徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔60〕公園散歩~薬師池公園(町田市)、町田ぼたん園、寺家ふるさと村(横浜市青葉区)

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ボタン、シャクヤクの開花期に初めて出掛けた「町田ぼたん園」

◎薬師池公園(東京都町田市野津田町

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薬師池と背後に連なる多摩丘陵

 三浦半島方面へ出掛けるために保土ヶ谷バイパスを使うときも、東名横浜町田ICを使うときも、町田にある某予備校や某々予備校へ講義をしにいくときも、府中から町田方面へ出るときには必ず、都道18号線(府中町田線、鎌倉街道)を使う(使った)ため、いつも鶴見川を渡った先の右手にある「薬師池」の存在は気になっていた。おそらく、ムカデ10匹の協力を得ても数え切ることはできないほど、薬師池の傍らを通り過ぎ、「時間がある時には立ち寄ってみよう」と意識化されてはいた。しかし、実際に出掛けたのはまだ、昆虫一匹の足でも間に合ってしまうほどの数だった。

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薬師池公園は花の名所でもある(そうだ)

 私の認識では、薬師池公園には格別なものはないけれど、多摩丘陵内に位置するので適度な起伏があるゆえにやや強度のある散策には最適というものだった(というほど訪れてはいないが)。それも、公園内だけでなく、七国山など周辺の丘陵地域を含めてのことである。

 しかし今回、この公園は1976年に開園されて以来、82年には「新東京百景」、98年には「東京都指定名勝」、そして2007年には「日本の歴史公園100選」に選ばれていることを初めて知り、私のこの公園に対する評価があまりにも低かったことを知らされた。

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公園を北側入り口から望む

 何しろ、「日本の歴史公園100選」と言えば、偕楽園日比谷公園浜離宮旧古河庭園、上野公園、六義園兼六園大阪城公園、岡山後楽園、高松栗林公園など、日本の名だたる公園が選ばれているのである。

 もっとも、これらは一次選定で選ばれたもので、薬師池公園は二次選定であった。とはいえ、この二次選定グループだって、札幌大通公園、館林つつじが岡公園、さきたま古墳公園、新宿御苑山下公園、登呂公園、天橋立公園、桂浜公園、熊本城公園など著名な公園が選ばれている。たとえ第二グループとはいえ、十分に誇って良い選抜であり、それを知らなかった私は不明を恥じなければならない。薬師池公園さん、御免なさい。

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タイコ橋から池と藤棚を望む

 公園は花の名所でもあり、季節になると様々な花たちが咲き誇り、園内を華やかにする(らしい)。私がここを訪れるときにはいつも花の端境期だった。今回もそうで、理由は簡単。混雑を敬遠するからである。

 だから、梅、椿、桜、花菖蒲、紫陽花、蓮、曼殊沙華、紅葉が見頃のときには立ち寄ることを避けていた。公園は鎌倉街道沿いにあるので、駐車場の混雑具合や園内の人だかりは、通り掛かりにでも簡単に確認できるのだ。そんなこともあり、私のこの公園に対する評価は「散策に好適」ぐらいだったのであった。

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薬師池とタイコ橋

  薬師池は、以前には福王寺池とか福王寺溜池と呼ばれていた。鶴見川右岸に続く緩斜面に田んぼを造成するために水田用池が必要となった。野津田村の武藤半六郎へ滝山城主の北条氏照(またまた登場)から印判状が下り、1577(天正5)年頃から開拓が始まった。溜池が完成したのは1590(天正18)年とされている。奇しくも、その年に小田原北条氏は秀吉の軍門に下っている。

 1707年の富士山の宝永噴火の影響で、溜池は泥砂で埋まったために農民たちは掘り起こし作業をおこなった。こうした災害はその後もあったようだが、その都度、農民たちは泥砂を取り除く作業を余儀なくされたようだ。それだけ、この溜池は農民たちにとって重要な存在だった。

 そんな貴重な溜池も、今では観光スポットになってしまった。池に架かる「タイコ橋」上にはカメラマンが数人いて、しきりにカルガモの子供たちが水遊びする様子を撮影していた。

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カワセミの親を追うカメラマンを撮影

 公園の北側入口の南側にはハス田が広がっている。ここには大賀ハスもある。まだハスの季節ではないのだが、写真のように、しきりとハス田にカメラを向けている人々がいた。いずれも、高級そうな超望遠レンズを一点に向けていた。一番暇そうなオジサンに、何を狙っているのかを聞いてみた。

 ここにはカワセミの親子が住み着いていて、今はその親が、腹をすかせた子供のためにハス田で餌を漁っている最中とのことで、超望遠レンズを構えている人は、親カワセミが餌をくわえる瞬間を狙っているようだ。なお子供は、ハス田とは反対側にある谷戸の柵上に止まっていて、親が子供に餌を与える場面になると、カメラマンたちは一斉に回れ右をする。

 私にはカワセミを撮影する気持ちも超望遠レンズもないので、その代わりに、カメラマンたちを写してみた。彼・彼女たちはほぼ半日ここに居て、カワセミ親子の姿を追いかけているそうだ。それも毎日のように。趣味の世界に住む当事者の眼前には独自の空間が広がっているが、部外者にとってその空間は、ただの”空”であるように思われる。趣味人に実在する世界は、それが実在するという信念に基づいている。その世界に住んでいない人には何も実在しない。というより、その世界そのものが存在しない。その限り、実在とは概念ではなく観念である。

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関心を示されることがほぼない「自由民権の像」

 ハス田と薬師池との間にあるのが写真の「自由民権の像」。不思議な形をしているモニュメントだが、この像と自由民権との結び付きがよく分からないこともあってか、ここで足を止める人は少ない。

 明治時代の初期に始まった自由民権運動は町田(当時は神奈川県南多摩郡野津田村など)の地にも広まり、石阪昌孝、村野常右衛門など後に衆議院議員として活動した人材を生み出している。薬師池のある野津田地区は、多摩の自由民権運動をけん引する拠点のひとつだった。

 ところで、石阪昌孝と言えば、1896年に板垣退助の推挙によって群馬県知事に任命されている。しかし、97年の渡良瀬川の大洪水によって鉱毒の被害が県内に拡大したことで、石阪と田中正造との対立が決定的に深まったこともあり、同年に知事の座から下りている。若き日に抱いていた気高き理想・理念は、年齢を重ね、社会的に高いとされる地位に就くうちに失われ、精神の輝きすら消失しまうようだ。

 もっとも、石阪の名前を聞くと私の場合、田中正造との関係より前に、彼の娘(美那子)が北村透谷と結婚したということのほうを思い出してしまうのだ。今回、この像に触れて石阪のことを思い出したときにも、まず、北村透谷の名が浮かんでしまった。

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江戸時代末期に建築された旧荻野家住宅

 公園内には江戸時代に建てられた古民家が2軒、移築復元されている。上の写真は「旧荻野家住宅」で、東京都指定有形文化財に認定されている。江戸末期に建てられた医院兼住宅で、町田市三輪町にあったものを1974年にこの地に移した。 

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17世紀後半に建築された旧永井家住宅

 こちらは国指定重要文化財の「旧永井家住宅」で、町田市小野路町にあった農家のものを1975年、公園内に移築復元された。記録によれば、17世紀後半に建築されたとのこと。

 ところで、薬師池公園は1976年に開園されている。ところが、荻野家住宅は74年、永井家は75年にこの地に復元されている。時系列が合わないようだが、実は、「薬師池公園」として整備される前に、この地は「福王寺旧園地」として存在していたのである。

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池の南側にある谷戸は花菖蒲田として利用されている

 薬師池の南側には谷戸が伸びている。その場所は水田ではなく花菖蒲田として利用されている。写真はその谷戸の裾部分で、菖蒲たちは順調に葉っぱを伸ばしていた。なお、この地の標高は63m。

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上方に向かって伸びてゆく菖蒲田

 菖蒲田は段々畑のように谷戸の上方に向かって伸びている。こうしたゆるい傾斜の道をうろつくのが、私の至上の楽しみなのだ。さしあたり、どこの谷戸でも。

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菖蒲田には不要な旧水車小屋

 谷戸の一角には水車小屋がある。花菖蒲に水車は不要だろうが、かつての田畑には必要不可欠なものだった。里山の景色をイメージさせるために水車小屋は、その象徴的な建造物である。

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菖蒲田の中段から谷頭方向を眺める

 谷戸谷戸である限り、上段の谷頭に近づくにしたがって幅は狭くなる。

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菖蒲田の上段から谷頭を眺める

 谷戸の上端近辺(標高72m)に達すると菖蒲田は終わり、その上方には谷戸を生み出した谷頭がある。谷頭上の標高は105m。かつては、この場所から豊かな清水が湧き出していて谷戸の田んぼを潤していたのだろう。

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旧荻野家住宅の裏手にあった流れ

 旧荻野家住宅(標高63m地点)の裏手に回ると、写真のような流れの筋が見えたのでそれを追ってみることにした。

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崖下の流れを追ってみると

 流れは丘陵の中腹部に続いており、その流れに沿うように遊歩道が整備されているので、流れを追うのは簡単だった。

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流れの先にあった「大滝」

 その流れの大元が、写真の「大滝」だった。標高は72m。自然らしさを演出しているものの、いささか装飾が過剰なようでもあった。まあ、自然公園を謳っているわけではないので、許容範囲であろうか。

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薬師堂に至る道筋からの眺め

 公園の西の高台に「薬師池」の名の由来となった「福王寺薬師堂」(通称は野津田薬師堂)があるので、お堂に続く遊歩道を登っていくことにした。写真は、その遊歩道上(標高75m)から、旧永井家住宅、東に広がる梅林、さらにその東にある薬師池を眺めたもの。

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薬師池の名の由来である「福王寺薬師堂」

 遊歩道から参道に移り、写真の薬師堂を訪ねた。私はお参りをする習慣がないので、ただ建物とその周囲を見ただけだった。中心に写っている石標には、「普光山福王寺 野津田薬師堂」とあった。

 福王寺の開山は行基であるそうだが、それはとくに問うまい。1576年にこの地(暖沢(ぬぐさわ)谷戸)に再興され、現在のお堂は1883年に再建されたとのこと。お寺自身も「野津田薬師堂」の通称を名乗っているので、もはや福王寺の名への拘りはないのかも。

 写真では伝わらないのが残念ではあるが、お堂の佇まいは十分、ここを訪れる価値のあるものだ……お参りはしないけれど。

◎町田ぼたん園を初めて訪ねる

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「花摘み娘」が花柄摘みをおこなっていた

 薬師池から徒歩6、7分のところに「町田ぼたん園」がある。普段は「民権の森」として無料開放されているが、ボタンの開花期(4月中旬から5月中旬)には有料(大人520円)となる。ゴールデンウィーク期間が最高の見頃となるが、緊急事態宣言のために4月25日からは臨時休業となってしまった。私はその直前に訪れているので、無事、写真の「花摘み娘」の姿にも触れることができた。

 薬師池を訪れた際にはこの辺りにも出向くことがあるが、ボタンの開花期に当たったのは初めてだった。私の場合、ボタンの名を聞くと「緋牡丹お竜」の藤純子を思い浮かべるが、この緋牡丹はサボテンの仲間なので、ぼたん園のボタンとは異なる。それゆえ、写真の花摘み娘は博徒ではなく、花柄摘みや花への水やりなどを担当している。

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どこにでもありそうな里山の風景

 薬師堂からぼたん園へ移動することにしたが直には向かわず、少しだけ丘陵地を歩いてみた。人工的な公園も良いが、こうしたどこにでもありそうでいて、かつ、ここにしかない里山の風景に出会えることが、丘陵地の徘徊の奥深さだ。

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ぼたん園に向かう道筋にあった菜の花畑

 ぼたん園に向かう坂道の傍らに写真の菜の花畑があった。多くの人が、ここで足をとめて写真撮影をおこなっていた。ボタンのような華美な花を見学にいく人が、こうした簡素な花にも惹かれるという点が興味深い。

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見応えのある自然の藤

 菜の花の向こう側にはヤマフジの大きな木があった。菜の花を見ている人の視野には必ず、このヤマフジも入るはずなのだが、こちらにカメラを向ける人は皆無だった。人は視界に入ったものすべてを認識しているわけではなく、さしあたり見たいものしか見ていない。その限り、見ようとしないものは実在しないのと同等である。

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ぼたん園の西隣にある「町田市ふるさと農具館」

 写真は、ぼたん園のすぐ西隣にある「ふるさと農具館」の入口付近。この時期は幟にある「七国山そば」が人気らしいが、それを目当てに訪れる人が多いようで、この日は売り切れだった(そうだ)。ここも4月25日から臨時休業とのことだ。

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ぼたん園の入口付近

 ボタンには和傘がよく似合う。これは定型ともいうべきものだ。ボタンの花びらは雨に打たれるとすぐに染みができることによる。しかし、写真の場所には屋根があるから和傘は不要だと思えるのだが。しかし、それでもボタンに和傘があるのは、ここが入口すぐの場所であるからだろう。誰しもが、この取り合わせに定型美を抱き、ぼたん園に訪れたことを、改めて実感する。

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ぼたん園にはぼたん以外の花もある

 ぼたん園といってもボタン(1700株)だけではないのは当然で、ボタンの同属であるシャクヤクも600株あるし、フジやセイヨウオダマキもよく咲いていた。 

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ぼたん園にはシャクヤクも多くある

 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」は、美人の姿を花にたとえて表現したものだが、たしかにシャクヤクはすらりとした姿が印象的だ。

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藤ぼたんの別名があるタイツリソウ

 ボタンの葉っぱに似ているからという理由?で、写真のタイツリソウも多く植えてあった。ただし、似ているのは葉っぱだけで、それ以外に似ている点はない。こちらはケマンソウ科コマクサ属でボタンとはまったくの別種だ。しかし、藤ボタン、瓔珞(ヨウラク)ボタンという別名もあり、中国では荷包ボタンと呼ばれているそうだ。似ているのは葉っぱだけでも、花の王様と類似点があるのは凄いことらしい。

 私は一時期、山野草を多く育てているときに当然のごとく、このタイツリソウも多く集めていた。何しろ、漢字で書けば鯛釣草なのだから。

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ぼたんには赤系統の花が多い

 ボタンには赤系統の花が多い。理由は明瞭で、ボタンは牡丹の漢字を当てているからだ。この名は、中国・明朝時代の薬学書である『本草綱目』にあるそうで、「丹」は赤色を表している。

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ボタンの葉は葉先が分かれており、葉にはつやがない

 今回、ボタンの開花期で混雑が予想される時機に敢えて訪れたのは、私なりの理由があった。ボタンとシャクヤクの見分け方を失念していたからだ。もちろん、ネット等で調べればすぐに分かるのだが、やはり、実際の花に触れる以上の説明力はない。

 もっとも判別しやすいのは葉っぱで、写真のように、ボタンの葉っぱは先端部が3つに分かれているものがほとんどだ。また、葉っぱにはツヤが感じられない。

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シャクヤクの葉は先が分かれておらず、葉にはつやがある

 一方、シャクヤクの葉っぱは楕円形で、先端部が分かれていない。葉っぱ自体にツヤがあってテカテカしている。

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ボタンとミツバチ

 ボタン(牡丹)は中国西北部が原産地で、元は薬草として利用された。落葉低木なので、背はそれなりに高くなる。富貴草、百花王花王などの別名がある。近年では改良園芸種が出回っているので、花の色や形は様々である。

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シャクヤクとミツバチ

 シャクヤク芍薬)はアジア北東部が原産地で、漢字名から分かる通り、こちらも薬草として古くから用いられた。ボタンが木本性なのに対し、シャクヤク草本性なので、冬場は根だけが残って茎などは地表から姿を消す。ボタンが花王の別名を持つのに対し、シャクヤクは花相とも呼ばれる。ボタンが花の王様、シャクヤクは花の宰相といったところらしい。

 ボタンに比してシャクヤクは花の香りが強い。バラのような良い香りがすればシャクヤクとのことなので、鼻を花に近づけたら蜂に刺されそうになった。やはり、美人は近寄り難い。

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広々とした庭園

 丘陵の斜面を利用したぼたん園はそれなりの広さ(約16000平米)を有しているので、花を愛でながらの散策には良き場所だった。

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白花のヤマフジと藤棚

 写真の白いヤマフジと隣の藤棚とのコラボレーションはかなりの人気を博していたようで、ボタンやシャクヤクよりも撮影者は多かった。

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ボタンを描く人

 カメラを構える人だけでなく、スケッチブックを持参してボタンを描いている人もいた。私には絵を描く才能が(も)まったくないので、ボタンのような複雑な花弁を有しているものを描く気にはまったくならない。もし美術の授業でボタンを描けという指示があったならば、私は牡丹ではなく釦を書くだろう。シャツの釦なら簡単に描けそうだ。それも平面的になら。 

◎寺家ふるさと村をとぼとぼと歩く

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もはや日常的ではなくなった日常的風景

 横浜市青葉区にある「寺家(じけ)ふるさと村」は、かつては東京や神奈川でも日常的に展開されていた里山の風景が保存されており、のんびりと散策するには格好の場所だ。

 かなり前のことなので何の用事だったかは忘却してしまったが、一時期、青葉区市ヶ尾近辺に出掛けることが多くなった。府中市からだと、鶴川街道に出てから上麻生交差点を曲がって「上麻生横浜線」(県道12号)を南下して市ヶ尾方向に進むことになる。この道路は鶴見川中流に沿って整備されているので、道の左右に鶴見川によって泣き別れとなった多摩丘陵の片割れが、それぞれ南東方向に伸びている。

 結構、渋滞する道なのだが、田舎っぽい道なので興味深く、時間があるときには枝道に入って、以前にはどこにでも広がっていたであろう空間に触れることにしていた。そうして出会ったのが、寺家ふるさと村だった。

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ふるさと村に残るゲンゲ畑

 かつての水田には、ごく当然のようにゲンゲ畑が広がっていた。ゲンゲ(蓮華草の名前が一般的か)は緑肥として利用されていたからだ。今では化学肥料が当たり前になってしまったため、ゲンゲ畑は緑肥としてではなく、かつてあった田舎の春の風物詩のひとつとして意図的に造作されているのだ。

 それゆえ、レンゲソウは敷地の全面にではなく、ほんの片隅にだけ咲いている。

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ラクターが始動する季節

 ここは単なる観光村ではなく、実際に農業を営んでいる人たちの空間を「ふるさと村」という緑地保全地区に指定しているのだ。コロナ禍の中、こうした開けた場所ならば安全度は高いとばかりに「避難プラス観光」する人々が増加した結果、無断駐車などのために農作業が滞る場面も多くなっているようだ。

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田畑には水車小屋が付き物

 日常と非日常とが交差する場所なので、写真のような水車小屋も設置されており、この村の数少ない観光スポットになっている。

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ふるさと村内には溜池がいくつもある

 谷戸に造られた水田を潤すために、村内には溜池がいくつも整備されている。写真の「むじな池」は、村の北側にある山田谷戸の水田に水を送るための溜池。池の三方には雑木林(ふるさとの森)が広がっているので、確かにタヌキぐらいは出没しそうだ。

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釣り堀に利用されている「熊の池」

 村の南側にある熊野谷戸に水を送るための溜池(熊の池)は釣り堀にも利用されている。利用料は1日分で2200円と意外に高価だった。ヘラブナ釣り場の相場は私には不明だが、釣り人はそれなりに居て、しかもあちこちで竿が曲がっている場面が見られたので、魚の放流量は多いように思われた。そうでなければちょっと高い(ようだ)。

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ちょっぴり神秘的な「大池」

 山田谷戸の田んぼに導水される溜池の主力が写真の「大池」。この大池周りの森が個人的には一番に気に入っている。

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熊野神社の鳥居

 寺家熊野神社の創建年代は不肖ながら、古くからこの地に祀られていたという。再建は1867(慶応3)年におこなわれ、現在の社殿は1925(大正14)年に完成したとされている。

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本殿は谷戸を見下ろす位置にある

 写真から分かる通り、本殿までは急な階段が続いている。鳥居は標高31m地点、本殿は45mのところにある。比高は14mだが、私は急な階段に恐れをなし、「病み上がり(脱・脱腸)」を理由に階段を上ることを断念した。

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雑木林内には散策路が整備されている

 熊野神社の階段はパスしたが、森の中を歩き回れる散策路は自分好みであると思っているので、ペースは緩やかながら山坂道を進んでみた。写真の休憩所のある場所の標高は64mほど。

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大池の源流点を探ることにした

 ふるさと村の西端に近い場所にある大池は逆U字形をしている。池の西側に遊歩道があるので、それを歩きながら、ついでに大池の源流点を探ることにした。上の写真の撮影地点の標高は39mだ。

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細い流れが伸びていた

 遊歩道に沿って細流があり(本当はその逆だが)、その流れの元の方向に進むことができる。写真から分かる通り、流れの筋は最近になって整えられた形跡がある。もうすぐ、水田に水を張る時期になるからだろうか?

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湧水が造った湿地

 やや上りに入った場所に、写真のような湿地帯があった。この場所も遊歩道のすぐ脇にあるので、観察する場合、虫に対する恐怖心をさほど覚えずに済むのが嬉しい。

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谷頭のひとつ

 さらに進んでいくと、写真のような西に伸びる枝流の谷筋が現れた。丸太の先をのぞき込んでみたのだが、流れはまったくなかった。この谷はすでに涸れてしまったらしい。

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別の谷頭を高台から望む

 道を直進すると、ほどなく本線と思われる谷が現れた。ここには確かに流れはあったが、それはほとんど藪の中に隠れてしまっていた。その場所に足を踏み入れようにも、足場が悪そうなのですぐに断念した。こういう場所では、私は諦めが早い。

 遊歩道は写真から分かる通り、谷へは進まずに東に曲がって丘陵地を上っていくので、そちらに進んで谷頭の姿を東側から確認した。谷頭は標高43m地点に始まり、撮影場所は54mほどのところだ。

 この地点から、いくつか前に写真に挙げた休憩所のある場所(標高64m)に出て、それから少しずつ下って、遊歩道は二股に分かれる場所(57m)に至る。ここを右に曲がれば「熊の池」(36m)に至り、直進すれば熊野神社本殿の裏手(46m)に出ることができる。

 もちろん、私の場合は「熊の池」方向に進んだ。釣りの場面を見たかったことと、釣り人のための駐車場にはトイレがあることを知っていたからだ。

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谷戸には初夏の風が吹いていた

 大池の西側には小さな谷戸があった。こうした何の変哲もない場所こそ、もっとも豊かな空間であるとも言える。

 こうした場所では、無限の想像力が働くからだ。

〔59〕水の郷・東京都日野市の清流と用水路を訪ねる

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日野市民にとって用水路は、日常の中に存在する

◎日野市は用水路網の中にあるといっても過言ではないのだ!

