このカタバミ帰化植物

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草。こちらは南アフリカ原産で日本には19世紀末に移入された。現在では日本各地に帰化し、やはりイモカタバミ同様、すっかり野生化している。花期は3~5月で、雑草扱いするにはもったいないほど美しい花を咲かせる。地下深くに鱗茎が残るため、いざ駆除しようとするととても苦労する。花言葉は「決してあなたを捨てません」だが、実際には「決してあなたは捨てられません」というのが現実。なお、葉っぱには紫褐色の斑点が入るので、花がないときでも他のカタバミとは区別可能だ。

ハルジオン(春紫苑、貧乏草)

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雑草の王様、ハルジオン

 キク科ムカシヨモギ属の多年草。”ぺんぺん草”と並び立つ雑草中の雑草で、別名は貧乏草。誰もが目にする花だが誰も見向きもしない。花期は3~6月とかなり長い。漢字名だけ見るととても素敵な花だと思われるが。北アメリカ原産で、意外なことに江戸末期、観賞用植物として日本に移入された。繁殖力が旺盛なため、駆除には多大な苦労を強いられる。

シロツメクサ白詰草、クローバー)

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詰草は緩衝材として移入された

 マメ科シャジクソウ属の多年草。江戸時代、オランダから輸入されるギヤマン(ガラス製品)の緩衝材として用いられたことから詰草と呼ばれるようになった。写真のものは詰草の中ではもっとも一般的なもので、白い花をつけることからシロツメクサと呼ばれる。日本では英名の「クローバー」と呼ばれることが多い。属名のシャジクソウ(トリフォリウム、Trifolium)は「三つ葉」を意味する。

 クローバーといえば三つ葉だが、誰もが探した(探させられた)ように稀に「四つ葉」がある。が、”四”は日本では「死」を意味するので不吉な数字だとされるが、なぜ彼の地では「四つ葉」が幸運のシンボルなのだろうか?「四」は「4福音書」、四つ葉は十字架に見えるからなどの説があるようだ。ならば、「三」は「三位一体」に通じるのではないか、と思うのだが。ともあれ、クローバーには五つ葉以上のものもあり、最大では56葉が発見されておりギネス記録に認定されているらしい。

ハナニラ花韮ベツレヘムの星)

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日差しを浴びると花はよく開く

 ヒガンバナ科ハナニラ属の球根植物。アルゼンチン原産で、明治期に観賞用植物として輸入された。ネギ亜科の植物なのでニラのような匂いを有することからハナニラと呼ばれている。ただし、葉や球根を傷付けない限り匂いを発することはない。繁殖力が旺盛で現在では多くが野生化し、春には日当たりの良い野原の至るところで見ることができる。春の花期にだけ地上に姿を現わし、花期が終わると地下で眠りにつく。花色は白から紫色まで多数ある。

スノーフレーク(スズランスイセン、オオマツユキソウ)

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スズランに似た花を咲かせる

 ヒガンバナ科スノーフレーク属の球根植物。標準和名は”オオマツユキソウ”だがスノーフレークまたはスズランスイセン(鈴蘭水仙)の名のほうが通りが良い。スズランのような花を付けるがスズランではなく、スイセンのような葉を有するがスイセンではない。

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花先にある緑色の斑点が特徴的

 秋に球根を植えると2月初めに葉を伸ばし始め、3月初旬に少しずつ花を付け始める。写真から分かる通り、花びらの先に現われる緑色の斑点が可憐さを際立たせている。

ラナンキュラス(ハナキンポウゲ)

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多重の花びらを有する華麗な花

 キンポウゲ科キンポウゲ属の球根植物。標準和名はハナキンポウゲ(花金鳳花)だが、学名のラナンキュラス(Ranunculus=キンポウゲ)で園芸の世界では通用している。私が園芸にはまっていた頃はさほどその存在は認知されていなかったが、花色が増え、その絢爛豪華な花弁を有することから近年では急激に人気が高まり、園芸界だけではなく切り花の世界でもよく用いられている。

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ラナンキュラスは改良品種がどんどん増えている

 本項のトップの写真もラナンキュラスである。花色はとても多彩で、毎年のように改良品種が出回る。まさに、キンポウゲ属(ラナンキュラス)を代表する花にまで上りつめたようだ。ところで、ラナンキュラスとは「カエル」を意味する。キンポウゲの花は元来、湿った場所を好むためにそう名付けられたようだが、園芸種である本種では多湿は好まず、水はけをよくしないと根腐れを起こす。そういえば、カエルにも乾燥系のものがいる。

カタクリ(片栗)

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ひとつの花だけでも見る価値があるカタクリ

 ユリ科カタクリ属の球根植物。日本でよく見られるカタクリの学名はエリスロニウム・ジャポニカム(Erythronium japonicum)と言うが、属名のエリスロニウムは「赤」を意味する。原産地のヨーロッパでは赤い花を付けるからのようだが、日本で通常みられるのは写真のような淡い紫色のものが大半だ。なお英名は「Dog tooth violet」という。これは花の形に由来する。

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開花前のカタクリ

 カタクリはひとつの花だけでも可憐で慈しみたくなるが、群生した様子はまた別の感動を呼ぶ。写真は3月16日に武蔵村山市の「かたくりの里」(野山北公園)で撮影したものだが、まだまだ開花はあまり進んでおらず、上の写真のような蕾状態のものも多くはなかった。3月末頃が見頃かも。

 カタクリの群生地は人気観光スポットになっている。私がよく出かけるのは上記の「かたくりの里」のほか、埼玉県小川町の「かたくりとニリンソウの里」である。東京では神代植物園(調布市)や京王百花園(日野市)、長沼公園(八王子市)、清水山の森(練馬区)などがよく知られている。また船下りで有名な埼玉県長瀞町には「長瀞かたくりの郷」があり、ここは関東最大の群生地がうたい文句だ。

イベリス(トキワナズナ、マガリバナ)

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育てやすく見栄えも良い人気種

 アブラナ科ガリバナ属の多年草。名前はイベリア(スペイン)に由来する。中国名はマガリバナ(屈曲花)である。これは花が太陽に向かって咲くからだとされている。一年草となる改良園芸品種も多いが、個人的には写真の”イベリス・センペルビレンス”が育てやすく、清楚な感じがして見栄えも良いので好みだ。

ハナモモ(花桃

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食べるためではなく鑑賞用に作出されたモモ

  バラ科スモモ属の落葉性高木。食用の桃の花はかなり美しいが、写真のハナモモは鑑賞用に改良されたもので、極めて花付きが良く見栄えも良い。これは江戸時代に改良された品種のようで、以来、そのままの形が受け継がれている。花の色は桃色が一番多いが白、赤、紅白などもあり、いずれも写真のものと同じように枝は花だらけになる。花期はソメイヨシノとほぼ同期で、最盛期には双方が美しさを競い合っている。

タネツケバナ(種漬花)

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存在感が薄い雑草

 アブラナ科タネツケバナ属の一年草(越年するものもある)。湿地に多く生育するとされているが、繁殖力が旺盛なので乾燥気味の土地にも繁茂する。写真のように白い花を小さく咲かせるだけなので存在感は極めて薄いが、この花を探す気になればどこでも見つけることができる。この小さな花を路傍で早春に見出したとき、私は春の到来を感じる。その点で、私にとっては重要な存在なのだ。

オランダミミナグサ(阿蘭陀耳菜草)

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存在感の無さはタネツケバナと双璧

 ナデシコ科ミミナグサ科の一年草(越年するものもある)。道端のどこにでも存在する雑草だが、極めて地味な感じの草花なので誰も見向きもしない。この点では前に挙げたタネツケバナといい勝負だ。ヨーロッパ原産の帰化植物(明治末期に移入)なので”オランダ”の名が付されている。写真は開花前だが、5つの白い花弁を開いたとしても、存在感の薄さに変化は生じない。草の全身が軟毛と腺毛に覆われているのが少しだけ特徴的だ。こんな雑草だけれど、私にとっては春の到来を感じさせてくれる重要な草花のひとつである。

シバザクラ(芝桜)

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今や「観光花」では一番人気となったシバザクラ

 ハナシノブ科フロックス属の常緑性多年草。花の形から「桜」、匍匐性から「芝」の特徴を有しているので「シバザクラ」と名付けられた。以前からグランドカバー用の植物に用いられていたが、いつしか、広大な土地をキャンバス(カンバス)として、白、赤、紫、桃、淡桃と豊富な花色を利用して「花の絨毯」をデザインする手法が人気となり、現在では日本各地に「シバザクラの丘」が設けられ、春の一大イベントとして催行されている。埼玉県秩父市羊山公園の「芝桜の丘」、千葉県の「東京ドイツ村」、山梨県富士河口湖町の「富士芝桜まつり」などは相当に賑わう。

ナデシコ(撫子、ダイアンサス)

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ダイアンサスの名で流通することが多いナデシコ

 ナデシコ科ダイアンサス属の多年草。日本固有の種(カワラナデシコなど)もあるが、現在では改良品種が数多く出回っている。ダイアンサス属(ナデシコ属)には300種ほどの花があるが、この中にはカーネーションも含まれる。ただし、園芸の世界ではカーネーションは”ダイアンサス”とは呼ばない風習?があるようだ。

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「撫でし子」の語感に相応しい清楚な花色

 花色だけでなく姿形も様々だ。今回は見つけられなかった(園芸店に行けば簡単に見つかる)が、一重咲きだけでなく、八重咲のものも多い。ナデシコの八重咲と言えば、多くの人は芭蕉の次の句を思い浮かべるだろう。

 かさねとは 八重撫子の 名なるべし

 『おくのほそ道』では芭蕉随行者である曾良の作として紹介されているが、曾良の日記にはこの作品についてまったく触れていないため、実は芭蕉の作品である蓋然性が高いと判断されている。那須野原で出会った小さな女の子の名が「かさね」だったのだ。私は予備校講師を十数年勤めていたが、ある年の夏期講習の集中講義(世界史)を受け持っていたとき「かさね」という名の女子高生が受講していたことを記憶している。「かさね」という名に実際に出会ったのはその一度限りである。命名者はおそらく『おくのほそ道』からその名を拝借したのだろう。まさか、三遊亭円朝の怪談噺『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)から採ったのではあるまい。

ネモフィラ(瑠璃唐草)

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澄んだ青色が魅力の一年草

 ムラサキ科ルリカラクサ属の一年草。北米西部原産。かつては寄せ植えの前景部に用いられることが多かった花で、認知度はそれほど高くはなかった。しかし、茨城県ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」の群生がメディアに乗るやいなや、その澄んだブルーが丘を覆い尽くす姿に人々は魅了され、たちまち人気種となった。私も一度、開花期にその公園を訪れたことがあるが、ブルーのカーペット以上に見物客のはしゃぎ様に驚かされた。まだSNSなるものが話題になる以前のことだ。さぞかし、今は非道いことになっているだろう。

 写真のネモフィラは”ネモフィラ・メンジェシー”という普及種(海浜公園も大半はこの品種)だが、個人的には”ネモフィラ・マクラータ”という白地に紺色のスポットが入ったものが好みだった。今回、あちこちの庭先や家の前に置かれているプランターなどで開花したネモフィラを見ることができたが、すべて”メンジェシー”だった。「ひたち海浜公園」恐るべし、である。

アネモネ(牡丹一華、花一華)

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知名度は高いが、意外にもあまり見掛けなかった

 キンポウゲ科イチリンソウ属の球根性多年草。誰でもその名前はよく知っている花であるが、今回、あちこち徘徊してみたが実際にはなかなか見つけることができなかった。写真は八重咲のものであるが、一重咲きで白、赤の花色のものが個人的には好みなのだが、園芸店以外では見出すことはできなかった。"Anemone coronaria"(アネモネ・コロナリア)が学名で、とくに赤色の花は、中心部が「コロナ」のように輝いているのを見て取れる。このため時節柄、今季は大半の人がアネモネの育成を自粛したのかもしれない。花には何の責任もないのだが。

〔番外編〕春を探して花季行(1)

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春の「雑草」の代表格、ホトケノザ

 私にとって春の到来を実感するのは「爽やかな風」でも「温かい陽光」でもなく、路傍で、あるいは公園や空き地でホトケノザヒメオドリコソウオオイヌノフグリカラスノエンドウなどの花を見出したときだ。ガーデニングブームが安定的に継続しているので、厳冬期でも至るところで園芸種のパンジープリムラクリスマスローズサクラソウなどの花を見出すことは多い。もちろん、これらの花々も私の好みであるし、以前には大切に育てていたことはあるが、それはあくまでルーティン内のことであり、初冬から始まるガーデニングファンの恒例行事に過ぎない。

 3月に入り、新しい交換レンズを2本購入した。1本はやや性能の良い標準ズーム(35ミリ換算で24~120ミリ)だが、もう1本は35ミリ換算で90ミリのマクロ(接写)レンズ。この2本のレンズの性能を確かめるには春の花を試写するのが良いと考え、春の花を探しに近隣を徘徊してみた。野草(雑草)から山野草、それに園芸種、木々の花を見つけては撮影してみた。今季は春の訪れが早く暖かい日が多い反面、雨降りも多いためか園芸種は意外にダメージを多く受けている。一方、野草(雑草)は花付きは早く、梅や桜、沈丁花など木々の花も1、2週間ほど開花が早まっている。

 レンズは想像していたよりも性能はかなり良いようだ。しかし問題は、撮影技術と撮影に対する心構えである。私には芸術的センスが皆無なので、花の美しさを引き出す能力はない。また、花の接写は「忍耐力」が勝負(光の差し方や風の強弱)なのだが、私の辞書には「我慢」というものがないので、適度な条件が揃えばさっさと撮影を切り上げてしまう。それでも、ある程度の画像を得ることができたとするならば、それはレンズの性能と、それ以上に花たちの微笑みのお陰である。

 春の花たちが一番華やぐのは3月下旬から4月中旬である。今回は3月6、7日の撮影だ。まだまだ役者は出揃ってはいない。本項は第一弾ということで、この両日に見出すことができた早春に咲く花たちのほんの一部の表情に過ぎない。

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河津桜とその花の蜜を求めてやってきたヒヨドリ

 花に誘われるのは私だけでなく、鳥たちも同じようで花の蜜を求めて河津桜の元にやってきた。人は花を愛で、心の滋養を満たすだけだが、ヒヨドリは5月からの繁殖期に備えるために栄養分を盛んに摂取していた。

プリムラ・ポリアンサ(ポリアンタ、ジュリアン)

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春の園芸種の代表格「プリムラ・ポリアンサ

 プリムラ・ポリアンサは私が以前「花人」だったころにもっとも多く育てていた園芸種。サクラソウプリムラ属。色鮮やかなものが多いが、寒さや雨に弱いために色落ちが激しい、根腐れが起こりやすいという欠点があった。日当たりが良く、かつ雨に当たりにくい場所に植え、花柄摘み(咲き終わった花柄を撤去すること)を丁寧におこなうことが重要だった。プリムラは「プライム」の意味で、春一番に咲く花のこと。ポリアンサは「多い」という意味で、花をたくさんつけることによる。改良小型種は「ジュリアン」の名で呼ばれていたが、現在ではポリアンサとジュリアンの区別はなくなっているようだ。

オオイヌノフグリ

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残念な名前の代表格、オオイヌノフグリ

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オオイヌノフグリの群生

 オオバコ科クワガタソウ属のいわゆる雑草。花は小さいが群生するとかなり美しい。残念な名前の代表格で、「イヌノフグリ」は「犬の陰嚢」のこと。種子の形がそれに似ているのでこう名付けられた。花には何の責任はなく、名は体を表さず、いつも可憐に咲く。存在は名に先立っている。春先にこの花を見つけると、私は実存主義者になり、キルケゴールを読みたくなる。そして彼の本を手にし、いつも同じページを反復している。実に、死に至る病なのだ。

