徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔85〕よれよれ西国旅(5)再び徳島、そして高知へ~龍馬には会わなかったけれど

◎別格本山・箸蔵寺に初参詣

箸蔵寺まではロープウェイを利用

 金刀比羅宮への参詣は早めに挫折してしまったので、予定が大幅にくるった。当初はこんぴらさんで大半の時間を費やし、その後は一気に南下して徳島県に入り、国道沿いにある名勝にいくつか立ち寄りながら高知城近くにある予約済みの宿に入るつもりでいた。ところが、大半どころか一時間も経過しないうちに階段から「拒絶」されてしまったため、別の訪問場所を探すことになったのである。

 国道319号線を南に進んでいるとき思い出したのが吉野川左岸の山中にある「箸蔵寺(はしくらじ)」であった。ここは空海金毘羅大権現から「箸を挙(あ)ぐる者、我誓ってこれを救わん」という神託を受けた場所とされている。「箸を挙ぐる」というのだから人間一般を指すのだろう。ということは、この時点ではまだ、「山川草木」は救いの対象になっていなかったと推察できる。

 そこで空海は自ら御神像を彫って本尊(秘仏)としてこの寺を開基したという。こうした由来から、ここは「こんぴら奥の院」として位置づけられ、多くの人が参拝するようになった。

 本家の金刀比羅宮を参詣できなかったダメ人間でも、この箸蔵寺であればロープウェイが麓から寺まで通じているので境内に上がることは可能なのだ。

 ここは八十八か所霊場には属さず、四国別格二十霊場の十五番に位置付けられているため、今までその存在は知っていても訪れることはなかった。それが今回は、自分への言い訳のための良き場所としてその存在に気付いたので訪ねてみた次第である。

駅近くの中門

 ロープウェイ登山口駅の標高は158m、箸蔵寺駅は502mの地点にある。比高は344mもあるが、歩く必要がないために楽して上がれる。

 写真の「中門」は駅からすぐのところにあり、中に見えるのは本坊だ。

護摩殿

 写真の護摩殿は本坊のすぐ右隣にある。屋根の一部が崩れる危険性があるためか、金属の柱で支えている。

本殿に至る階段の始まり

 護摩殿の横に階段があり、この階段を上った先に本堂がある。写真にあるように、この階段は「般若心経昇経段」と名付けられ、一段に一文字が記されている。般若心経は266文字から成るお経なので、階段は当然のごとく266段ある。

般若心経の文字数と同数の長い階段

 こうして階段を見上げてみると結構な長さと高さがあるが、あくまでも自分のペースで上がれば良いので、この程度ならどうにかなるさ、と自分に言い聞かせた。やはり山にあるお寺は、たとえロープウェイや自動車を使って上がっていっても、最後にはそれなりの高低差のある場所を歩くことは覚悟しなければならないのだ。

 ちなみに、階段のスタート地点の標高は504m、本堂は549mなので、比高は45mということになる。

薬師堂

 階段を3分の2程度上がったところの右手に、写真の「薬師堂」があった。お堂の左手には、写真では分かりづらいが修行大師像もあった。

 薬師堂をお参りすると病を治癒してくれるとのことだが、どうやら私の「なまけ癖」までは手に及ばないようだった。

御本殿(本堂)

 階段を上がり切った正面に、写真の「御本殿」があった。ここでは本堂とは呼ばないようだ。本坊や護摩殿、薬師堂などと並んで国の重要文化財に指定されている。

御本殿を横から眺める

 正面からではその立派さはさほどに感じられないが、写真のように斜め横から見ると、その装飾の豊かさにしばし目を奪われることになる。何事においても、視点を変えてみるということは重要な所作なのである。

御影堂をのぞく

 他に誰もいないのを良いことに、御影堂の中をのぞいてみた。規模は小さくとも装飾は美しかった。しかし、信心もなくのぞき行為だけを続けていると大師から説教を受けるかもしれないため、早々にこの場を離れた。

鐘楼堂

 般若心経の階段を下りる途中で写真の「鐘楼堂」に立ち寄った。ここの鐘は綱を引っ張ると鳴るそうで、御本殿に行く前に鳴らすことになっているとのこと。帰りに鳴らしてはいけないのだとのことだった。

 なお、この鐘楼堂も重文に指定されている。

仁王門

 一応、おおよその場所は訪問したので、ロープウェイ駅に向かった。運良く、発車時間の直前だったために待たずに乗ることができた。

 写真は車内から見た「仁王門」の姿である。歩き遍路であれば当然、この立派そうな門をくぐることになるが、ロープウェイ利用者は車窓から眺めるだけだ。もちろん、中には山を少し下って見物に行く人も存在するとは思うが。

眼下を流れる吉野川

 眼下には吉野川の姿があった。この辺りだとまだそれなりの川幅を有しているが、次に立ち寄る「大歩危」付近で川相は一変する。

大歩危で大ボケに気付く

大河の上流部

 三好市池田町と言えば、かつて甲子園を沸かせた「池田高校」があるところ。「さわやかイレブン」「やまびこ打線」「蔦文也」「水野雄仁」の言葉や名前を聞いて懐かしさを覚える人はかなりの年配者である。

 その池田高校がある辺りで吉野川は流れの向きを南北に変える(正式に言えば北に流れていたものが東に向きを変える)と同時に、川相もゆったりとしたものから渓流相に変化する。

 最初に姿を見せるのが「小歩危」、つぎが「大歩危」となる。写真は「大歩危」の姿で、ここはまだ流れはさほどきつくない。

荒瀬をカヌーで下る

 しかし、さらに上流部に進むと荒瀬が続く場所になってきた。そこで路肩に車を停めて、しばらく川を眺めていると、激流をカヌーで下る姿が目に入ってきた。

見事?に転覆

 それまで激流を順調に下ってきたが、ここで見事?に転覆した。

そのまま下流

 カヌーは逆さになったまま下流へと進んでいった。

仲間に無事、救助される

 が、流れがやや緩やかになった場所で起き上がり、同時に仲間のカヌーが救助の手を差し伸べていた。わざわざ厳しい流れを選んで下るので転覆は日常茶飯なのだろうが、相当に危険なのではないかと思いながらも、興味深い場面に遭遇できて運が良かったという気持ちを抱いたのも事実だった。

 というような光景に触れたことで撮影を終え、近くにある道の駅に車をとめてしばしの休息を取ることにした。

 が、なんとその時、車のメインキーをどこかに落としたことに気付いたのだった。ポケットに入っているはずのキーが見当たらないのだ。実に「大ボケ」である。予備のキーはカメラバッグの中に入れていたために、ドアを開けたりエンジンを掛けたりする場合は何も問題はなかったので、箸蔵寺を出発するときや路肩に停めて大歩危を覗く時には、キーを落としたことには気付かなかったのだった。

 落とすことがないはずのものを落としたということは、ポケットの中身をすべて外に出したということに他ならない。そうした場所はひとつしかなかった。それは、箸蔵寺境内にあった古いトイレの中である。

 そのトイレは1960年頃には当たり前のようにあったと思しきもので、便器の中に物を落としたらすべて沈没してしまうといった形式のものだ。それゆえ、ポケットの中身をすべて外に置いてから用を済ませた。所用が済んでそれらを回収するときにキーだけ拾うのを忘れてしまった可能性が極めて高かった。

 私は電話をかけてロープウェイ駅の係員にその旨を話し、今から駅に戻ることを告げた。結局、予想通りトイレの中にあったようで、私が駅に着いた時分には、登山口駅まで届けられていたのであった。

 駅員の女性は「想像通りの場所にありましたよ」と私に言い、私はお礼と共に「場所が場所だけにウンが良かった」というと、周囲にいた駅関係者は皆、大笑いをした。

◎杉の大杉~日本一の大杉

大杉のある八坂神社の拝殿

 本来の予定では国道319号線から祖谷口を左折して、祖谷渓沿いを走る最高に景観の良い県道32号線を進んで東祖谷まで達し、念願の国道439号線(通称ヨサク)に移って落合集落近辺まで進む。そこでUターンをしてヨサクを西方向に進み豊永でR319号に戻るという計画を立てていた。

 それが金刀比羅宮で挫折したために、予定を変更して箸蔵寺に変更することになった。さらに、キーを落とすというヘマをしたために箸蔵寺ロープウェイに戻ることになるという無駄な時間を費やしてしまった。せめて「祖谷のかずら橋」ぐらいまでは訪ねようという計画すらも断念せざるを得なかった。

 結局、次の目的地は高知県大豊町にある日本一の樹齢を誇る「杉の大杉」となった。そこはR32号線沿いにあるので立ち寄りやすく、当初から予定していた場所だった。

 杉という字名の場所にあるために「杉の大杉」と呼ばれているが、そもそも字名の杉はこの大きな杉があることから名付けられたはずだ。

 大杉は八坂神社の境内に聳えている。まずは神社の拝殿で参拝してから大杉と対面するというコースになっているが、いつものように私の場合は、参拝せずに写真撮影だけ行い、それから大杉へと向かった。 

国の特別天然記念物

 大杉は須佐之男命が植えたという言い伝えがあり、樹齢は2000から3000年と言われている。国の特別天然記念物にも指定されている。

大杉に神宿

 写真から分かるとおり、2本の杉は根元で合着している。そのため「夫婦杉」の別名がある。南側の杉は周囲が20m、樹高は60m。北側の杉は周囲が16.5m、樹高は57mで、写真左側の南の杉の方が若干大きめである。

枝は八方に伸びる

 この杉を全国的に有名にしたのは美空ひばりである。彼女は幼い頃に大豊町へ巡業に来た際にバス事故に遭った。療養後に八坂神社を訪れ、大杉に「日本一の歌手になれますように」と願をかけたそうだ。実際に、日本一の歌手ともいうべき存在になったため、この大杉は「出世杉」という別名も有しているとのことだ。

 私には日本一を目指すものはまったくないし、実際、そうした能力は皆無だ。さらに言えば満足できる人間であるよりは不満足な愚者のままで良いような気がしている。J.S.ミルさん御免なさい。

複雑な形状の幹

 写真の通り、幹は非常に複雑な形状をしている。私がもし杉であったならやはりこうした姿であると思う。まだまだあれもしたいしこれもしたいと思うことがたくさんあり過ぎるからだ。そうした気分屋の点が凹凸を表している。少なくとも、一本、筋の通った存在ではないことだけは確かである。

高知城に上る

天守を見上げる

 まだまだ寄れる場所、寄ってみたい場所はいくつかあったが、予定外の行動が入ったことでいささか気疲れした。それゆえ、この日は高知城を最後の目的地とすることにした。そのため、大杉からすぐに高知自動車道に乗り、最短の時間で城に向かうことにした。

 それでも日が傾くのが早い時期だったため、高知城天守がやや西日に染まり始める時間になっていた。天守内に入る時間には間に合いそうになかったが、元々、上るつもりはなかったので何の問題は無かった。

高知と言えば山内一豊

 高知城は17世紀の初頭に山内一豊によって造られた。一豊は尾張国の出身で、父は信長の家臣だった。が、信長勢によって攻め込まれて討ち死にした。一豊は流浪の生活に陥り「ぼろぼろ伊右衛門一豊」と言われるほど窮していた。

 父の仇であった信長に仕官を申し入れ、与力として秀吉に仕えることになった。一豊は妻の支援もあってめきめきと頭角を現し、1585年に近江長浜2万石、90年には遠州掛川5万石の城主となった。さらに豊臣方から徳川方に移り、1600年には土佐一国を得たのだった。

追手門

 1601年に一豊は土佐国に入り、初めは浦戸湾に近い「浦戸城」に入ったが、周囲は湿地帯であったために不便だったことから、現在の高知城がある大高坂山(標高45m)に新城を築くことに決した。

 1603年には本丸、二ノ丸の石垣工事が完成し、一豊は高知城に移ることになった。その際、大高坂山を河中山と名を改めた。確かに、城の北には「江の口川」、南側には「鏡川」が流れており、それぞれ天然の要害になっている。

 写真の「追手門」は江戸時代からのもので、お定まりのように枡形虎口の形を成し、三方が石垣で囲まれている。

板垣死すとも自由は死せず

 城内には写真の「板垣退助」像があった。板垣(1837~1919)は自由民権運動のリーダーとして知られ、1882年に岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党時報)の言葉があまりにも有名だが、維新前までは主戦派のリーダーとして大活躍をしている。それでも、常に敵側(新撰組会津藩)に敬意を表して接しており、軍人としてだけでなく人間性も優れていたようだ。それゆえ、高知城内に板垣の銅像が建てられてことは、けだし当然のことと思われる。

一豊以上に知名度のある妻

 山内一豊を語る際に欠かすことができないのは彼の正室であった「千代」(見性院)の存在であった。「良妻賢母」の代表格として知られ、夫に馬を買わせるために持参金や「へそくり」を差し出したこと、築城監督の費用を捻出するために髪を売ったことなどがよく知られている。

 こうした言い伝えから城内には「一豊の妻」の像がある。それゆえ、逸話として最もよく知られている馬の鏡栗毛が、千代と並んで銅像に登場しているのだろう。

三の丸から天守を見上げる

 三ノ丸が完成したのは1610年のことで、これによって城の全城郭が整った。1727年に大火災がありほぼ全焼したが49年に再建され、それが現在まで引き継がれている。

詰門

 写真の詰門は、本丸と二ノ丸との間に架けられた櫓門で、一階部分は特別な場合を除いて閉じられている。ここは家老たちの待ち合わせ場所に使われていたこともあって「詰門」と名付けられた。

天守閣には多くの観光客が~展望は良さそう

 天守閣には多くの観光客が上がっていた。9時から17時まで有料で公開されているが、入場できるのは16時半までだった。私がたどり着いたのは16時35分だったために天守に上がることはできなかった。西日を受けてやや赤く染まり始めていた天守は美しさを際立たせていた。

 現存する木造12天守のひとつで、展望はかなり良さそうに思えたが、下の写真にあるように二ノ丸からの景色でも十分に満足できた。

 なお、手前に見える長い屋根は詰門のものである。 

二の丸から四国山地を眺める

 写真は二ノ丸から北東方向を望んだもの。遠くには四国山地の山々が連なっている。

坂を下ればこの日の旅は終わり

 この石垣を下れば追手門は近い。宿は車で数分のところにある。この日は想像外の出来事が勃発したためにかなりの疲労感があった。今晩はゆっくり休めると思った。

竹林寺・三十一番札所

山門

 竹林寺や牧野植物園がある五台山(標高145m)は山全体が公園になっており、多くの人々が様々な目的をもって出掛けてくる高知有数の名所である。

 五台山の本家は中国で、そちらは3000m級の山であり、文殊菩薩の聖地とされている。聖武天皇文殊菩薩に導かれる夢を見たことから、行基に対し、日本にも五台山に似た山があるかどうかを探せと命じた。その行基が発見したのが土佐にある山で、標高こそまったく異なるものの山容が似ていたのでここを五台山と名付けた。

 行基はこの地で文殊菩薩像を彫った。724年のことである。文殊菩薩像はこの地に安置されたがいつしかこの場所は荒廃してしまった。それを、大同年間(806~810)に空海がこの地に訪れて再興した。これが竹林寺として現在まで受け継がれている。

大師堂

 現在、竹林寺四国霊場の三十一番札所になっており、写真の大師堂は1644年に建造されたものである。

本堂(文殊堂)

 写真の本堂に秘仏文殊菩薩が安置されている。日本三文殊のひとつで、あとは京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊である。

 竹林寺では本堂とは呼ばずに文殊堂と呼んでいる。またこの寺の開基は行基文殊像を彫った724年とされているため、今年は開基1300年に当たる。それを記念して、4月中旬からから5月中旬の間、秘仏文殊菩薩が開帳されるとのことだ。

石仏と五重塔

 五重塔は1980年に再建された。古くは三重塔であったが1899年に倒壊した。鎌倉様式の塔は総檜造りで高さは31.2mある。中には仏舎利が収められている。

一言地蔵尊

 個人的にはこの「一言地蔵尊」が好みで、一言だけ願いを叶えてくれるのだ。もちろん、私の願いは「車のカギをなくさないこと」であった。この願いの有効期限は不明だが、少なくともこの時の旅では、これ以降に紛失することはなかった。ただし、帰宅後、別の車のカギを置き忘れたことがあった(数日後に見つかった)ので、やはり有効期限はあったのかも。もっとも、信仰心がない私にはただの偶然としか考えていないのだが。

老遍路が行く

 竹林寺からお隣にある県立牧野植物園に移動する際、写真の老遍路さんが階段を下りる姿を目にした。息子だか孫だかが手を携えている姿が印象的だった。この三人の遍路さんは大師に何を願ったのだろうか?

 いろいろな姿の遍路さんに出会い、一体、何のために霊場周りをしているのかを聞いてみたくなる時があるが(実際、何度か尋ねているのだが)、理由は様々であっても、共通するのは「心の平安」なのだろうか?

◎今年注目の県立牧野植物園を訪ねる

牧野富太郎

 竹林寺には夢窓疎石が造営した庭園があり、いつもはその場所を散策するのだが、今回は牧野植物園の徘徊に時間を掛けることにしたのでそちらは省略した。

 植物学者の牧野富太郎(1862~1957)は、現在の高知県高岡郡佐川町で裕福な商家の長男として生まれた。12歳の時に小学校に入るも14歳の時に退学。『本草綱目啓蒙』などを参考に独学で植物学を学んだ。

 22歳の時に東大理学部植物学教室に出入りを許されるも28歳の時に禁じられた。が、31歳の時に嘱託、そして助手として採用され、50歳の時に講師となった。65歳の時に理学博士、77歳の時に東大講師を辞任した。

 86歳の時に天皇に植物学を御進講、88歳で学士院会員となった。94歳の時、五台山に「牧野植物園」の設立が決定されたが、完成を見る前に翌年、94歳9か月で死去。植物園が開園したのはその翌年の1958年だった。

 この4月から、牧野をモデルにしたNHKの連続ドラマ『らんまん』が放映されるそうで、その効果もあってか、私が植物園を訪れたときにはかなりの観光客がやって来ていた。が、晩秋の時期だったために花の数は少なかったこともあり、多くの人は足早に植物園を通り過ぎ、五台山の展望台に向かっていった。

 なお、写真の牧野富太郎が手にしているのは「カラカサタケ」というキノコである。

牧野は多くの名言を残す

 牧野は多くの名言?を残している。写真の碑は「草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年」と書かれている。

 もっともよく知られている言葉は「雑草という草はない」だろう。これが彼の言葉であるという根拠は必ずしも見つかってはいないが、一番有力なのは、山本周五郎が雑誌記者だった時代に牧野にインタビューした際、「雑草」という言葉を口に出したときだった。牧野は山本に対しなじるような口調で「雑草という草はない。どんな草にだったちゃんと名前が付いている」と語ったという記録が残っている?とのこと。ただし、これも確証はないのだが。

 この言葉には二重の誤りがあると私は考える。ひとつは、草の名前は草自身が発したのではなく人間が勝手につけたものだという点だ。したがって未発見の草には名前はない。ふたつめは、牧野は「雑草」という言葉を下等の草だと判断している節が感じられることだ。

 確かに「雑」には精緻ではないという意味もあるが、「いろいろなもの」という意味もある。雑誌は「雑につくられた読み本」という意味ではない。実際にはいい加減な雑誌が大半であるが。それなら『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)はどうだろうか?プリニウスの『博物誌』に比肩されるほど諸事万般に渡った内容が織り込まれている。

 このことは以前にも触れたことがあるが、ともあれ、この牧野の言葉は、植物を愛する余りの勇み足、と解しておきたい。

 NHKのことだから、おそらくドラマの中でこの言葉を使うだろう。その時には笑ってやりたいが、残念なことに、私は連続ドラマはほぼ100%見ない。

ムサ・アクミナタ

 最初に温室を訪ねたのは、花が少ない時期だからという理由ではなく、竹林寺から植物園に一番近いのは南門で、その門から入ると温室を通ることになるからだ。なお、植物園の入園料は730円だが、その規模からいって決して高いものではない。

 最初に目についたのは写真のバナナの花で、マレー半島に自生しているとのこと。私たちが普通に食しているバナナの原種である。

インドボダイジュ(印度菩提樹

 ガウタマ・シッダールタ仏陀)はこの菩提樹の下で悟りを開いた。それゆえ、私もしばしこの木の下にいたが何も思い浮かばなかった。というより、仏陀は確かに悟りを開いたのだが、それがどんな悟りだったかはまったく不明である。仏陀は悟りを開いていない人たちにその内容を「諸行無常」「諸法無我」「十二支縁起」などの言葉で伝えただけで、本当のところは皆目分からない。それらの言葉も「方便」にすぎないかもしれないのだ。そもそも本当のことなど何も無いというところに仏教の神髄がある。

 それはともかく、印度菩提樹の学名は「Ficus religiosa」である。種名に「宗教」という言葉が含まれているところが興味深い。

ハナショウガ

 マレー半島原産の多年草。ショウガ科ショウガ属。高さ60から120センチで地下茎で増殖する。花序は初めは緑色で次第に赤みを帯びてくる。

フウリンブッソウゲ

 アオイ科ハイビスカス属の非耐寒性常緑低木。高さは2から3m。写真の通り、反り返った花びらと長い雄しべが特徴的。5から10月に開花する。日本では宮崎県以南で路地植えが可能で、沖縄県ではよく目にすることができる。漢字は風鈴仏桑花をあてる。

ガリバナ(サワフジ)

 熱帯・亜熱帯に咲く常緑高木。高さは8~15m。台湾南部、フィリピン、マレーシア、ミクロネシア、沖縄本土、八重山諸島などに多い。マングローブの後背や川沿いの湿地に見られる。

 ひとつひとつの花は一夜限りと短命。海や川にこの花が落ちて集まる姿は風雅であるらしく、日本ではこのサガリバナの見学ツアーが盛んにおこなわれているとのこと。  

シュウメイギク秋明菊

 アネモネの仲間だが半常緑の多年草だ。いわゆるスプリング・エフェメラルとは異なり、9~11月頃に咲く。中国原産だが、京都の貴船地区に持ち込まれ自生した。これをキフネギクというが、その改良が進んでいろいろな形の花を付けるようになった。現在では八重咲きのものに人気があるようだが、私は一重のものを好む。

 温室から出て最初に見つけたのがこの花で、しかも大好きな花のひとつなのでとても嬉しかった。

ダルマギクとサツマニシキ

 シュウメイギクに並んでダルマギクもよく咲いていた。花を見た感じではダルマを連想できないが、花を付けてない状態の時に茎が短くて全体がずんぐりむっくりしているところから名付けられたとされている。

 そのダルマギクに偶然とまっていたのが蛾(ガ)の仲間の「サツマニシキ」。私はこの美しいガをどこかで見たことがあったような気がしたが、名前はまったく分からなかった。蛾の図鑑でも分からなかったので、知人にメールして聞いたところ、サツマニシキと即答してくれた。

 日本では関西以西に生息しているので関東で見掛けることはまずない。私は西日本にもよく出掛けるので、そのときに見たのかも知れない。

 名前が分かるとネットで検索できる。「日本一美しい蛾」という表現がよく出て来た。蛾とはあまりお友達になりたくないが、この蛾であれば知り合い程度にはなってみたい。

◎浦戸湾をつなぐ渡船

渡船に乗り込む人

 鏡川の河口に当たる「浦戸湾」は奥行きがあって東西に移動するには大きく迂回する必要がある。自動車であれば「浦戸大橋」を利用すれば少し遠回りになるとはいえ、さほど面倒とは言えないが、歩きや自転車の人はとてつもない困難がつきまとう。

 そこで運行されているのが県営の渡船で、一般県道の弘岡種崎線の一部を成しているということで、人、自転車、125CC以下の小型自動二輪は無料で利用できる。

船の名は「龍馬」

 浦戸には観光地として有名な「桂浜」があり、そこでは大型の坂本龍馬像に出会うことができるが、個人的には桂浜自体はそれほど魅力的な浜とは思えない。「はりまや橋」ほどではないにせよ、期待を抱いて出掛けると「がっかり度」はかなり高いと思われる(札幌の時計台と同等ぐらいか?)

