徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔38〕季節は初夏へ~アカシアの雨はまだ降らない

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ニセアカシアの花

アカシアの雨ではまだ死ねない

 「願はくは アカシアの雨にて 夏死なん 皐月の末の 望月のころ」

 もちろん、これは贋作であり、元歌は西行の誰もが知る作品である。

 西行芭蕉福永武彦中島みゆき、カント。この5人が私の心の師である。花を巡る季節になると、私は『山家集』とカメラをバックに入れて彷徨する。車で移動中は中島みゆきの曲が流れ『誕生』や『ファイト!』に涙することもある。今はコロナ禍で残念ながら遠出は自粛中なのだが、緊急事態宣言が解除された暁には山野河海に旅立つ予定だ。当然、『おくのほそ道』と『実践理性批判』は必須の携行品となり、眠られぬ夜のために『草の花』や『忘却の河』も忘れない。

 ところで、ニセアカシア(贋アカシア、ハリエンジュ)である。一定年齢以上の人は「アカシア」と聞くとすぐに西田佐知子を思い、『アカシアの雨がやむとき』の曲を心の中で、もしくは実際に歌い始める。大の大人が「犬の唾液」のように反応するのは、西田の気だるそうな歌い方と、「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」と始まるその驚愕な歌詞にあった。発表されたのは1960年、安保闘争の年だった。闘争の高揚感に続く敗北感と西田の歌い方、戦慄の歌詞に己が人生の悲哀・悲嘆・憂愁を重ね合わせたのだろうか。ガキンチョでかつサルだった私は西田の歌を聴いても、その時にはまだ何も感じなかった(唯一、この歌手は下手くそだと思った)が、この曲がスタンダードナンバーとなって遍満するに至り、それと同調するように私がサルからヒトへと化生する過程でこの歌の真諦を解するまでになり、己の成長を自覚した。

 美空ひばり青江三奈ちあきなおみ小林旭石川さゆり美輪明宏天童よしみ藤圭子研ナオコ山崎ハコ氷川きよしなど錚々たるメンバーがこの歌をカバーしているが、歌は下手だったけれど西田の声が有した独特の凄みは、誰も遥かに及んではいない(藤圭子がやや近いかも)。

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ニセアカシアは大木に育つ

 『アカシアの雨がやむとき』の「アカシア」は「ニセアカシア」である。本当の「アカシア」は広義には「ミモザアカシア」を指し、「フサアカシア」(狭義のミモザはこちらのみ)や「ギンヨウアカシア」(園芸種としてはこちらが人気)が代表的だ。それらは3、4月ごろ、枝先に小さな黄色い房玉のような花を多数つける。フサアカシアはかなりの大木になるため、現在ではやや小ぶりで、銀色の葉っぱを有し花色がより派手なギンヨウアカシアに人気が集まる。街で見かける大半のアカシアはこちらのほうである。

 ニセアカシア(標準和名はハリエンジュ)はマメ科ハリエンジュ属の落葉性高木(アカシアはマメ科アカシア属)で、写真のような花を5、6月に咲かせる。学名は"Robinia pseudoacacia"である。種小名にある"pseudo"は「~に似た」という意味なので、”pseudoacacia"で「アカシアに似た」ということになり、「ニセアカシア」は種小名を直訳したものになる。北アメリカ原産で日本には明治初期(1873年説が有力)に入ってきた。近縁種の「エンジュ(槐)」に似ているが小枝に棘があるために「針槐(ハリエンジュ)」と名付けられた。が、「アカシア」の名のほうが通りが良いためにこの名で広まった。

 しかし、明治末期にオーストラリアから移入された「ミモザアカシア」が本当の「アカシア」であると分類学上で定義されることになったため、ハリエンジュのほうは「アカシアに似た」ものに分類されてしまった。それゆえ、「ニセアカシア(贋アカシア)」と呼ばざるを得なくなったのだ。

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ランチパック・はちみつ&マーガリンの「アカシア」の絵

 「蜂蜜」といえば断然、アカシアから採集されるものが有名で、市場占有率も高い。しかし、この「アカシアはちみつ」はアカシアからではなくニセアカシアから採集される。ミツバチは、ミモザアカシアではなくニセアカシアの花の甘い香りを好むのである。しかし、「ニセアカシア蜂蜜」とは誰も呼ばない。

 写真は山崎製パンのヒット商品である「ランチパックシリーズ」の『はちみつ&マーガリン」のパッケージを撮影したものだ。絵にはきちんと「ニセアカシア」の蝶形の花が描かれているが、つい最近までは「アカシア」の黄色い房玉の花がイラストにあった。「ミモザアカシアからは蜂蜜は採集できない」ということをある養蜂家がヤマザキに指摘したところ、ヤマザキ側は潔く誤りを認め「ニセアカシアの花」の絵柄に訂正したのである。私がランチパックシリーズを購入したのは今回が初めてだ。もちろん、ヤマザキの行為に感服したわけではなく、上の写真を撮るためというのがその理由だ。ただ、ヤマザキの「ロイヤルブレッド」シリーズは安価な食パンの中では一番のお気に入りなので、敬意を表して同時に購入した。

 秋田県鹿角郡小坂町はかつて小坂鉱山の煙害に苦しんでいた。銀や銅の精錬のために工場は多くの煙を排出した。それによって山や町から緑は失われてしまった。緑化対策と樹木を失ったことによる山の崩壊を防ぐ目的などのため数多くのアカシアを植林した。アカシアは成長し、また繁殖力が旺盛なため数を増し、小坂町は緑を取り戻した。毎年、6月上旬にアカシアは無数の花を咲かせて人々の心を和ませた。そればかりではなく、アカシアから採集される蜂蜜は小坂町の特産品となり、品質も「日本一」と評されるまでになった。今年は残念ながらコロナ禍のために『第37回アカシアまつり」は中止が決定された。それでもニセアカシアの数が約300万本あるといわれるこの町はきっと、アカシアの花の甘い芳香に包まれることだろう。蜂蜜の町、小坂町のアカシアは「ニセアカシア」ではあるが、人々はこの恵みを与えてくれる木を「アカシア」と呼ぶ。それで、いいのだ。

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花弁はまとまったまま雨のように降る

 ニセアカシアの蝶形の花は、花弁があまり分離せずに多くはまとまったままで散る。そのため花びらは風に舞わずに、散るというよりボタボタと落ちるのである。この情景を「アカシアの雨」と言う。とはいえ、花弁自体は小さく軽いので、「アカシアの雨に打たれて」も「死んでしま」うことはない。おそらく、豆腐の角に頭をぶつけて死ぬよりも困難なことだろう。

 作詞した水木かおる(男性です)は東京都出身なので、ニセアカシアの花が5月初旬には咲き、中下旬には散り(落ち)始めるのを見ているはずだ。彼は『アカシアの雨がやむとき』以外にも『エリカの花散るとき』(西田)、『くちなしの花』(渡哲也)、『夾竹桃』(牧村三枝子)、『二輪草』『君影草すずらん~』(川中美幸)といった花にまつわる詞を多く作っているので、花についての興味関心は人一倍強かっただろう。当然、『アカシアの雨がやむとき』のアカシアは「ニセアカシア」であり、ニセアカシアの雨が花の散りざまであることも知っていたはずだ。ただし、5月の下旬ともなると東京では「梅雨の走り」があるため、この「アカシアの雨」は花散らしの雨も含意しているかもしれない。

 ところで西行の歌である。

 「願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」(『山家集』上 春 77)

 これは西行の「白鳥の歌」というわけではけっしてない。『山家集』は彼が50歳ころから編集を始めており、この歌は上巻の77番(底本は『陽明文庫本』全1552首)に入っている。編集作業は何度も繰り返しておこなわれているので、77番にあるからといって50歳になる前に作られたとは限らないが、晩年の作品ではないことは確かなようだ。有能な「北面の武士」であった西行(本名は佐藤義清)は23歳のときに妻子を捨てて出家し、生涯をかけて「和歌即真言」を目指した。釈迦は「きさらぎの望月のころ」(涅槃会では2月15日)に入滅しており、西行は自らも釈迦と同じころに満開の桜の下で死にたいとの願いを歌に託した。実際、彼は建久元年(1190年)の2月16日(新暦では3月31日)の満月の日に死去した(享年73)。この偶然(西行にとっては必然)は京の人々を驚愕させ、藤原俊成藤原定家慈円など当代最高峰の歌人はそれぞれ、この作品に対する返歌を創作している。

 「願い置きし 花の下にて 終りけり 蓮(はちす)の上も たがはざるらむ」(藤原俊成

 さすれば、仏門の対極にいるこの私は、いつ死ねば良いのだろうか。磯釣り場で死ねば本望だろうが、そうなると同行者に迷惑が掛かるし、ましてや死体が磯から海に転落すると、その捜索に近くの漁船も駆り出されることになり多大な損害を与えてしまう。それなら西行に倣って花の傍らで死ねば良いかもしれない。「四季咲きゼラニウム」か「ベゴニア・センパフローレンス(四季咲きベゴニア)」が横にあれば、ましてや日当たりの良い場所にあれば、これらの花は一年中咲いているので365日、いつ死んでも良いことになる。

 いや、せっかく『アカシアの雨がやむとき』を取り上げたのであるから、やはり、ニセ「アカシアの雨に打たれて」そ「のまま死んでしま」うのが良いだろう。何しろ、写真に挙げたニセアカシアの花は、多磨霊園の敷地内に咲いているものなので。近くには火葬場もあるし、誠に具合が良い。

ユウゲショウ (夕化粧、アカバナユウゲショウ

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大半がアカバナユウゲショウ

 アカバナ科マツヨイグサ属の多年草南アメリカ原産で、日本には明治時代に観賞用として移入された。現在は大半が野生化し、野原にも道端にもよく咲いている。名前はユウゲショウだが、実際には日当たりの良い日中に開花し、夕方には花を閉じる。この花も私の大好きな種類のひとつで、この花に出会うのが5月の楽しみのひとつになっている。

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シロバナは貴重な存在

 アカバナユウゲショウの別名があるが、希に白花もある。前回にはヒメオドリコソウの白花を紹介したが、ユウゲショウの白花もなかなか見つからず、今季はなんとか、一か所で発見することができた。人通りも車の通行量もあまり多くない路地の一角に、写真の白花は数輪だけ咲いていた。

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アカバナとシロバナの共演にミツバチも参加

 撮影中、うるさく飛び回っていたミツバチも一緒に写されたがっていたので、白花を手前に赤花を背後に置いてシャッターを押した。なお、白花であっても通称はアカバナユウゲショウであり、それゆえにアカバナのシロバナタイプと呼ぶしかない。

ムサシノキスゲ(武蔵野黄菅)

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浅間山にのみ自生するキスゲ

 ワスレグサ科(ユリ科とも)ワスレグサ(ヘメロカリス)属の多年草。科名も属名も混乱を極めているらしい。学名は、"Hemerocallis middendorffii ver.musashiensis"とすることが多いが同定はされていない。属名の”へメラ”は一日、”カロス”は美しいを意味し、一日だけ美しく咲くというところから名付けられた。種名の”ミッデンドルフ"は植物学者の名前。尾瀬で有名なニッコウキスゲに極めて近い種類だが、そちらは一日花なのに対して、こちらは開花の翌日まで咲いている点が異なる。

 ムサシノキスゲの名は、府中市にある浅間山にのみ自生する花であることから「武蔵野」の名が付けられた。浅間山が周囲の地形と異なる成り立ちをしている点については以前に触れている(cf.32・普通の府中市)。簡単におさらいしておくと、古相模川が形成した多摩丘陵の御殿峠礫層が北東方向に伸び、その後に古多摩川によって丘陵地が分断されできた残丘が浅間山なのである。したがって、立川段丘の中でもここだけが地質が異なるためか独自の「生態系」が維持されたので、日本で唯一のムサシノキスゲの自生地となったと考えられなくはない。

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毎年、大型連休中に咲く

 写真の花は花弁の幅がやや広めだが、細身のものもある。花弁は6枚だが、4枚のものもある。ムサシノキスゲ自体が多様なので、実はニッコウキスゲとまったく同じ種類で、ただ自然環境の違いから生態が少しだけ異なるのだという考えもあるらしい。前回取り上げた「ワスレナグサ」も普通は一年草として扱うが、寒冷地では多年草に分類されるという具合に。

 ムサシノキスゲが咲く浅間山は全体が「都立浅間山公園」に指定されており、5月中旬まではこの花だけでなく「キンラン」や「ギンラン」も開花している。さらに東側にある陸橋を渡ると、多磨霊園の敷地内に至る。その陸橋上から撮影したのが、冒頭に挙げた霊園内に咲く「ニセアカシア」だ。

アブチロンチロリアンランプ(ウキツリボク、浮釣木)

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アブチロンの人気種

 アオイ科アブチロン(イチビ)属のつる性本木。ブラジル南部原産の熱帯・亜熱帯性常緑植物なので冬場は落葉することもあるが寒冷地でなければ越冬は容易だ。つる性なのでフェンスや塀沿いに植えてある姿をよく見かける。5月から本格的に咲き始め晩秋まで花を付け続ける。アブチロンの仲間は多いのだが、実際にアブチロンの仲間で見掛けるのは写真の「チロリアンランプ」が大半だ。赤いガクの下に黄色い花は私のような釣り人が用いる「ウキ」によく似ているために「浮釣木」の名で呼ばれることもある。なお、人気種ではありながら、いまだに品種名は付けられていない。 

ゼニアオイ(銭葵、コモン・マロウ

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タチアオイに先駆けて咲く

 アオイ科ゼニアオイ属の多年草。ヨーロッパ原産で中国経由で江戸時代に日本に移入された。当初は観賞用であったが後に逸出して野生化したものも多い。というより、現在では道端や野原に野生化したものを見る機会のほうが多いかもしれない。花は相当に美しく、花言葉には「初恋」「古風な美人」とあり、この点も私好みである。

 花には保湿作用、抗炎症作用、抗老化作用のある成分が含まれるためにスキンケア、洗顔液などの化粧品の素材に用いられているようで、私ですら聞いたことがあるような商品にも用いられているようだ。また、ハーブティーにも利用されている。

 ゼニアオイは花が「五銖銭」と同じ大きさなのでそう呼ばれるようになったとされている。ちなみに、五銖銭とは中国の前漢武帝のとき(前2世紀後半)にそれまでの半両銭に代わって鋳造された青銅貨幣で、唐の初期(7世紀前半)に開元通宝が造られるまで流通していた。

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まあるい葉っぱ、ゼニやで!

 ゼニアオイは、原種のウスベニアオイの変種とも改良園芸種であるとされているが、両花の区別はかなり難しい。ゼニアオイのほうが紫色が強く、葉っぱが円形に近い。一方、ウスベニアオイの花はやや赤みがあり、葉っぱには深い切れ込みがあるという点で見分ける。しかし、野生化したものには交雑種も多く判断はかなり困難だ。このため、真正のゼニアオイを野原や道端で見つけたときに好事家は、「ゼニやで、ゼニや」となぜか関西弁で喜びを表現する。上品な態度とは言い難いが、もちろん、私も同様に反応する。

ハナビシソウ(花菱草、カリフォルニア・ポピー)

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ポピーの仲間は群生すると見事

 ケシ科ハナビシソウ属の一年草。学名は"Eschscholzia californica"で、属名は博物学者の名前、種小名は「カリフォルニアの」を」意味する。名前の通り、カリフォルニア州の花に定められている。花色は写真のようにオレンジや黄色のものが多いが、白、ピンク、赤のものもある。花期は4から6月と長く、病虫害にも強く、さらに乾燥にも強いため、植えっぱなしにしておいても花を楽しむことができる。標準和名は花菱の家紋に似ているからだとされている。 

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この花はカリフォルニア州の花

 ポピーの名はケシ科の植物の総称で、科名の"Papaveraceae"に由来する。papaverは「粥」を意味し、ケシの乳液は催眠作用があり、これを乳児が食べる粥の中に入れて眠らせるという習慣があったらしい。ケシの実はヨーロッパでは約7000年前から農産物として利用されており、日本でも「あんぱん」の上に使われており、食用の「ポピーシード」はネット通販で購入できる。

オオアマナ(大甘菜、オーニソガラム、ベツレヘムの星)

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近年は野生化して群生しているものが多い

 キジカクシ科オオアマナ(オーニソガラム)属の球根植物。ヨーロッパ原産で日本には明治末期に観賞用として移入された。園芸店でも球根が売られているが、大半は逸出して野生化しているものを見かけることが多い。群生していると見事で、純白の花が次々と咲き上がってくる。花言葉には「純粋」や「無垢」などがあり、それは見たまんまである。英名は「ベツレヘムの星」であるが、これは以前に挙げた「ハナニラ」にも使用される。和名は「大甘菜」であり、いかにも美味しそうな名前であるが、実は有毒植物らしい。毒性はあまり強くないようだが、わざわざ危険を冒してまで食する必要はないと思われる。

シャリンバイ(車輪梅)

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こちらはベニバナシャリンバイ

 バラ科シャリンバイ属の常緑性低木。関東以西に多く、暖地の海岸近くに自生する。庭木や公園樹のほか、煙害に強いためか垣根や街路樹によく用いられている。葉は厚みがあり、分枝する様が車輪のように見え、花はウメに似ているので「シャリンバイ」と名付けられた。

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街路樹として植えられていたシロバナシャリンバイ

 花色は、白か薄いピンク。どちらも清潔感があり、花のひとつひとつはさほど美しいとは思わないが、まとまって咲いているときはかなり見応えがある。この点もウメににているかも。なお、樹皮から作る黒褐色の染料は、奄美大島の特産品である「大島紬」に使用されていることでも知られる。

ヒメジョオン(姫女苑)

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ハルジオンに遅れて生長・開花

 キク科ムカシヨモギ属の一年草。北アメリカ原産で、日本には江戸末期に観賞用として移入された。当時の名前は「柳葉菊姫」、現在はハルジオンと一緒に「貧乏草」。以前に挙げたハルジオンよりもやや遅くに生長をはじめ、こちらのほうがより大きく育つ。やや弱弱しい感じのハルジオンに比べ、ヒメジョオンのほうが大振りのためもあって壮健に見える。

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こちらはハルジオン。違いが分かりますか?

 上の写真はハルジオン。ヒメジョオンとハルジオンの区別は意外に難しい。環境が良ければハルジオンは立派に育つし、日陰のヒメジョオンは頼りなくもある。

 両者を区別する観点は以下の3つ。第一は花の様子。頭花の周りにある「舌状花」が異なる。ヒメジョオンのほうがやや太めで若干の隙間がある。第二は茎の違い。ヒメジョオンは茎の中が髄で詰まっているため茎を触ると硬い。ハルジオンは中空のため触ると簡単に潰れる。第三に葉の基部。ヒメジョオンは茎をほとんど抱かないのに対し、ハルジオンは茎を抱くように付いている。

 私は貧乏が染みついているので貧乏草の区別は容易に判断できる。貧乏草の茎を潰しながら歩いている徘徊ジジイを見かけたら、それは私である。 

ヘラオオバコ(箆大葉子)

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群生する雑草

 オオバコ科オオバコ属の一年草。ヨーロッパ原産で日本には江戸末期に侵入した。葉の形が竹ベラに似ているところから名付けられた。長い花穂は下から上に咲いていく。白く見えるのは雄蕊。この時期は河川敷、道端、原っぱに群生する姿をよく見かける。

 この雑草は薬草として使われることがあり、咳を鎮めたり痰を取り除くといったほか利尿作用もあるらしい。また、葉っぱは食用が可能で、やや苦みのあるホウレンソウという具合らしい。

 キツネアザミ(狐薊)

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ぽつりぽつりと咲く雑草

 キク科キツネアザミ属の越年草で一属一種。アザミに似ているが、この草の葉は薄くて棘もない。多年草ではないからか爆発的に増えることはなく群生もしない。例によって多磨霊園を散策しているときに撮影したのだが、あちらこちらに咲いているというより、ぽつりぽつりと見掛けるといった存在だ。雑草なのに奥ゆかしい。中国原産で、日本には農耕技術とともに渡来したと考えられている。アザミのようでアザミではなく、毎年、違った場所に咲くというところからキツネの名前が冠されたと言われている。が、こんな草花は他にもたくさんあり、そのすべてに「キツネ」の名があるわけではない。何かキツネにつままれたような話だ。だったら、タヌキでも良いのではないだろうか。

マツバウンラン(松葉海蘭)

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風にそよぐ雑草

 オオバコ科(ゴマノハグサ科とも)マツバウンラン属の一年草(場所によっては越年草)。学名は"Nattallanthus canadensis"で、種小名から分かるとおり北米原産で、日本では1941年、京都市で初めて採集された。「ウンラン」に似た花を付け、松のような姿をしているところから「マツバウンラン」と名付けられたとされている。

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細い茎の先端部に花を付ける

 茎はとても細く、天辺近くに花を穂状に付け、それが種子になるとさらに上に伸びてまた花を付ける。最大では50センチほどの高さになるが、茎はさほど太くはならないので、いつも風に揺られた状態で咲いている。撮影者泣かせの花なのだが、近接して花を眺めても、やや引いて群生した様子を望んでも風雅な佇まいであると思える。この雑草に関心がない人はその存在に気付かないが、多磨霊園の敷地内の多くにも、多摩川の河川敷や土手にも、そして、あなたが住んでいる場所の近くにある空き地にも今、この雅な花は群生し、南風にそよいでいる。

 ノヂジャ(野萵苣)

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姿は知らず、名前も知らず

 スイカズラ科(オミナエシ科とも)ノヂシャ属の一年草(越年草とも)。ヨーロッパ原産で、日本には明治中期に移入された。花の直径は1.5ミリほどで、いくつかが花束のようにひと塊になって咲く。よく見ると(よく見ないとその存在にすら気付くことはない)、なかなか美しい姿をしている。写真は多摩川の土手で撮影したもの。いざ探してみると、ところどころに群生しているのが分かり発見は容易だった。ただし、土手上は風がよく通るので撮影は困難を極めた。