ヒメオドリコソウ

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路傍や荒れ地に多く咲くヒメオドリコソウ

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ヒメオドリコソウの群生

 シソ科オドリコソウ属のいわゆる雑草。明治以降に帰化した外来種だが、今では至るところで見ることができる。大型種はオドリコソウといい、これは見ごたえがあるので自然公園などによく管理栽培されているが、小型種の「姫踊子草」は完全に雑草扱いで、道端に咲いていても大半は踏みつけられる。

ナズナ(ぺんぺん草、貧乏草)

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春の七草のひとつである「ぺんぺん草」

 アブラナ科ナズナ属。春の七草ナズナは本種を指す。食用になるのは若葉だが、特徴的なのは三味線のバチに似た形をしている種子。これを少し裂いて茎全体を軽く振ると 「良い」音がするので、子供の頃はこれでよく遊んだ。種子の形から「ぺんぺん草」と呼ばれ、一般にはこの名のほうがよく通じる。先端部に花を付けてはそれが種子になり、またその先端部には花を付ける。これを何度も繰り返して背丈を伸ばす。これを「無限花序」と言う。なお、荒れ地に群生するために「貧乏草」とも呼ばれる。私のような極貧家では「ぺんぺん草」も生えないが、代わって近縁種の「タネツケバナ」はよく茂っている。

ノボロギク(野襤褸菊、サワギク)

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誰も見向きもしない「ボロギク」

 キク科キオン属の雑草。これこそ正真正銘の雑草で、これを目に留める人はまずいない。写真にあるように種子は冠毛をつけるので僅かだけ人目に触れるかもしれない。花も華麗なところはひとつもなく、茎は無駄に強度があり根もよく張るので引き抜くのに苦労する。畑では有害植物の代表格。こうした「無駄」だけの存在感を有する植物も私の好みのひとつだ。

ホトケノザ(仏の座)

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春の七草ではない「ホトケノザ

 シソ科オドリコソウ属の雑草で、ヒメオドリコソウによく似ている。春の七草にあるホトケノザは「コオニタビラコ」のことで、標準和名のホトケノザは本種を指すので紛らわしい。この本当のホトケノザはとくに有害ということではないようなので間違えて食しても大丈夫とのこと。実際、若草を食する人がいるらしい。写真から分かると思うが、小さいがかなり目立つ花を有しているので、 群生している様子はなかなか見事だ。

ツルニチニチソウ(ビンカ・ミノール)

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ツル性の多年草の本種はグランドカバーによく用いられる

 キョウチクトウ科ツルニチニチソウ属のツル性の植物で、雑草除けのためにグランドカバーの草として用いられることが多い。名前から分かる通り、夏の花の代表格である「日々草」の仲間である。

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花を見ると日々草の仲間であることがよく分かる

 花は写真のように紫色のものが多いが、白色のものもときおり見かける。なお、キョウチクトウの仲間は葉に「アルカロイド」を含むものが多く有毒であり、本種も例にもれない。くれぐれも食さないように。

ヒイラギナンテン(柊南天

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常緑低木の本種も春に花を付ける

  メギ科メギ属の常緑低木で、春に花を付ける。葉は緑色が通常だが、日照や気温など環境の変化によって色変わりする。写真の木は自宅の近くにある府中市中央図書館敷地内の北側にあるもので、周囲にある木々も一斉に花を咲かせていた。

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小さな花だが数が多いのでよく目立つ

 花のひとつひとつはとても小さいが、写真のように数多く咲くのでなかなか見ごたえはある。とはいえ、この花に注目する人はほとんどいないようだが。

オオアラセイトウ(ムラサキハナナ、ショカツサイ、ハナダイコン

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群生すると見事なオオアラセイトウ

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オオアラセイトウの群生

 アブラナ科オオアラセイトウ属で、江戸時代の末期に日本に入ったとされている。異名が多く、花好きは「ムラサキハナナ」と呼ぶが、なぜか年配者は「ショカツサイ」や「ハナダイコン」と言う場合が多い。背丈は案外高くなり、一株にはたくさんの花を付けるため群生すると見事だ。繁殖力が強いため、野原や空き地に数株あると翌年は群生するようになる。

ハボタン(ハナキャベツ

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春先には茎が伸びるために興味深い

 アブラナ科アブラナ属で、花は先端部に小さく咲くが、通常は花期(4,5月)の前に処分される。花の少ない冬場に植えられ、縮れた多数の葉がボタンの花のようにみえることから花壇やプランターで育てている場面を案外見掛ける。また、冬場の寄せ植えの中心部に用いられる場合が多く、写真のように前景にはパンジーが使用されるのがほとんどだ。春先には写真のように茎が伸びて冬場とは違った姿に変貌するので、3、4月まで鑑賞用植物としてなんとか生き残る。キャベツの仲間でありながら結球せず、近年は「青汁」の素材として用いられるケールの同属であり、このハボタンはその改良種といわれている。

アブラナ(菜の花)

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菜の花はアブラナの花の総称

 アブラナ科アブラナ属の花の総称が「菜の花」で、観賞用の菜の花としては通常、「チリメンハクサイ」が用いられる。しかし、食材に用いられる白菜や青梗菜もそのまま畑に放置されると写真と同じような花を付ける。菜っ葉の花が菜の花と思えば良く、それ以上でも以下でもない。

ラッパスイセン

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小型種でも群生すると見ごたえがある

 ヒガンバナ科スイセン属の花で、二ホンスイセンとセイヨウスイセンに大別される。または花の中央にある副花冠が短いものをスイセン、長く突き出ているものをラッパスイセンと呼ぶ。越前水仙やそれを導入した伊豆半島の爪木崎水仙は12月から2月頃が見頃だが、写真のようなラッパスイセンは早春の花として今が見頃だ。

 スイセンの学名は「ナルキッソス」であることはよく知られている。森の妖精(ニンフ)の一人エコーはお喋り好きであったためにゼウスの怒りを買い自分からは声を発することができなくなり、ただ他人の言葉を繰り返すことができるだけとなってしまった。ある日、エコーは美少年のナルキッソスと出会い一目惚れをしてしまった。しかし、エコーはナルキッソスに話しかけることはできず、ただ、彼の言葉をオウム返しすることしかできなかった。このためエコーの気持ちは通じず、彼女は 悲しみのあまり肉体を失い、声だけの存在(木霊=こだま)になってしまった。こうしたナルキッソスの態度に怒った神は彼に自らしか愛せない(ナルシシスト、ナルシスト)という罪を与えた。このため、ナルキッソスは池の水面に映る自分の姿だけを愛し、その姿に触れようとして池に落ちて死んでしまった。その後、神は彼に許しを与え、ナルキッソスは池の傍らに咲くスイセンの姿になって蘇った。スイセンがうつむき加減に咲くのは、水面に映る自分の姿を見るためである。

サクラソウ

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愛好家が多いサクラソウ

 サクラソウサクラソウ属の花で、日本に自生し多くの改良種をもつ。科名も属名も学名では「プリムラ」で、これはプリムラ・ポリアンサの項でも述べたようにプライム(春一番)の意味。サクラソウの愛好家は多いようで、私の近隣にも、今の季節にはこの花だけを各種類集め、玄関にも塀にも庭にも飾っている家が数軒ある。プリムラ・ポリアンサのような派手さはないが、可憐さはこちらのほうが断然、上であると思う。

フクジュソウ福寿草、元日草)

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スプリング・エフェメラルの代表、フクジュソウ

 キンポウゲ科フクジュソウ属の多年草で、「スプリング・エフェメラル」(儚い春)の代表的な花だ。属名のアドニスギリシャ神話に出てくる美少年の名で、愛と美と性の女神であるアフロディーテ(ビーナス)に愛された。彼の血から美しい花が咲いたとされ、伝承によれば「アネモネ」だとされている。アネモネフクジュソウは同じキンポウゲ科の花なので、大きな違いはないのかもしれない。写真は開花直前のもので、明るい陽射しを受ければ完全開花に至る。なお、スプリング・エフェメラルについては本ブログの第2回で説明している。

オキナグサ(翁草)

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老人の姿を思わせるオキナグサ

 キンポウゲ科オキナグサ属の多年草。これもまた典型的なスプリング・エフェメラルで、山野草として根強い人気がある。写真は開花直前のもので、数日以内に満開を迎える。全身が白い毛で覆われ、うつむき加減で開花し、種子もまた白く長い毛で覆われる。こうした様子から翁草と命名されたとされている。以前、私もよくこの花を育てていた。

アズマイチゲ(東一華)

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満開直前のアズマイチゲ

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草で、これもまたスプリング・エフェメラルとして人気がある山野草。属名は”Anemone"なのでアネモネと同じ仲間だ。アネモネは改良品種がとても多いが、アズマイチゲ山野草に相応しく清楚感が強い。写真は満開直前のもので数日先には凛とした姿になる。

ヒトリシズカ(一人静、吉野静)

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開花初期のヒトリシズカ

 センリョウ科チャラン属の多年草。スプリング・エフェメラルには数えられていないが、開花期はまったく同じである山野草。写真は開花が始まったばかりのもので、これから花は上に伸びてくる。吉野山で舞いを披露した静御前の姿になぞらえて命名されたとされ、かつては吉野静、現在は一人静と呼ばれる清楚な花。私は春の花を野原であちこち探し歩くことが多いが、この花を見つけたときが一番、嬉しくなる。

クロッカス(花サフラン

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育てやすい球根植物のクロッカス

 アヤメ科クロッカス属の球根植物。秋に球根を植えておくと春先に咲く。一度植えると分球して数を増やすので、次の年には多くの花を見ることができる。ただし、成長は一定ではないので、できれば梅雨入り前に掘り起こして暗所で保存し秋に植えなおしたほうが美しく咲かせることができる。白、黄、紫の花が多いが、近年では写真のような白地に紫が入るものが人気が高い。ヒヤシンスと同様に水栽培も可能なので、室内で鑑賞することも可能。

クリスマスローズ(レンテンローズ、ヘレボルス)

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近年、人気急上昇中のクリスマスローズ

 キンポウゲ科クリスマスローズ属の多年草。西欧原産で、かの地ではクリスマス頃に純白の花を咲かせるので「クリスマスローズ」と名付けられた。一方、現在主流なのは西アジア原産の改良園芸種で、花期は2、3月がメインとなる。寒さにとても強く、日陰でもよく咲くので、近年では早春を代表する花となっており、プランターや路地植えで楽しむ人がとても多くなっている。かつては地味な色のものしかなかったのでさほど人気はなかったが、近年は色とりどりでしかも八重咲のものも出回るようになったために人気はうなぎのぼりだ。

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クリスマスローズはうつむき加減に咲く

 花に見えるのは実はガクで、花弁そのものは退化して雄蕊の周りに小さく残るのみだ。この植物は「毒草」としても知られており、神経細やかな園芸家はこの植物を扱うときには必ず手袋をしている。学名のヘレボルスの”ヘレ”は「殺す」を、”ボレ”は「食物」を意味し、薬草にも使用されていた。

ノースポール(クリサンセマム・パルドサム)

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ノースポールは「サカタのタネ」が作出

 キク科レウカンセマム属の改良園芸種。1970年頃、かつて「クリサンセマム・パルドサム」と呼ばれていた”フランスギク”を日本の「サカタのタネ」が改良して作出した園芸品種。今ではパンジーと並んで、冬から春の鑑賞花の代表的存在となった。茎はあまり伸びず花を多くつけるため、日当たりの良い場所では葉がほとんど見えなくなるほどの花盛りとなる。ただし日陰では茎が徒長し、花付きも悪い。撮影日(7日)は曇天だったために花弁はやや閉じ気味だが、明るい陽射しを浴びるとこれ以上ないほど目いっぱいに花弁を広げる。なお、品種名(商品名)の「ノースポール」は北極を意味する。どこに極があるのかは不明だが、命名はとても上手だ。

ユキワリソウ(雪割草、ミスミソウ

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早春に咲く山野草ユキワリソウ

  キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草北陸地方から東北地方の日本海側に自生する山野草だが、現在では改良園芸種が非常に多い。ネット通販などでも高い人気を誇る花だが、価格は一株400円程度のものから30000円以上するものまである。一般的なものでも2000円前後はする。色彩も形も数多くあり品評会も盛んにおこなわれている。

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清楚に、かつ可憐に咲く

 花弁は退化して存在せず、花びらに見えるのはガクである。葉はほぼ一年中残るが、花期以外は直射日光に弱いため、落葉樹の下などに地下植えするか鉢植えをしたものを置く。私も一時期この花の収集を試みたが、次々に新品種が現れるため、ついていけずに断念したという記憶がある。

ヒメリュウキンカ(姫立金花)

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園芸種のヒメリュウキンカ

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こちらは野生化したヒメリュウキンカ

 キンポウゲ科キンポウゲ属の多年草で、ヨーロッパでは沼地や湿地などに自生している。日本には園芸種として移入されたが、現在では野生化したものも多い。茎が上方に伸び(立)、黄色(金)の花を咲かせるので立金花と呼ばれる。湿地を好む花なので、鉢植えや地植えのときにもそうした環境を作る必要がある。写真(上)の花は園芸種。まだ開花が始まったばかりで、明るい日差しを浴びると花弁は大きく開く。写真(下)は府中崖線下の湧水脇で咲いていた野生種。

シュンラン(春蘭)

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地中から顔を出すシュンラン

 ラン科シュンラン属の花。ランは地中に根を張るものと地表で根を出すものとがあるが、シュンランは写真のように地中から顔を出す。洋ランの代表種である「シンビジウム」の仲間ではあるが、こちらはかなり地味。が、その点にこそ根強い人気の源になっている。春先、山里の林の中でこの花が顔を出している姿をよく見かけるが、くれぐれも「盗掘」しないように。園芸店で簡単に手に入れることができる。半日蔭を好み、根をよく張るので深さのある鉢に植えて日差しが強く当たらない場所で育てる。なお、ラン科の植物は700属、15000種以上あり、被子植物の中ではもっとも種類が多い。

ヒマラヤユキノシタ

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ヒマラヤ原産の園芸種

 ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属の多年草でとても美しい花を咲かせる園芸種。ヒマラヤ原産のためか寒さに強いので早春から美しい花を咲かせる。根付くと、特に丁寧に手入れをしなくても毎年、多くの花を咲かせてくれ、しかも大きく育つので大きな鉢かプランターに植えると良く、可能ならば地植えが良い。花色はピンクや赤が多いが、”シルバーライト”と呼ぶ園芸種は白い花を咲かせる。花は美しいし花の名の響きも良い。が、この花の認知度はなぜかかなり低い。残念なことである。

アセビ(馬酔木)

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春に花を咲かせる常緑低木の代表格

 ツツジアセビ属の常緑低木。葉や茎には有毒のグラヤノトキシンが含まれている(他のツツジ科の花も同様)ため、馬が食べると毒にあたって酔ったようにふらふらとした足取りになることから、馬酔木と記されるようになったという伝承がある(本当かな?)。以前はあまり見掛けなかったが、近年では春に花を咲かせる常緑低木の定番になりつつある。病気に強く挿し穂で簡単に増やせるからかも知れない。

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白花が一般的

 花は小さいが、写真のように枝いっぱいに咲くので見ごたえはある。花は壺のような形をしていて「ドウダンツツジ」に似ているが、花数は断然、こちらのほうが多い。

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ピンク色の花を咲かせる「クリスマス・チア」

 改良園芸種もいくつかあり、写真の”クリスマス・チア”と呼ばれる品種はピンクの花が無数に咲き、今では白花よりも多く見かけるようになった。

ジンチョウゲ沈丁花、瑞香)