 それに比して、写真の渡船のある風景は桂浜より数段、趣きは上だと思うので、あえて桂浜には立ち寄らず、浦戸湾の渡船の姿をじっくりと眺めた。

 坂本龍馬像には対面しなかったが、渡船の「龍馬」号との邂逅は果たした。

対岸に向かう

 私がいるのは種崎渡船場で、船は対岸の長浜地区にある梶ヶ浦渡船場へと向かっている。575mの距離を約5分で結んでいる。一日に20便とそれほど多くは運行されていないが、住民にとっては欠かすことのできない「足」であることは確かだ。

対岸の船着き場は新川川の左岸にある

 船は新川川の左岸にある梶ヶ浦渡船場に向かって行く。私は一度だけ利用したことがある(ただ往復するだけの乗船だったが)が、今回は渡船場近くに空き地に車を停めたので乗船はせず、ただ岸壁から龍馬号の姿を眺めるだけにした。

 こうした短距離の渡船は私の好みのひとつで、本ブログでは浦賀港の渡船を紹介したことがあるし、4月には、もっともお気に入りの「尾道渡船」に乗る予定なので、いずれ紹介することになるだろう。

禅師峰寺(ぜんじぶじ)・三十二番札所

不動明王

 今回の旅は四国の東半分を廻るのが主なので、高知市から西には進まずに東に進路を取った。土佐湾沿いを東方向に進み、お気に入りの半島のひとつである室戸岬を目指すのである。もっとも、この日はそこまで到達せず、奈半利町に宿をとっていた。

 そこでまずは浦戸からさほど遠くない場所にある三十二番札所の「禅師峰寺」に立ち寄った。仁淀川鏡川が運んだ砂が堆積した海岸線の近くにあるにも関わらず、この寺の標高は84mある。境内は溶岩だらけなので、かつての海底火山が隆起して小さな丘を造ったのだろう。

溶岩台地の上にある寺

 溶岩の上や窪地にはいろいろな仏像が置かれている。写真のタヌキ像は比較的新しいもののようで、近年になって出家したタヌキなのかもしれない。

ストレチアストレリチア、極楽鳥花)

 南アフリカ原産の観葉植物だが花に特徴がある。日本では極楽鳥花と呼ばれているが、英名はバード・オブ・パラダイス。極楽とパラダイスではまったく意味が異なるが、その一方、極楽には本来的意味のほか、パラダイスのニュアンスで用いられることも多い。さぞかし阿弥陀如来は「極楽とんぼ」の奴らめ、とお怒りのことと思われる。

 日本の極楽鳥花の名はパラダイスとは関係なく、世界一美しい鳥といわれる極楽鳥の姿に似ているところから付けられたとされている。もっとも、あえて極楽鳥と和名を付けている点も本来の意味からすれば誤用と思われるが。

 この寺にこの花が植えられているのは、極楽を宗教的意味で解したことによると考えられるのだが。

本堂

 聖武天皇の命で、海上の安全を祈願するために行基が堂宇を建てたことがこの寺の始まり。その後、空海がこの寺を訪れたときに、山容が補陀落山の八葉の蓮台に似ているところから「八葉山」と号し、自ら十一面観世音菩薩を彫って納め「禅師峰寺」と名付けたとされている。

大師堂

 境内はこじんまりとしている。が、いろいろな岩があちこちに存在するので、岩好きの私としては見飽きることがない。

 小高い場所にあるため、桂浜方面の展望もなかなか美しい。

大師像と芭蕉の句碑

 この寺には松尾芭蕉の句碑があり、「木枯しに 岩吹きとがる 杉間かな」の句が書かれている。

神峯寺(こうのみねじ)・二十七番札所

山門

 土佐湾をさらに東へと進んだ。「高知龍馬空港」の南側を通り、国道55線に出会った。ここから国道は、土佐くろしお鉄道の「ごめん・なはり線」と並ぶかのように海岸線近くを走っている。山が海岸線近くにまで迫っているために鉄道も道路も海岸線を通らざるを得ないのだ。

 さらにいえば鉄道は高架になっている。この鉄道をあえて高架にしているのは、踏切をなくす目的というより津波対策という面がその理由かと思われる。

 阪神タイガースがキャンプをする場所としてよく知られている安芸市を過ぎ、安田町に入ると私は国道からも海岸線からも離れ、山の中へと車を進めた。急に山が恋しくなったという訳ではなく、二十七番札所である神峯寺(こうのみねじ)へ向かうためだ。

本坊

 境内は標高400~430mのところにあり、海岸線からの登り道はかなり急だ。それゆえ、道路が整備されたのも近年になってからのことで、以前はタクシーを利用しても急な山道を30分は歩く必要があった。

 現在では標高375mのところに駐車場が整備されているので、アクセスは案外、楽になったが、歩き遍路の人にとっては「遍路転がし」のひとつになっている。なにしろ、坂は急で、「まっ縦(たて)」と言われるほどの難所だったのだ。

 もっとも、道が整備されたとはいえ、幅はかなり狭く、九十九折れの急坂が続くため、対向車とすれ違うにはかなりの困難と注意を必要とする。

本堂への長い階段

 寺の起源は神功皇后の世に天照大神を祀る神社であったとされ、聖武天皇の時代に行基が十一面観世音菩薩を彫って納め、さらに809年、空海が「観音堂」を建立したという歴史を有する。

 写真のように本坊(標高401m)から本堂までにも写真のような急坂がある。比高は30mもないが、私のような怠け者にはかなりきつい階段だった。

 隣の安芸市には岩崎弥太郎の生家がある。弥太郎の母は息子の開運を祈願するために片道20キロ、しかも「まっ縦」の道を21日間、毎日裸足で往復したという逸話が残っている。

 母の願いが叶って弥太郎は三菱財閥を築いた。母や弥太郎にとっては運が開けたのだろうが、世の人々にとってそれが幸運だったのか不運だったのかは評価が分かれることだろう。

経堂(旧大師堂)

 写真の経堂はかつては大師堂に用いられていたが、新たに大師堂が建てられたため、現在では聖観音堂として「聖観音立像」が納められている。また、正面には「仏足石」が置かれている。 

本堂を参拝するお遍路さん

 正面から見る限り、本堂はかなりくたびれている様子だ。

本堂の全景

 が、この角度から見るとなかなか立派な造りで、神殿を思わせる雰囲気もある。

大師堂

 こちらが新しく建てられた大師堂。かつての大師堂は本堂と回廊で繋がっていたほど近くにあったが、現在のものは本堂とはやや離れた位置にあり、しかも本堂よりも高い位置に存在する。

土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり」線・唐浜駅

 写真の唐浜駅は神峯寺の最寄り駅。標高は11mのところにあり、境内までは3900m、比高は420m弱と、たとえ鉄道利用であっても結構な時間と体力を必要とする。私にはとても真似はできない。

 次の目的地に行く途中、何気なく駅を振り返り見ると2人のお遍路さんが列車待ちをしていたので、車を路肩に停め、駅まで歩いていって列車を待つ姿を撮影することにした。時刻表を確認するとほどなく列車が来る時間だったので、ホームにて到着を待った。翌日は「ごめん・なはり線」という興味深い鉄道なので乗車を試みる予定でもあったからだ。

 ところが、冒頭の写真にあるように、車両は土佐くろしお鉄道のものではなく、相互乗り入れをしているJR土讃線のものだった。しかも後で調べて判明したことだが、奈半利駅まで乗り入れているのはすべてJRのものだということが分かった。という訳で翌日の乗車は断念した。

高知行きに乗り込むお遍路さん

 このお遍路さんは高知行きに乗車するのだから、順打ちだとすれば「野市」駅で降りて二十八番の「大日寺」に向かうのだろう。

◎モネの庭・マルモッタン

モネの池

 北川村は中岡慎太郎の出身地で、生家や記念館が公開されている。中岡慎太郎の面影を追うために北川村に立ち寄ったのだが、その途中に「モネの庭・マルモッタン」があることを知ったので見学してみることにした。

 モネは人生の多くを庭づくりにかけていたが、その「モネの庭」を再現してその名を用いることができるのは、北川村にあるこの場所が世界で唯一とのことだ。

 敷地は3万平米あり、モネが1890年から1920年代にかけて庭づくりに勤しんだその姿を、とくに『睡蓮』に主眼をおいて「モネの池」を再現している。

 写真は、この公園の代表的な池で、確かに睡蓮をテーマにしたモネの一連の作品群の中にありそうな姿ではあった。

ボルディゲーラの池

 一方、高台には「ボルディゲーラの庭」も「再現?」されている。1883年12月にモネはルノワールとともに地中海沿岸をマルセイユ、サンラファエル、モンテカルロ、さらにリヴィエラのボルディゲーラと旅をした。84年の1月からはそれらの中でもっとも気に入ったボルディゲーラを一人で旅し、多くの作品を残した。

 そこで、この「モネの庭」では一連の作品からヒントを得て、ボルディゲーラの庭を作成した。個人的にはその庭の良さを理解できなかったが、敬意を表するために池だけを撮影し、上のように「ボルディゲーラの池」として紹介してみた。

 今までだったら「モネの庭」という言葉にはほとんど反応を示さなかった私だが、大塚国際美術館で絵画への関心が高まってしまったため、入場料1000円を払って見学してしまった次第である。

中岡慎太郎に出会う

中岡慎太郎

 幕末の志士を一人だけ挙げよという質問が成された場合、大半の人は坂本龍馬の名を挙げるのではないか?実際、桂浜の一等地に巨大な坂本龍馬像があることからもその人気の高さをうかがい知ることができる。

 坂本龍馬の人気が高いのは、その多くは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響ではないかと個人的に思っている。ただ、この作品の竜馬像には誇張された部分、史実に反する部分が多いとの批判がよく挙がる。しかし、あくまでもこの作品は「娯楽小説」なのであって、歴史学の論文ではないのだから素直に楽しめば良いと思うのだがどうだろうか?

 史実に少しだけ忠実であろうとするなら、坂本龍馬がおこなったとされるいくつかの出来事は、実は中岡慎太郎によるものである。その代表が薩長連合、薩土密約、大政奉還で、いずれも坂本龍馬ではなく中岡慎太郎が主導したとの説が有力になっている。

慎太郎の生家

 中岡慎太郎は1838年に北川郷の大庄屋の長男として生まれた。武市瑞山(半平太)に剣術を学び、武市が組織した土佐勤王党に加わっている。学問熱心で、久坂玄瑞と共に松代へ行き佐久間象山と議論を行っている。

慎太郎像

 下関戦争で長州が英・米・仏・蘭に敗れるのを目の当たりにしてからは、攘夷派から開国による富国強兵策に転じ、薩長同盟の実現を目指した。また、乾退助(のちの板垣退助)を京に呼び寄せて西郷に面会させた。

 1867年11月15日に近江屋事件が起き、坂本龍馬とともに暗殺された。中岡は2日間生き延び、谷干城に襲撃の様子を詳細に語り、香川敬三に岩倉具視への伝言を託した。

 後に板垣は、中岡慎太郎は人柄も立派であり、西郷や木戸孝允と肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた、と語った。

 また見識、手腕、弁舌、剣術のいずれも、はるかに坂本に勝ると、後世に田中光顕は語っている。また、三条実美岩倉具視を結びつけたのも中岡の業績だとも語っている。

 モネの庭には大勢の観光客が集まっていたが、中岡慎太郎館を訪れていたのは私ひとりだけだった。ことほど左様に、中岡慎太郎への注目度は低い。残念なことである。

〔84〕調子はどうですか?銚子はいいですよ!!

初めて銚子電鉄に乗った!

落陽を受けて赤く染まる犬吠埼灯台

銚子電鉄に乗る

銚子駅舎を望む

 銚子市には何度も足を踏み入れていたが、この地を目的として出掛けたことは一度もなかった。日本一の取り扱い高を誇る銚子漁港や、イセエビ釣りが可能だった黒生(くろはえ)漁港、それに犬吠埼灯台には立ち寄ったことがあるが、あくまでも別の場所での取材や旅の途中にそれらに触れただけであって、銚子見学そのものを目的としたわけではなかった。

 いつも旅の途中であったためもあり、以前から銚子電鉄にはちょっぴり魅力を感じていたにも関わらず、時間の関係(何しろ運行本数が少ない)で、やむを得ず乗車は見送っていた。

 それが今回は、50年以上の付き合いのある友人が銚子電鉄への乗車を希望していたということもあって、初めて銚子を目的地とした2泊3日の旅を実施することにした。

 彼は信仰心は別にして一度ぐらいは成田山新勝寺に寄ってみたい(本当の理由は参道に立ち並ぶウナギ店で国産のウナギを食することにあった)という希望があったし、さらに私同様、元来の怠け者であるゆえに集合時間は遅く、かつホテルでの朝起きも遅いということもあって、実際上では1泊2日の予定でも十分な程しか「観光」はしなかったのだけれど。

銚子駅

 今回の旅の目的の第一は「銚子電鉄」、第二は「犬吠埼」、第三は「屛風ヶ浦」にあったものの、直接には銚子に向かわず、まずはアクアラインを経て房総半島を横断し太平洋側に出て、友人がかつて何度か通ったという大原漁港(いすみ市)にある海鮮料理店で遅い昼食をとることにした。

 その店は、地元産の新鮮なサザエやハマグリを自分で焼きながら食べられるという誠に結構なところなので、午後2時過ぎにもかかわらず順番待ちを強いられた。が、実際に食してみると待ち時間が苦にならなかったと思えるほど美味だった。

 私としては望外な昼食を堪能したので、房総に来た目的の半分は達成したと考えてしまった。が、しかしそれは目的外の仕業であったため、本来の旅程を実現するべく、九十九里海岸を北上して、まずは「屛風ヶ浦」を目指した。

 屛風ヶ浦は旭市の飯岡漁港の東側から始まり、銚子市の名洗漁港の西部まで続く高さ50m程度の断崖絶壁だ。私は飯岡漁港の東側高台に「刑部岬展望台」があることを思い出したので、その地まで車を進めた。

 久しぶりに訪ねた展望台には新しく「展望館」が建っていた。確かに展望館からの眺めは見事ではあるが、それは九十九里方面や太平洋の景観であって、肝心の屛風ヶ浦の断崖は足下にあるので、その姿に触れることはできなかった。実に当たり前のことながら、まったくもって間抜けな所業であった。

 それゆえ、反省を込めて売店でソフトクリームを食しただけで早めにその場を立ち去った。もっとも、ソフトクリームと反省との連関はまったくないのだが。私は普段、アイスクリームやソフトクリームには目もくれないのだけれど、なぜか、旅に出るとそれらがしきりと恋しくなる。

駅前通りと「大型扇風機」

 犬吠埼に向かうべく、国道126号線を北東に進み、途中で、県道286号線に移って(三崎町二丁目交差点を右折)東進した。この県道は「銚子ドーバーライン」の別名を有しており、かつては「銚子有料道路」であったことから想像しうるように、屛風ヶ浦の上を走る快適な道路(現在は無料)である。

 という訳で、何とか一日目は犬吠埼に到達したものの、すでに夕間暮れ時を向かえていたために長居はできず、やや赤く染まった岩場や灯台を撮影しただけで、つぶさな観察は翌日に回すことにした。メキシコの格言~「今日できることは明日でもできる」~これは私のモットーでもある。

改札口はJRと共用

 2日目の予定は、旅の第一の目的である「銚子電鉄」に乗ること。朝7時台こそ銚子駅発の電車は2本出ているけれど、その他の時間帯は1時間に一本。朝寝坊の私たちには9時16分発は間に合いそうにもないので、10時20分発の電車を選んだ。

 私の方が若干、友人よりも早起きが可能なので、友人とは銚子駅で落ち合うことにして、当方はホテルを9時40分に出た。ホテルには連泊するので車は駐車場に置いたまま。駅までは徒歩5分程度なので、上の何枚かの写真にあるように、駅前の風景を少しばかり撮影した。

 銚子駅構内の大半はJRが占めており、銚子電鉄はホームの東端に「間借り」している状態。改札口も共用だが、私たちのように「一日乗車券」(700円)を購入する場合は、車内で車掌さんから買うことになるため、改札口は駅員がいる右端を通る。その際、駅員には「銚子電鉄に乗る」という一言を添えることになっている。上の写真は、その旨が表示された貼り紙を撮影したものである。

階段も宣伝場所に利用

 銚子電鉄は1923年に開通し、銚子駅から外川駅間の約6.4キロを約20分で走るローカル鉄道である。その前身である「銚子遊覧鉄道」は1913年に開通したが、そのときは銚子・犬吠を結んでいた。ただし、軌間国鉄と同じ1067ミリを採用していたので、相互の乗り入れが可能な設計にはなっていた。直通の貨物列車の乗り入れを想定していたという説もあるらしい。ただ、この遊覧鉄道は考えていたほどの集客力はなく、わずか4年で廃業となった。

乗り場はJRのホームの東端

 銚子鉄道の場合、1950年代には黒字経営になったそうだが、60年代になると経営は厳しくなり、バス会社である千葉交通に買収され、一時は廃線が決定された。さらにモータリゼーションの台頭が経営を逼迫させた。それでも、地元の人々の「銚子電鉄愛」は強かったようで、人々の心からの叫びと協力とによって、何とか運行を維持することができた。

 日常の足としては、車を持たない人には多少便利だろうが、それでもバスには太刀打ちできない。一方、観光客の立場から見ると、沿線の風景にはほとんど魅力が感じられない。家々と林、そして畑が続くだけで、海が近いにも関わらず、窓に広がる青い海の姿は存在しない。

 観光地としては犬吠埼があるが、こちらも、駅から歩く(徒歩10分程度)よりも車で行った方が便利なので、電車を利用していく人は極めて限定的かと思われる。

 ことほど左様に、銚子電鉄を利用する必然性は極めて低いこともあって赤字状態が続いてきた。これを打開するため、電鉄側では1970年代にたい焼きの製造販売を始めた。理由は、『およげ!たいやきくん』という歌がヒットしていたからだそうだ。

 また、1995年には「ぬれ煎餅」の製造販売を始めた。銚子市は醬油の生産量が日本一で、かつ米の生産も盛んなことから、古くから煎餅の生産は盛んだった。1960年頃には某メーカーが「ぬれ煎餅」の販売を始めるとそれなりの評判を博したことから、銚子電鉄でもそれを製造販売したところ、爆発的なヒット商品となり、電車の運賃よりも煎餅の売り上げ高の方が多いという状態になり、それは現在でも続いている。

 さらに、2018年には「まずい棒」の製造販売も始め、この自虐的な商品名が受けたためか、これもよく売れているそうだ。

 こうした結果、帝国データバンクでは、銚子電鉄は鉄道会社ではなく米菓製造業に分類するまでに至っている。

 なお、この両商品は犬吠駅で購入し、実際に食しているので、のちほどその感想を記すことにしている。

 鉄道分野では、「メルヘン電車」のイメージの一環として建物をヨーロッパ風のものに造りかえた。写真の銚子駅の建物はオランダ風に設えたが、肝心の風車が破損し、かつ修理代を捻出することができないため、風車がない状態の姿をさらしている。写真の建物の上部にバツ印が見て取れるが、かつてはそこに風車があったそうだ。

銚電の決意表明

 このように、銚子電鉄は数多くの苦難と、それを乗り越えるための創意工夫を続けている。2021年度は純利益21万円と黒字を達成した。総売上高は5億2830万円で、このうち、物販部門が約4億5000万円であり、なんと鉄道部門は全体の15%を占めているにすぎない。

 やはり、銚電は鉄道業ではなく米菓製造業として生きながらえている。「絶対にあきらめない」という姿勢が、赤字からの脱却を果たした。もっとも、電車を走らせてこその銚子電鉄であり、本年は開業100周年にあたることもあり、鉄道部門での奮起を期待したいところだ。

私たちが乗る電車が入線~どこかで見たことのある車両

 私たちが乗る電車がホームに入ってきた。どこかで見たことのあるような姿をしていた。銚子電鉄の車両は私の自宅近くを走っている京王線の古い車両を使っていることを思い出した。

 京王線時代は2000系と呼ばれ、全体を緑色に塗られていた。1957年からの製造なので、私がまだ児童(悪ガキ)と呼ばれていた頃に現役だった車両で、私が初めて都会(新宿の伊勢丹)に連れて行ってもらったのもこの型の車両だった。

 京王線を引退してからは伊予鉄道で活躍し、それから銚子電鉄に引き取られた超古参の車両なのである。

こちらの車両も京王線のお古のお古

 2両編成なのだが、先頭車両(外川方面行きの)はやはり京王線のお古のお古で、京王線時代(5000系)は全体をアイボリーに塗られ、エンジの帯を締めていた。1963年から製造されたもので、当初は特急や急行列車に用いられていた。田舎臭い京王線がスマートに変身した時代のもので、私がもっともよく乗っていた車両である。

 まさか銚子で、児童から少年時代に身近に存在してた(自宅は京王線府中駅のすぐ近くにあった)電車に出会うとは、奇遇としか言いようがない。もちろん、楽しい思い出や苦い想い出も同時に蘇って来たのだが。

一日乗車券は車内で車掌さんから購入

 銚子駅から外川駅まで片道350円。一方、一日乗車券は700円。どのみち銚子駅に戻るのだからと一日乗車券を購入した。ただし、銚子駅の窓口では購入することができず、写真にあるように車内で車掌さんから直接、買うことになる。この時間帯(午前10時台)では大半の乗客が観光のために利用するのだろうから、ほとんどの人が切符ではなくこちらを購入していた。

 なお、この1日乗車券には「弧廻手形」の別名が付いており、さらに犬吠駅売店銚子ポートタワー展望室入場の際などでは割引サービスを受けることができる。

車内には古い広告がいくつもあった

 運転室横の前面展望場所は空いていたが、ここは立ち入り禁止になっていた。私のような馬鹿者が占拠してしまうことを防ぐための心優しい配慮だと思えた。

 窓には簡素な装飾が、そして運転席の後ろには、あえて古めかしい写真や看板が貼ってあった。

こちらも相当に古い

 また、写真のような広告も吊り下げられていた。レトロな車両にレトロな広告、そしして古さをイメージさせる窓ガラスの装飾など、なかなか良い出来栄えではないかと感心した次第だ。

観音駅は金太郎ホームが命名権を有する

 お隣の「仲ノ町駅」には銚電の本社と車庫があった。それらを覗き見ているうちに電車は次の駅に向かってしまったため、写真撮影を失念した。

 その次は「観音駅」。銚電では少しでも運転資金を稼ぐために、2015年から「駅名愛称のネーミングライツ」を始めた。その結果、観音駅千葉市の賃貸マンション専門の施工会社である「金太郎ホーム」が命名権を取得した。

 この「金太郎ホーム」の看板を見たとき、最初は金太郎という駅はあったかな?と訝ったが、後でネーミングライツのことを知って得心した。観音駅の近くには「飯沼山・圓福寺」という真言宗の古刹があり、長年、飯沼観音として親しまれてきたそうだが、金太郎ホームの下に「かんのん」とあるだけではこの寺の存在感が薄れてしまうようで、少し残念なことではある。

 そういいながらも、実は昨晩は飯沼観音のすぐ近くの小さなラーメン店で夕食をとったのだが、その際、ライトアップされている大きな寺があることを見出していた。が、それがまさか銚子はその寺の門前町として発展したということはつゆ知らず、結局、圓福寺を訪れてはいないのだから、あまり偉そうなことは言えない。

 ちなみに、「仲ノ町駅」は「パールショップともえ」と命名されているが、これはネーミングライツを獲得したパチンコチェーン店の名前とのこと。 

あえぎながら坂を上る

 観音駅の標高は11.3m、次の本銚子(もとちょうし)駅は26.7mと結構な上り坂になる。新しい車両であれば難なく上れるだろうが、中古の中古車両でおまけに供給電圧が低いときているのでかなりの苦行のようである。

まもなく本銚子駅

 どうにか本銚子駅に到着。現在では銚子駅近辺が町の中心だが、かつてはこの本銚子駅のある辺りが銚子の中心地だったそうだ。先にも触れたように、圓福寺の参道はこの付近にあったからだ。

本銚子駅の看板~こちらも企業が命名権を使用

 この駅も写真のように命名権が行使され、「上り調子本調子京葉東和薬品」の愛称が付けられている。車内アナウンスでも、「上り調子本調子」の部分が強調され、古い車両が苦心して上り坂を進む苦難を叱咤激励していた。

まもなく笠上黒生駅

 上り坂の場所では林の中を進むという感じだったが、本銚子駅を過ぎて平坦な場所に入ると、のどかな田園風景が広がってくる。電車はまもなく「笠上黒生駅」に到着するが、この駅の愛称が秀逸なのだ。

ダジャレ風の看板~実はネーミングライツの第一号

 銚子電鉄ネーミングライツを募集したとき、真っ先に手を挙げたのが東京の新橋にある「メソケア」というシャンプー製造会社で、会社は笠上黒生駅命名権を希望し、しかもその名前が「かみのけくろはえ」だった。このあまりにもセンスが良くしかも爆笑してしまう名前は、あっというまに全国的に有名になった。この「髪毛黒生」の成功があったために命名権は他の駅にも広がり、銚電は1000万円以上の収入を得ることができたそうだ。

髪毛黒生こと笠上黒生駅の駅舎

 写真のように、駅舎にも堂々と「髪毛黒生」の愛称が掲げられている。廃線になってもおかしくない銚子電鉄が生きながらえているのは、こうした必至かつ遊びの要素を持った努力の賜物なのである。

髪毛黒生駅舎内~毛染めシャンプーは販売しているのかな?

 この駅では電車は少しだけ停車時間をとっているため、私はホームに降りて駅舎内の様子を撮影した。特筆すべきものはとくに見当たらなかった。どう頑張っても、この駅の名前以上のものを見出すこと、生み出すことはできないはずだ。

車窓から春キャベツ畑を望む

 銚子は「春キャベツ」の生産地としては日本一。車窓からは何度もこうした畑の姿に触れる。私は三浦半島へよく釣りに出掛けるが、その地も春キャベツ生産は盛んで、銚子市と三浦、横須賀市とはこの点ではライバル関係にある。

堂々としたネーミングライツ

 次の西海鹿島駅は直球勝負の愛称で、笠上黒生駅とは好対照的で興味深い。お遊び風の愛称でないことに感心した。それはたまたまのことであろうが。 

銚子市は関東最東端にある

 写真にもある通り、次の海鹿島駅は関東最東端にある電車の駅だ。そもそも、銚子市そのものが関東最東端の自治体なのである。

何かが足りない「君が浜」駅

 駅から徒歩5分のところにある「君が浜」は日本の渚百選に選ばれた海岸で、犬吠埼灯台を見上げるには良い場所だ。

 この駅の愛称は「ロズウェル」で、アメリカ・ニューメキシコ州ロズウェルの名が元になっている。ロズウェルはUFO墜落?の発見現場として知られ、のちにはドラマでも有名になった場所。ここ銚子もUFOの目撃現場?として知られているため、ロズウェル命名されたそうだ。

 ところで、駅前にある白い柱は何か中途半端な感じがする。以前はこの上にパルテノン神殿を模した装飾が施されていたが、災害のために破損し、その後は改修されないまま、ただ柱だけが残っているのだそうだ。もしかしたら、UFOが持ち去ったのかも?

