徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔44〕野川と国分寺崖線を歩く(2)流域今昔物語

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野川と西武多摩川線と武蔵野公園と

 前回の最後に挙げたように、野川は「新小金井橋」の下流部から、それまでとはまったく異なる表情に変わる。それは川自体というより、その流域の姿が一変するからである。源流部のすぐ南の中央線直下から顔を出した野川の流れの両岸には、ほとんどの場所に住宅が並んでいた。東京経済大学下にある「鞍尾根橋」の下流からは流路が整えられ、川幅は拡張され、それまでの三面コンクリート護岸から可能な限り自然風に設えられた親水護岸となり、狭いながら河川敷には散策路があり、両岸の大半には遊歩道も整備された。それでも、その遊歩道の傍らには住宅が立ち並んでいることには変わりがなかった。

 しかし、新小金井橋の下流からは、その様相が大きく変貌するのである。もっとも、それは「野水橋」辺りまでの約2キロ間のことであり、それ以降は再び住宅地を貫く川という姿を取り戻すことになるのだが。ただし、親水護岸風の造作は最下流部まで続いている。

流域に公園が広がっている理由は?

新小金井橋の下流。右手に武蔵野公園、左手に野川第2調節池

 なぜ、この2キロ間では住宅地ではなくて武蔵野公園、野川公園という広々とした都立公園が野川に接し、さらにその南側には多磨霊園、府中運転免許試験場、調布飛行場武蔵野の森公園が、川のすぐ北側にある国分寺崖線上には国際基督教大学キャンパスや国立天文台といった、広大な敷地を必要とする施設が数多くあるのだろうか。その理由は、この地域の大半がそれまで農地や牧場、雑木林であって、甲州街道筋や中央線沿線に比べるとかなり住人は少なく、その結果、それらの施設を誘致しやすい環境にあったからだと考えられる。

 そもそも、中央線の路線が東中野駅から立川駅まで23キロも真っすぐに敷かれていることからも、武蔵野台地にはまだ開発の手が伸びていない土地がいくらでもあったということが想像できる。中央線の前身である甲武鉄道は1889年の4月に新宿・立川間で開通し、同年の8月に八王子まで延伸された。駅は新宿、中野、境(現在の武蔵境駅)、国分寺、立川、八王子の6つでスタートし、90年に日野駅、91年に荻窪駅、99年に吉祥寺駅、1901年に豊田駅、24年に武蔵小金井駅、26年に国立駅、30年に三鷹駅、64年に東小金井駅、73年に西国分寺駅が開業した。ちなみに、先に挙げた武蔵野公園以下、国立天文台までの施設はすべて武蔵境駅国分寺駅との間に位置する。東小金井駅武蔵小金井駅は中央線の開通からかなり後になって設置されたものであって、それだけ、その間の土地は駅を必要としないほど「辺鄙」な場所だったと思われる。また、たとえ駅ができたとしても、大半の人は武蔵野段丘面の駅に近い場所に住み、崖線下の立川段丘面にわざわざ居住するのは農業に携わる人々が大半だったと考えられる。

 農業といっても、立川段丘面は湧水を集める野川以外に水にはさほど恵まれていないため水田はあまりなく、麦や陸稲、野菜の生産、養蚕とそのための桑畑、牧畜などをおこなう人々がほとんどだったようだ。そのため、未開拓の土地も多かったはずで、広大な敷地を必要とする施設を誘致することが容易だったと考えられるのである。

新小金井橋から右岸にある武蔵野公園を望む

 都立武蔵野公園は1969年に開園した。草原や雑木林、都内の街路樹や公園に用いるための苗木園、野球場、バーベキュー広場などがある。草原(原っぱ)には写真中央に見える小高い丘があって「くじら山」と呼ばれているのだが、これは公園の隣に小学校を建設する際に出た残土を盛り上げたものである。

地下に貯水浸透施設がある

 雑木林の中にも小高くなっている場所があり、その地下には「見えない貯水池」がある。これは地下に浸透する雨水を溜めて置くプールで、国分寺崖線からの湧水が少なくなっている昨今、野川の流れを少しでも豊かにするために考案・設置されたものである。