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日野市の住宅街ではごくありふれた風景

 日野市といえば、私が敬愛してやまない新撰組副長の土方歳三を生んだ町であるが、その地を訪れると、あちこちに掲げられた新撰組の旗と同じぐらいかそれ以上に網の目のように整備された用水路に会遇することになる。私の住む府中市にだって、かつて多摩川左岸の沖積低地には数えきれないほどの用水路があったのだが、現在ではそのほとんどが暗渠化されるか、埋め立てられて廃されるかしてしまった。

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1567年に開削が始まった日野用水

 日野市に未だ残る用水路の総延長は116キロとされている。これは江戸時代に「多摩の米倉」と呼ばれるほど稲作が盛んにおこなわれたその名残りである。最盛期には180キロもの長さがあったそうだが、近代化の波が押し寄せたことで都市開発が進み、用水路の埋め立てがおこなわれたが、それでもまだ116キロも残っているということは、住民による保存活動が奏功している証左であろう。

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要所には、こうした資料も掲示されている

 1995年、日野市は当時の国土庁(現在の国土交通省)から「水の郷百選」(全国で107地域)に選ばれている。東京都では墨田区と日野市だけで、他では「十和田市」「大子町」「香取市」「黒部市」「白山市」「安曇野市」「郡上市」「近江八幡市」「天川村」「津和野市」「四万十市」「柳川市」「日田市」など、水の町として全国的に認知されて都市・地域が選定されている。それらと比肩されるほど、日野市の用水路群は十分に全国に誇れる存在なのである。

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日野市は湧水にも恵まれている

 日野市は多摩川と浅川との合流点に位置しているために氾濫原が広がっている。沖積低地が多いので、両河川から水を導き入れて田んぼにすることが容易だった。多摩川左岸の砂川村の人々は「嫁に行くなら日野に行け」と言ったとされる。砂川がある立川段丘では水の恵みに乏しいために「陸稲」の育成が中心だったからだろう。

 日野は河川に恵まれているだけでなく、日野台地や多摩丘陵のへりからは多くの清水がコンコンと湧き出ている。これら湧水も用水路へと流れ込んでいる。そうした用水路の澄んだ水は稲作に用いられるだけでなく、生活用水にもなったのである。

◎黒川水路を散策する

 ▽まずは東豊田緑地保全地域の湧水を探す

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湧き水を蓄えた池は清水谷公園内にある

 日野台地の南斜面は浅川によって削りとられたもので、その崖線のキワからは豊富な湧き水が流れ出ている。とりわけ、中央線・豊田駅の北東側と国道20号線(日野バイパス)の南側との間の斜面は「黒川清流公園」としてよく整備され、湧き水観察には格好の場所になっている。

 写真の池は豊田駅から北東190m地点にあって、東豊田緑地保全地域の西端に位置する清水谷公園内にある。撮影地点の標高は90mほどだが、崖上にある「イオンモール」は105m地点に建っている。また豊田駅ホームは91m地点にあるものの、駅前北口ロータリーは101m地点にあるので、池は崖下かつ窪地に存在していることになる。それゆえ、周囲から湧き出た水がここに集結したと考えられる。残念ながら、保全地域ということもあって崖の斜面内に立ち入ることはできないため、湧出点を確認することは叶わなかった。

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池からの流れが黒川水路の出発点となる

 池の南側には水路(黒川水路)が造られており、池から流れ出た水が東方向へ流れ下っていく。写真のように、整備された小水門からだけでなく、池を取り囲む石垣の間からも水は流出していた。

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暗渠化された流れは山王下公園の西端で再び姿を見せる

 黒川水路は宅地開発された道路下を流れるために55mほど暗渠化され、写真の山王下公園の西端で姿を現し、さしあたり公園内の堀を流れ下る。

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公園内を横切る黒川水路

 小さな山王下公園内を横切る黒川水路は、あたかもそれが自然のままの姿であるかのごとくに演出されている。

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公園内を流れた水たちは整備された水路に落とされる

 しかし現実は写真のごとくで、公園内を流れた水たちは、公園の北西側に整備された水路に落とされていく。右手に公園、左手に宅地内を走る道路がある。

 地図を確認すると、この水路は豊田駅のすぐ東側から延びているようだ。だが大半は公有地や私有地内を通っているため、実際に見ることはなかなかできそうになかった。

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緑地保全地区にあった湧水の流れ込み

 山王下公園北側の道を40mほど東に進むと、写真の流れ込みが目に入った。この流れは明らかに崖線からの湧水に由来するものであった。崖の上には道路が通じているので、その道路からは湧水点が視認できそうだった。

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崖上から湧水点をのぞき込む

 湧水の流れ込み地点の標高は88m、上の写真の撮影地点は94m。緑地保全地域なので立ち入ることはできないが、湧水点は90m地点にあると思われた。

 この湧水も細い水路に落とされ、さらにすぐさま山王下公園の水と同じ運命をたどり、豊田駅方面から来ていると思われたやや深めの水路に落とされていった。

 ▽黒川清流公園を散策しながら黒川水路を追う

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清流公園の西隣にある「カワセミハウス」

 水路に集められた湧水は160mほどの距離、地下を北東方向に流れて黒川清流公園の西端にある池に流れ込んで再登場する。その池の西隣にあるのがコミュニティーセンターの「日野市立カワセミハウス」で、近隣の自然に関する資料展示や環境セミナーなどをおこなうための会議室がある。もちろん、散策者のための休憩室もある。なお、施設の電源はすべて再生可能エネルギーで賄われているそうだ。

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清流公園の西端にある「あずまや池」

 狭義の「黒川清流公園」は西端の「あずまや池」から東端の「ひょうたん池」まで約630mの細長い敷地を有し、日野台地の南斜面とヘリを流れる黒川水路、4つの池、2つの広場などから構成されている。その間に湧水点がいくつもあるが、現在はそれらを保存管理するために、立ち入り禁止区域が多く設定されている。

 写真の「あずまや池」は、先に挙げた緑地保全地域の湧水を集めるだけでなく、南斜面からくる幾筋もの湧水も集まるために水量は豊富である。ただし、水自体の透明度は高いものの、底には泥が堆積しているため濁りやすいのが難点ではある。

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池のコイたちは湧水の流れ込み付近を好んでいるようだ

 池の北側は立ち入り禁止になっているために湧水の流れ込みを探すことは難しいが、コイたち(魚一般)は流れに向かう性質があるので、写真の木の下辺りに流れ込みが存在すると思われた。

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ここのコイはよく肥えている

 近隣の人々が散策のついでにコイたち(カルガモにも)餌を与えることが多いので、彼・彼女たちはよく肥えている。というより、いささか肥満気味である。

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池からは水が流れ出して「黒川水路」を潤している

 池からは写真のように水が流れ出て、公園の南側に整備された黒川水路を潤している。

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黒川水路は「ひょうたん池」まで開渠状態で通じている

 水路に落とされた水の流れは、中央線の法面(のりめん)近くにある「ひょうたん池」まで開渠となって姿を現しているので、その流れを追うことができた。

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水路を覆うヤマブキ

 写真のように、水路を植物が覆っている場所もある。石垣の間からスミレなど春の花が流れに色を添えているところもあった。

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湧水が豊富だったころに造られた橋

 公園内の散策路には2か所、橋が架けられている。豊富な湧水が流れ下る場所だったからだろう。しかし、西側の橋の下には流れはなかった。台地上は宅地開発が進んでいるため、雨水が地下に浸透する量が激減してしまったからだろう。以前、落合川のところで触れたように、湧水を得るためには広大な涵養地が必要なのだ。

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東側にある清流広場の上部では湧水の流れが見て取れた

 その一方、東側にある「清流広場」に流れ下ってくる沢筋では、写真のような流れが見て取れた。

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清流広場では、沢の水を汲む人の姿が見られた

 写真のように清流広場は親水性が確保されているので、澄んだ沢の水を汲む人々の姿も見られ、子供たちが水遊びする光景にも触れることができた。

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茂みの中に小さな流れがあった

 散策路をアチコチ歩くと、写真のような崖線からの流れを見出すことができた。ここも、その流れの源は柵で完全に保護・管理されている。

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日野台地の地質

 崩れた斜面に近寄れる場所があった。日野台地を覆うローム層の下には写真のような砂礫層があり、それが帯水層になっている。

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台地の上では宅地造成が進んでいる

 台地の上では宅地がどんどん増殖している。写真の場所にも沢の痕跡はあるのだが、もはや完全に枯れてしまったようだ。斜面だけの保全では限界がある。

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大池のいち景色

 大池に生えていた樹木。この木は開発の歴史と緑地保全の進展を見続けているはずだ。

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黒川水路はまもなく中央線の高架(盛り土)に突き当たる

 写真のように、東進してきた黒川水路はまもなく中央線の高架に突き当たる。高架橋であればそのまま進めるのだろうが、土盛りではそれは難しい。

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中央線の手前まで進んだ水路

 中央線のすぐ近くにまで進んできた水路は、写真のような小さな池(ひょうたん池)を形成し、その末端で水たちは地下に潜ることになる。

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ひょうたん池の末端

 写真のように黒川水路は一旦、地上から姿を消す。

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中央線の東側で顔を出した黒川水路

 地下に潜った黒川水路は中央線の東側で再び、姿を見せる。ただし、すぐ東側という訳ではなく、ひょうたん池からは400mほど離れている。なお、ひょうたん池の標高は84m、顔を出した場所は82mである。

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宅地と畑の間をうろつく水路

 黒川水路は開渠の状態でしばらくは宅地と畑との間をうろつくが、標高72m地点まで下ったところで沖積低地の水田地帯に入り、やがて浅川左岸から取水された豊田用水と合流する。

◎日野用水の流れを追う

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日野用水の脇に整備された親水路

 日野用水の整備は1567(永禄10)年に始まったとされている。美濃国から移住してきた佐藤隼人が、滝山城主の北条氏照から罪人をもらい受けて開削を始めたという記録が残っている。美濃国には灌漑用水路が無数にあったので、佐藤はその地において灌漑土木技術を身に付けていたのであろう。また、北条氏照にとっても日野の沖積低地を開発することは、領地の経済的基盤を充実させるための必須な事業であったと考えられる。

 滝山城北条氏照に関してはすでに本ブログの第36回で触れている。日野用水の多摩川右岸取水口は八王子市平町地先にあるが、滝山城下と取水口との距離は2.5キロしかない。そもそも、滝山城は加住北丘陵にあり、日野台地はその丘陵の東延長上にあって、台地の東側に多摩川と浅川が造った沖積低地があるのだ。

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谷地川を渡る日野用水の水路橋

 多摩川の日野用水堰(八高線多摩川橋梁から430mほど上流)から取水(標高88m付近)された流れは、ほぼ都道169号(淵上日野線)に沿って東進し、写真の谷地(やじ)川に突き当たる。開削当時は水路と谷地川との水位はほぼ変わらない位置にあったために、谷地川の流れを利用して水路は川を越えることができた。が、近年には谷地川の河床が低下してしまったため、写真のような水路橋を渡して川を越えている。

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水路橋の中をのぞく

 水路橋の中をのぞくと、確かに用水の流れが視認できた。谷地川の河床には基盤が露出していることもよく分かる。これは、本流の多摩川での砂利採集が過剰におこなわれた影響なのだろう。

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復元された水車

 谷地川を越えて日野市に入った日野用水は、沖積低地に広がる田んぼを潤すためにあちこちに枝分かれする。そのひとつの流れの際にあったのが写真の水車小屋で、かつてこの辺りにあったものが公園内に復元された。なお、この辺りは台地のキワ近くなので、湧水(東光寺湧水など)も多かったらしい。とすれば、この水車は用水の流れではなく湧水の力で回転していたのかもしれない。

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「よそう森公園」内で用水路は幾筋もの流れに分かれる

 水車堀公園から東に280mほど進むと、写真の「よそう森公園」に出る。現在では宅地開発が進んで広さは感じられないが、以前はこの一帯が田んぼで、その広さから「八丁田」とも呼ばれていた。

 かつてこの近辺に塚(盛り土)があり、そこから八丁田一帯を見渡してその年の収穫高を予想した。そのため、「よそう森」と名付けられたと考えらえている。現在では、近隣の小学校の児童がここで稲作の体験学習をおこなっている(そうだ)。

 写真から分かる通り、用水路はここから幾筋にも枝分かれし、八丁田全域に水が行き渡るように工夫されている。

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日野用水下堰親水路を歩く

 日野用水は「上堰(堀)」と「下堰(堀)」とに区分されている。上堰は前述した八王子市平町地先から取水された流れ、下堰は谷地川が多摩川に合流する辺り(成就院の北側)から取水された流れだが、後者の取水口は河床が低下して水の取り入れが不能となったため、現在では上堰から分水されている。

 上堰は日野市の中心街方向に進み、下堰は多摩川右岸近くを進んでいく。もちろん、それぞれの流れは無数に枝分かれしているし、さらに地面の傾きの関係から、上堰の流れが下堰に入ったり、その逆もあったりで、私のような部外者にはほとんど区別がつかない。

 写真は下堰の流れが分枝する前の姿で、表示にも「下堰親水路」とあるので、この流れを日野用水下堰と呼んでも問題はなさそうだ。

 なお、この場所を(A)とする。

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上堰の流れが下堰に入り込む

 ところが、(A)の場所の80mほど下流に写真の合流点があった。左手からくるのが下堰幹線で、下から上に流れ込んでくるのが上堰の分枝流のひとつだ。この場所は先に挙げた水路橋から東へ900m地点にあるが、グーグルマップ(以下マップと表記)で確認できる範囲でも、上堰はすでに4つかそれ以上に枝分かれしているのである。

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都道169号線の北側に現われた用水路

 合流点から下堰の流れは北東に進んで、多摩川右岸近くを東進する。一方、合流点の東230m地点で、別の流れが都道169号線の北側に姿を現す。マップを見る限り、上堰の分枝流(先ほどとは別の)が北東方向に進んできて、都道を越えた辺りで2つに分かれ、そのひとつが写真の用水路(これを(B)とする)となり、もうひとつは北東に進んでいくことが分った。

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下堰の本流?は中央線の下を潜り抜ける

 下堰幹線を追うと、写真のように中央線の下を潜り抜けて、そのまま東進していた。写真は中央線下を流れる下堰を東側から西(下流から上流)方向を写したものだ。

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中央線・多摩川橋梁を眺める

 日野用水下堰が中央線の下を潜った場所から多摩川右岸の土手までは30mほどの距離にある。折角なので、用水の流れの親玉である多摩川をのぞいてみた。下堰の旧取水口は、この多摩川橋梁の1200mほど上流に位置する。

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下堰本流は住宅地の中を東進する

 下堰幹線は田んぼの中ではなく、写真のようにすっかり宅地化された中を、中央線下から360mほど東に進んで行く。なお、写真は下流から上流方向を望んだもの。

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下堰は90度曲がって東から南方向に向きを変える

 下堰幹線は、写真の地点で90度向きを変え、今度は南へと下ることになる。この流れを(C)とする。なお、この写真も、下流側から見たもので、赤い車の先にある土手は多摩川左岸のものである。

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住宅地に突如として現れた細い流れ

 下堰幹線の200mほど南に位置し、幹線と平行するように東へ進む細い流れ(これを(D)とする)が中央線の東側の住宅地に現われた。西から東へ流れていることは確かなのだが、中央線の西側に出てもその流れの元をたどることはできなかった。

 しかしマップを確認すると、これは想像に過ぎないのだが、いくつか前に挙げた都道脇に現われた流れ(B)と関係するように考えられた。その流れはファミリーマート野栄町店の下で地下に潜るのだが、その流れの筋を近隣の道などから(B)の位置に合致しそうなのだ。さらに、コンビニの北側にある宅地内の道はやや複雑に曲がっているものの、全体的には南東方向に向いているので、その道の下には暗渠化された別の流れがあるとも想定できる。その2つがどこかで合流して、中央線の東側に現われたのかもしれない。

 一方、中央線の東側の宅地は整然と区画されており、比較的新しく開発された住宅地と考えられるので、下堰幹線も写真の細流も開渠のまま直線化されたと考えられる。

 もっとも、写真から分かる通り道は真っすぐでも地面には凹凸が見受けられる。おそらく、この辺りには湿地が広がっていたのだと想像しうる。

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南下する下堰幹線

 南下を始めた下堰幹線は(D)と表記した細流に出会うまで約200m進んでいく。

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細流に出会う直前に下堰幹線は地下に潜る

 細流(D)に出会う直前に下堰幹線(C)は地下に潜り、やや斜めに向きを変えて細流と出会う。

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幹線と細流との「出会い」の場

 写真は、南下してきた下堰幹線(C)と東進してきた細流(D)とが出会う場面である。もっとも、中央に壁があるため、ここでは直に交わることはない。その壁は幹線からの流れの越水による被害を防ぐための工夫だろうか?

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幹線と細流との並走

 少しの間(30mほど)だが、幹線と細流とは壁を隔てて東向きに並走する。 

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公園の手前で向きを変える

 30mほど東に進んだ2つの流れは、後述する公園の手前で右折して南下を始める。

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2つの流れの合体

 南に向きを変えた場所で幹線と細流は合体し、そのまま都道169号線方向に進んでいく。 

◎仲田の森蚕糸(さんし)公園と日野市ふれあいホール前の流れ

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幹線の分枝点

 下堰幹線(C)が南下を始めた場所から130m地点で、幹線の一部は分枝されて東方向に進んでいく。

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分枝された流れは公園方向に進む

 分枝された流れは「仲田の森蚕糸(さんし)公園」方向に進み、公園内外を飾る水路の源になる。この流れを(E)とする。

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幹線から分岐された流れは公園の西で再分岐する

 流れ(E)は、公園の西端で2つに枝分かれする。写真左手に進む流れ(これを(F)とする)は公園内に、右手に下っていく流れ(これを(G)とする)は公園内の西端を南下する。

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公園内を流れる(F)の水路

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公園内の流れはゆったりムード

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公園内の流れで遊ぶ子供たち

 蚕糸公園の名があるように日野市では養蚕業が盛んであった。とくに1884,85年頃が最盛期だったそうだ。また、この地には1928年、旧農林省蚕糸試験場日野桑園が創設された。

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改装保存されている試験場の建物

 試験場は1980年に筑波に移転し、その跡地の一角に写真の「仲田の森蚕糸公園」が整備された。敷地内には改装された試験場の建物が保存されている。

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公園の一角には桑の木が植えられている

 公園の一角には、かつて桑園だったことの証として、いろんな種類の桑の木が植えられている。

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流れは少し絞られて駐車場の北側方向に進む

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流れは駐車場の北側に沿って東進する

 公園内を流れてきた水路は素掘りのままではあるが、駐車場近くで少し幅が絞られて進み、今度は駐車場の北側に沿って東へと進んで行く。

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「ふれあいホール」の手前で流れは右折する

 そのまま東進すると「ふれあいホール」に突き当たってしまうので、駐車場の北東角で流れは右にカーブする。ここでも素掘りのまま残されているのが喜ばしい。

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公園の西側に沿って南下するもう一つの流れ

 一方、公園の西側を南下する水路(G)は写真のように石垣護岸で整備されている。無機質な三面コンクリート護岸ではない点に、日野市の「用水愛」を感じる。

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やや東方向に向きを変えた流れ(G)

 公園の西側に沿って流れる水路(G)は南側にある都道169号線に突き当たる手前で少し東に進路を変え、さらに道路の北側でもう一度曲がって公園敷地の南端を、道路と並走するように東へ流れていく。

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自噴井を思わせる設え

 流れ(G)が方向転換している場所の内側にあるのが、写真の自噴井を思わせる「湧き水」だ。実は、ポンプを用いて地下水を常時、汲み上げているとのことである。地下水なので、(G)の流れより透明度は高い。ただし、飲料水には適さないそうだ。この「湧き出た」水がつくる流れを(H)とする。

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(G)の流れは2つに分岐する

 (G)の流れは道路に突き当たる直前で向きを東に変えるということはすでに触れているが、写真から分かるように、左折する(G)の流れとは別に、直進して道路の地下に潜っていく流れもある。この方向の流れを(I)として、それについては後述する。

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分岐点を別の角度からのぞく

 上で触れた分岐点を東側から眺めてみた。柵の向こう側の流れが(I)で、手前側に流れてくるのが(G)、右手から流れ落ちてくるのが、地下水由来の(H)である。 

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都道の北側に沿って流れる水路

 (G)の流れを追う。左側が、公園やその東側にある「ふれあいホール」利用者のための駐車場で、右手が都道169号線。その間に水路(G)と歩道がある。水路には飛び石が数多く配置されており、親水性を高めている。

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流れ(F)が(G)に合流

 駐車場の北側を流れてきた水路(F)は「ふれあいホール」入口の手前で都道に沿って流れてきた(G)に合流する。公園内を流れていたとき(F)はもう少し水量が多かったようだが、その水路は素掘りのために水の一部が地下に浸透していったと考えることもできる。

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水路はふれあいホールの南側を東進する

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水深のある場所に集まっていたコイたち

 ホールの南側を流れる水路(G)には飛び石があったり、少し深く掘り下げられたりして、水路の傍らを散策する人々の目と心に安らぎを与える。

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都道沿いを進んできた水路は旧甲州街道と交差する場所で地下に消える

 都道169号線は、「スポーツ公園前」交差点で旧甲州街道と交わる。この交差点の直前で私が追ってきた水路は地下に消えていく。旧甲州街道は北に進んで多摩川に架かる「立日橋」を渡るのだが、その橋のすぐ右手に「地下水路」の吐き出し口がある。おそらく、水路(G)の水たちはそこで多摩川に戻されるようだ。

 (G)の水たちはしばし地下を進むことになるため、開渠を進んできた「花筏」やゴミはここが終着駅に定められているようだ。

◎スポーツ公園の南側を進む水路(I)を追う

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スポーツ公園方向に向かう水路

 先に触れたように、(G)と分岐して直進して都道の下に潜る流れ(I)があった。この水路は、都道の南側に広がる「スポーツ公園」敷地内の南際を流れていく。都道の南側に出るために、水路(I)は一旦、地下に潜ったのだった。

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都道の南側で顔を出した水路

 都道の南側で水路(I)は地表に姿を現した。写真左手がコンビニの駐車場、右手がスポーツの森の敷地である。

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スポーツの森にある石碑

 写真はスポーツの森の敷地内にある散策路の傍らにあった石碑。これから分かる通り、この敷地も旧農林省蚕糸試験場日野桑園のものだった。マップを見れば一目瞭然なのだが、仲田の森蚕糸公園も、ふれあいホールも、その北にある市立仲田小学校も、そしてスポーツの森も、すべて「日野桑園」が移転した跡地に造られたのである。

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狭い水路にも意匠が施されている

 スポーツの森の中核は陸上競技場だが、その周りには遊歩道が整備されている。水路は遊歩道と南にある中学校や住宅街との間を進むのだが、狭い場所であっても一部には小さな意匠が施されていて、親水性を高めている。

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狭い水路を進むカルガモのペア

 狭い水路であってもカルガモたちには格好の御狩場のようで、写真のペアはここを縄張りとして住み着いているようだった。 

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住宅地への取り付け道路

 狭い水路であっても閉渠化されずに残っており、転落防止柵も住宅地に適した意匠のものが設置されている。

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水路はスポーツ公園の東側にもあった

 水路は公園の南のへりだけでなく、写真のように東のへりにもあった。極めて細い水路だが、この水路が有ると無いとでは、展開される風景への印象はまったく異なってくる。水路がなければどこの町にでもありうる歩道だが、歩道脇に水路があることで、日野の人々は日野市によくある風景を思い浮かべることができる。

 水路のある景色に触れた際、それがたとえ日野市ではない異郷の地であったとしても、日野市に住み馴れた人々には、常に故郷の風景が想起されるのである。それは私が、新鮮野菜の看板を見ただけで新撰組を、そして土方歳三を思い浮かべてしまうのと同じように……違うかも。いや、まったく。

◎日野用水下堰幹線の行方

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公園方向へ分水されなかった下堰幹線はさらに南下する

 一部を仲田の森蚕糸公園方向へ分水した下堰幹線の流れ(C)は、公園西端とは道ひとつを隔てた場所を南下して都道169号線下を閉渠で渡り、道路の南側で再び開渠を進む。写真は、都道を越えた先にある住宅地横を流れる下堰幹線である。

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下堰本流?は上堰の分枝流と合流する

 南下してきた下堰幹線の流れは、そのままずっと南へ進むと日野台地の北側のへりに突き当たってしまうため、向きを少し変えて台地のへりを南南東方向へ流れ下っていく。この向きを変えた場所で、西から下ってきた上堰の分枝流(これを(J)とする)が合流してくる。写真の左手に見えるのが上堰の分枝流だ。

 写真の場所はかつて「精進場」と呼ばれていたらしい。2つの流れが交わる場所なので、合流点付近は池のように広がっていたようで、富士山講に出掛ける人たちがここで心身の清めの儀式をおこなっていたことからそのように名付けられたとのことだ。

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精進場跡から上堰の分枝流を眺める

 上堰の分枝流(J)は住宅地の道路脇を下ってきているのが分かったので、少しだけその水路を辿ってみることにした。

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精進場跡から90m離れた地点から上堰の分枝流を望む

 分枝流(J)は精進場跡から90mほど先まで南西方向に伸びていて、その地点から90度、北西側に曲がっていた。

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水路脇に添えられたシバザクラ

 住宅地を流れる水路なので、自宅の前の水路脇に色とりどりの花を植えている場所を見掛けた。

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宅地の間を下ってくる上堰の分枝流

 分枝流(J)が北西方向に存在したのは20mほどで、今度は西方向に向きを変えている(実際には西方向から下ってくる)。しかし、写真のように宅地間の狭い場所を流れているため、これ以上、この水路を追うことは断念した。

 後でマップを確認すると、この分枝流はところどころで閉渠を進んでくるものの、何とか流れの元を辿ることが出来た。それは、本項の始めの部分で触れた「水車堀公園」横の水路の分枝流の末流であることが判明した。

 水車堀公園から写真の場所までは直線距離にして1450m。実際には蛇行したり、強制的に折れ曲げられたりしているため、それ以上の距離があることは確かだ。

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下堰幹線の流れは中学校の敷地内へと進んでいく

 下堰幹線の流れは市立第一中学校の敷地内へ進んでいったので、少しの間だが、流れを追うことはできなかった。

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台地のへりを東に進む水路

 それでも、下堰幹線は台地のへりを進むことは分かっていたので、その行く手を見出すことは容易だった。

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水路を遡り産卵場所を探す?

 水路の中では、腹をパンパンに膨らませたコイが遡上していた。産卵場所を探しているのか?それにしては単独行だったので、減量のために泳いでいたのかも?