樹木のトンネル

 銚子電鉄には橋もトンネルもないが、写真のように樹木のトンネルだけは存在する。

分かりにくいが「犬吠駅」です

 銚電では一番有名な駅がこの犬吠だろう。もっとも、写真のように意味がよく分からない愛称が付けられているので、「いぬぼう」の存在が霞んでいる。

 この駅には立派な駅舎があるがそれは後に紹介する。

終点の外川駅に入線

 終点の外川(とかわ)駅が見えてきた。6.4キロの短い電車の旅はここで終了となる。

乗車に感謝か~これも命名権のひとつ

 外川駅の愛称は「ありがとう」である。これは当初、乗客への感謝の言葉だと思ったのだが、実は愛称なのだそうだ。松戸市ハウスメーカー命名だが、社名ではなく終点にぴったりの愛称を付けたのは極めて秀逸なネーミングライツの行使である。「早稲田ハウス株式会社」は自然素材で造る健康住宅の専門店だとのことで、さもありなん、と感激した。

古い車両だけでなく、何故か郵便局のバイクも放置プレイ

 外川駅には写真の「デハ801」が展示してある。1950年に製造されて伊予鉄道で利用され、85年に銚子電鉄に移り2010年に引退。その後は外川駅に展示・開放され(何度か中断)現在に至っている。私が出掛けたときは開放は中止されていた。

 写真には廃車となった郵便局のバイクもあったが、なぜここにあるのかは不明だった。なお、構外にあるポストは現役である。

外川駅舎内~手書きの運賃表

 外川駅舎内ものぞいてみた。手書きの運賃表が印象的であった。また、銚子電鉄に直接的、間接的に関わる資料なども置いてあった。

外川駅舎と上り車両

 外川漁港に出掛ける前に再度、駅舎と出発を待つ電車を眺めた。赤いポストも含め、いかにも昭和的な風景である。

◎外川漁港を散策

広々とした外川漁港

 外川漁港には一度だけ車で来たことがあった。この港では堤防釣りは全面的に禁止されているために取材は行えなかった。それゆえ、その後は訪れることはなく、今回が2度目で、約20年振りの訪問だった。

銚子沖では洋上風力発電建設中

 前回は釣り禁止とのことだったので早々に引き上げたが、今回は釣りとは無関係な旅行なので、少し時間をとって漁港の周辺を見て回った。

 銚子沖は浅い岩礁帯が多く、洋上風力発電には格好の場所ということで、その建設が始まっている。西欧では洋上風力が自然エネルギーの主力なのだが、日本だけその開発が遅れている。しかも、日本では着手から完成まで8年と、他の国の2倍の時間を要する。これは、より慎重な建設を行うためというより、様々な利権と原発温存という目論見があるためと思われる。 

遠くには屛風ヶ浦の姿も

 写真のように、遠くには屛風ヶ浦の姿が見て取れた。外川港の隣には名洗港や銚子マリーナがあり、そこまで行けば屛風ヶ浦下の遊歩道を散策することができるのだが、今いる場所からはいささか距離があり過ぎるため、その場所にはあとで車で出掛けることにして、さしあたりは、外川漁港散策に留めた。

砂岩の岩場に空いた海食洞

 漁港の西端には写真の「千騎ヶ岩」(せんがいわ)があった。源義経が千騎の兵とともに立てこもったという伝説が岩の名の由来とのこと。比較的大きな岩場だが、私には中ほどに開いた海食洞に興味を抱いた。

海水を汲みに来たおじさん

 千騎ヶ岩の北側にある船揚げ場のスロープでは、地元のおじさんが空のタンクを持って海に入り海水を汲んでいた。こうした場所は砂が入りにくいので海水を汲むには最適な場所だ。私には、スロープに付着したアオノリのほうが魅力的に思えたが。

名所?の犬岩

 千騎ヶ岩の西側にはガイドブックにもよく登場する「犬岩」があった。犬と名付けられているので「犬」に見えないことはないが、もしも無名岩であったならば、違った感想を抱く人も多いのではないか?「名体不二」の言葉は誠に至言である。

 なお、この犬岩も先に挙げた千騎ヶ岩も砂岩でできており、その形成はジュラ紀(2億から1億5千年前)と考えられている。銚子は、地質学の宝庫でもある。この点についても後述する。

イワシイカを下処理中

 港の陸では2人のおばさんが、コウイカイワシの下ごしらえをしていた。今年の冬から春にかけては異常とも思えるほどイワシが豊漁である。ただし、イワシが多すぎるとサバは深い海に潜ってしまう傾向があるので、イワシの豊漁は必ずしも歓迎させる状態とはいえない。

 それにしても旨そうなイワシだったが、おばさん曰く、冬場のイワシは脂の乗りが今ひとつなので、夏場に較べると味はやや劣るとのことだ。

細い道を上って外川駅に戻る

 漁港の散策終えたので外川駅に戻ることにした。駅は標高24mのところにあるので港からは上り坂が続く。昔ながらの町割りが残っているので、道幅はかなり狭い。こうした細い路地を歩くことは、私の好みのひとつである。

駅舎裏のモニュメント

 銚子行きの電車が来るまでは少し時間があったので、私は駅の周囲をうろついてみることにした。写真のように、駅舎の裏には花壇らしきものがあり、その中にヒマワリを模したモニュメントがあった。

どこか悲し気な”ひまわり娘”

 ヒマワリ娘の表情はどこか悲し気であった。銚子電鉄に元気を与えるなら笑顔で青い空に向かうべきだと思うのだが。思うに、廃線寸前のときに建てられたのではないか?しかし、いささか失笑含みではあるが、銚電は立ち直りつつある状態である。ひまわり娘も微笑みを取り戻してほしいものだ。

犬吠駅に向かう

銚子行きが入線~残念ながら来た時と同じ車両

 銚子行きの電車が入線した。来た時とまったく同じ車両である。銚子電鉄には3編成の車両が運行しているが、日中は一時間に1本なので、同じ車両が行き来しているのだろう。

キャベツ畑の中を走る

 外川駅を離れ次の犬吠駅に向かう。沿線にはお馴染みの春キャベツ畑が広がっている。

犬吠駅が見えてきた

 次第に犬吠駅の存在が明瞭になってきた。この駅では、右手にある駅舎の存在が際立っている。

犬吠駅に入線~ガキンチョの体験乗車組もいた

 犬吠駅には幼稚園児(保育園児かも)が引率者とともに電車を待っていた。子供たちに地元が誇る銚電に体験乗車させ、この電車の実存を心に深く印象付けようとする算段なのだろうか?それはそれで良いことではある。

おしゃれなポルトガル風「犬吠駅舎」

 犬吠駅の駅舎はポルトガル風の立派な建物である。中には銚電名物が陳列されている売店がある。

 駅舎がポルトガル風だというのは、ポルトガルが誇る観光名所である「ロカ岬」と銚子市が誇る「犬吠埼」とがほぼ同緯度であること、ロカ岬がユーラシア大陸の西端、犬吠埼が関東地方の東端という共通点?があるというのがその理由だそうだ。ともに、「ここに地終わり、海始まる」という場所なのである。

ホームの意匠も頑張りました

 ホームの壁面や駅前広場の意匠にも工夫の跡が見られる。また、車で来た人にも売店に立ち寄ってもらおうと広めの駐車スペースも確保されている。

銚子電鉄の救世主~乗車券の数倍の売り上げを誇る

 売店では、銚子電鉄の危機を救った2大名物を購入し、かつ食してみた。写真は銚電の主力商品である「ぬれ煎餅」だ。「ぬれ煎餅」自体は何度も食していたが、銚電製は初めてである。千葉県に住んでいて、よく釣りへ一緒に出掛けた古い友人が毎回、ぬれ煎餅を持参していて、そのおすそ分けを食したが、個人の感想としては草加煎餅のような普通の煎餅の方が食べやすいと思った。

 その知人は「ゆで落花生」も必ず持参した。こちらもカリッとした普通の落花生のほうが数段美味で、「ゆで落花生」は歯ごたえがまったくないので美味しいと感じたことは一度もなかった。ただただ、「きっと千葉県人は嚙む力が弱いのだろうか?」という疑問を抱くだけだった。

 銚電の「ぬれ煎餅」にはいろいろな味のものがあるようだが、私は写真の「青のうす口味」を買って食べたが、感想はかつて食べたときと同じ印象だった。というより、歯にくっつきやすいだけ、普通の煎餅よりも老人には食べづらいのでは?とも感じた。

名は体を表す?~こちらも救世者

 一方の「まずい棒」にもいろいろな味のものがあるようだったが、私は「岩下の新生姜」味のものを購入した。本家の「うまい棒」とは当初、いろいろな軋轢が生じたらしいが、結局は「黙認」という形で「まずい棒」の名で販売することができた。

 私は本家の「うまい棒」を食べたことがないので味の比較は不可能だが、値段は銚電のほうが数倍、高いそうだ。それでもかなりの売り上げがあるのは、「まずい棒」愛ではなく「銚電」愛によるものだろう。

 こちらは本家との比較は不能だが、駅舎で1本食べた感じでは「名体不二」そのものと思われた。友人は初めから食べることを拒否したので、残りは家に持ち帰ることになった。捨てるのももったいない気がしたので、恐る恐る食してみたが、一度目の感想よりは抵抗感は少なく、決して美味しいものではないが、「まずい」というほどではないと思われたので結局、一日2本のペースで食べ終えた。

 両者をつぎに購入する機会はないと思うが、仮にあるとすれば後者の可能性は少しだけあり得る。ただし、その動機は「食べること」ではなく、銚電の救済の一助である。

銚子駅に戻る~銚電とJRとが並ぶ

 銚子駅に戻ってきた。JRのホームには銚子名物の「醤油樽」が展示してあった。そのホームには東京行きの特急列車、隣の線路には総武本線、その向こうには銚子電鉄の電車が止まっていた。かつては電車好きだった私だが、現在はほとんど乗る機会はない。仮にこの三者のどれかに乗りたいとすれば銚子電鉄以外にはないだろう。他の二者は移動手段として乗るという以外の理由はないが、銚子電鉄だけはその世界に触れるために乗るという、移動手段とは別次元に存在しているからだ。

◎車にて犬吠埼に向かう

イセエビもよく釣れた黒生漁港~岩礁も多い

 銚子駅を降り、ホテルに戻って車を取りに行き、今度は車で犬吠埼周辺を見て回ることにした。時間的にいって、漁港を見て回ってもすでに活気は収まっているので水揚げの様子を見学することはできない。そのため、漁港近辺はただ通りすぎるだけになった。

 写真の黒生港は、利根川右岸や河口付近にある、いわゆる銚子漁港とは異なり、太平洋に面した浅瀬に造られた大きめの護岸に囲まれた漁港である。この辺りは白亜紀に堆積した泥岩や砂岩がかなり沖まで伸びているため海の難所としても知られている。幕末には、榎本武揚率いる軍艦の一艘の「美加保丸」が岩礁に乗り上げ、13人が死亡するという事故が起こっている。

 釣り禁止の場所が増えているので現在までおこなわれているかは不明だが、20年ほどまでは釣りが盛んで、とくに消波ブロック周りではイセエビが釣れることで人気があった。

君ヶ浜から灯台を望む

 君ヶ浜は日本の渚百選に選ばれている名勝地で、本家の舞子浜(兵庫県)に対し「関東舞子」と称されるほど白砂青松の美しい海岸線を有している。

 また、写真のように、南側の高台には犬吠埼灯台が屹立しているので、海岸線だけでなく周囲の景観もすこぶる見ごたえのある場所である。

歴史を感じさせる灯台

 犬吠埼灯台は、世界灯台100選に選ばれているほど著名な存在で、1874年に建設されたレンガ造りの灯台だ。国産のレンガで造った灯台の第一号である。

 ちなみに、世界100選のうち日本からは5つの灯台が選ばれている。犬吠埼のほかは佐渡の姫崎灯台、下田沖の神子元灯台、松江の美保関灯台、出雲日御碕灯台である。私はこの4つの灯台にも上っているか間近で見上げている。

灯台上から岩礁帯を望む

 高いところが苦手な私だが、友人は私以上に臆病なので彼に私の勇気を見せつけるために300円を払って灯台の上に上った。

 99段の狭く急な階段を上がると出口があり、レンズ室を取り巻くように展望台が設けられている。彼も展望台前には上がって来たものの外に出る勇気はなく、一方、私は勇気を振り絞って展望台に出た。一人で来たのなら絶対に行うことのない蛮行である。

 写真はその展望台から崖下にある岩礁帯を望んだもの。この辺りの岩質はとても複雑で、砂岩だけのもの、砂岩と泥岩の互層からなるものが見られる。いずれも白亜紀前期のものと考えられている。

君ヶ浜を望む

 写真のように、君ヶ浜の全景を望むこともできる。恐ろしい!

犬吠埼は地質の宝庫

 灯台を下りて犬吠埼の周囲に設けられた遊歩道を散策した。写真は、白亜紀前期に堆積された銚子層群のうちの犬吠埼群の砂岩・泥岩の互層が露頭している場所を撮影したものである。

一部には津波の爪痕が残る

 遊歩道はかつて、海岸線近くにもあった。写真から分かるとおり石を削って造った階段や、手すりのついた道もあったが、大津波によって破壊されたために現在は立ち入り禁止になっている。

岩を見ているだけで十分に満足

 写真は「石切り場」の跡。この辺りでは「銚子石」と呼ばれる砂岩が採掘され、砥石や供養塔などに用いられたそうだ。現在は採掘はおこなわれておらず、こうして採掘場の面影に触れるだけである。

 写真を見て気付いたのだが、左手にある岩礁はどことなく猫の横顔に見える。この角度からだけなのだろうが、個人的には「猫岩」と名付けても良いと思っている。

 ちなみに、犬吠埼の名は、義経が奥州に逃げる際に愛犬の「若丸」(現在では犬岩となって生き続けている)をこの場所に置き去り、その若丸は居なくなった主人に呼びかけるように吠え続けたという伝説に由来するとのこと(諸説あり)。

お馴染みの「東映岩」~撮影位置は異なるけれど

 犬吠埼灯台の次に有名なのが写真の「東映岩」。東映の映画の始まりには必ず「荒磯に波」が映し出されるが、そのときに登場する岩が写真の3つの岩礁だ。現在は、撮影場所は立ち入り禁止になっているために、このように上から望むしかないが、結構な数の人たちが高台からこの岩を撮影していた。

◎屛風ヶ浦をちょっとだけ見学

名洗港から屛風ヶ浦を望む

 車で名洗港まで出掛け、屛風ヶ浦の断崖を間近で観察することにした。まずはやや遠めから断崖の様子を眺め、それから銚子マリーナの先にある遊歩道を歩き、地層の変遷を確認することにした。

単調に見えて、実はなかなか複雑な構造

 屛風ヶ浦は「東洋のドーバー」とも言われているそうだ。ドーバー海峡には「ホワイトクリフ」という有名な断崖があり、屛風ヶ浦の崖は色こそ違えど姿形はよく似ていることからそのように名付けられたとのこと。

 名洗港から刑部岬まで約10キロ、海面からの高さは40から50mの断崖が続くこの屛風ヶ浦は、下総台地が荒波によって削られた海食崖で、年に1mずつ崖は後退してきたそうだ。現在は消波ブロックを海岸線に積み、波食を防いでいるものの自然の猛威にはなかなか太刀打ちできずにいるようで、崖の姿は少しずつ変化している。

 基盤は犬吠埼でみた白亜紀のものであろうが、その場所は海底にあるため、我々が視認できるのは新第三紀鮮新世(500万~258万年前)から第四紀更新世(~40万年前)のもので、その上に関東ロームが乗っている。

浸食の痕跡

 波の破壊力は凄まじいもので、写真のように断崖に大きな穴を開けていく。こうした猛威によって屛風ヶ浦の姿は徐々に変化してゆく。が、僅か百年ほどしかない人の命の長さでは、特別に大きな天変地異でもない限り、その変化を見て取る機会はないだろう。それゆえ、こうした場所に触れることで、人間の力がいかに弱いものであるのかを実感する必要があると思う。

 もうひとつ気付くことがあった。屛風ヶ浦の断崖と、犬吠埼周りの断崖とはまったくその姿が異なることだ。片や500万年前からの姿であり、片や2億から1億2000万年前の姿が露頭している。

 つまり、犬吠埼を先端部とした銚子市の「拳骨」部分と、名洗から始まる下総台地とは成り立ちがまったく異なるということである。つまり、銚子の拳骨部分は古い時期から小島として存在し、一方の下総台地は新しい時代に隆起し、その結果、両者が陸続きになったと考えることができるのだ。

 この観点から地図上で銚子市の形を今一度確認すると、自然活動の不思議さ奥深さを改めて実感することができる。たかだか人間ごときが自然をコントロールするなど、土台無理な話なのである。

◎佐原(さわら)を歩く

佐原の水郷~水質は今一つ

 佐原は現在は香取市の一部をなしていることになるが、かつては「江戸優り」といわれるほど繫栄した時期があった。それは、利根川水運の中継基地となる場所に位置していたことによる。

 かつての繁栄の様子は「重要伝統的建造物保存地区」として小野川沿いに立派な商家が立ち並んでいることからも納得できる。

古い家屋を保存

 私が初めて佐原にやってきたのは、潮来の水郷や鹿島神宮鹿島港魚釣園、鹿島灘突堤霞ケ浦、北浦などに出掛けるついでだったが、一旦、この地を知ってしまってからは、取材先での消化時間はできるだけ短くして、この町並みを散策することに時間を割いたものだった。

 しかし、いつしか茨城方面の取材がなくなってからはこの地に立ち寄ることも皆無となってしまった。したがって、この地を訪れたのは十数年ぶりのことで、訪れた理由のひとつには、友人に是非ともこの町の良さに触れてもらいたかったからである。

つかの間の舟の旅

 小野川では写真のように「舟めぐり」で小江戸の風景を堪能できる。残念ながら水質はあまり良くないが、目を水面に向けずに町並みにひたすら向ければ、佐原の素晴らしさを体感することができるだろう。

伊能忠敬記念館

 佐原出身の偉人といえば『大日本沿海輿全図』(1821年、以下全図と略す)を作成した伊能忠敬がすぐに頭に浮かぶ。写真のように小野川に近くには『伊能忠敬記念館』があり彼の足跡や彼が測量の際に使用した用具類、さらに全図のコピーなどが展示されている。入場料は500円だが、個人的にはその数倍の料金でも十分に見学する価値はあると思っている。

 もっとも、厳密にいえば伊能は佐原出身ではなくて生まれは九十九里(幼名は神保三治郎)で、17歳のときに伊能家に婿入りした。伊能家は佐原を代表する旧家で酒造業を営むほか、忠敬は名主や村方後見なども務めていた。また、利根川の堤防普請でも活躍した。

 歴学や天体観測に興味を抱いていたが、本格的に学問を始めたのは隠居が認められた時からで、50歳になって江戸に出て深川黒江町に暮らしながら、幕府天文方でのちに「寛政の改暦」を成し遂げた高橋至時(よしとき)に弟子入りして学問を深めた。                                                                          

伊能忠敬旧宅

 彼が日本全国の測量を始めたのは55歳(1800年)の時で、それから17年をかけて10回、測量をおこなった。彼が歩いた距離は3万5千キロと言われている。

 全図は大図214枚、中図8枚、小図3枚から構成される。あくまでも沿岸部の測量が中心なので内陸部は簡素化されているが、その緻密で正確具合は、梵天を目印として象限儀で角度を測りながら距離を決めていくという導線法によって測量したとは考えられないほど正確なものである。

 小野川を挟んだ向かいには、写真の伊能忠敬旧宅が保存され、こちらは無料で見学できる。いかにも豪商の邸宅といった感じの立派な家である。

 伊能のような異能の傑物を生み出した佐原の町が心底、羨ましいと思った。

成田山新勝寺を訪ねて

成田山新勝寺の総門

 成田山に立ち寄ったのは、友人が一度ぐらいは行ってみたいと望んだことと、参道にある店で美味しいウナギを食べたいという希望があったことからである。

 ウナギは子安駅前にあった「うな清」と決めており(第35回参照)、それ以外の店は眼中になかったのだが、その後に閉店してしまったので行き場を失っていた。以来、ネット等で名店を探したのだが、ネットでの評判は良くても「うな清」に敵う店は見出せないでいた。

 たまたま、成田をよく知っている知人から、参道のウナギ店がなかなか美味しいという話を聞いていたので、それを同行者に伝えたところ、彼の頭と心からは成田詣での気持ちはかなり薄れ、ウナギ店詣でが主となったようだった。それゆえ、広大な敷地を有する新勝寺見学は最小限に止まることになった。

 写真は、2007年に落慶した総門である。参詣人は比較的多めで、成田空港が近いこともあって外国人旅行客の姿が目立った。

仁王門

 1831年に再建された仁王門には、写真のように「魚がし」の文字が書かれた大提灯が吊るしてあった。これにより、友人の頭と心はさらに「ウナギ」に占拠されることになった。

放生池とお賽銭

 仁王門周りには写真の放生池があり、亀を模した溶岩と無数のお賽銭が投げ入れられている姿が目に入った。

大本堂

 1968年に落慶した大本堂は誠に見事な大きさである。もちろん、信心のあまりない友人と、その欠片すらない私は、ただ本堂を撮影するだけで参拝はしなかった。

 本堂の左隣には旧本堂であった建物が移築され、釈迦堂と名付けられた、やや歴史を感じさせる建物があった。が、やはり遠目に見るだけに終わった。

三重塔

 この三重塔は、約25mの高さがある。 

派手な塗

 この塔はよく磨かれているようで、とりわけ塗が豪勢であった。仏教建築物は概ね絢爛豪華なのもが多いが、これは極楽浄土を表しているのだろうが、信心のない私はもちろん極楽などの存在は信じることはなく、死んだらただ無になるだけだと思っている。

 成田山新勝寺の開祖は寛朝大僧正(宇多天皇の孫)で、朱雀天皇の勅命で、不動明王の御尊像と共に関東に下ったことが切っ掛けとなっている。この御尊像は空海みずからが敬刻開眼したものだ。

 時あたかも関東では平将門の乱が起こっていた。大僧正は成田の地に御尊像を奉安し護摩を焚いて21日もの間、戦乱が収まるように祈願した。その結果、将門が敗北して戦乱は終息した。

 大僧正は京に戻ろうとしたが御尊像はまったく動こうとしなかったため、大僧正はこの地にとどまることを決意したのである。940年のことであった。

 こうした成田山の歴史を少しだけ知ったので、もはやここに留まる必要性はなくなった。いそいそと、友人と私は予約してあったウナギ店に向かった。

 「うな清」ほどではないにせよ、第二番目の地位を与えても良いと思えるほど美味だった。おまけに全国旅行キャンペーンと千葉とくキャンペーンのお陰で、ホテルでもらったクーポンだけで支払いは十分に賄えた。

 たとえ信心はなくとも、ご利益はきちんといただけたのである。

〔83〕よれよれ西国旅(4)高松から琴平まで讃岐の国を巡る~讃岐うどんは食べなかったけれど

瀬戸大橋

◎広大な敷地を有する栗林公園を訪ねて

紫雲山を借景とする庭園

 栗林(りつりん)公園(国の特別名勝に指定)にはずっと以前に一度だけ訪れたことがあったが、そのときはほとんど時間がなかったためにほんの少しだけ中を覗いただけだった。そこで、今回は朝一番(といっても10時頃だが)に出掛け、少しだけ時間を掛けて園内を散策した。

 何しろ敷地は16.2haもあり、借景にしている背後の紫雲山を含めると75haというとてつもない広さを有するため、一度に全部はとても周ることはできないので、南庭の外周部だけを歩いてみた。

東門(切手御門)から入場

 車を国道11号線沿いのパーキングにとめたので、2つある門のうち写真の東門から入場した。入園料は410円だった。

商工奨励館前のヒマラヤ杉

 明治32年に「香川県博物館」として建設されたこの建物は本館、西館、東館、北館ならなるかなり大きめのもので、現在は栗林公園に関する情報発信や伝統工芸品の展示などがおこなわれている。

 私が興味を抱いたのは写真の大きなヒマラヤ杉。樹齢は120余年と樹木としてはそれほど年輪を重ねていないが、かなりの巨木であることは確かだ。

西湖沿いの木々(1)

 栗林公園は16世紀後半、地元の豪族が小さな庭園を造ったことが起源になっている。その後、この地を治めた生駒家の家臣である西嶋八兵衛が香東川の治水工事を行った。それまでは川は紫雲山を挟んで東西に流れていたが、東側を堰き止めて現在ある香東川となった。この結果、東側の地(つまり栗林公園のある側)は開拓が容易となり、本格的な庭園を造営できる下地となった。

 1642年、高松藩の初代藩主である松平頼重が本格的な庭園づくりを始めた。頼重はここを隠居所と定めたことによる。その後の藩主もこの庭園の充実に努め、1745年、5代の頼恭(よりたか)のときに完成した。 

西湖沿いの木々(2)

 園内には6つの池と13の築山がある。6つの池はすべてがつながっていて、その水源は吹上亭の裏あたりにある。かつて堰き止められた香東川の東側の流れが伏流水となって吹上付近で湧出しているため、この豊富な水を池の源にしているのだ。