 花の存在は知らなくても、その名前は知らなくても、スーパーの野菜コーナーにいくと、その若葉が販売されていることを知っている、あるいは食したことがあるという人はいるかもしれない。仏名は「マーシュ」、英名は「コーンサラダ」で、欧米ではサラダによく用いられているそうだ。栄養価はかなり高いので、上記の名前で日本でも人気になっているのかも。私はサラダには興味がないので不明だが。 

オヤブジラミ(雄藪虱)

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姿は見るが誰も気に留めず

 セリ科オヤブジラミ属の越年草。日本の在来種で、朝鮮半島、中国にも自生する。草全体は50~70cmほどの高さに生長するが、茎から分枝したその先に散形して花を付ける。花は小さく2ミリほどだが果実は縦長で5、6ミリ(最大で8ミリ)ある。近縁種にヤブジラミがあるが、こちらは開花期が遅く花の数は多い。

 果実が成長すると表面に棘が密集し、これが動物や人間にくっついて移動し、異なる場所に落ちて芽を出し、生育範囲を拡大する。これを「動物散布」というが、俗称では「ひっつき虫」という。これには「オナモミ」が有名で、子供時代にはこれを他人の背中などに投げつけてくっつけるという遊びをよくやっていた。オヤブジラミの実の場合は小さいので投げ合って遊ぶことはできないが、野原などを歩いていると知らぬ間にスラックスや靴下などにこの実が「ひっつく」場合がある。この「ひっつく」性質から名前に「シラミ」が付けられたとされている。

ギシギシ(羊蹄、オカジュンサイ、ウシグサ)

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やや湿り気のある場所に群生

 タデ科スイバ属の多年草。やや湿り気のある場所が好みなのか、多摩川の河川敷や土手、さらに沖積低地を流れる小川の近くに群生する。繁殖力が旺盛なので、普通の原っぱでも見掛けることは多い。名前が特徴的だが、その由来は諸説ありすぎて「不明」というほかはない。ひとつの茎から数多くの花穂を伸ばし、小さな花を無数に付ける。花といっても花弁はないので極めて地味である。花穂は緑色をしているが実りの時期になると茶褐色になる。写真のものは色が変わりはじめのもの。

 薬草としても知られ、根は「羊蹄根」と呼ばれ、便通を良くしたり炎症を抑える働きを有するとのこと。そういえば、土方歳三の生家は炎症に効く「石田散薬」を製造していたが、これはタデ科タデ属の植物を原料にしていたことを思い出した。また葉っぱの脇から伸びる新芽は食用になるそうで「オカジュンサイ」の別名がある。タデ科の植物なので「タデ食う虫も好き好き」と考えると納得するほかはない。

ムラサキツメクサ(紫詰草、アカツメクサ、赤クローバー)

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花と虫

 マメ科シャジクソウ属の多年草。ヨーロッパ原産で日本には明治初期に牧草として移入され、のちに野生化した。デンマークの国花。高さは20から60cmで個体差が大きいが、一般にはシロツメクサよりも大きくなるものが多い。これは、本種のほうがやや暖かくなってから育つことによるのかもしれない。花は球形の集合花序で大きいものはゴルフボールぐらいの大きさになる。クローバーというと「四つ葉探し」をよくおこなうということはシロツメクサの項で触れたが、本種のほうが葉っぱも大きくなるため、これの四つ葉を探せばより大きな幸せをつかむことはできるかもしれないが、「禍福はあざなえる縄の如し」なので、より辛く厳しい災いを招くかもしれない。今季のコロナ禍のように。 

コバノタツナミソウ(小葉の立浪草)

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なぜか壁際で見掛ける

 シソ科タツナミソウ属の多年草タツナミソウの矮化種で、タツナミソウは40cmほどに成長するがこちらは大きくても20cmほど。一般には紫の花を咲かせるものが多いのだが、なぜか今季に見つかる花は白花がほとんどだった。紫のものもないではなかったが私が見つけたものはいずれも貧相だったので、シロバナのみの掲載した。

 半日蔭を好む草花なので、建物の陰など壁際、塀際で見掛けることが多い。野原でもよく探せば見つけられないことはないが、大抵は背の高い草たちの陰にひっそりと咲いている場面に出会う。写真のものは公園の端に繁茂する雑草の陰に咲いていたものだが、なにしろ名前に反して高さがないので、ほとんど這いつくばった状態で撮影した。

セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)

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一度見掛けると、やがて気になる存在に!

 キンポウゲ科オオヒエンソウ属の一年草。中国原産で日本には明治期に渡来したが、近年になって逸出して野生化した。繁殖力が旺盛なので、最近では至るところの野原で見掛ける機会が多くなった。学名は"Delphinium anthriscitolium"で、属名には「イルカ」の名がある。日本では「飛燕草」、つまり花の形が「ツバメの飛ぶ姿」に似ていると考えて命名されたが、学名は「イルカが泳ぐ姿」からの連想によるものだ。なお、葉っぱは「セリ」に似ているが、これは毒草なので、くれぐれも食べないようにしていただきたい。

ギンラン(銀蘭)

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浅間山で見つけた小さなラン

 ラン科キンラン属の多年草。落葉樹林内に生育し、菌根菌という菌類と共生しているため、ギンランが育つ環境は限定的である。高さは15から30cm程度で、下に挙げるキンランよりもかなり小さく花数も少ない。また、花も写真のように開花に至らないものが多い。これは、キンランよりも菌類に依存する割合が高いので生育環境が大きく制限されるためであると考えられている。絶滅危惧種に指定されている。

キンラン(金蘭)

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ギンランよりも存在感あり

 ラン科キンラン属の多年草。上のギンランと同じ環境下で生育するが、菌類に依存する割合がギンランに比べると低いためか、より大きく成長し、高さは30から70cmほどになる。花もよく開花する。こちらも絶滅危惧種である。

 キンランとギンランはムサシノキスゲの自生地である浅間山で撮影したものだが、三者はほぼ同時に花を付けるので大型連休の前後はこれらの観察者で賑わう。都立浅間山公園に指定されているため三者の花はその管理下に置かれているが、入場はまったく自由なので盗掘は多く、ペットや人間に踏み荒らされた跡もよく見掛ける。

キランソウ(金瘡小草、ジゴクノカマノフタ、医者いらず)

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目立たないが綺麗な花

 シソ科キランソウアジュガ)属の多年草。日本在来種で、朝鮮半島や中国にも生育する。根出葉は円盤状に広がり、茎を上方に伸ばさない。地面にへばり着くように咲いているので野原にあっても目立たず、大半は踏みつけられる。唇の形をしている花は小さいが濃い紫色をしており、しかも集団で咲くので、地面に紫色の塊りがあれば開花したキランソウである可能性がないわけではない。原っぱで遊んだり散歩したりしている人がふと立ち止まって足元を見ていたら、この花が咲いているかお金が落ちているのを見つけたかのどちらかである。そのまま腰を下ろして地面を眺めていたらキランソウを発見、腰を下ろす前に辺りを見回したらお金の発見である。3から5月、私はこの花を探して野原をうろつくのであるが、キランソウはすぐに見つかるが、お金を発見したことは残念ながら、まだない。

アジュガ(セイヨウキランソウジュウニヒトエ

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最近では野生化しつつある

 シソ科キランソウアジュガ)属の多年草。花の形から分かるように、上に挙げたキランソウの仲間である。これはヨーロッパ原産の"Ajuga reptans"を園芸種として改良したもの(ちなみにキランソウは"Ajuga decumbens")で、キランソウとは異なり茎は直立し、その周囲に多くの唇形花を付ける。ランナーを伸ばして次々に花穂が生長するので、アジュガ林を形成する。花色は青紫が大半だが、ピンクのものもある。また葉っぱもカラフルなので、花の無い時期はグランドカバーとして利用される。

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野生化したジュウニヒトエ

 写真のジュウニヒトエ十二単)もキランソウの仲間で、姿はアジュガと同じだが花色は白か薄い紫。花穂の姿かたちから「十二単」の名が付けられた。色が派手で群生しやすいアジュガは園芸種として利用されることが多いが、葉も花色も地味なジュウニヒトエは園芸種として育てられる機会は減り、多くは逸出して野生化している。名前は艶やかだが存在はお淑やかである。 

〔番外編〕コロナ禍の中、季節は春から初夏へ~花散歩

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4月下旬から秋まで咲き続けるサルビア・ミクロフィラ

コロナ禍の中で思うこと

 コロナ禍である。釣り場に近い駐車場はほとんど閉鎖されているので釣行はままならない。植物園、自然公園などが閉鎖中なので春の山野草の開花に触れる機会を多く逃した。大学の研究会や講座、私的な集まり(例えば哲学カフェ)も皆、中止になったため頭の体操の機会がめっきり減った。近隣にある市立図書館が閉鎖されているため、調べたいことがあっても資料不足で不満足な愚者状態。

 不愉快なのは変な言葉が飛び交っていることだ。「濃厚接触」「ソーシャルディスタンシング」「3密」は、その言葉を見たり聞いたりしただけで”げんなり”してしまう。「濃厚接触」は、”close contact"の訳語だろうか。おふざけで使う場合なら構わないが、社会的用語としては馴染まないような気がする。とはいえ、実際に医学用語として用いられているし、他に良い言葉は思いつかないので致し方ない。何しろ、医学用語には「日和見感染 ”opportunistic infection"」という言葉もあるぐらいなので。

 「ソーシャルディスタンシング」は社会的距離拡大戦略のことらしいが、社会との距離拡大は「孤立」を意味することに繋がるので曲解される恐れがある。この反省から「フィジカルディスタンシング」(物理的距離拡大戦略)に置き換えようという提案があり私としてもこちらのほうが断然に良いと思うのだが、いまひとつ広がりは見えない。

 上記の2つの言葉は気に入らないが、意を汲めば言いたいことは伝わってくるので、許せないわけでは決してない。が、「3密」だけは酷いとしか言いようのない言葉である。どこかの首相は奥方の参拝行動に「3密ではない」と擁護したようだが、彼の頭脳では「1密」や「2密」では問題はないと判断されるようだ。ならば、換気が良く、間隔を空けたパチンコ屋は「3密」に該当しないから問題はないとすべきだろう。ウイルスは直接接触や飛沫接触によって感染する(させる)場合があるので、これをできるだけ避けるのが良いと考えられるだけであって「3密」はダメだが「2密」なら大丈夫というものではない。ところが、「3密」を政府やメディアがしばしば声高に叫ぶため、「3密」とそれ以外という区分が生まれ、本末転倒の観念が形成されている。「可能な限り、物理的・身体的距離を取りましょう」で十分だと思われる。それ以上でも以下でもない。

 「3密」は嫌な言葉だが、「六波羅蜜」についてなら以前、それに関する書物を何冊か読んだことがあるし、「蜂蜜」については最近、「ランチパック・はちみつ&マーガリン」のパッケージのミスについての微笑ましい話題があった。

 というわけで、コロナ禍のために釣りには週に2回ほどしか行けず、植物園や自然公園からは締め出され、観光地に出掛けるのは気が引けるので、必然、近隣での徘徊が増えている。ただうろつくだけでは生産性が低いので、カメラを持って出掛けて目に留まった花の姿を撮影している。意外な花が意外なところに咲いているのに気付き、あるいは気付かされ、これがコロナ禍の下での大きな収穫になっている。これも、いいのだ。

ゼラニウム(ゼラニューム、匂い天竺葵)

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ゼラニウムとしてはもっともよく見られる品種

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清潔感のある白色も魅力的

  フウロソウ科ペラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草ゼラニウムについては以前、「ゼラニウム・フェアエレン」のところで述べている。写真のものはゼラニウムの仲間ではもっとも普通に見られるもので、花色はこれ以外にも白や赤のものが多い。標準和名に「匂い天竺葵」とあるように、葉に独特の香りがあり、これを香ばしいととるか臭いととるかでこの花を好むか否かが分かる。

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こちらは花の形が珍しい園芸種

 写真のゼラニウムは花弁が深く切れ込む星形に改良されたもので、”ファイヤーワークス”などの商品名で販売されている。

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こちらは園芸種のペラルゴニウム

 ペラルゴニウムは花色や花弁の形を変えてゼラニウムよりも派手さを競うように改良されたもので、園芸店やホームセンターでは豪華な鉢植え品として販売されているのをよく見かける。通常のゼラニウムは花の多寡は別にすればほぼ周年、花を咲かせる四季咲き種だが、このペラルゴニウムは春から初夏までの一季咲き品種なので、路地植えよりも中大型の鉢植えのもののほうが管理しやすいのかもしれない。写真のものは路地植えされているものを撮影した。なお、ペラルゴニウムのぺラルゴは「こうのとり」を意味するようだ。

シラン(紫蘭、紅蘭、白笈)

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もっともよく見られるランの花

 ラン科シラン属の多年草。初心者にも簡単に育てられるということでこの時期にはあちらこちらでこの花が咲いているのを見かける。地下茎は「偽球茎」と言われ球形というよりは平らな形をしている。この地下茎が良く育つため、知らないうちに株が大きく育つ。さらに種子をよく作るので野生化しているものを見かけることがよくある。

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この角度から見ると「ラン」であることがよくわかる

 うつむき加減に咲いているため、この花がランの仲間であることを気付かない人も多いようだが、写真のように下から見上げるようにすると、普通の人がランの花をイメージするのと同じ形であることが分かる。ありふれた存在であっても美しいものはやはり美しい。

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多磨霊園で見つけた白色のシラン

 シラン(紫蘭)の名の通り紫のものが大半だが、園芸種や交雑種には異なる色や形のものがある。紅色や白色、黄色など異なる色をもつ花もあり、それはそれで見応えがある。大型連休中(私の場合は一年中休みだが)に多磨霊園内を散策していたとき、白色のシランを見つけた。背中合わせの墓石の間に咲いていたので撮影には難儀した。

コデマリ(小手毬)

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ユキヤナギが咲き終わるとコデマリの出番となる

 バラ科シモツケ属の低木。中国東南部原産で、日本には江戸初期に導入された。和名は花序の形から名付けられた。まったくもって妥当な名称である。

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可能な限りの近接撮影

 花の形から分かるように、春先に咲く「ユキヤナギ」と同じ属である。ユキヤナギの花が散ったころ、今度はこの花が咲き始める。花序の形が、あちらは柳のようであり、こちらは手毬のようである。違いは大きいが、花にあまり関心のない人は区別が付かないらしいが、そもそも興味がないので花の名前への拘りがないのは当然のことだ。私がAKBとなんとか坂との区別がつかないのと同等である。

ヤマブキ(山吹)

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一重咲きのヤマブキ

 バラ科ヤマブキ属の落葉性低木。学名は”Kerria japonica"であり、種小名に「日本の」とあるように日本原産の植物である。以前に挙げた「ウンナンオウバイ」によく似た花を付けるが、あちらは黄色でこちらは山吹色である。葉も特徴的で、薄くてギザギザした形をしているので区別は容易だ。ヤマブキは山吹色をしているが、ヤマブキが山吹色なのでヤマブキと名付けられた訳ではなく、ヤマブキの花色から山吹色という名称が生まれた。山吹色から派生したのは「小判」である。

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ヤエヤマブキといえば太田道灌

 上の写真は「ヤエヤマブキ」で、一重咲きのヤマブキの改良園芸種。学名は「Kerria japonica "Pleniflora"」。ヤマブキは一属一種であり、園芸名の「シロヤマブキ」はまったくの別属。花色こそ白だが雰囲気がヤマブキに似ているので「あやかりヤマブキ」である。これは「ブダイ」や「ネンブツダイ」がタイの仲間ではなく「あやかりダイ」であるのと同じ。といっても、釣り人やダイバー以外、これらの魚の存在はほとんど知られていないが。

 八重山吹についてはずいぶん前の「越生」の回(第7回)で触れており、当然のごとく「太田道灌」との関係も記してあるのでここではとくに触れない。

オステオスペルマム(アフリカンデージー

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明るい日差しを好む花

 キク科オステオスペルマム属の多年草。アフリカ原産だが耐寒性もあるので冬場でも日当たりが良い場所では開花することもある。写真から分かるように花弁が萎れたものもあれば花芽が育ちつつあるものもあるので、全体としての花期はかなり長い。花色は紫、白、桃が中心だが、近縁種の「ディモルフォセカ」との交雑によってさまざまな色のものが作出されている。ただし、ディモルフォセカは一年草なので、交雑種はオステオスペルマムの純種に比べて花の命は短い。

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私の好みは純白

 オステオスペルマムとディモルフォセカとの区別は園芸歴が長い人でも区別は難しいようだ。私はこれらの花たちの愛好家であった(ゼラニウムの次ぐらいに好んでいた)から当時は両者を簡単に見分けられたのだが、交雑改良園芸種が多数出回っている今日ではほとんど区別がつかない。そこで、写真にはオステオスペルマムの代表的カラーである「紫」と「白」とを選んだ次第なのだ。

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ディモルフォセカを見つけました

 スズラン(鈴蘭、君影草、谷間の姫百合)

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誰もが良く知る可愛い花

 キジカクシ科スズラン属の多年草。写真もそうだが、街で見かけるスズランはヨーロッパ原産の「ドイツスズラン」であることが多い。幸せの国・フィンランドの国花であり、札幌市や釧路市など市の花とするところも多い。見た目だけでなく香りも良いが、毒草なので可愛らしいからといって食してはいけない。

 日本原産のスズランは花が小さく葉に隠れるようにひっそりと咲く。「君影草」の名はこの「恥じらい感」から付けられたのだろうか?

ヒメエニシダ

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特徴的な咲き方をする花

 マメ科エニシダ属の低木。エニシダ属にはいろいろな種類があり、通常のものは樹高が2~4mほどに成長し、花色も多い。西欧ではエニシダの枝は箒の原料に使われる。魔女の乗る箒はエニシダが素材である。それゆえ、「キキ」が乗る箒もエニシダだと想像される。ところで、日本で「エニシダ」の名で販売されているのは写真の「ヒメエニシダ」で鉢植えが多い。撮影したものは路地植えされたものでかなり大型に育っているが、それでも樹高は1mほどである。

アメリカフウロ(亜米利加風露)

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葉っぱは目立つが花は小さい

 フウロソウ科フウロソウ属の一年草。4、5月の道端でよく見かける「雑草」で、葉っぱは結構、目立つ存在なのだが花は5、6ミリのサイズ、しかも写真にある通り色は地味で花数も少ないので、路傍に咲いていてもまずは気が付かない。私も以前は気にも留めなかったが、いったんその存在を知ると毎年、この草の開花が気になる。小さな花が無事に開いているとなぜかほっとした気持ちになる。何週間後、この花の存在を忘れ去る。そして初夏が訪れる。名前に「アメリカ」とあるのは、原産地が北アメリカだからで、これもまた帰化植物である。

ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦、ポリゴナム)

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グランドカバーによく用いられる

 タデ科イヌタデ属の多年草。ソバの花に似てツル性の植物なのでツルソバ。花は小さな金平糖のように可愛らしいので「姫」。これを連結してヒメツルソバとなる。ヒマラヤ原産で、以前は「ポリゴナム」の名前でグランドカバー用の園芸種として販売されていた。現在は野生化したものも多く、コンクリートや石垣の狭い隙間からでも顔を出している姿を見かける。花期は春から秋で、晩秋には葉は紅葉し、冬には地上から姿を消す。しかし早春には葉を茂らせ、また小さな花を無数に咲かせる。生命力旺盛な半雑草といったところか。

ナガミヒナゲシ(長実雛芥子)

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今どきは、あちらこちらで群生して咲いている

 ケシ科ケシ属の一年草。地中海沿岸地方を原産とし、日本には1960年頃、輸入貨物の中に種子が入っていてそれが発芽したと考えられている。写真には咲き終わって結実した芥子坊主がたくさん写っているが、この果実の形が他のケシの仲間のものより長めなため、長実雛芥子と命名された。果実の中には無数の芥子粒(種子)が入っているので、翌年には爆発的に数を増やす。それだけでなく、この植物はアレロパシー(他感作用)活性が高いために、他の植物の生長を抑制する働きをもつ。ナガミヒナゲシが群生するのはこの作用による。

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近年、急増殖中の「雑草」

 ケシの仲間なので花自体はかなり美しい。写真のものはオレンジ色だが、かなり赤みの強いものもある。この花を増やすのは簡単で、花をひとつ、茎の部分からチョン切ってきて、適当な場所に放り投げ捨てておけばよい。たとえ未結であっても種子は自然に育ち、翌年には発芽に至る。まったくもって「厄介」な帰化植物である。

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白系を発見。色が褪せただけかも

ムラサキサギゴケ(紫鷺苔、サギシバ)

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可愛らしい雑草だが、よく踏みつぶされる

 ハエドクソウ科サギゴケ属の多年草。写真のように花は紫だが、ときおり白花を見かけることがあり、そちらは「サギコケ」と呼んで区別している。解説書には湿ったあぜ道に多いとあるが、日当たりの良い野原にも咲いていることが多い。匍匐性があり、地面を這うように育つので、花が小さいこともあって存在に気付かれずに踏み潰されることが多い。よくみると素敵な花なので、ぜひともこの花の存在を知ってほしい。

ニワゼキショウ(庭石菖)

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初夏の野原を彩る「雑草」

 アヤメ科ニワゼキショウ属の一年草。北アメリカ原産で、明治の中期に日本に入り帰化した。直径が1cm前後の小さな花なのでこれもまた、サギゴケと同様にその存在を無視されることが多い。今回は白系が大半だったが、やっと多摩霊園の敷地内で紫系を見つけた。

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紫系のニワゼキショウ。アリンコ付き

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5月になるとこの花を探しに徘徊する

 中央の黄色とその周辺の紫が特徴的で、なかなか美しい花だと思うのだが。今回、住宅街の道端で撮影したのだが、通行人の多くは怪訝そうな顔(皆マスクをしているのでそんな感じがしただけだが)をして通過していった。野草にもいろいろな表情をもつものがあるので、雑草を探し求める道草には中ぐらいの夢がある。

ツタバウンラン(蔦葉海蘭、ツタカラクサ

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この花も人知れずに咲く

 オオバコ科ツタバウンラン属の多年草。地中海地方原産で、大正初期にロックガーデン用の園芸植物として日本に入り、その後に逸出して野生化した。名前に「ツタ」があるとおりツル性の植物で、石垣に隙間などに密生して不等間隔に花を付ける。この野草も大半の人は目もくれないが、相当に可愛らしい花である。黄色の2点が目のようで、その姿は鳥を思わせる。ツルに絡んで飛び立つことができない花ではあるが、いつの日か、鳥に転じて大空を舞う日がくるかもしれない。

コバンソウ小判草

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多磨霊園の敷地で大量に咲いていた

 イネ科コバンソウ属の一年草。ヨーロッパ原産で日本には明治初期に移入された。写真のように30~50センチほどの茎が直立し、その先に数個から十数個の円錐花序を付ける。この小穂の形が小判に似ているところからこの名が付けられた。

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本物の小判なら大金持ち

 写真は私の徘徊場所のひとつである多磨霊園の敷地内で撮影したもの。日が少しだけ傾き、斜光が小判を照らし、山吹色ではないが輝きを見せていたのは確かだ。他の雑草よりも数は多く、墓地の周囲の至るところに茂っていた。これは霊園の北側を通る「東八道路」でも同様で、路側帯の空地には無数の小判が輝いていた。この小判が本物であれば私は大金持ちになれるだろうか。他の人も同様に考え、彼・彼女らが手にした小穂がすべて小判であるとするならば金の価格は無に等しいものになるため、誰もが手にするものは富ではなく単なる空夢である。

ハナミズキ(花水木、アメリヤマボウシ

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街路樹としてよく見かける

 ミズキ科ミズキ属の落葉高木。北アメリカ原産で、学名は”Cornus florida"。種小名に「フロリダ」とあるようにアメリカを代表する花で、日本に「桜前線」があるようにアメリカには「ハナミズキ前線」がある。サクラと同様に庭木だけでなく街路樹に用いられることが多く、府中市では桜並木よりも花水木通りのほうをよく見かける。これは日本人が「ハナミズキ=花見好き」だからであろうか?