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香りの強さではキンモクセイと双璧

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こちらは白花のジンチョウゲ

 ジンチョウゲジンチョウゲ属の常緑低木。香りが強いことでよく知られている花。その強烈な香りからその存在を知ることになる。早い場合は2月中旬頃には咲くので、散歩中にこの花の芳香に触れると春の到来を感じる。今は「香害」が問題視されているが、ジンチョウゲの香りは自然のものなので何の問題もない。ちなみに、秋の香りの代表格はキンモクセイだが、こちらは秋の到来というよりトイレの存在を実感するかもしれない。もっとも、キンモクセイ=トイレの芳香剤を連想するのは年配者で、中年はラベンダー、若者以下はトイレに結び付く香りはとくにないようだ。

ユキヤナギ(雪柳、コゴメバナ)

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ユキヤナギの咲き始め

 バラ科シモツケ属。公園や庭、街路などでよく見られる落葉性低木で、春には垂れ下がった枝に葉が見えなくなるほど無数の花を付ける。雪を被った柳のように見えるところから命名された。写真はまだ咲き始めなので緑の葉っぱが見えるが、これから一週間ほどで満開になる。満開時の美しさはサクラにも負けないほどだと個人的には思っている。小さな花びらが散った後の地面はお米を一面にまき散らしたように見えるため「コゴメバナ」の異名がある。

サンシュユ(山茱萸(さんしゅゆ)、ハルコガネバナ)

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葉より先に花が咲くサンシュユ

 ミズキ科サンシュユ属の落葉性高木。3月初め頃、葉が出る前に黄色い小さな花を咲かせる。ひとつの花は多くの小花が集まってできている。

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サンシュユの花をじっくり観察してみた

 小さな花房(散形花序)をじっくり観察してみたが、やや盛りを過ぎていたようで、黄金色に輝くようには見えなかった。実は、この花をこうして観察したのは初めてだった。来年(もしあれば)にはこの木を早めに探し出して、その輝きに触れたいと心から思った。

オカメザクラ(おかめ)

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小さな花はうつむき加減に開く

  1947年、英国人がカンヒザクラとマメザクラ(富士桜)とを交配して作出した早咲きのサクラ。花は小さくうつむき加減に咲くが、花びらは完全には開かない。花色はかなり濃い。木はあまり大きく育たないので、梅の木と勘違いされることもあるようだ。小田原市根府川地区ではこの早咲き品種で桜の里作りをおこなっている。果たして、第二の河津桜になるだろうか?

カンヒザクラ(寒緋桜、元日桜)

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サクラの原種のひとつ。河津桜、オカメの元になった

 サクラの原種のひとつ。早咲きで、釣鐘状に咲き、濃い花色などから多くの自然交配種(河津桜)や 人工交配種(おかめ)が誕生している。前2種の桜のほか、修善寺寒桜、椿寒桜、陽光、横浜緋桜などが代表的なカンヒザクラ群である。

〔36〕八王子の城跡を歩く(1)滝山城跡を中心に

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本丸跡にある石碑

八王子界隈には城跡が多くある

 平らなだけが取り柄の府中市にはこれといった城跡はなく、せいぜい浅野長政屋敷や高安寺館が拡大解釈されて「城」に含まれるといった程度だ。一方、山がちな八王子市界隈にはたくさんの城跡がある。日本100名城に選定された八王子城、続100名城に選定された滝山城をはじめ、高月城浄福寺城片倉城などがよく知られている。私はとくに城好きというわけではないが、日本各地の名所を訪ね歩くと、当然のごとく城跡にも出掛けることになる。例えば、100名城に選定された城だけでも五稜郭若松城水戸城、足利氏館、小田原城松本城金沢城名古屋城彦根城、二条城、大阪城、姫路城、福山城、萩城、宇和島城高知城、熊本城、首里城といった具合に。実際に訪ねたことのある100名城はもっと多い。

 が、八王子にある城跡の名前は知っていても八王子市内を観光で訪れることは滅多にない(高尾山くらいか)ので、私のお気に入りの散策コースである滝山城跡以外には立ち寄ったことはなかった。その滝山城跡でさえ、歴史に興味があるというよりは、適度にアップダウンがあり、かつ一部にだけだが見晴らしの良い場所があるので、葉っぱと虫や獣たちが少ない冬場の徘徊場所として出掛けていて、とくに「遺構」については関心を示さなかった。たまたま今回は未踏の八王子城跡に出掛けてみようと思い立ったとき、その城と滝山城とが密接に関係があるということを改めて認識を深めたので、まずはそうした視点から滝山城跡を訪ねてみようと思った次第だった。

滝山城跡は加住北丘陵にある

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多摩川右岸河川敷から見た加住北丘陵

 滝山城跡のある加住丘陵は八王子市中心部の北側にあり、関東山地の東縁から東南東方向に舌状に伸びている。南側は川口川、北側は秋川・多摩川に接している。中央には谷地川が流れて丘陵部を開析し、北部分を加住北丘陵、南部分を加住南丘陵と呼ぶこともある。また、東縁は日野台地と接しているが丘陵と台地とは成り立ちが異なるとされている。丘陵の基盤は上総層群で、下部は加住礫層、上部は小宮砂層と呼ばれている。この上総層群の上を関東ロームが覆っている。ローム層と小宮層と間に不透水層があるために丘陵上であっても水の確保は容易であり、後述するが本丸跡には井戸があり、周囲にも数か所、井戸跡があるらしい。また、城の中腹には2つの大きな池跡があることからみても、水源に恵まれたこの場所は丘山城を築くのに適していることがよく分かる。籠城戦には飲料水の継続的確保が必須だからである。

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加住丘陵を開析した谷地川

 谷地川は加住丘陵を開析し丘を二分した。写真は谷地川を上流方向に見ているので、左が南丘陵、右が滝山城跡がある北丘陵である。撮影場所は新滝山街道沿いにある「道の駅滝山」のすぐ北側だが、ここの標高は110mほどで、左右に見える丘陵上はどちらも170mほどである。写真では鮮明でないが、南丘陵には創価大学の、北丘陵には東京純心女子大学のキャンパスがある。川の北側には国道411号線(滝山街道)、南側には新滝山街道が走っており、街道沿いには大きくはないものの集落が続いている。

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北丘陵の北側には河川敷が続く

 写真は加住北丘陵の北側、すなわち秋川・多摩川の河川敷部分だ。この部分は多摩川の氾濫原のために住宅地は少なく、田畑やグラウンドなどに使用されている。

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北丘陵の北側斜面をよく見ると

 写真は河川敷に整備された「滝ケ原運動場」から滝山城跡のある北丘陵の斜面を見たものだが、これからも分かる通り急峻な崖になっており、暴れ川である多摩川によって大きく削られている様子が見て取れる。実際、この場所は東京都建設局から急傾斜地崩壊危険箇所に指定されている。運動場の標高は96m、滝山城の本丸は167mの位置にあり、敵方は多摩川を渡り、かつ急峻な崖を上る必要があるため、城の北側の守りはかなり固いものだったと考えられる。

大石氏と北条氏照との関係

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大石家の拠点になった二宮にある「二宮神社

 滝山城武蔵国の有力者であった大石定重が16世紀前半に築城し、その後に大石家の養子になった北条氏照(小田原北条氏3代氏康の三男)が16世紀半ばに大幅改修したとされてきた。しかし、「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が発行するパンフレット(2018年)によると、北条氏照は定重の子である定久(道俊)の子の憲重(綱周)の養子となり、氏照が初めから築城したと最近の研究では考えられているらしい。ただし別の歴史書では、大石氏が手掛け氏照が改修したという点を強く主張しているので、どちらが正しいのかは未だ解明されていないと考えて良い。いずれにせよ、北条氏照の動向を追うときには必ず、養父筋に当たる大石家の存在を考慮しなければならないので、ここではまず大石家の足跡を簡単に追ってみることにした。

 八王子市の旧家に保存されていた『木曽大石系図』(江戸時代中期に整理されたと考えられている)によれば、大石家は木曽義仲を祖とし1356年、大石信重が多摩郡入間郡の十三郷を賜り武蔵国目代に就いた。信重は現在の埼玉県ときがわ町辺りを拠点にしていたが、その際に現在のあきる野市二宮に居を移したとのことだ。大石家が二宮を拠点にしていたということは15世紀初頭に足利荘代官を務めた大石道伯が「二宮道伯」を名乗っていたことからその蓋然性はかなり高い。ただし、「二宮城」の場所は未だ特定されていない。

 あきる野市の二宮といえば武蔵国六宮の二宮に位置付けられた二宮神社があるところだ。このことは以前にも少し触れている(cf.32普通の府中市2)が、改めて二宮神社について述べてみたい。ここは10世紀前半に編纂された『延喜式』にはない式外社だが、古くから武家の尊崇を集めていたようで、大石家はこの付近に居を構えていたとされている。境内には大石家が築いた「二宮城」があったという記録が残っていたが、発掘調査ではその証拠品は出なかったそうだ。後述する北条氏照滝山城に拠点を構えていたときは、この神社を祈願所にしていた。

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あきる野台地のヘリから湧き出た清水を集めた「お池」

 神社の本殿はあきる野台地の上にあるが、写真の「お池」は台地の下にある。ここも神社の敷地内である。台地のヘリからは清水がこんこんと湧き出てくるようで、池の水量は豊富で、ここから流れ出た水は小川を形成している。二宮の東隣にある町の字名は「小川」であるが、その由来はこの池の水にあるのかもしれない。二宮神社は別の名を「小川神社」「小河大明神」というのだから。

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本殿は台地のヘリの直上にある

 本殿は参道の階段を上がったすぐ上にある。周囲には社叢林が広がっているが、境内自体はさほど広くない。周辺は新興住宅地に変貌しているが、かつては広大な敷地を有し、そのどこかに大石家の館があったのかもしれない。境内の脇には神社の由来が書かれた表札があるが、ここが武蔵国の二宮であったことを誇らしげに述べている。

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大石氏は拠点を浄福寺のある案下に移した

 先に挙げた系図によると、1384年に大石信重は案下(あんげ、八王子市下恩方町)に居を移したとされている。これが事実だとすれば、大石家と八王子との結びつきはこのときに始まったと考えられる。案下は関東山地の東縁にあって、ここから和田峠を通って藤野に抜け、さらに甲斐の国へ至る重要な場所であり、かつては案下道、現在は陣馬街道が通っている。江戸時代、この道筋は甲州街道脇街道としてよく整備され、富士参詣道としても用いられた。浄福寺城は大石信重が案下に移った14世紀末に築城したという記録があるが、現在では16世紀前半、大石定久・憲重父子が築城し、北条氏照も一時ここを本拠にしていたという説が有力視されている。

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浄福寺城の主郭跡は標高356mの所にある

 浄福寺城跡は浄福寺の裏手にある小高い山の上にある。「案下城」「新城」「二城」などの別名がある。『武蔵名勝図会』には、大石氏が高月城(後述)に城居し、新たに城を築いたので「新城」と呼ばれるようになったと記述されている。現在では、浄福寺(城福寺)を開基したのが大石氏で、城を裏山に築いたために浄福寺城と呼ばれるようになったとするのが主流となっているようだ。

 浄福寺真言宗智山派の寺で、創建は13世紀半ばとされているが、16世紀の前半に大石氏が再興して現在に至っている。ひとつ上の写真にあるように、なかなか立派な本堂を有している。

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城跡に続く道

 当初は城跡を訪ねる予定でいたが、何しろ人影はまったくなく、道筋を示す図もなく、林道入口の標高は201m、山頂は364mと比高は163mもあるので登山は断念した。何しろ私は、釣り以外では意気地も根性もないのだ。

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浄福寺境内にあった石仏その一

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石仏その二

 意気地も根性もないが、好奇心だけは少しあるので、登頂を断念した代わりに境内を散策してみた。そして、上の写真にあるような石仏に出会った。真言宗の寺だけに弘法大師像が本堂前にあったが、私にはこの二つの像のほうに「帰依」したいと思った。もちろん、信仰心はまるでないので、ただそのように考えたにすぎないが。

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15世紀半ば、大石氏が拠点にしたとされる高月城がある丘

  先に挙げた系図によれば、大石氏は1458年、加住北丘陵にある高月城に本拠を移したとされる。後述する滝山城とは同じ丘陵上にあり、直線距離にすれば1.5キロほどしか離れていない。この地は系図では「高槻」の名で登場するが、現在では「高月」という風雅な字が用いられている。私は時折、あきる野辺りから都道166号線(瑞穂あきる野八王子線)を南下して東秋川橋を渡って滝山街道に出ることがある。橋を渡るとまもなく、右手に写真にある「円通寺」が見えてくる。その寺の裏山に高月城跡がある。

 円通寺は10世紀初頭に創建された天台宗の古刹であるが、16世紀後半に大石氏の支えによって約3万坪の境内をもつほどの大寺院になったそうだ。もっとも、丘陵の西側は絶えず秋川の流れによって削られ、東側は秋川と多摩川の合流点に位置するため氾濫の危険性を常に留意せねばならないという土地柄だった。反面、西側は関東山地によって視界が遮られるものの、三方の見通しはとても良い場所にあるため敵方の動きを探るには適した立地だった。一方、守勢に回ると耐え抜くのはかなり困難だと容易に想像できる。

 系図では高月城からより守りが固い滝山城に移ったとされるが、近年ではこの説を否定的に捉えることが多いようで、他の資料では15世紀の大石氏の拠点は現在の志木市に残る「柏城」であった蓋然性が高いとのことだ。そうなると、大石氏が14世紀後半に案下(浄福寺城)に居を構えたということの信憑性も失われることになる。

 その一方、1525年に大石道俊(定久)とその子である憲重が城福寺(現在の浄福寺)を再興してして棟札を奉納したという極めて信憑性の高い記録が残っているので、遅くとも16世紀の前半には大石家と八王子との結び付きが出来上がったと考えることは可能だ。その後、高月城を経て滝山城に至ると想像すると、大石家と円通寺との密な関係が生まれたことも首肯できる。

いよいよ滝山城に上る

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滝山城跡へ上る「大手門」口の看板

 先述したように、大石氏が先鞭をつけたかどうかは論が分かれるにせよ。大石家に養子に入った北条氏照が滝山丘陵(加住北丘陵の一部)を開削して、中世城郭の最高傑作と称される「丘山城」を築いたことは確かなようだ。当時の建築物は残っていないが、丘陵の地形を生かしながら巧みな設計によって大規模な空堀を配し、堅固な防御ラインを造り上げている。氏照は甲斐(武田氏)からの守りを重視する必要が生じたため、結局、滝山城は未完成に終わっていると考えられ、1587年頃までには、やはり自らが築城した山城である「八王子城」に移転している。

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八王子市が整備した無料駐車場

 写真の無料駐車場は八王子市が整備したもので、滝山街道(国道411号線)と「瑞穂あきる野八王子線」とが交差する「丹木三丁目交差点」のすぐ東側にある。出入口は滝山街道側のみにある。駐車場のすぐ横にひとつ上に写真にある「滝山城跡入口」の看板が立っていて、ここから本丸まで続く道が伸びている。上り坂だが、入口の標高は127m、本丸付近は167mなので比高は約40m。足元もよく整備されているためハイキング気分で登れる道だ。

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大手口から天野坂を進んで本丸を目指す

 駐車場の近くに大手口があったらしく、写真の道を上っていくと「三の丸」「千畳敷」「二の丸」「中の丸」「本丸」に至る。

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滝山城址・丹木一丁目入口

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滝山城跡・少林寺参道入口

 滝山街道側には「丹木一丁目」「少林寺参道」にも写真のような看板が立てられており、滝山城跡へ観光客に足を運んでもらいたいという八王子市民や滝山城跡愛好家の強い思いを感じることができる。