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頑丈そうな水門があった

 立派な水門を見掛けた。仲田の森蚕糸公園に導水するための「仕切り板」とはあまりにも違いが大きかった。

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水門によって分岐された流れ

 写真は、立派な水門によって分岐された流れ。幹線は台地のへりを進んでいったために、こちらの流れは沖積低地の中心部にある水田を潤すための水路だったのだろう。

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下堰と住民の安寧を願う水神様

 幹線の傍らにあった水神様。水路を散策している際に小さな祠をあちこちで見かけた。沖積低地は水に恵まれているが、その一方で氾濫による被害も多発する。されど、氾濫は肥沃な土砂をもたらしてくれる。

 幸と不幸はいつも隣合わせなのだ。

落川集落と落川用水を訪ねる

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落川では道も用水路も入り組んでいる

 落川集落は程久保川と多摩川、川崎街道、野猿街道に囲まれた場所に存在し、日野市の最東端に位置する。地名が体を表しているように、多摩川と浅川、多摩川(かつては浅川)と程久保川の合流点のすぐ南に存在するため、常に氾濫の危険にさらされていた。そのためもあって集落内の道は複雑に入り組んでいる。

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川の跡だったはずの道

 落川集落を通るのは今回が初めてだと思っていた。しかし、実際には数えきれないほどこの集落内を通過していた。かつて、私が裏道としてよく使っていた、浅川に架かる新井橋南詰から京王線百草園駅西側に抜ける道は「落川通り」という名であったことに今回、改めて気が付いたのだ。

 その通りの名は何度も目はずなのだが、私が訪ねたいと思っていた落川と、通りの名にある落川との心象風景が一致していなかったのだ。落川通りは、いかにも裏道といった感じで道はくねくねと折れ曲がってはいるものの、道幅自体はそれほど狭くはなく、なんとか車が行き違うことは可能である。

 私が形象していた落川の道は、上の写真のようなもので、かつて小川や用水路であった流れの筋が道として利用されるようになったものであると、勝手に想像していたのである。自動車如きがすれ違うことなどできないはずであるものとして。

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何度も行き来してしまった道

 こんな道にも出会った。そう、これこそが私の内的形象としての「落川通り」であり、この道を通ったときに私は、方角が不得要領となり、目指していた「落川公園」に至ることがなかなかできなかった。結果、この道を何度も通ることになった。

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集落内にあった高札場跡

 写真は、「落川村高札場」跡である。落川村の多摩川右岸には「一ノ宮渡船場」があったので、落川村にはそれなり数、通行人がいたのだろう。村の人々だけでなく、そうした通行人に対して、掟書などをここに掲げていた。それが高札場だ。

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落川公園内の素掘りの用水路

 落川公園内外には3本の用水路がある。写真は、一の宮用水へと通じていく分水路からさらに分岐されたものであり、公園の西側を流れている。

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一の宮用水に向かう落川用水

 これが一の宮用水へ合流していく落川用水の分水路のひとつで、水量は少ないものの、草むらの中には確かに水の流れがあった。

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2つの水路の合流点

 写真は分水路のひとつで、公園の東側を南方向へと流れ下っている。左手から公園の西側を流れていた水路が合流し、この先、ひとつの流れとなって東方向へ進んでいく。 

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合流した水路は武蔵国一の宮方向に進む

 合流した水路は東側に進み、野猿街道の下を通って多摩市一宮へと入っていく。そこには「武蔵国一之宮・小野神社」が鎮座している。今はともかく、かつては武蔵国内に無数ある神社の中でもっとも格式の高い社とされていたのである。

 落川用水は、そうした格調高い神社の社域にある田んぼを潤していたのだ。今では、程久保川から直接水を取ることはできず、ポンプアップされた川の水が導水されているにしても、である。

 *  *  *

 今回、訪ねた日野市の用水は、全体から見ればほんのわずかなものでしかない。

 多摩川や浅川は、これから天然アユの遡上が本格化する。もちろん、日野の用水の中まで遡上してくるアユは相当数いる。それらの中には田んぼにまで入り込んでしまうものもいる。いずれ、そうしたアユたちの姿も紹介してみたい。

〔58〕過去と未来をつなぐ現在の流れ~江東区・小名木川(2)

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現代版ちょき舟、小名木川を行く

小名木川の旧中川口周辺を歩く

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旧中川口を南岸側から望む

 前回は隅田川口を出発点に小名木川周辺を訪ね歩いてみたが、今回は旧中川口から探訪を始めることにした。写真は、旧中川の右岸(西岸)から小名木川の最上流を望んだもので、橋は旧中川に架かる「中川大橋」、その先に地上に姿を現した都営新宿線東大島駅がみえる。

 小名木川北岸角に「中川船番所」があったはずなのだが、現在は標識以外、その姿を留める格別なものは何もない。代わって、次に挙げる「中川船番所資料館」が100mほど先にあり、船番所に関する資料等を見学することができる。

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中川船番所資料館と旧中川・川の駅

 写真の「中川船番所資料館」は都営新宿線東大島駅から南に300mほどのところにあり、中川大橋の西詰に建っている。前回に紹介した「深川江戸資料館」と同じ財団が管理運営をおこなっているが、規模はこちらのほうが少しだけ小さいようだ。

 小名木川は当初、行徳の塩を江戸城に運ぶために開削整備されたということは前回に触れている。もちろん塩だけに止まらず、房総方面から諸物資を運び入れるためにも利用された。それらの検査・監視をおこなうため、船番所が1630~40年代頃に隅田川近くにある萬年橋の北詰付近に置かれた。

 江戸府内の発展とともに、幕府は北関東や奥州地方からも多くの諸物資を運び込む必要性が生じてきた。もちろん家康は、当初からその点まで十分に考慮に入れており、江戸入府直後、早くも有力な上級家臣団を利根川筋に配置していた。それだけでなく、伊奈忠次らに命じて利根川東遷など関東平野を流れる河川の大規模改修事業(1650年代にほぼ完了)をおこなった。

 この結果、利根川は銚子港に注ぐことになり、北関東や東北の物資は利根川河口から関宿(現在の野田市関宿町)を経て今度は江戸川を下り、新川、小名木川、道三堀を通って江戸城の蔵前に運び込まれるという水上交通路が完成した。利根川を中心にして、北関東や南東北の諸河川を「奥川筋」と言うが、この奥川筋からの物資を含め、舟運の大半は小名木川を通過することになったのである。

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川の関所・中川番所を再現したジオラマ

 このためもあって、当初は萬年橋北詰の隅田川口近くにあった船番所は中川口に移されることになり、諸物資の点検のほか、「入鉄砲出女」の監視もおこなった。資料によれば、中川船番所は1661年(寛文元年)に設置されたとあるが、記録に残る船番衆は65年(寛文5年)に任命された杉浦市左衛門正昭という旗本(8000石)が最初らしい。船番衆(幕末まで51人の任命が判明)には5000石以上の旗本が選ばれたそうなので、相当に重要な任務であったことが分かる。

 写真は、資料館内に再現された船番所の姿である。資料館の南側100mほどのところ(小名木川北岸の中川河口付近)に番所があったということは、江戸時代に描かれた地図などから推定されていたが、1995年の発掘調査で、礎石の一部、多くの瓦、硯や下駄などがその地で発見されたため、そこが船番所跡であると同定された。

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江戸から東京へ、水運の変遷を知ることができる

 資料館内には多くの文書や古地図が展示されているので、船番所についてだけでなく、江戸時代から明治期以降の水運の変遷なども知ることができる。とりわけ古地図は、写真のように大きく展示されているので、東京湾だけでなく関東一帯における水運の全体像を把握するのにとても役立った。

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江戸和竿の展示と制作過程の解説

 一角には「江戸和竿と釣り文化」というテーマで、和竿や釣り道具が展示され、さらに和竿の製作工程が図入りで解説されていた。この和竿の製作工程に関しては、私自身、20年ほど前に関東各地に住む和竿作り名人の工房(主にイシダイ用の和竿師)を取材で何度も訪ねて詳細に伺ったことがあった。この展示には、そのときのことが懐かしく思い出された。船番所とは無関係でも、それはそれで興味深い展示であった。

▽少し寄り道~小名木川のハゼ釣り

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和竿でハゼ釣りを楽しむ知人(昨年の9月撮影)

 ところで、私が小名木川を訪ねるようになったのは、30年来の釣り仲間がこの川のすぐ南側にあるマンションに住んでおり、季節(夏から秋)になるとよくハゼ釣りを楽しんでいるということを聞き知ったことによる。上の写真は昨年の9月下旬に彼が、後に触れる「扇橋閘門(こうもん)」近くのポイントで竿を出していたときのものだ。

 彼が手にしているのは和竿で、魚が餌をくわえたときの微かなアタリでも手に伝わってくるそうだ。深川生まれの深川育ちの釣り人ゆえ、江戸以来の伝統である和竿に対するこだわりは強い。一方、多摩の山猿である私は、常に最新の釣り具に憧れる。それが「江戸っ子」と「田舎者」との間の、埋めることのできない差なのかも。

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右手に和竿、左手に美味しそうなハゼ

 毎秋、ハゼ釣りの取材のために小名木川を訪れるようになって何年にもなるが、魚影は年々、濃くなっている。それにつれて、訪れる釣り人の数も相当に増加しているようだ。家康の遺産はこんなところにも役立っているのだ。

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3階の展望室から旧中川と小名木川の中川口を望む

 3階の展望室からはガラス越しに、資料館の南側に広がる景色を見て取ることができた。左手にある丘は次に訪ねる「大島小松川公園」の「風の広場」と「展望の丘」で、旧中川に架かる平成橋や「荒川ロックゲート」の姿もよく見える。右手にある白い建物の向こうに「中川番所跡」や小名木川の流れがある。

◎旧中川河口と荒川右岸を歩く

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大島小松川公園から小名木川を望む

 中川大橋を渡り「大島小松川公園」に入った。旧中川をはさんで、江東区江戸川区にまたがる広大な公園で、平時にはレクリエーションの場、災害時には20万人の避難場所となる防災公園である。江東区にあるスポーツ広場の海抜は5.3m、江戸川区にある自由広場は4.8m、旧中川と荒川との合流点近くにある風の広場は12~13m、展望の丘は11~12mある。

 一方、公園のすぐ近くにある江東区立第三小学校の敷地の海抜はマイナス1.5m、第五小学校はマイナス2mと、一帯は基準海水面よりも低い位置にあるため、大洪水時には浸水が必至である。そのために、避難場所としての公園の敷地は、周囲よりもかなり高く土が盛られているのである。

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小松川閘門の上部が顔をのぞかせている

 今回は小名木川界隈を巡る徘徊なので広大な公園全体を歩くことはせず、小名木川の旧中川口にもっとも近い場所に位置する「風の広場」と「展望の丘」のみを散策した。その両者の間に保存されているのが、写真の「旧小松川閘門(こうもん)」(1930年完成)の上部である。旧中川と荒川とは最大の水位差は3mほどもあったため、両河川を行き来するための水路には、写真のような閘門が2門、造られたのである。

 閘門については、小名木川で現在も活躍中の「扇橋閘門」の箇所で後に触れることになる。パナマ運河(太平洋と大西洋とを結ぶ水路)のように大掛かりのものもある一方、旧小松川閘門や現在の扇橋閘門のように最低2つの水門があれば水位差を克服することが可能なのだ。

 なお、旧小松川閘門の水門のひとつは撤去されたが、写真にあるように残りの水門は、水路が埋められ、かつ一帯が高台のある公園に整備された際に下部は土に覆われてしまったものの、その上部(全体の3分の1ほど)は往時の姿を留めている。 

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小松川閘門の隣にあった不可思議な像

 旧小松川閘門のすぐ南隣に、写真の不可思議な形状をした魚?の像があった。製作者の意図は不明だが、私には公園下の土中に残る「六価クロム」の存在を暗示しているように思えてならなかった。

 公園のある場所は、1970年まで近隣の化学工場にてクロム鉱石を精錬した後に生じる鉱滓(こうし、こうさい、スラグ)の処分場であったのだ。それには多くの「六価クロム」が含まれていたため、東京都はこの地を公園に整備するときに対策として、無害化処理をおこなった上で盛り土をした。が、2011年に公園敷地の舗装路から六価クロムを含んだ水溶液が滲出(しんしゅつ)いたことが分かった。それは基準値の200倍を超える濃度であった。現在でも、とくに大雨後には高濃度の六価クロムの滲出が見られるそうだが、東京都の毎月のモニタリング調査ではすべて基準値内としている。

 東京都の調査結果が正しいかどうかは不明だが、都が現在行っている新型コロナウイルスSARS-CoV2)に対するPCR検査の推移、変異ウイルス調査の少なさを見れば、モニタリング調査の信用度の高低は容易に想像がつく。公園のある小松川地区は、江戸時代に「小松菜」を生んだ土地である。命名者とされる徳川吉宗も、地下で嘆いているのではないか。

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平成橋から小名木川の中川口を望む

 旧中川が荒川に合流する地点に、すぐ後で触れる「小名木川排水機場」と「荒川ロックゲート」がある。それらを見学するために、公園を出て旧中川最下流の橋である「平成橋」を渡ることにした(実際には橋を渡る必要はなかったと後で知った)。

 写真は、その橋上から小名木川の中川口付近を望んだものだ。写真の右端にある茶色の建物が船番所資料館である。

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平成橋から旧中川の上流方向を望む

 今度は旧中川の上流方向を眺めた。都営新宿線東大島駅の300mほど西側で地上に姿を現し、旧中川と荒川を越え、東隣の船堀駅の170mほど東でまた地下に戻り、終点の本八幡駅まで地下生活だ。一方、新宿線の2400mほど南を走る「東西線」も、やはり荒川の手前700mほどで地上に出るものの、そちらはそのまま終点の西船橋駅まで地上に出たままである。

 もっとも、老舗の「丸ノ内線」だって四ツ谷駅は堂々と中央線の上にホームがあるので、地下鉄だから地下生活のみであるとは決して断定はできない。それは、鉄道がすべて鉄路であるとは限らないのと同等かも。

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旧中川の河口にある「小名木川排水機場」

 写真の「水門」は旧中川が荒川に合流する100mほど手前にある。水門とは言わずに「排水機場」としているのは、旧中川の水位が上昇した際にだけ排水する機能を有したものであるからだろうか。竣工は1969年なのでやや古いものなのだが、旧中川側から見る限りにおいては新しい建物に思われる。外観をリニューアルしたのだろう。

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排水機場の水門部分をのぞく

 排水機場へ可能な限り近づいてみた。左側にある建物内には口径2800ミリのポンプが4台設置されていて、ディーゼルエンジンで動かしているとのことだ。

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旧中川にあっても小名木川を名乗る

 今度は荒川の右岸土手上から建物を見た。旧中川の河口近くにあるにもかかわらず「小名木川」を名乗っていることが興味深い。

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排水機場の水門を荒川右岸から望む

 荒川の右岸河川敷に降りて、排水機場の排出口を眺めてみた。写真では分かりづらいが、こちらはそれなりに古ぼけていた。排出口は四門あるが、右側の一門だけから排水されていた。この排出口を見学しているとき、ほぼ毎日のようにこの近辺を散策するという地元の中年「紳士」に出会った。彼も珍し気に眺めていた。聞けば、最近では排水される姿は見たことがないとのことだった。

 排出されている水の多くは旧中川のものだろうが、排水機場から小名木川の中川口までは370mほどの距離なので、いくらかは小名木川由来のものも混じっていると思われる。もっとも、小名木川は川といっても人工水路なので、その水は隅田川のものが大半なのだが。とはいえ、隅田川由来であっても、水たちは約5キロの旅をして中川口に到達したことは事実なので、小名木川色に染められていることは確かである。

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2つの水門が立ち並ぶ

 排水口のすぐ北側に見える建造物は「荒川ロックゲート」のものである。ロックゲートといっても、岩(rock)でできているわけでも音楽(rock)が流れるわけでも哲学者(Locke)に由来するわけでもない。デッドロック(dead lock、開けられない錠、解決の着かない難題)のロックで、ここでは「閘門」を意味する。

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水位が異なる2つの川を行き来するためのゲート

 閘門についてはすでに簡単に触れてあり、実際の場面は後述する「扇橋閘門」のところで紹介することになる。写真のゲートは2門あるうちの荒川側のものである。2005年の竣工なので、小名木川排水機場の排水口よりもずいぶんと新しい。

 ちなみに、排水機場は都が、ロックゲートは国土交通省が管理している。

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ロックゲート前から江戸川区船堀方面を望む

 荒川右岸から江戸川区船堀方向を眺めた。船堀駅前にある江戸川区の施設である「タワーホール船堀」(1999年開業)の展望塔(103m、入場無料)の存在が目立つし気にもなるが、今回は小名木川を徘徊するのが主目的なのでタワーには寄らず、小名木川と同時期に開削された新川の中川口だけを訪ねることに決めていた。首都高速中央環状線の下に見える黒い建物(火の見やぐら)のある場所が、新川の中川口だ。

 それにしても「荒川」の川幅は広く、写真の場所でも520mほどある。といっても、現在の荒川下流部(北区岩淵町近辺から下流)は1923年(周辺施設を含めると1930年)に完成した放水路で、元の荒川は現在の隅田川の流路をとっていた。その荒川の大氾濫(1907年)を受けて東京市会は新水路計画を要望し、10年の大氾濫後に放水路計画が策定され、11年に「河川法」が施行されて放水路事業が始まった。

 岩淵から鐘ヶ淵辺りまでは旧河道を整備したが、それ以南はまったく河道がない場所を掘土して新河道を造ったのだった。この放水路事業で掘られた土の量は「東京ドーム18杯分」あったそうだ。

◎新川(船堀川)の中川口?付近を散策する

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新川の中川口付近

 荒川に架かる「新船堀橋」を渡り、船堀橋東詰交差点を右折して都営新宿線船堀駅下を通って新川に向かった。駅から新川までは約400mである。

 写真の新川(船堀川)は、先述のように小名木川とほぼ同時期に整備された人工水路である。中川(旧中川)と江戸川(旧江戸川)との間をつなぐ運河で、新川の江戸川口の近くに関東随一の塩の産地であった行徳がある。

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明暦の大火直後に造られた「火の見やぐら」を再現

 新川の「中川口」と記してきたが、小名木川の中川口との距離は950mあり、しかも、両者間に荒川放水路、中川放水路が100年ほど前に掘られている。小名木川のほうは船番所の位置が特定されているため動かしようがない。ということは、新川の中川口は写真の場所ではなく、ずっと西にあったということは誰にでも想像できる。

 写真の「火の見やぐら」は、明暦の大火(1657年)の翌年に定火消し制度が始まった際、火消屋敷内に建てられた「火の見やぐら」を参考にして再現した観光用のものだ。高さは約15mあって、桜の開花期(つまり今の時期)には平日にも建物内が開放されており、誰でも櫓(やぐら)に登ることができる。なお、この櫓をシンボルとする新川西水門広場は2010年に完成している。

 櫓のあるこの広場は、あくまでも「新川西」であって、新川の中川口とは呼んでいない。賢明なことである。 

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新川・中川口から荒川ロックゲート方向を望む

 中川放水路左岸の土手から「荒川ロックゲート」方向を望んだ。撮影地点からロックゲートまで約790mある。小名木川の中川口はその右手の奥にある。荒川放水路も中川放水路もない時期の地図を参照すると、小名木川の東にある中川の川幅は100m前後だったようだ。そうであれば、先述した大島小松川公園に遺構として存在している「旧小松川閘門」辺りに新川の中川口があったと推定できる。

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新川沿いには千本桜が整備されている

 新川西水門広場内の「火の見やぐら」から始まる新川沿いの遊歩道にはソメイヨシノが植えられていて、それらは「新川千本桜」と名付けられている。写真は開花が始まる直前に出掛けた際に撮影したものなので花は写っていない(火の見やぐら前のものは開花が始まっていたが)。通りには何本の桜が並んでいるのか不明だが、なぜか桜並木には「千本」の言葉がよく用いられる。吉野山の影響だろうか?

◎中川口から小名木川沿いを西進する

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中川口にもっとも近い場所に架かる「番所橋」

 小名木川の中川口に戻り、まずは南岸の遊歩道を西(隅田川口方向)に向かって歩いてみることにした。写真は中川口にもっとも近い場所に架かる「番所橋」である。通りの名は「番所橋通り」とそのまんまだ。船番所跡や資料館は通り沿いにあるわけではないが、比較的大きな通りとしては船番所にもっとも近いところにある道なのでその名が付けられたのだろう。それしか考えようがない。

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番所橋下の向こうに見えるのが大島小松川公園の丘

 番所橋をくぐった先から中川口方向を眺めてみたのが上の写真。流れの先に見える丘が大島小松川公園の「風の広場」近辺である。

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人や自転車専用の「塩の道橋」

 番所橋から550mほど進むと次の橋に出る。「塩の道橋」と名付けられた人・自転車専用の橋である。2008年に架けられた新しめの橋で、この橋が出来たことで、北側の大島地区と南側の北砂・南砂地区との行き来がずいぶんと楽になったそうだ。先の写真から分かる通り、番所橋は結構、高い位置に架かっており、次に挙げる「丸八橋」はなお一層高い場所にあるので、人や自転車の往来は相当に不便だったそうだ。この橋ができる以前は、迂回だけでなく高所に登る苦労も強いられた。

 川の北側に住む人には都営新宿線東大島駅大島駅は近いが、一方、江東区役所や後述する「仙台堀川公園」は川の南側にあるので、行き来しやすい橋があるというのは助かるものだ。実際、番所橋と丸八橋との間は800mもある。前回に触れた隅田川口方面には橋がかなり多かったし、その位置もそれほど高くはなく南北の往来はかなり容易だった。それに比して中川口寄りは開発が遅かったこともあって橋の数はかなり少ない。塩の道橋が出来たことで、住民たちの行動(徘徊も)範囲が拡大した。そのことが何よりも重要なことだ。 

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小名木川=塩の道に架かる橋なので塩の道橋

 ちなみに塩の道橋の名は、近隣の小学校の児童たちの提案によって付けられたそうだ。小名木川は別名「塩の道」なので、その開削の歴史を学習すれば、その名前以外は思いつかないだろう。私だったら「黄金のうなぎ橋」の名を提案したのだが。

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埋め立てられてしまった「仙台堀川

 先の2枚の写真は川の北岸側から撮ったものだが、南側にある「仙台堀川公園」の存在が気になったので、南岸に戻って少しだけ公園内を歩いてみることにした。

 仙台堀川(仙台堀)は小名木川の南部にあって隅田川と中川とを結ぶ人工水路だが、東側では北上して、現在、塩の道橋が架かっている場所で小名木川と接していた。もっとも、そうなったのは昭和に入ってからだが。ともあれ、隅田川口には堀の北側に仙台藩蔵屋敷があったために「仙台堀(川)」と呼ばれるようになった。

 時代劇などではよく出てくる名前で、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出る前に芭蕉庵を処分していたため、この堀のほとりにある「採荼庵(さいとあん)」(芭蕉門下でパトロンでもあった杉下杉風の庵室)で過ごしてから旅立った。

 堀は隅田川口から大横川と交わるところまでは大半が残されているが、それ以東はすべて埋め立てられ、現在は仙台堀川公園として整備されている。

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埋め立てられた堀は公園やサイクリングロードとして整備されている

 全長3700mの細長い公園内には花壇、遊歩道、サイクリングロード、汐入の池、親子の森、釣り堀などいろいろな分野のものが整備されている(ようだ)。

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公園の脇には「流れ」が復活している

 写真のように遊歩道の傍らには狭いながらも水路が「復活」している場所もある。

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復活した流れは塩の道橋下の遊歩道脇に落とされている

 水路の水は途中から地下に入り、塩の道橋の橋脚近くに整備された別の水路に落とされている。

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堀からの水は少しの間だけ遊歩道の脇を流れる

 遊歩道脇に落とされた水路の水は少しの間だけだが遊歩道に沿って流れを造り、最終的には小名木川に落とされている。その様子は、6枚上の写真(塩の道橋について触れた最初のカット)に写っている。

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塩の道橋から西へ230mほどのところに架かる「丸八橋」

 塩の道橋の西に架かっているのが写真の「丸八橋」。川面から橋梁までは結構な高さがあり、遊歩道から側道に上がり、さらに歩道橋を登って橋上に出た。人の場合は歩道橋が使えるが、自転車の場合は側道を150mほど南に進まなければ橋に架かる通り(丸八通り)に出ることはできない。

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橋上から北方向に広がる海抜ゼロメートル地帯を望む

 橋上から丸八通りの北方向を望んでみた。少しわかりづらいが、橋の北詰にある横断歩道の海抜はマイナス2.7m、その先の十字路はマイナス2.9mである。一方、橋の南詰近辺ではマイナス3.5mのところもあった。この辺りが江東ゼロメートル地帯でもっとも海抜が低い場所のようで、ハザードマップを調べると危険度が一番高くなっている。かなり高い位置にある橋上は、洪水時の緊急避難場所になりそうだ。

 江東デルタ地帯が「海抜ゼロメートル地帯」なのは、ここが古利根川河口の三角州であったことに元々の原因がある。この地に住んだことのある俳人小林一茶は、この地域の様子を以下の句で表現している。

 萍(うきくさ)の 花より低き 通りかな

 江戸時代から埋め立てした低地で、しかも度々、洪水にみまわれているので、この地域の地べたは沈み込みやすいのだ。それが、明治期以降は一大工業地帯となって多くの被圧地下水が汲み上げられたことにより基盤内の難透水層(粘土層)が沈降した結果、地盤沈下がさらに進んだのだった。

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丸八橋の北詰横にある「大島稲荷神社」

 写真は橋の北詰というより、橋の東側直下にある「大島稲荷神社」の本殿だ。度重なる洪水を憂いた村人たちが平安を祈って相談し、山城国伏見稲荷大社御分霊を奉還して、この地の産土神として祀ったのがこの稲荷神社で、それは慶安年間(1648~52年)のことらしい。

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参道横に建つ「女木塚碑」と芭蕉

 境内は、周囲の場所より少し高い位置にある。現在でも周囲の土地の海抜はマイナス0.5mなのに対し、ここは0.5~1mほどある。少しでも高い場所を選んだのか土盛りしたのかは不明だが(おそらく後者)、写真の石碑にあるように、この場所は「女木塚」と名付けられた。

 秋に添て 行かはや末は 小松川

 1692年(元禄5年)、芭蕉は「女木沢洞奚興行」の中に上の句を残している。そのためもあって女木塚碑の隣には芭蕉像がある。まだ新しいようだが。

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北砂緑道から「進開橋」を望む

 次を急いだので、いくつかの橋を飛ばした。写真は「明治通り」の「進開橋」を西から東方向に見たものである。明治通りを北に進むとすぐに新宿線西大島駅があり、さらに進むと総武線亀戸駅に至る。一方、南に進めば夢の島に至る。江東デルタ地帯の東側地域ではもっとも主要な道路のひとつである。

 進開橋の南詰から「北砂緑道」が西に270mほど伸びていて、次の「小名木川クローバー橋」のたもとまで続いている。写真から分かる通り、川の南岸に沿って遊歩道があり、その南側のやや高い位置に緑道が、その南に車道がある。

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北砂緑道から「越中島支線」の鉄橋を望む

 同じ位置から西側を見ると、貨物線(越中島支線)の鉄橋がある。小岩駅越中島貨物駅とを結ぶ貨物専用線で、電化されていないのでディーゼル車と気動車が走っている(そうだ)。

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小名木川駅跡に建つ石田波郷の句碑

 小名木川の南岸には2000年まで「小名木川駅」があった。1929年に敷かれた貨物線は小岩駅小名木川駅とを結ぶ支線だった。当時の写真を見ると、南北にやや長めの大きな貨物駅だったことが分かる。その当時、小名木川は海運の一大拠点だったのだろう。

 小名木川駅の面影は残っていないが、この地に住み、讀賣新聞の江東版に『江東歳時記』というエッセイを連載した、俳人石田波郷の句碑が北砂緑道に建っている。

 雪敷ける 町より高し 小名木川

 これは波郷の句であるが、確かに小名木川は海抜0mを流れ、南側にある北砂地区では、川から100mほど離れた地点の海抜はマイナス2mである。

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小名木川駅跡地には大きなショッピングモールが建っている

 南北に長い小名木川駅の跡地の北側にはスポーツ施設、南側には大型マンションが建てられたが、中央には大型ショッピングモールの「アリオ北砂」が鎮座している。イトーヨーカドーがその中核であるが、その周りには100もの数の様々な分野の専門店が入っている。駐車場もとても広いので、災害時には格好の避難所になるのではないか。

 写真右端に写っている白壁の上には貨物線の線路がある。

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ショッピングモール横から貨物線路を望む

 今度は駐車場入口の西端から貨物線路と小名木川橋梁、超高層マンションスカイツリーの姿を望んでみた。超高層マンション横十間川のすぐ東(大島一丁目)にあって、小名木川沿いを歩いているときのランドマークになる。39階建ての同じ形をした建物が2棟、東西に100mほど離れた位置に並んでいる。写真では東棟の「サンライズタワー」しか写っていないが、西棟の名は記すまでもない。誰にでも分かるからだ。