 1912年に当時の東京市長尾崎行雄がワシントンDC(ポトマック河畔の桜並木)にソメイヨシノ3100本を贈り、3年後、その返礼としてハナミズキが日本に送られた(ハナミズキ花言葉は”返礼”)ことから日本に定着した。 実は尾崎は、その3年前の09年に2000本を贈ったのだが虫害のためすべて焼却されてしまっていた。

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色のバリエーションは少ない

 サクラと異なり、ハナミズキは色のバリエーションは少なく、普段目にするのは3種ほどである。ソメイヨシノと同様、枝に葉が茂る前に花が咲き、花自体もひとつひとつはかなり大きいのでよく目立つ。花期はソメイヨシノが散った頃からポツリポツリと開き始めるので、花見好きには桜⇒花水木と花見を連続して楽しむことができる。

 なお、花弁に見えるのは葉っぱが変形した「総苞」で、実際の花は中心部の緑色に見える小さな塊である。

ナスタチウムキンレンカ金蓮花、ノウゼンハレン)

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この種類はあでやかな色をもつものが多い

 ノウゼンハレン科ノウゼンハレン属の一年草。標準和名は「ノウゼンハレン」だが、一般には「ナスタチウム」または「キンレンカ」と呼ばれている。黄金色した蓮のような葉をもつ花、ということで金蓮花と名付けられたようだが、後の挙げる「キンセンカ」と語音が似ているため、趣味人は「ナスタチウム」の名で呼ぶことが多い。ナスタチウム(Nasturtium)は英名なのだが、このナスタチウムオランダガラシ属の学名で、オランダガラシの仏名は”Cresson"、つまり栄養価の高い野菜として知られるクレソンを指すのでややこしい。

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ナスタチウムは花色のバリエーションが少ない

 この植物はハーブとして花や葉、茎が利用される。香りや味がクレソンに似ているところからナスタチウムと呼ばれるようになったそうだ。

 つる性の植物で、葉をよく茂らせる。花色のバリエーションは少なく、赤や黄色、橙色そしてそれらの複色といった程度。以前に比べると人気は低下しているようで、今回の徘徊でもなかなか見つけられなかった。

スミレ(菫)

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スミレの原点のような存在なのだが

 スミレについてはすでに「タチツボスミレ」「アリアケスミレ」「ニョイスミレ」について触れているので詳細は省略する。写真のスミレは私たちが思い浮かべる「スミレ」の形や色そのもので、スミレの原点ともいうべき存在である。しかし、実際にこのスミレを見る機会はほとんどなく、コロナ禍もあって例年以上に近隣を徘徊する機会は増えているが、このスミレを見つけたのは2度しかなかった。今の子供たちがスミレを思い浮かべそれを絵にするときは、きっとタチツボスミレを描くに違いない。スミレの葉っぱは細長い楕円形、タチツボスミレは丸い心形。描かれた葉っぱの形でどちらのスミレなのか判断できる。否、今はスミレの絵なんぞまったく描かないかも。

オドリコソウ(踊子草)

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ヒメオドリコソウよりかなり大きい

 シソ科オドリコソウ属の多年草。以前に挙げた「ヒメオドリコソウ」よりもずっと背が高くなり、大きなものでは50センチほどの高さにまで成長する。それに比して花の形も大きくなり、ヒメオドリコソウの場合の踊り子は葉の間から恥ずかし気に舞うが、こちらは堂々とした立ち姿で演舞する。

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踊り子に最接近

 花に近接してみた。意外に繊細な形と色合いを有しており、「雑草」と」一刀両断に切り捨てるのはもったいないような気がする。実際、オドリコソウに触れられる場所はあまりなく、道端で発見する機会はまずない。写真は「野川自然観察園」脇に咲いていたもの。観察園内には自粛閉鎖中で入れないが、写真のオドリコソウは園外へ逸出したもので、フェンスの外に繁茂していた。

シロバナヒメオドリコソウ

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その存在は知っていたが

 オドリコソウもヒメオドリコソウも花色はやや薄い赤紫が定番なのだが、希に写真のような白花を有するものがある。それは知識として知っていただけで、実際にその純白の踊り子に触れたのは今回が初めてだった。ヒメオドリコソウは春の到来を告げるメルクマールの花のひとつとして存在していることは以前に述べているが、それだけにこれの開花には注視し続けてきたのだが、今まで白花に触れることはなかった。

 場所は東京農工大学・府中キャンパスの南側にある通りの南側の歩道上の植え込みの一角。ツツジの周りに雑草が育ち、その多くはヒメオドリコソウでありオランダミミナグサ、アメリカフウロである。その日は花水木の開花状況を調べていた。基本的にはやや上方を見ていたはずなのに、なぜかある場所では足元の様子が少し変であることに気が付いた。しかし、そこにあるのは上に挙げたツツジか雑草だけなのでそのまま通りすぎた。しかし、心には違和感が残ったままだったので、100mほど進んだ後に引き返し、その違和の根源を探すことにした。そして見出したのがこのシロバナヒメオドリコソウだった。一角に密生していたヒメオドリコソウはすべてシロバナだった。が、それ以外の場所にシロバナはなかった。

 以来、この花の存在は大型連休に入ってすらずっと気になり、シロバナを探し続けているのだが結局、二度と見出すことはできずにこの花の季節は終了した。来年、当該場所で再びシロバナと出逢えることが、生きながらえる大きな動機付けと希望になった。

シロバナタンポポ(白花蒲公英、ニホンタンポポ

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見掛けることが少なくなったタンポポ

 キク科タンポポ属の多年草。「ニホンタンポポ」の別名があるように日本在来種で、北海道には限定的に存在し、南西にいくほど数が多くなる。タンポポは英名では「dandelion」と言い、ライオンの歯という意味になる。葉っぱのギザギザが歯に見えるかららしい。すると、このタンポポは「white dandelion」となる。これが白花であるということは「ホワイト&ホワイト」という歯磨き粉を使ってホワイトニングしたからだと考えられる。何しろ、この製品を作っているのはライオン株式会社だからだ。

 通常よく見る黄色のタンポポは明治末期に日本に移入された帰化種がほとんど。外来のセイヨウタンポポの外側のガク(総苞)は開き、在来種はそれが閉じている点で区別が可能と言われている。しかし、在来種も花期の終わりごろには総苞は開き気味になるので区別は意外に難しい。まあ、シロバナであれば在来種なので、ナチュラリスト、いやナショナリストシロバナタンポポを愛でよう。ちなみに、私はナチュラリストでもナショナリストではないが、シロバナのほうが好みである。

シラー・カンパニュラータ(ヒアシンソイデス、釣鐘水仙、スパニッシュ・ブルーベル)

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近年は野生化しつつある

 キジカクシ科ヒアシンソイデス属(ツリガネズイセン属とも)の球根植物。学名は"Hyacinthoides hispanica"で、ヨーロッパ、北アフリカが原産地。かつてはシラー属に分類されていたため流通名に「シラー」の名前が残る。標準和名は「ツリガネズイセン」というが、釣鐘は花の形から、水仙は葉っぱの形に由来する。カンパニュラはラテン語の"campanula"すなわち「釣鐘」を意味し、まさに見たまんまである。

 植えっぱなしの園芸品種として人気があり、群生させると見事だ。精力旺盛なのか、近年では野生化したものも多くみられ、今時分は雑草の間からニョキニョキと顔を出して派手な色で咲き誇る。写真のような青紫色のものが大半だが、ピンクや白色のものも出回っている。

シラー・ぺルビアナ(大蔓穂)

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多磨霊園内の墓石の前に咲いていた

 キジカクシ科シラー属(ツルボ属)の球根植物。学名は"Scilla peruviana"といい、スペイン南部で発見されたこの植物がイギリスに持ち込まれる際、その船名が「The peru」だったところから種小名に「ペルー産の」という意味の言葉が用いられているが、原産地はペルーではない。傘状の花序をもち、周辺部から咲いていくので、写真から分かる通りこの株の場合、中心部は未開花である。

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最接近してみると

 6枚の花弁は反り返り、6つの雄蕊は立ち上がっているので実際の花を見ると立体感があって美しさを一層、際立たせている。この花は紫系だが白系も流通している。白系は今年は未発見だが。なお、これも多磨霊園の墓石の横に咲いていた。多磨霊園は私の花季行では重要な御狩場なのである。

イチリンソウ(一輪草、一華草)

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スプリング・エフェメラルの掉尾を飾る

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。代表的な「スプリング・エフェメラル」であるが、カタクリニリンソウよりも花期はやや遅いので、場所によっては晩春から初夏にかけて花を楽しむことができる。5枚の白い花びらは花弁に見えるが、実際には萼(がく)片(萼花弁とも)である。梅雨に入る前に葉っぱは枯れ、翌年の早春まで眠りにつく。儚い春はこの花とともに終わる。

フジ(藤)

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春の終わり、初夏へようこそ

 マメ科フジ属のつる性落葉花木。学名は”Wisteria floribunda"で、種小名の”floribunda"は「花の多い」の意味である。花色は紫が多いが、「シロバナフジ」や「アカバナフジ」といった改良種も流通している。藤棚といえば「あしかがフラワーパーク」が関東ではもっとも有名だが、今年はコロナ禍で休園中。5月7日に営業再開の予定だったが、「緊急事態宣言」が延長されたため再開日は未定となった。残念なことであるが止むをえまい。

ナヨクサフジ(弱草藤)

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最近よく見かけるようになった雑草のフジ

 マメ科ソラマメ属の一年草で一部は越年する。ヨーロッパ原産で1940年代に帰化した。飼料・緑肥用に栽培されることもあるが大半は雑草化した。花はかなり美しく、なかなか存在感のある草花だ。

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よく見ると案外、綺麗です

 弱(なよ)の名前通り、花ひとつひとつはすぐに萎れてしまうが、次々に開花を続けるので全体としては数多くの花を付けているようにみえる。この草花は「アレロパシー効果」を有しているので、周囲の植物を駆除し縄張りをどんどん広げていく。以前はそれほど目につく存在ではなく、この花を見つけると何か「得」をしたような気分になったが、近年では「あそこにも咲いていやがる」という感覚をいだくことが多くなった。

ワスレナグサ(勿忘草、忘れな草

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な忘れそ

 ムラサキ科ワスレナグサ属の一年草。英名は”forget-me-not"、独名は”vergissmeinnicht"、和名は”忘れな草”でみんな同じ。花言葉は「私を忘れないで」でこれも同じ。これは、中世ドイツの物語から名付けられたと考えられている。

 若い騎士は彼女のために、ドナウ川ライン川とも)の岸辺に咲く小さく美しい花を採りに行き、誤って川に流されてしまう。騎士は力を振り絞って摘み取った花を彼女の元に投げ、「私を忘れないで」という言葉を残して流れに消えてしまった。

 この物語から分かることがひとつある。この花は岸辺に咲く=湿地を好むということだ。ワスレナグサを育てる場合、水切れは厳禁なのだ。

 個人的にはこの話よりも、映画「男はつらいよ」の第11話、『寅次郎忘れな草』のほうが印象深い。リリー(浅丘ルリ子)が初めて寅さんシリーズに登場した回だ。寅さんはリリーから花の名前を聞かれたとき、「タンポポでしょ」といい加減に答え、妹のさくらにたしなめられた。

 ノーヴァリスの『青い花』はワスレナグサをイメージして書かれ、プルーストの『失われた時を求めて』ではワスレナグサは重要な場面に何度も出てくる。イギリスのランカスター家の家紋に用いられたこともある。欧州ではとても愛されている花のようだ。私も何度かこの花を育てたが、いずれも水切れで枯らしてしまった。枯れる前、花は私に向かってこう叫んだことだろう。「な忘れそ!」

 ワスレナグサはブルーの小さな花が特徴的だが、何が愉快なのか白、ピンク、紫などの改良種が出回っている。

ハハコグサ(母子草、ごぎょう

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注目されることは少ないけれど

 キク科ハハコグサ属の二年草、もしくは越年草。ハハコグサの名前より春の七草のひとつである「ごぎょう(御形)」のほうが世間には知られているだろう。ただし、「ごぎょう」がこの草だと知っている人は少ないかもしれない。若い苗が食用になる。母子草の名前ゆえか花言葉に「無償の愛」というのがあるそうだ。若いときに身を人間のための食料として投げ出してしまうのだから、確かに「無償の愛」と言えるだろう。ただし、「春の七草」として販売されている場合は有償である。

サルビア・ミクロフィラ(チェリーセージ

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近年、見掛けることが多くなった紅白種

 シソ科アキギリ属の常緑性小低木(多年草とも)。一見、草のようだが茎の底部は木質化する。高さは1・5mにも育つので、高くなった場合は茎の下部を切り戻すと毎年、こんもりと咲くようになる。種小名には"microphylla"とあり、これは「小さな葉」を意味するが、実際には決して小さくはない。原産地がメキシコのチワワ州なので、犬のチワワのように「小さい」という意味なのかとも考えたが、地名のチワワは「乾いた砂の土地」を表すので「小さい」とは関連性がない。もっとも、砂粒は小さい。

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純白もあります

 かつては、赤い花が特徴的(本項の冒頭の写真参照)だったのだが、現在では改良種である「ホットリップス」が多く流通しているためか、紅白の花をもつものが増えている。さらに交雑種なのか、ひとつの木(草)から赤、紅白、白の三種の花を付けるものもよく見かける。

 英名のチェリーセージ(ベビーセージとも)から分かるように、葉はハーブとして利用される。

キンセンカ(金盞花、カレンデュラ

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あまり見かけなくなった古典種

 キク科キンセンカ属の一年草。以前に紹介した小型の「カレンデュラ・冬知らず」は、その名の通り越年するので多年草として扱われる。花は大きく10cmほどにもなる。一重咲き、八重咲きがあるが、近年では写真のような八重咲きタイプが圧倒的に多い。花の中心は写真のように花弁と同じ色のものと異なるタイプのものがある。花色は黄色か橙色が大半だが、複色タイプのものも見掛ける。

 以前はどこの庭や公園にもよく植えられていたが、最近では見る機会がかなり減った。群生させると豪華だし花期も比較的長いので、人気が復活すると良いとおもうのだが。なお、この花もハーブとして利用される。

イソトマ(ローレンティア)

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繊細かつ優美

 キキョウ科イソトマ属の多年草一年草とも)。開花期は長く、次々と写真のような細身の星形の美しい花を咲かせる。とてもキレイな花なのだが、近年はほとんど見掛けなくなった。これは茎から出る液が有毒で、皮膚がかぶれたり目に入ると失明する恐れがあることから敬遠されているのかもしれない。何しろ、花言葉にも「猛毒」とある。

 バラのように「美しい花には棘がある」が、イソトマのように「美しい花には毒がある」ことは、園芸の世界では実はよくあることなのだ。

〔37〕八王子の城跡を歩く(2)悲劇の八王子城(前編)

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8年前に建てられたガイダンス施設内の展示(現在はコロナ禍で休館中)

八王子城造営にいたる時代背景

 天正18年(1590年)6月14日、現在の埼玉県寄居町にある「鉢形城」は豊臣勢の北国支隊ら35000の兵に包囲されながら約一か月間の籠城戦を戦ったものの遂に開城した。城主の北条氏邦(氏照の弟)は降伏したが、北国支隊のリーダーであった加賀の前田利家豊臣秀吉に彼の助命嘆願をおこなったことで許され、後に氏邦は前田家の家臣となった。

  鉢形城が落ちたことで、残された北条側の支城は八王子城のほか、忍城(埼玉県行田市)と津久井城(神奈川県相模原市)だけとなった。忍(おし)城について本ブログでは、行田市古代蓮や古墳群を見るために訪れた際に触れている(cf.16・古代蓮の項)。忍城は北条氏に従属する国衆である成田氏の居城で、「浮き城」とも呼ばれた難攻不落の城だった。八王子城(6月23日)や津久井城(6月25日)が落城した後も石田三成率いる秀吉軍からの攻撃に良く耐え、結局、小田原城の開城(7月5日)が決定されたことで忍城も籠城を解くことになった。津久井城は北条家当主に支配権があるものの実際の領地運営の多くを城主(内藤家)に委任されていた。八王子城の落城後に徳川軍の本多忠勝が中心となって津久井城に攻め込んだが、大きな抵抗もなく落城した。

 八王子城北条氏照が造営した山城である。先の「滝山城」の項で述べたように、1569年の武田軍の侵攻によって滝山城は落城寸前にいたったこともあり、より守りが強固な城の必要性を氏照は痛感していた。その一方、彼は北条側の軍事外交権の一切を任される立場であったため、城建設に実際に着手したのは80年代に入ってからとされている。70年代は北条氏が4代当主氏政(氏照の兄)のもとで領域を下野(栃木県)や下総(千葉県)にまで広げた時期で、下野の小山領や下総の栗橋領は氏照の支配下に組み込まれた。かように氏照にはこの時期、頼りないダメな兄の氏政に変わって北条家の勢力拡大のために奔走していたので、八王子城の造営を指揮する余裕はなかったと考えられる。

 八王子城の構想自体は1570年代にはすでにあったとされ、77、78年頃には根小屋地区(家臣団の集落地)の建設が始まっていたという説がある。さらに、『新編武蔵風土記稿』には、「天正6年(1578年)北条陸奥守氏照、滝山の城をここに(深沢山のこと)引移しける時、當社(牛頭山神護寺のこと)を城の守護神と定めける」とあり、八王子城への移転を78年であると記している。もっとも、79年の武田勝頼との戦いではあくまで滝山城を本拠にする予定だったようなので、要害地区(城の中核部分)そのものの建設はまったくといいほど進んでいなかったと考えられる。80年の3月に氏照は、織田家へ家臣の間宮綱信を使者として派遣したが、その際、間宮は安土城をつぶさに見学し、その地で得た知見を八王子城の造営に生かしたとされている。とりわけ、石垣の構築法は安土城に酷似していると考えられている。このように、70年代には八王子城の萌芽はあったものの、本格的な工事は行われていなかったと思われる。

 氏照が八王子城造営に最終的なゴーサインを出したのは82年(本能寺の変があった年=”十五夜に(1582)本能寺の変を知る”と年号を暗記した)だという説がある。この年に武田軍は織田軍に攻め込まれ、武田側の要衝であった高遠城(長野県伊那市)を守っていた武田勝頼の異母弟である仁科盛信が、織田信忠(信長の長男)軍に殺害され僅か一日で落城した。この高遠城の敗北によって武田側は一気に劣勢に追い込まれ、同年に武田氏は滅亡したという経緯があった。これを知った氏照は織田軍、さらに豊臣秀吉軍に対抗するために鉄壁の守りを有する山城の建設を急ぐことになったと考えられている。

 八王子城が氏照の居城であったことを示す史料は『狩野宗円書状』が初見らしい。これは天正15年(1587年)3月に記されたもので、遅くとも87年には城としての体裁がそれなりに整っていたようだ。それより早い時期に氏照が八王子城に入っていたことを示す確実な証拠はないらしいが、史家の間では傍証から84年頃には滝山城から八王子城に移ったと考えられているようだ。これは、氏照に関して残されている史料からは84年以降、「滝山城」の文字が一切、現れなくなったからとのことだ。八王子城移転は84年説、87年説があるにせよ、この城の規模はとても巨大な(敷地面積は400ha以上)もので、しかも山城であるために、落城した90年6月の時点では未完成だったする説は非常に多い。

なぜ、八王子城なのか?