 なお、「栗林」の語源は諸説あってはっきりとは分からないそうだ。 

赤壁と名付けられた石壁

 西湖と名付けられた池の西側には「赤壁」と命名された石壁がある。蘇軾の『赤壁賦』が由来だと考えらえるが、実際、この石壁は少しだけ赤みを帯びている。

 この壁がある紫雲山は讃岐岩質安山岩でできている。マグマの貫入の痕跡が地表に残っているという点では、以前に紹介した「古座川の一枚岩」と成り立ちは同じである。

 こちらの石壁が赤いのは鉄分の多い溶岩の高温酸化によるものであろう。また、一部には柱状節理も見て取ることができる。

楓嶼(ふうしょ)と掬月亭(きくげつてい)

 西湖から南湖に移動した。岸辺から楓嶼(ふうしょ)と掬月亭(きくげつてい)を望んだ。掬月亭は大茶室とも言われ、数寄屋風書院造の建物で、歴代の大名がもっとも好んだ場所とされている。

 茶室が池にせり出し目の前に水面が見える。この造りから、「掬水月在手」という唐詩にヒントを得て掬水亭と名付けられたとされている。ここで大名は茶会や舞を堪能したらしい。

 入亭料は煎茶とお菓子付きで500円、抹茶とお菓子付きで700円とのこと。

南湖を巡る和船

 南湖には和船が就航しており、南湖に浮かぶ3つの島を辿り、さらに掬水亭を船の上から眺められる。乗船料は620円とのこと。

 写真の船の左手にあるのが天女嶋。船頭の解説付きで、つかの間の船旅が楽しめるようだ。

飛来峰からの眺め

 写真は、栗林公園の中ではもっとも眺めの良い場所と言われている「飛来峰」からの望んだものである。南湖に架かる手前の橋は「偃月橋(えんげつきょう)」で、園内に20ある橋の中ではもっとも大きい。なお、飛来峰は富士山を模して造営されたとのこと。

 栗林公園は広大な広さを有するので歩くのが大変だが、難読漢字が多いので読むにも難儀する。

芙蓉峰からの眺め

 写真は「芙蓉峰(ふようほう)」から北湖を眺めたもの。こちらは島の中にある木々の姿が特徴的だ。

 栗林公園は「一歩一景」と称されるほど見る角度によって景観が変化するが、個人的には「石」の数が少し足りないこともあり、その点にやや不足感を抱いた。讃岐は石の国なのに……。

根香寺(ねごろじ)・八十二番札所

根来寺の山門

 栗林公園を離れて西に進み「五色台」へと向かった。東西8キロ、南北10キロに広がる山塊で、1500万~1300万年前に形成された。花崗岩を基盤として、最上位に讃岐岩質安山岩、讃岐石が重なる卓状台地(メサ)である。五色台の名は陰陽五行説に由来するとされており、青峯、黒峯、白峯、赤峯、黄峯とされる場所がある。

 瀬戸内海の景観が見事だと言われる場所だが、いろいろと回ってみたものの、特筆すべきものは見当たらなかった。それにより探索は打ち切り、予定していた目的地の五色台の南域にある2つの霊場を訪ねてみた。

 写真は八十二番札所の根香寺(ねごろじ)の山門で、この門の周囲に駐車場があった。

大師堂までの階段はかなり急だ

 写真のように大師堂までの階段はかなり急で、前を歩いていた老夫婦は金剛杖をつきながらおっかなびっくり上っていった。

大師堂

 根香寺空海が修行の場のひとつとして開拓したが、円珍が千手観音像を彫って「千住院」を建てて安置した。その像は香木を彫ったものだったために良い香りを放った。そのことから「根香寺」と名付けられた。当初は真言宗の寺だったが、17世紀半ば、初代高松藩主の松平頼重高松城や栗林寺の項でも登場)が天台宗に改宗した。

 それゆえ、この寺は弘法(空海)、智証(円珍)の両大師が開基したということができる。

本堂まではさらに急な階段が続く

 大師堂から本堂までは、写真のようにやはり急な階段を上ることになる。山門の標高は341m、本堂は357mで比高はたかだか16mだが、階段が急なので少々、閉口した。

本堂

 本堂は青峯の中腹にあり、とても物静かな感じのする気持ちの良いお寺である。もちろん、参拝はしないのだけれど。

白峯寺(しろみねじ)・八十一番札所

白峯寺の山門

 根香寺を出て「鴨川五色台線」(県道180号線)を西に道なりに進むと白峯寺に近づく。県道からは取り付け道路が整備されているので、山門近くまで車で行ける。

 山門の標高は267mだが、330mから380mほどの山々が境内を取り囲んでいる。

護摩

 山門から一直線の参道を進むと突き当りに写真の「護摩堂」がある。後述するが、本堂や大師堂は相当に急な階段を上ったところにあるため足腰の弱い人(私もそのひとり)はやや難儀する。

 そういった人でもきちんと参拝できるようにと、この護摩堂の中に御本尊が分祀され、大師も祀られているそうだ。

かなりきつめの階段

 護摩堂前の参道を左に折れて少し進むと、崇徳院を祀った頓証寺殿とその入り口に当たる勅額門がある。その場所には帰りに立ち寄るので、まずは参道を右に曲がって写真のような急な階段を上っていく。階段下の標高は267m、本堂前は284mなので比高は17mではあるものの、かなり急な階段なので、先の根香寺と同様にかなりくたびれる。

安心させてくれる看板

 それゆえ、階段が始まる直前に写真の但し書きがあり、急な階段はとても無理だろうと思った場合は護摩堂で願いを達成することができる(と思う)。

 私の場合は例によって参拝はしないが参詣はするので、いささか閉口しながらもゆっくりと階段を上がっていった。つくづく体力の低下を実感させられる。

行者堂

 それでも、階段の左右に写真の行者堂(もちろん役小角が祀られている)をはじめとして、薬師堂や阿弥陀堂などが建てられているため、一気に階段を上がっていく必要性は少なく、疲れを隠す(癒す)ためにそれらの場所を覗くのも一興ではある。もちろん、信心のある人はきちんとお参りをするのだろうが。

本堂

 白峯寺の縁起は先の根香寺とほぼ同じで、まずは空海が峯に如意宝珠を埋めて聖地となし、のちに円珍が流木から千手観音像を彫って安置したというもの。それゆえ、円珍が開基したとも、空海円珍空海の甥)の両人が開基したとも言うことができる。 

本堂脇にあった古い石造りの五重塔

 本堂の脇には、写真のような石造りの五重塔があった。色とりどりの小石で装飾してあるので、なかなか興味深く感じられた。背があまり高くないので、下段の屋根の上にはお賽銭が多く置かれていた。

大師堂を参拝する人

 本堂に隣接する大師堂では熱心に般若心経を唱える人がいた。

大師堂

 大師堂を正面から撮影するために立ち位置を変更すると、もう一人、若いお遍路さんが加わり、二人で唱和はせずに独自のペースで般若心経を唱えていた。

勅額門

  1156年の保元の乱は、摂関家の凋落と武家の台頭という、その後の社会の大転換を生んだ戦乱であったが、決着は僅か一日で着き、崇徳上皇側の大敗北に終わった。

 仁和寺に投降した崇徳院の元へ高野山からはせ参じた西行は、

かかる世に かげも変わらず すむ月を 見るわが身さえ 恨めしきかな

 と詠んだ。

 その後、”讃岐の松山”に配流された崇徳院(当時は讃岐の院、または讃岐の廃帝とよばれた)は、仏道に目覚め「五部大乗経」を写本してそれを京に送ったものの、後白河天皇は「呪いがかかっているのでは」と受け取りを拒否した。

 その仕打ちを受けた讃岐の院は、舌をかみ切り、その血で国を呪うことを書き足した。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と。そして大乗経を収めた箱を竜宮に納め給え、と血書して海へ流したところ、海上に火が燃え上がったという。

 これが「崇徳院の祟り」の始まりで、平将門菅原道真とならんで「日本三大怨霊」に数えられている。

 もちろん、こうした話は後世の作り話にすぎないが、天皇上皇の配流は400年前の淳仁天皇の淡路島配流以来のことというから、相当に厳しい仕置きであったことは事実であろう。

頓証寺殿

 白峯寺のすぐ北側に「白峯陵」が整備された。西行崇徳院崩御の四年後にこの地を訪れている。

 『雨月物語』では院が、

松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな

 と西行に語り掛けたのに対して西行

よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせむ

 と答えている。

 西行は、もうすでに亡くなっているのだから仏道に専心して成仏してください、とそっけなく答えている。この一点だけでも西行の秀逸さが理解できよう。怨霊伝説などというバカ話は西行は全く意に介してはいないのである。

 怨霊伝説が頂点に達したのは1177年。前年には白河院崩御し、この年には「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」などが相次いだために、後白河院は讃岐の院に正一位太政大臣の位と「崇徳院」の号を贈った。

 第百代の後小松天皇は「頓証寺」の御追号勅額を奉掲し尊崇の意を表した。上の2枚の写真にある建物は高松藩主の松平頼重が再建したものだ。

 先に触れたように、これらの建物は「護摩堂」前から北北西に進んだすぐのところにある。そして、白峯陵は「頓証寺殿」の裏手にある。訪れる予定だったがド忘れした。 

◎瀬戸大橋記念公園

大橋を下から眺める

 今から20数年前~10年ほど前は瀬戸内海地方によく取材に出掛けていたので、写真の瀬戸大橋は実に身近な存在だったと言える。多いときには月に2度はこの橋を利用したので、通算では何十回になるのか見当もつかない。

 それだけでなく、橋の下や橋のすぐ近くにある小さな島に渡り、橋を望みながらクロダイ釣りを何度も行った。そんな時には岡山県側にある下津井漁港から渡船に乗って各島へ渡る。橋の東側にある松島や室木島や鍋島、西にある本島や広島、そして橋下に存在する三つ子島で竿をだしたことは、今でもときどき思い出すことがある。

道路の下を走る本四備讃線

 ただ橋を渡るだけのこともあった。四国での取材の帰り、倉敷市内見物をするために利用した。また、先に触れた下津井は歴史のある漁師町だったので、瀬戸大橋を児島ICで下りて下津井漁港周辺を散策した。古き良き時代の町並みが保存されていたからである。

 写真にあるように、瀬戸大橋は道路と鉄道(JR四国・本四備讃線)とが併用されている橋なので、岡山側の鷲羽山近くの高台から列車が通る姿を撮影したことも何度かあった。そんなときにも、児島ICを利用した。

記念館と噴水

 馴染みの深い瀬戸大橋だが、香川県側の坂出市では2度、ビジネスホテルを利用しただけで、とくに市街地を見物したことはなかった。もっとも坂出市全体というなら、五色台も、白峯寺も坂出に属し、また讃岐府中駅(JR高松線)や府中湖も坂出なので、「坂出」を意識せずに訪れていることは数多くあった。

 さらに、瀬戸大橋の中央部には「与島PA」があり、少なくともここは7,8回は利用しているが、この与島も坂出市に属する。

 こうしてみると、実は坂出の存在は案外、身近だったのだ。

 今回訪れた「瀬戸大橋記念公園」は坂出市にあり、公園が公開されたのは橋が全線開通した1988年と同じである。ここにはこれまで一度も訪れたことはなく、今回、折角、坂出に立ち寄るのだからとこの場所を選択したのだ。”坂出”を意識して訪ねた初めての場所が記念公園だった。

大きなPAがある与島

 公園は10.2haの広さがある。一番海に近い場所に車をとめたこともあり、さしあたり、瀬戸大橋を展望してみることにした。

 正面に見える大きな島が与島で、PAの利用だけでなく島内を散策することもできる。島の人口は私がよく出かけた時分には200人以上だったはずだが、2015年には77人にまで減少している。

 早ければ今年の11月頃に四国の西半分(今回は東半分だったので)へ出掛けるつもりなので、できれば今一度、与島を訪れてみたいと考えている。もっとも、その際には「しまなみ海道」を利用する可能性が高いので、その場合は立ち寄れないけれど。

 なお、写真から分かるとおり、島の手前側と向こう側とは橋脚の形が異なるという点も、瀬戸大橋の面白さである。

展望タワーから園内を眺める

 記念公園の中には回転式展望タワーがあった。高さは108mで、ゆっくり回転しながら上昇して行き、108mの天辺では約2分、その位置で回転するらしい。

 高いところが苦手な私は、この手の施設は利用したことがなかった。が、「どうせもうすぐ死ぬのだから」と意を決して利用することにした。料金は800円。

 ゆっくりと回転しながら上がって(下がって)いくので、途中の高さからでも360度の景観が楽しめた。椅子に腰掛けたまま窓から外の景色を眺めるのだから、それほど恐怖感はなかった。

 ほぼ真下を眺める勇気も出てきた。写真は、記念公園の広い園内を見下ろしたものである。子供広場では課外授業で大勢のガキどもが集まり、そして走り回っていたが、その姿もよく見えた。

小瀬居島と大槌島

 多島海といえばエーゲ海がその語源になっているが、現在では多くの島を有する地域を呼ぶ一般名詞になっており、日本では瀬戸内海がその代表的存在だ。

 上の写真では小瀬居島と大槌島の存在がはっきり分かるが、その向こうにも直島や豊島、小豆島があるはずだ。が、その背後にある本州の山陽地域と重なってしまっているために区別はつきづらい。

周囲の埋立地は工業地帯

 この記念公園自体も「番の州」と呼ばれていた浅瀬を埋め立てた場所にあるのだが、この埋立地の東側部分には多くの工場や石油備蓄基地発電所などが建てられており、一大工業地帯を形成している。写真の左手に小高い場所が見えるが、そこはかつては「瀬居島」と呼ばれた島だったのだが、周囲が埋め立てられた結果、現在では陸続きになっている。

特徴的な山々

 坂出市の内陸部方向も眺めてみた(というより、回転するので内陸側も目にすることができる)。坂出市街まで橋脚が続いているのがよく分かるが、その先に見える山々はいずれも共通した形状をしている。先に見た「大槌島」も同じ形をしている。

 瀬戸大橋を岡山側から香川側に進み、四国に近づくと、何よりもまずこの山々の居住まいが目に付く。これはただ単に私だけの思いではなく、瀬戸大橋を利用したことがある何人もの知り合いも、異口同音にこの山々の姿かたちのことを話す。

 なお、この山々の代表的存在である「飯野山」については後述する。

丸亀城

高い位置にある天守

 丸亀市は私にとっては通過点でしかなかった。丸亀城の存在だけは少し気になってはいたけれど。ただ実際には、瀬戸大橋の坂出北ICを下りたら71番札所の弥谷寺(いやだにじ、私のお気に入りの寺のひとつ)に向かうためにひたすら西に進むので、丸亀市には立ち寄ることなく通過する。または76番の金倉寺や75番の善通寺(後述)に向かうために南に進み、丸亀市はあっさりと通り抜けてしまうことが今までのすべてであった。

 しかし、今回の旅はこれ以上、西に進む予定はなかったし、またこの日の宿泊地は琴平町だったために時間的余裕はあった。そこで、日本一高い石垣を有すると言われる丸亀城に初めて立ち寄ることにした。

 写真は「大手二の門」をほぼ正面から見たもので、そのすぐ右手にあるのが「大手一の門」だ。城ではお定まりの「枡形虎口」になっている。

 それにしても、天守は相当高い位置にあり、あそこまで上がるのかと思うと、大手門に入る前から疲労感を抱いてしまう。

天守までの長い道のり

 この城は亀山(標高66m)を利用して造営されているため、「亀山城」の別名を有する。山の形が「亀」に似ているところから亀山と名付けられ、その山を元に造ったのだから「亀山城」と、じつに明快だ。さらに言えば、亀は大体丸い形をしているので、この地は「丸亀」と呼ばれるようになり、それゆえ、亀山城丸亀城になったそうだ。記録にはそうあったが、実際のところは生駒氏に聞いて見なければよく分からない。

 城は16世紀末に生駒親正を中心に造られ、4層構造をもつ平山城だが、大手門から天守までの高さが60mもあり、日本一高い石垣をもつ城としてよく知られている。

 写真からも、天守まで長い道のりがあることが分かる。長く、そして急な坂が続くので、「見返り坂」と名付けられている。見返ると確かに「はるばるとよく上ってきたな」と自分を誉めてあげたくなるが、下から見上げたときは気持ちがどんどんと萎えてきて、途中退場も視野に入った。 

『扇の勾配』と言われるほど見事な曲線美

 石垣の隅角部は「算木積み」という手法が用いられ、写真では分かりづらいが、なかなか美しい曲線美を有している。見上げるだけだと立派さに恐れ入るが、天辺まで上がることを考えると、美しいという気持ちは半減(いやそれ以上)する。

月見櫓跡の展望台

 三の丸には写真の「月見櫓」の跡があって、現在は展望台として利用されている。写真にある遠くの山並みは中国山地のものである。また、写真では分かりづらいが、右手には瀬戸大橋の姿もある。

街並みを眺める

 月見櫓から丸亀市街地を中心に撮影してみた。このカットだと瀬戸大橋の存在がよく視認できる。

 丸亀市といえば「讃岐うどん」の名店が多いことでよく知られているが、丸亀なんとかという全国展開している店は一軒もない。というより、讃岐全体でも一軒しかない。

飯野山はメサの成れの果て

 飯野山(讃岐富士、標高422m)は四国の山としては「剣山」「石鎚山」「眉山」の次ぐらいに有名な山ではないか、と個人的には考えている。瀬戸大橋の項でも触れたが、この山の存在感は際立っており、山の姿に触れたときは「思えば四国に来たもんだ」という感慨を抱くほどに、その山容は特徴的である。

 讃岐にはこの形をした山が多い(先に触れた大槌島も)が、その代表格がこの飯野山だ。山の岩質を見ると、下部が花崗岩で上部が安山岩(讃岐石)。これはすでに触れている屋島とほぼ同じ性質で、屋島よりさらに差別浸食が進むと飯野山のような形になる。

 すでに触れたように、屋島のような形を"メサ"といい、それがさらに開析が進んで頂面が小さくなると"ビュート"という孤立丘になる。なお、ビュートとは「小さくなった丘」を意味する。

 サピエンスがこの宇宙から消え去ったずっと先、屋島飯野山のような形になり、飯野山は少し出っ張っただけの丘になっているだろうか。

讃岐には これをば富士と いいの山 朝げの煙 たたぬ日はなし

 この歌は「西行作」とされているが出典は不明だ。西行ファンの私としては、これほどの駄作を西行が詠んだとはとても思えない。

どうにか天守(御三階櫓)に到達

 60mの比高を一気に上った訳ではなく、あちこちを眺めながら進んだため、どうにかこうにか本丸にたどり着くことができた。写真の天守の高さは15m。現存する木造12天守の中では一番低いそうだ。なお、入城料は200円とのこと。

善通寺・第75番札所~弘法大師の生誕地

正覚門

 丸亀城を離れ、次の目的地である『善通寺』に向かった。寺のある場所は、古くは仲村郷と呼ばれていたらしいが、空海善通寺を開基してからは「善通寺」と呼ばれるようになり、現在は善通寺市の中心地に存在する。

 境内は4万5千平米あり、西院(誕生院)と東院(伽藍)とに分かれている。正門(南大門)は後に触れる東院にあるが、車で出掛ける人の大半は、大駐車場が境内の西側にあるために西院から入ることになる。もっとも、信心深い人は回り道をしてでも東院からお参りすると思うが。

 信心のまったくない私は、大駐車場から「善通寺物産会館」前を通り、弘田川に架かる「済世(さいせい)橋」を渡って、写真の正覚門から西院に入る。済世橋は1979年に架け替えられた石橋で、中国の天津橋を模している。

 門の左手に見える「パゴダ供養塔」(1970年8月15日建立)は、ビルマ戦線で戦死した18万余人とビルマ独立のために戦死した英・印の人々の霊を合祀している。

護摩

 西院は空海が生まれた地で、かつて佐伯邸があったとされる場所。空海の幼名は「真魚(まお)」という。現代ならばスケートの選手に向いていそうだ。父親の名は佐伯田公(たぎみ)といい、その諱(いみな)が善通(よしみち)で、善通寺はこの父親の諱を由来としている。

 西院には御影堂(大師堂)があるが、これについては後述するとして、まずは写真の不動明王が祀られている護摩堂について簡単に紹介しておく。

 護摩とは密教の秘法のひとつで、不動明王を奉じて供養し、壇上の炉に火を起こして護摩木を焼べて祈祷すること。護摩木に込められた願いは炎によって清められ、煙となって諸仏に届けられるとされる。

 したがって「護摩の灰」は本来、貴重なもののはずなのだが、後にはただの灰を「護摩の灰」と称して人々を騙し金品を巻き上げる輩が増えたことから、転じて泥棒を意味するようになった。

親鸞

 護摩堂のすぐ横には写真の「親鸞堂」がある。ここには木造の親鸞座像が安置されている。

 親鸞の師である法然善通寺を参詣して「逆修塔」を建立しているが、弟子の親鸞はこの地を訪れることはできず、その代わりに座像を贈ったと言われているそうだ。

境内は広大

 仁王門を通って東に進み、今度は伽藍のある東院を歩いてみることにした。写真から分かるとおり、境内は広々としており、こちらに金堂(本堂)や五重塔、釈迦堂、大楠、鐘楼などがある。大楠は、空海真魚ちゃん)が生まれたときにはすでに存在していたとされている。したがって、樹齢は1250歳以上であることは確かだ。もっとも、史実が事実であればの話だが。 

樹齢千数百年の大楠

 私が一番興味を抱いたのは写真の大楠だ。今年は空海の生誕1250年の年にあたり、4月23日から6月15日まで、大々的に『弘法大師御生誕1250年祭』が開催される。

こちらが山門(南大門)

 写真は、善通寺の正門である「南大門」。礼儀正しく?お参りするのであれば、この南大門から境内に足を踏み入れるのであろう。私にはどうでも良いことだが。

 「五岳山」の扁額が掲げられているが、これは善通寺は『屏風浦五岳山誕生院善通寺』が正式名称だからである。

 西院の西側には、讃岐ではよく見られる特徴的な山容を有する五つの峰(五岳山)が存在し、それを屏風浦と称している。その有様は、すでに紹介済みである「五剣山」を背後に控えた「八栗寺」を思い起こさせる。

五重塔

 山門から入ると、すぐ左手に大楠があり、そして右手に写真の五重塔がある。基壇から相輪までは43mあり、木造の塔としては日本で3番目の高さだとのこと。

 今までに倒壊や焼失が3度あり、現存する塔は4代目で1902年に完成したとのこと。塔の中には、密教の中心的存在である五智如来が安置されているそうだ。

 毎年、ゴールデンウィーク時に1,2階部分が公開されるそうだ。

金堂(本堂)

 写真の金堂(本堂)は、山門からまっすぐ進んだところにある。1699(元禄十二)年に再建されたもので、「禅宗様」という建築様式からなり、本尊は薬師如来像である。

 参拝者は必ずここをお参りするので人気(ひとけ)は絶えないが、私はただ、遠くから眺めるだけで十分に満足できる。人気がなければ間近で薬師如来像を眺めたいが、信心のない私が近づくのは真っ当な参拝者やお遍路さんに失礼に当たると考えられるため、こうして距離を取っている。そのぐらいの常識は、私にもある。

御影堂(大師堂)

 他の霊場では「大師堂」であるが、ここ善通寺空海の生誕地でもあるため「御影(みえ)堂」と名付けられている。当初は、西院全体を「誕生院」と呼んで伽藍のある東院とは別の寺と扱と扱われていたが、現在では両者を合わせて善通寺とされている。

 先にも触れたように、この御影堂を中心とする西院は佐伯氏の邸宅があった場所で、御影堂の奥殿には秘仏の瞬目(めひき)大師像や弘法大師像、それに空海の幼少時の姿を現した稚児大師像、両親の佐伯善通像や玉寄御前像なども奉安されているとのこと。

 なお、この奥殿はかつては玉寄御前の部屋として利用されていたそうだ。つまり空海の原点がここに存在していたのである。

五百羅漢

 東院の端には、写真の五百羅漢像が並んでいる。私以外には見物する人はいなかったので、ひとりでじっくりと諸像を見ることができた。

 五百羅漢の五百は第一回、第四回仏典結集に参加人の数とされたり、仏陀の弟子のうち優れた500人を選んだなど諸説があるが、いずれにせよ、500体の総てが異なる姿をしているので私は、五百羅漢の姿かたちを見るのが大好きなのだ。

友人そっくり

 どの像も極めて個性的な顔立ちをしているが、ここでは写真の像の姿が一番、印象深かった。理由は簡単で、小学校以来の友人で、今でも付き合いのあるМ君にそっくりだからである。

 もっとも、羅漢(阿羅漢)は悟りの境地に達した人を指すが、М君は未だ煩悩に塗れているという違いがある。さして大きな違いではないと思うけれど。

◎満濃(まんのう)池

満濃池

 讃岐の国はいわゆる瀬戸内式気候なので雨が少ない。おまけに川が急なので農業用水の確保に苦労した。現在、香川県には約16000もの灌漑用ため池があり、農業用水の50%以上をため池の水に頼っている。

 写真の満濃池は日本最大の灌漑用ため池として知られ、2016年には「世界灌漑施設遺産」に四国では初めて登録された。また、19年に国の名勝に指定された。 

出水口

 この池は700年代の初頭に国守の道守朝臣によって造られたが、818年に決壊し、821年に大規模改修が計画されたが不首尾に終わった。そこで、嵯峨天皇空海を築池別当に任命し改修事業に当たらせた。