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フードコートの名は「小名木川ダイニング」

 少し買い物をすれば駐車料金は無料になるということなので、モール内を見物しつつ購入する商品を物色した。こうした建物には付き物のフードコートがあった。写真から分かるように、店の名は「小名木川ダイニング」だった。

 ついでなので、モールの北側に出て進開橋の南詰付近を見て回ることにした。モールの北東角には明治通りの十字路があった。交差点の名は「小名木川駅前」。20年以上前に駅はなくなったのだが、交差点の名前の中に、駅の記憶は生き続けているようだった。”良いものを見た感”があふれて溺れかけたためか写真撮影を忘れてしまった。 

小名木川クローバー橋界隈

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鉄橋から320mほど西に「小名木川クローバー橋」がある

 小名木川横十間川とが交差する場所に架かっているのが「小名木川クローバー橋」で、小名木川沿いではもっとも賑わいを見せるところだ。観光名所として紹介されることがよくあり、ロケ地としても利用されている。1994年に竣工したX字形の橋で、猿江、大島、北砂、扇橋の4つの地区を結びつける”幸運”を生む可能性のある橋だ。それが名前の由来だろう。

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クローバー橋下の遊歩道から鉄橋方向を望む

 クローバー橋界隈は川筋ではもっとも多く人が集まる場所なので、遊歩道の幅も広めに設計されている。写真は中川口方向を望んだもので、「水道管橋」のすぐ向こうに越中島支線の橋梁が見える。

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川には「行徳船」はもはやなく、遊びの舟ばかり

 クローバー橋界隈は遊歩道や橋上に人が集まるだけでなく、流れの上でもレジャーを楽しむ人たちの姿をよく見かける。本項冒頭の写真も橋の近くで写したものだし、上の写真もそうである。橋下から横十間川に移動して北上し、北十間川に出て西に向かえばスカイツリーの真下に至ることができる。

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クローバー橋から横十間川を望む

 横十間川の北方向を望むと、左手にはスカイツリー、右手には「ザ・ガーデンタワーズ」がいやでも視界に入る。どちらも江東デルタ地帯のランドマークであり、若い(もはや若くない人も)カップルの大半は、この方角で記念撮影をおこなっている。

 ちなみに、この川を北に進めば亀戸天満宮亀戸天神)のすぐ近くに出る。江戸時代にはこの川を猪牙舟で進み、天満宮までお参りに出掛けた人が多かったはずだ。それゆえ、この川には天神川の別名がある。

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横十間川親水公園の水上アスレチック

 クローバー橋の北側の横十間川は流れが保存されているが、南側は、写真のように大きく改変されて「横十間川親水公園」に様変わりした。写真はクローバー橋に最も近い場所で、「水上アスレチック」施設になっている。

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横十間川の流れを使ったマイクロ発電施設

 親水公園にも流れは残っており、その水が小名木川に落ちる際のエネルギーを用いて「マイクロ水力発電」をおこなっている。ただし、親水公園の南側では現在、橋の付け替え工事をおこなっていて流れが塞き止められているので、この日の発電はお休みしていた。

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クローバー橋下の河原には草むらが多いのでヘビもいるらしい

 クローバー橋界隈には小さめではあるものの河川敷が整備されているためか、ヘビたちが住み着いているようだ。そのため、写真のような「粋な注意書き」がある。

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遊歩道のいたるところにある「高札」

 写真は小名木川の遊歩道でよく見かける高札で、今ではとりわけ「第四項」が守られていないようだ。

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四谷怪談のお岩さんに由来する「岩井橋」

 横十間川親水公園は南に伸びて、900m先のところで仙台堀川公園と出会う。今回はそこまでは移動せず、240mほど南下して、あまりにも有名な「岩井橋」を眺めることに専念した。現在は架け替え工事中なので情趣はやや低下するが、小名木川界隈について触れる際には、この橋を避けるわけにはいかないのである。

 橋は「清洲橋通り」に属するが、横十間川以東の現在の清洲橋通りは、江戸時代から明治期には砂村川(境川とも)が流れていた場所で、それは中川(現在の荒川)に通じていた。幸田露伴は『雨の釣』(1902年)という随筆でこの川のことに触れている。彼(が仕立てた船)は中川沖でキス釣りをおこなう予定で隅田川を南下したが、天候が悪くなったために河口まで進まず、小名木川に入って東進し、横十間川に移動してすぐに砂村川に入って東に進んで中川に出たのだった。随筆ではそこまで詳しく書いていないが、当時であればそのルートを利用したはずである。 

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この辺りが「十万坪隠亡堀」の場

 「小名木川を行く間は格別淋しさも感じなかったが、隠亡堀(おんぼうぼり)へ入るとひどく淋しくなった。昼でさえ余り人通りの無いところだったのに、川は狭いし、水は死んだようになっているし……」(口語体訳)と『雨の釣』にある。

 隠亡堀といえば、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の第三幕の「十万坪隠亡堀の場」でよく知られている。お岩と小仏小平の屍骸が戸板の表裏に打ち付けられて姿見川(神田川説もある)に流され、それがなんと、お岩の亭主だった民谷伊右衛門隠亡堀で釣りをしているところに流れ着き、その目の前で戸板が裏表に返るという有名な場面がある。

 疑問点は2つある。ひとつは隠亡堀の場所、もうひとつは戸板が流れたコースだ。

 私が参照している本では「十万坪隠亡堀の場」とあるが、「砂村隠亡堀の場」とするものも多い。底本の違いだろうか?隠亡堀は焼き場の俗称なので問題はないが、「十万坪」と「砂村」とでは場所が微妙に異なる。十万坪は「深川十万坪」とも言われるように現在の扇橋、海辺、千田辺りで、横十間川の西側である。一方、砂村は現在の北砂、南砂など横十間川の東側である。さらに、幸田露伴は「川は狭いし」と述べているので、これは砂村川のことのようだ。横十間川はその名の通り幅は十間もあるので「狭い」とまでは言えない。

 つまり、十万坪を採用すると戸板が返ったのは横十間川で、民谷は西岸から竿を出していた。一方、砂村を採用すると、横十間川であるとするなら民谷は東岸から竿を出し、砂村川なら両岸のどちらでも可となる。ちなみに、天地茂が民谷役をやっていた映画の『東海道四谷怪談』(1959年)では、狭い堀の左岸で民谷が竿を出している場面がある。これなら砂村川となる。もっとも映画では、その堀の両岸は比較的高くなっており、埋立地の人工水路としては変である。映画の時代考証は不十分だった。

 また、戸板の流路であるが、流された場所が神田川(姿見川だとしてもそれは神田川の枝流である)だとすれば、隅田川に至るまでの間には問題はない。また到達点が砂村川だとしても横十間川を通ることになるのでそれも良い。疑問なのは、隅田川から横十間川まで至るルートだ。ひとつは竪川から横十間川、もうひとつは小名木川から横十間川、さらに、竪川から大横川、小名木川横十間川というやや複雑なルートも考えられる。姿見川から横十間川(さらに砂村川)に流れ着き元亭主を驚かすお岩や小平の執念を考えると、第三案が妥当かも知れない。

 ともあれ死してなお、隠亡堀でフナやナマズを釣る元亭主のところまで戸板を運んだお岩の怨念に同情した地元の人々が、横十間川に架かる橋を「岩井橋」と名付けたとされている。真実かどうかは不明だが、大いにありそうなことである。今の時代のドラマであってさえ、死霊の多くは「お岩さん」の姿で現れるのだから。

◎扇橋閘門を眺める

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新扇橋上から扇橋閘門を眺める

 小名木川隅田川口の基準水位は2m、中川口は0mである。また、隅田川は感潮河川なので、潮汐によって水位は変化する。一方、中川口のある旧中川は河口を荒川ロックゲートと小名木川排水機場でほぼ塞がれているために潮汐の影響はない。

 荒川放水路ができる前までは、中川も感潮河川であったので、ほぼ同時に潮汐の影響を受けるために水位差の問題はほとんどなかった。ところが、旧中川になってからはいくつかの問題が発生することになった。隅田川と旧中川との最大水位差は3mにも達するのである。大潮の干潮時などをのぞくとほぼ大半は隅田川口のほうの水位が高いので、小名木川は常に東方向に流れることになり、しかも東側には海抜ゼロメートル地帯が広がっているのである。

 こうした点から、小名木川のほぼ中央部に位置する新扇橋と小松橋との間に「扇橋閘門」が造られることになり、それは1971年に竣工した。

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閘門の後扉を開けて水位を下げる

 小松橋上から、東側の水門(後扉)が開いて水位の低い中川口方向に流れ出てくる様子を見ていた。当然、西側の前扉は閉鎖されている。この間、多くの人が橋を通過したが、当地の人にとっては日常の光景のようで、とくに足を止める人はいなかった。

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水位が下がり切ると扉は全開となる

 やがて閘門内の水位が下がると後扉は全開となり、中に留まっていた船は小松橋方向に進んできた。

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閘門から出てくる清掃船

 閘門を通過してこちらに近づいてきた船は、小名木川横十間川、大横川などに浮かんでいるごみを拾い集める清掃船だった。

 この閘門は、カヌーやカヤック、遊覧船なども通過可能であり、「東京のミニパナマ運河の通航体験ツアー」までもおこなわれている。

 それにしても閘門の開閉は見ているだけでも飽きがこない。時間が許せば、私は何回でも新扇橋と小松橋の間を行き来してしまう。そして、私はこう叫ぶだろう。

 見た!閘門!!

 

〔57〕記憶を継承する水の道~江東区・小名木川(1)

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小名木川横十間川に架かるクローバー橋

小名木川は1590年代に整備された!?

 小名木川隅田川(住田川、角田川、澄田川とも)と中川(現在の旧中川)との間を東西に結ぶ5キロほどの人工水路である。通説では、16世紀の末に徳川家康小名木四郎兵衛に命じて開削させたとある。1590年(天正18年)に江戸に入府した家康は関東経営のための基礎作りを始めたが、物資調達政策のひとつとして下総・行徳の製塩業に目をつけ、その地から江戸城まで安全に塩を運搬するための水路の要として小名木川を整備したとされている。当時、東京湾奥(当時では江戸前の海という表現が適当かも?)には南方向へ大きく浅瀬が広がっており、それが舟運の妨げとなっていたために運河開削の必要性が生じたのだった。

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ウナギも釣れそうな小名木川(昨秋のハゼ釣りシーズンの様子)

 一方、家康入府までは小田原(後)北条氏が武蔵国下総国を支配しており、後北条氏の下でも隅田川から中川の東にある葛西、さらには浦安まで舟の行き来がおこなわれていたとする資料(宗長『東路の土産』)もある。その経路にあった澪筋(みおすじ)は「宇奈岐沢(宇奈木沢とも)」と呼ばれていたそうだ。そこではウナギがよく取れたからなのだろうか?その澪筋は自然に出来た水路であった蓋然性は否定できないが、一方で人工的に開削された可能性もあるようだ。干潟が多く、葦の覆い茂っている湿地帯に小舟の舳先を突っ込むのは、あまりにも危険すぎるからだ。

 だとすれば小名木川は、すでに存在していた宇奈岐沢を小名木四郎兵衛が拡張整備したとも考えられる。通説には小名木四郎兵衛が開削したので小名木川の名が付与されたとあるが、小名木川を開削した功績で四郎兵衛は小名木姓を賜ったのかもしれない。あの、玉川兄弟のごとくに。

小名木川開削前の東京湾奥の様子

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大川とも呼ばれていた隅田川。写真の橋は「新大橋」

 隅田川の名は、かつて古利根川の最下流部を意味していた。鎌倉時代頃の東京湾地形想像図を見ると、現在の墨田区江東区、いわゆる江東デルタ地帯は古利根川河口の南側に位置し、当時は水中にあったことが分かる。ただし、古利根川の流路は関東平野の低地にあったため、多くの土砂が河口部に運ばれて前置層を形成し、浅瀬が広がっていた。浅草寄りには牛島(現在の向島辺り)という浮洲(浮島)も出来ていた。何しろ、古利根川が南東向きから真南に進み始めたのは今の埼玉県久喜市栗橋辺りで、小名木川北岸まで直線距離にして51キロもあるにもかかわらず、その栗橋の標高は13mしかない。ちなみに、多摩川で同じ距離を遡ると青梅市千ヶ瀬付近となり、その標高は147mである。いかに、古利根川が平坦な場所をゆったりと流れてきていたかが、この点からも想像しうる。

 室町時代頃になると、河口部にはさらに土砂が運ばれて広大な干潟が形成され、一部には「柳島」「亀島」などと呼ばれる浮洲も出来つつあった。亀島には井戸があって「亀井戸」と呼ばれ、周囲の陸化がさらに進むとその地域は亀戸と呼ばれるようになった。室町後期の汀線は、現在の総武線辺りにあったと想像しうるのだ。もっとも、塩性湿地はそれ以南にも広がっていた可能性は大いにある。湿地には川からの真水が入りやすいので当然、葦原も多くあったはずである。

 こうして古利根川河口には「三角州」が出来上がり、西側の流れが隅田川(東側は現在の荒川)と呼ばれるようになった。なお、武蔵国下総国との国境は古利根川にあったが、それは江戸時代初期(この頃は隅田川)まで続いていた。

小名木川の開削と埋め立て地の拡大

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深川八郎右衛門が発願したとされる深川神明宮

 小名木川は幅20間(約36m)、深さ1間(約1.8m)の大きさで造られた。浚渫(しゅんせつ)された土砂は主に北岸に積まれたらしい。これが江東デルタ地帯埋め立ての第一歩と考えられている。陸化しつつあった小名木川北岸を本格的に開拓したのは、摂津国から東国に下ってきた深川八郎右衛門であったというのは定説化している。摂津国のある大阪湾は埋め立てによって整備された港湾の先駆的存在なので、深川氏にとって東京湾奥は格好の開拓地となったようだ。

 「東照宮此辺御遊猟ノ時、彼八郎右衛門ヲ召サセラレシテ地名ヲ御尋アリシニ、モトヨリ一円ノ茅野ニシテ村里モ隔タリユエ、定マレル地名モアラザル由申上ゲシカバ、然ラバ汝ガ苗字ヲ以テ村名トナシ……」と『新編武蔵風土記稿』にある。この開拓地が深川村と名付けられたのは深川姓に由来するという点は確かなようだ。

 写真の深川神明宮については後述するが、八郎右衛門はこの神社近くに居住していたらしい。神社から小名木川北岸までは290mの距離である。当然、この辺りまで埋め立てが進んでいたはずだ。そのための土砂はどこから運んできたのだろうか?残念ながら、深川家は18世紀半ば、七代目で家名断絶の処分を受けてしまったため、詳しい資料は散逸したらしい。残念なことだ。

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右手に入り込んでいるのが小名木川スカイツリーも、もちろん埋め立て地内にある

 先にも挙げたが、隅田川に架かる清洲橋から上流方向を眺めたのが上の写真で、今度は小名木川合流点やスカイツリーも画面内に収めている。スカイツリーまで撮影地点からの直線距離は3.5キロほどである。スカイツリーのすぐ西には言問橋が架かっているが、これはもちろん、平安時代歌人である在原業平(9世紀の人)の歌に由来する。当時、この一帯は古利根川の河口域内にあったので、業平は当然、船の上から都鳥に言問いをしたのであり、その故事を懐かしんだ菅原孝標女(11世紀の人)も船の上からだった。当時、墨田区押上辺りはまだ完全に水中にあり、小舟が行き交うことが可能だった。1000年ほど前までは海中にあり、その後に干潟化して埋め立てされた場所に、あんなにも高いものを建てて地盤は大丈夫なのだろうか?

 ちなみに、スカイツリーの高さが634mなのは武蔵国に由来することは誰でも知っているが、その場所は平安時代には古利根川内に位置するので、当時なら武蔵、下総のどちらに所属するのか、その点も都鳥に出会ったら言問いたい。

 それはともかく、隅田川左岸の埋め立ては深川八郎右衛門によって始まったとも言えるのだが、一帯の埋め立て事業が本格化したのは1655年の「ごみ処理令」が切っ掛けとなり、さらに57年の明暦の大火(振袖火事)以降、一気に加速した。

◎埋め立ての進展

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深川江戸資料館内にある江戸時代の町並み再現

 江東区白河一丁目にある『深川江戸資料館』内には、江戸時代の町並みを原寸大に再現した展示室がある。残された史料をもとに隅田川の左岸にあった佐賀町の様相を室内に「復活」させているのである。なかなかリアリティーがあった。通りの右手には八百屋、左手には肥料問屋が店を開き、問屋の並びには土蔵もある。写真内の人物は本物で、生まれも育ちも深川だそうだ。現在はここでボランティアガイドをおこなっている粋なオジチャンであった。

 深川佐賀町は1620年代の後半には成立していたようで、小名木川の南側にあって隅田川左岸沿いにある。成立当初は「深川猟師(漁師)町」と呼ばれており、漁民たちがイワシ漁の基地にしていた場所なので、小名木川南部の埋め立てが進展する以前でも利用可能だったのだろう。周辺には汽水域が広がっており、そうした場所はプランクトンが豊富なのでイワシは無数に捕れたはずだ。そのイワシは干鰯(ほしか)にされて肥料として重宝されたのである。漁民たちの中心は、やはり西国(とくに摂津方面)から移住してきた人々で、干鰯の一部は大坂(大阪)方面に送られていたそうだ。 

 小名木川南部の埋め立てが進展する切っ掛けとなったのは1655年(明暦元年)の「ごみ処理令」であった。4代将軍家綱(在1651~80)の時代である。江戸府内は次第に整備され人口は急速に増加した。そのため、屋敷内だけでなく空き地や川にもごみが捨てられるようになり、江戸府内はごみの町になってしまった。そこで家綱は「ごみ処理令」を発し、以降、ごみは永代浦(今の永代、福住、冬木、富岡辺り)に運ばれて捨てられることになった。こうして、永代浦にはごみの島・永代島が誕生した。

 江東区のごみの島といえば「夢の島」がよく知られている。今でこそ公園として整えられ、陸上競技場、マリーナ、熱帯植物園などが設置されているが、1957~67年にはごみ処理場として「名高い」存在だった。それは経済成長が急速に進展したためにごみの処理が追い付かなったことによる苦肉の策であった。江戸初期の町造りも急速に進んだために、小名木川南部の浅瀬や干潟がごみ処理場として選ばれたのだ。

 当時の資料を見ると、「ごみの島」は永代島だけでなく、越中島東陽町、砂町など多くあり、それらはごみを主体にして埋め立てられた場所で、小名木川南部の埋立地の6割ほどの面積になる。粋でイナセでおキャンな下町の地盤は、江戸版の「夢の島」であった。

◎振袖火事と人工水路の拡張

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かつては「亥ノ堀川」と呼ばれていた大横川

 小名木川は東西に走る人工水路だが、江東デルタ地帯には「北十間川」「竪(たて)川」「仙台堀川」など小名木川同様に東西に走る(いくつかは曲がっているが)運河があり、一方で、大横川や横十間川のように南北に走る運河もある。ここで「横」というのは、江戸城から東方向を見たときに横に走って見える水路だからである。現在は首都高速7号線(小松川線)の真下にあるために存在感が薄い「竪川」は、城からは縦に走っているように見えるのでそう名付けられた。

 スカイツリーの真下に掘割があるが、それは「北十間川」の名残りである。

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ハゼ釣りが盛んな時期の横十間川(20年9月撮影)

 小名木川は16世紀末から工事が始まったとされているが、他の水路は1659年に開削が始まっている。これは2年前の明暦3年に起きた「明暦の大火」(振袖火事とも)が大きく関係している。この大火について触れると今回分はそれだけで終わってしまうためにここでは触れないが、この大火によって密集地であった江戸の町の大半が焼けてしまった。その復興のためには居住地の拡大が必要不可欠となった。そこで、江東デルタ地帯の開発が一挙に進展したのである。

 それまで小名木川北部は農業、南部は漁業の拠点に過ぎなかったが、大火災後は防災に配慮した町づくりを進める必要があった。江戸城周囲の混雑緩和のために大名・旗本屋敷や寺社などが埋立地に移転してきた。日本橋からは木場も移ってきた。埋立地内の交通の便を良くするために小名木川を基軸として、埋立地の縦横に掘割を整備した。それが竪川であり横十間川などであった。それ以外にも中小の水路が網の目のように掘られた。現在ではその大半が埋め立てられてしまっているので目にすることはできないが、かつての江戸の下町は、明らかに「水の都」を主張していた。それゆえ、下町をヴェネツィア(ベニス)に比肩すると考える人も多い。

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新大橋方向を見つめる芭蕉

 隅田川を渡る橋が「千住大橋」しかないのは不便かつ危険ということで、1661年には「大橋」(後の両国橋)、93年には「新大橋」、98年に「永代橋」、1774年に「吾妻橋」が架けられた。

 小名木川近くの深川に住んでいた松尾芭蕉は、新大橋完成の直前には

 初雪や かけかかりたる 橋の上

 橋の完成直後には

 有り難や いただいて踏む 橋の霜

 という句を残している。

小名木川界隈を隅田川寄りから散策する

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萬年橋から小名木川隅田川に合流する地点を眺める

 小名木川界隈を散策するスタート地点は萬年橋上に決めた。ここは小名木川に架かる橋ではもっとも隅田川寄りに位置する。なお、この小名木川の水路の筋をそのまま西に進んで行くことが可能であれば、2220m先には東京駅の日本橋口に至る。

 小名木川河口右手に「芭蕉庵史跡展望公園」があるのが見える。ひとつ上に挙げた芭蕉像はその展望公園内にある。

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史跡展望公園からの眺め

 萬年橋からその史跡公園に移動した。展望公園上から小名木川隅田川下流を望むと「清洲橋」が視界に入る。その橋は関東大震災2年後の1925年に着工された。ドイツ・ケルン市にあった「ヒンデンブルク橋」がモデルとのこと。橋はなかなか美しい姿をしているが、ヒンデンブルクの名前が出てくると「なんだかなぁ」という気がしてくる。ヒンデンブルク大統領はナチスの台頭を許し、飛行船のヒンデンブルク号は大爆発を起こしたからだ。芸術は爆発なのかも知れないが、芸術品の爆発は危険極まりない。

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現在の萬年橋は1930年代に建て替えられたもの

 萬年橋の往年の姿は、葛飾北斎歌川広重の作品で見ることができる。両作品とも富嶽が描かれているので、当時は深川からでも富士山がよく見えていた。橋の姿は北斎の作品でよく分かり、広重の作品では、ダジャレのように亀が吊るしてあって橋の全体像は不明だ。

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小名木川の川番所は、初期には萬年橋の北詰にあった

 小名木川は交易の要衝であっただけでなく人の移動も激しかった。その監視のために川船番所が置かれたが、当初は萬年橋の北詰にあったものの、1661年に中川側に移された。いわゆる奥川筋から物資が大量に入り込むようになったため、監視は物資や人の流入点でおこなうほうが合理的だと考えたからだろう。その中川船番所については次回に触れる予定である。

芭蕉について少しだけ考える

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境内付近に芭蕉庵があったとされる芭蕉稲荷神社

 萬年橋北詰からほど近い場所に写真の「芭蕉稲荷神社」がある。この辺りに芭蕉庵があったとされているので、地元の有志が1917年頃に建てたものである。

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1917年に発見された芭蕉遺愛の石の蛙(芭蕉記念館所蔵)

 芭蕉稲荷神社の場所に芭蕉庵があったとされる根拠は、1917年9月の台風の後に写真の”石の蛙”がその地で発見されたためである。この石の蛙は現在、「芭蕉遺愛の石の蛙」として後述する「芭蕉記念館」に所蔵されている。

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石の蛙が発見された場所は「芭蕉翁古池の跡」と認定された

 稲荷神社の祠の横には「芭蕉庵跡」の石碑がある。深川の芭蕉庵は3か所にあるはずで、最初の庵は「八百屋お七の火事」で焼失、二番目は「おくのほそ道」の旅に出掛ける直前に譲渡、三番目は武家屋敷の横にあったがやがて取り込まれたり、小名木川沿岸の整備で消失したりなどの理由で存在地は不明となっている。一般に、芭蕉庵は門人で富商(魚問屋)の杉下杉風(さんぷう)が所有していたコイの生け簀の番小屋を改築したものといわれている。それが3か所のうちのどれだかは不明だ。

 旅に出ることの多かった芭蕉だけに、住んでいた場所が不明であってもまったく問題はないと、私には思えるのだが。

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稲荷神社の240mほど北にある「芭蕉記念館」

 最初は稲荷神社辺りに記念館を造る計画があったが、そこでは手狭ということもあり、240mほど北の場所に1981年、写真の「芭蕉記念館」が開館した。

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芭蕉記念館の石標の周りには芭蕉が植えてある

 入口にある石標の周囲には、バショウ(学名Musa basjoo、ジャパニーズ・バナナ、原産地は中国)が植えてあった。芭蕉は以前には「桃青」の俳号を用いていた。深川の草庵は、隅田川小名木川を行き交う船にヒントを得て「泊船堂」と名付け、俳号の別号にも使用していた。しかし、門人の李下が草庵の脇に芭蕉の苗を植え、それが大きく育つと彼はそれが気に入ったようで、1682年からは芭蕉の俳号を使うようになった。

 芭蕉館には芭蕉が相応しいと誰しもが考えるようで、この記念館にも写真のようにバショウが数本植えられている。

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記念館の庭園の最上部には芭蕉庵を模した芭蕉堂がある

 記念館の西側には隅田川の流れがある。記念館の建物の南側には庭園が整備されており、西側が川の流れを見下ろせるような高台になっている。その一角に写真の「芭蕉堂」がある。

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芭蕉堂の隣には「ふる池や~」の句碑がある

 芭蕉堂の東隣には句碑がある。1686年の作品で、芭蕉の句ではもっとも有名な「ふる池や~」の文字が刻まれている。

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芭蕉堂の隣の水溜まりには蛙が飛び込んでいた

 庭園には小さな流れが造られていて、写真のような「古池」もあった。その中には偶然なのか作為なのかは不明だが、一匹のカエルがいた。飛び込む音は聞こえなかったので、カエルはすでに古池に飛び込んでしまっていたようだ。