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八王子城は深沢山(現在は八王子城山)に造営された

 北条氏照はなぜ、平地にではなく、時代に逆行するような山城をあえて築いたのだろうか?なぜ、八王子の深沢山に城を築くことにしたのだろうか?

 戦国時代の後半期ともなると、城は軍事拠点としてだけでなく政治・経済の中心地的な意味を有するようになる。そもそも室町時代貨幣経済が急速に発展した時期でもあった。貨幣経済そのものは鎌倉時代に中国から「宋銭」が入ったことで盛んになり始めていたが、室町期は中国から「永楽通宝」が入って日明貿易勘合貿易)が盛んになり経済は大いに発展を遂げた。優美で煌びやかな北山文化金閣寺が代表的)、簡素で洗練された東山文化(銀閣寺が代表的)が室町時代に栄えたのは、その背後に経済発展があったからと考えられる。

 戦国時代は群雄割拠の混乱期であり経済発展は一時、停滞していたこともあったようだが、戦国大名はその力を蓄えるためにも農業政策を重視したことも確かである。当時の言葉に「ただ草のなびく様になる御百姓」というのがある。当時の農民はある点では身軽なので、領主の悪政に対しては、いつでも村を捨てる(逃散)覚悟があった。それゆえ、支配者は農民との良好な関係を保つよう努力した。氏照が築いた滝山城であれば、先の項で述べたように城内の中腹には2つの池があったのだが、これは家臣団のための溜池というばかりでなく、谷戸に住む農民のための農業用水としても用いられた。後述するが、これは八王子城でも同様で、城内を流れる城山川にはいくつか堰を築いて池を造り、この水を下流に住む農民に提供していたと考えられている。

 話を元に戻す。上記のように経済の発展から城は平地に造り、天守閣や御三階櫓(やぐら)から庶民の暮らしを睥睨するという姿が一般的になって来てはいたのだが、氏照には武田勢、さらに織田や秀吉勢の攻撃から守り抜かねばならないという事情と、安土城の鉄壁な防御態勢を学習済みであったことから、あえて守り優先の山城の構築を考えたことだと思われる。

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八王子城の出城があった小田野城

 八王子の深沢山は地理的に絶妙な位置にある。北側には案下道(現在の陣馬街道)、南側には古甲州道が通っている。いずれも、甲斐から武蔵に抜ける重要な道である。案下道には和田峠、古甲州道には小仏峠がある。1569年の滝山合戦では小仏峠を越えてきた武田勢の別動隊である小山田信茂の軍勢の奇襲に苦戦を強いられた。この反省から小仏峠側の守りを固める必要があったのだ。一方、案下道側には氏照が育った大石家の浄福寺城(八王子市下恩方町)があり、さらに家臣の小田野源太左衛門が居る小田野城(八王子市西寺片町、真下に都道61号線・美山通りのトンネルがある)という出城があった。

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深沢山九合目からの眺め。関東平野が一望できる

 後述するが、八王子城跡のある場所の多くは国有林となっているために現在は樹木の伐採が禁じられており、登山ルートの大半は見通しが良くない。しかし、写真の通り九合目付近(標高約430m)は足元が切り立った崖になっているためか樹木がほとんどないので関東平野がよく見渡せる。城があった当時は周囲の状況を知るために当然、樹木の大半は伐採されていたはずだ。西側には景信山(標高727m)、南側には高尾山(標高599m)があるために見通しは良くないが、北側の案下道方面、北東側の滝山城、拝島方面、東側の武蔵国衙(つまり府中)方面、南東の鎌倉方面は登山道の至る場所からはっきりと視認できたと考えられる。そうでなければ、敵の動きは察知できないからだ。

氏照と宗教

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八王子城中の丸跡に建つ修験者像

 氏照は小田原北条家の軍事外交権を掌握していた武闘派という面だけでなく、様々な宗教政策を用いて自らの領地に住む民衆の人心掌握を図っていた。実際、八王子城が落城する際の戦いには多くの宗教関係者が参加していた。 八王子市を代表する寺で、童謡『夕焼小焼』の鐘の音の候補のひとつとされる「宝生寺」(cf.18・浅川旅情後編)の十世頼紹、西蓮寺の六代住職の祐覚、大国魂神社(当時は六所宮)の大宮司の猿渡(さわたり)盛正はこの戦いに北条側で参戦して戦死している。

 また、氏照の配下には多くの修験者・山伏がいて、八王子城小田原城との伝令役、敵方(上杉勢、武田勢、豊臣勢)の動きを探る間諜役として活躍していた。そもそも、深沢山そのものが修験道の聖山であり修行場であった。八王子西部の山間地には熊野修験の霊場が多く存在し、もっともよく知られているのは深沢山の隣にある高尾山だろう。また、周辺には「今熊神社」や「熊野神社」が数多く存在している。

 修験道の開祖といえば有名な役小角(えんのおづぬ、役行者)の名が挙がる。奈良の吉野山から紀伊・熊野山中への大峰奥駈道を開拓したことで知られている人物だ。その流れをくむ本山派修験宗の総本山は京都にある聖護院である。聖護院といえば「聖護院八ツ橋」「聖護院大根」「聖護院かぶ」などがとても有名だが、私にとっては府中一中時代の修学旅行の宿泊先が「聖護院御殿荘」だったということにもっとも強い印象があり今でも記憶にある。京都や奈良で何を見学したのかは全く覚えていないが、修学旅行専用列車が「ひので」だったこと、その夜行列車「ひので」の車内で学年一の美少女に頭を強く叩かれたこと、そして件の御殿荘の部屋で枕投げどころか布団投げをおこない「ふとんがふっとんだ!」と叫んでいたことなどが懐かしき記憶として鮮明に残っている。

 15世紀後半に著された『廻国雑記』は北陸、関東、奥羽地域の寺や名所を巡った紀行文で、当時を知るための史料的価値はきわめて高いという評価があるが、これを著した道興准后は聖護院の門跡であった。この作品は表面的には歌枕を訪ね歩く旅の様子を記録したものとされているが、道興准后の真の目的は、各地を巡って熊野先達の組織化を図るというものだったとされている。こうしてこの時期に、八王子方面を支配していた大石氏、ついで北条氏照が修験者との結び付きを強固なものにしたのだろう。

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八王子城跡の登山道入り口にある鳥居

  深沢山には「八王子神社」がある。開祖は普賢菩薩・妙行で、山頂の岩屋で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れ、八王子権現社の設立を勧請したという。牛頭天王は京都祇園社の祭神であり、日吉山王権現とも称される。日吉(ひえ)は比叡=比叡山を表し、天台宗の本山であると同時に山岳信仰の中心地でもある。また牛頭天王スサノオの本地とも考えられているので、この宗教的立場は山岳信仰天台宗神道が融合したものである。妙行が開いた八王子権現朱雀天皇に認知され、牛頭山神護寺(現在の宗閑寺)の名が与えられた。この信仰は八人の王子を祭神とするため、ここの地名は八王子と称されるようになった。

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八王子市の名の由来となった八王子神社

 八王子神社の社殿は八王子城跡・中の丸にある。なにやらうらぶれた様相ではあるが、この山は前述のように国有林となっているので改築・新築は容易ではないのかもしれない。屋根の一部が折れ曲がっているのは、昨年の台風15号の強風によるものだろう。

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隙間だらけの社殿の中をのぞく

 隙間だらけの社殿の中をのぞいてみた。中には小さいがそれなりの風格をもった社があった。バラック風の社殿はこの立派?な社を保護するための覆いと考えれば、うらぶれた外観も了解可能かもしれない。そう、平泉・中尊寺金色堂を守る「覆堂」のごとくに。いや、それにしてもみすぼらしい。ここは市名の発出点なのに!

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望遠レンズで高尾山方面をのぞいた

  二の丸(松木曲輪)からは八王子山岳信仰の親玉格である高尾山が見える。写真は標準換算350ミリの望遠レンズでのぞいたものなので、肉眼ではもう少し小さく見える。写真にある建造物はケーブルカーの駅舎かと思われる。

 深沢山(現在の八王子城山)と高尾山との間には古甲州道が通り、現在では中央自動車道首都圏中央連絡自動車道(通称は圏央道)とが通っている。中央道は古甲州道に並行しているので深沢山と高尾山との間の谷底を走っているだけだが、圏央道は両者をトンネルを使って串刺しにしている。ラジオで交通情報を聞いていると、高速道路の渋滞情報ではよく「圏央道八王子城跡トンネルで〇キロ渋滞」「圏央道・高尾山トンネルで△キロ渋滞」というアナウンスが流れる。両者のトンネルの間はわずかばかりだけ地上に顔を出し、そこには中央道とをつなぐ八王子ジャンクションがある。中央道のほうは地表を進むのでまだましだが、圏央道のほうは青梅側から合流するにせよ厚木側から合流するにせよ、トンネルを出るとすぐ側道に入らなければならないため、トンネル出口付近の事故はとても多い。心霊スポット好きの知人はこれを八王子城の悲劇の祟りだと言うのだが……お前の頭のほうが祟られているのでは、と反論したくなるが……最近では大人の対応をしている。

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神護寺があった場所には氏照と家臣団の墓がある

 氏照は1559年頃に由井(現在の八王子市域)の領主として浄福寺城に入り領国支配を開始した。それまでは由井源三を名乗っていたが、この時期からは養子先の大石姓を用いるようになった。

 61年には高尾山に椚田(くぬきだ)谷の一地域を寄進した。その背景には、当時は越後の上杉謙信と関東の地の争奪戦をおこなっていたため、武運を祈願し、あわせて人心収攬を図るという目的があった。62年には青梅の金剛寺に門内不入権を与え寺領を安堵した。65年には座間の星谷寺に竹林伐採を禁じる制札を立てた。これも寺領が外部の者に荒らされないよう保護したものだ。同年、府中の高安寺に寺中棟別銭免除を認めた。いわゆる不輸権の承認である。67年には八王子の大寺である宝生寺を滝山城下への移転を勧告した。これは未達成であったものの、城下に著名な寺を置くことで人心の掌握を一層、推し進めようする考えに基づいている。69年頃に牛頭山神護寺を深沢山の麓に建立した。さらに71年には神護寺境内での殺生、竹木伐採、乱暴狼藉の禁止をおこなった。81年には高麗郡(現在の狭山市)にある笹井観音堂の年行事職の任免権を氏照が得た。この観音堂は聖護院本山派の武蔵国の拠点のひとつであったため、氏照は修験者・山伏との結び付きを一層、強めることになった。

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神護寺は現在、宗閑寺と呼ばれている

 中世、寺社の力はとても強く、ときには将軍や朝廷の存在を脅かすほどの存在であった。鎌倉時代の初期には新仏教の浄土宗・浄土真宗臨済宗曹洞宗などが武家や庶民の間に広まり、それに対抗すべく、旧来からある天台宗真言宗も勢力を拡大し政治に対抗した。例えば1414年の『高野山文書』には以下の下りがある。「部外者の検断吏が境内に入り、そのに逃げ込んだ誰かを罪人だと称して、問答無用で理不尽に殺害することは認めない。犯罪者であることが事実だとしても、高野山の沙汰所の許可を得てから逮捕せよ」。これは、高野山境内の入口に立てられた制札の文言である。

 中世の寺社は「アジール」としての性格を有していた。アジールは「平和領域」「避難所」という意味がある。「駆け込み寺」「縁切寺」も一種のアジールである。一般には「平和聖性にもとづく庇護・およびその庇護を提供する特定の時間・場所・人物」とアジールは定義されている。

 アジールの背景には宗教的・魔術的観念が必要不可欠で、アジールには周囲よりもオレンダまたはハイル(ともに神的な力を意味する)が凝集されており、オレンダ・ハイルに接触した人間はアジールの保護を受ける。これを「感染呪術」とか「接触呪術」といい、人々が神仏に触れたり(ex.とげぬき地蔵)、神社仏閣に参拝したり(ex.初詣)、お札やお守りを有するのはオレンダに感染し、自己の安寧を図るためだ。

 塀に「立小便禁止」と記すより、鳥居の絵を描くと効果があるとされているようで、今でもときおり見掛けるが、これもアジールの一種と考えられる。観念的動物である人間は鳥居に立ションするのは憚られるが、犬には信仰心がないので効き目はない。私の場合はオレンダには感染しないので鳥居の絵は通用せず、むしろ的になる。とはいえ、緊急避難時以外は塀に立ションはしないが。近代になると社会は合理化が進み、政治も「伝統的支配」や「カリスマ的支配」から「合法的の支配」へと移行する。ウェーバーはこれを「脱呪術化」と呼んだ。

 氏照は先に述べたように寺社勢力を取り込むことによって領地支配の安定化を図った。しかし、それだけでは民衆の心を真に掴むことはできない。そのためもあってか、1573年には西蓮寺内にある「御嶽権現」の落成を祝って「龍頭舞」が氏照の命によっておこなわれ、以来、この行事は現在でも伝統芸能として八王子市石川町で挙行されているそうだ。また、やはり現在、狭間町でおこなわれている「獅子舞」は90年に氏照から獅子を拝領したことが起源とされている。このようの、民衆と一体となって祝い事をおこなう。これもまた「ハレの時と場所」を共有するアジールの一種と考えられる。

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宗閑寺の梵鐘は八王子城合戦に備えて供出させられた

 小田原北条氏とは直接のつながりはないが(最近の研究では伊勢新九郎は北条氏の遠縁であることが判明している)、鎌倉時代に執権政治をおこなった北条泰時は1232年に「御成敗式目」を制定している。この第一条は「神社を修理して祭りを大切にすること」、第二条には「寺や塔を修理して僧侶としての勤めをおこなうこと」とある。第三条に至って「守護の仕事について」の定めが出てくる。御成敗式目武家社会の伝統や慣習を明文化したものであるにも関わらず、冒頭には「宗教政策」についての定めがあるのだ。また、小田原北条家の祖である北条早雲伊勢新九郎)は北条家の家訓として「早雲寺殿二十一箇条」を定めたが、この第一条は「仏神を信じなさい」とある。やはり、冒頭には宗教について述べている。ことほど左様に、この時代は政治と宗教が密接に関係していた。

 「御成敗式目」は中学校社会科にも出てくる(多分?)ほど日本史では基礎中の基礎知識なのだが、これが制定されるようになった背景は案外、知られていない。当時、1230年に始まった「寛喜の飢饉」が猛威をふるっていたのだ。30年7月には岐阜や埼玉で降雪があるなど冷夏と長雨続きだった。だが、31年には一転して酷暑となり、「天下の人種、三分の一失す」と言われるほど不作の連続だった。こうした領民の苦難を精神的に救済するため、何よりもまず為政者が神仏の敬うという方策がとられたのである。併せて改元がおこなわれて「貞永」に変わった。「御成敗式目」が「貞永式目」とも呼ばれるのはこのことによる。

 氏照もまた早雲に倣い宗教や宗教家を保護したが、それには限界があった。豊臣秀吉との対立が深まりつつあった1587年、鉄砲、大筒、弾丸の材料が底をついたため寺社にある梵鐘の供出を開始したのである。牛頭山神護寺の鐘も例外ではなかった。さらに本来、公界者(俗界と縁を切った者)であるはずの修験者・山伏を伝令や間諜に使い、俗世間に引き戻した。また、農民も八王子城建設に駆り出され、さらには兵士に加えられた。

 アジールとしての八王子城は一転、戦場へと転化したのである。

 

*後編に続きます

〔番外編〕花に誘われ春紀行

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春の妖精・カタクリの花

花の命は短いけれど

 前回でも述べたように3月下旬は、今や山野草の代表格となったカタクリの花が満開になる時期だ。例年は埼玉県小川町にある「カタクリニリンソウの里」に訪れ、山の斜面に植えられているカタクリと、手前の平らな場所に群生して咲くニリンソウに逢いに出掛けているし、今季もその予定だったけれど、当日に急用が入ったために午後からしか時間が取れなかったので埼玉まで行くことは断念し、代わりに前回に紹介した武蔵村山市にある「野山北公園」の『カタクリの里』を再訪した。

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カタクリの花の群生

 3月下旬、野山北公園の丘の斜面に植えられている無数のカタクリは、全体としては7、8分咲き程度で、完全に花を開いているものもあれば開花途上のもの、まだ蕾状態のものもあった。ここの規模は小川町のそれの5分の1程度だが、見ごたえは十分にある。公園並びに周辺には散策コース、丘の斜面に設えられた遊具施設、運動場、無料釣り堀、それに立ち寄り温泉もあるので、多彩な楽しみが体験できる場所だ。カタクリは”スプリング・エフェメラル”(儚い春)の象徴的存在なので、花に触れる期間は短いけれど、春の到来を実感するためもあって「カタクリの里」周辺を訪れる人は多い。

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まだ開花途上のものも多くあった

 私の場合は「カタクリ」と「野山の散策」の二つの目的だけにここを訪れるが、それでも年に7,8回はこの里山に出掛ける。もっとも、カタクリは春のひとときを楽しませてくれる花だし、野山の散策は五月蠅い虫と長虫が姿を現さない冬・春に限られるので、カタクリに触れると、その年の「野山北公園」詣は終了となる。

 花の命は儚いけれど、地下で命を繋いでくれている間は再び、次の年も私の目や心を楽しませてくれる。近い将来、私はここを訪れることはできなくなるだろうが、花はそんなことには関わりなく、季節の廻りにしたがって人々を和ませる。

ゼラニウム・フェアエレン

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ゼラニウムには無数の品種がある

 フウロソウ科ぺラルゴニウム(テンジクアオイ)属の多年草で、種類の多いゼラニウムの仲間では「センテッド(ハーブ)・ゼラニウム」に分類される。葉や茎に香りがあり、バラ、オレンジ、レモンのような芳香を有するものが多い。写真の”フェア・エレン”はパイン(松)の香りがすることで知られている。

 ヨーロッパの集合住宅の窓辺には”ウインドウボックス”が設えられており、ここには花を置くという習慣がある。窓辺を花で飾るというのは個人の趣味というより市民としての公共心を表現することに結び付けられている。そこに飾られる花の大半は四季咲きの「ゼラニウム」であり、夏場はこれに「ペチュニア」が加わる。

 日本でも長年、園芸品種を育てている趣味人は四季咲きのゼラニウムを好んでいるようだが、新興住宅地を徘徊して玄関や庭先にある花に接してみると、この花を見かけることは案外少ない。くだんのゼラニウムはもはや古典種であって、今の人の心を惹きつけることはないのだろうか。残念なことである。今の時期はパンジービオラが盛りだが、少しずつチューリップが開花し始め、その花期が終わると次は初夏の花の代表格である「ペチュニア」がポットやプランターの主役に躍り出ることになる。

 ゼラニウム(Geranium)の属名は現在ではペラルゴニウム(Pelargonium)だが、18世紀の博物学者で「分類学の父」(ラテン語二名法を確立)と呼ばれているスウェーデンのリンネがこの花をゼラニウム属に分類したため、今でも園芸店や園芸家には「ゼラニウム」と呼ばれている。園芸品種名としてのゼラニウムには、四季咲きのゼラニウム(古典種)のほか、多彩な花色をもつ改良種で一季咲きの「ペラルゴニウム」、蔓(ツル)性品種である「アイビーゼラニウム」、そして写真に挙げた「ハーブ(センテッド)ゼラニウム」の4種に大別される。私が20年ほど前、園芸にどっぷりとはまっていた頃は、いつもメインの花として四季咲きゼラニウムを庭やプランターに置き、ハンギングポットにはアイビーゼラニウムを用いることが多かった。

キジムシロ(雉筵)

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ヘビイチゴミヤマキンバイと同じ仲間

 バラ科キジムシロ属の越年草もしくは多年草。春から初夏にかけて日本全土の野山に咲くありふれた花で、ヘビイチゴミヤマキンバイと同属。花の大きさは10~15ミリ程度とひとつひとつは小さいものの、緑の葉の上に咲く黄色の花弁がよく目立つ。ミヤマキンバイ(深山金梅)は高山植物として大切に扱われるが、本種やヘビイチゴは雑草扱いされるので注目されることはまず少ない。しかし、よく見るとかなり美しい存在である。

チオノドクサ(雪解百合) 

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早春から咲く球根性多年草

 キジカクシ科チオノドクサ属の球根性多年草クレタ島キプロス島、トルコが原産地。耐寒性があるので植えっぱなしでも例年、晩冬には目を出し、早ければ2月には花を咲かせる。スイセンと同じ季節の花と思えば良い。

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青紫の花びらが美しい

 写真のものは「ルシリエ」「ルシリアエ」「フォーベシー」などと呼ばれている品種で交雑が進んでいるためか色の濃淡がかなりある。また、花色が白やピンクのものもあるが、個人的にはこの花弁の先端が青紫で中心部が白色のものが好みである。

カレンデュラ”冬知らず”(ヒメキンセンカ、ホンキンセンカ

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開花期間がとても長い

 キク科カレンデュラ属の多年草で原産地は地中海沿岸。キンセンカは改良品種がとても多く、寄せ植えや切り花としてよく用いられる。ここで取り上げたキンセンカはその仲間の中ではもっとも地味なもので、”ハーブ”として重用される以外は野草化し、道端でも見掛けることがよくある。

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日があまり当たらないときは花弁は閉じ気味

 「冬知らず」の品種名がある通り寒さにはかなり強く、日当たりの良い場所では1月頃には開花し6月頃まで咲く。学名は"Calendula arvensis"で、属名のカレンデュラの語源はカレンダーである。カレンダーは”帳簿”を意味するが、この花と帳簿との関係は不明だ。写真のように、曇りのときは花は半開き状態だが、ひとつ上の写真のように日当たりが良いときは花弁を目いっぱい開き、花の中心部も笑顔になる。