 空海が当地を訪れたことで、作業に協力する人が多く集まり、僅か3か月足らずで改修作業は終了した。空海堤体をアーチ式にし、余水吐きを造るなど現代にも通用する工夫をおこなった。

空海護摩壇を造って安全を祈願

 改修作業中、空海は岸辺に護摩壇を造り、護摩木を焚いて工事の安全を祈願した。写真は、護摩壇が造られたとされる場所を撮影したものである。

 設計は近代的でも材料は古代のものだったため、その後も決壊は何度か発生した。1184年の大決壊後は改修作業すらおこなわれず池は干上がり、1628年に大改修がおこなわれるまでは池内に民家や田畑が造られ、池内村と呼ばれたこともあったそうだ。

◎こんぴら表参道(の入口近辺)

表参道を行く

 満濃池を離れ、その日の宿泊地である琴平町に向かった。辺りが薄暗くなっていたことと、歩き疲れたことから外出はせず、翌日の金刀比羅宮参詣のためにしっかりと休息を取った。

 本宮(標高236m)までは785段、奥社(標高394m)までは1368段もある。琴電琴平駅は65m、参道の階段の始まりは73mなので、参道を起点とすると、本宮までの比高は163m、奥社までは321mである。ちなみに、高尾山は駅からの比高は408mなので、それを思えば楽勝なのかもしれない。

疲れを癒すための足湯がある

 金刀比羅宮象頭山(標高538m)の中腹にある。古くは琴平神社と呼ばれていたが、本地垂迹説の影響で「金毘羅大権現」と改称された。1165年には崇徳天皇を合祀した。明治に入ると「廃仏毀釈」の影響で金刀比羅宮に改められた。主祭神は大物主と崇徳天皇である。

 象頭山はその山容が象の頭の形に似ているからとされているが、釈迦が千人の弟子に説法した伽耶山象頭山とも呼ばれていたので、その影響を受けてその名が付けられたという説もある。

 山の岩質は下部が花崗岩、中部が凝灰角礫岩、上部が讃岐岩質安山岩なので、その比較的なだらかな山頂は、メサが風化しつつある過程であると考えられている。

いよいよ階段の始まり

 写真の場所から参道は緩い坂道から階段に変貌する。ホテルでの朝食の時、給仕のおばちゃんに階段は厳しいでしょうと尋ねたら、両側に店が立ち並んでいるので、それらをひやかしながら上がっていけば案外、楽ですよと答えてくれた。

まだ百段目

 確かに、写真の百段目あたりまではかなり緩やかな勾配で、かつ、店舗が並んでいるので、それらを覗きながら進めばさして疲労感を抱かない。

やや急な階段

 が、130段目あたりから階段はやや急になり、疲労感が一気に湧いてきた。何しろ、前日まで毎日、15000から20000歩をこなしていたので、疲れは相当に蓄積していたようだ。しかも、この日は四国山地の中を歩くし、最後は高知城に上る計画もあった。

 時刻はまだ10時を少し過ぎたところ。今日の予定を思ったとき、さらに足が重くなり、一歩一歩がとてつもなく苦しいものになってしまった。当初は、せめて本宮まではと考えていたのだが、これではそれも厳しいかもしれないと思うと、早めに撤退の決断をした方が得策だと考え、200段も行かないうちに転進することにした。

うどん屋が目に付く

 金刀比羅宮では古くから「代理参拝」というものがあったらしい。有名なのは清水の次郎長の代わりに森の石松が参拝し、親分から預けられた刀を奉納したという話だ。

 なかには犬を飼い主の代わりに送り込むというのもあったそうで、首に奉納品などを巻き付けて本宮まで行かせたとのことだ。これを「こんぴら狗」と言う。

 どちらの作戦も私には出来そうもないので、どうやら、私のこんぴら詣では未達に終わりそうだ。

うどんは一回も食べず

 こんぴら参道にもたくさんのうどん店がならんでいた。香川県は「うどん県」を標榜している。雨の少ない香川は米が作りづらい場所柄なので、どうしても小麦作りが盛んになる。その結果の「うどん」なので、古くから親しまれてきたのだろう。というより、庶民には米は高価な存在なので、やむを得ず、うどんを主食にしていたのではないか。そもそも日本全国、庶民が米を主食に出来たのは、アジア太平洋戦争後なのだから。

 実際、讃岐うどんが名物として取り上げられるようになったのは、今から60年ほど前にすぎないのだ。

 私は若い時分には「天玉うどん」をよく食していた。が、次第に消費量は減り、現在では年に2,3回食べればいいほうだ。

 四国には数えきれないほど訪れているが、香川で讃岐うどんを食したのは過去3回しかない。今回は一度も食べなかった。多分、次回に訪れたときも食さないだろう。

 それでも、香川は十分に魅力的な県である。屋島があり与島があり猫の島がある。鬼ヶ島だってある。栗林公園があり金刀比羅宮があり丸亀城がある。ことでんが走っている。飯野山があり満濃池がある。大窪寺善通寺八栗寺弥谷寺白峯寺がある。

 香川を訪れる理由は無数にあるのだ。

〔82〕よれよれ西国旅(3)少しだけ逆打ち~そして屋島、高松港まで

金刀比羅宮に通じる高松琴平電鉄ことでん

大窪寺(八十八番札所)から車で逆打ち

大窪寺の山門

 徳島県美馬市の宿を出発。この日は香川県高松市に宿をとっていた。

 国道193号線を北上して讃岐山脈に入り、徳島と香川の県境を越えたところで国道377号線に移って東進し、八十八番札所の『大窪寺』を目指した。この日は「遍路ウォーク」なる体験会があるようで、多くの老若男女が大窪寺を目指して歩いていた。また休日だったこともあり、紅葉真っ盛りな山々に触れるためか車の数も多かった。

 大窪寺の山門に近い駐車場は満車で、もっとも離れた場所に何とか駐車できたほどの混雑ぶりだった。

 この日は大窪寺が最初の目的地で、その後は八十七番から八十四番まで順に訪ねる予定でいた。奇しくも「逆打ち(さかうち)」となった。霊場巡りはどこからスタートしても構わないのだが、すべての霊場を制覇したい(歩きでも自転車でも自家用車でもレンタカーでもタクシーでも)と考えている人は一番から始めて、写真の八十八番で結願するという進み方が大半だ。これを順打ちという。

休日なので参拝者と観光客で混雑

 一方、八十八番から始めて一番で結願する(これを逆打ちという)と考える人もいて、この方が順打ちよりも三倍ご利益があるという説もあるらしい。これは、弘法大師は今でも順打ちで霊場巡りをしているので、どこかで大師に出会っているからだ、というのがその理由だそうだ。また、うるう年には逆打ちが流行るらしい。

 いずれにせよ、ご利益を期待してお遍路をするというのはどことなく道徳的(カント的意味で)ではないような気がする。もっとも私の場合、参拝行為は一切しないので、順打ちでも逆打ちでも出たとこ勝負でも何でも良い。信仰心はまったく持ち合わせていないからだ。ただし、弘法大師には是非とも出会いたいと思うが……。

仏閣よりも背後の山に目を奪われる

 大窪寺の境内は標高450m付近にある。ここでは結願した巡礼者がすり減った金剛杖を奉納する場所があるのだが、この日は大混雑状態だったので境内見物は早めに切り上げてしまったため、その様子を見ることはしなかった。

 その代わり、本堂の背後にある高い石山(標高690m)をしっかり目にすることだけはいつもの通り、忘れずにおこなった。

色彩豊かな庭園

 大窪寺はよく整備された庭園も人気があり、この時期は紅葉と黄葉の対比が誠に見事だ。

紅葉狩りで大賑わい

 紅葉の見物場所は大賑わいだった。こうしたところは本来、私はできるだけ避けるのだが、逆光に映える木々があまりにも素敵だったため、少しだけ足を止めて撮影をおこなった。

長尾寺(八十七番)と志度寺(八十六番)

長尾寺の山門

 八十七番札所の長尾寺は標高36mの位置にある。大窪寺との距離は15.6キロ。逆打ちの場合は下りではあるが、順打ちの場合は比高414mの上りであり、かつ、距離は相当に長い。

 10数年前だったか、長尾寺からさほど遠くない場所(県道3号)で、70才代と思える御婆さん遍路とすれ違った。私は車で大窪寺から長尾寺に向かい、その方はこれから大窪寺に向かうはずだと思えた。午後2時過ぎのことだ。おそらく、一般の人の足でもそこからはあと4時間は掛かるはずだ。陽の長い時期だったが、山は暗くなるのが早い。そんな苦労を背負いながらひたすら結願所に向かうその姿に接したとき、私は路肩に車をとめ、まだ緩い坂道ではあったものの、しっかりした足取りで進んでいく後ろ姿にしばらくの間、見入ってしまった。その生き様に何とも表現できない感動を覚えたという記憶が、いまでも鮮明に残っている。

本堂

 大窪寺の喧騒が嘘のように、長尾寺の境内は静まり返っていた。

大師堂

 大師堂の前には一人だけお遍路さんの姿があった。その身軽そうな様子から、その人物は車で移動しているのだろうと思えた。だからといって、安直な遍路旅であるとは決して思えず、それぞれの人が、それぞれの困難を背負いながらそれぞれの道を進んで行く。どんな旅をするのかではなく、旅をすること自体に価値がある。

やや狭い長尾寺の境内

 写真のように長尾寺の境内はやや狭め。ここに参拝に来る人にとっては広かろうが狭かろうが信心には変わりないのだろうが、私のような不信心者にとってはあまり興趣が沸かないので、早めにこの寺を離れた。

志度寺の山門

 八十六番札所の志度寺志度港のすぐ近くにある。境内の標高は1.6mしかない。海岸沿いにある駐車スペースに車をとめて、山門へと向かった。

 参道のすぐ脇には行基が開いたと言い伝えのある円通寺がある。こちらは「さぬき三十三観音霊場」の三番にあたる。志度寺塔頭寺院なので同じ敷地にあって何の問題はない。

仁王像と大わらじ

 円通寺の境内が綺麗に整っているのに対し、志度寺は何となく雑然とした感じがある。山門の仁王像も相当にくたびれた様子だ。

本堂

 緑が多いと言えば聞こえは良いが、実際にはあまり手入れの行き届いていない境内を進むと、写真にある本堂が見えた。

般若心経を心底から唱える人々

 先の長尾寺に較べるとお遍路さんの数は多いようで、大半の人は仕来り通りに般若心経を唱えていた。

大師堂

 隣の大師堂の前には観光客らしき姿もあった。南側には薬師堂などの施設もあるが、とくに立ち寄らなかった。

うらぶれた鐘楼

 鐘楼はかなり見すぼらしい様子で、ほとんど使用されていないかのようだった。この寺には特筆すべきものは見当たらなかったので、早々に寺を離れ、次の八栗寺に向かった。

八栗寺(八十五番札所)と五剣山

八栗寺行きのケーブルカー

 屋島の東側にあって、四国最北端の竹居岬を有する庵治(あじ)半島の付け根付近の高台にあるのが八十五番霊場八栗寺だ。本堂のある場所の標高は221mなので歩いて上れないことはないが、大半の人は写真のケーブルカーを利用する。登山口駅は標高72mのところにあり、山上駅は230mである。 

寺社だけど鳥居あり

 ケーブルカーはひたすら山上を目指すだけで、とくに景観の良い場所はない。上りの時の左手にはときおり、歩き遍路の人の姿が見える。

 山上駅は本堂のやや南側にあるので、そこを目指す場合は舗装された緩い下り坂を進むことになる。写真のように、寺社でありながら鳥居を有する。これは神仏習合の影響であろうが、そんなことを気に掛ける人はほとんどいないようだ。

真新しい多宝塔

 鳥居の次に目に入るのは真新しい「多宝塔」だ。ここは十分に「絵」になるため、観光目的の人にはとくに人気がある。

八栗寺の天津甘栗

 次に目に入ってきたのは「天津甘栗」の露店。参道に堂々と店を構えることができるので八栗寺公認の店であろう。こちらは日中友好の証なのかもしれない。

聖天堂(歓喜天堂)

 ケーブルカーからの参道の突き当りにあるのが写真の「聖天堂」(歓喜天を祀ってあるので歓喜天堂とも言われる)。

本堂と五剣山

 聖天堂の右手にあるのが本堂である。背後に見えるのが独特の山容をもつ「五剣山」で、信仰心のない私がこの八栗寺を好むのは、唯々、この山がお寺の後ろに聳えているからだ。

 あとから何度も出てくるが、五剣山はその名の通り、五つのピークを有し、向かって左から「一ノ剣」「二ノ剣」……となる。四ノ剣がもっとも高く標高は375mだが、一ノ剣がこの山を代表していることから、五剣山の標高は366mと記される場合もある。また、五ノ剣は1707年の安永地震で崩落してしまった。

 空海は唐に出掛ける前にこの山に八つの焼き栗を植えて求法の成否を占った。唐から帰ると芽が出るはずのない焼き栗が皆芽吹いてことから、この寺を八栗寺(それまでは八国寺)としたという。

大師堂

 五剣山のことを八栗山と呼ぶこともあるそうだ。それだけ、この寺と五剣山との結び付きは深い。

納経所

 聖天堂の隣には、写真の「納経所」がある。お遍路さんは皆、納経帳を持参して、この場所でお参りをした証として記帳してもらうのだ。団体ツアーの場合は、ガイドさんが納経帳を集め、まとめてここに持参し、客が参拝している間に記帳を済ませておく。そうすることで時間の節約ができ、それだけ多くの寺を巡れるからだ。

こちらが山門

 本堂の南西側に写真の山門が見えたので見物に行った。この山門が八栗寺の正面入り口になる。大半の人はケーブルカー利用なのでこの山門の存在には気づきもしないが、歩き遍路にとってはここからが境内の始まりとなる。

 冬至の日に本堂から山門方向を眺めると、丁度、この山門のある場所に陽が落ちるとのことだ。空海はそのように図面を書いたのだろう。

山門前に展開される景観

 山門から本堂方向を眺めると、五剣山の姿がよく見える。今では「四剣山」になってしまったが。四つ並んだ団子状の山の一番右手のピークが375mの「四ノ剣」である。

ミニ八十八か所巡りができる。

 境内には、八十八か所霊場すべての名を刻んだ仏像が並べてある。こうしたミニ巡礼場はいくつかの寺に設置されている。忙しい人にはとても便利だ。もっとも、それでご利益があるかどうかは別だが。ご利益などまったく気にしない私は、のんびりとミニ巡礼をおこなった。他に人影はまったくなかった。

ケーブルカーから下りて来た御一同さま

 山上駅に戻った。丁度、ケーブルカーが到着したところで、写真のようにお遍路さんの団体が本堂方向へ歩を進めていた。この場所からは崩壊してしまった「五ノ剣」の姿が見て取れる。こうして眺めると、確かにそこにも「お結び型」の山があったように見える。

 五剣山の頂上付近の岩質は安山岩質凝灰角礫岩である。安山岩だけでできていれば崩落は免れただろうが、角礫岩では風化に弱いので、それも致し方ないことであろう。

駅舎横から屋島を望む

 ケーブルカーが発車する前に、次の目的地である「屋島」を眺めた。天辺が非常に硬い岩質でできているため風化に強く、差別侵食のためにテーブル状になって残っている。これを「メサ(卓状台地)」と言う。

屋島屋島寺(八十四番札所)

屋島を南側から望む

 ハ栗寺を離れ、次の目的地である屋島に向かった。八栗寺のある庵治(あじ)半島と屋島とは、狭い海峡を挟んだお隣同士にある。

 一旦、国道11号線に出てから少しだけ西に進み、高松交差点を右折すると、やがて屋島の天辺に向かう「屋島スカイウェイ」に出る。写真は、そのスカイウェイの手前で「ことでん志度線」の通過待ちをしているところである。

 ここからは屋島の南端がよく見える。屋島は南北に長く東西に細いため、この位置からは「メサ」というより一層浸食が進んで孤立丘となった「ビュート」にも見える。

観光客用?の山門(東大門)

 屋島寺屋久島から奈良に向かう途中の鑑真によって開基された。そのときは北嶺に普賢堂が建立された。815年には嵯峨天皇の勅願を受けた空海が、北嶺にあった伽藍を南嶺(つまり現在の地)に遷し、千手観音像を本尊とした。現在の本尊は10世紀に造られた十一面千手観音座像である。

 屋島寺のある屋島の天辺には大半の人は車で上がってくるので、屋島寺へは写真の朱塗りの門(東大門)から入る。一方、歩き遍路の人は仁王門、四天門を経て本堂に至る。

境内は相当に広い

 東大門は本来の正面口ではないため、本堂よりも先に大師堂に行き着く。境内はかなり広いので、大師堂に達する前にも鐘楼、千躰堂、三躰堂、一願不動尊にも出会う。

大師堂

 この日は人が多くても大半は観光客の姿だったので、大師堂で般若心経を唱える人の姿はなかった。駐車場は満車で、駐車できるまでには30分以上、屋島スカイウェイ上で待たされた。もっとも、帰るときには私が待たされた行列の2倍以上の長さができていたので、駐車するまでにはおそらく1時間以上は待たされるのではないか。それも修行である。

蓑山大明神の鳥居

 本堂の右隣にある「蓑山打大明神」の前には2体のタヌキ像がある。このうち、左のタヌキが「屋島太三郎狸」で日本三名狸の選ばれている。

 平重盛に助けられ、平家の守護を誓った狸の子孫が太三郎狸で、屋島に凶事が起きそうなときはいち早く寺の住職に知らせたということから、いつしか屋島の守護神になったとされる。

 スタジオジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』の太三郎禿狸は、この太三郎狸がモデルになっているそうだ。

本堂

 この本堂は1618年に再建され、元は桃山時代のものと考えられてきたが、1957年の解体修理の際、鎌倉時代のものと思われる古材や建築手法が見つかったことから、鎌倉様式を取り入れて再建された。

 それにしても、参拝客は少ない。その理由は明瞭で、ここを訪れる大半の人は境内の西にある「新屋島水族館」を目指すのだ。そこへは東大門から参道を歩く必要があるため、駐車場は満車になるのだ。

四天門

 本堂の南側に四天門がある。「増長天」「持国天」「多聞天」「広目天」の四天が前後に置かれているところから四天門と呼ばれている。仁王門はこのさらに南側にある。歩き遍路では仁王門、四天門を経て本堂に至る。この筋道がお遍路さんの本来のものである。

一願不動尊

 一心に願えば、一つだけ願いを叶えてくれるらしい。私がもし一つだけ願うとすれば、次のひとつである。「あの日にかえりたい」。

屋島の中腹から五剣山を望む

 屋島スカイウェイには島の中腹から庵治半島を眺められる駐車スペースがある。

 向かいの半島との間にある狭い海峡が、源平の戦いのなかでも重要な役割を果たした「屋島の戦い」(1185年)の戦場となった。

 現在、屋島は讃岐平野と陸続きになっているが、当時はその名の通り島であった。しかし、干潮時には浅瀬が生まれるために騎馬で島に乗り込むことができた。平家側が3000騎(諸説あり)だったのに対し義経側は僅か150騎であったのものの、奇襲によって義経側が勝利を得た。その結果、源氏が瀬戸内海の制海権を得たことで、源平の戦いの帰趨は決した。

 この戦いの逸話としては那須与一の『扇の的』がよく知られているが、それが史実であるとするなら、やはりそのエピソードはこの海峡で展開されたのであろう。

周回道路から五剣山を眺める

 屋島には海岸に沿って走れる周回道路があるので、庵治半島向きから左回りで進んでみた。ひとつ上の写真同様、やはり目に付くのは五剣山の特徴的な姿である。また、その左手(北側)の山肌は大きく削られているが、そこでは良質な花崗岩が産出されるからである。

 ここで採掘される「庵治石」は日本で最高品質の花崗閃緑岩と言われ、日本三大石材加工産地のひとつ(あとに二つは茨城県真壁、愛知県岡崎。どちらも御影石)に数えられている。

 一億から6500万年前に海底火山から溶岩が噴出して花崗岩が堆積し、それが2000万年前に隆起して地表に現れたものである。ここの花崗岩はとくにきめが細かく、石材としてはもっとも良質とされ、六本木ヒルズ首相官邸などにも用いられている。また、大金持ちの墓石としても使用されている。

 今回は時間の関係で、庵治半島を訪れることはできなかったが、いずれ機会があれば必ずその採掘現場を訪れ、また庵治漁港へも出掛け「世界の中心で、愛をさけぶ」というバカげた行為もしてみたい。

屋島の北端部の眺め

 屋島の北西部に浦生漁港があり、そこには西に大きく突き出た堤防があるので、その場所から屋島の北端部(長崎の鼻)を眺めてみた。

女木島方向を眺める

 一方、西に目を転じると「女木島(めぎじま)」が目に入ってくる。この女木島は日本に数多くある「鬼ヶ島」のひとつとされ、島の中央部には「鬼ヶ島大洞窟」がある。

◎初めて「ことでん」に乗る

初めて「ことでん」に乗る

 「ことでん」は愛称で、正式には「高松琴平電気鉄道」という。かつては「琴電」と略されていたが、現在は「ことでん」を用いている。ただし、駅名などには「琴電」が未だに用いられている。

 讃岐地方に行けば「ことでん」の名前には当たり前のように目にし、実際には何度も乗ってみようと思っていたのだが、結局、車での移動の方が楽なので利用したことは一度もなかった。が、今回は「ことでん」のターミナル駅である「瓦町駅」のすぐ近くに宿を取ったので、短い区間ではあるが高松城跡や高松港の最寄り駅である「高松築港駅」までを往復乗車した。

高松港方向に出掛ける

 瓦町駅は「コトデン瓦町ビル」の2階に改札口があり、ホームは1階にある。10階建ての駅ビルを見るかぎり、とてもローカル線の駅とは思えないほど立派である。おまけに私の所有しているICカードの「パスモ」も使用できた。

 写真の車両は、本来は青の部分は白色なのだが、ウクライナを支援する思いを込めて青色に染めたらしい。 

終点の高松築港駅

 写真の高松築港駅まではわずか1.7キロ。二駅の短い乗車ではあったが、色々なカラーに染められた電車に出会えたので満足度はかなり高かった。

いろんなカラーの電車がある

 写真の車両は通常色である白と黄色に近いのだが、何故か「蜂」をモチーフにしている。これは地元企業が開発したアプリ「veBee」の宣伝を兼ねたタイアップ活動の一環としてカラーリングされたものであるらしい。

玉藻公園(旧高松城)を散策

高松城跡は「玉藻公園」として整備

 万葉集讃岐国の枕詞として「玉藻よし」が用いられたことから、高松城跡は「玉藻公園」の名で公開されている。この城の敷地は北側が海に面している「海城」で、水軍が直接、瀬戸内海に出陣できるように設計された。

公園の出入口(西門)

 ことでん高松築港駅のすぐ隣に写真の西門があり、入場料200円を払えば城内(園内)を見学できる。

月見櫓は修復中

 高松城でもっともよく知られているのは写真の「月見櫓」であり、一般公開されることもあるが、このときは改修中だったために内部をのぞくことはできなかった。

天守閣などは石垣のみ残る

 いくつかの櫓(やぐら)は残っているが天守閣は老朽化が進んだためにすべて廃棄され、現在は石垣のみが残っている。

 写真の右手にある「鞘橋(さやばし)」は二の丸と本丸とをつなぐ唯一の橋で、ここを通って本丸跡に行くことできる。その本丸跡は展望台となっており、周囲を見渡すことができる。

堀には魚の大群が

 本丸の周囲には堀が巡らされている。この堀の水は完全に海水なので、この中を泳ぐ魚はすべて海水魚である。

 写の右手に魚の群れが見えるが、これらはマダイとクロダイだった。

餌を待つ魚たち

 西門のすぐ近くには水門(次の写真)があり、その横に餌やり場がある。自販機でガチャガチャに入った餌を購入し、写真にある竹筒の中に餌を落とし込むとその先端部から餌が水面に落ち、それをマダイやクロダイたちが食べるという仕掛けである。

 園内にはもう一か所、餌やり場があるが、「鯛の健康とお堀の水質保全のために、専用のエサ(ガチャガチャで販売)以外は与えないでください」という注意書きがある。

 なお、ガチャガチャはくじ付きで、当たれば「天守閣ピンバッチ」「鯛ステッカー」がもらえることになっている。こうした餌の販売と景品で観光客を釣るのは、この資金を元に天守閣を復元しようという願いが込められているからだそうで、これを「鯛願成就」というらしい。

 餌に群がる鯛を見る限り、マダイが3割、クロダイが7割といったところだった。もっとも、マダイはよく日焼けしているために体色は赤くなくて黒に近い。もちろん釣り人である私には簡単に見分けはつく。

お堀の水はこの水路から出入りする

 上述したようにお堀の水はすべて海水で、写真の水門から取り入れられている。もっとも、このときは干潮時であったために、お堀の水は海に向かって流れ出していた。

園内から高松築港駅を望む

 天守台に向かうために鞘橋を渡った。屋根付きの橋で、それが刀の鞘のように見える所からそのように名付けられたそうだ。

 この鞘橋の下にもタイが集まっていた。おそらく、橋の上からパン屑などを投げ入れる不届き者がいるためだろう。

 橋の上からは高松築港駅のホームがよく見え、先に紹介した「veBee」カラーにラッピングされた車両がとまっていた。

天守台跡から艮(うしとら)櫓を望む

 天守台の上はかなり人出が多く、とりわけ北側(瀬戸内海側)は大混雑していた。そのため、「フィジカルディスタンシング」(もはや死語か)を保持するために先端部は諦め、写真のように艮櫓方向を眺めた。