 私は現在では先の駐車場を利用して滝山城跡付近を散策するが、駐車場ができる以前は、丘陵の北側にある「滝ケ原運動場」か、南側の「道の駅・滝山」の駐車場を利用していた。運動場側の入口は多摩川の河川敷にあり、先述したように急斜面を上ることになるのでやや苦労を強いられるが、一気に本丸にたどり着くことができる。一方、道の駅からは谷地川を渡り滝山街道を少し西に進んで少林寺参道を行き、東京純心女子大学の裏手を通って、加住北丘陵の尾根道に出てから散策路を西に進んで本丸方向を目指すことになる。ハイキングに来たと思うと決して苦にはならないが、滝山城跡そのものを目的にするとやや長い道のりになる。

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少林寺本堂

 少林寺の名からは「拳法」を連想してしまうのだが、ここは曹洞宗の寺で拳法とは何ら関係がない。北条氏照が1570年に開基した寺で、開山した桂厳和尚は氏照の乳母の子だとのこと。かつては参道の西側に八幡宿、東側に八日市宿、横山宿があり、現在の滝山街道の多くは「古甲州道」だった。八王子の原点はこの辺りだったと考えられている。

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境内にあった二つの菩薩像

 少林寺本堂は1887年の大火で焼失し、現在ある本堂は1993年の建築されたものだ。本堂の前には写真の二つの菩薩像が立っていた。右のものは火災にあった菩薩像かもしれないが、災厄にあってもしっかりと屹立している。私に信仰心が少しでもあれば、右の像に向いて手を合わせるかもしれない。

氏照と北条氏の動向

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滝山城には戦略家・氏照が考案した「空堀」が至るところにある

 北条氏照は1542年、小田原北条氏三代氏康の三男として生まれた。46年に武蔵国の有力者であった大石家の養子となった。幼名は藤菊丸で、長じてからは「由井源三」を名乗っていたらしい。55年、氏照は父の氏康とともに古河公方足利義氏元服式に兄弟で唯一参加している。氏康は氏照のもつ能力への期待感が高かったためだろうか。それとも、たまたまだったのだろうか。

 北条氏は1560年代に勢力を拡大し、武蔵国東部、さらに房総への侵攻を強めた。越後の上杉謙信は61年から関東管領の職に就いた(78年まで)こともあって、関東における上杉方の勢力を総動員してこれに対抗した。その象徴的な争いが65年に開始された関宿(せきやど)合戦で、74年まで3回、戦闘が繰り広げられた。関宿は利根川水系の要衝にあり、この場所を支配するということは関東の水運を押さえることにつながっていた。しかも、現在の千葉県野田市にあった関宿城は反北条氏の拠点であって、直接には北条氏対簗田(やなだ)氏との戦いであったが、簗田氏側の背後には上杉氏が存在していた。第一次の合戦は北条側が優勢であったが、上杉勢がこの戦いに加わるという報が入ったために和睦が成立した。

 68年、北条氏側の軍事外交権を掌握する立場になっていた氏照は下総の栗橋城を落とし、ここを拠点として関宿城への攻撃を再開した。これが第二次関宿合戦の始まりだった。ところが、北条氏をとりまく情勢が大きく変転したためにこの戦いは中断を余儀なくされた。それは、武田信玄の「裏切り」であった。

 54年、「甲相駿三国同盟」が、武田・北条・今川間でそれぞれ縁戚関係を結ぶことで成立したが、68年、武田勢が東海地方への進出を画策し駿河侵攻をおこない、三国同盟は破棄された。これに対し、北条氏は今川氏側を支持してその救援をおこなった。さらに氏照は上杉氏に同盟の申し入れをおこなった。甲相同盟が崩壊した代わりに「越相同盟」を成立させ、あわせて甲越の対立を利用しようとしたのだ。しかし、交渉は難航した。これまでの間、北条氏は上杉側についていた勢力をことごとく廃し、北条氏側に取り込んでいたからである。結局、氏照は同盟の成立を最優先し、北条氏側が拡大した領地を上杉氏側に返還することで決着をみた。

 69年、越相同盟が成立し、「血判起請文」を交わした。氏照には上杉謙信から刀一振りが贈られ、氏照はその返礼として太刀一腰を進上した。

武田氏の関東侵攻

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武田軍が攻め入った滝山城三の丸付近

 こうした北条氏や上杉氏の動きに対し、武田氏側は関東への出陣を決定した。まずは埼玉県の寄居にある「鉢形城」(日本100名城のひとつ)を攻略し、さらに南下して氏照のいる滝山城に向かった。いよいよ「滝山合戦」が展開されるのだ。

 『甲陽軍鑑』ではこの滝山合戦は69年の10月2日から4日におこなわれたとされているが、他の資料では武田勢は9月27日は相模国に入った、10月4日には小田原城下が放火されたとあるので、滝山合戦は遅くとも9月下旬(9月27日まで)におこなわれたと考える必要がある。

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滝山城中の丸跡から拝島市街方向を望む

 武田軍の主力は、滝山城の北側を流れる多摩川左岸の拝島付近に陣を構えた。先述のように、滝山城多摩川側は急峻な崖がそびえているので攻略は困難を極める。誰しも当然、滝山城に攻め入るのは谷地川側からと考える。先鋒は甲州から八王子に向かってくる小山田信重の軍勢だった。問題は、その侵入ルートにあった。

 第一は大月、藤野を東進し、北上して陣馬山の北にある和田峠から北浅川沿いを下って案下(下恩方)、そして楢原から加住南丘陵を越えてくるルート、第二は塩山から小菅、小河内、檜原、秋川と進むルートが想定されていた。第一は「旧案下道」(現在の陣馬街道)であり、第二は「古甲州道」(現在の青梅街道、奥多摩周遊道路)である。ところが実際には、小山田軍は「こぼとけ城」を越えて八王子に侵攻してきたのであった。これは江戸時代の旧甲州道中ルートだが、当時は未開拓の道であった。氏照は第二のルートを想定していたようで、とくに檜原付近の守りを固めていた。 

 戦闘は「とどり」(廿里)付近で展開された。現在のJR高尾駅の北側、つまり、現在の「森林総合研究所」や「武蔵陵」がある辺りである。これに続いて武田軍の本隊も谷地川側から攻め入ってきた。信玄の息子である武田勝頼(当時24歳)は三の丸まで駆け上がり、一方、氏照は二の丸にいた。勝頼と氏照の配下の侍大将である諸岡山城とは3回、槍を合わせたといわれている。勝頼の戦死を心配した信玄は戦いの継続を望まず、兵を引かせることになった。武田軍の目的は小田原城攻撃だったからだ。

 それでも滝山城下にある集落はことごとく焼き払われたようである。先の「少林寺」の項で挙げたように、当時の八王子は八幡、八日市、横山の三宿が中心だった。史料には「宿三口へ人衆を出し、両日とも終日戦を遂げ、度々勝利を得て敵を際限なく打ち捕り……」とあるが、これは北条側の記録によるものと思われる。実際には苦戦を強いられたのだった。

 ともあれ、この69年の戦闘によって氏照は丘山城である滝山城の欠陥・限界を知り、次の攻撃に備えるため、「八王子城」の築城を構想したと考えられている。

滝山城跡を歩く

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本丸と中の丸とを結ぶ復元?された「引き橋」

 滝山城跡というより加住北丘陵、都立滝山公園は私の冬場の散策場所であって、とくに城跡の遺構を意識して徘徊したことはなかった。他の城跡のように天守閣や櫓、石垣が残っていたり復元されたりしているわけではないので、散策中でも「城跡」を感じることはなかった。しかし、今回は「城跡」という観点でここを2度訪れたため、今まで見落としていた、というより気にも留めなかった遺構に感心する場面がいくつかあった。さらに、一度は休日に訪れたため、「滝山城跡愛」に満ち溢れるボランティア案内人の人々にも接したので、いつもなら素通りしていた場所にも触れることができたのは大きな収穫だった。

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千畳敷

 大手口から天野坂を上がり、右手に三の丸を見てから少し進むと左手に写真の千畳敷がある。ここには郭があったのか兵士の集合場所だったのかははっきりしない。この隣に角馬出があって城兵が控えているので郭だった蓋然性が高い。現在は周囲を木々が取り囲んでいるので見晴らしは良くないが、北側の下方には「弁天池」があるので、景観の良い場所だったはずだ。

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結構広い中の丸

 千畳敷を過ぎて本丸方向に進むと、右手にこの城の守りの拠点である二の丸があり、その北側に写真の中の丸がある。千畳敷ほどではないがここもかなりの広さをもつ。本丸はさほどの広さがないので、ここが事実上、城の拠点だった蓋然性が高い。北側の見晴らしはとても良く、拝島に控えていた武田軍の様子もはっきりと見て取れたことだろう。写真奥の建物は、2000年まで営業していた国民宿舎の一部が残されたもので、休日にはボランティアガイドの控え場所に用いられている。資料が多く置いてあり、ボランティアの人々に疑問点を質問したり、城内のガイドを依頼することもできる。ここにはきれいなトイレがあり、敷地内にはソメイヨシノが数多く植えられているので、花見シーズンにはかなりの賑わいを見せるとのこと。

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中の丸と二の丸との間の空堀

 中の丸と二の丸とはこの城の最大の要所であるため、間の空堀は相当の深さがある。滝山城の見どころはこの空堀の深さ、その複雑な配置にある。

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本丸。中の丸とは引き橋でつながっている

 本郭があったと考えられる本丸と中の丸とは引き橋(木橋)でつながっている。先に挙げた写真の橋は人々が行き交いやすいように造られているが、当時のものはもっと下方にあり、しかも非常時には簡単に壊せるように設計されていたとのこと。もちろん、下の通路を使っても行き来は可能で、本丸には敵が簡単に入れないように、狭い枡形虎口が造られている。

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本丸内にある井戸跡

 滝山城跡を訪れて一番気になったのが飲料水の確保という点だった。麓には多摩川や谷地川が流れているので、平時であれば水を汲みに行ける。しかし戦時では不可能だ。籠城戦のときに一番困難なのが飲料水の確保だ。この滝山城の本丸には写真のような井戸が残っている。

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井戸の中をのぞく

 井戸の中をのぞいてみた。といっても、本当にのぞいてみたわけではなく、手を伸ばしてカメラにのぞかせたのだ。写真からも分かるように内部はよく整備されていた。本項では先に加住丘陵について簡単に解説しているが、この滝山部分はとくに地下水の確保が容易な地形・地質になっているので、水に不便したことはまずないはずだ。というより、水が十分に確保できる場所に城を築いたのである。

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本丸にある霞神社

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本丸にある金毘羅社

 本丸には2つの建造物がある。これは北条氏や滝山城との関連はなく、後に建造されたものだ。霞神社は1912年、在郷軍人会加住村分会が日露戦争で戦死した15柱を祀ったのが最初で、今日まで220柱が合祀されているとのこと。金毘羅社は江戸時代の創建で、多摩川での水運の安全を祈願して建てられたものらしい。神社は高台の上、寺院は町の中というのが基本形なので、北条氏という主を失った滝山の丘陵地は信仰の場所として利用されるようになったようだ。

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本丸の下にある小さな曲輪から弁天池を望む

 加住丘陵は地下水が豊富だったために、丘陵の中腹には大きな溜池が2つある。本丸の直下にあるのが写真の弁天池で、往時は生活用水を確保するためだけでなく、舟遊びもおこなわれていたらしい。中央に見える盛り土は中の島と呼ばれ、池には欠かせない築山だったそうだ。現在では地下水は大分枯れてしまったようで、水はほんの一部にしか残っていなかった。

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守りの要である二の丸の周囲には空堀が多く巡らされている

 二の丸は城の守りの要で、武田軍が攻め入ったとき、氏照は二の丸に控えて指令を発していた。周囲にはかなりの深さの空堀が造られていて、防御に重点を置いた設計がなされている。以前は堀の中にまで多くの杉が茂っていたが、最近ではこの空堀を当時のままの姿で人々に見てもらえるようにと、杉の伐採が進んでいる。ご苦労様。

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行き止まりの堀(ふくろのねずみ)

 空堀は写真のように行き止まりになっている場所があり、敵側はここで「ふくろのねずみ」になる。この場所の近くにはいくつかの「馬出」があり、ここに守備兵が控えていて、敵兵を一網打尽にする。

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馬出のひとつ

 二の丸の周囲には写真のような小さな曲輪が3つあり、これらを「馬出」と呼んでいる。ここで守備兵は敵の襲来を待ち構えている。

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大池は城のための生活用水の確保だけでなく、麓にある谷戸に水を供給する

  城内の東側に写真の大池がある。写真にも少し写っているが、僅かながら水たまりがある。この池も湧水を集めた溜池として利用されていた。

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大池にある切れ込み

 大池には写真のような切れ込みがあり、ここから下方にある谷戸に水を供給している。この日はほんのチョロチョロという流れではあったが、確かに水は流れていた。

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丘陵の斜面には写真のような谷戸がいくつもある

 丘陵の南斜面には写真のような谷戸がいくつもある。日当たりが良いというだけでなく、丘陵からの湧水が比較的豊富だったためか、農業が盛んだったようだ。ここで生産された農作物は城内の兵士たちに供給されていたと考えられる。

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古峯の道と呼ばれるハイキングコース

 大池の上部からそのまま東に進むと城跡からは離れ、散策には格好の尾根道が続く。ここは「古峯の道」と名付けられているが、公園の看板には「かたらいの路・滝山コース」とある。「かたらいの路」といっても高幡不動から続くわけではないようだが。

 このコースはJR八高線小宮駅を起点(終点)として、滝山城跡から円通寺高槻城跡、東秋川橋を歩いてJR五日市線東秋留駅を終点(起点)とする、全長約10キロ、約4時間の道のりだ。私のような寄り道大好き人間にはとてもこの距離・時間で収まるはずはないので、一日で制覇することは絶対に無理だろう。

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谷戸谷戸との間にあった御嶽神社

 谷戸谷戸との間に「御嶽神社」があることは今回初めて知った。グーグルマップでその場所は表記されていたが、そこに至る道がなかった。というより、グーグルマップの経路ではたどり着けなかったのだ。それでも谷戸をうろつくとなんとか神社に上がる細い道を見出すことができた。滝山街道沿いにも神社の場所を示す看板はなく、ただ山中にひっそりと佇んでいる社だった。

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人の気配がまったくなかった御嶽神社。確かな由緒はある

 御嶽神社で検索すると出てこないが「丹木御嶽神社」で調べると見つけることができる。かつては高月村の山中にあったらしいが、後に滝山城跡の山頂付近に遷座したらしい。それが北条氏照の築城によって16世紀の半ばに現在の地に遷されたらしい。当時は「蔵王権現」との名であったが、明治維新後に「御嶽神社」に変わったとのこと。

 写真以外に建物はなく、人気(ひとけ)もなかった。滝山城跡にも建築遺構はなかった。しかし、つぶさに観察すれば、氏照の創意工夫はいたるところに残っていた。「神は細部に宿る」のか「悪魔は細部に宿る」のかは不明だが、私には神も悪魔もどちらにも存在していない。

 ただ、滝山城跡で出会った3人のボランティアの方々はいずれも「亡霊」の存在を信じているようで、私が次に「八王子城跡」を訪れると言ったとき、異口同音に「午後3時半までに下山したほうがいい。そうしないと怖い思いをするから」との返答があった。怖い思いとは山道が暗くなって危ないからではなく、その時刻になると亡霊が参上するからとのことだった。三人とも、その経験を何度かしたらしいのだ。