オダマキ(西洋オダマキ

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改良品種が無数にあるオダマキ

 キンポウゲ科オダマキ属の多年草。50センチほどの高さに直立し、上部に多数の花を咲かせる。日陰でもよく育ち多くの花を咲かせるので日当たりの少ない庭やベランダで育てることが可能だ。

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オダマキは交雑しやすいので、多数の花色がある

 セイヨウオダマキは元々、交雑種から育成されたものなので多数の品種があり、花の形や花色が異なるものがとても多い。

 山野草として扱われる日本原産のオダマキには、高山植物として扱われる「ミヤマオダマキ」のほか、「ヤマオダマキ」などがある。こちらは高さが10~20センチほどで、うつむき加減の美しい花を咲かせる。

オランダカイウ(阿蘭陀海芋、カラー、リリー・オブザナイル)

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カラーの仲間だが湿地を好む

 サトイモ科オランダカイウ属の球根性多年草。カラーの仲間はその立ち姿と清楚な花を有することから切り花やブーケ(花束)に用いられることが多い。カラーの語源はその花の形が襟や袖の形を整えるカラー(collar)に似ているから、清楚な美しさを有するのでギリシャ語のカロス(美しい)に由来するなど諸説ある。カラーは色が豊富だが"color"を語源とするわけではない。

 切り花やブーケに用いられるカラーは乾地で栽培されるものだが、「オランダカイウ」はエチオピアを原産地とするものでカラーの原種の中では唯一、湿地に育つものである。「リリー・オブザナイル」の別名があるようにアフリカでは大切な花とされ、エピオピアでは国花に指定されている。この花の学名は”Zantedeschia aethiopica”であり、種小名に「エチオピア」の文字がある。なお、写真は国分寺崖線の湧水を集めた「お鷹の道」に沿って流れる小川に自生するカラーを撮影したもの。

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オランダカイウは大きな仏炎包を有する

 カラーの花は「花弁」ではなくガクが変化したもので、その特徴的な形から「仏炎包」(ふつえんほう)と呼んでいる。後に挙げるが、「ミズバショウ」もこの「仏炎包」を有する。

ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作、アカバトキワマンサク

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赤い花は通常種が変異したもの

 マンサク科トキワマンサク属の常緑性低木。常緑性なので冬でも少し葉は残るものの春になると新しい葉が生長する前に写真のような花を付ける。通常のトキワマンサクははクリーム色の花を咲かせるが、突然変異で赤い花を付けるものが出来て、現在ではこの「ベニバナ」のものが主流になっている。写真のものはやや花が少ないが、マンサクの語源と言われる「豊年満作」のように枝いっぱいに細い帯のような花を付けるものも多い。 

ムラサキケマン(紫華鬘)

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ホトケノザに似た感じの花。毒草として知られる

 ケシ科キケマン属の越年草。やや湿った木陰などで見られる「雑草」。花の形は「ホトケノザ」に似ているが、こちらの草のほうが花数は多く、とくに頭頂部には写真からも分かる通りビッシリと咲く。花冠は筒状でその長さは10から20ミリ程度。先端部は唇形状に開く。草全体が有毒でアルカロイド成分を有する。この特性から薬草に分類される。これを食した場合の中毒症状は嘔吐、酩酊状態、昏睡、心臓麻痺などがある。ただし、現在のところ死亡例は発表されていないらしい。

シャガ(射干、胡蝶花)

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やや湿り気のある木陰に群生する

 アヤメ科アヤメ属の多年草。中国原産だがかなり昔に日本に入ってきたためか、学名は”Iris japonica"になっており、種小名には「日本の」とある。山里のやや湿った木陰にはどこにでも見られるが、この草花は種はできず地下茎のみで増えるため、人為的に移植したか、種を作る中国産のものが移入されているのかは不明なようだ。

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花は清楚でなかなか美しい

 花は白地に青とオレンジの模様が混じりなかなか美しい。今回は国分寺崖線下の小川、府中崖線下の小川、小金井の貫井神社境内などで群生する様子を観察した。数年前は武蔵村山市の六道山公園の散策路でこの花の大群生が見られたので今回、久しぶりに出掛けてみたのだが、残念ながらすべて撤去されていた。葉っぱすら見掛けなかったので、地下茎ごと撤去されたようだ。種子はないので、今後はシャガの群生を見ることはできないだろう。残念なことである。

 シャガの大群生といえば、奈良の吉野山の斜面を思い出す。数年前までは毎年、吉野山へ桜見物に出掛けていたが、山頂から下る際はいつも谷沿いの道を使った。そこには一面、シャガの大群生があった。一目千本のヤマザクラはこの上ないほど見事に咲くが、その陰にあっても、シャガの凛々しい花の群生は負けず劣らず見応えがあった。

ヤブレガサ(破れ傘)

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葉の形が破れた傘のようにみえる

 キク科ヤブレガサ属の多年草。山里の林の日陰場所で目にすることが多い。茎は高さ1mほどまでに伸びる。花は初夏に付けるが10ミリ程度の小さな花なので、開花に注目する人はまずいない。私自身、この花には何の関心も抱かない。

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ヤブレガサの新芽

 この山野草の魅力は地中から顔を出し始めた新芽の姿形にある。私は今の時期に山里へ散策に出掛けたときは木陰に入るとこのヤブレガサの新芽を探すことがしばしばある。新芽は写真のように綿毛に覆われ、破れた傘をすぼめたような姿をしている。これが愛らしいということで、自然のものだけでなく改良園芸種まで出回っている。斑入り(ふいり)のものがとくに人気が高いらしい。山野草の世界はかくも不可思議である。

カキドオシ(垣通し、連銭草)

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ツル性の草花なので地面を這うように育つ

 シソ科カキドオシ属の多年草。花は10~15ミリ程度の大きさなのでこの花の存在に気が付かない人がほとんどだ。しかし、一度でもこの存在を意識すると毎春、野原でこの花を見つけることが楽しみのひとつになる。現実には、日本全国のどこにでも自生し、身の回りにある野原や道端でも簡単に見つけることができる。

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群生するカキドオシ

 そう、あなたがよく遊んでいた春の原っぱには、こんなにも小さいが、これほどに愛くるしい「雑草」が地べたを覆っているのだ。そして、まったく存在に気づかず踏みつぶしていたのだ。

カウスリップ(黄花九輪桜)

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残念な名前だが花はとても美しい

 サクラソウサクラソウ属の多年草。標準和名の”キバナクリンザクラ”ならその姿に相応しいが、英名の”カウスリップ”はとても残念で可哀そうな名付けである。cow-slipは「牛の糞」という意味になるからだ。それでもこの花は食用にもハーブとしても薬草としても用いられる。イギリス人は「牛の糞」を口にするのだ。一方、ロシアではこの花を「初花」と名付け、春の到来を告げる存在と位置付けた。属名がPrimula、すなわちプリムラ=プライムなのだから「初花」であっても何の不思議はない。

 姿形は、以前に取り上げた「プリムラ・ポリアンサ」に似ている。というより、プリムラの原種がこの花なのだ。園芸種のプリムラよりはやや背が高くなり花付きも今一つといった感じだが、写真からも分かる通り、本家本元ならではの深い味わいがある。もっとも、この品種の姿そのままに花付きを良くしたり花色を変化させたりした改良種もある。そちらのほうは何やら徒長(間延び)したプリムラのようで、個人的には好みではない。

ミズバショウ水芭蕉

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近年は至るところで栽培されている

 サトイモミズバショウ属の多年草ミズバショウ尾瀬の結び付きは誰もが知るところで、この花を見るためには「はるかな尾瀬遠い空」まで出掛けなければならないと思っている人は案外多い。実際には、池(沼)を有する「身近な公園」でも多く栽培されている。写真は「カタクリ」の項で挙げた武蔵村山市の野山北公園のもので、3月中旬から4月上旬頃が見頃だ。本場?の尾瀬では5月から6月上旬が見頃となる。低地では春が来ると、高地では夏が来ると思い出す花なのだ。今年はコロナ禍が拡大中なので、尾瀬ミズバショウも落ち着いて咲き揃うことができるのではないか?

 オランダカイウのところでも触れたが、白い花のように見えるのはガクが変化した仏炎包。花は中心にある「ツクシ状」のものでこれを肉穂花序(にくすいかじょ)という。ミズバショウの名は沖縄や奄美地方に群生するイトバショウに葉の形が似ており、清らかな水辺に生育することからこのように名付けられた。なお、イトバショウの葉の繊維は「芭蕉布」の原料になる。

イカリソウ(碇草、錨草、淫羊藿(いんようかく))

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名前の由来はその花の形にあることは言うまでもない

 メギ科イカリソウ属の多年草。たとえ、この花の名前を知らなくても船のイカリに似ているということはイメージされるはずだ。耐寒性があり日陰でもよく育ち花色がきれいな山野草として人気が高い。また、薬草としてもその効能はよく知られており、強壮薬として用いられる。中国名は「淫羊藿(いんようかく)」であり、その名前から推測できるように精力剤の原料となる。

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白花が特徴的なトキワイカリソウ

 写真のトキワイカリソウイカリソウの近縁種。人気の花ということもあっていろいろな原種や近縁種、改良種が見いだされている。初心者にも育てやすいということもあり、春の山野草として安定した人気を誇る。”夕映”や”多摩の源平”などという洒落た名前をもつ品種は愛好家の間で評価が高い。

スミレ(菫)

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タチツボスミレ~最近では一番多く見かける

 スミレ科スミレ属の多年草。スミレの狭義の学名は"Viola mandshurica"で、スミレ、や写真に挙げたタチツボスミレ、アツバスミレなどが種小名の”マンジュリカ”に属する。野原や山里、ときには公園や路地でよく見かけるスミレはタチツボスミレ(立坪菫)の場合がほとんど。葉が丸みを帯びた心形であればタチツボスミレ、葉が長楕円形であればスミレだと区別がつく。もっとも、スミレの仲間は原種だけでも60種ほど、さらに交雑種も数十種あると考えられているので、道端に咲いているスミレが園芸種のこぼれ種から生育した可能性もなくはない。なお、種小名の「マンジュリカ」は「満州の」という意味である。

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白い花に青紫のすじが美しいアリアケスミレ

 スミレ=Viola=ヴァイオレットなので花の色は紫と思いがちだが、写真のアリアケスミレのように白色のものもあり、アツバスミレは白と紫のバイカラー、キスミレはその名の通り黄色などの種類もある。世界では約300種もあるらしいので、スミレの世界は深さも広さもある。

 アリアケスミレの学名は”Viola betonicifolia"なので、狭義のスミレ(マンジュリカ)には属さず、通常は「スミレの仲間」として区別される。写真のスミレは愛好家の渾身の作なので色のバランスがとても良いが、花色は変異しやすいためどんな色の花が開くのかは育ての親の楽しみでもある。

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花弁のよじれが特徴的なニョイスミレ

 写真のニョイスミレ(如意菫、ツボスミレ、”Viola verucunda")もマンジュリカではないスミレの仲間。写真のように花弁がよじれて咲くのが特徴的。花は白を基準に紫色のすじが美しい。故志村けんの歌でよく知られる東村山の庭先にある多摩湖(実際には東大和市)の東側にある狭山公園の道端で見つけた。一帯は無数のタチツボスミレが満開状態だったがその一角だけにニョイスミレの群生があった。広大な公園の敷地の中で、ここだけにタチツボスミレではない種のスミレが咲いていたのである。合掌。

ショウジョウバカマ(猩々袴)

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湿った谷間に咲く人気の山野草

 シュロソウ科ショウジョウバカマ属の多年草。日本北部、サハリン南部、千島列島南部を原産とする山野草。原産地から分かる通り耐寒性はとても強い。半日蔭のやや湿った谷間に咲く。また、雪解け水が流れ込む平地にも生息する。背丈は10~20センチほどのかわいらしい野草で、園芸種としても人気がある。ただし、花期が終わって種子を作り始めると花茎は30センチ以上に伸びることもある。花は赤紫色が基本だが、ピンクや写真のように白色のものもある。

アミガサユリ(編笠百合、バイモユリ、貝母)

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絶滅危惧種に指定されている山野草

 ユリ科バイモ属の蔓性の多年草。地下に鱗茎をもち、梅雨時期から休眠する”スプリング・エフェメラル”である。全草にアルカロイドを含む「毒草」であるが、この特性を利用して「薬草」として用いられることも多い。中国原産で700年前から栽培されていた。日本には江戸時代の享保年間に移入された。現在は野生化しているものもあるが、園芸種として販売されてもいる。近縁種にはクロユリなどがある。

ノウルシ(野漆)

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ウルシの名があるだけに有毒だ

 トウダイグサ科トウダイグサ属の多年草。かつては河川敷や湿地帯で群生していたが、開発が進んだことでその姿を見る機会は激減した。名前に「ウルシ」が付いているとおり毒草だが、本来のウルシとはまったく関係はなく、葉や茎からウルシに似た乳液を出すことから名付けられたようだ。この液体に触るとかぶれを起こす。花弁やガクはなく、花のように見えるのは葉の一部であり、雄蕊や雌蕊を包むような形になっている。これを「杯状花序」という。

ミミガタテンナンショウ(耳形天南星)

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独特な仏炎包をもつ花

 サトイモ科テンナンショウ属の球根性多年草。学名は"Arisaema limbatum"で、種小名の「リムバートゥム」は「耳の大きい」という意味。球根は有毒ながらでんぷん質を多く含むので食用とされることもある。 仏炎包の左右に張り出しがあるので、この特徴から「ミミガタ」の和名が付いた。山野の肥沃な場所によく生育するため、里山の散策では案外目にすることがある。

タンチョウソウ(丹頂草、イワヤツデ

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花や葉の形が独特な山野草

 ユキノシタ科タンチョウソウ属の多年草中国東北部朝鮮半島の渓谷の岩場などに自生する。耐寒性が強いために育てやすく、山野草の園芸種として人気があり改良種も多い。花色は白だが、改良種には咲き始めは赤色に染まるものもある。葉の形が「ヤツデ」に似ているので「イワヤツデ」という別名があり愛好家にはこの名のほうが通りが良い。タンチョウソウの名は、その花のつぼみが赤みを帯びていることに由来する。

ユキワリイチゲ(雪割一華)

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花も美しいが名前も良い

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。本州西部から九州の山林などに自生する。山野草として人気があるため園芸店で入手できる。地下に根茎があり、夏場以降は地上から姿を消す”スプリング・エフェメラル”の仲間。花付きはあまりよくないので、イチリンソウの仲間では育成がやや難しいとされている。近縁種にはイチリンソウニリンソウキクザキイチゲアズマイチゲなどがあり、いずれも春咲きの山野草として人気は高い。

ドウダンツツジ灯台躑躅、満天星)

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春は花、秋は紅葉が楽しめる

 ツツジドウダンツツジ属の落葉性低木。原産地は日本だが現在、自生地は少ない。ただし庭木、街路や生垣の低木としてよく用いられているので目にすることは多い。白い小さな壺形の花は葉が出る前に咲く。丈夫な木なので日陰でも育つが花付きは悪くなる。春は無数の小さな花、秋は赤く色づく葉が楽しめるので日当たりの良い場所で育てたい。

フリージア

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花色だけでなく香りも良い

 ユリ科フリージア属の球根性多年草。香りがとても良いので切り花や花束としてもよく用いられる。園芸種としても評判が良いためか改良種も相当に多い。花色は白、ピンク、赤、黄、オレンジ、紫、複色など多数あり、さらに一重咲と八重咲とがある。”ポート・サルー”、”スカーレット・インパクト”、”ハネムーン”などといった品種名で多数のものが出回っている。

ブルーベリー

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ブルーベリーは味も良いが見た目も良い

 ツツジ科スノキ属の落葉性低木。北アメリカ原産。ブルーベリーは果実がよく知られているが、花も意外に美しい。水はけの良い酸性土壌を好むので日本の庭木には最適だ。春には花を楽しみ、収穫後は味を楽しむ。ブルーベリーは目に良いとされているが根拠に乏しい。しかし、美しい花を愛でるのは目に良いことは確かだ。

ネモフィラ・マクラータ

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青い斑点が可愛らしい

 ”ネモフィラ・メンジェシー”についてはすでに触れている。「ひたち海浜公園」の大群生は今が見頃だが、コロナ禍のために今季は入園できない状態にあるようだ。個人的には写真の”マクラータ”が好みだが先にネモフィラを取り上げたときにはこの品種が見つからなかったということを述べた。が、先ごろ見つけたので撮影してみた。

ヒトリシズカ

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ヒトリシズカが賑やかに咲く

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茎が緑色の品種

 ヒトリシズカについてもすでに取り上げている。今回はその群生と、茎色が通常種とは異なるものと出会ったので撮影してみた。

 

〔番外編〕春を探して花季行(2)

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「華やかな魅力」が花言葉ラナンキュラス

 新型コロナの影響は近所にある市立図書館にまで及び、本を借りることができるのはネット予約のみで、館内閲覧での本探しは不可能になってしまった。本とのめぐり逢いは人との邂逅と同じような大きな喜びがあるので、ネットでの本探しは実に味気ない。ただでさえ読書量は少ないのに、本との本当の出会いの場が大きく失われたため、いよいよ読書時間はめっきり減ってしまった。代わりに増えたのはテレビのニュースチェックとスマホやPCでのゲーム時間。それに、日中の徘徊。今時分は春の花が続々と開花するので、雨の日以外は毎日のように花探しに出掛けている。とはいえ毎度、カメラ持参で出掛けているわけではないので、いい感じの撮影機会をずいぶんと逃しているのは残念だが事実だ。

 今回も前回に引き続き、近隣で見つけた春の花を紹介してみた。私が自動車免許を取って初めて運転したのは新型ブルーバード。以後、十数年間は「技術の日産」ファンを続けたので、トヨタの新型コロナにはまったく魅力を感じず、ブルーバードを4台ほど乗り継いだ。それが祟ったのか(もちろんそんなものはまったく信じていないのだが)、今になって「新型コロナ」に行く手を大きく阻まれている。それもあって、しばらくは素敵な本との思いがけない遭遇の機会は減少し、反面、大好きな春の花との「濃厚接触」の場面が増大しているという次第なのだ。これも、いいのだ。

アカバミツマタ(赤花三椏、ベニバナミツマタ

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ミツマタの園芸種であるアカバミツマタ

 ジンチョウゲミツマタ属の落葉性低木。枝は必ず三つに分かれるところから「三又」と名付けられたようだ。花は写真のようにかなり美しいが、有名なのは紙幣の原料に用いられていること。樹皮は強い繊維質を有しているので、強度がなによりも重要な紙幣の素材に使われている。

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花弁のように見えるが、実はガク

 筒状の花の集合体のように見えるが、実は花弁はなく、花びら状のものはガクの先端部が4つに裂けているためだ。「花」には適度に良い香りがあり、こうして接近して撮影すると気分爽やかになる。

ミツマタ(三椏)

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こちらはミツマタの原種

 ミツマタは中国原産の低木で高さは2mほど。写真からも分かる通り、たしかに枝は三つに分枝している。

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「花」はうつむき加減に咲く

 原種のミツマタの「花先」はほんのりと黄色くなり、こちらのほうが清楚な感じがする。切り花としても人気がある。花期が終わると枝には葉が茂るようになる。

トサミズキ(土佐水木)

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垂れ下がるように咲くトサミズキの花

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咲き始めたばかりのトサミズキ

 マンサク科トサミズキ属の落葉性低木。名前から分かるように四国原産である。葉に先立って枝からは紅色の花芽ができて、それから黄色の花が5から7個ほど垂れ下がるように(穂状花序)咲く。通常、樹高は2~4mほどだが、矮性の園芸種もあり盆栽によく用いられる。

ハクモクレン(白木蓮

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ハクモクレンモクレンの仲間では最も背が高くなる

 モクレンモクレン属の落葉広葉樹。通常、モクレンとは紫色の花をもつ「シモクレン」を指し、写真のように白い花を付け、10m以上の高さになるモクレンを「ハクモクレン」と呼んで区別する。本種はシモクレンに比べて半月ほど早く咲くため、3月中旬ではシモクレンの開花は発見できず、すべてハクモクレンだった。

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ハクモクレンの花。花弁は6から9枚ある

 ハクモクレンの花びらは6から9枚あり、さらに同じような大きさのガクも3枚ある。花は天上に向いて咲き、花弁は完全には開かない。なお、モクレンの仲間を「マグノリア」と呼ぶ自称”専門家”がいるが、これはモクレンの仲間をラテン語でMagnoliaと言うことに由来する。

コブシ(辛夷

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マグノリアの仲間のコブシ

 モクレンモクレン属(マグノリア)の落葉広葉樹。10m以上の高木になるが、ときおり、街路樹などにも用いられているのを見かける。さぞかし剪定が大変だと思われる。写真からも分かるように、先に挙げたハクモクレンと類似しており、コブシをハクモクレン(あるいはその逆)と勘違いする人も多い。早春、両者はほぼ同時に咲き、似たような(同属なので当たり前だが)花を付けるので混同しやすい。

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ハクモクレンは上方に、コブシは四方八方に咲く

 コブシとハクモクレンの違いは簡単に分かる。ハクモクレンの花は天に向かって咲くが、コブシは写真からも分かるように規則性がない。ハクモクレンの花弁はやや厚みがあるが、コブシの花弁はやや薄い。ハクモクレンは葉が出る前に咲くが、コブシは花の下に一枚の葉を出す。これさえ覚えておけば区別はすぐにつく。