 私には「ふる池や~」の作品の良さはまったく理解できないが、おそらく、こうした調子の作品を初めて世に出したということに価値があるのだろう。二番煎じであったとするなら、名作どころか佳作にすらならない(と思う)。

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常設展示室内にあった旅する芭蕉の模型

 展示室には、写真のような旅姿をした芭蕉の人形も飾ってあった。こうした装束を目にすると、私はまた、東北への旅に出掛けたくなる。こんな姿形には絶対にならないけれど、なぜかこの風体は旅情に誘うのである。

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展示室にある芭蕉の足跡を記した地図はとても参考になった

 写真の展示はとても参考になった。本では小さな地図を目にすることが多いので細部まで配慮することはあまりできないが、このような大きな図に触れると、今までさほど気に留めることがなかった場所にまで関心を抱くことができるのだ。

 芭蕉は西国の出身だけに旅は西日本に向かうことが多かったようだ。それだけに、「おくのほそ道」のルートは芭蕉だけでなく、その紀行文に触れる人々にも無数の発見があっただろうし、これからもあるはずだ。

 私自身、『おくのほそ道』には15歳の梅雨期に初めて触れ、すぐさま、片雲の風ではなく雨雲に誘われて漂泊への想いはやまず、結局、東北方面へ野宿の旅を始めてしまった。今は、楽天トラベルで宿だけは探すけれど。

小名木川の北部を少しだけ散策する

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深川神明宮の本殿と手水舎

 芭蕉記念館から280mほど東に進むと、先に挙げた「深川神明宮」の鳥居前に至る。神明宮は深川八郎右衛門が勧進して創建されたとあるので、慶長年間に造られたのだろう。深川発祥の地であるにも関わらず、境内には幼稚園があることもあって、かなり手狭であった。

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境内にある神輿倉

 神明宮の例大祭では十二基ある町神輿が町内を練り歩くそうだ。その町神輿は、鳥居から本殿に続く参道の横に保管されているようで、写真のような神輿倉が左右に並んでいる。シャッターの地の色だけでは無機質すぎると考えたのだろうか、各扉には神輿などの絵が描かれている。 

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のらくろ~ド商店街

 神明宮から「高橋夜店通り」に出て、「のらくろ館」のある森下文化センターに向かった。少し前の地図には「高橋夜店通り」とあったのだが、現在は「のらくろ~ド商店街」に改名したようだ。そういえば、高橋夜店通りから西に進む道は「深川芭蕉通り」と地図にはあったが、実際にはその名を目にすることはなかった。時代は変遷する。

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森下文化センター内にある「のらくろ館」

 「のらくろ」の名前はよく知っているが作品についての記憶はまったくない。作者の田河水泡についても名前だけ知っている程度。決して漫画が嫌いだったわけではなく、小中学校のときは『少年サンデー』『少年マガジン』は欠かさず読んでいたし、田河の内弟子だった長谷川町子の『サザエさん』の単行本は100冊近く所有していた。

 田河は墨田区立川(当時は本所区)の出身だが江東区臨海小学校(当時は深川区尋常小学校)に通っていた。成人してからはあちこちに移り住んでいたはずだが、彼の遺族は遺品の多くを江東区に寄贈した。そのためもあって、江東区では「森下文化センター」の1階に「田河水泡のらくろ館」を設立した。

 入場無料なので少しだけ覗いてみた。作品が展示されていた。のらくろの顔の印象は深く残っていた。ただし、内容に関してはまったく記憶を蘇らせるものはなかった。顔の記憶だけは残っている。それは素晴らしいことである、と思った。サザエさんバカボンのパパの顔をいつまでも記憶しているごとくに。

小名木川南部の地を散策する

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小名木川南部の地に移動するために「東深川橋」を渡った

 小名木川南部にも寄ってみたい場所がいくつかあったので、写真の東深川橋を渡って川の南詰に出て、南岸の遊歩道を西に進んだ。

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西深川橋の北詰にある魚の像が気になった

 東深川橋から写真の西深川橋までは約260mの距離である。南岸の遊歩道上から西深川橋の北詰を望むと、橋のたもとに魚の像らしきものが見えた。そこで、橋を渡って北岸側に出ることにした。

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西深川橋上から西方を望む

 橋の上から西の方向を眺めた。下流側(隅田川方向)に高橋があり、その先の「新小名木川水門」の姿も見て取れる。その先は東京の中心である。  

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シーラカンス小名木川を見て何を思う

 橋の北詰にあったのは写真のシーラカンスのオブジェだった。長さ4.5m、高さは2mある巨大なもので、1990年に設置されたそうだ。もちろん、小名木川で釣れたものではなく、たんなる芸術作品である。

 このシーラカンスはまだ30歳ではあるが、それでもずっと小名木川南部地域の変遷を見てきたはずなので、可能であれば、その移り変わりの是非について尋ねてみたい。

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高橋の東側にある遊覧船乗り場

 西深川橋から西へ200mほどのところにあるのが「高橋」で、その橋の北岸東側に写真の「遊覧船」乗り場がある。遊覧船には乗り合いや貸し切りタイプがあるようで、小名木川界隈だけでなく、大横川や横十間川に入ってスカイツリー亀戸天神に立ち寄るもの、さらに隅田川を遡上したり神田川巡りなど、いろいろなコースがあるらしい。

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遊覧船は不定期運行らしいので浮き桟橋は閉まっていることが多い

 桟橋の周囲を見回してみたが、とくに時刻表などはなかった。休日に小名木川界隈に出掛けた際には遊覧船が走っているのを見かけたことがあるので、定期便といっても休日限定なのかもしれない。

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清澄白河駅のすぐそばにある石像彫刻師の家

 高橋を渡って川の南岸側に出た。地下鉄の清澄白河駅は橋の南詰のすぐ近くにある。駅(といっても地下鉄なので地べたからでは駅は見えないが)の南側に「清澄庭園」があるので通常なら覗きに行くのだが、あいにく、都立庭園であるために臨時休業中であった。

 路地に入ると、道端に石像を並べている年季の入った家が目に留まった。「石彫」との文字があったので、石工(いしく)職人の家なのだろう。並べてある石像彫刻は仏教系のものがほとんどだ。近くには仏教寺院がたくさんあるので需要は多いのだろう。

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1630年に創建されたと伝えられる深川稲荷神社

 深川七福神のひとつである「布袋尊」が祀られている神社があった。深川稲荷神社の創建は1630年(寛永七年)というから、小名木川南部地区では相当早くに創られている。神社のある場所はかつて「西大工町」と呼ばれていて、船大工が多く住んでいた場所であった。

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稲荷神社を象徴する「布袋尊

 独特の表情そして体型をしている「布袋尊」は、中国では弥勒菩薩の化身として信仰され、日本に伝えられてからは大気度量を人々に授ける福神として愛され、絵画や置物などでよく見かける。

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深川には相撲部屋が多くある

 相撲にはほとんど興味がないので、今はどんな力士が存在するのかさえ知らないが、子供のときはそれなりに関心があって取り組みをテレビで見ていたような記憶がある。「栃若時代」や「柏鵬時代」のときが相撲人気の全盛だったのではないか。

 両国に近いこともあってか、深川には相撲部屋が多くある(そうだ)。「大嶽部屋」というのはよく知らないが、「大鵬道場」とあったので撮影してみた。相撲部屋があるとされる路地を少しだけ歩いてみたが、布袋尊のような腹をした力士らしき人物に出会うことはなかった。 

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小名木川水門を東側から望む

 高橋と先述した萬年橋との間(橋間は360m)に「新小名木川水門」がある。写真はそれを東側(高橋側)から見たものである。萬年橋側から見るために遊歩道を進もうとしたのだが、現在、修理中とのことで行き止まりになっており、西側に出ることはできなかった。結局、迂回して萬年橋上まで行くことになった。分かっていればスタート時に撮影しておいたのだが。

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萬年橋上から新小名木川水門を望む

 新小名木川水門は津波や高潮の影響が小名木川流域に及ばないようにするために設けられたものである。竣工は1961年で、現在は耐震補強工事中で3門あった扉は2門となっている。なお、隅田川左岸からこの水門までの距離は180mである。

 先に挙げた「芭蕉稲荷神社」の標高は2m、大嶽部屋は1.1m。江東区ハザードマップを調べてみたが、小名木川流域の標高は極めて低い場所にあるので内水氾濫の危険性はかなり高いようだ。

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明暦の大火後に霊巌島から移転してきた霊巌寺

 霊巌寺は1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人(のちに知恩院三十二世)が江戸中島(現在の中央区新川)に創建した浄土宗の寺。57年の明暦の大火で消失し、翌58年に現在の地(江東区白河)に再建された。

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霊巌寺には松平定信墓所がある

 霊巌寺でもっとも知られているのは、寛政の改革をおこなった松平定信墓所があることだ。写真のように、関係者以外は立ち入ることができないが、墓は墓に過ぎないので私にとってとくに問題とはならない。

 白河の清きに魚の棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

 これはあまりにも有名な狂歌なのでとくに説明は不要だろう。松平定信白河藩の第3代藩主であり、白河楽翁と号した。その定信の墓が霊巌寺にあるので、一帯の地名は白河となった。

 ところで田沼意次だが、『剣客商売』に出てくる彼はなかなかいい奴そうだ。秀才の定信には興味を抱かないが、清濁併せ呑む田沼には政治家としての意気を感じる。それにつけても、今の政治家は「濁」だけだ。しかも「小濁」の奪い合いなので話にもならない。みんなスカである。

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江戸六地蔵の第5番。かなり大きい

 江戸六地蔵は1706年(宝永3年)に発願され、20年(享保5年)までに造立された。霊巌寺の銅造地蔵菩薩坐像は17年に出来た。高さは273センチ。六地蔵はいずれも丈六の大きさ(座像なので八尺)である。なお、第6番は富岡八幡宮別当寺であった永代寺に造立されたが、明治の廃仏毀釈によって廃棄された。

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霊巌寺の東隣にある「深川江戸資料館」

 霊巌寺の東隣にあるのが、写真の「深川江戸資料館」で、常設展示室には江戸の町並みが再現されているということはすでに触れている。

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江戸の町並みが再現されている

 町並みが再現されている場所は3階までの吹き抜けになっているので見応えは相当にある。入口は2階部分にあり、まずは写真のように全体を見渡すことになる。長屋の屋根の上には案内役であるネコの実助(まめすけ)がいる。

 町中にはボランティアガイドがいるので、町の様子や当時の暮らしぶりを詳細に教えてくれる。

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江戸の水路を行き交っていた猪牙(ちょき)舟

 乗船することはできないが、江戸下町の水路を行き交っていた「猪牙(ちょき)舟」も展示してある。残念ながら大きな魚籠の中にも水路にも魚はいなかった。

 猪牙舟の語源は明確ではなく諸説ある。舳先が猪の牙に似ているので猪牙の字を当てているが、これはたまたまらしい。吉原通いのために「山谷堀」をこの舟で行き来したことから、山谷舟の別称があるそうだ。

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漁師の賄い飯であった「深川めし」の店

 深川界隈を散策していると、当然のごとく「深川めし」屋をよく見かける。深川は漁師町だったので、彼らのファストフードとして「深川めし」が広まったそうだ。素材は米と貝類、それに長ネギ。貝と長ネギを塩水で煮て、それをご飯にかければ出来上がり。貝はアサリやアオヤギ、ハマグリが用いられ、長ネギは体を温める作用があるので必須。現在はアサリが主体で、いろいろな具を入れた炊き込みご飯が主流となっているようだ。元祖「深川めし」についても諸説あるようだが、要は、深川界隈の漁師たちの賄い飯と考えればよい。浅瀬が広がっていたので貝類は豊富だっただろうし。

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大横川は桜の名所でもある

 小名木川南岸の遊歩道を東に進んでみた。写真の大横川と交差している場所で遊歩道は南に向きを変える。一旦、大横川沿いにある遊歩道を南に150mほど進んで扇橋の西詰に出てさらに橋を渡らなければ、小名木川南岸をこれ以上東に進むことはできない。

 大横川の遊歩道にはソメイヨシノが植えられている。今は開花が進んでいるだろう。

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小名木川沿いにはマンションが立ち並ぶ

 小名木川河畔にはかつて漁師町があり、そして大名・旗本屋敷、そして寺院が並び始め、明治期から昭和の高度成長期までは工場が進出した。今はそれらの跡地に大型マンションやショッピングモールが続々と建設されている。

 小名木川は移り行く400年の歴史を記憶し、川を訪ねる人は、流れに親しみながら、それらを想起することに努める。

〔56〕東京郊外の湧水を訪ねる~秋留台地のヘリを探索

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湧き水を蓄えた二宮神社の「お池」

秋留台地のキワに湧水を求める

 あきる野市の中心部がある「秋留台地」は極めて興味深い地形をしている。東西に約7.5キロ、南北に約2.5キロとさほど広いとはいえない台地でありながら辺縁部には侵食段丘が目立ち、研究者によって意見が異なるものの一般に段丘は9面に区分されている。大半は、現在の市の中心である「秋留原(あきるっぱら)面」で、ここは平坦地であるものの、かつては集落は少なかった。小川はなく、地下水面まで20m以上の深さがあるため、生活用水の入手が困難だったからである。一方、台地の三方(北、東、南)のヘリには低位面(秋留原面との比較において)が複雑に入り組んで形成されているが、集落はこの辺縁部の低地に発達していた。段丘礫層は5m前後の厚さで、その下にある基盤の上位面が難透水層であったために地下水の利用が容易であったからである。

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秋川左岸から秋留台地を望む。手前側は後背湿地、高台が秋留原面

 秋留台地の北側に草花丘陵、南側に加住北丘陵が存在するが、その間にある秋留台地だけは「丘陵」ではなく、今のところ「台地」である。写真は秋川左岸の自然堤防上から秋留台地を望んだものだが、手前の後背湿地(氾濫原、標高127m)の北側には小川面(132m)があり、その先に横吹面(145m)、そして最上部の秋留原面(158m)が見える。住宅は斜面上ではなく、それぞれの段丘面上に建っている。

 秋留台地は立川段丘と同じ頃に形成されたと考えられているので、今から3万~2万年前に生まれた。立川段丘は古多摩川が蛇行しながら基盤(上総層群)の上に砂礫をまき散らし(立川礫層)、その上に火山灰が積もって(立川ローム)形成されたように、同じ時期に古秋川や古平井川は上総層群の上に関東山地を削って段丘礫層を乗せ、さらに立川ロームが積もって生まれたと推定されている。台地上から川が完全に離水したのは約1万6千年前と考えられているので、その頃から秋留原面に火山灰が積もり始めた。以来、加住北丘陵と草花丘陵との間にあった扇状地風の台地の南北を秋川や平井川が曲流し、かつ水位を下げながら側面を削りとっていったため、独特の形状をもつ秋留台地が形成された。とりわけ、水量豊富な秋川が流れる南面では侵食作用が大きかったため、より複雑に入り組んだ河成段丘が形成されたのだった。

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台地北面の草花公園では、住宅の土台から水が湧き出ている

 台地の中心部付近では、表層土(黒色腐植土)の厚さは0.3m、ローム層は2m、段丘礫層は20mほどと考えられている。その下の基盤(上総層群の最上位である五日市砂礫層)が難透水層となるので、段丘礫層内には不圧(自由)地下水が豊富に存在する。前述のように、秋留原面では難透水層までの深度がありすぎるので地下水の汲み上げは困難であった。一方、台地の際に存在する低い段丘面では井戸を掘ることは容易であり、何よりも、段丘崖からは豊富な地下水が溢れ出てきたのだった。

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かつては滝行がおこなわれていた白滝神社の湧水も現在は渇水気味

 秋留台地のヘリといえば国分寺崖線、立川(府中)崖線、拝島丘陵南面とならんで、多摩地区では湧水が豊富な場所としてよく知られていたが、近年では宅地開発が進んでいるためもあって涵養水は激減しまったようだ。上の写真のように、秋留台地の湧水を代表する「白滝神社」の泉(白滝恵泉)も渇水気味で、もはや滝行はおろか手洗いにも難儀するほどだ。

 もっとも、今冬はとりわけ雨降りが少ないので、地下水位は例年に比してはるかに下がっていることも大きく影響していると思われるのだが。この写真は2月15日に大雨が降る前の日に撮影したものなので水量に乏しいが、のちに挙げる写真は大雨から一週間後のものなので多少、地下水面は上昇したようで手洗いぐらいは可能だった。

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湧水を集めた真城寺の池ではコイたちが大騒ぎ

 湧き水が出る段丘崖のふもとには溜池が多く存在する。池に水を蓄え、用水を整備して各所に水を供給するのである。本項の冒頭写真は二宮神社の、上の写真は真城寺の池だが、現在では溜池としての役割は小さく、おもに観賞池として存在している。池には概ねコイが放たれており、訪れる人はしばしば餌を与えるので、コイは人間によく懐いている。真城寺の池では、私のすぐ前に訪れていた老夫婦が餌を与えていたためか、私が近寄ると、奴らは私にも餌を求めて大騒ぎをしていた。基本、私は餌(自分以外の)を持参しないのに。

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八雲神社の池では底から水が湧き出す

 湧き水は段丘崖下部から生じるだけでなく、秋留台地の東端近くにある八雲神社の池では、やや深めに掘った場所から伏流水が湧き出ている。浅い場所は緑藻に覆われているのだが、池の中心にある深場では常に新しい水が湧き出て白い底砂がかき混ぜられるためか、コケが覆うヒマがないようだ。

 このように、秋留台地ではいろんな姿の湧水を見ることができる。そんなわけで、台地のヘリの変化に富んだ場所を、今回はあちこち訪ね歩いてみた。渇水期に湧水を探すのは無謀なのだが、反面、雨量が多い時期では湧水なのか雨水の集合体なのか判明が付かない場合もある。この時期だからこそ、湧水の真の姿が見られるのだと考えたからである。本当は、冬以外では茂みの中の虫が暴れ出て怖いというのが第一の理由なのだけれど。

◎草花公園(あきる野市原小宮)

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岩の間から湧水がほとばしり出る、はずだったのだが

 草花公園は秋留台地の北面にあり、平井川の右岸に接している。園内には市民球場やプール、そして東側に広場がある。公園自体は氾濫面にあるが、南側にある入口付近は台地ではもっとも低位にある「屋城面」に属している。ただしこの屋城面は狭く、すぐ南側に秋留原面が広がっている。なお、ここでの平井川の河原は標高130m、野球場などがある氾濫面は132m、屋城面は135~137m、秋留原面は149mである。

 湧水は公園入口のすぐ左手(西側)にある。写真はその湧出口であるが、私が参考にした資料では組み上げられた岩の間から清水が湧き出る写真が掲載されていたが、訪れた日には、岩の隙間から水が僅かに滲み出ていたぐらいであった。ただ、その水溜まりには小魚が泳いでいる姿があったので、ここが涸れてしまうまでには至っていないようだ。

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湧出口付近から下流方向を望む

 写真右手が園内に至る取り付け道路で左手に宅地がある。岩が適度に並べられていて「渓流風」を装っているが、肝心の流れは極めてか細いものだった。

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公園内から湧出口方向を望む

 小流れの底には泥が堆積しているので薄茶色に見えるが水自体は澄んでいる。清水は右手の住宅の基底部からも湧き出ていた。

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住宅の基底部をのぞく

 住宅の基底部には水抜きの穴があった。少量だが、確実に水が流れ出ていた。私が訪れた日では、この住宅下からの水量のほうが本流?よりも多めだった。

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公園南側の宅地整備地域のU字溝からも清水がやってくる

 公園駐車場の南側では宅地造成がおこなわれており、その下部から写真のU字溝が西から東に伸びていた。流れる水の透明度が高かったのでこの溝の元をたどってみたのだが、フェンス内の造成地では暗渠化されてしまって流れは見当たらず、さらにその周囲でも水の源は発見できなかった。しかし、近くに段丘崖があるので、そこから湧き出た水が宅地に流れ込むことを防ぐ目的で暗渠化され、さらにU字溝が造られたということは確かなようだ。

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三者の水が集められ、公園の際に整備された溝を流れ下る

 岩の間から「湧き出た」水、住宅の基底部から流出した水、U字溝を下ってきた水、その三者は公園に至る道路の西側で出会い、そこから流れは東に向けられ、道路の下を潜って東側に造られたコンクリート水槽に導かれる。

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水は公園の南斜面下を流れ下る

 公園の東側では台地の秋留原面が迫っており、湧水が集められて造られた小川はその段丘崖の直下を東方向に流れていく。公園内には遊歩道が整備されているので、その流れに沿って歩を進めることができる。

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ゴミが集まりやすい場所にあるが、流れはかなり澄んでいる

 北向き斜面の下を流れるために小川にはゴミや落ち葉が集まりやすいが、流れ自体はかなり澄んでおり、出自が湧水であることを想像しえた。

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平井川の右岸側に造られたひょうたん形の池

 公園入口から200mほど下流に造られたのが写真の池。湧水を集めた池だが、その大きさに比して湧水量が少ないため、水はかなり濁っている。浅瀬にコイが泳いでいるのを見つけたが数は少ないようで、池の端に寄ってもコイが近づいてくることはなかった。

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池のほとりには新しめの四阿(あずまや)があった

 ひょろ長いひょうたん型の池の窪み造られた四阿(あずまや)があった。新しく設置したのか改築されたのかは不明だ。水がそれなりに澄んでいて、水中に生き物が多く生息していれば格好の観察場になるのだが。

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オーバーフローした水は平井川に落とされる

 池の水位を安定させるためオーバーフロー形式になっていて、写真の場所から設定水位を超えた水は北側に流れている平井川に落とさせる。湧水量が少なく、しかも表層の水だけが川に流されるため、池の水の循環は極めて悪い。「かいぼり」をおこなわなければ澄んだ池になることはなさそうだ。

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渇水気味の平井川

 平井川の流れを望んだ。公園の敷地の一部は左岸側にも広がっている。写真内にある橋は、両岸を行き来するためのものである。

◎白石の井戸・福寿公園(あきる野市草花)

 ▽白石の井戸

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平井川を渡る。左手に秋留台地、右手に草花丘陵がある

 草花公園の湧水はやや「消化不良」気味だったので、平井川沿いにある湧水を探してみた。下流方向に草花丘陵側(左岸側)だが、名の通った場所があることが資料によって判明したので出掛けてみることにした。

 その場所は、公園からは1500mほど下流にある。平井川が多摩川に流れ込む直前に架かる「多西橋」まで「平井川南通り」を1800mほど東南東に進み、その橋を渡る。写真は、多西橋上から平井川上流側を望んだもの。川の上流の先に関東山地が見え、お馴染みの大岳山が構えているのが分かる。

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多西橋から草花丘陵側を望む

 秋留台地の湧水を巡る散策なのに、なぜ草花丘陵の南端にある湧水に出掛けるのか。その理由は明瞭で、草花丘陵の南東側の一部は広義の秋留台地に属するからだ。

 秋留台地の大元は古秋川や古平井川がまき散らした礫層であることはすでに触れた。その礫層は現在の平井川の河道より北側にまで広がっていた。河口(多摩川との合流点)付近では川の左岸から丘陵の麓までは1000mほども離れている。このため、平井川の下流部左岸側には結構、広い範囲に秋留台地の秋留原面や野辺面、小川面などが存在するのだ。つまり現在の平井川は、秋留台地の原形が出来たのちに流路を変えて台地の北面付近を下刻して多摩川へ流れついているのである。それゆえ、これから紹介する2つの湧水点は平井川左岸にあっても、広義には秋留台地に属すると考えることも可能なのである。

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台地のヘリを東西に走る「いずみ通り」。意味深な名称だ

 といったわけで、私は平井川の左岸に出て氾濫面の上位にあって台地のヘリを東西に走る「いずみ通り」を西に進んだ。泉が点在する通りだから、いずみ通りなのだろう。そう信じたい。

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いずみ通りから平井川右岸の秋留台地を望む

 いずみ通りから、本家の秋留台地を望んだ。低位にあるのが小川面、高位にあるのが秋留原面の東端付近である。林が見えるが、それは後述する二宮神社の社叢林だろう。

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白石の井戸の上位面にある旧道

 いずみ通り旧道とおぼしき道があった。この道の下段に「白石の井戸」があるようだ。資料によれば、ここも湧水量は多いと記してあった、信頼性は低いけれど。

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下の道から「白石の井戸」近辺を望む

 下段に新しい道が出来ていたので、さしあたり、その道に降りて「白石の井戸」の全貌を概観することにした。下の道の標高は120m、旧道は128m、いずみ通りは129mである。

 斜面を上る道らしきものはあったが、川の流れはなかった。湧水は本当にあるのか?いやな予感!

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中段にあった水槽に流れ込む湧水

 斜面中段にコンクリート製の水槽があり、上部から溝を伝って少量だが確かに水が流れ込んでいるのが分かった。この水槽の下部から溝は暗渠化されているので、下からは河道が見えなかったのだ。

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溝は上方の石垣下につながっている

 溝の中ではか細い流れが見て取れた。いささか小流れすぎるものの。

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ここが湧水点らしい

 崖面は石組され、その下部に小型の石組水槽が造られ、その石の間から水が湧き出て(滲み出て)いるのが見て取れた。かつては穴の開いた白石があり、その穴から清水が湧き出ていたそうだ。その穴の開いた白石は盗難にあったらしいので今はここには存在しない。どこかの家に隠されている可能性はあるが。

 この湧水を使って正月13日に米粉の団子(繭玉)を作ると、その年の蚕は良い繭をつくるという言い伝えがあるそうだ。今は白石も豊かな湧水もないが、そうした伝説がある場所だけに、遺構(白石を除く)と僅かな湧水だけは残されている。

 ▽福寿公園

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白石の井戸の西側にある福寿公園

 白石の井戸から西に60mほど進むと「福寿公園」がある。かつて、この近くに「福寿庵」があったことからそう名付けられたようだ。公園敷地の南端の標高は121m、北端の高い場所は123mである。写真内の階段の右手に見えるのが庭園?で、南北に細長い庭園内には湧き水?の流れがある。

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崖の下にある貯水槽

 白石の井戸の上位の道を西に進むと、写真の貯水槽が見えてくる。白石の井戸の上位面では標高128mだったが、道は下りになっているので、貯水槽は125m地点にある。

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貯水槽の隣にある湧水点?