 かつて、野川は豊富な湧水から成り立っていたが、武蔵野段丘上の開発が進んで多くの地下水が利用されたり、表土が整地・舗装されることで地下に浸透する水が激減したりした結果、流れは極めて乏しいものになった。そこで、今度は宅地などから出る下水を流すことにしため、清流ではなくドブ川に変貌してしまった。現在では下水処理システムが完成しているので汚水が流されることはほぼなくなったが、同時に流れも失ってしまった。かつての野川の清流を取り戻そうと流域の自治体や住民はいろいろな取り組みをおこなっているが、行政側が生み出した答えのひとつが、この「見えない貯水池」だった。

か細い流れの中にも魚がいて、それを狙う釣り人がいる

 自然の流れがあればその中には生き物がいる。魚の代表は「ヤマベ」(標準和名はオイカワ)で、流れが緩い場所では、近隣に住む子供やオジサン(稀にオバサンも)が1~1.5m程度の細く短い竿を使って釣りをする姿をよく見掛ける。「ヤマベ」は関東でよく使われる地方名で、「ハヤ」「ハエ」と呼ぶ人もいる。「ヤマベ」の名は釣りをしない人にはあまり通用せず、渓流魚の「ヤマメ」と混同してしまう人も多い。「こんなところにもヤマメがいるんですか!」と感嘆するする人がいるが、それは単なる勘違いである。ウグイ(地方名ハヤ)やクチボソ(標準和名モツゴ)、小ブナが少なくなった現在、ヤマベの存在はお手軽な釣りを試みる人々にとっては貴重な魚たちだ。

左岸にある調節池は子供たちにとって格好の遊び場になっている

 一方、左岸側には2つの「調節池」がある。新小金井橋に近い写真の広場は「第2調節池」で、平水時には川水はここには流れ込まないので、子供たちや家族連れ、そしてボール遊びをする大人たちも含め格好の遊び場になっている。

右岸と左岸とは護岸の高さが異なる

 撮影地点は右岸側の護岸上の遊歩道で、その左が野川の流れ、さらにその左に見えるコンクリート護岸が左岸側のもので、その左に第2調節池がある。大雨で野川が大増水したとき、水は左岸の堤防を越えて第2調節池に流れ込む。越水を前提として右岸よりも左岸の堤防を低くしているのだ。そして、この貯水池に水を溜め込むことで、下流での氾濫を防ぐことが可能となる。一種の治水ダム湖である。

第1調節池には円形の釣り堀がある

 第2調節池の下流側は土手が高く盛られていて、その上には東屋やベンチが置かれ、樹木も多く茂っているので、暑い時期には絶好の休憩所になっている。その土手の東側(下流側)はまた地面がかなり低く掘られている。そこが第1調整池であり、第2とは異なりただの広場というわけではなく、写真のような円形の釣り堀やどじょう池などが設えてある。円形釣り堀にもヤマベなどの小魚が居着いているので、小物釣り場として利用され、竿を出す人をよく見掛ける。この日は2人の大人と5人の子供が釣りを楽しんでいた。

調節池内にある水田

 第1調節池内には写真のような小さな田んぼもある。右側に見える照明塔は武蔵野公園内にある野球場のもので、左手の森は国分寺崖線の斜面の木々である。極めて自然が豊かなのはうれしいが、私の嫌いな虫(ヘビとクモ)が出て来そうなので早々に退散した。

右岸から第1調節池と国分寺崖線を望む

 右岸から野川、第1調節池、「はけの道」、国分寺崖線を望んだ。はけの道は、崖線下を通る道でなかなか趣があって良いのだが、自動車の抜け道になっているようで交通量が多いのが残念だ。「はけ」というのは「崖」を意味する方言で、私もガキンチョのときは国分寺崖線や府中崖線をそう呼んでいた。「はけ」は「崖」「端」「捌け」などから派生したようだが、本当のところは誰も知らない。

日本にも旧石器時代があった

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新小金井橋北詰にある遺跡の看板

 「野川中洲北遺跡」は野川調節池の造成に先立って発掘され、立川ローム層からは旧石器時代の遺物が発見されている(1986年)。かつて日本には旧石器時代はないとされてきた。縄文時代(およそ1万5千年前から3千年前まで)以前は火山活動が激しく人間が住めるような環境ではなかったと考えられてきたからだ。そのため、遺跡調査がおこなわれても、発掘は黒ボク土(火山灰と腐葉土が混ざったもの)層までで、その下のローム層が現れたときにはもはや遺物はないと考えられ、それ以上掘り下げられることはなかった。