 北国の春に、丘の上で白い花を付ける高木があればそれはハクモクレンではなくコブシである。千昌夫は、拳を振りながらこぶしたっぷりにそう唄っている。

 コブシは日本原産で、学名は”Magnolia kobus” である”。種名のkobusの語源は「こぶ」であるが、コブシの「こぶ」は何を指し示すのかは特定されていない。

オオカンザクラ(大寒桜)

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オオカンザクラは早咲きの桜

 オオカンザクラはカンヒザクラオオシマザクラの交配種。カンヒザクラの花は前回、写真に挙げたように紅色が濃く、下方に向いて咲く。オオシマザクラは白い花を付け、可食できるサクランボを実らせる。本種は花にやや赤みがあり、カンヒザクラの特徴をよく受け継いでいる木はかなり赤い花を付けるが、写真のものは色づきは普通である。

 桜並木といえばヨメイヨシノが定番だが、本種はそれよりも1,2週間ほど早く咲くため、見物客を早めに集めたい町ではその資源として本種を街路に植えているが、近年では、早咲きの桜といえばカワヅザクラがつとに有名になってしまった。

レンギョウ

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八分咲きのレンギョウ

 モクセイ科レンギョウ属の落葉性低木。公園や街路で3から5月にかけて咲いている姿をよく見かける。写真はまだ花と花の間には隙間があるが、満開になるとすべての枝にびっしりと花弁が付く。

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4枚の花弁は下向きに開く

 半つる性の枝を数多く有しており、大きく育ったレンギョウは枝が2,3mも垂れ下がることがある。原種の種小名は"suspensa"といい、これは垂れ下がるという意味をもつ。英語のサスペンションは「つるすこと」を意味し、ズボンを吊るすのはサスペンダー、タイヤを吊るすのはサスペンション(懸架装置)。

 私がよく散策する野川の土手にはこのレンギョウが多く植えられており、土手上から流れに向かって大きく垂れ下がった枝に無数の花を付けた姿は見事である。

ウンナンオウバイ雲南黄梅、オウバイモドキ)

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名前の通り中国が原産地

 モクセイ科ジャスミン属のツル性の低木。公園や庭園、庭木などによく用いられる。中国が原産地で、明治初期に日本に導入された。

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花は一重咲きが普通だが八重咲もある

 写真の花は一重咲き。八重咲のものもあるが、今回の徘徊では見つけることはできなかった。

モカタバミ(芋片喰)

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雑草扱いだが群生時はなかなか美しい

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草南アメリカ原産で、日本にはアジア・太平洋戦争後に輸入された。当初は園芸種扱いだったが繁殖力が旺盛のため各地に生育するようになり、現在ではほぼ雑草扱いになっている。花は3月から咲き始め夏場はいったん枯れるものの秋にまた咲き出す。

オオキバナカタバミ(キイロハナカタバミ

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このカタバミ帰化植物

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草。こちらは南アフリカ原産で日本には19世紀末に移入された。現在では日本各地に帰化し、やはりイモカタバミ同様、すっかり野生化している。花期は3~5月で、雑草扱いするにはもったいないほど美しい花を咲かせる。地下深くに鱗茎が残るため、いざ駆除しようとするととても苦労する。花言葉は「決してあなたを捨てません」だが、実際には「決してあなたは捨てられません」というのが現実。なお、葉っぱには紫褐色の斑点が入るので、花がないときでも他のカタバミとは区別可能だ。

ハルジオン(春紫苑、貧乏草)

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雑草の王様、ハルジオン

 キク科ムカシヨモギ属の多年草。”ぺんぺん草”と並び立つ雑草中の雑草で、別名は貧乏草。誰もが目にする花だが誰も見向きもしない。花期は3~6月とかなり長い。漢字名だけ見るととても素敵な花だと思われるが。北アメリカ原産で、意外なことに江戸末期、観賞用植物として日本に移入された。繁殖力が旺盛なため、駆除には多大な苦労を強いられる。

シロツメクサ白詰草、クローバー)

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詰草は緩衝材として移入された

 マメ科シャジクソウ属の多年草。江戸時代、オランダから輸入されるギヤマン(ガラス製品)の緩衝材として用いられたことから詰草と呼ばれるようになった。写真のものは詰草の中ではもっとも一般的なもので、白い花をつけることからシロツメクサと呼ばれる。日本では英名の「クローバー」と呼ばれることが多い。属名のシャジクソウ(トリフォリウム、Trifolium)は「三つ葉」を意味する。

 クローバーといえば三つ葉だが、誰もが探した(探させられた)ように稀に「四つ葉」がある。が、”四”は日本では「死」を意味するので不吉な数字だとされるが、なぜ彼の地では「四つ葉」が幸運のシンボルなのだろうか?「四」は「4福音書」、四つ葉は十字架に見えるからなどの説があるようだ。ならば、「三」は「三位一体」に通じるのではないか、と思うのだが。ともあれ、クローバーには五つ葉以上のものもあり、最大では56葉が発見されておりギネス記録に認定されているらしい。

ハナニラ花韮ベツレヘムの星)

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日差しを浴びると花はよく開く

 ヒガンバナ科ハナニラ属の球根植物。アルゼンチン原産で、明治期に観賞用植物として輸入された。ネギ亜科の植物なのでニラのような匂いを有することからハナニラと呼ばれている。ただし、葉や球根を傷付けない限り匂いを発することはない。繁殖力が旺盛で現在では多くが野生化し、春には日当たりの良い野原の至るところで見ることができる。春の花期にだけ地上に姿を現わし、花期が終わると地下で眠りにつく。花色は白から紫色まで多数ある。

スノーフレーク(スズランスイセン、オオマツユキソウ)

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スズランに似た花を咲かせる

 ヒガンバナ科スノーフレーク属の球根植物。標準和名は”オオマツユキソウ”だがスノーフレークまたはスズランスイセン(鈴蘭水仙)の名のほうが通りが良い。スズランのような花を付けるがスズランではなく、スイセンのような葉を有するがスイセンではない。

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花先にある緑色の斑点が特徴的

 秋に球根を植えると2月初めに葉を伸ばし始め、3月初旬に少しずつ花を付け始める。写真から分かる通り、花びらの先に現われる緑色の斑点が可憐さを際立たせている。

ラナンキュラス(ハナキンポウゲ)

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多重の花びらを有する華麗な花

 キンポウゲ科キンポウゲ属の球根植物。標準和名はハナキンポウゲ(花金鳳花)だが、学名のラナンキュラス(Ranunculus=キンポウゲ)で園芸の世界では通用している。私が園芸にはまっていた頃はさほどその存在は認知されていなかったが、花色が増え、その絢爛豪華な花弁を有することから近年では急激に人気が高まり、園芸界だけではなく切り花の世界でもよく用いられている。

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ラナンキュラスは改良品種がどんどん増えている

 本項のトップの写真もラナンキュラスである。花色はとても多彩で、毎年のように改良品種が出回る。まさに、キンポウゲ属(ラナンキュラス)を代表する花にまで上りつめたようだ。ところで、ラナンキュラスとは「カエル」を意味する。キンポウゲの花は元来、湿った場所を好むためにそう名付けられたようだが、園芸種である本種では多湿は好まず、水はけをよくしないと根腐れを起こす。そういえば、カエルにも乾燥系のものがいる。

カタクリ(片栗)

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ひとつの花だけでも見る価値があるカタクリ

 ユリ科カタクリ属の球根植物。日本でよく見られるカタクリの学名はエリスロニウム・ジャポニカム(Erythronium japonicum)と言うが、属名のエリスロニウムは「赤」を意味する。原産地のヨーロッパでは赤い花を付けるからのようだが、日本で通常みられるのは写真のような淡い紫色のものが大半だ。なお英名は「Dog tooth violet」という。これは花の形に由来する。

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開花前のカタクリ

 カタクリはひとつの花だけでも可憐で慈しみたくなるが、群生した様子はまた別の感動を呼ぶ。写真は3月16日に武蔵村山市の「かたくりの里」(野山北公園)で撮影したものだが、まだまだ開花はあまり進んでおらず、上の写真のような蕾状態のものも多くはなかった。3月末頃が見頃かも。

 カタクリの群生地は人気観光スポットになっている。私がよく出かけるのは上記の「かたくりの里」のほか、埼玉県小川町の「かたくりとニリンソウの里」である。東京では神代植物園(調布市)や京王百花園(日野市)、長沼公園(八王子市)、清水山の森(練馬区)などがよく知られている。また船下りで有名な埼玉県長瀞町には「長瀞かたくりの郷」があり、ここは関東最大の群生地がうたい文句だ。

イベリス(トキワナズナ、マガリバナ)

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育てやすく見栄えも良い人気種

 アブラナ科ガリバナ属の多年草。名前はイベリア(スペイン)に由来する。中国名はマガリバナ(屈曲花)である。これは花が太陽に向かって咲くからだとされている。一年草となる改良園芸品種も多いが、個人的には写真の”イベリス・センペルビレンス”が育てやすく、清楚な感じがして見栄えも良いので好みだ。

ハナモモ(花桃

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食べるためではなく鑑賞用に作出されたモモ

  バラ科スモモ属の落葉性高木。食用の桃の花はかなり美しいが、写真のハナモモは鑑賞用に改良されたもので、極めて花付きが良く見栄えも良い。これは江戸時代に改良された品種のようで、以来、そのままの形が受け継がれている。花の色は桃色が一番多いが白、赤、紅白などもあり、いずれも写真のものと同じように枝は花だらけになる。花期はソメイヨシノとほぼ同期で、最盛期には双方が美しさを競い合っている。

タネツケバナ(種漬花)

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存在感が薄い雑草

 アブラナ科タネツケバナ属の一年草(越年するものもある)。湿地に多く生育するとされているが、繁殖力が旺盛なので乾燥気味の土地にも繁茂する。写真のように白い花を小さく咲かせるだけなので存在感は極めて薄いが、この花を探す気になればどこでも見つけることができる。この小さな花を路傍で早春に見出したとき、私は春の到来を感じる。その点で、私にとっては重要な存在なのだ。

オランダミミナグサ(阿蘭陀耳菜草)

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存在感の無さはタネツケバナと双璧

 ナデシコ科ミミナグサ科の一年草(越年するものもある)。道端のどこにでも存在する雑草だが、極めて地味な感じの草花なので誰も見向きもしない。この点では前に挙げたタネツケバナといい勝負だ。ヨーロッパ原産の帰化植物(明治末期に移入)なので”オランダ”の名が付されている。写真は開花前だが、5つの白い花弁を開いたとしても、存在感の薄さに変化は生じない。草の全身が軟毛と腺毛に覆われているのが少しだけ特徴的だ。こんな雑草だけれど、私にとっては春の到来を感じさせてくれる重要な草花のひとつである。

シバザクラ(芝桜)

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今や「観光花」では一番人気となったシバザクラ

 ハナシノブ科フロックス属の常緑性多年草。花の形から「桜」、匍匐性から「芝」の特徴を有しているので「シバザクラ」と名付けられた。以前からグランドカバー用の植物に用いられていたが、いつしか、広大な土地をキャンバス(カンバス)として、白、赤、紫、桃、淡桃と豊富な花色を利用して「花の絨毯」をデザインする手法が人気となり、現在では日本各地に「シバザクラの丘」が設けられ、春の一大イベントとして催行されている。埼玉県秩父市羊山公園の「芝桜の丘」、千葉県の「東京ドイツ村」、山梨県富士河口湖町の「富士芝桜まつり」などは相当に賑わう。

ナデシコ(撫子、ダイアンサス)

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ダイアンサスの名で流通することが多いナデシコ

 ナデシコ科ダイアンサス属の多年草。日本固有の種(カワラナデシコなど)もあるが、現在では改良品種が数多く出回っている。ダイアンサス属(ナデシコ属)には300種ほどの花があるが、この中にはカーネーションも含まれる。ただし、園芸の世界ではカーネーションは”ダイアンサス”とは呼ばない風習?があるようだ。

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「撫でし子」の語感に相応しい清楚な花色

 花色だけでなく姿形も様々だ。今回は見つけられなかった(園芸店に行けば簡単に見つかる)が、一重咲きだけでなく、八重咲のものも多い。ナデシコの八重咲と言えば、多くの人は芭蕉の次の句を思い浮かべるだろう。

 かさねとは 八重撫子の 名なるべし

 『おくのほそ道』では芭蕉随行者である曾良の作として紹介されているが、曾良の日記にはこの作品についてまったく触れていないため、実は芭蕉の作品である蓋然性が高いと判断されている。那須野原で出会った小さな女の子の名が「かさね」だったのだ。私は予備校講師を十数年勤めていたが、ある年の夏期講習の集中講義(世界史)を受け持っていたとき「かさね」という名の女子高生が受講していたことを記憶している。「かさね」という名に実際に出会ったのはその一度限りである。命名者はおそらく『おくのほそ道』からその名を拝借したのだろう。まさか、三遊亭円朝の怪談噺『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)から採ったのではあるまい。

ネモフィラ(瑠璃唐草)

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澄んだ青色が魅力の一年草

 ムラサキ科ルリカラクサ属の一年草。北米西部原産。かつては寄せ植えの前景部に用いられることが多かった花で、認知度はそれほど高くはなかった。しかし、茨城県ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」の群生がメディアに乗るやいなや、その澄んだブルーが丘を覆い尽くす姿に人々は魅了され、たちまち人気種となった。私も一度、開花期にその公園を訪れたことがあるが、ブルーのカーペット以上に見物客のはしゃぎ様に驚かされた。まだSNSなるものが話題になる以前のことだ。さぞかし、今は非道いことになっているだろう。

 写真のネモフィラは”ネモフィラ・メンジェシー”という普及種(海浜公園も大半はこの品種)だが、個人的には”ネモフィラ・マクラータ”という白地に紺色のスポットが入ったものが好みだった。今回、あちこちの庭先や家の前に置かれているプランターなどで開花したネモフィラを見ることができたが、すべて”メンジェシー”だった。「ひたち海浜公園」恐るべし、である。

アネモネ(牡丹一華、花一華)

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知名度は高いが、意外にもあまり見掛けなかった

 キンポウゲ科イチリンソウ属の球根性多年草。誰でもその名前はよく知っている花であるが、今回、あちこち徘徊してみたが実際にはなかなか見つけることができなかった。写真は八重咲のものであるが、一重咲きで白、赤の花色のものが個人的には好みなのだが、園芸店以外では見出すことはできなかった。"Anemone coronaria"(アネモネ・コロナリア)が学名で、とくに赤色の花は、中心部が「コロナ」のように輝いているのを見て取れる。このため時節柄、今季は大半の人がアネモネの育成を自粛したのかもしれない。花には何の責任もないのだが。

〔番外編〕春を探して花季行(1)

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春の「雑草」の代表格、ホトケノザ

 私にとって春の到来を実感するのは「爽やかな風」でも「温かい陽光」でもなく、路傍で、あるいは公園や空き地でホトケノザヒメオドリコソウオオイヌノフグリカラスノエンドウなどの花を見出したときだ。ガーデニングブームが安定的に継続しているので、厳冬期でも至るところで園芸種のパンジープリムラクリスマスローズサクラソウなどの花を見出すことは多い。もちろん、これらの花々も私の好みであるし、以前には大切に育てていたことはあるが、それはあくまでルーティン内のことであり、初冬から始まるガーデニングファンの恒例行事に過ぎない。

 3月に入り、新しい交換レンズを2本購入した。1本はやや性能の良い標準ズーム(35ミリ換算で24~120ミリ)だが、もう1本は35ミリ換算で90ミリのマクロ(接写)レンズ。この2本のレンズの性能を確かめるには春の花を試写するのが良いと考え、春の花を探しに近隣を徘徊してみた。野草(雑草)から山野草、それに園芸種、木々の花を見つけては撮影してみた。今季は春の訪れが早く暖かい日が多い反面、雨降りも多いためか園芸種は意外にダメージを多く受けている。一方、野草(雑草)は花付きは早く、梅や桜、沈丁花など木々の花も1、2週間ほど開花が早まっている。

 レンズは想像していたよりも性能はかなり良いようだ。しかし問題は、撮影技術と撮影に対する心構えである。私には芸術的センスが皆無なので、花の美しさを引き出す能力はない。また、花の接写は「忍耐力」が勝負(光の差し方や風の強弱)なのだが、私の辞書には「我慢」というものがないので、適度な条件が揃えばさっさと撮影を切り上げてしまう。それでも、ある程度の画像を得ることができたとするならば、それはレンズの性能と、それ以上に花たちの微笑みのお陰である。

 春の花たちが一番華やぐのは3月下旬から4月中旬である。今回は3月6、7日の撮影だ。まだまだ役者は出揃ってはいない。本項は第一弾ということで、この両日に見出すことができた早春に咲く花たちのほんの一部の表情に過ぎない。

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河津桜とその花の蜜を求めてやってきたヒヨドリ

 花に誘われるのは私だけでなく、鳥たちも同じようで花の蜜を求めて河津桜の元にやってきた。人は花を愛で、心の滋養を満たすだけだが、ヒヨドリは5月からの繁殖期に備えるために栄養分を盛んに摂取していた。

プリムラ・ポリアンサ(ポリアンタ、ジュリアン)

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春の園芸種の代表格「プリムラ・ポリアンサ

 プリムラ・ポリアンサは私が以前「花人」だったころにもっとも多く育てていた園芸種。サクラソウプリムラ属。色鮮やかなものが多いが、寒さや雨に弱いために色落ちが激しい、根腐れが起こりやすいという欠点があった。日当たりが良く、かつ雨に当たりにくい場所に植え、花柄摘み(咲き終わった花柄を撤去すること)を丁寧におこなうことが重要だった。プリムラは「プライム」の意味で、春一番に咲く花のこと。ポリアンサは「多い」という意味で、花をたくさんつけることによる。改良小型種は「ジュリアン」の名で呼ばれていたが、現在ではポリアンサとジュリアンの区別はなくなっているようだ。

オオイヌノフグリ

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残念な名前の代表格、オオイヌノフグリ

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オオイヌノフグリの群生

 オオバコ科クワガタソウ属のいわゆる雑草。花は小さいが群生するとかなり美しい。残念な名前の代表格で、「イヌノフグリ」は「犬の陰嚢」のこと。種子の形がそれに似ているのでこう名付けられた。花には何の責任はなく、名は体を表さず、いつも可憐に咲く。存在は名に先立っている。春先にこの花を見つけると、私は実存主義者になり、キルケゴールを読みたくなる。そして彼の本を手にし、いつも同じページを反復している。実に、死に至る病なのだ。

ヒメオドリコソウ

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路傍や荒れ地に多く咲くヒメオドリコソウ

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ヒメオドリコソウの群生

 シソ科オドリコソウ属のいわゆる雑草。明治以降に帰化した外来種だが、今では至るところで見ることができる。大型種はオドリコソウといい、これは見ごたえがあるので自然公園などによく管理栽培されているが、小型種の「姫踊子草」は完全に雑草扱いで、道端に咲いていても大半は踏みつけられる。

ナズナ(ぺんぺん草、貧乏草)

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春の七草のひとつである「ぺんぺん草」

 アブラナ科ナズナ属。春の七草ナズナは本種を指す。食用になるのは若葉だが、特徴的なのは三味線のバチに似た形をしている種子。これを少し裂いて茎全体を軽く振ると 「良い」音がするので、子供の頃はこれでよく遊んだ。種子の形から「ぺんぺん草」と呼ばれ、一般にはこの名のほうがよく通じる。先端部に花を付けてはそれが種子になり、またその先端部には花を付ける。これを何度も繰り返して背丈を伸ばす。これを「無限花序」と言う。なお、荒れ地に群生するために「貧乏草」とも呼ばれる。私のような極貧家では「ぺんぺん草」も生えないが、代わって近縁種の「タネツケバナ」はよく茂っている。

ノボロギク(野襤褸菊、サワギク)

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誰も見向きもしない「ボロギク」

 キク科キオン属の雑草。これこそ正真正銘の雑草で、これを目に留める人はまずいない。写真にあるように種子は冠毛をつけるので僅かだけ人目に触れるかもしれない。花も華麗なところはひとつもなく、茎は無駄に強度があり根もよく張るので引き抜くのに苦労する。畑では有害植物の代表格。こうした「無駄」だけの存在感を有する植物も私の好みのひとつだ。

ホトケノザ(仏の座)

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春の七草ではない「ホトケノザ

 シソ科オドリコソウ属の雑草で、ヒメオドリコソウによく似ている。春の七草にあるホトケノザは「コオニタビラコ」のことで、標準和名のホトケノザは本種を指すので紛らわしい。この本当のホトケノザはとくに有害ということではないようなので間違えて食しても大丈夫とのこと。実際、若草を食する人がいるらしい。写真から分かると思うが、小さいがかなり目立つ花を有しているので、 群生している様子はなかなか見事だ。

ツルニチニチソウ(ビンカ・ミノール)

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ツル性の多年草の本種はグランドカバーによく用いられる

 キョウチクトウ科ツルニチニチソウ属のツル性の植物で、雑草除けのためにグランドカバーの草として用いられることが多い。名前から分かる通り、夏の花の代表格である「日々草」の仲間である。

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花を見ると日々草の仲間であることがよく分かる

 花は写真のように紫色のものが多いが、白色のものもときおり見かける。なお、キョウチクトウの仲間は葉に「アルカロイド」を含むものが多く有毒であり、本種も例にもれない。くれぐれも食さないように。

ヒイラギナンテン(柊南天

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常緑低木の本種も春に花を付ける

  メギ科メギ属の常緑低木で、春に花を付ける。葉は緑色が通常だが、日照や気温など環境の変化によって色変わりする。写真の木は自宅の近くにある府中市中央図書館敷地内の北側にあるもので、周囲にある木々も一斉に花を咲かせていた。