 貯水槽の西隣に写真の水溜があり、湧水はここに滲み出てから溝を伝って貯水槽に移動する(らしい)。

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貯水槽内にはコイが泳いでいる

 湧水量が極めて乏しいために水の更新が少ないことから、貯水槽の水はかなり濁っていた。

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貯水槽からオーバーフローした水が福寿公園に落とされる

 道路の下を潜って貯水槽の水は下部にある庭園に落とされるが、湧水が少量であるだけに、したたり落ちる水の量もわずかだった。まるで、まやかし経済理論であるトリクルダウン効果やバタフライ効果のごとくに。

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水量はわずかだが、湧水はなんとか小流れを形成している

 それでも、水たちは小流れをつくって園内を下っていく。

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僅かな水であっても、やはり流れがあると心和む

 極端な渇水期であった今冬でさえ、ここでも流れは途切れてはいなかった。雨量が少しは多くなるであろう3月頃からは地下水面が上昇するはずなので、もう少しは見栄えが良くなっていることを期待したい。

 なお、白石の井戸の下部や福寿公園は、広義の秋留台地の屋城面(草花公園の下位面と同じ)に、湧水点の上位面(標高128mから132m)は野辺面(後述する八雲神社と同位)に属している。

二宮神社あきる野市二宮)

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二宮神社武蔵国の「二宮」である

 二宮神社についてはすでに、本ブログの第32回(府中市)と第36回(滝山城跡)にて触れている。神社の中心は高台にあり、それは秋留原面の東端に位置する。写真の鳥居が立っている場所は「小川面」に属するのだが、ここは秋川というより多摩川によって秋留原面が削られて出来たものだ。もっとも、小川面は多摩川右岸側だけでなく、平井川の右岸や左岸、秋川の左岸側に広く分布している。

 小川面では1万年前ごろ完全に離水したと考えられており、段丘礫層の厚さは4~5m、表層土は1m程度で、立川ロームには覆われていない。神社の本殿がある秋留原面の標高は137m、小川面に属する撮影地点は128mである。

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鳥居の向かい側にある「お池公園」入口付近

 鳥居の前には都道168号線が南北に走り、その通りの東側に「お池公園」がある。お池の70mほど南にはJR五日市線が走っており、神社前から東秋留駅までは250mほどの距離である。

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お池公園にはもちろん、湧水を集めて形成された「お池」がある

 お池の西側には小さな四阿があるが、都道を行き交う車の存在が煩わしいので、お池でコイと戯れたい人々は、おおむね東側のテラスへと移動する。

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コイに餌を与える人々

 東側のテラスではコイに餌をあげている人が3人(3組)いた。いずれも、偶然に立ち寄ったという風情ではなく、準備万端、手提げの中にはしっかりとコイ用の餌(種類はいろいろ)が入っているようだ。堂々と餌をあげている人もいれば、少し罪悪感を抱いているのか周り視線を気にしながら餌を撒いている人もいた。人それぞれであるが、それぞれ、コイに恋しているようだ。恋は大抵、道ならぬものなのだが。

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餌付けに慣れているコイたち

 コイたちは餌をもらい慣れているようで、人の姿を見掛けると近づき、かつ水面近くまで浮き上がってくる。

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段丘崖にもっとも近接した場所

 写真の場所は都道のすぐ東側にあり、お池では段丘崖にもっとも近い場所にある。湧水点のひとつなのだろうが、判然とはしなかった。

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お池の水は用水路へと流れ出る

 写真のように、お池は用水路につながっている。どんな干ばつのときもお池の水は涸れたことがないそうなので、湧水が生み出す貯水池は、かつては重要な生活用水だったはずである。なお、干ばつのときはこのお池の周りで雨乞いの儀式がおこなわれていたそうだ。

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用水路の傍らには遊歩道が整備されている

 用水路の脇には散策路が整備されている。右手の広場には住民が植えたとおぼしき花たちが並んでいた。

 

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用水路は住宅街を縫うようにして東へ進む

 用水路は住宅街を開渠されて進み、その間は散策路が寄り添っているが、途中から暗渠化されてしまい、その末流は多摩川に通じている(らしい)。この川の道は雨水を集め流すためにも用いられているようで、家々の間からは多くのU字溝が用水路に向かって伸びていた。

八雲神社あきる野市野辺)

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何処にでもある八雲神社だが、あきる野では湧水池のある神社として知られている

 八雲神社は何処にでもあるが、私の場合、すぐに思い起こすのは足利市にあるものだ。その理由は本ブログの第6回の「渡良瀬紀行」の項で触れている。渡良瀬川ではなく秋川や多摩川にほど近いあきる野市八雲神社森高千里とは無関係で、湧水との関係が深い。

 神社は「野辺面」にあり、境内の標高は127mである。野辺面は平井川の右岸側にもあるが、おもに秋川の左岸側に存在し、二宮神社のお池がある小川面より少し上位で、その比高は1~3mほどだ。東秋留駅は野辺面にあり、あきる野市の中心駅である秋川駅の南側の低地も野辺面にある。小川面はローム層に覆われていないが、野辺面では最上位の黒色腐植土の中にロームが混在しているので、小川面よりも古い層であることが判明している。

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境内にある池は湧水で成り立っている

 境内に池があり、コイだけでなく金魚やウグイ、オイカワなどが泳いでいる。池の底面はほぼ緑藻に覆われているが、池の中心部の深場だけは白い砂の存在が目立つ。

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池の深場は地下水脈に通じている

 最渇水期なので白砂はさほど目立たないが、この白砂部分から湧水が流出している。神社では池を造るために地面を掘ったところ水が湧き出てきたらしい。野辺面では礫層が薄く地表と基盤上部の難透水層との間が短いため、地面を掘ると地下水が容易に湧き出てくるらしい。もっとも、地下水を永続的に得るためには地下水脈(地下水谷)を掘る必要がある。神社の場合、水脈の位置を知っていたわけではなく、たまたま境内の下に水脈があってそれを掘り当てたのではなかろうか? 

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池の水は用水路に落とされる

 二宮神社のお池と同様、池の水は絶えることがないので、用水路へと落とされる。

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神社では、落とされた池の水を手水として用いている

 池のすぐ東側に写真の場所がある。豊富な湧水を有する他の神社でも同じ仕掛けを見たことがあるが、ここでも湧水の流れは手水(ちょうず)場として用いられている(ようだ)。

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湧水が生み出した流れは境外へと進む

 流れは神社の外に続き、用水路としての役目を果たしていたようだ。

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住宅地の間からも湧水の流れがある

 湧水は池だけでなく、近隣の住宅の間からも生まれ、写真のように神社の流れと合流する。

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豊富になった湧水は分水される

 集まった湧水は各所に分水され、生活用水などに利用されてきた。

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雨後の数日後には湧水量は増加していた

 多くの写真は2月15日以前に撮影したものだが、久方振りの大雨があった15日の数日後に池を再訪してみた。たしかに、池の中心部の白砂の面積は拡大し、湧水量の増加を証明していた。

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湧水の増加に川魚も大喜び

 上で少し触れたように、この池にはコイ以外の川魚が多くいる。モツゴ、ウグイ、オイカワの類のようだ。目立ち度はコイや金魚に劣るが、自然度はそれらに勝る(と思われる)。

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神社の周囲には微低地、微高地がとても多い

 今回は触れないが、八雲神社の周囲には微低地や微高地が多く存在し、さらに溜池、旧河道と思われる場所が多数あった。住宅街を通る小道に直線路はひとつとしてなく、明らかに水道(みずみち)の名残りのようにくねくねと曲がっている。八雲神社の周囲にある小道探索だけでも一日を豊かに過ごすことができそうだ。徘徊の楽しみのネタは尽きない。

 なお、八雲神社東秋留駅の真南340mほどのところにあり、二宮神社八雲神社間も480mほどしかない。が、湧水の成り立ちの相違は明瞭で、その比較も興味深い。

◎白滝神社(あきる野市上代継)

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睦橋通りのすぐ南側にあるが、やや下段に位置するために存在は目立たない

 あきる野市の湧水点としては二宮神社と並び称させるほどよく知られた場所であるが、私自身は名前こそ知っていたものの訪れるのは初めてだ。五日市方向(つまり秋川渓谷)に出掛けるときは睦橋通りをほぼ必ず西進し、R411と交差する油平交差点、圏央道とは立体交差するが、圏央道の取り付け道路と交差する下代継交差点のすぐ先の左手(南側)下に白滝神社は存在するが、睦橋通りは秋留原面の南端の標高155m地点を走り、神社上の旧道は横吹面にあって150m、神社の本殿は146m地点にある。上の写真は睦橋通りと旧道との間にある住宅地を貫く道路から本殿を写したもので、その撮影点は153mである。かように神社のある地形は複雑なので、よそ者としては簡単に路駐場所を探すことができないため、いつも素通りしていたのだ。

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神社横の高台から加住北丘陵方向を望む

 神社境内に降りる前に、神社の西側にあった空き地から南方向、つまり秋川の上を走る圏央道とその先にある加住北丘陵の姿を眺めてみた。ちなみに、本殿はこの撮影点とほぼ同じ高さのところに立ち、左の鬱蒼とした森の下に白滝恵泉の湧水点がある。

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境内に降りて高台にある本殿を眺める

 本殿前の境内に降り立った。神社の境内は斜面にあるため、平地は何段かに分かれている。最上部の平地は142m地点にあり、146m地点にある本殿を見上げることになる。私にはお参りする習慣がないので、階段を上がることはしなかった。

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恵泉の横には水神様と板碑がある

 本殿を見上げた平面からさらに下ると小さな祠があり「八雲神社」の名があった。その祠から3mほど下ると恵泉の横に出られる場所があった。そこには写真の水神様と板碑がある。

 水神様の姿は「倶梨伽羅(くりから)竜王不動尊とも)」であった。密教八大竜王のひとつらしいが、その名の由来はサンスクリットの「クリカ」とのことだが、その「クリカ」の語源が今ひとつ分からない。ともあれ、不動明王の化身らしいので水神様であることは確かだ。「倶梨伽羅」と聞くと「倶利伽羅峠」や「倶梨伽羅紋々」をすぐに連想するが、元はひとつである。博徒の刺青と水神様との関連性は謎であるが。

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水神様の場所から下方を見ると、半円礫の中にか細い流れが見えた

 倶梨伽羅竜王像を背にして恵泉の行く先方向を望んだ。半円礫の間に、わずかではあるが流れが見て取れた。

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恵泉の谷頭を眺める

 内緒で源頭付近に立ち入り谷頭(こくとう)周辺を眺めた。湧水点は142mほどのところにあった。写真から分かるように、谷頭周辺は教科書通りの逆U字を形成している。相当に後退侵食が進んでいるが、地下水は減少気味なのでこれ以上の後退は起こらないだろう。もしそれが発生したとすれば、上位にある家々は確実に崩落する。

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水神様の下段から恵泉の源頭周辺を眺める

 かつては滝行がおこなわれたとされる「白滝」であるが、水量が減った現在では石垣を組んで水を落としても、もはや「行」にはなりそうにない。後退侵食が進む前であれば、もちろん滝は存在していただろうが。

 神社の創建は不明だが、古くから「白滝の社」と呼ばれて崇敬されていたらしい。白滝の名の由来は、境内に樹々が繁茂し、一条の飛泉がかかって滝となって見えたことによるとのこと。どうやら、以前から「瀑布」といった感じではなかったようだ。もっとも、そんなことは、ここの地質から見て明らかではあるが。

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白滝の流れは下位にある農家の生活用水となっていた

 滝(湧水点)は小川面に発し、用水路が造られて下位にある屋城面の田畑や住宅地に供給される。流れの際にある農家は、流れの一部を敷地に引き込んで野菜洗い場の水として現在も利用しているようだ。

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標高132m地点から神社の森方向を望む

 神社下からは狭い市道がくねくねと曲がりながら秋川の左岸まで通じている。秋川までは直線距離にして600mほどである。その市道から神社の森と、白滝恵泉が造った小流れを眺めてみた。左手に広大な敷地を有する農家があり、先に挙げた「野菜洗い場」はその農家が使用している(らしい)。

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農家が所有している溜池

 広い敷地を有する農家は写真の溜池を所有している。なお、この敷地は災害時の避難場所になっている。

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いくつかの湧水が集まってひとつの流れとなり、今度は東方向へ進んでいく

 恵泉が造った流れはほぼ平坦な場所(標高131m)に出ると、西から来た、やはり湧水が生み出した流れと合流し、一本の用水路となって今度は東へ、そして南東に進んでいく。南東に曲がるのは、その方角に屋城面とその上位面とのキワがあるからだ。

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用水路の安全を見守る地蔵尊

 用水路が一体化するキワに写真の地蔵尊があった。用水路の安全を見守るために置かれたのだろうが、今ではコロナ禍の終息を住民たちは願っているようだ。終息の折りには、お地蔵さまも赤いマスクを外すことができるだろう。

◎真城寺(あきる野市上代継)

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真城寺裏の湧水が生んだ流れ

 西からくる流れの元を追ってみた。写真は、南から下ってきた流れが東に向きを変えた地点から東方向を眺めたものだ。この100m先に合流点があり、地蔵尊がいる。

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流れの元は北方向の斜面にあるらしい

 流れの元をたどった。右手(東側、左岸側)は農地、左手(西側、右岸側)は真城寺の墓地。墓地内のほうが歩きやすいので流れの右岸に沿って源流点を探した。

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流れの源はこの森の中にあった

 墓地の北辺までは進むことができたが、その先は深めの谷になっていた。谷を進むことはできないことはないようだったが、一方で怪我は必至とも思われた。地図で確認すると、谷は北西方向に伸びており、谷上の高台は住宅地であった。

 谷の最上位の標高は149m。とうぜん、この沢の谷頭は逆U字を形成しているので、湧水点は145mより下にあると想像しうる。また、白滝恵泉の湧水点とは200mほどしか離れておらず、かつ同じ地層に存在しているので、ここの湧水点も142mほどであると考えるのが適当であろう。なお、撮影地点の標高は140mである。

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真城寺は北条氏照が再興したと考えられている

 真城寺は1351年、足利尊氏の子で初代鎌倉公方の基氏が開基したとされている。臨済宗建長寺派の寺である。一時は衰退したが、1579年、北条氏照が再興したという言い伝えがある。実際、この寺には氏照の回向位牌がある(らしい)。

 境内にはシダレザクラがあり、市の天然記念物に指定されている。かなりの大木なので満開時は見ごたえがありそうだ。

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本堂の裏手にある池。湧水が生み出したものらしい

 湧水を探すために本堂の裏手に回った。地図によれば、先ほどの沢に平行して別の沢があるということが判明したからだ。崖下には池があった。地図によれば、沢はこの池に流れ込んでいるようだった。

 池の水の透明度は二宮神社のお池よりはやや低いが、かなり澄んでいるといっても過言ではない。湧水のなせる業だ。

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流れ込みを探すより、まずはコイの観察をおこなった

 湧水の流れ込みを探す前に、さしあたりコイの観察をおこなった。私は、魚を見ると興奮してしまうのだ、それが死んだ魚であっても。その興奮はコイにも伝わったのか、奴らは異常と思えるほどはしゃぎまわっていた。私が訪れる前に老夫婦が餌を与えていたからだ、ということは冒頭近くですでに触れている。

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池の石垣に流れ込みの筋があることを発見した

 池を取り囲む石垣を観察すると、水が流れ込んでいる様子が確認できた。そこで、池の東側から崖方向に進み沢の在処を探すことにした。

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沢の源頭方向を望む

 池の上の崖には沢があり、水量は少ないものの確かに池に流れ落ちていることが確認できた。ここはお墓の裏手にあった沢とは異なり、白滝恵泉と同様に沢筋が少し開けていたので、源頭まで探ることが可能と思われた。視認した範囲では、中央上部に写っている木の根元あたりから流れ出ているようだった。

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木の根元を確認。源頭はもう少し上のようだ

 視認した木の根元まで上り、つぶさに観察した。流れはもう少し上で発出しているようだった。

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源頭はこの倒木の下にあると思われた

 確認した木の根元の数メートル先に倒木の重なりがあり、その下から水が湧き出ているようだ。その辺りは足元がとても悪そうなので、そこまで出向くことは断念した。写真からも分かる通り、その辺りに小さな逆U字の谷頭が存在する。もちろん、谷全体も後退侵食による大きな逆U字を形成しているが、地下水量が減じている昨今では、極小の谷しか形成できないようだった。なお、この谷頭の標高は142mほどで、白滝恵泉と同等の高さであった。なお、寺境内の標高は130mである。

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池の西側にも小さな池があった

 池に戻り、西に続く崖の様子も確認することにした。先ほどの池とはまったくつながっていないが、崖下には写真のような小さな池があることが分かった。よく見ると、池の石組の下から水が流れ出ていた。これは、上方から水が供給されていることの証明であった。

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池の上方の景観

 耳を澄ますと水の流れる音が聞こえた。そこで池の上方を観察すると、草むらの中に僅かではあるが流れの姿が視認できた。上方には写真のような大石が並べられており、流れはその間を進んできているようだった。

 辿る道はあったものの、もはや覗きに行く必要はなかった。ここにも湧水点は存在していたのだ。

 真城寺には3本の湧水があることが分かった。いくつかの地図を参照したが、この湧水の存在を記してあるものはなかった。それだけでも、意味のある「発見」であった。

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白滝恵泉と真城寺裏の湧水が集まってできた用水路の流れ

 小さな旅の小さな発見が大きな喜びを与えてくれた。だが、まだ旅は終わりではなく、秋川駅の南口近くの駐車場まで戻らなければならなかった。最短距離で1200mほど。寺の標高は130mで駐車場は156m。距離に加えてその比高26mがある。楽しみが多くあったと同時に疲労もあった。おまけに最後に上り坂まである。足取りは重かった。それは、いつものことだけれど。

 車に戻るまでが旅である。家に帰るには一時間以上の運転が残っている。しかし、それは単なる日常の延長にすぎない。

〔55〕東久留米市・落合川~湧水が造った沢や中下流域を訪ねる

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「いこいの水辺」で本を読む人

南沢緑地保全地域を散策する

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もっとも湧水量の多い沢の流入

 本川沿いにも湧水点は多いが、やはりこの川でとりわけ魅力を感じてしまうのは、近傍の谷頭から湧き出す清らかな沢の存在だろう。

 小さな沢の中にはもはや涸れてしまったものもあるようだが、今回に取り上げる3本の沢(沢頭、立野川、こぶし沢)は、雨量が少なく自由地下水の流量が減少(もしくは帯水層の低下)する冬場であっても湧水は絶えることなく、本川に豊かな清水を供給していた。

 その代表が、前回の最後に少しだけ触れた、南沢緑地保全地域から毘沙門橋上流右岸側に流れ込む「沢頭(さがしら)」である。その沢頭の名はここで取り上げる沢の源流域のみを指すのか、それとも落合川に流れ込む3つの沢の中の筆頭格である、これから紹介する沢の流れ全体を指すのか不明だが、ここでは南沢緑地から生まれる3本の沢の総称であると勝手に考えてその名を用いることにした。

 上の写真はその沢頭流が本川の右岸部分に流れ込む姿を写したものである。

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清められた水にコイたちも大喜び?!

 前回も最後のところで、合流地点の緩流部で悠然と泳ぐコイたちを紹介したが、別の日に訪れた際には、少し水温が上昇したためなのかコイの活性がやや高まっており、淀みに留まることをせずに流れの中へ積極的に突入する姿がよく見られた。そこで改めて、彼・彼女らの元気な様子を撮影した次第である。

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沢の湧水点を求めて遡上する

 沢頭の流れを辿ってみることにした。写真は合流点のすぐ上流側を眺めたもので、右手(沢の左岸側)に「南沢水辺公園」がある。最下流部ではほんの少しだけ住宅地内を通過するためもあって、沢の両側は急傾斜護岸で整備されている。

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氷川神社前から沢の下流部を望む

 水辺公園の西側の高台には、前回に紹介した南向きの「南沢氷川神社」が鎮座し、参道が南へと伸びている。鳥居のすぐ南側を沢頭は東西方向に流れており、参道には小橋(宮前橋)が架かっている。本川との合流点からは120mほど遡ったところである。上の写真はその宮前橋から沢の下流側を望んだもの。左手(左岸側)に水辺公園がある。写真の流れの先の際に住宅地があるので沢沿いに道はなく、この流れに沿って移動することはできない。

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小橋の上流部

 一方、宮前橋の上流部には左岸側に道路があるので、沢の流れに沿って歩を進めることができる。

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小橋の上流側に小さな流れ込みがある

 沢頭を構成する3本の沢のうち、もっともか細い流れが宮前橋の上流右岸側にある。やや分かりづらいが、写真でいえば下から上に向かって(南から北へ、つまり橋に平行して)流れ込んでいる。これが「竹林の丸池」が生み出した沢である。まずは、この沢を見て歩くことにした。

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合流点から10mほど遡ったところ

 合流点から10mほど上流ではまだ、草や木々の葉っぱの間から水の流れを見て取ることは可能だ。

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か細い流れはほどなく草むらに隠れてしまう

 南に伸びる氷川神社の参道からは、沢の筋は少しずつ離れ(実際には竹林の中で生じた流れが少しずつ参道に近づいてくるのだが)、しかも草や木々はより多く覆い茂っているため、流路はかろうじて確認できるにすぎない。

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丸池からの流れ出し

 丸池近辺は手入れが行き届いていることもあって草も木々もほとんど存在しないために、丸池から流れ出す沢の姿を見て取ることができた。写真は丸池のすぐ下流にある溜まりとその下流部で、丸池はこの手前側にあって写真の中にはまだない。なお、丸池と写真の溜まりとは土管にて繋がっているので、その上を歩くことができる。

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湧水が生み出した丸池

 写真が、竹林に囲まれた丸池。観察しやすいように手入れをしたのか、かつてはもっと大きな池だったので北西側にあった木々や草は枯れてしまったのかは不明だが、湧水点に近づくことが可能だった。

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確かに地面から水が池に流れ込んでいる

 丸池の周りに湧水点はいくつかあるようだが、地下水面が低い冬場の時期では、写真の場所でのみ清水の湧き出しを確認することができた。湧水点の周囲には小石が無数に存在するので、武蔵野礫層の上部から地下水が流れ出していることが分かる。なお、この地点の標高は48.5mである。

南沢緑地の谷頭を目指す

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沢に沿った道を源頭方向に進む

 丸池から先に挙げた橋の北詰に戻り(もっとも、橋から丸池までの距離は60mほど)、今度は大本命である沢を遡上して湧水点を探すことにした。ものの本によれば、そこには明瞭な湧水点が4か所あるとのことだ。上の写真にあるように、橋の北詰からは沢に沿って西に進む市道が整備されているので移動は簡単だ。

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生垣が切れた場所から沢を望む

 道路と沢との間には生垣が整備されているが、記憶では3か所、沢辺に出られるような隙間が設けられていた。写真は、その隙間から上流方向を眺めたもの。

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2つの沢の合流地点

 橋の北詰から140mほど西へ進んだ地点に小さな空き地があり、ここからは南方向で生まれた沢と西方向で生まれた沢との合流点を見ることができる。写真内にある木橋(現在は通行不能)の架かっている沢が南から北へ下ってくるもので、狭義の沢頭は写真の右手(西側)方向に存在する。

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狭義の沢頭方向を覗く

 3本の沢でもっとも水量があるのが西側から流れ出すもの。残念ながら、左手(右岸側)は浄水場の敷地内、右手は私有地内なので、撮影場所よりも上流側に移動することはできない。写真に小さな水門が写っているのが分かると思うが、そこで浄水場から流出する沢の水量を調整しているようだ。

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沢頭側から見た合流点

 2つの沢の合流点の西側にも木橋が架かっており(こちらは利用可能)、浄水場内から流れ下る湧水の姿も上の写真も、その木橋の上から撮影したものである。

 飛び石があり、それを伝って合流点に近づくことも考えたのだが、私の場合は飛び石を歩く際、次にどちらの足を出すべきか考えてしまうことが多い。その結果、石を踏み外すことがしばしばなので、今回は安全性を考慮し木橋を渡って南からくる沢の源流点を見に行くことにした。

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南側の沢を遡る

 緑地内には遊歩道が整備されているので歩きやすい。一方、歩ける場所が限定されているので見たいと思う場所には入れないという悩みも生じる。豊かな自然を保護するためにはやむを得ない措置なのだろうが。

 南から流れ下る沢は、写真でいえば奥側に源頭があると思われたので、遊歩道を南に進んだ。

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谷頭周辺の景観

 明らかに源頭があると思われる様相だが、残念ながらこれ以上、前方に進むことは叶わなかった。以前は源頭付近まで自由に行けたらしいのだが、現在では「保護」が優先されている。

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あちこちの湧水点から清水が流れ出る

 源頭まで行くことができないので、谷の上に出て、そこから湧水点を探すために上り道を探した。右手(西側)にそのルートがあったので、少し進むと写真の場所に出た。その地点から、草むらの中に湧き水が流れているのが見て取れた。

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湧水点のひとつを覗き込む

 その流れの源が遊歩道の近くにあることが分かったので、可能な限り近づいて撮影してみた。写真の場所は立ち入り禁止場所ではない。

 源頭域では侵食作用が進み、谷壁が崩落して湧水点が移動し、谷壁はさらに後退する。谷の最上流部を谷頭(こくとう)と言うが、こうして谷頭周辺は逆U字の形になることが多い。この場所の谷全体はその教科書通りの形をしている(3枚上の写真が参考になるかも)が、写真の場所は逆U字の奥側ではなく西側なので、仮にこの場所の浸食が進むと谷の形は大きく変化するかもしれない。しかし、湧水の量は奥側に比べるとかなり少なめなので、その可能性は限りなく小さそうだ。

 谷の上に出てみたが、樹木があまりにも多く覆い茂っているため、メインの源頭を見出すことはできなかった。谷の直上には市道が通り、その南側には住宅が並んでいた。もはや、この谷の湧水量程度では後退侵食を起こす力はないという安心感から開発が進んだのだろう(そうでないと大変なことになる)。

 なお、私が視認した湧水点も、奥側の湧水点(と思われる場所)も標高は50mほどで、谷上の市道は55m地点にある。

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膨大な湧水を集める南沢浄水場

 西側から下ってきた沢頭のメインとなる湧水の源頭は、写真の「南沢浄水場」の敷地内にある。私のような一般人は、谷上を通る市道の北側に設置してある柵の外から眺めるだけで、しかしその2つあるとされる湧水点は建物や樹木に隠れているため、周囲の地形からその在処を推察することしかできない。

 写真の配水塔の容積は一万立米なので一万トンの水を貯えることができる。ものの本には、南沢緑地全体の湧水量は一日一万トンとある。一日分の湧水を集めることができる計算だ。もっとも、浄水場では湧水だけでは足りず地下300m地点から水を汲み上げているらしいので、双方の合計(湧水を含めた地下水全体)が一万トンというのが正解だと思われる。

 なお、東久留米市上水道は25%が地下水で、残りの75%は金町浄水場、境浄水場、東村山浄水場などからやってくる浄化処理された川の水である。東京都全体では、80%が利根川荒川水系、17%が多摩川水系の水なので、東久留米市の水はやや「自然度」が高い。

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浄水場内の谷頭を眺める

 私は浄水場の周囲をうろつき、何とか谷頭が見える場所を探そうとした。浄水場の西側には写真のような谷が見えるのだが、しかし、この場所も立ち入り禁止で近づくことさえできなかった。

六仙公園の存在意義

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南沢緑地の西側に広がる空き地

 地図を見ると南沢緑地の西南西側に公園があることが確認できたので移動した。公園内には「わき水広場」というのもあるらしい。その「わき水」の言葉に惹かれたのだ。

 写真はその公園の敷地の東端で、配水塔の姿がよく見える。それにしても、この場所は「何か」を整備しているようで、不可思議な光景が広がっていた。ところどころに個人住宅の建物もあるのだが、どれも空き家のようだ。

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地下水涵養のために整備された六仙公園

 公園の正門?は西側にあるようなので、その西側入口近辺まで移動して再び、南沢緑地方向を眺めてみた。少し分かりづらいが、写真中央上部に配水塔が写っている。

 公園内には「かたらいの広場」「芝生広場」「第八小学校記念広場」「野外学習広場」など「〇〇広場」がいくつもあるが、基本的には広大なる空き地で、わずかに遊具施設があるだけだ。なかには「縄文の丘」というのもあるので、一帯からは縄文遺跡が出土したのだろう。たしかに、近くには豊富な湧水地があるので、縄文生活?には便利だったかも。

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南沢の湧水を守り抜くための意思表明

 「わき水広場」に湧き水はなく、そのかわり、「水の森の創造~湧水を守り……」という決意宣言があった。その言葉から、この公園は南沢緑地の水を守るための涵養地であることが理解できた。広大な空き地は雨水を受け止め、多くの水を土中に浸透させ、ローム層の下にある武蔵野礫層に帯水する地下水を豊かにするという役割を有しているようだ。地下水を涵養することで南沢緑地内の湧水を一定量を確保する。その目的のために学校や住宅を廃して涵養地を広げていると考えられた。そうすることで、自然度25%の水道水を供給する体制を維持していくのだろう。大深度地下(上総層群内)に帯水する被圧地下水だけに頼りすぎると、地盤沈下の危険性があるからかも?