 それが1949年、群馬県のアマチュア考古学研究家であった相澤忠洋が、琴平山と稲荷山との間の切り通しの赤土の崖(現在の群馬県みどり市笠懸町阿左美)から黒曜石の「樋状剥離(ひじょうはくり)尖頭器」を発見したことから、旧石器時代が存在する可能性が浮かび上がってきた。しかし、アマチュアによる発見だけでは学問的な検証はできないために疑義も多く、すぐに認められることはなかった。この「岩宿」に次いで51年、やはりこれもアマチュアによる発見だが、板橋区のオセド山の切り通しから中学生が黒曜石の石器と礫群を見つけたのち、明治大学などによる本格的な遺跡調査が入念におこなわれ、中学生が発見した遺物が旧石器であることの学問的裏付けがなされた。この茂呂遺跡の調査の結果、相澤忠洋の発見も旧石器であると認められることになり、「岩宿遺跡」は日本に旧石器時代があったことを証明する第1番目の遺跡に位置付けられ、日本の旧石器時代は「岩宿文化」とも呼ばれるようになったのである。

 私はよく足尾銅山見学に出掛ける(cf.第8回・渡良瀬川上流紀行)ので、岩宿の近くを通るのだが、大抵は足利市に寄って森高千里聖地巡礼をおこなうか、前橋市方面に移動して榛名山妙義山見物をするため、岩宿に立ち寄ったことはなかった。しかし数年前、足尾からの帰りに熊谷市に寄る用事があったため、渡良瀬扇状地の扇頂に位置する「大間々」から南下して直接、熊谷に行くルートを選んだ。

 予定では県道69号線を南下するはずだったが、なぜか間違えて県道78号線に入ってしまった。そのまま進んでも大きな問題はなかったのだが、たまたま「岩宿遺跡入口」交差点があったので、遺跡の前を通って予定していた道に出ようとそこを右折した。遺跡のすぐ横に駐車スペースがあったので寄ってみることにした。が、この手にはよくあるような展示施設だったので、短時間でそこを切り上げて熊谷に向かうことにして駐車場を出た。

 ところがすぐ近くに「岩宿博物館」があり、建物が立派だけでなく、その南側にある「鹿の川沼公園」が素敵に見えたのでそこにも寄ってみることにした。公園だけの予定で、博物館は外観を眺めるだけでいいと考えていたが、公園から博物館方向を見ていると入館する人が皆無なことに気づいた。その結果、余計な同情心が湧いてしまい館内をのぞいてみることにしたのだった。

 若い女性の学芸員がいて、私に近寄り、勝手に案内を買って出て、展示物のひとつひとつを熱心に説明し始めた。本当は大いに迷惑なのだが、まだ見習いレベルだと思われる学芸員は訥々と、しかし熱意を込めて話すので、聞いているふりをするのが大変だった。相手がベテラン学芸員だったら話を相澤忠洋と明治大学の杉原荘介との確執にもっていき、明大閥の博物館員を話しづらくさせ、「それじゃぁ」といって退散することもできるのだが、新米学芸員を揶揄うのは可哀そうなので、大人しく、しかも当たり障りのないレベルで、相澤氏を見出した芹沢長介についての質問などをしてみた。10分ぐらいで脱出したかったのだが、結局、一時間半ほど滞在してしまった。その間、私のほかに博物館を訪れる人はいなかった。

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野川遺跡跡。見た限り看板すらなかった

 「野川中洲北遺跡」に先立つこと17年、野川の右岸側で大規模な発掘調査がおこなわれ、立川ローム層中にも数多くの旧石器が眠っているということが判明した。国際基督教大学(以下ICU)のゴルフ場内に30m道路(現在の東八道路)が貫通することになり、道路建設とゴルフ場の改修整備に伴って、遺跡の発掘調査がおこなわれたのである。その理由のひとつには、ICUのキャンパス内が縄文遺跡の宝庫であったことと、大規模な試掘をおこなえば旧石器の発見が見込まれたことによる。

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広大な敷地を有するICU。コロナ禍のために入構は制限されている