有名な水手御門

 二の丸から天守台を結ぶ橋は鞘橋ひとつしかない。したがって守りにはとても強い。その反面、長い籠城は困難だ。しかし、堀は海に繋がっている(いた)ために、いざとなれば船に乗って瀬戸内海に脱出できるのだ。

 そんな仕組みのひとつが写真の「水手御門」で、このときは干潮なので外堀は干上がっているが、潮が満ちたときはこの門の前に船が着けられるため、容易に瀬戸内海に出ることができる。

 城主はここから小舟に乗って沖に停泊している大船に乗る。その舟がこの門の前に着いたかどうかを見るために「着き見」転じて月見櫓と名付けられたらしい。

高松港を散策

高松港から女木島を望む

 夕間暮れ時を迎えつつあった高松港を少しだけ散策した。眼前に見えるのが先に紹介した女木島で、その先にあるのが男木島だ。私は前者には行ったことはないが、男木島には行ったことがある。ただし、その島の岸壁でクロダイ釣りをしただけなので、島の中を歩いたことはない。さらに言えば、対岸の岡山県玉野市の漁港から渡船で渡ったので、正式に言えば、男木島の岸壁だけ行ったことがある、ということなのだ。

瀬戸内海を渡るフェリー

 国際両備フェリーの第一こくさい丸(パンダ号)が出航した。船かこれから小豆島の池田港に向かうのだ。

女木島や男木島行きのフェリー

 港内には「めおん2」が停泊していた。「女木」の下には(鬼ヶ島)とある。それゆえ、これから桃太郎を乗せて鬼退治に出掛けるのかもしれない。もっとも、本当の鬼は女木島にはおらず、東京の永田町や霞が関界隈に無数居る。

◎瓦町に戻る

この電車で瓦町に戻る

 大分暗くなってきたので、瓦町に戻ることにした。入線してきたのはウクライナカラーではなく通常のカラーの車両だった。

 色は別にして、車両の形にはなんとなく見覚えがあった。そうだ。かつて京浜急行で用いられていた車両なのだ。赤に白線ではないけれど。

堀と鞘橋と石垣と月と

 発車までには数分の時間があったので、玉藻公園を覗いてみた。堀とそれに架かる鞘橋が見えた。明るい時分にはあの鞘橋からホームを覗いたのだった。その上方には天守台の石垣があり、さらにその上には月が輝いていた。

 明日も天気には恵まれそうだ。そしてどんな出会いがあるか、興味津々である。

〔81〕よれよれ西国旅(2)徳島市街、そして吉野川(というより中央構造線)を遡上

脇町・うだつの町並み

吉野川河口にて

眉山としか呼びようのない姿

 徳島市街の名所に「眉山(ひざん)」がある。標高290mの低山ではあるが、徳島市街のどの方角からも眉のような姿に見えるため、そう名付けられたとのこと。『万葉集』に「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山……」とあるところから、相当に古くから眉山と呼ばれていたことが分かる。

 天辺付近には公園が整備されており、徒歩でも自転車でも自動車でも、そして「阿波おどり会館」から出ているロープウェイを使っても公園に行き着くことができる。ただし、山頂付近にNHKなどの送信所があり、かなりの高さを有するアンテナが何本も立っているので、眉にいくつものゴミが付着しているように思えて少し興ざめだ。

 写真は、吉野川の河口付近から眉山を眺めたもの。市街地からだと高い建物がいろいろとあって現在では眉の姿をはっきりくっきりと見づらくなっているために出掛けてきた次第だ。もっとも、今回は吉野川河口を訪ねるつもりでいたので、そのついでということもあった。

川幅が相当にある吉野川河口

 眉山については後で触れるとして、まずは吉野川の河口を訪ねてみた。この川の長さは194キロと驚くほどの長さではないが、川幅は広く荒川に次いで日本では二番目だ。ただ”暴れ川”として中央構造線内をうろうろと流れるために土手間が広い(これは荒川も同様)だけで、最大2380mの川幅があるといっても、通常は河川敷のほうが圧倒的に広い。

 それでも「四国三郎」の異名を持つ(利根川は”坂東太郎”、筑後川は”筑紫次郎)だけに、河口近辺は写真から分かるように相当に広く水量もたっぷりとある。

 この日の旅は、この吉野川そのものを遡上するわけではなく、川の南北にある名所を訪ねることにあるため、川の表情を写しているカットはほとんどない。

眉山公園にて

駐車場から山頂付近を眺める

 徳島市周辺の姿を見渡すには、先に挙げた眉山の山頂近くにある「眉山公園」から眺めるのが好適だ。たとえ標高290mといっても歩いて上るほどの元気はないので、車で出掛けた。

 駐車場(標高248m)は山頂近くのやや窪んだ場所にあり、写真のように階段を上がって展望の良い場所から周囲を眺めることにした。もっとも見晴らしの良いのは無料の展望デッキ(標高265m)からで、西側以外の眺めは相当に良い。

 それにしても、アンテナ群は邪魔な存在だ。

山頂展望台から四国山地方向を眺める

 まずは西側を眺めた。遠くには四国山地の山並みが続いている。駐車場の向かいにあるのが眉山の山頂(標高290m)で、私が立っている場所は260から277m付近にある広場。休憩室やトイレ、それにのちほど訪ねる「阿波おどり会館」に通じるロープウェイの駅もある。

展望台から鳴門市方向を眺める

 展望デッキからはまず北側を眺めた。吉野川の向こう側には北島町松茂町、鳴門市があり、少し分かりずらいが「大鳴門橋」の姿も見える。橋の手前の山には「鳴門スカイライン」が整備されており、素敵な景観が楽しめる。昨日、晴天であったならその景色に触れる予定だった。が、大雨のためにその希望が成就しなかった。もっとも、その景観に触れる以上に価値のある偶然の出会いがあったことは前回に触れている。

 いずれ紹介することになるが、徳島から和歌山に渡る前日にその「鳴門スカイライン」に出掛けることができた。しかも好天に恵まれたためいつもは訪ねることのない場所にも行けたのだった。まさに、雨に恵まれ、晴にも恵まれたのだ。

 なお、大鳴門橋の向こうに見えるのは淡路島の山々である。 

徳島市街地を見下ろす

 目を北東方向に移動し、今度は徳島市の中心街を眺めた。左手に見える森はかつて徳島城があったところで、そのすぐ手前に徳島駅がある。

吉野川河口方向を眺める

 吉野川の河口方向を眺めた。川に架かる「阿波しらさぎ大橋」が完成したことで、国道11号線の「阿波大橋」の混雑がかなり解消された。

 紀伊水道に横たわる島が、前回にも取り上げた「沼島」だ。徳島市和歌山市とをつなぐフェリーはこの島の近くを通るので、その際にも紹介することになる。

新町川河口方面を眺める

 新町川方向を眺めた。この川は、かつては吉野川の一部だったが、河口付近に三角州が形成されたために本流とは分離され、現在では「新町川」と呼ばれるようになった。この川筋が徳島市ではもっとも賑やかだ。

 私が定宿にしているホテルはこの川の右岸側にあり、隣には徳島県庁がある。のちに紹介するが、和歌山市に至る「南海フェリー」の発着所はこの川の左岸側にある。 

小松島市方向を眺める

 南東側に目を転じると、小松島市方面の海岸線が目に入る。吉野川の右岸側には埋立地が広がるが、写真から分かるとおり、小松島市に近づくと大神子や小神子と名付けられた自然のままの海岸線が現れてくる。

麓の「阿波おどり会館」に向かうロープウェイ

 麓にある「阿波おどり会館」は何度も目にしたことがあるがその中を覗いたことはなく、今回、初めて訪ねてみることにした。写真のように、眉山公園からは阿波おどり会館の5階に通じるロープウェイが走っているのでとても便利だからだ、という単純な理由もあった。

阿波おどり会館に少しだけ立ち寄る

会館の正面側

 ロープウェイを下り、まずはエレベーターで1階まで行き、外から会館を眺めることにした。

休憩所の屋根も編み笠(おけさ笠)風

 会館の前には小さな広場があり、写真のような編み笠風の屋根を有する休憩所が二か所あった。

踊る人形たち

 館内に戻り、折角なので展示室を少しだけ見て回った。2階には「阿波おどりホール」があり、毎日、躍りの実演がおこなわれているようだがそれはパスして、3階の「阿波おどりミュージアム」だけをのぞいてみることにした。

 阿波おどりの起源は念仏おどりが原形のひとつと考えられているが、現在に伝わる盆踊りは江戸時代になってからとされている。日本三大盆踊りのひとつ(あとの2つは秋田県羽後町の”西馬音内の盆踊”、岐阜県郡上八幡市の”郡上おどり”)としてあまりにも有名だ。

 「踊る阿呆に見る阿呆」の掛け声がよく知られ、写真の人形の表情や動きからも激しい踊りが展開されることがよく分かる。もっとも、個人的には富山市八尾町で繰り広げられる「おわら風の盆」のような、どことなくもの悲しさを感じさせる風情の踊りのほうに興趣がそそられる。

昔の踊りをミニチュア模型で再現

 写真は、いにしえの「阿波おどり」を模型で再現したもの。現在の”激しい”ものとはずいぶんと様子は異なる。

鳴り物の今昔

 盆踊りには何かしらの「鳴り物」が必要で、ミュージアム内にはかつて使われたものや現在に使われているものとが対比されて展示してあった。

 阿呆には違いないが、躍ることも見ることもしなかった私は、早々に会館から引き上げることにした。ロープウェイで眉山公園まで上がり、そして駐車場に向かった。

国分寺とその界隈

府中バス停を通過

 眉山を下りて一旦、国道318号線に出てしばらく西に進んだ。この国道は吉野川の南側を走っている。もっとも中流域では吉野川とはかなり離れており、どちらかと言えば四国山地の北麓に沿って走っているといった方が妥当性がある。

 昨日には府中(こう)駅に寄ってからこの国道を使って東に向かい宿を目指したが、この日は西に進んで次の目的地に向かった。途中、写真にあるように府中(こう)バス停を通過した。

国分寺(十五番札所)の山門

 国府町にある大きな交差点を左折して国道192号線を南に進み、十五番札所である国分寺に向かった。ちなみに、八十八か所霊場には国分寺は4か所あり、阿波は十五番、土佐は二十九番、伊予は五十九番、讃岐は八十番となる。

 国府(府中)があるので、その近傍に国分寺があるのは、けだし当然である。ただし、令制国時代の国分寺がすべてそのまま残っているわけではなく、同じ場所に何度も建て替えたもの、近くに移動したもの、場所が特定されないものがある。

 写真は山門で、その右側の碑に「聖武天皇勅願所」とあることから、ここが国分寺であることの証左になっている。

 写真に写っているお遍路さんのグループはマイクロバスで乗り付けて来た一団で、私がやってきた後に到着し、私より先に次の札所(順番通りなら観音寺)へと向かっていった。案内役としてお坊さんも同行していた。

本堂

 本堂では一人でやってきた(彼も車で)お遍路さんが般若心経を唱えていた。

大師堂

 本堂の斜め横にはお定まりの「大師堂」がある。本堂前にいたお遍路さんは、つぎにこのお堂の前にやってきて、やはり般若心経を唱えるのだろう。

七重塔心礎

 山門のすぐ横には、写真の「七重塔心礎」が残されていた。国分寺には『金光明経』と『法華経』の写本が安置されることになっている。その七重塔がここにあったということは、聖武天皇の時代の国分寺がここら辺りに存在していたことの証明になる。

弥生時代の住居を再現

 国分寺からほど近い山裾に「阿波史跡公園」があり、写真のように弥生時代の竪穴式住居が再現されている。

史跡公園はやや高台にある

 この史跡公園は国分寺より一段高い場所にある。国分寺から6キロ北にある吉野川右岸の河川敷の標高は約5m、府中駅は7.8m、国分寺は12.7m、そして史跡公園は34.9m。国衙は洪水にあって流されても再建は容易だが、国分寺、とりわけ七重塔は令制国にとってもっとも重要な建物なので、洪水に遭いにくい場所に建てられる。

 さらに、弥生時代の人々は自然災害を避けるために少し高台に住む。それゆえ、住居は山裾に建て、田畑にはその下部の平地を利用したのだろう。

◎十一番札所・藤井寺(ふじいでら)

仁王門

 国道318号線に戻り西進した。第十一番札所の藤井寺に行くためだ。この藤井寺だけが「寺」を「てら」と読み、他の87の霊場は「じ」と読む。寺の読み方は通常は音読みなので藤井寺はなぜか「とうせいじ」ではなく「ふじいでら」と読ませる。これは、弘法大師が堂宇の前に5色の藤を植えたためという説明を目にするが、さほど説得力があるとはいえない。すぐあとに出てくる「切幡寺」は「きりはたじ」と読むが「きりはた」では訓読み(音読みでは”せつばん”か)で寺だけが音読みになる。ならば、藤井寺も「ふじいじ」と読んでも良さそうに思えるが。ともあれ、藤井寺だけが「てら」と読むのだということを知っておくとクイズ大会には勝利できるかも。

 藤井寺は三方が山に囲まれており、境内の裏手には険しい山道が続いている。写真の山門は標高33mなので丁度、山の入口に位置する。

本堂

 本堂の標高は38m。一帯はよく整地されており境内をうろつく限りは何の問題はない。

般若心経を唱える

 ここでは、バイクで乗り付けた若者が、真剣に「般若心経」を唱えていた。やや遅れて来た隣のおばさんも、これから読経を始めるようだった。

大師堂

 お定まりの「大師堂」は本堂のすぐ横にあり、お遍路さんを迎い入れようとしている。

お遍路の行く手に立ちはだかる難所

 境内の裏手にあるのが十二番札所の焼山寺(しょうさんじ)へ続く遍路道だ。「焼山寺みち」と呼ばれるこの山道は、歩き遍路にとっては最初のそして最大の難所と言われている。

 距離は約13キロなのだが、標高38mの地点から750mまで上り、そして400mまで下ってからまた上って705m地点にある焼山寺にやっとたどり着く。おおよそ6から8時間掛かると言われている山道だ。

 ハイキングだと考えれば中程度の難所なのだろうが、歩き遍路の場合、全行程は1400キロもあり、これと同程度の難所がいくつも控えているのである。

この先に「遍路ころがし」がある

 私が聞いた話では、折角、標高750mに達したにもかかわらずそこに札所はなく、それからさらに350m下ってまた305m上るという先行きの困難さを考え、その結果、750m地点で歩き遍路を断念して藤井寺まで引き返すという例が多いとのこと。そうしたこともあって、「焼山寺みち」の入口には、写真のような注意と励ましとを併せた看板が掲げられているのだ。

 こうした難所のことは「遍路ころがし」と呼ばれており、一般には全部で6か所あるとされている。

挫折者のために

 焼山寺道の入口付近には、「ミニ八十八か所」が設けられており、焼山寺みちのすぐ横には、写真のように、最後の札所(順打ちの場合)である八十八番札所の「大窪寺」の祠がある。

 一番から通し打ちをして八十八番まで到達するには、一日30キロほど歩いても約50日掛かる。初心者の場合、この焼山寺みちは概ね3日目に挑むことになる。余裕をもって60日の期間を予定してお遍路に挑んで、たったの3日目に転がされるのは屈辱以外なにものでもないだろう。が、何事においても「挫折」や「後悔」はいずれそのことに感謝する日が訪れると考え、他の事柄に挑戦してみてほしいものだ。

 私なぞ、転がされる前に、すでに転んでいる。

挫折者が利用する駅

 徳島線鴨島駅藤井寺の最寄り駅で、あえなく転がされた人々が挫折感を抱きながら帰途に着く場所として知られている。

 普段着に着替え、ここから徳島駅に戻り、ロープウェイで眉山に上り、紀伊水道を眺めながら悲嘆に暮れ、そして屈辱感を抱いたまま立ち上がり、また明日に向かって歩き始めよう。

◎八番札所・熊谷寺

多宝塔

 一番札所(霊山寺)から十番札所(切幡寺)まではほぼ撫養(むや)街道に沿った場所にある。撫養街道は鳴門市撫養町から三好市池田町に通じ、吉野川の左岸側を東西に結んでいる。というより、讃岐山脈の南縁を走っているといった方が分かりやすいかもしれない。

 この街道は比較的平坦な場所(中央構造線の北辺)にあるため、一番から十番までの札所もまた標高の低い場所にある。一番の霊山寺は21m、二番の極楽寺は12m、三番の金泉寺は6m、五番の地蔵寺は23m、六番の安楽寺は20m、七番の十楽寺は38m、九番の法輪寺は38mで、歩き遍路にとっては行きやすい場所にあるが、私のように霊場のある風景を好むという変人にとっては少々、魅力に乏しいという感を抱いてしまう。

 その点、4番の大日寺は70m、八番の熊谷寺は104m、十番の切幡寺は156mと、少し山脈に入り込んだ場所にあるために変化に富んでおり、それが私の好みなのだ。

 そんなわけで、鴨島駅の次に向かったのは八番札所の熊谷寺(くまだにじ)だ。国道318号線は鴨島駅近辺で北上し、「阿波中央橋」で吉野川を越えて、最終的には讃岐山脈まで突き抜けて東かがわ市に到達する。

 讃岐山脈を越えてしまっては目的地を通り過ぎてしまうので、徳島道の土成インターの少し先にある県道139号線に入るために左折すると、まもなく熊谷寺に至る。

 この辺りは溜池が多い場所なのでついのぞき込んで見たくなるが、その気持ちを抑えてまずは写真の多宝塔を眺めた。

中門

 熊谷寺の仁王門は、四国霊場ではもっとも古くて大きいものなのだが、やや離れた場所にあるためにそこまでは行かず、写真の中門でお茶を濁すことにした。

大師堂

 中門の先に写真の大師堂がある。

鐘楼と大師像

 中門のすぐ隣には鐘楼と弘法大師像がある。特筆すべきものはないが、山中にあるだけに、鐘楼であっても閑さを感じてしまう。

法輪寺に向かうお遍路さん

 写真の左手にある溜池をのぞき込んでいるとき、眼前を歩くお遍路さんが目に入った。この坂を下って道なりに進むと九番札所の法輪寺に至る。直線距離にして4.1キロほどだ。

 お遍路さんの前方右手に見える大きな屋根を有する建物が、熊谷寺の仁王門である。

◎十番札所・切幡寺

中門

 撫養街道沿いにある札所の中ではこの寺がもっとも趣きがある(個人の感想です)。

 初めて出掛けた時は、県道139号線沿いにある駐車場に車をとめ、参道をえっちらほっちら上り、仁王門を通過してさらに坂道を上がり、なんとか写真の中門までたどりついた。駐車場の標高は62m、中門は102mなので比高は40mしかないが、坂道を歩き慣れていない怠け者にはここでほぼ体力を使い果たしてしまうのだ。

 ところが、だ。中門の近くにも駐車場があることを知って以来、この寺を訪ねるときはもはや県道沿いの駐車場は使わず、直接、中門までやってきてしまうことになった。

 参道には白衣、金剛杖、納経帳などいわゆる遍路用品を扱う店が何軒かあり、どこかの寺で知り合った歩き遍路常習者の若者の話では、ここの用品がもっとも良質かつ安価であるということを聞いた覚えがあった。もっとも、私の場合は「お遍路さん」ではなくただの徘徊者であるため、遍路用品は不要なので、彼のアドバイスだけはありがたく頂戴し、私の身の回りに居る遍路希望者にその旨を伝えるだけであった。

本堂までの階段はややきつめ

 中門から本堂への道程は”楽"かといえば決してそんなことはなく、本堂までは333段の階段が待ち受けている。それも写真のように案外、急な場所もあるため、手抜き観光者といえども少しは体力と気力とを振り絞る必要がある。

女やくよけ坂

 写真にあるような「女やくよけ坂」「男やくよけ坂」を上がると、やっと本堂に達する。中門と本堂との比高は54mだ。

本堂

 切幡寺の名は、以下のような話が由来になっている。

 ここには機を織る乙女がいた。大師は結願の七日目、ほころびた僧衣を繕うための布切れを求めたところ、、その乙女は織りかけていた布を切って大師に差し出した。

大師堂

 そこで大師は千手観音像を彫像し、乙女を得度させて灌頂を授けた。すると乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体からは七色の光を放ち、千手観音菩薩に変身した。 

はたきり観音

 こうした言い伝えからこの寺は「切幡寺」と呼ばれるようになり、大師堂の裏手には、写真のような「はたきり観音像」が建てられている。

大塔

 切幡寺では、写真にある大塔もよく知られている。そこからの眺めは素晴らしいものがあるが、すでに疲れ切ってしまっていた私は、今回はその眺めに触れることをパスした。私には生まれた時から信心はまるでないが、もはや体力もなくなりつつある。

◎国の天然記念物~吉野川からの授かりもの

かなり見応えがある土柱

 本日の最終目的地は「脇町」だが、その途中にある「阿波の土柱(どちゅう)」に立ち寄った。切幡寺から県道246号線を西に進むと、徳島自動車道の阿波PAの上に出る。その北側にあるのが国の天然記念物に指定されている「阿波の土柱」だ。

 これは「世界三大土柱」のひとつ(残りはチロルの土柱、ロッキーの土柱)とされてている。ロッキーの土柱に較べると規模は圧倒的に小さいが、それでも「世界の~」という言葉を抜きにすれば、十分に見応えのあるものだ。

休憩所の裏手の崖にも

 この辺りの地質は、吉野川が生み出した砂礫の堆積層で、それが120万年前頃に隆起したのちに浸食作用を繰り返してできたものだ。一帯は公園として整備され、土柱内に入ることは禁じられているが、上部に登って上から見下ろすことも出来るそうだ。

 写真は天然記念物の場所からは少し離れたところにある休憩所兼駐車場の裏手にある崖だが、よく見ると、ここにも土柱らしきものがある。

こちらにも土柱はあるが

 より近づくと、たしかに規模は小さいながら、件の土柱と成り立ちはほぼ同じである。こちらももう少し隆起してくれさえすれば、もう少し崩れてくれさえすれば、ロッキーには及ばないものの、もっと壮大な土柱が展開されていたかも知れない。残念なことである。

◎うだつの町並み~脇町を訪ねる

うだつの町・脇町

 江戸中期から昭和初期にかけて建築された85軒の商家が、その豪勢ぶりを競うように豪華な「うだつ」を設けた家々が立ち並んでいることから、脇町(美馬市脇町)は”うだつの町並み”として全国的に知られている。

 うだつがまったく上がらない私にはそうしたものにお金をかける甲斐性はまったくないが、藍や繭の集散地として繁盛した商家にとっては”成功の証”として「うだつを上げた」のだろう。

立派な”うだつ”

 「うだつ」は本来、屋根の軒木を支える柱の役割のために存在するものだが、付随して類焼を撒逃れるための防火壁の役目も果たしている。そうしたものに贅を尽くすことは金持ちの証にもなるために、こぞって立派なうだつを立ち上げたのだ。 

鬼瓦にもこだわりが

 そればかりか、うだつの上がった家々は「鬼瓦」にも金に糸目をつけずに競い合っている。

脇町は藍の集積地

 脇町の北には讃岐山脈が、南には吉野川、そして四国山地が迫って来ており、また、讃岐平野にも比較的行きやすい場所に存在するため、商業の拠点として格好の立地条件があった。かつては舟運が荷物の運搬の主力であったため、この辺りに来ると流れが緩やかになる吉野川は行き来にはとても利便性が高かったのだろう。

懐かしさあふれる”脇町劇場”

 脇町にはうだつの町並みだけでなく、写真の脇町劇場『オデオン座』がある。1934年に芝居小屋(脇町劇場)として建てられ、その後は映画館に利用された。1995年に廃業・取り壊しが決定されていされたが、たまたま山田洋次監督の目に留まり『虹をつかむ男』という作品の舞台(オデオン座)として利用されたため存続されることになった。現在では映画館、芝居小屋としてだけでなく、住民たちの芸能文化の発表の場としても利用されているとのことだ。

夕間暮れをむかえる吉野川

 この日は美馬市に宿を取っていたので、脇町見物のあとは吉野川左岸をのんびりと散策した。「道の駅・藍ランドうだつ』のすぐ近くには、写真のような沈下橋(脇町橋)があった。脇町と穴吹町(どちらも美馬市)とを結ぶ橋だけに比較的、交通量は多かった。

 河川敷から沈下橋を眺めながら、次の日の旅程を思い描いた。陽は傾き、水面や橋、山や空、そして通過する車を染め始めたので、私は思考を止め、ただ刻々と変わりゆく光が織りなす芸術に目を奪われた。

〔80〕よれよれ西国旅(1)淡路、鳴門、そしてちょっぴり徳島

リヴィエール作『エデンの園』の一部分

◎18泊19日の旅に出る

明石海峡大橋を淡路SAから眺める

 体はすっかりヨレヨレになりながらも、心はまだまだあちこちに寄れ寄れと叫ぶため、少し無謀とも思えたものの18泊19日の旅に出ることにした。目的地は西国であった。アユ釣りでは昨年も紀伊半島の南端には何度も訪れていたが、いわゆる旅は少ししかしていなかったので、久しぶりに四国にも出掛けることにした。私にとって四国の地は東北同様、もっとも心が安らぐ場所だからである。

 淡路島から徳島に入り、それから香川に移動し、南下して高知、室戸岬まで行ったら今度は北上して再び、徳島を廻る。そして南海フェリーにて和歌山に移り、今度は紀伊半島を訪ね、恒例となった古座川界隈を散策したのち十津川を遡上し、最終的には奈良南部をうろついてから三重の一部を廻って帰途についた。