 それを聞いた私は、なるべく遅い時間に八王子城跡に出掛けることにした。果たして、生涯初の「亡霊との出会い」が実現するのであろうか。誠に楽しみである。

〔35〕三匹のオッサン・旧東海道を少しだけ歩く

 

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川崎宿・宗三寺にある遊女の供養塔

三人のオッサンが旧東海道をダラダラと歩くことにしたのだが

 謹厳実直を形にするとSさんになり、変な哲人といえばKさんになり、ただ単に変な奴というと私になる。本ブログでは紹介していないが、昨年はこの三人で鎌倉の切り通しを2回(朝比奈と名越)探索した。Sさんは元日本史の教員で神奈川の歴史について精通し、Kさんは高校時代に日本史が赤点だったにも関わらず現在は非常勤講師として日本史を教えている。私は受験のときに日本史と地理を選択し、とくに日本史では古墳時代以前を得意とし「明石原人」の再来とまでいわれた。なお、地理は得意中の得意で、「ケッペン気候区」どんと来い、である。

 この三人による「歴史探訪」は今年も続けることになり、とりあえずは「旧東海道」を歩くことにした。この旧道歩きは私たち以外にも暇なオッサンやオバサンの格好の趣味となっているようで各種の案内書・手引書が出版されている。日本橋を出発点として53の宿場を訪ねつつ三条大橋を目指すのが定石なのだろうが、我がグループの3分の2はナマケモノなので、そんな面倒なことはまずしない。そもそも集合場所が京浜急行子安駅で、集合時間も午前11時と、ハナからやる気が感じられないのだ。

子安駅を集合場所としたのには訳があった

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尻手駅浜川崎駅とを結ぶ南武支線

 SさんとKさんは横浜市在住なので子安駅までは近い。しかし多摩の田舎に住む私は電車で行くとなると最低でも2回は乗り継ぐ必要があった。スマホの乗換案内で検索すると、京王線府中駅から分倍河原駅に行き、そこで南武線に乗り換えて川崎駅へ。京急川崎駅まで歩き、それから普通電車で子安駅に到着。府中駅を9時35分に発すると子安駅には10時55分に到着する。このほかに京王線で新宿に行き、山手線で品川に出て京急に乗り換えるという手もある。が、私が愛用するジョルダンの乗換案内は素晴らしいルートを紹介してくれた。第2案として示したそれは、南武線で終点の川崎駅までは行かずにひとつ手前の尻手駅で降り、浜川崎行きの南武支線に乗り換えてひとつ先の八丁畷(なわて)駅に行き、そこで京急に乗り換えるというものだ。乗換は1回増えるものの到着時間は変わらない。10時台の浜川崎駅行きは1本しかないので、待ち合わせ時間が異なっていたとしたらこの偶然には出会えなかったかもしれなかった。

 このルートであれば、3回の乗り継ぎ場所はすべて田舎駅となる。もちろん出発駅も田舎で到着駅も田舎なので、5回ホームに立つことになる私はすべて田舎駅の空気に触れることになる。これは素晴らしいことである。途中、都会に成り下がってしまった武蔵小杉駅を通ることになるが、これは致し方ない。そこでは目をつむってさえいれば、少し前まで煤けた工場街であった小杉の姿が脳裏に浮かぶのだから。ともあれ、ジョルダン『乗換案内』には大感謝である。

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八丁畷駅京急の到着を待つ

 南武支線の旅はわずか一駅。それでも初めての利用なので満足度は高い。今度は八丁畷駅京急に乗り換える。この駅の利用も初めてだ。この駅は普通電車しか止まらないが、待ち合わせ場所の子安駅も普通のみの停車なので何の問題はなかった。

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子安駅前。ここで二人のオッサンと合流する

 この駅を待ち合わせ場所にしたのは「旧東海道」歩きとはまったく関係がなく、単に「ウナギ」が食べたかっただけだ。駅前にはうなぎ料理の名店があり、リーズナブルな価格ですこぶる美味い蒲焼きが食べられるのだ。実は1月に、Kさんと私は旧東海道の下見はまったくせずにこの店だけを訪れ、下見ならぬ味見をしていた。一方、丁寧に下見と下調べをしていたSさんは京急川崎駅を待ち合わせ場所に考えていたようだ。

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駅前にある小さなうなぎ屋さん

 「うな清」は老夫婦が経営する小さな駅の前にある小さな店だが、口コミやSNSでその良好な評判はかなり広がっているようなので、開店時間の11時に合わせて集合時間を決めたのだ。私たちは開店と同時に飛び込んだので第一組となったが、ほどなく他の三組が現れたので店は満員御礼となった。集合が10分ほど遅れたならば、ウナギとの邂逅は断念せざるを得なかった蓋然性は高く、子安駅に午前11時少し前に集合という時間設定は非常に正しいものだった。もっとも、本来の目的は旧東海道歩きだったが。

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うな清のメニュー

 1月の下見ではKさんと私は「上うな重」を注文したのだが、これが涙が出てしまうほど美味しかった。このため、「蒲焼」だけをもう一皿追加注文してしまったほどだ。今回の本番?では「特白蒲重」を食することに決していた。

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特白蒲重に肝吸(プラス100円)

 うなぎは「蒲焼」が王道だろうが、ややさっぱりとした白焼きは店主の技が味を左右するので、今回は両方を楽しめるものにした。とても楽しみである。

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中とろ2人前分

 今回はウナギの追加は予定せず、店内のメニュー表にあった「中とろ」(1人前1300円)を同時注文した。こちらも店主の目利き、それに包丁さばきは冴えわたっており、ウナギと同様、とても上品な味わいだった。

 これでもう、この日の目的の大半は果たしたと思うのだが、せっかく、Sさんが念入りな下調べをして旧東海道ぶらり散歩の味わい深いルートを調査してくれていたので、腹ごなしが必要なこともあり、京浜急行を使って川崎宿へと向かうことにした。

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京急川崎駅。上が本線、下が大師線

 Sさんの当初の計画では京急川崎駅で降り、そこから多摩川右岸に向かい、「六郷の渡し跡」から旧東海道歩きを始めるというものだった。しかし地図を確認すると、川崎駅からだと「渡し跡」までは旧東海道を行って来いすることになる。このため、川崎駅では降りず、大師線に乗り換えてひとつ先の港町(みなとちょう)駅に向かい、そこから多摩川右岸に出ることにした。

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川崎と小島新田とを結ぶ大師線

 大師線の利用は今回で3度目だ。前の2回は川崎大師駅から京急川崎駅へ向かうときに利用したので、小島新田行き(下り)の利用は初めてだった。この日は南武支線大師線とローカル線を2度も利用でき、「白蒲重」ほどではないにせよ、満足度が非常に高い体験を得た。しかも、さら旧道歩きという”おまけ”(本当は主目的)付きなのである。

 大師線は川崎大師への参詣客か臨海地区にある工場街への通勤客が大半という印象が強いが、現在では多摩川右岸側に大規模マンションが林立し、大型ショッピングモールも進出が著しいため、家族連れの姿が多くなったようだ。といっても印象評価でしかないが。

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港町駅にあった美空ひばりの看板

 港町駅の北側にはかつて「日本コロムビア」があり、1957年、この町周辺を題材にした歌『港町十三番地』が作られ、美空ひばりが歌って大ヒットした。会社は九番地にあったそうだが、歌詞にはゴロの良い十三番地が用いられた。後述するうように多摩川右岸にある港町は六郷の渡しの発着所があったことから古くから港の町として栄えていたようだ。

 私は1回だけ、川崎港を利用したことがある。50年近く前のことだ。車で南九州まで友人と遊びに行き、帰りは運転するのが面倒だったので宮崎発・川崎行きのカーフェリーを利用した。値段は高かったものの僅か19時間で川崎港の浮島桟橋に着いた。現在はその航路は廃止され、浮島桟橋自体も残っていない。港町から浮島までは7キロほどある。浮島周辺であれば写真にあるレコードのカバーのような絵がかつては見られたかもしれないが、現在の港町の多摩川右岸は下の写真のようにすっかり様変わりし、内陸にある多摩川沿いの町といった趣だ。

 港町には港の風情はもはやないが、駅の接近メロディーには『港町十三番地』が用いられている。そこにだけ「港」は残っている。

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港町駅から多摩川右岸に出る

 港町駅から北に少し進むと多摩川右岸に出る。写真は上流方向を望んだもので、中央に見える橋は第一京浜国道(国道15号線)の「新六郷橋」だ。橋の南詰付近が本日の旧道歩きのスタート地点となる。

川崎宿をのんびりと散策する

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多摩川右岸側(川崎側)にある「六郷の渡し跡」

 旧東海道の整備が始まったのは1601年。当初には「川崎宿」はなく、設置されたのは1623年のことだ。多摩川には「六郷橋」が架かっていたので、川崎は単なる通過点でしかなかったようだ。しかし、暴れ川である多摩川はしばしば氾濫して橋が流され、そのたびに人々は右岸側に留め置かれた。そこで「川崎宿」の整備が始まったのだ。その後も橋の設置、流失が続いたが、1688年には橋の設置は断念され、船による渡しが明治初期(1874年)まで続いた。

  ところで、東海道とは何を指すのだろうか?道としての東海道であれば国道1号線や15号線、または東名高速を意味するのだろうし、東海道本線東海道新幹線など鉄道路を示すことがある。旧東海道と言うと通常は江戸時代に整備された53の宿場を有する日本橋から三条大橋までの道を指す。が、元々は律令体制における「行政区域」として定められた「五畿七道」のうちのひとつである「東海道」を表していた。畿内を中心としてその東側は日本海側が「北陸道」、内陸部が「東山道」、太平洋側が「東海道」に分けられた。

 東海道というと東京から神奈川、静岡、愛知、京都、大阪辺りをイメージするが、七道での東海道には当初、武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)は含まれず、東山道に属していた。国府が府中にあったので、太平洋側というより内陸地という印象が強かったのだろうか?一方、千葉(上総、下総、安房)や茨城(常陸)は東海道に属していた。

 道の基本は国府をつなぐように(これを駅路という)整備されたので、今の東海道や江戸時代の旧東海道とは一致しない点も多々あるのだろう。反面、山野には「けものみち」が自然にできるように、人の移動も都合の良い場所が選ばれることが大半なので、律令国家時代の駅路とその後に整備された道には共通する部分はかなり多いとも考えられる。『更級日記』の作者の菅原孝標女や『とはずがたり』の作者の後深草院二条は千葉や東京、神奈川、静岡を歩いているが、そこに描かれている場所は今でもよく知られているところが多い。

 もっとも、都市は政治的に造られる(江戸府内がその典型)こともあるし、日本列島は隆起や火山活動、地震動、付加などで姿を変えやすいために、より高い利便性を求めてルート変更されることもありうることは容易に想像できる。また、海上輸送の進展・拡大によって内陸ルートより沿岸ルートがより繁栄しやすいという面があることも否めない事実だ。ことほど左様に「東海道」といってもいろんな道が考えられるのだが、それを言ってしまうとどこを歩いて良いのか迷うので、江戸時代に定められ、かつ「旧東海道」として世間一般に認められている道を下ってみることにした。しかし、一般常識を有しているのはSさんだけで、あとの二人は常識とはおよそ縁遠い存在であるゆえ、今までの来し方同様、行く末も道を踏み外すことは必至と思われた。何しろ、出発点が子安のうなぎ店なのだから。

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道を踏み外さないための案内標識

 六郷の渡し跡を離れ、いよいよ旧東海道を下ることにした。Sさんは今回の下見を含め何度も旧道を歩いているので間違いはないのだが、Kさんと私のような非常識人がルートから外れないように、渡し場の近くには写真のような案内標識があった。

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歩道に設置された石標

 矢印が示す通りに横断歩道を渡ると、写真の石標が見えた。このやや狭い通りが旧東海道のようである。

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通りは狭いがよく整備されている

 写真のように道幅は狭いが、車線幅に比して歩道幅はしっかり確保されており、旅人がゆったりと歩けるようになっている。また、電柱が地中化されていることも、歩道の表面が石畳風になっていることも、川崎市旧東海道に対する強い思いが散策者にも伝わってくる。

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歩道に鎮座する変圧器の側面も標識に使われている

 電柱が地中化されると変圧器は地上に置かれることになる。少し邪魔な存在ではあるが、こうしてその側面が案内標識に用いられると、違和感は大きく減じる。

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変圧器の正面のペイント

 変圧器の正面には二代目歌川広重が描いた「大師河原」の絵が忠実に復元されている。ヒロシゲブルーがなかなか見事だ。

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小さいが、由緒はあるらしい川崎稲荷社

 本町交差点の右手に写真の「川崎稲荷社」があった。1716年(享保元年)、紀州藩主の吉宗が八代将軍継承のために江戸下向の折、川崎本陣近くにあるこの稲荷社の境内で休息をとったとされている。この説明書きから、かつての境内はかなりの広さを有していたと考えられる。

 私たちが訪れた日の午前中は何かの行事があって、参拝者や参詣者には餅が配られたのだと、役員らしき人とすれ違った折に、彼はやや申し訳なさそうに告げてくれた。私たちは「大丈夫ですよ」と返答したのだが、もちろん、その時分はうなぎを食していたということは申し述べなかった。ましてや「特白蒲重」の肝吸付きであるということは。私にも、その程度の常識はある。

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東海道川崎宿交差点

 写真の場所は京急川崎駅のすぐ近くで、この近くに田中本陣や佐藤本陣があった。さらに高札場もあった場所なので、この周辺が川崎宿の中心地だったと考えられる。写真の左手、丁度、白い車が顔を出しているその後ろにあるベージュ色の建物が、今回の数少ない立ち寄り場所である「東海道かわさき宿交流館」である。

かわさき宿交流館にて

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東海道かわさき宿交流館

  Sさんが私たち二人に紹介したいと考えたのが写真の「東海道かわさき宿交流館」だ。2013年秋に開館したこの施設には、川崎宿に関連する資料だけでなく、川崎の今昔など市の歴史や文化、川崎ゆかりの人物紹介など、川崎宿川崎市の魅力を多角的に取り扱っている。

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2階展示室内の床。川崎宿の地図が描かれている

 川崎宿についての詳細な写真と解説だけでなく、情報装置や装置模型などをふんだんに使用してその魅力を分かりやすく表現している。床には川崎宿の地図が描かれており、道の絵の周りに主な見どころが紹介されているので位置関係がとても理解しやすくなっている。また、室内には解説員がいるので不明な点について尋ねると懇切丁寧に説明してくれる。

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川崎宿の史跡が写真付きで説明されている

 写真は、川崎宿の史跡を解説しているパネルがある場所。ここで宿場周辺の見どころがチェックできる。これを見ると、この交流館に来るまでには立ち寄っていない史跡が数か所あったようだが、道すがらSさんはそれらについて触れることはなかった。特に重要とは考えていなかったのか、それらはKさんや私が興味を示さないであろうということは先の2回の鎌倉散歩での経験で「お見通し」だったからなのか?たぶん、その両方が理由だったと推察した。何しろ、二人の話題の中心はうなぎや中とろが美味しかったということについてだったからである。

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記念撮影スポット「六郷の渡し」

 同階には「川崎宿模型」や「江戸時代の旅とその道具」の展示もあるが、私が気に入ったのは写真の記念撮影スポットだ。浮世絵に描かれた六郷の渡しの様子を拡大したものが置かれており、船頭と旅人の顔の部分がくり抜かれているというどこの観光地でもよくある装置だ。三人の中で女役にふさわしい容貌のものはいなかったが、船頭役となれば私以上に適する者は皆無なので、当然、私がモデル役となった。