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公園の西側にある窪地

 公園の東側だけでなく、写真のように西側にも整備事業は広がっており、住宅地であった場所も涵養地に転じつつあった。

 そして窪地の存在である。公園の最高点の標高は58.5m、広場の多くは55~57mだが、写真内の窪地は52~53mなのだ。しかも、その窪地は東北東に進んでいき、行き着く先は南沢緑地の湧水点付近である。ただし、窪地の西側は標高57~58mなので、公園整備地の外にまでは窪地は伸びていないようだ。

 想像するに、かつては公園の西端近くに湧水点があり(わき水広場はその名残?)、その湧水の流れが窪地を形成し、それが南沢緑地方向に続いていたと考えられる。武蔵野台地は西南西から東南東方向へ緩やかに高度を下げている。当然、基盤である上総層群も、帯水層である武蔵野礫層も同方向に緩やかに傾斜している。その一方、基盤と礫層とは不整合に接しているため、不圧地下水(自由地下水)の水位は一定ではなく、写真の場所辺りで生まれた湧水は地下水面の低下で涸れてしまい、現在では地形にのみその姿を留めているのだろう。それに対し、南沢緑地内の湧水点では地層の転換点が存在し、礫層の露出度がより大きいために地下水位が低下しても一定の湧出量が確保されていると思われる。

 そういえば、竹林の丸池の湧水点でも礫層の露出が見られた。地層の僅かな変化が、湧水点の有無を決定づけているのだろうし、その違いはもちろん、たまたま生じたのだろう。自然に意志はないのだから。

立野川の源流域、そして中流域へ

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立野川の源流域がある向山緑地公園

 南沢緑地公園の南南東方向に「向山緑地公園」がある。公園内に湧水点があり、その清水は落合川の支流である「立野川」の水源となっている。南沢の湧水点と立野川の湧水点とは直線距離にして150mほどしか離れていない。しかし、2つの湧水点との間には住宅地や畑があるため直に行くことはできない。立野川の源頭に行くには、まず六仙公園の東端に出てから南に進み、それから東方向に進路を取り、住宅地の中を進んでから向山緑地公園の南側に出る必要がある。

 写真は、緑地公園の南側から源頭があると思われる雑木林の斜面を望んだもの。撮影地点は標高60mで、源頭は51mあたりなので、斜面を北方面に下る必要があった。もっとも、闇雲に下らなくてもきちんと遊歩道が整備されている。

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立野川の源頭付近

 写真は、その斜面をほぼ下り切ったところ。谷底の平面はやや広めに見えるが、北側は農地や宅地の開発が進んで土盛りされていたり整地されているので、元の姿をイメージすることはできない。ただし、水源域は保護されているので湧き水の存在を見ることは可能だった。

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草むらの中を流れる最上流域

 雨量の少ない冬場だからなのか、それとも地下水が枯渇気味なのかは不明だが、私が訪れた際には、湧き出すというより滲み出るという感じだった。ただし、地形図などで周囲の様子を詳細に調べてみると、最上流域は南南西を頂点とするU字の谷の形をしており、標高51m程度の谷底は整地されている緑地の北側(川の左岸側)にもある程度の幅を持って広がっているため、往時はそれなりの湧水量を誇っていたのかも知れない。 

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左岸に渡るための仮橋

 最上流域は沢というよりは湿地に近い。斜面側は右岸であるが、左岸側からのほうが全体の様子を捉えやすいと思われた。そこで沢を飛び越えることを考えたのだが、湿地の広がり方が不明であり、失敗すれば泥沼にはまり込むこともあり得ると思い、跳躍は断念した。

 そこで少し下流に移動してみると、写真のような丸木が渡してある姿に出会った。いかにも仮の橋という様相であったが、遠慮なく利用させてもらった。私の体重では丸木橋はよく曲がったけれど。

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仮橋のすぐ下にある「崩落」場所

 左岸側に出たので、源頭を見るべく上流に移動したのだが、最上流部の左岸側は私有地で立ち入りが禁じられており、行く手を阻まれてしまった。仕方なく、下流側に進むと写真のような姿が広がっていた。明らかに斜面は崩落しており、そのために遊歩道が失われただけでなく、右岸から左岸に渡るための石橋だか飛び石だかが破損していた。このために、少し上流側に丸木の仮橋を設けたのだろう。

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少しずつ水を集めて中流域へ

 左岸の下流側も私有地が沢のぎりぎりのところまで広がっているので、最上流域と同様、移動は制限されていた。私は丸木橋を渡って右岸側に戻り、下流方向を眺められる場所を探して上の写真を撮影した。ロームというより表層土の上を流れているため美しさは感じられないが、水の透明度は保たれ、かつ最上流域よりも水量が増えていることが分かった。明確な湧水点は見出せなかったが、湧水以外に水量が増すことはあり得ないので、斜面の際から地下水が少しずつ滲み出ているのだろう。

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住宅街に入る立野川

 向山緑地公園の下流側に移動するには住宅地を迂回する必要があった。写真は住宅街を流れ始めた立野川を上流方向に望んだもの。写真ではどぶ川のように見えるが、水自体に汚れはない。

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立野川は哀しからずや

 南沢通りの「笠松橋」に出た。上流側を望むと、流れの中にミクリの姿があることが分かった。その姿から、立野川は湧水が生み出した小川であり、かつ、落合川の支川であることが理解された。が、右岸側の水敷にはゴミが捨てられていた。笠松橋の北詰には交差点がある。おそらく、信号待ちをしている背の高い車の乗員が窓から車内のゴミを捨てたのだろう。ミクリには、その行為を告発するすべはない。

本川中流域を進む

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毘沙門橋下流の落差工

 立野川の笠松橋から南沢通りを北上すると、250mほどで落合川の毘沙門橋の出る。毘沙門橋上流の様子は前回や今回の冒頭でも触れたので、今度は橋の下流側を進むことにした。写真は、橋の下流にある「落差工(堰堤)」を右岸側から望んだものだ。

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左岸側に広がる「落合川いこいの水辺」

 毘沙門橋から220m下流に進むと「落合川いこいの水辺」に出た。左岸側の高水敷が広場風になっている。かつての曲路を利用したのだろう。前回では5枚目の写真が右岸から見た「いこいの水辺」で、そのときには保育園児と引率者の姿を写している。

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いこいの水辺を右岸から望む

 いこいの水辺で憩う子供たちを写した日には黒目川との合流点まで進み、その帰りに写したのが上の写真だ。今度は、川辺にて男性が本を読む姿があった。今回は主に左岸側を移動し、いこいの水辺の様子を丹念に探ってみた。その際に写したのが、今回の冒頭の写真である。本を読む人が岸辺にいたのは前に訪れた日と同様であったが、今度は女性であった。

 せせらぎに触れながらの読書。私には絶対にできない真似である。おそらく3分は持たず、川の中に入るか、石を投げ込むか、鳥たちを追い回すか、などの行為に出ること必定だ。

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右岸側に設けられた親水場所

 いこいの水辺は左岸側がメインだが、右岸側にも川辺に出られるところはある。とはいえ、フェンスがない場所は限定的で、水敷も狭いので、暖かい時期に川の中で遊ぶ人たちの緊急避難場所といえなくもない。

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いこいの水辺の湧水点

 ここにも湧水点はある。青いパネルには「この場所は、近隣住民の方々が飲料水として利用する「湧き水」です。川の水が入らい(ママ)ように「水のダム」を設けてあります。……(以下省略)」とあった。「な」が抜けているのは気になるが、この点は直に訂正されると思う。ともあれ、生活用水ではなく、飲料水とあるのがすごい。落合川の湧水、恐るべしである。

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いこいの水辺の下流に架かる老松橋

 いこいの水辺の下流に架かるのが写真の「老松橋」で、道の通称は竹林公園通り。橋の南詰から180mほど進むと、後に紹介する「竹林公園」に至る。

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合川最大の落差工

 老松橋の次が「美鳥橋」で、その下流にあるのが、落合川最大の落差工である。落差工は流速を抑制し、水敷や河床の損失を防いでいる。が、その分、落差工で生き物の移動が制限され、かつ、あまりにも人工的で美しさは失われる。

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落差工下の淀みで遊ぶコイたち

 落差工の下はトロ場(流れの緩い場所)になっており、そこにはたくさんの放流されたコイたちが泳いでいた。落差工下で川底に溜まった泥がかき混ぜられるため、水はやや透明度を失っているのが残念ではあるが致し方ない。

 コイは底生動物を食べ尽くしてしまうため、近年では「害魚」扱いされることが多い。コイがいない川もコイの無い人生も寂しいが、自然豊かな落合川に相応しい存在かどうかは疑問の残るところである。

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合川の上を走る西武池袋線

 西武池袋線の「落合川橋梁」が見える。左手(左岸側)方向に「東久留米駅」、右手方向に「ひばりが丘駅」(西東京市)がある。前者と川とは直線距離にして370mほど、後者とは1000mほどなので、明らかに東久留米駅が落合川の最寄り駅である。

 なお、次に「こぶし沢」について触れるので、右岸にある大きな木の存在を確認しておいていただきたい。

こぶし沢を遡上して竹林公園へ

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西武線橋梁の上流右岸側に流れ込む「こぶし沢」

 橋梁の右岸上流20mほどのところに写真の流れ込みがある。これは竹林公園内にある湧水が生み出した「こぶし沢」のもの。冒頭で、落合川には3本の沢があると述べたが、この「こぶし沢」が3本目(1本目は沢頭、2本目は立野川)である。

 ひとつ上の写真の右手に大きな木が写っていることを確認していただいたはずだが、その根元近くに沢は流れ込んでいる。

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竹林公園で生まれて落合川に流れ込む

 写真は、こぶし沢が本川に流れ込む直前の様子。大きな木は沢の右岸(写真では左側)にある。ここから竹林公園内の源流点までは350mほどの距離で、その短い旅がこれから始まる。 

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こぶし沢の流れはホタルも好むらしい

 合流点から200mほどは流れに沿ってほぼ遡上することができる。住宅地の中を流れているのだが、大方は川沿いに散策路が整備されていて監視の目が光っていることもあってか、沢にゴミを捨てる輩は少ないようだ。

 清い流れはホタルにもカワニナにも好まれるようで、季節になれば、ここではホタル狩りも楽しめるそうだ。

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住宅地のすぐ先に竹林公園がある

 竹林までの40mほどは川沿いに進むことはできない。住宅の先にある鬱蒼とした茂みが竹林公園の東端である。なお、撮影地点の標高は44mだ。

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竹林公園の入口付近。ここには賢人よりも変人が出没するらしい

 竹林公園に至るためには、住宅街をL字形に進む必要がある。もっとも、道はそれしかないので、撮影地点から住宅街へ上る道を道なりに進むと竹林公園の入口に至る。もっとも竹林公園の正門?は南側(標高52m)にあるのだが、写真の南東口?(標高50m)のほうが沢の遡上者にとっては近い。トイレ(かなり古い)を利用する場合は、正門?のほうに行く必要はあるが。

 遡上する私は写真のところから竹林に入った。ここにも、前回に散策した狭山丘陵同様、「ちかんに注意」の看板があった。この竹林には阮籍(げんせき)や嵆康(けいこう)といった賢人(七賢)はいないようで、変人や変態(七変)が出没するのかも。もっとも日中は見物人や散策者が絶えないので心配無用とは思うが。

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竹林の際を清水が流れる

 南東口から竹林に入り、散策路を進むと、住宅地の際を流れる沢の姿が見えてくる。

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竹林の周囲には湧水点がいくつかある

 沢の流れに沿って右岸側には散策路が続いているので、源頭に行くにはそのまま整備された道を進めば良い。

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右岸の湧水点が水量はもっとも豊富

 途中に湧水点があった。すぐに分かることだが、ここは源流点よりも湧出量は多かった。

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こぶし沢の最上流域

 源頭のすぐ下流には石橋があり、その橋から下流側を眺めたのが上の写真。小さな水神様が祀ってあった。先ほどの湧水点はこの流れが左に曲がった先にある。標高は45.5m。

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こぶし沢の源頭

 ここがこぶし沢の源流域。中央の奥にあるのが源頭(標高46m)で、その直上にはお馴染みの標識もある。渇水期ということもあって湧出量は多くはなかった。

 谷頭は不自然なまでに石で固められている。後退侵食を防止するためだろうか。

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園内には2000本の孟宗竹がある

 公園内には2000本もの孟宗竹がある。賢人ならぬ変人が出没するのは、いらぬ妄想をするからだろうか。母想いの孟宗(3世紀、呉の人)は、冬場でも竹林に入って母の好物であるタケノコを探した。その故事から孟宗竹の名が付いた(そうだ)。なお、この公園内ではタケノコ狩りは禁じられている。

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竹林公園を西側から望む

 竹林公園の西側に出て源流域方面を望んだ。中央に見えるトラックの奥側右手に源頭がある。左手側は宅地開発が進んでいる(トラックはその工事のための車両)ため、かつての谷の姿を想像することは難しい。が、視界を広げると、写真の左手には標高48.5mの小さな尾根、竹林公園の最高地点は52m、源頭は46mであり、俯瞰すれば、撮影地点の前方には東北東にU字形の谷が形成されていたと想像することは可能だ。

 なお、写真の左右に通る道が「竹林公園通り」で、撮影地点からその道を北(左)に180mほど進むと、先に紹介した老松橋の南詰に出る。

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西にある竹林も地下水を涵養している

 西側を振り返り見れば、そこにも竹林があった。竹林公園の源頭から先に挙げた竹林の丸池までは640m、向山緑地の源頭とは750m、南沢浄水場の源頭(と思われる場所)でも900mしか離れていない。そういえば、向山緑地には孟宗竹が多かったし、浄水場の南側にあった南沢樹林地も竹林が大半だった。落合川が有する3つの沢は、竹林を中核にしたひとかたまりの湧水群と考えることも可能かもしれない。と、私の妄想は広がった。

本川下流域、そして合流点

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右岸側に広がる不動橋広場

 本川に戻った私は左岸側の遊歩道を下流方向に進んだ。西武池袋線合川橋梁の85m下流には「共立橋」があり、その北詰から下流右岸側を見ると「不動橋広場」が視界に入った。広場には遊具施設があり、近隣から来たと思える保育園児と引率者が光の春の下で豊かな時間を過ごしていた。

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不動橋グラウンドでゲートボールを楽しむ人々

 広場の隣には「不動橋グラウンド」があり、ジジババたちがゲートボールに興じていた。以前に比べるとゲートボールファンは少なくなったと感じる今日この頃だが、動向がどうであれ、私にはまったく無縁の世界である。

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左岸に広がる畑。ここは旧流路?

 グラウンドの北側には人・自転車専用の「立野橋」が架かっていたが、それは無視して、その下流側にある「不動橋」まで進んだ。

 かまぼこ型の不動橋広場・グラウンドが尽きかけると今度は左岸側に写真のような畑が広がっていた。右岸側にしても左岸側にしても住宅はそれなりの高さの土盛りをした上に建てられている。広場や畑の形状から明らかなように、落合川はこの地点では激しく蛇行していたのだろう。土盛りは、曲流点での氾濫に備えてのことのはずだ。

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川の「怒り」を鎮めるための不動明王

 川は標高40m地点を流れ、広場・グラウンドは41・5m、その上の住宅は46mのところにある。一方、畑は川に近いところで41mだが北にゆっくり上昇して43m地点まで広がっている。

 畑の東側に空き地があり、その一角に写真の「不動明王像」があった。その名前から推察できるように、不動明王は「揺るぎのない守護者」であるので、湧水点のような地べたが不安定な場所に安置されていることが多い。水の神である弁財天とならんで、川辺ではよく見掛ける姿である。この周辺は曲流点かつ湧水点が存在するので、不動明王の出番は必至なのかも。

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お不動のすぐ近くにも例の標識があった

 不動橋下流左岸に、落合川ではすっかり馴染みとなった湧水点標識板があった。

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導水管から流れ出る豊富な湧水

 ここでは導水管を伝ってきた湧水が流れ込んでいた。この地点は標高40mだが、左岸の北側には標高46mほどの尾根が東西に伸びている。その尾根で涵養された地下水がこの地点にて顔を出している。急傾斜護岸が整備されているので、こうした導水路を使って湧水(地下水)抜きをする必要があるのだろう。

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暖かい日差しに親しむヒドリガモのペア

 不動橋下の湧水点を見物したので、今度は橋を渡って右岸側の遊歩道を下流方向に進むことにした。足元の流れにはヒドリガモのペアが日向ぼっこを楽しんでいた。

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都道234号線の新落合橋は落合川最後の車道

 写真の新落合橋は県道234線の橋で、落合川に架かる橋はあと一つ。ただし、その最後の橋である「下谷橋」は人・自転車専用なので、車が通れる橋としてはこの橋が最下流のものとなる。

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新落合橋下流の右岸側で立野川は本川に合流

  写真は橋のすぐ下流右岸側を撮影したもので、ここに立野川が流れ込んでいる。立野川は落合川の南側を300~400m離れて並走してきていたが、合流点の手前350mほどのところから流れの向きを変えて写真の地点で落合川と出会った。ただし、出会いの場付近は流路変更されているようで、周囲の地形から判断するに、かつてはもう少し下流側であったと推察できる。

 何しろ、この近辺では黒目川、落合川、立野川が一体化するので、水路調整は氾濫を防ぐためにも必至である。

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まもなく、右手の黒目川に合流する

 新落合橋から290m下流で、落合川は北側から下ってきた黒目川に合流する。黒目川が本流となるが、湧水点をより多く持つ落合川のほうが少しだけ流量が多いような気がした。

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黒目川から見た合流点

 写真は、黒目川側から見た落合川との合流点の姿。落合川の看板はもはやこの下流側には存在しない。

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合流点直下にある「神宝大橋」。ここから埼玉県

 水量の多寡によって合流点は異なるだろうが、合流点のすぐ下流側に写真の「神宝大橋」が架かっている。この橋を境に、上流側が東京都東久留米市下流側が埼玉県新座市となる。それでは、この橋はどちらの市に属するのだろうか?橋についての答えは、一休さんに聞くしかない。

 一休さんはきっと言う。「どちらか決めかねるときには真ん中を通りなさい」と。そして、橋の真ん中を歩く正直じいさんはドライバーに怒鳴られる。「端を通れ!」と。 

コロナ後に 落合川で 落ち合おう

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合川=ナガエミクリ。ナガエミクリ=落合川

 コロナ禍が継続中なので遠出は遠慮している。そのお陰もあって、落合川をじっくり観察することができた。透明度の高い川の植物といえば「バイカモ」を常にイメージしてきたが、落合川の各所で見られたナガエミクリの群生も、清水には相応しい水生植物であると認識を新たにした。

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カルガモチュウサギにとって落合川は格好の住処

 落合川は鳥たちにも良き住処であるようで、とくに白鷺の姿がよく見られた。そんな人間の想いとは無関係に、サギたちは首を長く伸ばして獲物を狙っている。人間たちは首を長くしてコロナの収束を待ち願っている。 

 

〔54〕東京郊外の清流~東久留米市・落合川の上中流部を訪ねる

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清流にたゆたうナガエミクリ

合川を初めて散策した

 東久留米市を訪れることはまずないのだが、市域を縦断することはそれなりにある。新小金井街道を北に進み、それから裏道を使って関越道・所沢ICに至るときにである。その際、市域の北辺を流れる「黒目川」を越えるのだが、同じルートを使う友人は、その川の名を「目黒川」と思い込んでいる。目黒川の桜があまりにも有名だからだろうか?

 目黒川の目黒は「四不動」もしくは「江戸五色不動」に因むが、黒目川は四不動とは無関係で、その川がかつて「久留米川」と呼ばれていたことによる(らしい)。「くるめ」は曲流する川を意味し(諸説あり)、福岡県久留米市では筑後川が蛇行し、東京都東久留米市では黒目川が蛇行している。

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合川は都県境(東久留米市新座市)で黒目川に合流する

 今回は清流を訪ねることに決めていたので、黒目川ではなく、その支流であり湧水点を多く持つ「落合川」に出掛けてみることにした。東京郊外にある清流として、その名はしばしばマスメディアが取り上げるためにその存在は知っていたが、その川沿いを散策するのは今回が初めてだった。

 ちなみに、黒目川は朝霞市田島付近で新河岸川に合流し、その新河岸川は荒川に合流するので、黒目川も落合川荒川水系一級河川であり、黒目川は荒川の二次支川、落合川は三次支川となる。

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澄んだ流れの中に繁茂する水草・ナガエミクリが落合川を代表する

 川の全長は3.6キロほどで、東久留米市内に収まっている。西武池袋線東久留米駅から近い(駅から川まで徒歩で10分以内)ためもあってか、近隣の住人ばかりでなくわざわざ電車を利用して散策目的でこの川辺に訪れる人も多くいる。とりわけ、清流を好む水草のひとつである「ナガエミクリ(準絶滅危惧種)」は落合川の象徴的存在で、この草たちが流れにたゆたう姿に接するためだけの理由で、遠方からはるばるやってくる人も数多くいるそうだ。

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両岸に遊歩道が整備されている

 写真から分かる通り、住宅街を流れる川なので、時間50ミリの豪雨にも耐えられるように両側は急傾斜護岸でほぼ整備され、流路は直線化されている。おまけに転落防止のためのフェンスが続いていることから親水性は低い。とはいえ、川中には多くの自然が残されており、流れる水の透明度は都市河川にしては十分に満足できるものなので、全般的な好感度は決して低くはない。

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「いこいの水辺」では直接、川の流れに触れることができる

 すべてがフェンスに閉ざされているわけではなく、写真の「落合川いこいの水辺」(次回に紹介)のように川辺に出られる場所は数か所あり、この日は近隣にある保育園からやってきたのだろうか、園児と引率者らが左岸の高水敷にて日光浴を楽しんでいた。

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湧き水の流れ込みが川を清める

 比較的平坦な場所を流れる川なので、源流点(標高55m)から合流点(標高38m)まで行き来するのはさして難しいことではない。遊歩道を移動しながら、湧き水の流れ込み点を探すのは、ここならではの大きな楽しみのひとつである。

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沢頭からの流れ込みはいっそう、水を清める

 落合川には近傍にある湧水点から小川(沢)がいくつも流れ込んでいる。上の写真はいくつかある沢のうちでもっとも湧水量の大きなもので、この流れは「沢頭」と名付けられている。この沢を辿ると「南沢緑地」に至る。こうした沢まで巡るとなると、それなりに移動距離は増えるので、一日ではとても川の全貌に触れることはできない。実際、私の場合は、この川には6回も訪れている。もっとも、一回に歩く距離が少ないだけなのだが。

合川の源流域を探る

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「はちまん橋」から源流点方向を望む

 川は山や池や湖から生まれるものが多いが、落合川の上流にはそうしたものは存在しない。武蔵野台地内で生まれ、台地の傾斜に沿って東方向に下り、同じような出自をもつ黒目川に合流する。こうした台地河川は何処が、そして何が源(みなもと)になっているのか興味津々であった。

 写真の「はちまん橋」は落合川の最上流に架かる短い橋で、地図によると、この橋の70mほど先に「上流端」があるらしい。右岸側の草むらには踏み跡があるので、私もそれを辿って上流に向かって進んでみることにした。

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ネコは案内役ではなかった

 上流端に近い場所にはネコが「かしこまって」いた。 上流端はもう少し先のようでもあり、右手に見える小さな谷頭(こくとう)のようでもあった。どちらが上流端であるのかネコに尋ねようと近づくと、そいつはどこかに去ってしまった。

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ここが上流端?