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小さな花だが数が多いのでよく目立つ

 花のひとつひとつはとても小さいが、写真のように数多く咲くのでなかなか見ごたえはある。とはいえ、この花に注目する人はほとんどいないようだが。

オオアラセイトウ(ムラサキハナナ、ショカツサイ、ハナダイコン

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群生すると見事なオオアラセイトウ

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オオアラセイトウの群生

 アブラナ科オオアラセイトウ属で、江戸時代の末期に日本に入ったとされている。異名が多く、花好きは「ムラサキハナナ」と呼ぶが、なぜか年配者は「ショカツサイ」や「ハナダイコン」と言う場合が多い。背丈は案外高くなり、一株にはたくさんの花を付けるため群生すると見事だ。繁殖力が強いため、野原や空き地に数株あると翌年は群生するようになる。

ハボタン(ハナキャベツ

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春先には茎が伸びるために興味深い

 アブラナ科アブラナ属で、花は先端部に小さく咲くが、通常は花期(4,5月)の前に処分される。花の少ない冬場に植えられ、縮れた多数の葉がボタンの花のようにみえることから花壇やプランターで育てている場面を案外見掛ける。また、冬場の寄せ植えの中心部に用いられる場合が多く、写真のように前景にはパンジーが使用されるのがほとんどだ。春先には写真のように茎が伸びて冬場とは違った姿に変貌するので、3、4月まで鑑賞用植物としてなんとか生き残る。キャベツの仲間でありながら結球せず、近年は「青汁」の素材として用いられるケールの同属であり、このハボタンはその改良種といわれている。

アブラナ(菜の花)

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菜の花はアブラナの花の総称

 アブラナ科アブラナ属の花の総称が「菜の花」で、観賞用の菜の花としては通常、「チリメンハクサイ」が用いられる。しかし、食材に用いられる白菜や青梗菜もそのまま畑に放置されると写真と同じような花を付ける。菜っ葉の花が菜の花と思えば良く、それ以上でも以下でもない。

ラッパスイセン

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小型種でも群生すると見ごたえがある

 ヒガンバナ科スイセン属の花で、二ホンスイセンとセイヨウスイセンに大別される。または花の中央にある副花冠が短いものをスイセン、長く突き出ているものをラッパスイセンと呼ぶ。越前水仙やそれを導入した伊豆半島の爪木崎水仙は12月から2月頃が見頃だが、写真のようなラッパスイセンは早春の花として今が見頃だ。

 スイセンの学名は「ナルキッソス」であることはよく知られている。森の妖精(ニンフ)の一人エコーはお喋り好きであったためにゼウスの怒りを買い自分からは声を発することができなくなり、ただ他人の言葉を繰り返すことができるだけとなってしまった。ある日、エコーは美少年のナルキッソスと出会い一目惚れをしてしまった。しかし、エコーはナルキッソスに話しかけることはできず、ただ、彼の言葉をオウム返しすることしかできなかった。このためエコーの気持ちは通じず、彼女は 悲しみのあまり肉体を失い、声だけの存在(木霊=こだま)になってしまった。こうしたナルキッソスの態度に怒った神は彼に自らしか愛せない(ナルシシスト、ナルシスト)という罪を与えた。このため、ナルキッソスは池の水面に映る自分の姿だけを愛し、その姿に触れようとして池に落ちて死んでしまった。その後、神は彼に許しを与え、ナルキッソスは池の傍らに咲くスイセンの姿になって蘇った。スイセンがうつむき加減に咲くのは、水面に映る自分の姿を見るためである。

サクラソウ

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愛好家が多いサクラソウ

 サクラソウサクラソウ属の花で、日本に自生し多くの改良種をもつ。科名も属名も学名では「プリムラ」で、これはプリムラ・ポリアンサの項でも述べたようにプライム(春一番)の意味。サクラソウの愛好家は多いようで、私の近隣にも、今の季節にはこの花だけを各種類集め、玄関にも塀にも庭にも飾っている家が数軒ある。プリムラ・ポリアンサのような派手さはないが、可憐さはこちらのほうが断然、上であると思う。

フクジュソウ福寿草、元日草)

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スプリング・エフェメラルの代表、フクジュソウ

 キンポウゲ科フクジュソウ属の多年草で、「スプリング・エフェメラル」(儚い春)の代表的な花だ。属名のアドニスギリシャ神話に出てくる美少年の名で、愛と美と性の女神であるアフロディーテ(ビーナス)に愛された。彼の血から美しい花が咲いたとされ、伝承によれば「アネモネ」だとされている。アネモネフクジュソウは同じキンポウゲ科の花なので、大きな違いはないのかもしれない。写真は開花直前のもので、明るい陽射しを受ければ完全開花に至る。なお、スプリング・エフェメラルについては本ブログの第2回で説明している。

オキナグサ(翁草)

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老人の姿を思わせるオキナグサ

 キンポウゲ科オキナグサ属の多年草。これもまた典型的なスプリング・エフェメラルで、山野草として根強い人気がある。写真は開花直前のもので、数日以内に満開を迎える。全身が白い毛で覆われ、うつむき加減で開花し、種子もまた白く長い毛で覆われる。こうした様子から翁草と命名されたとされている。以前、私もよくこの花を育てていた。

アズマイチゲ(東一華)

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満開直前のアズマイチゲ

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草で、これもまたスプリング・エフェメラルとして人気がある山野草。属名は”Anemone"なのでアネモネと同じ仲間だ。アネモネは改良品種がとても多いが、アズマイチゲ山野草に相応しく清楚感が強い。写真は満開直前のもので数日先には凛とした姿になる。

ヒトリシズカ(一人静、吉野静)

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開花初期のヒトリシズカ

 センリョウ科チャラン属の多年草。スプリング・エフェメラルには数えられていないが、開花期はまったく同じである山野草。写真は開花が始まったばかりのもので、これから花は上に伸びてくる。吉野山で舞いを披露した静御前の姿になぞらえて命名されたとされ、かつては吉野静、現在は一人静と呼ばれる清楚な花。私は春の花を野原であちこち探し歩くことが多いが、この花を見つけたときが一番、嬉しくなる。

クロッカス(花サフラン

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育てやすい球根植物のクロッカス

 アヤメ科クロッカス属の球根植物。秋に球根を植えておくと春先に咲く。一度植えると分球して数を増やすので、次の年には多くの花を見ることができる。ただし、成長は一定ではないので、できれば梅雨入り前に掘り起こして暗所で保存し秋に植えなおしたほうが美しく咲かせることができる。白、黄、紫の花が多いが、近年では写真のような白地に紫が入るものが人気が高い。ヒヤシンスと同様に水栽培も可能なので、室内で鑑賞することも可能。

クリスマスローズ(レンテンローズ、ヘレボルス)

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近年、人気急上昇中のクリスマスローズ

 キンポウゲ科クリスマスローズ属の多年草。西欧原産で、かの地ではクリスマス頃に純白の花を咲かせるので「クリスマスローズ」と名付けられた。一方、現在主流なのは西アジア原産の改良園芸種で、花期は2、3月がメインとなる。寒さにとても強く、日陰でもよく咲くので、近年では早春を代表する花となっており、プランターや路地植えで楽しむ人がとても多くなっている。かつては地味な色のものしかなかったのでさほど人気はなかったが、近年は色とりどりでしかも八重咲のものも出回るようになったために人気はうなぎのぼりだ。

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クリスマスローズはうつむき加減に咲く

 花に見えるのは実はガクで、花弁そのものは退化して雄蕊の周りに小さく残るのみだ。この植物は「毒草」としても知られており、神経細やかな園芸家はこの植物を扱うときには必ず手袋をしている。学名のヘレボルスの”ヘレ”は「殺す」を、”ボレ”は「食物」を意味し、薬草にも使用されていた。

ノースポール(クリサンセマム・パルドサム)

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ノースポールは「サカタのタネ」が作出

 キク科レウカンセマム属の改良園芸種。1970年頃、かつて「クリサンセマム・パルドサム」と呼ばれていた”フランスギク”を日本の「サカタのタネ」が改良して作出した園芸品種。今ではパンジーと並んで、冬から春の鑑賞花の代表的存在となった。茎はあまり伸びず花を多くつけるため、日当たりの良い場所では葉がほとんど見えなくなるほどの花盛りとなる。ただし日陰では茎が徒長し、花付きも悪い。撮影日(7日)は曇天だったために花弁はやや閉じ気味だが、明るい陽射しを浴びるとこれ以上ないほど目いっぱいに花弁を広げる。なお、品種名(商品名)の「ノースポール」は北極を意味する。どこに極があるのかは不明だが、命名はとても上手だ。

ユキワリソウ(雪割草、ミスミソウ

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早春に咲く山野草ユキワリソウ

  キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草北陸地方から東北地方の日本海側に自生する山野草だが、現在では改良園芸種が非常に多い。ネット通販などでも高い人気を誇る花だが、価格は一株400円程度のものから30000円以上するものまである。一般的なものでも2000円前後はする。色彩も形も数多くあり品評会も盛んにおこなわれている。

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清楚に、かつ可憐に咲く

 花弁は退化して存在せず、花びらに見えるのはガクである。葉はほぼ一年中残るが、花期以外は直射日光に弱いため、落葉樹の下などに地下植えするか鉢植えをしたものを置く。私も一時期この花の収集を試みたが、次々に新品種が現れるため、ついていけずに断念したという記憶がある。

ヒメリュウキンカ(姫立金花)

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園芸種のヒメリュウキンカ

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こちらは野生化したヒメリュウキンカ

 キンポウゲ科キンポウゲ属の多年草で、ヨーロッパでは沼地や湿地などに自生している。日本には園芸種として移入されたが、現在では野生化したものも多い。茎が上方に伸び(立)、黄色(金)の花を咲かせるので立金花と呼ばれる。湿地を好む花なので、鉢植えや地植えのときにもそうした環境を作る必要がある。写真(上)の花は園芸種。まだ開花が始まったばかりで、明るい日差しを浴びると花弁は大きく開く。写真(下)は府中崖線下の湧水脇で咲いていた野生種。

シュンラン(春蘭)

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地中から顔を出すシュンラン

 ラン科シュンラン属の花。ランは地中に根を張るものと地表で根を出すものとがあるが、シュンランは写真のように地中から顔を出す。洋ランの代表種である「シンビジウム」の仲間ではあるが、こちらはかなり地味。が、その点にこそ根強い人気の源になっている。春先、山里の林の中でこの花が顔を出している姿をよく見かけるが、くれぐれも「盗掘」しないように。園芸店で簡単に手に入れることができる。半日蔭を好み、根をよく張るので深さのある鉢に植えて日差しが強く当たらない場所で育てる。なお、ラン科の植物は700属、15000種以上あり、被子植物の中ではもっとも種類が多い。

ヒマラヤユキノシタ

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ヒマラヤ原産の園芸種

 ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属の多年草でとても美しい花を咲かせる園芸種。ヒマラヤ原産のためか寒さに強いので早春から美しい花を咲かせる。根付くと、特に丁寧に手入れをしなくても毎年、多くの花を咲かせてくれ、しかも大きく育つので大きな鉢かプランターに植えると良く、可能ならば地植えが良い。花色はピンクや赤が多いが、”シルバーライト”と呼ぶ園芸種は白い花を咲かせる。花は美しいし花の名の響きも良い。が、この花の認知度はなぜかかなり低い。残念なことである。

アセビ(馬酔木)

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春に花を咲かせる常緑低木の代表格

 ツツジアセビ属の常緑低木。葉や茎には有毒のグラヤノトキシンが含まれている(他のツツジ科の花も同様)ため、馬が食べると毒にあたって酔ったようにふらふらとした足取りになることから、馬酔木と記されるようになったという伝承がある(本当かな?)。以前はあまり見掛けなかったが、近年では春に花を咲かせる常緑低木の定番になりつつある。病気に強く挿し穂で簡単に増やせるからかも知れない。

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白花が一般的

 花は小さいが、写真のように枝いっぱいに咲くので見ごたえはある。花は壺のような形をしていて「ドウダンツツジ」に似ているが、花数は断然、こちらのほうが多い。

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ピンク色の花を咲かせる「クリスマス・チア」

 改良園芸種もいくつかあり、写真の”クリスマス・チア”と呼ばれる品種はピンクの花が無数に咲き、今では白花よりも多く見かけるようになった。

ジンチョウゲ沈丁花、瑞香)

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香りの強さではキンモクセイと双璧

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こちらは白花のジンチョウゲ

 ジンチョウゲジンチョウゲ属の常緑低木。香りが強いことでよく知られている花。その強烈な香りからその存在を知ることになる。早い場合は2月中旬頃には咲くので、散歩中にこの花の芳香に触れると春の到来を感じる。今は「香害」が問題視されているが、ジンチョウゲの香りは自然のものなので何の問題もない。ちなみに、秋の香りの代表格はキンモクセイだが、こちらは秋の到来というよりトイレの存在を実感するかもしれない。もっとも、キンモクセイ=トイレの芳香剤を連想するのは年配者で、中年はラベンダー、若者以下はトイレに結び付く香りはとくにないようだ。

ユキヤナギ(雪柳、コゴメバナ)

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ユキヤナギの咲き始め

 バラ科シモツケ属。公園や庭、街路などでよく見られる落葉性低木で、春には垂れ下がった枝に葉が見えなくなるほど無数の花を付ける。雪を被った柳のように見えるところから命名された。写真はまだ咲き始めなので緑の葉っぱが見えるが、これから一週間ほどで満開になる。満開時の美しさはサクラにも負けないほどだと個人的には思っている。小さな花びらが散った後の地面はお米を一面にまき散らしたように見えるため「コゴメバナ」の異名がある。

サンシュユ(山茱萸(さんしゅゆ)、ハルコガネバナ)

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葉より先に花が咲くサンシュユ

 ミズキ科サンシュユ属の落葉性高木。3月初め頃、葉が出る前に黄色い小さな花を咲かせる。ひとつの花は多くの小花が集まってできている。

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サンシュユの花をじっくり観察してみた

 小さな花房(散形花序)をじっくり観察してみたが、やや盛りを過ぎていたようで、黄金色に輝くようには見えなかった。実は、この花をこうして観察したのは初めてだった。来年(もしあれば)にはこの木を早めに探し出して、その輝きに触れたいと心から思った。

オカメザクラ(おかめ)

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小さな花はうつむき加減に開く

  1947年、英国人がカンヒザクラとマメザクラ(富士桜)とを交配して作出した早咲きのサクラ。花は小さくうつむき加減に咲くが、花びらは完全には開かない。花色はかなり濃い。木はあまり大きく育たないので、梅の木と勘違いされることもあるようだ。小田原市根府川地区ではこの早咲き品種で桜の里作りをおこなっている。果たして、第二の河津桜になるだろうか?

カンヒザクラ(寒緋桜、元日桜)

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サクラの原種のひとつ。河津桜、オカメの元になった

 サクラの原種のひとつ。早咲きで、釣鐘状に咲き、濃い花色などから多くの自然交配種(河津桜)や 人工交配種(おかめ)が誕生している。前2種の桜のほか、修善寺寒桜、椿寒桜、陽光、横浜緋桜などが代表的なカンヒザクラ群である。

〔36〕八王子の城跡を歩く(1)滝山城跡を中心に

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本丸跡にある石碑

八王子界隈には城跡が多くある

 平らなだけが取り柄の府中市にはこれといった城跡はなく、せいぜい浅野長政屋敷や高安寺館が拡大解釈されて「城」に含まれるといった程度だ。一方、山がちな八王子市界隈にはたくさんの城跡がある。日本100名城に選定された八王子城、続100名城に選定された滝山城をはじめ、高月城浄福寺城片倉城などがよく知られている。私はとくに城好きというわけではないが、日本各地の名所を訪ね歩くと、当然のごとく城跡にも出掛けることになる。例えば、100名城に選定された城だけでも五稜郭若松城水戸城、足利氏館、小田原城松本城金沢城名古屋城彦根城、二条城、大阪城、姫路城、福山城、萩城、宇和島城高知城、熊本城、首里城といった具合に。実際に訪ねたことのある100名城はもっと多い。

 が、八王子にある城跡の名前は知っていても八王子市内を観光で訪れることは滅多にない(高尾山くらいか)ので、私のお気に入りの散策コースである滝山城跡以外には立ち寄ったことはなかった。その滝山城跡でさえ、歴史に興味があるというよりは、適度にアップダウンがあり、かつ一部にだけだが見晴らしの良い場所があるので、葉っぱと虫や獣たちが少ない冬場の徘徊場所として出掛けていて、とくに「遺構」については関心を示さなかった。たまたま今回は未踏の八王子城跡に出掛けてみようと思い立ったとき、その城と滝山城とが密接に関係があるということを改めて認識を深めたので、まずはそうした視点から滝山城跡を訪ねてみようと思った次第だった。

滝山城跡は加住北丘陵にある

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多摩川右岸河川敷から見た加住北丘陵

 滝山城跡のある加住丘陵は八王子市中心部の北側にあり、関東山地の東縁から東南東方向に舌状に伸びている。南側は川口川、北側は秋川・多摩川に接している。中央には谷地川が流れて丘陵部を開析し、北部分を加住北丘陵、南部分を加住南丘陵と呼ぶこともある。また、東縁は日野台地と接しているが丘陵と台地とは成り立ちが異なるとされている。丘陵の基盤は上総層群で、下部は加住礫層、上部は小宮砂層と呼ばれている。この上総層群の上を関東ロームが覆っている。ローム層と小宮層と間に不透水層があるために丘陵上であっても水の確保は容易であり、後述するが本丸跡には井戸があり、周囲にも数か所、井戸跡があるらしい。また、城の中腹には2つの大きな池跡があることからみても、水源に恵まれたこの場所は丘山城を築くのに適していることがよく分かる。籠城戦には飲料水の継続的確保が必須だからである。

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加住丘陵を開析した谷地川

 谷地川は加住丘陵を開析し丘を二分した。写真は谷地川を上流方向に見ているので、左が南丘陵、右が滝山城跡がある北丘陵である。撮影場所は新滝山街道沿いにある「道の駅滝山」のすぐ北側だが、ここの標高は110mほどで、左右に見える丘陵上はどちらも170mほどである。写真では鮮明でないが、南丘陵には創価大学の、北丘陵には東京純心女子大学のキャンパスがある。川の北側には国道411号線(滝山街道)、南側には新滝山街道が走っており、街道沿いには大きくはないものの集落が続いている。

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北丘陵の北側には河川敷が続く

 写真は加住北丘陵の北側、すなわち秋川・多摩川の河川敷部分だ。この部分は多摩川の氾濫原のために住宅地は少なく、田畑やグラウンドなどに使用されている。

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北丘陵の北側斜面をよく見ると

 写真は河川敷に整備された「滝ケ原運動場」から滝山城跡のある北丘陵の斜面を見たものだが、これからも分かる通り急峻な崖になっており、暴れ川である多摩川によって大きく削られている様子が見て取れる。実際、この場所は東京都建設局から急傾斜地崩壊危険箇所に指定されている。運動場の標高は96m、滝山城の本丸は167mの位置にあり、敵方は多摩川を渡り、かつ急峻な崖を上る必要があるため、城の北側の守りはかなり固いものだったと考えられる。

大石氏と北条氏照との関係

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大石家の拠点になった二宮にある「二宮神社

 滝山城武蔵国の有力者であった大石定重が16世紀前半に築城し、その後に大石家の養子になった北条氏照(小田原北条氏3代氏康の三男)が16世紀半ばに大幅改修したとされてきた。しかし、「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が発行するパンフレット(2018年)によると、北条氏照は定重の子である定久(道俊)の子の憲重(綱周)の養子となり、氏照が初めから築城したと最近の研究では考えられているらしい。ただし別の歴史書では、大石氏が手掛け氏照が改修したという点を強く主張しているので、どちらが正しいのかは未だ解明されていないと考えて良い。いずれにせよ、北条氏照の動向を追うときには必ず、養父筋に当たる大石家の存在を考慮しなければならないので、ここではまず大石家の足跡を簡単に追ってみることにした。

 八王子市の旧家に保存されていた『木曽大石系図』(江戸時代中期に整理されたと考えられている)によれば、大石家は木曽義仲を祖とし1356年、大石信重が多摩郡入間郡の十三郷を賜り武蔵国目代に就いた。信重は現在の埼玉県ときがわ町辺りを拠点にしていたが、その際に現在のあきる野市二宮に居を移したとのことだ。大石家が二宮を拠点にしていたということは15世紀初頭に足利荘代官を務めた大石道伯が「二宮道伯」を名乗っていたことからその蓋然性はかなり高い。ただし、「二宮城」の場所は未だ特定されていない。

 あきる野市の二宮といえば武蔵国六宮の二宮に位置付けられた二宮神社があるところだ。このことは以前にも少し触れている(cf.32普通の府中市2)が、改めて二宮神社について述べてみたい。ここは10世紀前半に編纂された『延喜式』にはない式外社だが、古くから武家の尊崇を集めていたようで、大石家はこの付近に居を構えていたとされている。境内には大石家が築いた「二宮城」があったという記録が残っていたが、発掘調査ではその証拠品は出なかったそうだ。後述する北条氏照滝山城に拠点を構えていたときは、この神社を祈願所にしていた。

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あきる野台地のヘリから湧き出た清水を集めた「お池」

 神社の本殿はあきる野台地の上にあるが、写真の「お池」は台地の下にある。ここも神社の敷地内である。台地のヘリからは清水がこんこんと湧き出てくるようで、池の水量は豊富で、ここから流れ出た水は小川を形成している。二宮の東隣にある町の字名は「小川」であるが、その由来はこの池の水にあるのかもしれない。二宮神社は別の名を「小川神社」「小河大明神」というのだから。