 3階には川崎ゆかりの人物が紹介されていた。印象に残っているのは「坂本九」と「佐藤惣之助」だ。坂本九は歌手としても大活躍しヒット曲も多いが、私の中では「御巣鷹の尾根」に日航123便が墜落し、その犠牲者の一人であったということがもっとも印象に残っている。佐藤惣之助は偉大なる俗物ともいうべき存在で、文学史に残る傑作はものにしていないが、釣りに関する著書を数冊出していることを評価したい。一般には『赤城の子守歌』『人生の並木道』の作詞者として知られているかもしれない。ただ、これは高齢者にだけ知られている。それなら、『大阪(阪神)タイガースの歌』なら若い人にもよく知られているかもしれない。この歌の通称は『六甲おろし』である。川崎宿に関して言えば、佐藤惣之助は「佐藤本陣」直系の人物であって、この宿場では名家なのだ。何しろ彼の生家跡には現在、川崎信用金庫本店が鎮座している。

遊女の供養碑文に感動する

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宗三寺には遊女の供養碑(供養塔)がある

 写真の宗三寺は曹洞宗の寺で、京急川崎駅のすぐ南側にある。京急川崎駅に到着したとき、Sさんから宗三寺には「遊女の供養塔」があるということは聞いていたし、旧東海道を歩けばその寺の前を通るということも聞いていた。

 寺は「かわさき宿交流館」のすぐ近くにあった。Sさんから「宗三寺に寄りますか?」と尋ねられたとき、すぐには反応できなかった。が、「遊女の供養塔がある場所ですよ」と言われてその存在を思い出したのだった。

 本堂は少しだけ立派に見える程度で、他にいくらでもある寺ぐらいにしか思えなかった。しかし、境内の北外れ(つまり京急川崎駅寄り)にある「遊女の供養塔」まで案内され、その石碑を見た刹那、深い感動を覚えた。

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今回の徘徊で最高に感激した供養碑と供養塔

 川崎は宿場町であり、港町であり、漁師町でもあった。近代では工場の町でもあった。当然のように、そうした場所には花街、色町、歓楽街があったし現在もある。そこには望まざる事情で働いていた女性たちが多く存在した。彼女たちの荒まざるを得なかった心を鎮魂するための供養碑と供養塔が境内の片隅にあった。

 碑文の冒頭の三文字には「紅燈巷」とある。「紅燈巷=紅灯の巷(こうとうのちまた)=花街」で、つまり「紅灯の巷」は花街、色町の隠語なのだ。私が読んできた大衆小説には「紅灯の巷」という表現が何度か出てきたのでその意味するところは若い頃から知っていた。しかし、石に刻まれた三文字を見たのはこれが初めてだった。

 私はこの碑文を目にしたとき、すぐに中島みゆきの『紅灯の海』という作品を思い出した。1998年3月に発売されたアルバム『わたしの子供になりなさい』に収録されている曲だ。中島みゆきの作品の中でもっとも気に入っているのはアルバム『EAST ASIA』(1992年)に収録されている『誕生』だが、『紅灯の海』はその次に位置するほどの傑作だ。

 作品名を初めて見たとき、なぜ「赤灯」ではなく「紅灯」なのかと訝った。釣り人や船乗りにとって「赤灯」は港の出口の左側にある赤灯台を指すことは常識だったからだ。しかし曲を聴いたとき、これは「赤灯台」の「赤灯」のことではなく「紅灯の巷」の「紅灯」であることがすぐに了解できた。初見では「海」に引きずられて解釈しようとしたのだが、「海」は海そのものではなく「巷」の隠喩だったのだ。そのことは歌詞の全体を読めばすぐに分かることだった。一部には「紅灯の巷」に迷い込んだ男の切なさを表現したとあるが、これはもちろん誤りで、花街で働かざるを得なかった女性の切なさ、悲しみ、そして大いなる覚悟を表現したものであることは明らかだ。「巷」ではなく「海」という直截(ちょくせつ)的ではない表現に、中島みゆきの凄みが込められている。

 石碑と供養塔に触れた私は、旧東海道を歩いたことの意味と意義を深く理解し、形状しがたい満足感を得た。番外に極上の味わいを得て、本番では感性を揺さぶり、そして磨き、さらなる高みへ飛翔可能な出会いを得た。これらだけでも、今回の散策は100点満点の220点だった。まだスタートしたばかりだけれど。

道は続き、淡々と歩く

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八丁畷駅近くにある芭蕉の句碑

 宗三寺を離れ、旧道を西へ進んだ。砂子(いさご)通りを経て小土呂橋交差点に出た。旧道と直角に交わる新川通りの下にはかつて「新川堀」があった。堀があったころには「小土呂橋」が架かっていたようで、交差点の脇には、その橋に用いられていた2本の親柱が保存されている。横に当時の写真と由緒書があったが、堀はかなりの悪水路だったようだ。多摩川筋からはそう遠くはないので、その堀は旧多摩川が残した水路跡かもしれない。

 さらに西へ淡々と進み、私が南武支線から京浜急行に乗り換えた八丁畷駅近づいた。畷(なわて)とは「あぜ道」のことで、多摩川鶴見川に挟まれたこの周囲は平坦な土地なので田んぼとして利用されていたのだろうか。ここまで来ると、もはや川崎宿の賑わいとは別の世界が開かれている。

 旧道と京浜急行線との間に、写真の「芭蕉の句碑」があった。

「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」

 元禄七年(1694年)の5月、江戸を離れて故郷の伊賀上野に向かう際、川崎宿のはずれにあったこの地の茶屋で弟子たちと別れを告げ、上記の句を残した。その年の10月、伊賀上野の地で、芭蕉は51年の生涯を終えた。次の句を残して。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 この二つの句は、芭蕉の作品でなければ後世には残らなかったと思われるほど感傷をそのまま表現したものだ。どんな天才であっても、晩年は普通の人として過ごすのかもしれない。死において、人の存在は平等なのだろう。

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八丁畷駅横にある「無縁塚」

 八丁畷というのは、川崎宿の端から市場村(鶴見)まで八丁(870m)ほど真っすぐなあぜ道が続いていたことから命名されたようだ。この辺りで働いていた庶民は、なんの名も残さずに生涯を終えた。そんな人々の冥福を祈るために写真の無縁塚が築かれた。遊女の供養塔といい無縁塚といい、川崎に住む人の心は優しい。というより、人は誰でも優しさと我欲を同時に有しており、たまたま優しさが表層に現われた際に、利他的な行為が具現化されるだけなのかもしれない。

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市場村に築かれた一里塚

 かつては街道の一里ごとに「一里塚」が道の左右に置かれていたようだが、現存するものはほとんどなく、写真の市場村の一里塚は日本橋から五里(約20キロ)のところにあり、日本橋から旧東海道を散策する人にとって初めて目にすることができる塚だそうだ。赤い鳥居には「稲荷社」の文字があり、その向こうに小さな祠がある。

 なお、市場はこの地区の旧名で、鶴見には大きな海鮮市場があったことから命名されたようだ。ここは鶴見区、私たちの散策は川崎市を離れ、横浜市に入ったのだ。

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鶴見川橋。下流は護岸整備が進み趣に欠ける

 鶴見川は「氾濫」と「汚染」のイメージが強い。長さは42.5キロありながら、源流域の標高は125mほどなので勾配が緩いためもあって蛇行しやすい。源流域にはいくつもの谷戸があるが、一般には町田市上山田町にある田中谷戸を源流点としている。同じ多摩丘陵谷戸から発した多くの中小河川を集めているため水の増減が激しく氾濫をおこしやすい。また、中下流域は大都市に近い場所にあるために開発されやすく、実際かなり市街化が進んでおり、それが河川の汚染につながっている。名前は優雅だが、それとは裏腹に汚染度は日本でも有数に高い。氾濫を防ぐために護岸化が進んでいるので興趣をそぐが、護岸整備が進んだことで散策路も多く造られており、流域に住む人の親水度は高いようだ。

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鶴見川左岸に咲く菜の花

 整備された護岸の傍らには菜の花畑があった。その先にある河津桜若木も開花を進めていた。今春は草花の開花が全般的に早いようなので、春の花探し散策を早めに始める必要がある。

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万延元年に造られた鶴見関門。慶応三年に廃止

 安政六年(1859)に横浜港を開港したことで幕府は世情の不安を感じ、万延元年(1860)に川崎宿保土ヶ谷宿との間に見張り番所(関門)を造った。文久二年(1862)に生麦事件が起きると幕府はさらに関門を増やし、川崎宿から保土ヶ谷宿の間には20もの関門が造られた。写真の鶴見関門は川崎宿から5番目に数えられるものだ。世情が安定化に向かった慶応三年(1867)に鶴見関門は廃止され、翌年に写真の碑が建てられた。関門がすべて廃止されたのは明治四年(1871)だった。

鶴見神社と総持寺

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川崎・横浜で最古の鶴見神社

 鶴見神社は7世紀の初め頃に創建された川崎・横浜では最古の神社とされている。古くは杉山神社と称され、武蔵国六の宮と考えられてきた。しかし、鶴見川流域には杉山神社は多く、この神社が六の宮かどうかは確定されていない。

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狛犬の台座は溶岩

 この神社でもっとも興味深かったのは狛犬の台座が溶岩であったこと。これは後述する富士講と関係があるのかもしれない。

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境内の東側には神社が整列している

 鶴見神社の本殿は改修工事中だったが、奥にある富士塚に少しだけ興味を抱いたので、本殿横を通って奥に向かった。途中、写真のように「大鳥社」「関神社」「秋葉社」などいくつかの神社が整列していた。私たちの前には信仰心が篤そうな人がいたが、彼はそれらのひとつひとつに参拝していた。信仰心のない私はそれぞれをちらりと見ただけで、ほとんど素通り同然だった。

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奥に鎮座する富士塚

 社殿の奥にはたくさんの溶岩が積まれており、その先にあったのが写真の富士塚である。富士山信仰(富士講)は江戸時代中期以降に盛んになったので、鶴見神社も旧東海道の近くに位置するために写真の富士塚を造営したのだろうか。狛犬の台座を始め、境内のあちこちに溶岩が多くある。富士山から運んだものだろうか?日本は火山列島なので、溶岩は何処でも入手できるが。

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なんでもでかい総持寺の建造物

 旧東海道からは少し離れるし、能登半島から移転してきたのは1911年のことなので、写真の総持寺は旧道とは何の関わりはないが、この機を逃すと立ち寄ることはないと思うので、今回の散策の終着点としてこの場所を選んだ。

 総持寺曹洞宗の寺なので「道元」の名が煌びやかに掲げられていると想像したのだが、その名は特に見当たらず、太祖瑩山の名のみがあちこちで見られた。総持寺は「総本山」を名乗っているが、曹洞宗の総本山といえば永平寺を思い浮かべるのだが、そちらは高祖道元の総本山で、こちらは太祖瑩山の総本山のようだ。

 曹洞宗と言えば他の鎌倉仏教が末法思想を背景に置くのに対し、あくまでも末法の世をであることを否定し、正法の時代に相応しい修行を推奨する。それは座禅に基づく「身心脱落(しんじんだつらく)」であり「修証一等」であると私は教えられ、そう理解してきた。それゆえ、総持寺の佇まいに触れた際には「違和感」以外の何物も抱かなかった。

 それは上の写真の「太祖堂」であり、以下に挙げる各建物のすべてに通じるものだった。何しろ、建造物のすべてが異常とも思えるほど壮大なのである。座禅であれば畳半帖でも広すぎるくらいであり、座禅修行そのものが悟り境地(四諦の了解)なのだから、大きな建物は、いや建物の存在すら不要なのだと思うのだが。

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広い参道を歩きまずは三松関へ

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三松関の先にある大きな三門(山門)

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かるた会がおこなわれていた三松閣

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歴史を少しだけ感じさせる仏殿

 JR鶴見駅のすぐ西側にある鶴見が丘(下末吉台地)にあり、参道口の標高は6m、太祖堂横の標高は36mと、沖積低地からでもその偉容を見て取ることが可能だ。

 宗教はその発展において世俗化は必至なのだろうか。キリスト教浄土真宗も世俗化することで規模が拡大した。もちろん、その過程で権力との結びつきを強めた。

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太祖堂内でお参りする人々

 私には信仰心はまったくなく、こうして堂内に立ち入ってもただ風景のひとつとして眺めるだけだ。神社仏閣にはよく訪れるのだが、最近はこうして参拝する人が増え、しかも若い参拝者を多く見かけるようになった。それだけ、先行きに対する不安が増大しているのだろうか。新型コロナウイルスへの異常なる恐怖心の流布も今の時代を反映している。

 脱呪術化は遠き道のりだ。

〔34〕多摩丘陵・「聖蹟桜ヶ丘」周辺散歩

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桜ヶ丘公園内にある「旧多摩聖蹟記念館」

聖蹟桜ヶ丘の「聖蹟」とは?

 京王線には「聖蹟桜ヶ丘」駅がある。府中駅から京王八王子駅方面に進むと、「分倍河原」「中河原」の次がこの駅になる。前々回の後半に書いたように、小学生のとき「ただ券」が入手できたときには中河原駅までよく行っていたので、次の駅が「聖蹟桜ヶ丘」であることは知っていた。「せいせきさくらがおか」と読むことも知っていた。しかし、「せいせき」が何を意味するかは知らなかった。「多摩聖蹟記念館」の最寄り駅であることは知っていた。実際には近いというほどではないし、何しろ徒歩で記念館に行くには丘に上がらなくてはならない(駅と記念館の比高は79m)ので、それはやや厳しい道のりなのだということは大人になってから知った。しかし、何を「記念」しているのかは知らなかった。というより、「記念館」と名前が付くものには何の興味もなかった。

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聖蹟桜ヶ丘駅前を望む。「せいせき」の文字が見える

 玉南電気鉄道(現京王線)の関戸駅が1937年に聖蹟桜ヶ丘駅に改称されたのは、30年に「多摩聖蹟記念館」が開館したことに由来する。しかし、この駅が現在のように多摩市の中心部として発展する切っ掛けとなったのは京王帝都電鉄(現京王電鉄)が多摩丘陵を切り開いて桜ヶ丘分譲地を建設したことによる。電鉄ではこの土地の価値を釣り上げるため、聖蹟桜ヶ丘駅を特急の停車駅とした。また、88年には新宿にあった電鉄本社を聖蹟桜ヶ丘駅前に移転したことも、この駅が京王線の主要駅になった要因だ。駅周辺には京王グループのビルや店舗が数多くあり、「せいせき」「Keio」の文字をよく見掛ける。

 「聖蹟」とは貴人などが訪れた史跡をあらわし、とくに昭和初期からは天皇行幸地を言うようになったそうだ。が、東京近辺で「聖蹟」の文字が残っている場所は意外に少なく、わずか4か所しか探すことはできなかった。「聖蹟」は1871年の太政官布告によって法律用語になったけれど、1945年には廃止された。天皇が「聖」なる存在から「人間」さらに「国民統合の象徴」になったのがその理由だろう。

 「聖蹟」の地名が残る場所では「聖蹟桜ヶ丘駅」がもっとも有名で、次に「旧多摩聖蹟記念館」、三番目に大田区蒲田3丁目にある「聖蹟蒲田梅屋敷公園」、四番目に品川区北品川2丁目にある「聖蹟公園」だろうか。「梅屋敷公園」へは明治天皇は9回、「聖蹟公園」へは1回行幸している。前者は「観梅」のため、後者は旧東海道品川宿の本陣があった場所のためなのか、即位後の1868年に1回だけ行幸している。

 一方、桜ヶ丘にはかつて「連光寺村御猟場」があった(1881~1910年)ので、明治天皇は1881年、82年、84年に兎狩のため、81年には鮎漁のためにその地を訪れている。これを記念して1930年、田中光顕や地元の人々の協力によって記念館が建設された。