 ICUは「リベラルアーツカレッジ」を目指して1949年に創設が決定され、中島飛行機(現SUBARU)三鷹研究所跡地の大半(全50万坪中の45万坪)を買収して53年に開学した。研究所といっても敷地が広いため多くの場所は手つかずに残されていた。ICUも研究所の建物などを改修して使用したため、やはり多くの自然林は残存した。たまたま56年、アメリカ人考古学者のキダー博士がICUに赴任した。博士は縄文土器の研究者でもあったので、ICU構内を隈なく探り数多くの縄文時代の遺物や遺構を発見した。

 ICUの敷地は国分寺崖線上の武蔵野段丘面にも崖線下の立川段丘面にもあったが、当初は武蔵野段丘面での調査が中心だった。その辺りは「梶野新田」があった場所で、古くは明治時代に東京帝国大学人類学教室を中心にして縄文遺跡の調査がおこなわれていた。1917年の調査では打製石斧も発見されており、戦後すぐには高校の考古学部員が中心となって調査が進み、多くの住居址を見つけ、一帯は「南梶野遺跡」と呼ばれるようになった。

 先に述べたように、中央線が武蔵野台地の南部を東西に横切っても、当初は境駅と国分駅しか近くになかったために開発が遅れ、結果として多くの遺物や遺構が残されていたのであろう。住宅開発が進んでからでは遺跡調査など、特別な理由がない限りおこなうことは不可能だ。

 ところで、境駅は1919年に武蔵境駅に改称されたのだが、同時に秋田の境駅は羽後境駅に、鳥取の境駅は境港駅になった。中央線の境駅で待ち合わせをしたのだが相手はいっこうに現れず、後で聞いたら向こうは奥羽本線の境駅で待っていたということはまずないと思うが。今なら、3人で「ムサコ」で待ち合わせの約束をしたら、それぞれが武蔵小金井駅武蔵小杉駅武蔵小山駅に出向いたということはあり得るかもしれない。

 ついでにいえば、武蔵境はおかしな名前で少しも「境」ではない。中央線には信濃境駅があるが、ここはきちんと甲斐と信濃の境にある。旧東海道沿いに境木地蔵尊があるが、こちらも武蔵と相模の境にある。しかし、武蔵境の「境」は国境の境ではなく、かつてその辺りを開発したのが、松江藩松平家の屋敷奉行であった境本絺馬太夫(きょうもとちまだゆう)だったからである。その境本の一字をとって境新田と名付けられた。したがって、境といっても国境とはまったく関係がない。

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ICUの隣にはSUBARUの事業所がある

 ICUに戻ると、国分寺崖線下の敷地の大半は農地や牧場だった。1950年当時の地目登記によれば、田畑が24万坪、園芸用地が1.8万坪、牧場が1万坪だった。また、傾斜地及び池沼3万坪とあるので、国分寺崖線や崖下の野川流域はほとんど手つかず状態で残っていたようだ。当初は戦後まもなくということもあって大学の敷地になっても農業や牧畜がおこなわれていた。その頃の地図を見ると、大半は「ジャージー牧場」と記されている。

 ジャージーは牛の種類で、英領のジャージー島が原産だからだ。ホルスタイン種よりも小型で、乳量も少ないらしいが、乳に含まれる脂肪分が多いので味わい深いそうだ。また飼育も容易らしい。もっとも、ICUがジャージー種を選んだというわけではないようで、初代学長の湯浅八郎のアメリカ留学時代の友人が牧場主になっていて、ICU牧場のためにアメリカからジャージー種の牛を贈ってくれたというのが真相のようだ。

 が、1964年、大学発展に必要な財源を確保するため、農地や牧場はゴルフ場に転換された。高度成長期でもあったためにゴルフブームとなり、ICUのコースは小金井CCと並ぶほどの人気コースになったそうだ。

 ところが、先に述べたようにこのゴルフ場を「東八道路」が貫通することになりその関連工事がはじまると、あわせて遺跡の発掘調査がおこなわれ、道路が野川を跨ぐ少し手前の野川右岸の調布市野水2丁目(左岸には子供連れで人気のある「わき水広場」がある)の「Loc.28C遺跡(通称・野川遺跡)」で、縄文土器が見つかった表層(黒ボク土)の下にある立川ローム層で旧石器が見つかったのだった。