 長旅に出たのには諸事情があり、その最大の理由は31年ほど住んだ家の中を大リフォームするため、しばらく家を離れる必要があったからだ。もちろん、19日間ではリフォームは終わらないので、しばらくは仮住まいを続ける必要はあったのだが。

 リフォームそのものより、その前段階の不用品の片付けが大変だった。一番の不用品は自分自身なのだがそれをリフォームするわけにはいかないので片付けには及ばず、家の中の「物」で言えば、第一に書籍、第二に釣り具、第三に水槽だった。本と釣り具は9割、水槽関係はすべて処分した。愛着があるものもないわけではなかったが、必要性に拘泥すると少しも捗らないため、思い切って捨てることにした。

 次に、昨年に嵌ってしまった「古座川・小川」釣行が今年もさらに盛り上がってしまたため、片付けがなかなか進まなかった要因であった。さらに、6月から10月は「アユ釣り」シーズンのため、心はほとんど諸河川に飛んでいっており、ブログの更新はますますおろそかになってしまったのだった。

 それでも更新は少しは進んではいたのだが、古い写真に文章を付加するのは今ひとつ気乗りがしないため、こうして新しいテーマに取り組むことで、ブログ記事編集のページを開く習慣を再度、心に留め置く契機になるのでは、と、考えた次第である。とはいえ、実際に開始したのは1月の下旬になってしまったのだが。

◎まずは淡路島を廻る

 写真の淡路サービスエリアは淡路島の北端に位置し、明石海峡大橋を渡って間もない場所にある。府中から淡路SAまでは556キロ。5時45分に家を出て、ここには11時55分に着いた。

 淡路島は日本の国が産まれた最初の場所と言われているが、もちろんこれは単なる神話に過ぎず、日本列島の始原は約2000万年前に大陸の一部から切り離されたことによる。それがどうして起こったかは不明のままだし、さらに、ひとつの島として生まれたのか、それとも2つの島が合体してできたのかも解明されていない。

 そんなことは淡路島を旅する人にはどうでも良いことだ。ともあれ、本州から四国方面を目指すルートは主に3つあるが、おそらくその中でもっとも多く利用されるのは、この淡路島を経由するものだろう。

大橋をほぼ真下から望む

 私自身、四国へは3ケタに及ぶほどの数、足を踏み入れており、その3分の1ほどは明石海峡大橋を渡って淡路島を南に進んで大鳴門橋を経て四国に入る。ただ折角、淡路島を走るのだから通過するだけではもったいないので、一二か所は島の名所に立ち寄ることにしていた。

 淡路島そのものを目的地にしたことは5度ほどあるが、それはすべて釣り目的であり、釣り場は島の南側に浮かぶ沼島(ぬしま)なのだから、淡路島本島を目指したという訳ではない。

 今回の長旅は時間的余裕があるため、最初の宿泊地は鳴門市や徳島市ではなく淡路島を選んでみた。そういう訳なので、初めて島内を比較的余裕をもって見学してみることにした。それゆえ、明石海峡大橋の姿も、淡路SAからだけではなく、一般道(県道31号線)にある「道の駅あわじ」に立ち寄り、大橋をほぼ真下から眺めてみたという次第である。

大橋の下を漁船が行き交う

 道の駅の海側には遊歩道が整備されており、海岸沿いに降りることもできる。釣り人の姿も散見されたが、釣果の程は定かではなかった。近くに「岩屋漁港」があるためもあって案外、すぐ目の前を漁船が行き交う姿が見て取れた。

 漁港内には漁師めしを食べさせてくれる食堂もあるようだが、近年、めっきり食に関しては興味を抱かなくなったので、そこに立ち寄る気持ちにはまったくならなかった。

阪神・淡路大震災の爪痕に触れる

そのままの状態で屋内保存されている「野島断層」

 道の駅を離れ、次の目的地である「北淡震災記念公園」に向うために、島西部の播磨灘に面する海岸線を走る県道31号線を南下した。記念公園は県道から少し内陸部にあるが、案内板があるので場所は分かりやすい。

 1995年1月17日午前5時46分に発生した巨大地震阪神淡路大震災)は野島断層が動いたことが原因で、そのときの地面のズレを、当時のままの姿で写真のように屋内保存してある。

畑の畝のズレ

 写真のように、断層は上下に動いただけでなく横ズレも起こしたことが良く分かる。 

住宅の生垣のズレ

 さらに、屋外にある生垣を囲むレンガも大きく動いた様子も見て取ることができる。

地震直後の室内の状態を再現

 写真は、地震直後の室内の様子を再現したもの。先に挙げたように、地面があれだけ動いているのだから、室内が壊滅状態になるのは致し方ないことだ。

 そう遠くない将来、東南海地震の発生が危惧されている。阪神淡路大震災の規模はM7.3だったのに対し、東南海地震はM9クラスが想定されている。マグニチュードだけでその被害の大きさをそのまま測ることはできないが、それでもその規模には格段の違いがあるため、想像を絶する被害が生じることは明白だろう。

淡路国一宮~伊弉諾(いざなぎ)神宮

伊弉諾神宮の大鳥居

 淡路島が国の始まりなら、淡路島最古の神社である伊弉諾神宮が日本最古の神社であることは間違いない。伝説によると、この神宮がある多賀の地は伊弉諾大神天照大神に統治をすべて任せたのち、「幽宮」を構えて余生を過ごした場所とされる。

 写真の大鳥居は、大震災で倒壊した旧鳥居を再建したものである。

放生の神池(ほうじょうのしんち)

 神宮のある地は長年「禁足の聖地」とされていたため、現存する社殿などは明治時代以降に造営されたものとされる。写真の神池は、かつて聖地とされていた場所の周濠の遺構のひとつだったと考えられているとのこと。

 不老長寿や病気治癒を祈願するため、池には亀や鯉が放たれている。このため、「放生の神池」と呼ばれている。

祓殿

 写真の祓殿で心身の穢れを清めたのちに本殿に参拝することになっているとのこと。私は穢れ切った身であるため、ここでいくらお祓いしても清められることはないので、面倒なのでお参りは避けた。

夫婦大楠

 写真の大楠は樹齢が900年で、当初は2本だったものが生長して合体したと考えられている。奇樹であるためか、夫婦円満、子宝、長寿といった祈りをする人のための御神木であるらしい。

高田屋嘉兵衛記念公園

日露友好の像

 今回の淡路島徘徊でもっとも訪ねたい場所のひとつが「高田屋嘉兵衛記念公園」だった。彼については司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説で興味を抱いた。また、2000年にはNHKでドラマ化され、江戸時代後期になんと優れた人物が現れたものだと驚嘆させられたことを記憶している。司馬自身、1985年の講演会では、江戸時代を通じて最も偉かった人物として高田屋嘉兵衛を挙げ、それも二番目が思いつかなかいほど偉い人だったと語っている。

菜の花ホール

 司馬史観の影響を大きく受けている私としては嘉兵衛には大きな興味を抱き、一時は様々な歴史資料を漁ったことがある。それだけに、彼が生まれ育った淡路島の都志本村(現在は洲本市五色町都志)を訪れてみたかったのだが、今まで機を逸してしまっていて今回、初めて訪れることになった次第だ。

 写真の「菜の花ホール」には、嘉兵衛にまつわる資料が多数、展示してあった。また、公園は広々としており、ひとつ上の写真のように、「日露友好の像」などもある。今日のロシア情勢を見るにつけ、高田屋嘉兵衛のような傑物が存在すれば、少しは違った展開が期待できるのではないかと思ってしまう次第である。

高田屋嘉兵衛

 1769(明和六)年、貧農の長男に生まれた嘉兵衛は海によく親しみ、22歳のときに兵庫に出て樽廻船の水主(かこ)となった。大阪(大坂)から日本海を経て北海道を行き来する中、まだ未開の地に近かった箱館(函館)を商売の拠点と考え、28歳の時には当時では最大級の千五百石積の船(辰悦丸)を建造した。

 一方、当時のロシアは南下策を進めていたが、その動きを警戒するために嘉兵衛は幕府の要請によりエトロフ、クナシリ間の安全な航路を発見、開拓し、新たな漁場を開いていた。

ホール内の展示品

 1804年、ロシアはレザノフを長崎に派遣して幕府に通商を求めたが、鎖国政策を継続するためにこれを拒否していた。そんな中、11年に千島海峡を調査していたディアナ号がクナシリで水や食料の補給をしていたところを幕府側が拿捕し、艦長のゴローニンを幽囚した。一方、ロシア側はその報復としてたまたま近くで操業していた嘉兵衛の船を捉え、カムチャツカに連行した。

 嘉兵衛とディアナ号の副艦長のリゴルドは2人の間だけで通じる言葉を作り、ひと冬の間、辛抱強く交渉を重ねた。その結果、ゴローニンの解放が決定された。のちにリゴルドは、「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人物がいる」と嘉兵衛を称した。

 先に挙げた「日露友好の像」は、こうした嘉兵衛の優れた功績を称えたものである。

当時の帆船の模型

 菜の花ホール内には、そうした嘉兵衛の業績のほか、写真のように当時の帆船の模型なども展示されている。また、2000年に撮影されたNHKドラマのダイジェスト版も大スクリーンで見ることができる。

 現在の国際情勢は、ひとりの傑物が登場したところで解決が可能なほど単純なものではなく、利害があまりにも重層化しているためその見通しは暗澹たるものだし、なおかつ、そこに登場しているあまたの政治家の質があまりにも低いということも、混乱に拍車をかけているのが現状だ。せめて、嘉兵衛のような人間的な魅力に富んだ人物が数人いれば、少しは展望が開けるだろうと、つくづく考えてしまう次第である。

瀬戸内少年野球団の像

 記念公園の中には、写真のように「瀬戸内少年野球団」の像もある。これは作詞家である阿久悠が郷里の淡路島での少年時代を参考にして生まれた小説を映画化したものがモデルになっている。「あのとき空は青かった」が映画のキャッチコピーであるが、この日の空も青かった。

都志漁港から記念公園方向を望む

 少年・嘉兵衛が海に親しんだ場所が写真の都志漁港である。当時の港の姿は片鱗すら残っていないだろうが、現在、ウエルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛記念公園がある丘は、その建物群を除けば、当時と同じような姿形をしていたはずだ。

◎海岸線をひた走る

慶野松原にて

 県道31号線を南下する。写真の「慶野松原」は日本の白砂青松百選、渚百選、夕陽百選に選ばれている播磨灘沿いの名勝地である。ここで夕日を待っていても良いのだが、次の日は雨降りが予報されているため、この日に可能な限り各所を訪ねて置きたかったこともあり、いくつかのカットを撮影したのち、次の目的地に向かった。

土生海岸から沼島を望む

 この日の宿泊地は淡路島南端にある福良のホテルだが、まだ日があるうちに土生(はぶ)港まで行けそうだったため、その地から見える沼島(ぬしま)を眺めるために車を走らせた。

 港からは高い護岸堤が視界を遮るため、やや高台にある空き地に車をとめて沼島の姿を撮影した。

 この沼島が「おのころ島」であると考えられており、この島を起点に伊弉諾伊弉冉の二神は淡路島を生んだとされている。もちろん、ただのお話にすぎないだろうが。

 淡路島本島向き(つまり写真にある姿)の中央部に港があり、土生港とを結ぶ定期船が走っている。北向きは比較的おとなしい姿形をしているが、南側は荒波に洗われることが多いため、荒磯が続いている。とりわけ、少し沖にある上立神岩は有名な岩礁で、ここが「天沼矛」からの最初の一滴が造った岩礁とする説もある。

 私はこの沼島には5回ほど釣りに出掛けている。残念ながら上立神岩に渡礁することは叶わなかったが、すぐ近くの岩場からは竿を出すことができて、大好きなメジナ釣りを堪能したという経験が何度かある。

”うずの丘”から大鳴門橋を望む

 沼島を眺めたことで初日の予定はすべて終えたと思いホテルに向かった。が、その近くに「うずの丘・大鳴門橋記念館」があることに気付いたので立ち寄ってみることにした。

 夕間暮れ時だったので橋の存在は明瞭ではなかったものの、夕焼けの空と相まって興趣をそそるものがあった。うっすらとではあるが、鳴門の渦潮の姿もなんとか視認できた。

淡路島は玉ねぎの産地

 記念館はすでに閉じていた。駐車場には、何を販売するものかは不明(名産品の玉ねぎ関連であることは推察できた)ではあるものの、同じナンバーを持つ軽トラが停まっていた。「・251」の意味は未だに解けない謎である。

 (追記)その後、知人から連絡があり、「251」(ニコイチ)は自動車業界ではよく知られた数字で、事故で前がつぶれた車と後がつぶれた車を合体させて一台の車として販売することを表すそうです。写真の「玉ねぎ車」はその応用編で、左右の車を合体させるとひとつの玉ねぎになることから「ニコイチ」=「・251」にしたのではないかという知識を伝授されました。合点がいくとともに、彼の知識の広さに脱帽した次第です。

◎淡路島2日目~まずは鳴門海峡見物

ホテルの部屋から鳴門海峡を望む

 写真は、朝目覚めた際にホテルの窓から鳴門海峡方面を展望したものだ。昨日の予報では午後から雨とのことだったが、予想よりは雲が薄いようなので、それなりに鳴門見物はできそうに思えた。

鳴門岬先端からうず潮大鳴門橋を見物

 海峡方向に伸びる鳴門岬の先端部には「道の駅うずしお」があり、駐車スペースも広く取ってあるそうなので、朝食後、早速、海峡見物に出掛けた。この日は大潮に当たったので、潮の動きはかなり速かった。渦巻ができるまでには至っていないが、それでも潮の速さはしっかりと見て取れた。

自動販売機にも玉ねぎの写真

 道の駅の建物前には写真の自動販売機があり、ここにも玉ねぎの写真が大きく飾られていた。兵庫県は玉ねぎの生産量は全国第3位(1位は北海道、2位は佐賀県)ではあるが、兵庫県の生産量の大半は淡路島だと考えられる。

道の駅の入口にも玉ねぎの山

 入口にも、写真のように玉ねぎが置かれている。私は子供の頃は玉ねぎが苦手であったが、いまでは好物のひとつになっている。とはいえ、旅はあと18日続くため、ここで購入しても致し方ない。

伊毘(いび)漁港から大鳴門橋を望む

 予報よりも早く雨が降ってきたので道の駅を離れ、以前に訪れたことのある写真の港へ向かった。神戸淡路鳴門自動車道・淡路島南インターのすぐ近くにある漁港なので時間的なロスはなかった。

 天気のせいなのかは不明(良い釣りができるなら釣り人は天候は問わない)だが、前回訪ねた時は堤防上に釣り人がずらりと並んでいた。が、この日は2人を見掛けるだけだった。やはり釣果が芳しくないのだろう。

◎鳴門市側から鳴門海峡に触れる

大鳴門橋遊歩道からうず潮を望む

 伊毘漁港に長居する理由はなくなったので、すぐにインターに向かい大鳴門橋を渡ることにした。自動車道を鳴門北インターで降り、鳴門海峡に接するために県道11号線を北上して「孫崎」に向かった。そこには「大鳴門橋遊歩道・渦の道」があり、写真のように、自動車道に沿った歩道から渦潮を眺めることができる。さらに、橋の下にはガラス床でできた「渦の道・展望室」(有料)もある。

 ガラス床は怖そうだが、下が海ということもあってそれほど高さを感じないため、勇気と入場料を振り絞ってのぞいてみることにした。私にしては英断である。雨がかなり強くなり、外を歩くのが大変になってきたというのも理由のひとつだ。 

大鳴門橋遊歩道「渦の道・展望室」からの眺め

 完璧な渦潮とまではいかないが、潮の流れは相当に速いので、なんとか合格点を与えてもいいような気がした。

 鳴門の渦潮は「日本三大急潮」の筆頭である。かつては、しまなみ海道の終点(起点)にある来島海峡が第一位で、鳴門は二番、関門が三番といわれていた。しかし、海上保安庁の調査によって、鳴門の速さは10.5ノット(時速19.4キロ)で、来島は10.3(19.1)、関門は9.4(17.4)だと判明したため、鳴門海峡が急潮の筆頭に輝くことになった。

ガラス越しにうず潮を眺める

 こうした「日本三大なんとか」というのはいろいろな分野で見られ、例えば、三大美女では常盤御前小野小町静御前、三大急流は富士川球磨川最上川、三名瀑は那智、華厳、袋田、三大温泉は熱海、南紀白浜、別府などというものだ。一番有名なのは日本三景かも。

 なかには三大がっかり名所というのもあって、札幌時計台はりまや橋オランダ坂がよく挙げられるが、個人的には、札幌時計台の代わりに桂浜を入れたいと思っている。

渦潮と観潮船と

 渦潮を直接に体験するために、写真のような「観潮船」が何隻も走っていた。私の場合、鳴門と関門の両海峡は車で通過するだけだが、しまなみ海道の来島海峡は、大島から今治間をフェリーで移動することが多かった。理由は簡単で、潮の速さを体感できるからである。

◎雨宿りを兼ねて大塚国際美術館へ~奇跡の邂逅

システィナホールに圧倒される

 雨が相当に激しくなり、視界もかなり悪くなってきたので、当初に予定していた「鳴門スカイライン」や小鳴門海峡に触れることは断念した。この日の宿泊地は徳島市内。まだまだ時間は相当あるし、市内見物する場所も限られているため、致し方なく、「大塚国際美術館」をのぞいてみることにした。もちろん、初体験である。

 美術にはまったく興味がなく、有名な美術館に足を踏み入れたことは全然ない。倉敷では大原美術館のすぐ隣のホテルを定宿にしているが、美術館をのぞいたことは一度もない。よく割引券をいただくのだが。上野に出掛けても不忍池には行くが、美術館には見向きもしない。それゆえ、この美術館に入ったのは、単なる雨宿り以上の何物でもなかった。3300円の雨宿り賃は高価すぎるように思えたけれど。

 時間つぶしなので、特に興味を抱く展示品はまったく思いつかなかった。ここの展示品は「本当の偽物」が多数飾ってある。西洋絵画の代表作はほぼ網羅されている。もちろん本物ではないけれど。が、特殊加工された陶板に本物とまったく同じ絵が焼き付けてあるのだ。サイズもまったく同じなので、本物に触れるのと同じ感覚を味わえるそうだ。私には、本物を見た経験はないけれど。

 入口にあるシスティナホールからして見事なもので、礼拝堂の壁画が原寸大で再現されている。その大きさに圧倒されたが、それ以上ではなく、私は床に示された順路にしたがって移動を開始した。

中世絵画はキリスト教関連が大半

 古代の壁画や中世の絵画も数多くあった。ここでも、私は行儀のよい修学旅行生のように、ただただ歩みを進めた。何の感慨も抱かずに。

マダム・ポンパドゥール

 ここでは少しだけ立ち止まった。といって絵画に興味を抱いたわけではなく、ポンパドゥール夫人に関心があったからだ。

誰もが知っている名画

 誰もが知っている名画にも数多く触れたが、とくに感慨はなかった。堅気の仕事としてある程度の期間、世界史を高校生や浪人生に教えていたので、西洋絵画についての知識は多少あった。手持ちの資料集などで見知っていたからである。これも興味から生じた行為ではなく、仕事としての義務感からでしかなかった。

こんなにも大きいとは知らなかった

 資料集で見るのと異なる点はその大きさだけで、『最後の晩餐』がこれほど大きなものとはまったく知らなかった。

説明不要の名画

 絵画には興味がないので鑑賞眼はまったく持ち合わせていない。そのため、この作品の良さも理解不能なので、ただ「あれか」という思い以上のものはなく、撮影だけしてすぐに通りすぎた。

フェルメールの作品はどれもお馴染み

 フェルメールだけは少し興味があった。光と色の使い方が上手だからである。私は空間認識がまったく不得手で、三次元的にものを捉えることができない。それゆえ、光を上手に用いてくれないと立体感を抱くことがまったくできず、世界がすべて平板なものに見えてしまうのだ。

 私が韓国ドラマに嵌ってしまっている理由のひとつは、光の使い方が上手な作品が多いからだ。「冬のソナタ」はストーリーとしては平凡だが、絵がとても綺麗だったのでファンになった。そういえば、日本の『必殺仕事人』も光の使い方が上手かった。

 フェルメールのすぐ近所には微生物学者として著名なレーウェンフックが住んでいた。デルフトという小さな町で同時代に二人の傑物が存在していたというのは単なる偶然ではあるが、奇跡と言っても過言ではない。ちなみに、私の住んでいる府中市は傑物は一人も輩出していない。

真珠の耳飾りをしてないオバサン

 この美術館には「遊び心」が少しあり、名画の真似をして記念撮影できる場所が何か所かある。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』(青いターバンの少女)のすぐ近くには、小道具が置いてあり、写真のように青いターバンと黄色の上着を身に付けて、少女の真似をすることができる。

 何の臆面もなくモデルを気取れるオバサンが少し羨ましく、そして大きく怖い思いがした。

ムンクの傑作

 以下の数点は、知らない人はほとんどいないというほど有名な作品ばかりだ。ムンクのコーナーでは「叫び」を撮影したかったが大混雑状態だったのでこちらにした。

ゴッホの自画像

お馴染みのヒマワリ

 ヒマワリにはどの作品にも人が群がっていたが、この作品が一番人が少なかったので、何とか撮影できた。

印象派の由来となったモネの名画

 「印象日の出」の良さは私には理解不能だ。この絵を理解できないことが、私の美術に対する認識力が圧倒的に欠如していることの証になっている。

*私の人生観を変えてしまった名画

人生最大の絵画との出会いとなった作品

 こうして西洋絵画の代表作に無数に触れてきたが、知っている作品は少し眺めるだけか写真撮影をした。本当の偽物の偽物を記録に残しても意味はないのだけれど。

 知らない作品はチラリと見るだけで素通りに近かった。それでも一応、ほどんどの作品の前を通り過ぎた。何しろ、外は土砂降りになっていたので、ここで時間を潰すのが最適な選択だと思えたからだ。歩数計を見ると、この美術館内だけで一万歩近くを歩いたことになっていた。

 そんな怠惰な鑑賞行為を行っていた私を、突如として虜にしてしまったのが、この作品である。私はこの作品の前で固まってしまった。絵の魅力が私を動かせなくしまったのだ。素人ながら、構図や色使いは完璧だと思えた。10分ほど不動状態にいた(この10分は観念的時間で客観的時間ではない)が、少し緊張が解れたときに右にある作者名、表題、解説文に目が行くようになった。

 ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール(英)の名は初めて目にした。作品名は『エデンの園』(1900年)。舞台はイギリスにある冬枯れた公園。人影がまったくない中、エヴァは温かいまなざしでアダムを見つめる。かつてエデンの園を追われた二人は数千年の時を経てこの公園で再会した。かつての園のような豊かさはまったくないが、二人には希望に満ちた世界が広がっている。もはやエヴァを唆す存在はなく(ヘビは冬眠中か)、彼女の微笑みをアダムは心底から受け入れている。

 構図が見事だ。当初は二人の位置がやや左に寄っているのではと思えたが、これは凡人の理解であって、見ているうちに、これ以上の立ち位置はないと思えてきた。エヴァは唯々アダムを見つめているだけだが、鑑賞者にはエヴァの視線の先には輝かしい未来があると思わせるのだ。それが右手が広い理由だろう。アダムの表情は分からないが、もちろん、かれはエヴァの存在をすべて受け入れている。

 ヘビに唆されたエヴァは神に禁じられた木の実を食べ、そしてアダムに与え、彼もそれを食べた。その結果、二人はエデンの園から追放されることになった。そうしたエヴァが犯した罪を、この世界ではアダムは完全に許している。神に禁じられた木の実も、命の木を宿しているエデンの園はすでに存在しない(あまたの木は冬枯れしてしまっている)が、二人の前途には新しき『エデンの園』が生まれ始めている。そのことは、背後からくる淡い光によって象徴されている。

 私はこの絵を30分以上は見つめていた。この絵に出合った以上、他の絵を見る必要はなくなった。そのときに私は決心した。今後は、上野に行った際には西郷どんに会うだけでなく美術館にも立ち寄ろうと。この年齢になって初めて、美術品の持つ魅力と魔力とを得心した。

 そして、雨降りも好きになった。森高千里の『雨』以上に。

◎第一番札所・霊山寺

第一番札所に立ち寄る

 エデンの園、いや大塚国際美術館に別れを告げ、四国霊場の一番札所である「霊山寺」に向かった。雨は小振りになっており傘がなくてもなんとか歩ける状態になっていた。

 四国に初めて足を踏み入れたのは40歳のとき。他の都道府県にはすべて出掛けていたが、四国4県だけは未知の場所だった。たまたま四国での釣り取材が入り、ついに出掛けることになった。

 愛媛県南端にある釣り場の取材が終わり、私は四万十市(当時は中村市)から国道56号線を東へ進み、その日の宿に決めていた高知市に向かった。その日も雨降りだった。それもかなり激しい雨になっていた。

 そんな中、若い女性のお遍路さんが歩く姿に出会ったのだ。もちろん、他の場所でも遍路姿の人々は見掛けていたが、特に気には留めていなかった。しかし、豪雨の中、次の霊場(おそらく三十七番の岩本寺だろう)を目指して懸命に歩く姿に触れたとき、私の心は激しく揺さ振られた。それまでは八十八か所の霊場巡りにはまったく関心がなかったし、だからこそ四国には足を向けてはいなかったのだが、その雨中の邂逅から私の興味関心は一新され、霊場巡りに魅惑的な感情を抱いてしまったのだった。