 直進した先の姿がこの状態。谷は埋まっていたが、それは自然の力によるものではなくて、ガラクタを詰め込んだことによる。

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このパイプの先が水の湧き出し口かも?

 写真は、右手に見えた小さな谷頭の姿。石標には東京都のマークがあり、「河」の文字も見えるので、このパイプの先、もしくはその下の窪みが源頭かも?ものの本によれば、落合川の源頭は近くにある八幡神社の境内下だと考えられるとあった。このパイプの先は八幡神社方向にある。ということは、ここが上流端かも。

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上流部の窪みを「はちまん橋」の南側から望む

 源流点の様子を探るため、さしあたり「はちまん橋」に通じている道を南に進んでみた。橋の南詰すぐの位置から緩い上り坂になっており、その坂はまだ少し続くのだが、道が曲がっているためにそれ以上進むと橋が見えなくなる。橋は標高54m地点にあり、撮影地点は57mだが、坂の頂点付近は標高59mの位置にある。

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合川の源流点があるとされる八幡神社

 一方、橋の北詰では少しだけ平坦な場所があり、神社の境内に至る階段付近から少し上る。階段下の標高は56m、本殿のある場所は58mだった。南北の標高58m地点間は100m近くあり、谷底低地(54~55m地点)の幅は50mほどもある。

 現在こそ水はほぼ流れていないか、あってもチョロチョロ程度だが、谷の形状を考えると、とても神社下から湧き出た水が、その谷を造ったとは考えられなかった。

 その疑問を解きほぐすため、上流端とされる場所の西側、つまり、ゴミが詰まった「上流端」の、さらにその向こう側の地形を探ることにした。

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上流端を西側から望んだのだが……

 写真は、上流端とされている場所の西側の様子で、右手のやや高い位置にある住宅と、左手の少し年季の入った住宅との間に「上流端」があるはずだ。残念ながら、その西側は工事車両を置くための駐車場として整地されてしまっているために、かつての地形は不明で、期待した窪地を見出すことはできなかった。

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所沢街道に残る窪地

 が、諦めるのはまだ早いので、さらにその周囲を徘徊してみた。写真の所沢街道に出てみると、その道路に窪みがあることが視界に入った。手前の信号機のところではなく、その先にある信号機付近が明らかに低くなっていることが分かった。撮影地点の標高は60mだが、その信号機のある丁字路は57mだった。

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街道の窪地から東を望むと……

 その丁字路に移動し、交差点から東方向を望んだのが上の写真である。所沢街道に突き当たる写真の道は少し下りながら東に進み、やがて左に大きく曲がっていく。その道の南側(右手)には都営の八幡町アパートが並んでいるが、そのアパートの敷地内に「楊柳川」が流れていることが知られている。その川は現在、すべて暗渠化されているので流れを直接に見ることはできないが、暗渠の上の多くは遊歩道として整備されているので、その流れの行く末を辿ることは可能だ。川は、東久留米市幸町2丁目付近で黒目川に合流している。

 交差点付近では川の存在はまったく確認できないが、都営アパートの西端では暗渠の存在は明瞭で、その場所の標高は55mである。そして、楊柳川が始まるとされる場所と、落合川の「上流端」との距離は180mしかない。その間に、八幡神社が鎮座しているのだ。八幡神社は両河川を守護する水の神なのかも。

 詳細な地図で周囲の等高線の位置を調べてみると、落合川の上流端(標高55m)の西側で標高60mのラインは西北西方向に進み、同じく、旧くからある宅地内の道路はその等高線の下を西北西方向に伸びている。一方、楊柳川の西端は西南西方向を目指しており、仮に両者の上流がもっと西方向に伸びていたと想定するなら、両河川は上の写真の丁字路付近で出会うことになるのだ。

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窪地を辿って西に進んだところにある「白山公園」

 そして、両河川の源流は同一のものであったと仮定し、その川は標高60mラインの下に沿って流れていたとするなら、川筋は写真の「白山公園」の低地まで遡ることができる。「白山公園」の由緒は不明だが、古い地図を見る限り、そこには細い川が流れ、周辺は湿地帯であったことが分かる。

 残念ながら、公園の南側には広大な「滝山団地」があって、かつての地形はまったく残っていないため、もはや川の流路を想定することはできない。ただ、滝山団地の南側には「大沼」の地名があり、その大沼町の西側には「柳窪」という地名がある。どちらも意味深な名称である。なお、落合川や楊柳川の親分格である黒目川の源流域は、その柳窪とされている。

 大胆な仮説を立てると、落合川と黒目川は元々一本の川であったものの、流量が減少したり、地形の関係などで2つに分かれることになった。黒目川よりやや南のルートをとった落合川?は東進し、八幡神社のある台地(幸町本町台地)にぶつかった際に2つに分かれ、小さな流れ(楊柳川)は台地のやや北に、本流はやや南に出て東進し、現在の落合川の流路を形成したと想像できる。

 黒目川は古多摩川の名残河川とされているが、落合川も上流端付近の谷幅の広さを考えると、古多摩川が残した流路をトレースしているという可能性もある。落合川流域の地形は複雑で、その根本は「向斜地形」によるという説もある。川はその窪みを利用して流れているというものだ。もちろん、武蔵野台地特有の「野水(のみず、雨後に現われる表層の水の流れ)」と湧水とが合体して水道(みずみち)を形成したという説もある。八幡神社下を源頭とするなら、この説に妥当性がある。さらに、上流端でネコに出会った縁という訳ではないが、私の大好きな「たまたま」そこに流れが出来たという説も捨てきれない。

合川の上流域を探索する

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「はちまん橋」の下には水が残っていた

 私の勝手な源流点探しはほどほどにして、これからは落合川の「流れ」を追ってみることにする。出発点はまたまた「はちまん橋」である。ただし、今度はその橋から下流に進むことになる。最上流域には水がまったくないか、あってもごくわずかなので、河原に入ることができる。

 写真から分かるように、橋のすぐ下流側の両岸には大きめの石が並べられて、水はその間を進むようになっている。今年の冬はとりわけ降雨が少ないために、それに比例して湧水も微量なため、橋の下の窪みに残っている水はやや白濁し、とても清水とは呼べない。それでもどこからか水は供給されているようで、その溜水からは少しだけ流出がある。とはいえ、それは野水のようで、いつ消えてもおかしくはない。

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左岸の高水敷から「はちまん橋」を望む

 少しだけ下流側に進む。流れが造ったと思われる溝に沿って大石が並べられているが、一部に幅を広げた場所がある。ここに水を滞留させようと熟慮したのだろうが、その甲斐はなく、中心部には泥が溜まり、水溜の役割は果たしていないし、この様子ではもはや果たせない。

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2番目の橋である「かわせみ橋」を下流側から望む

 写真は上流部から2番目の橋である「かわせみ橋」を見たもの。この橋の下にも窪みがあり、その部分には水が溜まっているものの、細い水路内に流れはなかった。

 写真から分かるように、水路は右岸側に急カーブしている。左岸側の高水敷のほうが高いようなので、流れは直進できずに右に曲流しているのだろうか。それとも、流れによって上流から泥が運ばれた結果、左岸側にそれが堆積したのだろうか?水の多い時期に再訪して確認したいと思った。 

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右岸側に残る曲流跡

 右岸側にカーブした水路は遊歩道を潜り抜け、その先にある護岸に沿って下流側にすすみ、再び遊歩道を潜って川筋に戻っている。写真の空き地は「八幡第一緑地」と名付けられている。護岸の上にさらに土盛りした場所に家が建っているので、この曲路はいにしえの流路であったに違いない。

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かわせみ橋と弁天橋間の川の様子

 写真は、八幡第一緑地の下端から30mほど下流の右岸から上流方向を望んだもの。右岸側に枯れた葦が多く残っているので、水が多い時には主に右岸近くを流路に選んでいるのだろう。その流路はもはや細い溝ではなく、より広く、しかし浅いものになっているので、低い水敷にも流れは及んでいるのかもしれない。

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川にはわずかばかりの水が残っていた

 そのことは、上の写真からも判断できる。水路は細い溝ではなくて適度な広がりを有し、少ない水量であっても周囲に湿地を形成するようになっている。

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弁天橋上から上流方向を望む

 3番目の橋である「弁天橋」のやや上流側の地点から撮影したのが上の写真である。右岸側に寄っていた流路は2つに分かれ、1本は左岸の下を潜り、もう1本は中央やや右岸寄りに進んでいる。

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左岸の外に流した水はこの場所へと進む

 左岸の遊歩道を潜り抜けた流れは写真の場所を下り、小金井街道の下をくぐって弁天橋の下流側で本川に合流する。小金井街道下に潜る手前から流れは見えなくなるが、街道を潜り抜けて東久留米中央郵便局の北側を通過してから本川の左岸側で顔を出している。

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弁天橋のすぐ上の右岸側に湧水が流れ込んでいる

 弁天橋の5mほど上流の右岸側から、パイプを伝って湧水が流れ込んでいる。上にある大きな穴は排水を流し込む導水路の出口のようだが、この地域は下水道の整備が完了しているはずなので最近では使用されていない(と思う)、雨水は別にして。

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湧水点のある場所には写真のような標識が掲げられている

 写真の標識は、落合川ではお馴染みのもので、湧水点がある場所には必ず同じものが掲げられている。この標識を見つけると、私は必ずその直下を覗き込む。転落防止柵は、私のような者にはとてもありがたい存在である。

 最上流付近には写真のようなフェンスはないが、急傾斜護岸で両側を整備され始めた弁天橋上流付近からは、こうしたフェンスが、遊歩道と流路とを分かつている。高さは70~100センチほどなので、流れや湧水点を覗くにはさして不便ではない。 

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湧水が造った流れではカルガモが餌を探すために泳ぎ回っていた

 流れが生まれると小魚や底生動物が集まり、それらを求めて鳥たちが集まる。湧水点のすぐ近くでは2羽のカルガモが餌を探していた。

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弁天橋下に流れ込む湧出した水たち

 弁天橋の下には写真のような柵が施されている。橋の下に私のような人間が住み着くことを排除するためではない。上流側には流れがほとんどなく、それゆえにゴミや枯草、枯れ枝などが溜まりやすく、それらが大雨の際に下流側に流れ込んでしまうことを防いでいるのだろうか。残念なことではあるが、実際、河原にはレジ袋、ペットボトル、空き缶・空き瓶などが結構な数、捨てられていた。

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小金井街道上から弁天橋の欄干と上流側の景色

 弁天橋は小金井街道に架かっており、かつて、私はこの橋を何度となく通っていたのだが、川や橋についての記憶はほとんどなかった。が、この場所近くで道は少し下り、その先で少し上るということ、道の曲がり具合などに関しては意外にもよく覚えていた。橋も道路の舗装も周囲の景観も変貌しすっかり新しくなっているにも関わらず、道の記憶だけは確実にあった。

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弁天橋下流側の床止め

 弁天橋下流側には、豊富とはいえないものの水は途切れることなく存在していた。上で触れた湧水のお陰である。中流下流には「落差工」があるが、上流域ではここにだけ床止めが施されていた。大雨の際、この場所へ右岸側から周辺に降った雨水を集めて流し込むため、川床が荒れることを防ぐための工夫らしい。

 落合川は湧水だけを集めた川ではなく、ときには雨水も飲み込むことになる。都市河川の宿命ではあるが、それでも高い透明度を維持しているのは、やはり多量に流れ込む湧水のお陰である。それは、中流域でとくに顕著になる。

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小金井街道沿いにあるお地蔵様

 川面の標高は53mほど、橋は54mほど、写真の「坂の地蔵さま」は55m地点に立っている。弁天橋の南詰は三叉路になっており、その又の間にお地蔵さまは造立されている。建屋や台座は比較的新しいようだが、お地蔵さまは1768年に造られたものだそうだ。子供の夜泣きによく効くそうで、地蔵が着ている服を借りて子供に着せ、そのお礼として新しい着物を作ってお返しするらしい。

 傍らの千羽鶴には、コロナの終息を願う、強い思いが込められている。

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「まろにえ富士見通り」の窪地に御成橋がある

 弁天橋南詰から280mほど南の「前沢北交差点」で小金井街道と枝分かれした写真の「まろにえ富士見通り」は、西武池袋線東久留米駅西口まで通じている。1994年に完成した比較的新しい道で、私は今回、初めてこの道を利用した。

 前沢北交差点の標高は59m、撮影地点は58m。坂を下って横断歩道のすぐ先に4番目の橋である「御成橋」がある。その標高は52mで川は51m地点を流れている。その先は上りになっているが、写真に写っている先端部分は54mなので、川の南側(右岸側)が高く、北側が相対的に低い。

 落合川周辺の地層では、第一帯水層は地表から4~6m下と考えられている。ローム層下部の難透水層上に帯水していると思われ、水量は少ないものの一定の雨量がある時には自由地下水としてゆっくり移動しているため、難透水層が露出している場所では湧水となって地表に現れる。そのひとつが先に挙げた弁天橋上流の湧水点である。河川整備で流路変更されているために現在では導水パイプで川に導かれている。

 写真の右端に写っている緑色のフェンスがある場所にはかつて「弁天池」があった。その池も、湧水を集めてできたものだろう。

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弁天池があった場所は釣り堀になっている

 弁天池があったとされる場所は現在、釣り堀(弁天フィッシングセンター)になっている。撮影した日は定休日だったので中に入ることはできなかった。一部の資料によれば、弁天池を落合川の源流点とするものもある。

流れを追って中流域へ移動する

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御成橋から上流方向を望む

 「まろにえ富士見通り」を下って「御成橋」にでた。写真は、橋上から上流方向を望んだもので、弁天橋が見て取れた。護岸が高めなのは氾濫防止のためだろう。

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御成橋下流の右岸には自然堤防が残っている

 御成橋から下流方向を眺めたのが上の写真で、右岸側には「自然堤防」が残っているようだ。

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右岸の自然堤防付近は親水広場になっている

 その自然堤防の場所に移動した。左岸側は高めの垂直岸壁になっているが、右岸側は旧流路の形を残したようでもあり、人工的に盛り土を施したようでもある。この場所には自由に入ることができるので、川の水に触れることが可能だ。

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親水広場の低水敷の造形

 低水敷の場所を広くとってあるので、上流で雨水を流し込んだときに一旦、ここで流れを緩やかにするための工夫なのかもしれない。そもそも、かなり広めで、かつ水に親しむことができる場所であるにも関わらず、とくに○○広場といった名称は付けられていないようだ。私が気付かなかっただけかも知れないけれど。さしあたり、私は「親水広場」と呼ぶことにした。

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左岸の垂直護岸からは湧水が流れ出ている

 親水広場の左岸側の垂直護岸にも湧水点があった。写真では分かりづらいが、上流からの細い流れが護岸に当たっている場所あたりである。

 また、右岸にも僅かではあるが、湧水が流れ込んでいる場所がある。2人の少年が立っているその前方である。

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護岸脇から湧水が流れ出ている

 右岸の護岸の脇から湧水が滲み出ているのが見て取れる。護岸下の土が湿っていることや、水面にできている波紋でその清水の存在が確認できると思うが。 

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地蔵橋から上流方向を望む

 親水広場の下流側に地蔵橋がある。向かいに見えるのが御成橋である。

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地蔵橋下流の右岸側には弁天池からの?湧水が流れ込む

 地蔵橋下流の右岸側に小川のような流れ込みがある。この小川の水は何処から来たのかは不明だ。40mほどしかその姿を見せていないからだ。

 とある地図からは以下のように判断される。それは本川から来たもので、上の親水広場は右岸側が大きく湾入しているのだが、その湾入の形はかつての流路を現わしており、現在でも本川の一部が旧流路に流れ込んでいるのだが、暗渠化され土盛りされてしまったために合流部の一部しか姿を見せていないというもの。ただし、右岸側には「旧流路」へ流れ込む姿を見出すことはできない。出口はあるが入口はない、というのも変である。

 別の説では、弁天池(現在の釣り堀)の水が伏流水となって旧流路に流れ込んでいるというもの。こちらの説が有力なようだ。

 が、私は第3の説を勝手に考えている。この小川の本川との合流点の標高は49mほどだが、右岸の南側は高台になっており100mほど離れた場所の標高は57mある。弁天池のところで触れたように、この周囲の第一帯水層は4~6m地点にあり、さらに第二帯水層は7.5~12mほどとされている。また、落合川中流域では武蔵野礫層の厚さが24mほどある(一般には5~10m)と考えられており、その分、ローム層は薄いために礫層中の帯水層はより上位にあると推測できる。つまり写真の小川は、ローム下位、ならびに礫層上位の自由地下水がこの川の上流部で湧き出し、ここに導かれているのではないか?まったくの素人判断なので違っているかもしれないが……正解は湧水に尋ねてほしい。

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上の写真の元をたどると

 写真の上流部は暗渠になっているので源流部までたどることはできないが、それなりに透明度が高い水なので、湧水がその正体である蓋然性は相当に高い。

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神明橋南詰に立つ庚申塔と供養塔

 小川の流れ込みから40m下流に進むと神明橋があり、その南詰に写真の庚申塔と供養塔がある。ともに18世紀に造立されたものである。このうち供養塔は、かつての落合川には石橋が架けられており、その安全を祈願するために造立されたようだ。花は手向けられていなかったが、この小さな塔たちのために敷地はしっかり整備されているので、この地では重要な存在であるのは確かなようだ。

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いつも行動を共にしている?チュウサギコサギ

 神明橋の上流では本川と先に挙げた小川との合流点があって自然が豊かなこともあって小魚の姿が多く見られた。この場所が縄張りなのか毎度(といっても3回だけだが)、餌を探している姿を見掛けるチュウサギコサギがいる。もっともその2羽がいつも同じ個体だとは限らないが。

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私がしつこくカメラを向けるので飛び去ってしまった

 私はしばらくそいつらの姿を追いかけていた。あまりにもしつこいと思ったのか、チュウサギは飛び立ち、といって遠くには行かず、橋の下流側に移動していった。

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いつも?神明橋上流にいるコサギ

 そのチュウサギといつも行動を共にしている姿を見掛けるのが写真のコサギ。くちばしも脚も黒いが、足の指だけは黄色い。もしかしたら、水が冷たいので黄色いブーツを履いているのかも?

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コサギが小魚を捕らえる瞬間!

 そのコサギが小魚を捕らえる瞬間を撮影してみた。慎重に、あるいはノロノロ水草の中に隠れている小魚を物色しているのだが、いざという刹那はやはり素早い。もっとも、このときは捕獲に成功したのかどうか、それを確認することは忘れてしまった。

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神明橋を下流側から眺める

 神明橋の下流側に移動した。小川からの流れ込みがあったためもあり、水量は徐々に増しつつある。チュウサギは、いつもの場所をよほど好いているのか、私が下流側に移動すると再び上流側に移動し、適度な距離を保ちつつ、チュウサギコサギは餌探しを再開していた。

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右岸の南方向に「ひょうたん池」がある

 神明橋の下流60mほどのところで落合川は旧流路と新流路とに分岐するのだが、その分岐点に至る直前の右岸側に写真の場所がある。ここも広くはないが川辺に出られる場所があり、その南側に、南北に細長い公園が整備されている。写真から分かる通り、その先は高台になっている。

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ひょうたん池周辺は「神明山公園」として整備されている

 細長い公園(神明山公園)の南端に、写真の「ひょうたん池」がある。底には泥が堆積しているのであまり綺麗には見えないが、小魚が数多く泳いでいる姿は視認できる。この池の標高は50m。川は49mなので高い位置にあるという訳ではない。

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神明山公園の南の高台にある「中央第六緑地」

 ひょうたん池のすぐ南側にあるのが、写真の緑地。「中央第六緑地」と名付けられているものの、かなり狭い公園で、しかもその大半は写真の池が占めている。公園の標高は51mだが、その南側にある住宅地は54~55m地点にある。宅地は新しめなので、以前は自然の林か森だったのだろう。それらが蓄えた水が湧水となって2つの池に水を供給していたのだろう。宅地化されたために地下水が減少し、結果、上部の人造池は涸れ、ひょうたん池も往時の姿は留めていない。

 細長い公園として整備されているのは、かつてそこには小さな沢があり、地盤が弱いために宅地にはならなかったからだろう。そして、フェンスのない右岸の空き地が、沢の流出口になっていたと考えられる。 

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川は一旦、旧流路と新流路とに分かれる

 右岸側には神明山公園に流れていたと思われる沢の流入跡があるが、ほぼ同じ場所の左岸側では写真から分かるとおり、旧流路は左手に逸れ、新流路が直進している。

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南神明橋Ⅱから分岐点を望む

 その分岐点を下流にある「南神明橋Ⅱ」から見たのもが上の写真である。左手の白い建物の向こう側に神明山公園があり、右手に旧流路が遊歩道の下を潜っていく姿が見える。

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流量は旧流路のほうがやや多めか?

 旧流路と新流路との間には個人住宅が立ち並び、旧流路の左岸側には都営中央町アパートが並んでいる。住宅地沿いの土留めはかなり簡素なものなので、大水の際に流されてしまわないのだろうか?

 水量が少ないときには旧流路が主流になるが、大水の際には直線化された新流路が主流になるはずなので多分、心配は不要なのだろう。

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南神明橋Ⅲの下流側で両流路は合流する

 南神明橋は3本並んでいて、上流から順に「Ⅱ」「Ⅰ」「Ⅲ」となる。その南神明橋Ⅲの下流側で旧流路は新流路に合流する。写真の左が旧流路の流れなのだが、心持ち旧流路のほうが水量は多いように思える。元来、川が旧流路を流れていたのは、地形的にそれが自然だったからである。川の南側には高台がある反面、旧流路の北側はほぼ平面になっており、明らかに川は低いほうへ好んで流れていく。

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合流点から運ばれた泥が不思議な形を生み出す

 新流路と旧流路との分離は250mほど続いており、合流後は水量によって流れの圧が微妙に変化するためか、写真のような不思議な流路をとって進んでいく。こうした景観は170mほど続くのだが、前述したように南側は高台になっているために川面は日陰になってしまうので、写真では、その興味深い姿を今ひとつ表現できていない。ただ、写真撮影が下手なだけなのだが。

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合川水生公園は蓮の花で知られている(らしい)

 合流点から200mほど下流側に「こぶし橋」があり、その橋の北側に写真の「落合川水生公園」がある。冬場は単なる小さな沼だが、ここにはハスが多数植えられるので、夏の開花期はとても見事とのこと。池の周りも多種多様な草花で飾られるそうだ。

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水生公園の南側に架かる「こぶし橋」

 こぶし橋は人か自転車の専用橋。南側の高台から下ってきたところに架かる橋なので、写真のような注意書きがある。何しろ橋のすぐ先には遊歩道があり、そこにはジジババが大勢、散歩に訪れているのだから。

 ちなみに、南神明橋Ⅲからこぶし橋のひとつ下の宮下橋の間の400mほどは、右岸側には遊歩道がない。これはもっぱら、右岸側には高台が迫り、そこには川の近くにまで住宅街が整備されているためによる。

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水生公園のそばにある小さなお地蔵様

 こぶし橋から今回の終点である毘沙門橋の間、左岸側には遊歩道と川辺の間には緑地帯がある。川辺の近くにはいろいろな野草が植えられているため、立ち入りは禁じられている。ただし、注意書きの看板はあるものの、とくにフェンスなどで仕切られているわけではない。しかし、その場所に入り込む人の姿はなかった。皆、倫理的なのか、それとも今は草花の姿が皆無だからなのか理由は不明だが。たぶん後者だろう。

 そんな散策路の一角に、写真のごく小さなお地蔵さまがあった。ブロックで守られているが、そのブロックの大きさと比較すれば、そのお地蔵様のサイズは分かると思う。

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左岸広場から宮下橋を望む

 管理下にある左岸の高水敷の向こうに見えるのが「宮下橋」。名は体を表し、南詰の高台には「南沢氷川神社」がある。

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宮下橋南詰の高台にある「南沢氷川神社

 南沢氷川神社は落合川の守り神であるのだろうが、鳥居も本殿も落合川を背にして南を向いている。鳥居の南側には南沢緑地の湧水群から集まった「沢頭」の流れがある。その沢の清流こそ落合川を象徴する存在だからだろうか?

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氷川神社は落合川とその湧水群の守り神である

 神社の創建年は不明らしいが、古文書によれば、在原業平東下りの折に南沢に宿を求め、その際に社前に立ち寄ったとのこと。ここで業平は、落合川で暮らす都鳥ならぬ白鷺(コサギチュウサギ)に言問をしたのだろうか?「わが思う人はありやなしやと」。もっとも、相手はサギなので本当のことを言うかどうかはわからない。

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南沢緑地から流れ込む湧水

 南沢緑地の湧水群から集まった清流は、毘沙門橋の右岸上流側に流れ込んでいる。この清流と氷川神社のお陰?で、この辺りの水が、落合川ではもっとも透明度が高いように思えた。

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毘沙門橋から上流部を望む

 毘沙門橋から上流部を眺めたのが上の写真で、左手(右岸側)は「落合川水辺公園」として整備されている。ここにもいろんな種類の植物が植えられている。

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湧水の流れ込みは本流の水を澄ます

 湧水群からの流れ「沢頭」の水が本川に流れ込む地点を上から眺めてみた。清流を受けてナガエミクリは嬉しそうに揺らいでいた。

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放流されたコイと在来種のアブラハヤ?の群

 毘沙門橋の下流側には落差工があるためか、その上流部には流れの緩い場所があり、放流されたコイが数匹、泳いでいた。その背後には数多くのアブラハヤやモツゴ(クチボソ)の姿もあった。
 放流種と在来種の混在。これもまた、落合川を象徴する景観かもしれない。

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 次回は湧水群と落合川下流部を訪ねます。