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現在は旧多摩聖蹟記念館として幕末明治期に活躍した人の書画などが展示されている

 記念館がある一帯は都立桜ヶ丘公園として整備されている。後に挙げるように「ゆうひの丘」は展望が良く、都心部や多摩地区の街並みや多摩川の流れ、関東山地の山並みが見られるために人気スポットになっている。

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聖蹟記念館周辺の散策路

 記念館周辺は散策路が整備されている。多摩丘陵の尾根上をのんびりと歩ける道だけでなく、丘陵の麓にある公園に降りるコースが何本か整備されているため、体力増強目的の人も訪れている。また樹木がよく茂っているため、バードウォッチング目的の人も多く、高級カメラに超望遠レンズをセットし、頑丈そうな三脚を担いでベストポイントを探している人もよく見かける。

多摩丘陵について少しだけ考える

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ゆうひの丘から多摩の街並みを望む

 多摩丘陵を語るときは、必ずといっていいほど『万葉集』にある下記の歌が挙げられる。

 「赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ」

 7世紀半ばの朝鮮半島の戦乱によって九州北部にも動揺が伝わり、その防備のために防人(さきもり、ぼうじん)の制度ができた。武蔵国からも3年の任期で招集がかけられ、人々は多摩丘陵の尾根を伝って、あるいは尾根を越えて東海道に出て西進し、難波津からは船で瀬戸内海を進んで北九州に至った。防人に任じられた武蔵国の人々にとって多摩の横山(多摩丘陵)は旅立ちの地でもあり、永遠の別れの地でもあった。

 多摩丘陵の成立が古相模川に関係しているということは前々回(cf.32・普通の府中市)に少しだけ触れているが、今回はさらにもう少しだけ考えてみたい。

 500万年前頃、火山島だった古丹沢はフィリピン海プレートの移動によって本州弧の端にあった関東山地(小仏山地)に衝突した。この衝突によって海底谷が埋められて地上に現われ、これが古相模川となった。同じころ、火山島であった古伊豆の前域には西にあった火山からの火砕物が大量に堆積し、その一部が後に三浦半島の基盤となる三浦層群となった。

 300万年前頃からは現在、多摩丘陵の基盤となっている上総層群が火砕物によって堆積し、100万年前には古伊豆が丹沢に衝突し、伊豆半島として本州に付加される一方、その影響で丹沢山塊は激しく隆起した。

 50万年前頃、古相模川は東北東方向に流れていて、現在の東京湾あたりに注いでいた。また、相模湾の沖には隆起した海底が地上に現われ、三浦島を形成していた。古相模川は東北東側に扇状地を形成したが、これが開析されて多摩丘陵北西部(御殿峠礫層・多摩Ⅰ面)を造った。30万年前にはさらなる隆起によって三浦島は本州につながり、古三浦半島が出来上がった。この結果、多摩丘陵の南東部と三浦半島の丘陵部は細長くつながった。なおこの頃、現在の川崎市西部では古相模川の旧河口域に砂礫が堆積し、これが「おし沼砂礫層」(多摩丘陵・多摩Ⅱ面)となった。

 13万年前は最終間氷期で、温暖化による高海面期が続き、現在の川崎市鶴見区を中心とする下末吉地域は海進堆積物に覆われ、その後の隆起によって現在の下末吉台地が形成された。

 2万年前が最終間氷期の最盛期で、年平均気温が8度低くなったことで海面は現在よりも130mほど低くなった。このため、三浦半島は古東京川(多摩川と荒川が合流してできた)を挟んで房総半島と陸続きになった。一方、6000年前には温暖化が進み海面は現在よりも2~4mほど高くなった(これを縄文海進という)ため、東京湾は今以上に広かった。

 このように、プレート移動などによって地形は変化し続けているので、どの時点で多摩丘陵が形成されたのかを決定することは困難である。現在、多摩丘陵と三浦丘陵を一体のものとして捉える見方が一部に広がっている。双方を合わせて「いるか丘陵」というのだそうだ。下末吉台地を含めた広義の多摩丘陵三浦半島の丘陵地をある高さの線で囲むと、ジャンプしたイルカの形を描くことができるというのがその理由らしい。かなり強引な線引きのような気がするのだが。

 多摩丘陵と三浦丘陵は連続しているのは事実だが、多摩丘陵や三浦丘陵北部の基盤は上総層群であるのに対し、三浦丘陵南部の基盤はより古い三浦層群なので、成り立ちは前述したように異なっている。反面、どちらの層も海底堆積物から成立し、フィリピン海プレートに乗って北上し、プレートの沈み込みによって上部がはぎとられて本州弧の南面に付加されたことは確かなので、付加体という点では同属といえるかもしれない。

都立桜ヶ丘公園付近を歩く

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桜ヶ丘公園上の遊歩道から富士を望む

 冬になると、私は聖蹟記念館がある都立桜ヶ丘公園によく出掛ける。前回の「かたらいの路」よりも自宅から近く、公園内には無料駐車場があり、聖蹟記念館へは坂を上らずとも近づくことができるからだ。もっとも、記念館にはめったに近寄らず、次に挙げる「ゆうひの丘」からの展望を楽しむことが多く、丘に向かう途中では上の写真のような景色が望めるからだ。

 撮影場所は、公園のもっとも東にある「あそび広場」の上方にある遊歩道上で、写真のように丹沢山塊の最高峰である蛭が岳(標高1673m)やその左の丹沢山(1567m)やその右の大室山(1587m)、そしてその背後にそびえる富士山がよく見える。この写真にはないが、視線を少し右に向けると私の大好きな大菩薩連嶺も見て取れる。

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ゆうひの丘に続く遊歩道

 上の撮影場所から「ゆうひの丘」方向に進むと、今度は車道の反対側に写真のような木製の遊歩道が整備されている。ここから眺める丘陵の斜面もなかなかのものだが、今回はここではのんびりせずに先を急いだ。

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ゆうひの丘にある休息所

 遊歩道の終点から右手を見ると、ゆうひの丘にある休息所が見えてくる。その向こうに、多摩地区の街並みが広がっているのが分かる。

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ゆうひの丘のヘリ。展望は相当に良い

 ゆうひの丘は夜景ファンにはお馴染みの場所で、「夜景ランキング」で全国2位になったことがある。街の灯が点り、関戸橋を行き交う車のライトが交錯し、京王線が橋を渡る様子も幻想的だろう。とはいえ、私はその夜景に触れたことは一度もない。

 桜ヶ丘公園の駐車場は午後4時半に施錠される。そのため、夜間には路上駐車が絶えないようで、地元の人々は大変迷惑を被っているようだ。「夜景ランキング」で上位に入って以来、ネットでこの場所を検索して訪れるカップルが急激に増加したらしい。現在はかなり厳しい取り締まりをおこなっているので迷惑駐車は減ったらしいが、近所には個人住宅が多いため、騒音に悩まされている住民はまだまだたくさんいるようだ。

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丘の斜面にも降りられる

 丘の上(標高125m)からだと左右の林に視界が遮られるので、少し斜面を下ってみると眺めは一段と良くなる。あいにく、右手前方には「桜ヶ丘ゴルフコース」があってその丘陵地帯に都心の中心方向の視界は遮られるものの、都内のビル群の先には筑波山を見てとることも可能だ。

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聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みと関東山地

 ゆうひの丘からやや西側を望むと、聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みがよく見える。左にあるタワーマンションは天辺付近の造形が特徴的なので、遠くからでも「あれが桜ヶ丘駅近くにあるマンションだ」ということが分かり、格好のランドマークになっている。

 写真中央にある駅ビルの上方に写っている正三角形の頂を有する山が蕎麦粒山(1473m)で、この地点からは遠くに見えてその存在ははっきりしないが、羽村市飯能市日高市毛呂山町越生町などから望むと、その特徴的な山頂がはっきりと分かる。それは丁度、多摩地区からは大岳山がはっきりと見て取れるごとくにだ。

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正面には狭山丘陵の連なりが見える

 丘の北側を望むと、狭山丘陵の連なりがよく分かる。円形の屋根を有する建物は「メットライフドーム」(西武ドーム)だ。中望遠レンズを用いているのでやや大きく見えるが、その存在は肉眼でもはっきり分かる。空気が澄んでいれば、前回に挙げたように狭山丘陵の後方には、雪を抱く榛名山赤城山男体山、日光連山、足尾山地の姿が視認できるのだが。今冬は、例年に比べてその山容に触れられる機会はずいぶんと少ない。「赤城颪(おろし)」の空っ風はどこに消えてしまったのだろうか。木枯し紋次郎はいずこへ。

多摩丘陵の尾根道を進む

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聖蹟記念館交差点

 ゆうひの丘を離れて写真の交差点(標高136m)まで戻った。正面に見える道がゆうひの丘に至るもの、左に入ると駐車場、そして聖蹟記念館(132m)、右に降りると川崎街道・連光寺坂上交差点(124m)、手前側に進むと京王相模原線若葉台駅に至る。今回は尾根道を歩いて見たかったので、若葉台駅方向に進んだ。

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連光寺交差点

 尾根を走る都道137号線を南に進むと、写真の連光寺交差点(132m)に出る。写真は南側から北方向を見たものなので、右が東側になる。この丁字路を左(西側)に進むと連光寺聖ヶ丘にある住宅街に至る。

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連光寺交差点の東に広がるゴルフコース

 連光寺交差点の東側には「米軍多摩サービス補助施設」(Tama Hills Recreation 
Center)が広がっている。戦前には日本陸軍の弾薬庫があったところで、戦後に米軍が接収し、現在ではゴルフコースを中心としていろいろなレジャー施設がある。日本人の利用も認められているが、入場の際にはパスポートの提示を求められる。わが愛する多摩丘陵上にある広大な敷地(東京ドーム41個分)の主権はアメリカにある。

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多摩大学多摩キャンパスの東の高台にある八坂神社

 私のパスポートはとっくに有効期限切れになっているので「タマヒルズ」には入場せず、都道をさらに南に進んだ。道はゆっくり上り坂になり、右手には多摩大学多摩キャンパスの建物が見えてくる。といっても、大学の敷地は都道の西側にあって、そのベースの標高は139mで、一方、写真の八坂神社前は154mなので、大学の施設は上方だけ顔をのぞかせている。

 写真の神社はそれほど大きくはないが、右手に見える巨木(ご神木・スダシイ)は多摩市指定の天然記念物で、幹のウロの中には白蛇が住んでいるという伝説があるそうだ。階段を上がると小さな社がある。その左手(北側)に「天王森公園」の看板があり、「多摩市最高地点・標高161.7m」と表記されている。頂上は「公園」というほど広くはないが、「天王森」の名は、八坂神社の祭神が「牛頭天王素戔嗚尊(すさのをのみこと)」であるからだろう。

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橋上から尾根幹道路(稲城側)を望む

 八坂神社を出て少し南に進むと「南多摩尾根幹線道路」を跨ぐ橋に出る。その幹線道路は「尾根幹」と呼ばれていて、その道の北にある「多摩ニュータウン通り」と並んで、多摩地区と相模原とを結ぶ重要な道路になっている。かつてはそれらのさらに北側を通る野猿街道ぐらいしかなかったので、府中市から橋本・津久井方面に出掛けるのはとても不便だった。

 尾根幹道路は多摩丘陵の尾根上を走るというより、多摩丘陵の「多摩Ⅰ面」と「多摩Ⅱ面」を横切るように通っているためにアップダウンが激しく、なかなかスリリングな道になっている。もっとも、写真の辺りの区間については私はほとんど利用せず、もっぱらこの日のように橋上から眺めることがほとんどなのだが。

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都道から「みはらし緑地」方向を望む

 尾根幹道路を跨いでさらに南に進むと、右手側(道路の西側)に2つの大きなタンクが立っているのが見える。タンクがある敷地の入り口には「東京都水道局連光寺給水所」とあった。住所は多摩市聖ヶ丘4丁目である。タンクの向かい側(道路の東側)には高い電波塔がそびえていた。「東京都防災行政無線多摩稲城中継塔」の名があった。住所は稲城市若葉台4丁目である。つまり、私が歩いてきた都道は市境を通っていることになる。

 中継塔の南側には「みはらし緑地」があり、公園として整備されている。一番高い場所の標高は158mあり、稲城市の最高地点だそうだ。足下の若葉台住宅地の景観も興味深いが、ここからは都心や川崎、横浜方向の景色が一望できることもある。ただし、この日のゆうひの丘では男体山筑波山が見えなかったので、ここでの眺望もあまり期待してはいなかった。

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都心方向もなんとか確認することはできた

 写真のように、やはり空気は透明度がやや低く、都庁やスカイツリーはなんとか確認できたものの、前にここを訪れたときに比べて眺望はだいぶ劣っていたのが残念だった。この辺りには駐車場がないために今回のようにこの場所を訪ねる場合は都道をてくてくと歩く必要がある。次回は、ゆうひの丘の見通し具合でここまで来るかどうかを判断しようと思った。

 高台から降りて都道に戻り、また南へと進むことにした。「みはらし緑地」の南側にも電波塔がある。それがある敷地の入り口には「東京ガス多摩ガバナステーション」との表記があった。東京ガスと電波塔とは結び付きそうにないが、この塔は地デジ放送の中継基地としても使われているらしい。「地デジ」はあくまで間借りなので、東京ガスは何の目的でこの塔を建てたのかは不明のままだ。

 ひとつ上の写真は、都道を南に進んだところにある陸橋を越えた場所から「みはらし緑地」方向を眺めたものだ。左の白いタンクが水道局の、中央の電波塔が東京ガスの、右の電波塔が防災無線用のものだ。そして、その右側にある森が「みはらし緑地」の高台である。撮影地点の標高は140m、給水タンクと防災無線の電波塔がある位置は150m、東京ガスの塔の場所は146mだ。

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道は標高を下げつつ若葉台駅方向に進む

 都道をもう少し南に進むと道は左にカーブしながら尾根から下り始める。若葉台駅に行くには、左手に稲城台病院を見つつ「京王電鉄若葉台工場」の手前の交差点を右折する。その右折点(稲城台病院入口交差点)の標高は120m。そこは尾根からは離れたところなので今回はそれ以上先へは進まず、来た道を戻ることにした。

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「多摩よこやまの道」入口の標識

 みはらし緑地を撮影した場所(標高140m)の西側には写真の標識があった。多摩市が整備した「多摩よこやまの道」の入り口にあたる場所で、周囲は「丘の上広場公園」になっている。ここを始点として遊歩道は多摩丘陵の尾根伝いに約10キロ西へ進み、多摩市唐木田付近に至る。基本的には尾根幹道路の南側の尾根を進むことになる。以前から歩いてみたいとずっと考えてきてはいるのだが、まだ実現には至っていない。
葉っぱがなく見通しの良い今の時期が最適だと思ってはいるのだが。

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橋上から尾根幹道路(多摩市・町田市側)を望む

 帰りにも尾根幹道路を橋上から眺めた。今度は多摩市、町田市側である。遠くに見える山の連なりは丹沢山塊で、左の大山(1252m)から中央の丹沢山、蛭が岳、右の大室山まで山塊の全貌を見ることができる。蛭が岳と大室山の間には、ひょっこりと富士山も顔をのぞかせている。光線の具合でかなり見づらいが、空気が澄んだ午前中であれば山並みはずっとはっきり見て取れる。