 以来、私は自分が企画するムック(雑誌風の単行本)には必ず四国特集を入れ、企画から写真撮影、記事、編集まですべてひとりでおこなうようにした。日程も長めに取り、取材の合間に霊場巡りを入れた。結果、数年で八十八か所にすべて訪れることができた。

 もちろん、私には参拝する気持ちはまったくないので、白衣姿になることも、同行二人と書いたすげ傘を被ることも、金剛杖や納経帳を持つことはせず、ただただ霊場を訪ねてはお遍路さんのいる風景を撮影するだけだった。そのためもあり、あまり風雅を感じさせてくれない霊場は一回限りの参詣で終わる一方、興趣のある霊場には何度も出掛けた。

霊山寺の仁王門

 一番札所の霊山寺は平地にあってあまり趣きが感じられない(やはり霊場には山が相応しい)ので、訪れたのは今度で4回目にすぎない。ただ、発心の道場の一番手ということもあって観光客で賑わうことは多い。

 この日は時間は遅く、雨降りということもあって観光客は私だけ。お遍路さんも二人いるだけだった。

雨とお遍路さんと

 お遍路姿の二人は、仕来たり通り、本堂そして大師堂という順序で参拝していた。一方の私は参拝はせず、ただ見物するだけだった。

大師堂

 写真は放生池と大師堂。私はただの参詣者(見物人)なので本堂より先に大師堂を覗いた。

中をのぞくだけ

 件の二人は大師堂に向かっていたので、もはや本堂には人の姿はなかった。参拝しない私は、興味心だけは人一倍あるので本堂内を見渡した。お遍路さんは般若心経を唱えるのだが、信心のない私は無言のまま帰途についた。

府中駅に立ち寄る

徳島線府中駅

 郷土愛があるわけではないが、「府中」の名を見ると必ず立ち寄りたくなる。律令国令制国)の国府のある(あった)場所がのちに府中と呼ばれるようになったので、全国にはたくさんの府中がある。阿波国国府は現在の徳島市国府町にあったとされている。しかも字名として府中があるため、JR徳島線のこの地の駅名は国府ではなく府中となっている。

府中と書いて「こう」と読む

 もっとも府中は「ふちゅう」とは読まず「こう」と読む。国府は「こくふ」とも「こう」とも読まれるため、府中をあえて「こう」と読ませているのだ。したがって、国府町府中は「こくふちょうこう」と読まねばならない。これは難読地名としてよくしられていることだが。

 こうして、第2日目の旅は府中駅を訪ねたところで終了。すっかり雨の上がった国道318号線を東に進み、徳島県庁の隣にあるホテルへと道を急いだ。

 雨のお陰でこの日の収穫は極めて大きかった。そのお礼も兼ねて、車中の音楽は森高千里の『雨』を繰り返し流した(ついでに『渡良瀬橋』も)。

〔79〕琵琶湖周辺から醒井宿の清水を求めて

バイカモの花と虫。醒井宿の地蔵川にて

◎奥琵琶湖地区を散策する

今津浜水泳場の賑わいは今いずこ

 今津といえば『琵琶湖周航の歌』にも出てくるくらい名の通った場所のはずだが、実際に訪ねてみると実に閑散としている。もっとも私が出掛けたのは夏前だったので岸辺で遊ぶ人が少ないのは当たり前だろうが、それにしても建物群も相当に古めかしく、もはや盛りは過ぎてしまったという感がある。

今夏は華やぐのだろうか

 松の木とコラボしている写真のカフェも手入れが十分に行き届いていないようで、このままの状態では夏を迎えられるかどうか、他人事ながら危惧してしまう。余計なお世話だろうが。

ゲンゴロウブナの産卵地として知られる貫川内湖

 琵琶湖周辺には「内湖」と呼ばれる小さな池がたくさんある。かつては琵琶湖に含まれていたのだろうが、本湖の水量が低下しつつあるために分離されてしまい、今では水路で本湖と繋がっている状態だ。

 ゲンゴロウブナは琵琶湖の固有種で、その養殖個体が「ヘラブナ」として各地域の釣り堀、釣り池、溜池などに供給されている。この貫川内湖はヘラブナの原種であるゲンゴロウブナの産卵地として知られている貴重な池なのだ。

◎賤ケ岳の麓を訪ねる

賤ケ岳の麓にあった禅寺

 羽柴秀吉柴田勝家との戦い場としてよく知られる賤ヶ岳(しずがたけ、合戦は1583年)は『琵琶湖八景』のひとつに数えられているぐらいなので山頂からの眺望は良さそうだし、麓からはリフトが出ているので登るのは楽そうだし、と考えて出掛けていった。が、生憎の小雨混じりのために良い景観には触れられそうになかったのでリフト利用は断念し、代わりに麓の木之本町を少しだけ散策した。

 写真の西光禅寺には人気はまったくなかったが、建物は立派そうだったので撮影だけをおこなった。

琵琶湖と余呉湖との間にある賤ケ岳

 麓の集落には思いのほか家々が立て込んでいて、賤ヶ岳の姿は左手の家のアンテナの上方あたりに微かに見えるだけだった。標高421mの低山なので、それほど目立つ山ではないのだ。「合戦」があったからこそ、その名が記憶され、また難読漢字であっても多くの人が読めるのだろう。

賤ケ岳麓の集落には立派な家屋が立ち並ぶ

 それにしても、この集落には写真からも分かるとおり立派な家屋がやたらと目につく。これらが我が府中市にあれば「豪邸」と呼ばれてもおかしくないほど、一軒一軒の規模は大きい。

 とはいえ、この集落を30分ほどうろついたのだが、観光客らしき人に会っただけで、住民と思しき人にはまったく出会わなかった。

余呉湖をうろつく

和歌と羽衣伝説で知られる余呉湖(よごこ、よごのうみ)

 余呉湖の近くは何度も通っているが、湖そのものに触れたのは今回が初めて。余呉湖と琵琶湖との間に賤ヶ岳があることから、「賤ヶ岳の戦い」の関連で余呉湖を知っている人が多いと思う。が、和歌や俳句や羽衣伝説などで知っていたり、この湖の成り立ちの歴史、あるいは「鏡湖」という別名を有していて「写真映え」のする湖として認識されている場合もある。

余呉の海の 君を見しまに 引く網の 目にも懸からぬ あぢのむらまけ(西行

稲掛けの とるや芒の 余呉の海(秋櫻子)

余呉の海はヘラブナ釣りが盛ん

 余呉湖と琵琶湖とはこの湖にしか存在しない「固有種」が多いことでも知られているが、その理由は明確で、約3万年前まではこの湖と琵琶湖とは繋がっていたからである。現在は琵琶湖とは49mの落差があり、その間には賤ヶ岳(写真ではヘラブナ釣り師の傘の真上の山)があるために、琵琶湖と余呉湖が一体だったとは信じにくいかもしれない。

 が、そもそも琵琶湖の原型は、約400万年前に起きた断層のずれに水が溜まったのが始まりで、しかもその場所は現在の三重県伊賀市伊賀忍者、もしくは松尾芭蕉の生誕地として有名)だったのである。それが次第に北上しながら拡がりをもつようになり、現在の位置に固定されたのは約40万年前のことなのである。こうした古代湖としての成り立ちが「固有種」を生んだのである。

 そうした大地の躍動を考えると、賤ヶ岳のわずか421mの出っ張りや、琵琶湖との49mの落差など「誤差の範囲」程度しかないとも考えられる。

 それはともかく、この余呉湖にもゲンゴロウブナ由来のヘラブナが盛んに放流されており、写真のような水上の釣りデッキが設けられている。また、ワカサギ釣りも盛んなようだ。

鯉のアタリを信号で釣り人に伝える仕掛け

 陸からは、写真のような置き竿を数か所に配置してコイのアタリを待つ釣り人がいた。釣り人は車の中に待機し、アタリが出ると電気信号で釣り人のところまで情報が伝わる。私も一時期はコイ釣りにはまっていた(第26回参照)こともあって、こちらの仕掛けに俄然、興味がわいた。しかし、コイ釣りは典型的な「待ちの釣り」なので、実際に釣り上げる場面に遭遇できることは滅多にない。

ここには大鯉(80センチ以上)が当たり前の存在

 私がブルーギルを狙っている中学生と話をしているとき、件のコイの釣り竿が大きく曲がっていた。急いでその場所に駆け寄ったところ、獲物のすでに巨大な玉網(三角状)の中にあった。

 サイズは80センチ弱といったところ。釣り人によれば、このサイズは余呉湖では標準的なもので、狙っているのはあくまでも1mクラスであるらしい。もっとも釣りの場合、大きい魚だけを釣るというのは不可能に近く、結局、数を釣り上げる中で大型に出会う機会を増やすということしかない。

 こちらとしては大きなコイの姿を確認したということで十分に満足したので、この場を離れ、余呉湖を周回する道路を経て次の目的にへと向かった。

◎浅井氏の故郷を訪ねる

麓から山城がある小谷山を望む

 余呉湖を離れ、国道365号線を南下して「小谷城」方面に向かった。雨模様だったため(言い訳で、本当は疲れ切っていたから)に小谷城に上ることは断念し、代わりに、『小谷城戦国歴史資料館』に立ち寄った。

 小谷城は小谷山(標高495m)の南の尾根筋に築かれた山城で、1523,4年頃、浅井亮政が初代城主であり、久政、長政の3代が城主だった。日本の山城としてはもっともよく知られており、上杉謙信の居城として知られている春日山城などとともに「日本五大山城」に選ばれている。

小雨混じりだったので、今回は資料館をのぞくだけ

 歴史資料館には興味深い資料がまずまず集められてはいたが、館内はすべて撮影禁止だったため、外観しか写すことはできなかった。

 浅井長政は信長の妹の「お市の方」を継室として迎え、信長とは良好な関係にあったが、浅井は信長と敵対する朝倉義景と同盟関係を結んだために関係は悪化した。

 1570年の姉川の戦いでは信長、秀吉、家康VS朝倉、浅井の図式となり、信長勢の勝利に終わったが、堅牢強固であった小谷城は死守した。

小谷城の魅力をアピール

 しかし1573年、小谷城は信長によって落城し、長政は自害した。お市の方はその後、柴田勝家正室になった。

 小谷城は秀吉が受け継いだが、いささか交通の便が悪い場所にあるため、75年に秀吉は長浜(当時は今浜)に移り、小谷城は廃城となった。

 そうした「悲劇の城」的な要素があるため、この歴史資料館では、写真のような幟を掲げ、小谷城の魅力を大々的にアピールしている。 

◎五先賢の館~予想もしなかった偶然の出会い

五先賢の館

 旧浅井町(現在は長浜市)では日本の歴史上で優れた人物を5人も輩出している。この館の存在を知ったときには2人の人物しか知らない(覚えていない)状態であったが、ここを訪ねて様々な資料に触れたことで、残りの3人の業績と人物名が結びついた。日本史の入試では、この5人はすべて押さえておくべき必須の人物である。「相応和尚」「海北友松」「片桐且元」「小堀遠州」「小野湖山」の5賢人だ。

 地元の小学校では、この5人の業績を頭と体でしっかり学ぶそうだ。こうした下積みがいずれ、この地区から6人目の賢人を生むはずだ。

 ちなみに、我が府中市はゼロ先賢である。

庭園に入るための編み笠門

 五先賢の中でもっともよく知られているのが小堀遠州(1579~1647)であろう。

 茶人としては千利休古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、将軍家の茶道指南役でもあった。彼の茶道は「わび・さび」の世界に加え、美しさ、明るさ、豊かさを表現しているところから「綺麗さびの世界」と称されている。

 また、造園家としても超一流で、桂離宮大徳寺南禅寺などの庭園を作り出している。また、私の大好きな「水琴窟」の原点である「洞水門」も彼の発明である。

遠州流庭園

 さらに幕府の作事奉行としても活躍し、駿河城、二条城、名古屋城の修築なども手掛けている。

 私は庭園を見てもその良さを理解することはまったくできないが、それでも一流の庭師が手掛けた庭に接すると、心の底から安らぎを覚えるのは確かである。

 写真の庭園は「五先賢の館」のもので、遠州流の庭を再現している。

 当初は「五先賢の館」が存在することすら知らなかったが、小谷城跡に上がらなかった代案を探していたときに、地図上からこの館があることを知った。期待感はまったくなかったが、意に反して、数多くの発見を得たことは望外の喜びであった。

 「見たいものしか見ない」という姿勢を維持していたら、この館には訪れなかったはずだ。また、小谷城を訪れていたらここに立ち寄るという気持ちどころが、存在を知らぬままに生涯を終えてことは確実だ。

 小雨に大感謝である。

◎大収穫の西野水道

2代目の西野水道(放水路)は現在、琵琶湖東岸への連絡通路

 五先賢の館に大満足した私は、次の目的地である「西野水道」に足を運んだ。この水道(放水路)は3本あり、現在は3代目(1980年完成)が放水路として利用され、2代目(1950年完成)は遊歩道として、初代(1845年完成)は歴史的建造物として保存されている。

放水路の先には湿地帯が広がる

 放水路建造の目的は周辺地域の度重なる洪水被害を防ぐためであった。この地の寺の住職であった西野恵荘の発案で彦根藩の協力を得て計画が進められたが、地盤の関係で難工事が続き220mの放水路が完成するまでには発案から約10年の歳月を必要とした。

 1938年には新たな放水路建設が着手されたが戦争によって中断され、46年に工事が再開され50年に完成した。その後、しばらくは初代と二代目の2本が併用されたが初代の老朽化が激しいために3代目の建設が進められ、80年に完成した。この結果、2代目は琵琶湖への連絡通路(遊歩道)に用いられることになった。

放水路のはるか先には竹生島が浮かぶ

 放水路からは水だけでなく多くの土砂も運ばれるため、放出口周辺には広大な湿地帯が形成されている。なお、この湿地帯には散策路が整備されている。

放水路の出口では小鮎釣りが盛ん

 3代目の放水路の出口側(琵琶湖側)では幾人かが遡上を試みる小鮎を狙って釣りをしていた。サビキ仕掛けのような道具立てで小さな鮎をコンスタントに釣り上げていた。遡上前の鮎は動物食なのでそうした仕掛けでも狙うことができる。これが川に遡上すると食性が変わり、今度は藻を主食とするようになるので、サビキ仕掛けや餌釣りでは狙えなくなる。

 琵琶湖の鮎は減少しつつあると聞いていたが、ここでの釣りを見ている範囲では、まだまだ相当数の個体が残っているようだ。

この急流を小鮎たちは上ってゆく

 放水路を入口の上部に架かる橋の上からのぞいてみた。写真でも分かるとおり、流れはかなり急であり、しかも休息を取れるような大きな石の裏側は存在しない。私が見ている範囲では遡上する小鮎は皆無であったが、たまたま通り過ぎた地元の人に尋ねてみると、結構な数の小鮎(5センチ前後)が群れを成して上っていくのをよく見掛けるとのことだった。数日前にも見たと話してくれた。

 その話を聞いて、私は中島みゆきの名作『ファイト!』の詞を、思わず口ずさんでしまった。

流れの中で小鮎の姿を探したのだが……

 急流の中にはいなくともトンネルを抜け出てやや流れの緩やかになった場所ならば鮎の姿には触れられるだろうと思って放水路脇の道をうろついてみたのだが、残念ながら見出すことはできなかった。見つけたところで、それがどうなんだと問われれば返す言葉はそれほど見つからないが、しいて言えば、これが”釣り人の性”なのだということを強調しておきたい。

田んぼではサギも鮎を探していた

 立派な放水路が完成したお陰で水の管理はまずまず行き届いているようだった。余呉川が造りだした耕作地は思いのほか広く、この田畑が多くの恵みを生み、それが木之本で見た立派な家屋に繋がっているのかもしれない、などと考えた次第である。

 写真にあるサギは私と同様に小魚を探しているのだろうが、探すという行為は同一であってもその目的はまったく異なる。

◎尾上港と琵琶湖東岸

尾上港と竹生島

 この日の宿泊地は長浜市内なので、西野放水路からはそう遠くない。ということで、琵琶湖東岸をやや時間を掛けて探索することにした。

 県道44号線を湖に沿って移動すると、湖の漁港とは思えないほど広々とした港が目に入ったので立ち寄ってみることにした。

岸壁からブルーギルや小鮎を狙う

 長めの岸壁では多くの釣り人が竿を出していた。大半の人は「ブルーギル」を狙っているようだった。たまたまこの日は、琵琶湖全体を挙げて「ブルーギル退治」のための釣り大会が開かれていた。そのこともあってか、小雨の中でもこうして大勢の人が集まって来たようだった。

 湖の中を覗いてみた。水がやや濁っているので写真にはっきり映し出すことはできなかったが、10センチ前後の鮎が大きな群れをつくって泳いでおり、また集団でコンクリート底に付着した藻を食む姿も見て取れた。

 河川に遡上しそこなった鮎はここで一生を終えるのかもしれない。といっても、鮎は「年魚」なので、僅か一年足らずで寿命を終えるのだが。

湖上でブラックバスを狙う

 湖上には数隻のボートが出ており、ルアーフィッシングを楽しむ人々の姿もあった。こちらは、大型のブラックバスを狙っているようだった。

 港内を覗いたとき、かなり大きなブラックバス(50センチ以上)が岸のすぐ近くにまで寄っていた。このブラックバスブルーギルが増殖してしまったため、固有種の多い琵琶湖の生態系は大きく変わってしまった。

 変えることは容易だが、復帰するためには長い年月と多大な苦労が必要となる。これは何も琵琶湖の生態系に限ったことではないが。

◎湿地帯を見学する 

湖北野鳥センター前の湿地

 琵琶湖は「ラムサール条約登録湿地」であるため、湿地帯の保全には十分な努力を払っている。今回、特に私の目を惹いたのは、湖北野鳥センター前から「道の駅・みずどりステーション」前の湿地帯だ。

 ここには余呉川本流が流れ込んでいるため、川が運んできた大量の土砂が低湿地を形成し、写真のように至るところに露出した砂州があり、そこに樹木も多く生長している。

ラムサール条約登録湿地は水鳥の楽園

 こうした湿地帯には緑が多いだけでなく、水鳥たちの格好の住処になっている。

余呉川は湖岸に多くの砂州を生み出す

 写真からは少し分かりにくいが、余呉川の河口からは結構な長さの砂州が伸びていた。こうした場所に近づくことはできないが、そのことが琵琶湖の環境保全に役立っているのだろう。

長浜市街を少しだけ散策

秀吉が築城した長浜城豊公園より

 1575年、長浜は羽柴秀吉小谷城から今浜の地に城を築いて以来、城下町として発展した。その後は大通寺の門前町や北国街道の要衝として栄えた。

 写真の豊公園は、長浜城の跡地を整備したもので、再現された天守閣は歴史博物館として利用されている。

通りには老舗の商家が立ち並ぶ

 門前町として栄えた長浜市街地には、写真のような歴史を感じされる商家が立ち並んでいる。その古い町並みはよく保存されているので、ぶらりと散策するには絶好の場所だ。もっとも私の場合は、体力と気力、それに次の予定のためにほんの少しだけ見物したにすぎないが。

火縄銃の町だった長浜は金物の町

 長浜は銃の生産地としてよく知られ、日本では堺、根来(ねごろ)とともに三大火縄銃生産地であった。今回は後述する「バイカモ見物」に時間を割きたかったので立ち寄らなかったが、「国友鉄砲ミュージアム」はお勧めの場所である。

 こうした歴史があることから、長浜では写真のような金物店もよく残っている。

長浜でも鯖は売り物のひとつ

 長浜は北国街道の要衝であったことから、北陸地方の産物もよく流通していた。その影響からか、写真のような「鯖」を売り物にする店も目についた。

北国街道沿いにある長浜名門の安藤家

 安藤家は室町時代からこの地に住んでいた旧家で、賤ヶ岳の合戦では秀吉軍に協力した。そのこともあって、長浜の自治を司る「十人衆」にも選ばれている。

 明治以降は近江商人との婚姻関係を結んだことで商人となり、主に東北地方を商圏とした。

 写真の住宅の内部は贅を尽くした装飾が、北大路魯山人の手によって施され、庭園も見事なものだが、残念ながら現在は休館中である。

◎清流(地蔵川)とバイカモを求めて醒井(さめがい)宿に立ち寄る

中山道醒井宿といえばバイカモの里

 中山道の宿場町として栄えた醒井(さめがい)は米原関ヶ原の間にあって、私は時間がある時はよく高速道を米原インターで降りてこの町に立ち寄った。写真にある通り、ここは「居醒の清水」や「バイカモの里」として魅力的な場所だからだ。

駅横のトイレの壁には

 JR東海道本線の醒井駅の南口に有料駐車場があるので毎度、ここに車をとめて町中を散策する。駅前のトイレに立ち寄ったところ、巣立ち前のツバメが私を見て少し警戒していた。

醒井小学校の玄関口

 立派な玄関口を有した建物があった。ここはかつての小学校の玄関口だったとのこと。

醒井と言えば居醒の清水

 『古事記』や『日本書紀』に登場するほど、この場所の清水があまりにも有名なことから、古い建物の壁にも「水」の文字が誇らしげに掲げられていた。

醒井宿は中山道61番目の宿場

 宿場町としてはそれほど規模が大きくないが、何しろ、ここを流れる「地蔵川」が魅力的なのである。

三島の項でもお馴染みのバイカモ

 本ブログでは第68回で三島の清水を紹介したときに「バイカモ」について触れているが、私がこの「バイカモ」の魅力に取りつかれたのは、ここ醒井を流れる地蔵川に触れてからのことである。

バイカモユキノシタとの共演

 バイカモ(梅花藻)はキンポウゲ科キンポウゲ属の多年草で冷水を好む。適水温は15度前後とされている。したがって温暖な地域では湧水のある場所でしか育たない。また、流れのない場所では生育しないため、水槽で育てることはまず無理だ。

 醒井地蔵川では石垣にユキノシタを植えている。この花は半日蔭から日陰の湿地を好むため、バイカモとは相性が良い。

バイカモマツバギクとの共演

 日当たりの良い場所では、写真のようにマツバギクとの共演が見られた。

流れの強い場所では水中花も

 1~2ミリ程度のウメに良く似た花を咲かせるので「梅花藻」と名付けられたが、「ウメバチモ」の別名もある。

 基本的には花は水上で開くが、流れがやや強い場所では水中花になる場合もある。

流れのやや弱い場所では水上花

 写真の場所のように、流れがやや弱い場所では水上花を開く。

小さいけれど可憐なウメの花

 茎は「キンギョモ」のような姿で、長いものでは2m以上にもなる。地蔵川では5月中旬から9月下旬が開花期。今季はやや開花が遅れているとのことだったが、満開に近い場所も少しあった。

地蔵寺の下から湧出するので地蔵川

 地蔵川の湧出点の上には地蔵寺がある。それだから地蔵川と名付けられたのかも。湧水点の周囲にも数多くのユキノシタが咲いていて、極めて優美な姿を私たちに披露してくれている。

地蔵川絶滅危惧種ハリヨの保護区でもある

 写真のように、地蔵川バイカモだけでなく、ハリヨという魚の生息地保護区としても知られている。ハリヨはトゲウオ科イトヨ属の魚で体長は5~7センチ、適水温は10~18度で、20度を超えると生息できないとされる。

 日本の固有種とも言われ、滋賀県岐阜県の湧水域にしか生息していない。以前は三重県にもいたらしいが現在は絶滅している。

 地蔵川の水温は年間ほぼ14度に保たれているため、ハリヨにとっては絶好の生息地なのだ。

湧水点は数多くある

 湧水点は地蔵寺下だけではなく、川の左岸、つまり山側の隙間から数多くの湧き間が存在している。

中山道東名高速

 写真の場所は、地蔵川沿いの整備された散策路からは少し離れた場所にあるところ。左手の護岸の上にあるのは東名高速だ。

 道は旧中山道であり、本来はそこまで行くつもりはなかったのだが、「西行水」という看板が出ていたので行ってみることにした。「西行」の名を見ればどうしても行く必然性が私にはあるのだ。

宿場の外れにあった「西行水」の名の湧水点

 ここにも湧き間が数か所ある。

ここも湧出量は豊富

 やはり地蔵寺下と同じように湧出量は豊富で、かつ、ユキノシタとのコラボも同じである。この西行水の流れは地蔵川に加わっていく。

観光ルートを外れてもバイカモは豊かに育っている

 西行水の場所から旧中山道を今少し進むと、再び、地蔵川の流れに出会う。ここには遊歩道などは整備されておらず、観光客の姿はまったくなかった。もはや観光ルートからは離れてしまっていた。

 そんな場所にもかかわらず、水中には数多くのバイカモがあって気持ち良さそうに流れに身を任せていた。

 それほどまでに、地蔵川は豊かさを纏っているのである。

     *   *   *

 若狭湾・山陰の旅の終わりには琵琶湖、それに近江の旅の最後には必ず立ち寄る醒井宿のバイカモ見物をおこなった。当初は京都に寄る予定だったが週末に当たってしまったためにルートを変更し、さらにいささか歩き過ぎたので日数を短縮した。

 琵琶湖周辺では天気に恵まれなかったが、それでも収穫は多かった。一方、若狭・山陰では新発見や新体験がいくつかあったものの、かつての魅力がどんどんと薄れてしまっていた残念な場所も多々あった。

 まだまだ行ってみたい場所は無数にあるが、時間(命)には限りがあるので、これからは出掛ける場所を精選する必要がある。もっとも、無計画に出掛けたときに思わぬ大発見があることも少なくない。誠に悩ましいアポリア(難題)である。