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本殿は台地のヘリの直上にある

 本殿は参道の階段を上がったすぐ上にある。周囲には社叢林が広がっているが、境内自体はさほど広くない。周辺は新興住宅地に変貌しているが、かつては広大な敷地を有し、そのどこかに大石家の館があったのかもしれない。境内の脇には神社の由来が書かれた表札があるが、ここが武蔵国の二宮であったことを誇らしげに述べている。

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大石氏は拠点を浄福寺のある案下に移した

 先に挙げた系図によると、1384年に大石信重は案下(あんげ、八王子市下恩方町)に居を移したとされている。これが事実だとすれば、大石家と八王子との結びつきはこのときに始まったと考えられる。案下は関東山地の東縁にあって、ここから和田峠を通って藤野に抜け、さらに甲斐の国へ至る重要な場所であり、かつては案下道、現在は陣馬街道が通っている。江戸時代、この道筋は甲州街道脇街道としてよく整備され、富士参詣道としても用いられた。浄福寺城は大石信重が案下に移った14世紀末に築城したという記録があるが、現在では16世紀前半、大石定久・憲重父子が築城し、北条氏照も一時ここを本拠にしていたという説が有力視されている。

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浄福寺城の主郭跡は標高356mの所にある

 浄福寺城跡は浄福寺の裏手にある小高い山の上にある。「案下城」「新城」「二城」などの別名がある。『武蔵名勝図会』には、大石氏が高月城(後述)に城居し、新たに城を築いたので「新城」と呼ばれるようになったと記述されている。現在では、浄福寺(城福寺)を開基したのが大石氏で、城を裏山に築いたために浄福寺城と呼ばれるようになったとするのが主流となっているようだ。

 浄福寺真言宗智山派の寺で、創建は13世紀半ばとされているが、16世紀の前半に大石氏が再興して現在に至っている。ひとつ上の写真にあるように、なかなか立派な本堂を有している。

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城跡に続く道

 当初は城跡を訪ねる予定でいたが、何しろ人影はまったくなく、道筋を示す図もなく、林道入口の標高は201m、山頂は364mと比高は163mもあるので登山は断念した。何しろ私は、釣り以外では意気地も根性もないのだ。

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浄福寺境内にあった石仏その一

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石仏その二

 意気地も根性もないが、好奇心だけは少しあるので、登頂を断念した代わりに境内を散策してみた。そして、上の写真にあるような石仏に出会った。真言宗の寺だけに弘法大師像が本堂前にあったが、私にはこの二つの像のほうに「帰依」したいと思った。もちろん、信仰心はまるでないので、ただそのように考えたにすぎないが。

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15世紀半ば、大石氏が拠点にしたとされる高月城がある丘

  先に挙げた系図によれば、大石氏は1458年、加住北丘陵にある高月城に本拠を移したとされる。後述する滝山城とは同じ丘陵上にあり、直線距離にすれば1.5キロほどしか離れていない。この地は系図では「高槻」の名で登場するが、現在では「高月」という風雅な字が用いられている。私は時折、あきる野辺りから都道166号線(瑞穂あきる野八王子線)を南下して東秋川橋を渡って滝山街道に出ることがある。橋を渡るとまもなく、右手に写真にある「円通寺」が見えてくる。その寺の裏山に高月城跡がある。

 円通寺は10世紀初頭に創建された天台宗の古刹であるが、16世紀後半に大石氏の支えによって約3万坪の境内をもつほどの大寺院になったそうだ。もっとも、丘陵の西側は絶えず秋川の流れによって削られ、東側は秋川と多摩川の合流点に位置するため氾濫の危険性を常に留意せねばならないという土地柄だった。反面、西側は関東山地によって視界が遮られるものの、三方の見通しはとても良い場所にあるため敵方の動きを探るには適した立地だった。一方、守勢に回ると耐え抜くのはかなり困難だと容易に想像できる。

 系図では高月城からより守りが固い滝山城に移ったとされるが、近年ではこの説を否定的に捉えることが多いようで、他の資料では15世紀の大石氏の拠点は現在の志木市に残る「柏城」であった蓋然性が高いとのことだ。そうなると、大石氏が14世紀後半に案下(浄福寺城)に居を構えたということの信憑性も失われることになる。

 その一方、1525年に大石道俊(定久)とその子である憲重が城福寺(現在の浄福寺)を再興してして棟札を奉納したという極めて信憑性の高い記録が残っているので、遅くとも16世紀の前半には大石家と八王子との結び付きが出来上がったと考えることは可能だ。その後、高月城を経て滝山城に至ると想像すると、大石家と円通寺との密な関係が生まれたことも首肯できる。

いよいよ滝山城に上る

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滝山城跡へ上る「大手門」口の看板

 先述したように、大石氏が先鞭をつけたかどうかは論が分かれるにせよ。大石家に養子に入った北条氏照が滝山丘陵(加住北丘陵の一部)を開削して、中世城郭の最高傑作と称される「丘山城」を築いたことは確かなようだ。当時の建築物は残っていないが、丘陵の地形を生かしながら巧みな設計によって大規模な空堀を配し、堅固な防御ラインを造り上げている。氏照は甲斐(武田氏)からの守りを重視する必要が生じたため、結局、滝山城は未完成に終わっていると考えられ、1587年頃までには、やはり自らが築城した山城である「八王子城」に移転している。

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八王子市が整備した無料駐車場

 写真の無料駐車場は八王子市が整備したもので、滝山街道(国道411号線)と「瑞穂あきる野八王子線」とが交差する「丹木三丁目交差点」のすぐ東側にある。出入口は滝山街道側のみにある。駐車場のすぐ横にひとつ上に写真にある「滝山城跡入口」の看板が立っていて、ここから本丸まで続く道が伸びている。上り坂だが、入口の標高は127m、本丸付近は167mなので比高は約40m。足元もよく整備されているためハイキング気分で登れる道だ。

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大手口から天野坂を進んで本丸を目指す

 駐車場の近くに大手口があったらしく、写真の道を上っていくと「三の丸」「千畳敷」「二の丸」「中の丸」「本丸」に至る。

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滝山城址・丹木一丁目入口

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滝山城跡・少林寺参道入口

 滝山街道側には「丹木一丁目」「少林寺参道」にも写真のような看板が立てられており、滝山城跡へ観光客に足を運んでもらいたいという八王子市民や滝山城跡愛好家の強い思いを感じることができる。

 私は現在では先の駐車場を利用して滝山城跡付近を散策するが、駐車場ができる以前は、丘陵の北側にある「滝ケ原運動場」か、南側の「道の駅・滝山」の駐車場を利用していた。運動場側の入口は多摩川の河川敷にあり、先述したように急斜面を上ることになるのでやや苦労を強いられるが、一気に本丸にたどり着くことができる。一方、道の駅からは谷地川を渡り滝山街道を少し西に進んで少林寺参道を行き、東京純心女子大学の裏手を通って、加住北丘陵の尾根道に出てから散策路を西に進んで本丸方向を目指すことになる。ハイキングに来たと思うと決して苦にはならないが、滝山城跡そのものを目的にするとやや長い道のりになる。

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少林寺本堂

 少林寺の名からは「拳法」を連想してしまうのだが、ここは曹洞宗の寺で拳法とは何ら関係がない。北条氏照が1570年に開基した寺で、開山した桂厳和尚は氏照の乳母の子だとのこと。かつては参道の西側に八幡宿、東側に八日市宿、横山宿があり、現在の滝山街道の多くは「古甲州道」だった。八王子の原点はこの辺りだったと考えられている。

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境内にあった二つの菩薩像

 少林寺本堂は1887年の大火で焼失し、現在ある本堂は1993年の建築されたものだ。本堂の前には写真の二つの菩薩像が立っていた。右のものは火災にあった菩薩像かもしれないが、災厄にあってもしっかりと屹立している。私に信仰心が少しでもあれば、右の像に向いて手を合わせるかもしれない。

氏照と北条氏の動向

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滝山城には戦略家・氏照が考案した「空堀」が至るところにある

 北条氏照は1542年、小田原北条氏三代氏康の三男として生まれた。46年に武蔵国の有力者であった大石家の養子となった。幼名は藤菊丸で、長じてからは「由井源三」を名乗っていたらしい。55年、氏照は父の氏康とともに古河公方足利義氏元服式に兄弟で唯一参加している。氏康は氏照のもつ能力への期待感が高かったためだろうか。それとも、たまたまだったのだろうか。

 北条氏は1560年代に勢力を拡大し、武蔵国東部、さらに房総への侵攻を強めた。越後の上杉謙信は61年から関東管領の職に就いた(78年まで)こともあって、関東における上杉方の勢力を総動員してこれに対抗した。その象徴的な争いが65年に開始された関宿(せきやど)合戦で、74年まで3回、戦闘が繰り広げられた。関宿は利根川水系の要衝にあり、この場所を支配するということは関東の水運を押さえることにつながっていた。しかも、現在の千葉県野田市にあった関宿城は反北条氏の拠点であって、直接には北条氏対簗田(やなだ)氏との戦いであったが、簗田氏側の背後には上杉氏が存在していた。第一次の合戦は北条側が優勢であったが、上杉勢がこの戦いに加わるという報が入ったために和睦が成立した。

 68年、北条氏側の軍事外交権を掌握する立場になっていた氏照は下総の栗橋城を落とし、ここを拠点として関宿城への攻撃を再開した。これが第二次関宿合戦の始まりだった。ところが、北条氏をとりまく情勢が大きく変転したためにこの戦いは中断を余儀なくされた。それは、武田信玄の「裏切り」であった。

 54年、「甲相駿三国同盟」が、武田・北条・今川間でそれぞれ縁戚関係を結ぶことで成立したが、68年、武田勢が東海地方への進出を画策し駿河侵攻をおこない、三国同盟は破棄された。これに対し、北条氏は今川氏側を支持してその救援をおこなった。さらに氏照は上杉氏に同盟の申し入れをおこなった。甲相同盟が崩壊した代わりに「越相同盟」を成立させ、あわせて甲越の対立を利用しようとしたのだ。しかし、交渉は難航した。これまでの間、北条氏は上杉側についていた勢力をことごとく廃し、北条氏側に取り込んでいたからである。結局、氏照は同盟の成立を最優先し、北条氏側が拡大した領地を上杉氏側に返還することで決着をみた。

 69年、越相同盟が成立し、「血判起請文」を交わした。氏照には上杉謙信から刀一振りが贈られ、氏照はその返礼として太刀一腰を進上した。

武田氏の関東侵攻

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武田軍が攻め入った滝山城三の丸付近

 こうした北条氏や上杉氏の動きに対し、武田氏側は関東への出陣を決定した。まずは埼玉県の寄居にある「鉢形城」(日本100名城のひとつ)を攻略し、さらに南下して氏照のいる滝山城に向かった。いよいよ「滝山合戦」が展開されるのだ。

 『甲陽軍鑑』ではこの滝山合戦は69年の10月2日から4日におこなわれたとされているが、他の資料では武田勢は9月27日は相模国に入った、10月4日には小田原城下が放火されたとあるので、滝山合戦は遅くとも9月下旬(9月27日まで)におこなわれたと考える必要がある。

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滝山城中の丸跡から拝島市街方向を望む

 武田軍の主力は、滝山城の北側を流れる多摩川左岸の拝島付近に陣を構えた。先述のように、滝山城多摩川側は急峻な崖がそびえているので攻略は困難を極める。誰しも当然、滝山城に攻め入るのは谷地川側からと考える。先鋒は甲州から八王子に向かってくる小山田信重の軍勢だった。問題は、その侵入ルートにあった。

 第一は大月、藤野を東進し、北上して陣馬山の北にある和田峠から北浅川沿いを下って案下(下恩方)、そして楢原から加住南丘陵を越えてくるルート、第二は塩山から小菅、小河内、檜原、秋川と進むルートが想定されていた。第一は「旧案下道」(現在の陣馬街道)であり、第二は「古甲州道」(現在の青梅街道、奥多摩周遊道路)である。ところが実際には、小山田軍は「こぼとけ城」を越えて八王子に侵攻してきたのであった。これは江戸時代の旧甲州道中ルートだが、当時は未開拓の道であった。氏照は第二のルートを想定していたようで、とくに檜原付近の守りを固めていた。 

 戦闘は「とどり」(廿里)付近で展開された。現在のJR高尾駅の北側、つまり、現在の「森林総合研究所」や「武蔵陵」がある辺りである。これに続いて武田軍の本隊も谷地川側から攻め入ってきた。信玄の息子である武田勝頼(当時24歳)は三の丸まで駆け上がり、一方、氏照は二の丸にいた。勝頼と氏照の配下の侍大将である諸岡山城とは3回、槍を合わせたといわれている。勝頼の戦死を心配した信玄は戦いの継続を望まず、兵を引かせることになった。武田軍の目的は小田原城攻撃だったからだ。

 それでも滝山城下にある集落はことごとく焼き払われたようである。先の「少林寺」の項で挙げたように、当時の八王子は八幡、八日市、横山の三宿が中心だった。史料には「宿三口へ人衆を出し、両日とも終日戦を遂げ、度々勝利を得て敵を際限なく打ち捕り……」とあるが、これは北条側の記録によるものと思われる。実際には苦戦を強いられたのだった。

 ともあれ、この69年の戦闘によって氏照は丘山城である滝山城の欠陥・限界を知り、次の攻撃に備えるため、「八王子城」の築城を構想したと考えられている。

滝山城跡を歩く

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本丸と中の丸とを結ぶ復元?された「引き橋」

 滝山城跡というより加住北丘陵、都立滝山公園は私の冬場の散策場所であって、とくに城跡の遺構を意識して徘徊したことはなかった。他の城跡のように天守閣や櫓、石垣が残っていたり復元されたりしているわけではないので、散策中でも「城跡」を感じることはなかった。しかし、今回は「城跡」という観点でここを2度訪れたため、今まで見落としていた、というより気にも留めなかった遺構に感心する場面がいくつかあった。さらに、一度は休日に訪れたため、「滝山城跡愛」に満ち溢れるボランティア案内人の人々にも接したので、いつもなら素通りしていた場所にも触れることができたのは大きな収穫だった。

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千畳敷

 大手口から天野坂を上がり、右手に三の丸を見てから少し進むと左手に写真の千畳敷がある。ここには郭があったのか兵士の集合場所だったのかははっきりしない。この隣に角馬出があって城兵が控えているので郭だった蓋然性が高い。現在は周囲を木々が取り囲んでいるので見晴らしは良くないが、北側の下方には「弁天池」があるので、景観の良い場所だったはずだ。

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結構広い中の丸

 千畳敷を過ぎて本丸方向に進むと、右手にこの城の守りの拠点である二の丸があり、その北側に写真の中の丸がある。千畳敷ほどではないがここもかなりの広さをもつ。本丸はさほどの広さがないので、ここが事実上、城の拠点だった蓋然性が高い。北側の見晴らしはとても良く、拝島に控えていた武田軍の様子もはっきりと見て取れたことだろう。写真奥の建物は、2000年まで営業していた国民宿舎の一部が残されたもので、休日にはボランティアガイドの控え場所に用いられている。資料が多く置いてあり、ボランティアの人々に疑問点を質問したり、城内のガイドを依頼することもできる。ここにはきれいなトイレがあり、敷地内にはソメイヨシノが数多く植えられているので、花見シーズンにはかなりの賑わいを見せるとのこと。

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中の丸と二の丸との間の空堀

 中の丸と二の丸とはこの城の最大の要所であるため、間の空堀は相当の深さがある。滝山城の見どころはこの空堀の深さ、その複雑な配置にある。

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本丸。中の丸とは引き橋でつながっている

 本郭があったと考えられる本丸と中の丸とは引き橋(木橋)でつながっている。先に挙げた写真の橋は人々が行き交いやすいように造られているが、当時のものはもっと下方にあり、しかも非常時には簡単に壊せるように設計されていたとのこと。もちろん、下の通路を使っても行き来は可能で、本丸には敵が簡単に入れないように、狭い枡形虎口が造られている。

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本丸内にある井戸跡

 滝山城跡を訪れて一番気になったのが飲料水の確保という点だった。麓には多摩川や谷地川が流れているので、平時であれば水を汲みに行ける。しかし戦時では不可能だ。籠城戦のときに一番困難なのが飲料水の確保だ。この滝山城の本丸には写真のような井戸が残っている。

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井戸の中をのぞく

 井戸の中をのぞいてみた。といっても、本当にのぞいてみたわけではなく、手を伸ばしてカメラにのぞかせたのだ。写真からも分かるように内部はよく整備されていた。本項では先に加住丘陵について簡単に解説しているが、この滝山部分はとくに地下水の確保が容易な地形・地質になっているので、水に不便したことはまずないはずだ。というより、水が十分に確保できる場所に城を築いたのである。

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本丸にある霞神社

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本丸にある金毘羅社

 本丸には2つの建造物がある。これは北条氏や滝山城との関連はなく、後に建造されたものだ。霞神社は1912年、在郷軍人会加住村分会が日露戦争で戦死した15柱を祀ったのが最初で、今日まで220柱が合祀されているとのこと。金毘羅社は江戸時代の創建で、多摩川での水運の安全を祈願して建てられたものらしい。神社は高台の上、寺院は町の中というのが基本形なので、北条氏という主を失った滝山の丘陵地は信仰の場所として利用されるようになったようだ。

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本丸の下にある小さな曲輪から弁天池を望む

 加住丘陵は地下水が豊富だったために、丘陵の中腹には大きな溜池が2つある。本丸の直下にあるのが写真の弁天池で、往時は生活用水を確保するためだけでなく、舟遊びもおこなわれていたらしい。中央に見える盛り土は中の島と呼ばれ、池には欠かせない築山だったそうだ。現在では地下水は大分枯れてしまったようで、水はほんの一部にしか残っていなかった。

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守りの要である二の丸の周囲には空堀が多く巡らされている

 二の丸は城の守りの要で、武田軍が攻め入ったとき、氏照は二の丸に控えて指令を発していた。周囲にはかなりの深さの空堀が造られていて、防御に重点を置いた設計がなされている。以前は堀の中にまで多くの杉が茂っていたが、最近ではこの空堀を当時のままの姿で人々に見てもらえるようにと、杉の伐採が進んでいる。ご苦労様。

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行き止まりの堀(ふくろのねずみ)

 空堀は写真のように行き止まりになっている場所があり、敵側はここで「ふくろのねずみ」になる。この場所の近くにはいくつかの「馬出」があり、ここに守備兵が控えていて、敵兵を一網打尽にする。

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馬出のひとつ

 二の丸の周囲には写真のような小さな曲輪が3つあり、これらを「馬出」と呼んでいる。ここで守備兵は敵の襲来を待ち構えている。

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大池は城のための生活用水の確保だけでなく、麓にある谷戸に水を供給する

  城内の東側に写真の大池がある。写真にも少し写っているが、僅かながら水たまりがある。この池も湧水を集めた溜池として利用されていた。

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大池にある切れ込み

 大池には写真のような切れ込みがあり、ここから下方にある谷戸に水を供給している。この日はほんのチョロチョロという流れではあったが、確かに水は流れていた。

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丘陵の斜面には写真のような谷戸がいくつもある

 丘陵の南斜面には写真のような谷戸がいくつもある。日当たりが良いというだけでなく、丘陵からの湧水が比較的豊富だったためか、農業が盛んだったようだ。ここで生産された農作物は城内の兵士たちに供給されていたと考えられる。

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古峯の道と呼ばれるハイキングコース

 大池の上部からそのまま東に進むと城跡からは離れ、散策には格好の尾根道が続く。ここは「古峯の道」と名付けられているが、公園の看板には「かたらいの路・滝山コース」とある。「かたらいの路」といっても高幡不動から続くわけではないようだが。

 このコースはJR八高線小宮駅を起点(終点)として、滝山城跡から円通寺高槻城跡、東秋川橋を歩いてJR五日市線東秋留駅を終点(起点)とする、全長約10キロ、約4時間の道のりだ。私のような寄り道大好き人間にはとてもこの距離・時間で収まるはずはないので、一日で制覇することは絶対に無理だろう。

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谷戸谷戸との間にあった御嶽神社

 谷戸谷戸との間に「御嶽神社」があることは今回初めて知った。グーグルマップでその場所は表記されていたが、そこに至る道がなかった。というより、グーグルマップの経路ではたどり着けなかったのだ。それでも谷戸をうろつくとなんとか神社に上がる細い道を見出すことができた。滝山街道沿いにも神社の場所を示す看板はなく、ただ山中にひっそりと佇んでいる社だった。

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人の気配がまったくなかった御嶽神社。確かな由緒はある

 御嶽神社で検索すると出てこないが「丹木御嶽神社」で調べると見つけることができる。かつては高月村の山中にあったらしいが、後に滝山城跡の山頂付近に遷座したらしい。それが北条氏照の築城によって16世紀の半ばに現在の地に遷されたらしい。当時は「蔵王権現」との名であったが、明治維新後に「御嶽神社」に変わったとのこと。

 写真以外に建物はなく、人気(ひとけ)もなかった。滝山城跡にも建築遺構はなかった。しかし、つぶさに観察すれば、氏照の創意工夫はいたるところに残っていた。「神は細部に宿る」のか「悪魔は細部に宿る」のかは不明だが、私には神も悪魔もどちらにも存在していない。

 ただ、滝山城跡で出会った3人のボランティアの方々はいずれも「亡霊」の存在を信じているようで、私が次に「八王子城跡」を訪れると言ったとき、異口同音に「午後3時半までに下山したほうがいい。そうしないと怖い思いをするから」との返答があった。怖い思いとは山道が暗くなって危ないからではなく、その時刻になると亡霊が参上するからとのことだった。三人とも、その経験を何度かしたらしいのだ。

 それを聞いた私は、なるべく遅い時間に八王子城跡に出掛けることにした。果たして、生涯初の「亡霊との出会い」が実現するのであろうか。誠に楽しみである。