聖蹟桜ヶ丘駅から桜ヶ丘を歩く

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いろは坂桜公園から聖蹟桜ヶ丘駅方向を望む

 スタジオジブリの作品はかなり見ているが、いずれもテレビ放映されたものだけで映画館で見たことは一度もない。テレビで見ているだけなので判断は一面的かもしれないが、とくに「傑作」と思えるものはひとつもなく、かといって「駄作」もなく、すべて「佳作」ぐらいだと考えている。仮に再放送があるにせよ2度目はまずない。ただし、以下の2作品以外は。

 2011年の作品である『コクリコ坂から』は今一度見る可能性は高い。ストーリーは平凡であるにせよ、主題歌が大好きだからだ。この作品では『さよならの夏』を手嶌葵が歌っているが、スローなテンポの編曲は映画の内容には合っていると思う。しかし、本家の森山良子バージョンは日本歌謡の最高傑作といっても過言ではなく、詞、曲、歌い手、編曲のすべてがほぼ完璧だ。これは1976年のテレビドラマの主題歌に用いられたが、当時はほとんど注目されなかった。私自身、この歌に接したのは80年頃だ。

 宮崎駿は早くから『コクリコ坂から』という漫画(1980年)に注目し、いずれはアニメ化したいと考えていた。その際、主題歌は『さよならの夏』を用いると心に決めていたらしい。アニメ作品の監督は凡庸な息子の宮崎吾朗がおこない、宮崎駿は脚本を書いた(丹羽圭子と共同)のだが、駿は吾朗に『さよならの夏』を主題歌にするよう提言した。『さよならの夏』のコクリコ坂バージョンは森山良子版とは詞が微妙に異なっている。先に述べたように曲調もかなり異なる。コクリコ(ヒナゲシ、ポピー、虞美人草を意味する)という語調からは手嶌葵バージョンでも十分鑑賞にたえるし傑作とも言いうる。それでも、森山バージョンを古くから知っている(ジブリ映画の前にこの曲を知っていた友人・知人は皆無だった)私としては満点は上げられない。それでも、この曲に触れられるというだけで、『コクリコ坂から』はまた見てみたいと思う。

 もうひとつのジブリ作品が『耳をすませば』(1995年)だ。この作品を知っている人は、「聖蹟桜ヶ丘」との関連はすぐに気付くに相違ない。というより、ジブリの名を本項で挙げた刹那にこのことはぴんと来るだろうし、それが直感されない人はジブリファンとは到底呼べない。

 このアニメ映画はその多くが聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺を舞台に描かれている。映画での駅名は「杉の宮」だが、改札口や駅前の風景(アニメでもKeioの名が出てくる。cf.本項2枚目の写真)から明らかに「聖蹟桜ヶ丘駅」と分かる。さらに主人公(雫)が渡る橋、上る坂(いろは坂)や階段、地球屋があるロータリー、雫が歩く大栗川沿いの道など実在する場面がとても多い。このため、聖蹟桜ヶ丘は『耳をすませば』ファンの聖地になっており、今でも訪れる人は多い。「サンリオピューロランド」以外に「売り物」がない多摩市(聖蹟記念館や多摩ニュータウンではもはやあまり人は集まらない)でもこの映画の評判と聖地化を「売り」にしている。京王線でもこの映画の主題歌である『カントリー・ロード』を聖蹟桜ヶ丘駅の接近メロディーに用いている。

 2020年、『耳をすませば』の実写化が発表され、今秋にも公開されることが決まった。雫の10年後の姿が描かれるそうだが、私にはストーリーについてはとくに興味はない。どうせ凡庸なものに違いないだろうから。重要なのは、ロケ地として聖蹟桜ヶ丘が選ばれるかどうかだ。ただその一点だけに関心がある。

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聖蹟桜ヶ丘駅多摩丘陵との間を流れる大栗川

 聖蹟記念館周辺を歩いた翌日、今度は聖蹟桜ヶ丘駅から丘陵地付近を歩いた。前日はまずまずの天気だったが、当日は写真からも分かるとおりの曇り空。それでも雨に降られる心配はなさそうなので出掛けてみた。

 府中駅から京王線に乗り桜ヶ丘駅で降り、映画の場面そのままに駅前の風景を撮影し、主人公の雫が歩いたとおぼしき道(いろは坂通り)をしばしトレースした。雫は大栗川に架かる橋を渡っていろは坂に向かう。写真は、その橋(霞ヶ関橋)から大栗川上流とその南にある丘陵地を写したものだ。

 前々回にも触れたように、大栗川は古相模川の流路跡であり、八王子の御殿峠付近を水源として多摩市を東北東方向に流れ下り、多摩市連光寺1丁目付近で後述する乞田(こった)川と合流し、すぐに多摩川に至る。

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坂上からいろは坂を望む

 雫が上るいろは坂の右手には父親が勤める図書館があるが、現実の世界には存在せず、その空間には「いろは坂桜公園」がある。その公園前から道はぐんぐんと多摩丘陵を上っていく。Uの形をした急カーブが4か所ある。この風景が日光のいろは坂に似ているところからこの名が付けられた。大栗川に架かる霞ヶ関橋の南詰の標高は55m、撮影場所は95m、この道のピークは112mある。ちなみに駅前は53mなので、丘陵上にある住宅に行くためには59mの高低差を克服する必要がある。散策する人や「聖地」を訪ね歩く人以外は写真にある京王バスや自家用車を利用しているようで、私がここを歩いて上ったときには数人しか出会わなかった。

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いろは坂を直登する階段

 写真はいろは坂を直登する階段で、ここも聖地のひとつだ。アニメではここを雫が駆け下りる場面が印象的に使用されている。

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階段を上ったところにある金毘羅神社

 階段を上った左手にあるのが写真の金毘羅神社で、やはり映画では象徴的な場面に使われている。このためなのかどうかは不明だが、境内にはおみくじの自動販売機が設置されていた。人はどうして運不運を知りたいと思うのだろうか。写真の場所の標高は107mだ。

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映画ではもっとも重要な場面に使われているロータリー

 いろは坂を完全に登り切った場所(標高112m)には桜ヶ丘浄水場があり、そのまま道を進むと写真のロータリー(106m)に出る。映画にもロータリーが出てきて、そこに最も重要な舞台である「地球屋」があるのだが、実際には存在しない。地球屋のモデルになったのは「桜ヶ丘邪宗門」という名の喫茶店だが、10年ほど前に閉店し現在では「桜ヶ丘いきいき元気センター」に様変わりしている。

 その代わり、ロータリーに面した場所(写真右手の建物)にカフェやレストランがあり、聖地巡礼者はここで思いにふけり、またはしばしの休息をとっているようだ。ご苦労様である。

巡礼の旅から丘陵の徘徊者に戻る

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ロータリーと鎌倉街道の間にある原峰公園

 いろは坂通りはロータリーを過ぎて多摩ニュータウン方向に降りていくが、私はそちらへは進まず、桜ヶ丘住宅地から原峰公園に向かった。この公園は住宅地側はよく整備されていて、遊具施設や池、それに桜ヶ丘コミュニティーセンターなどが園内にある。しかし、雑木林を抜けて旧鎌倉街道方向に進むと未整備というか忘れられた存在というか、写真のような壊れたままの休憩所があったりする。今の時期は木々には葉がなく見通しはやや良いので森を抜けるにもさほど抵抗がないが、暖かくなって木々が葉をまとい虫たちも活動を始めると、雑木林を抜けるには大きな不安感・抵抗感を抱くことになると思えた。敷地は結構広く、鎌倉街道側に抜けるには便利なルートだと思うが、住宅地から私がたどった道を通る人は皆無だった。散策に訪れる人すら見掛けなかった。

 公園の整備された場所の標高は94m、写真の廃屋のある場所は79m、旧鎌倉街道に出た場所は66mだった。多摩丘陵の東斜面を利用した、やや不思議な存在感のある公園だ。

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乞田川の上流方向を望む。多摩ニュータウンの建物が見える

 原峰公園の旧鎌倉街道口から離れて、新鎌倉街道に出た。乞田川を見るためだ。写真の乞田川は多摩市の鶴牧あたりを水源とする小河川で、前述のように連光寺1丁目辺りで大栗川に合流する。水源とされる鶴牧付近はニュータウンの一角として開発が進んでおり、近くには小田急多摩線唐木田駅がある。鶴牧の南側には多摩丘陵が広がり、一帯はゴルフ場になっているため、丘の形は原型を留めていない。唐木田駅の南側には小田急唐木田車庫があり、その山側が多摩市と町田市との境になっている。その境界付近が丘陵の分水嶺と思われる。標高は高いところで153mある。この分水嶺の下辺りが乞田川の水源地と思われる。

 乞田川は大栗川と同様に古相模川の流路跡とされる。今回は取り上げていないが、町田市小野路付近(標高138m)を水源としてよみうりランドの北側を通り、川崎市多摩区布田付近で多摩川に流れ込む三沢川も、大栗川や乞田川と同様に古相模川の流路跡であると考えられている。

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武相霊場7番や多摩八十八か所霊場16番など由緒ある関戸観音

 乞田川を離れ、再び旧鎌倉街道に戻った。「霞ヶ関保全緑地」の存在が気になったからである。先述した金毘羅神社の東にあって開発の手を逃れているのがその保全緑地で、いちばん高い場所の標高は112m。桜ヶ丘住宅地の中では浄水場のある場所と並んで一番高い場所だ。ただし、この保全地区は北側が急峻な崖となっているため開発が不能なので、自然のままの緑地として保存されたようだ。旧鎌倉街道からその高台を見上げると、頂上付近(105m)には住宅がいくつか並んでいるが、その上方に緑地が残っているのが分かる。それらを間近に見たいと考えて旧道に戻り、高台を目指すことにした。

 写真の関戸観音は、旧道から住宅地に至る小道のすぐ北側にあった。寺は道の高台にあるが、入口付近の標高は62mで、旧道(54m)と高さにはさほどの違いはない。

 この寺の正式名は慈眼山唐仏院観音寺で、1192年、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのが起源とされる。1333年の関戸合戦はこの寺付近でおこなわれた。北条泰家率いる鎌倉幕府勢は分倍河原の戦い新田義貞率いる反幕府側に敗れ、多摩川を渡ったところにある「霞ノ関」付近で再び相まみえた。が、北条軍は再度敗れ、結局、その戦いの6日後に鎌倉幕府は滅亡した。

 霞ノ関は関戸とも呼ばれ、多摩川の渡し場の要衝でもあった。関戸合戦では多くの死者を出したため、この寺では毎年の5月にその供養をおこなっている。このため「関戸観音」と呼ばれるようになったそうだ。

 写真のキャプションにあるように、多摩地区にある寺としてはかなり重要な存在のようで、上に挙げた以外にも、多摩川音霊場12番、多摩十三仏霊場5番、京王観音霊場23番の各札所になっている。

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関戸観音前から原峰公園を望む

 関戸観音がある高台の向かいにはかなり広い空き地があり、その先に原峰公園の森が見えた。その風景を撮影したのだが、実際には公園よりも手前の夏ミカンの存在が気になった。ミカンは柿に次ぐ第二番目の好物(果物の部)だからだ。

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昨日歩いた尾根筋が見えた

 桜ヶ丘2丁目住宅地に入った。東方向を眺めると昨日歩いた尾根筋が見えた。この日は曇っているために視界は良くないが、それでも先に挙げた建物群が視認できた。左から、多摩大学の校舎、連光寺給水所、東京防災無線の電波塔、みはらし緑地、東京ガスの電波塔が整然と並んでいる。

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霞ヶ関は多摩市が本家

 多摩市にも霞ヶ関があることは以前から知っていた。多摩市の中心地である「関戸」や府中市と多摩市とに架かる橋名は「関戸橋」なので、「霞ヶ関」は関戸の雅名ぐらいに考えていた。しかし今回、写真の「霞ヶ関公園」を訪れたことで、その名の由来を少し調べてみたくなった。

 広辞苑で「かすみがせき」を調べると、「東京都千代田区の一地区。桜田門から虎ノ門にかけての一帯。諸官庁がある。」と出ており、これ以下にも少し叙述があるが、いずれも千代田区のものにだけ触れており、多摩市の「霞ヶ関」はまったくでてこない。鉄道の駅には東京の地下鉄に「霞ケ関」があり、東武東上線には「霞ヶ関」がある。千代田区の地名は現在「霞が関」だが、駅名は旧来の「霞ケ関」を使用している。「霞ケ関」と「霞ヶ関」との違いは「ケ」と「ヶ」だ。

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京王バスの停留所には「霞ヶ関橋」がある

 京王線の駅名は「聖蹟桜ヶ丘」(かつては関戸)で「霞ヶ関」ではないが、いろは坂通りには写真のようなバス停がある。先述した、『耳をすませば』の主人公である雫がいろは坂に向かう途中で大栗川を渡った橋が「霞ヶ関橋」だ。

 千代田区の「霞が関」か川越市の「霞ヶ関」か多摩市の「霞ヶ関」のどれが本家であるかには論争があるようだ。このうち、『江戸名所図会』にある千代田区霞ケ関の記述には誤りがあるようなので、まず本家争いからは外れる。その誤りとは「霞が関は西に高き岳あり。東向きの所なればふじはみえず」とあるからだ。東京の霞が関の西には高い山はないからだ。高いビルなら無数にあるが。高い山が丹沢を指すにしても富士の姿は見えなくはない。一方、埼玉の「霞ヶ関」は『新編武蔵風土記稿』に「徒らに 名をのみとめて あつまちの 霞の関も 春そくれゆく」の歌が挙げられており、かつての信濃往還にある信濃坂の近くには「霞ノ関」があったらしいので、こちらが本命かもしれない。

 それに対し、群書類従に収録されている『廻国雑記』(1487年)には著者が駿河国から武蔵国を訪ね歩いた際、「霞ノ関、恋ヶ窪、宗岡、堀兼の井、入間川」の順に巡ったとあるので、この「霞ノ関」は多摩市の霞ヶ関であることは明らかだ。実際、霞ノ関の場所には1213年、鎌倉幕府の要請で関所が設置され、関戸地区には「霞ノ関南木戸柵」が復元されている。

 こんなわけで、写真の「霞ヶ丘公園」(標高71m)の存在が気になったので、霞ヶ関保全緑地の天辺方向には向かわず、公園のほうに立ち寄ってしまったという次第なのだ。

サクラ並木と大桜に出会う

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サクラ並木を下って霞ヶ関橋に向かう

 公園からは桜ヶ丘東通りを北に進んで大栗川に架かる霞ヶ関橋に向かった。その途中に、写真の桜並木があった。通りにあるヨメイヨシノはいずれも老木で、桜ヶ丘住宅地が開発された際に植えられたのだろうか。だとすれば樹齢は50年を超えているはずだ。ソメイヨシノは老いると背は高くならず、枝を横に広げるようになる。写真右手にあるサクラは電柱や電線、そして住宅に阻まれて十分に枝を伸ばすことは容易ではない。この点、写真左手のサクラは遮るものがほとんどないので、伸び伸びと枝を広げている。

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公園の斜面にあったサクラの大木

 前の写真の斜面側(左側)は桜ヶ丘1丁目緑地として整備されている。その斜面の中ほどに1本の大木があった。この古老のサクラは地面すれすれまで枝を広げ、鶴翼の陣の構えだ。花の頃は抜群の景観だろう。私は桜ヶ丘に関してもそれなりに歩き回ったつもりだったが、この老木の存在は知らなかった。偶然、この木に出会えたのは霞ヶ関公園が存在したお陰である。ときとして、寄り道は大きな発見に結び付く場合がある。
 開花までにはまだ2か月近くある。しかし、枝々の先にある花芽は少しだけ膨らみを見せている。今冬は寒さが続かないので、花芽の「休眠打破」は少し遅れるかもしれない。

 「耳をすませば」花が呼吸する音は、確かに聞こえる。いや実際に。これで、いいのだ。