 そこで大規模調査がおこなわれることになり、立川ローム層の下にある青灰色砂層、立川礫層、基底部(上総層群)まで5m以上掘り進められた。その結果、10層あるローム層の上7層から旧石器が発見され、文化層としては10層ある(ひとつのローム層から複数の文化層が発見されたため)ことが判明した。野川遺跡では約2万9千年前のものがもっとも古いようだが、後に別の場所にある遺跡からは約3万5千年前のものも発見されている。

 下から3番目の文化層である黄褐色ローム層では「姶良Tn火山灰」(略称AT)の層が見つかっている。姶良(あいら)大噴火は現在の鹿児島湾奥を形成したもので、2万9千年から2万6千年頃に発生し、関東にも10センチ以上の火山灰を降り積もらせた。"Tn"とあるのは丹沢のことで、当初は丹沢によく見られる軽石層なので「丹沢パミス」と呼ばれていたが、それが姶良大噴火によるものであることが判明したため「姶良Tn火山灰」と名付けられた。

 旧石器など考古学の年代識別は、遺物が発見された地層の順位(層位)から年代を決定する「層位学的研究法」を採用している。このため、大発掘の際は考古学者だけでなく地質学者も参加することになる。仮に「姶良Tn火山灰」が2万9千年前の噴火によるものだとすれば、野川遺跡の最古層は噴火よりかなり前になることになり、当然、3万年以上前のものと考えることができる。もっとも、仮に遡れるとしても、日本列島にホモ・サピエンスが移動してきたのは3万8千年前と考えられているので、それ以上に古くなることはない。

 考古学者の中にはより古い時代の石器を見出すことに血道をあげる人もいたようで、岩宿遺跡を発見した相澤忠洋を世に知らしめた芹沢長介(後に東北大学名誉教授)は、後半生には前期旧石器の発見に命をかけ、大分の早水台(そうずだい)遺跡では12万年前の石器を発見したと発表したものの認められず、他の学者からは「長介石器」だと揶揄されたそうだ。

 この芹沢の前に現われたのが「ゴッドハンド」こと藤村新一だった。彼は前期旧石器を発見することで自分の存在価値を認めてもらおうと、早い時期から「捏造」をおこなっていた。1981年、宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡では4万年前の石器を「発見」して一躍有名になり、宮城県の上高森遺跡では93年に40万年前の、95年には60万年前の、99年には70万年前の石器を「発見」した。関係者によれば、そのどれもが「綺麗すぎる」石器だったことから信憑性が疑われた一方、旧石器の世界のドンであった芹沢長介が藤村の背後に鎮座していたため、正面から疑義を申し立てるものはいなかったようだ。マスコミがこぞって藤村を「ゴッドハンド」と持ち上げて「新発見」を報道し続けたこともあり、普段、あまり注目されることのない世界にいる考古学者たちも高揚感に浸り、ついに高校日本史の教科書にも「上高森遺跡」を紹介するまでになった。

 しかし藤村の「神の手」は、2000年11月、毎日新聞によって彼が石器を埋めている瞬間を映像に捉えられたため、捏造は明るみになり、調査の結果、彼の81年からの発見はすべて嘘であることが判明した。このため、旧石器の研究は70年代にまで戻ってしまったのだった。

 藤村が私淑した芹沢長介は「層位は型式に優先する」との立場をとっていて、発見した石器の姿より、それがどの地層から発見されたのかということを重要視していた。それゆえ、藤村が「発見」した石器が綺麗すぎたとしても、60万年前の地層から「発見」されれば、それは60万年前の石器と考えるというのが当時の学会の通説になっていたのである。

 そもそも、ホモ属(原人・旧人・新人)の誕生以降、日本列島が大陸と陸続きだったことは一度もなく、大陸文化を日本列島に伝えるためには、人類は海を渡るしかなかった。一方、航海技術を有していたのはホモ・サピエンスだけであるし、サピエンスが出アフリカを果たしたのは5万年前と考えられているので、どんなに早く見積もっても5万年前以前に日本列島に人類がいるはずはない。したがって、日本列島においては人工品の石器はそれ以前の地層から発見されることはあり得ず、仮に、より古い地層から石器らしきものが見つかったとしても、それは自然礫にすぎないのである。
 かつての日本史の教科書だったか参考書だったかは失念したが、日本には「三ケ日原人」や「明石原人」がいたことになっていた。一応、受験には日本史と地理を選択していたので、それらの原人の名を記憶したことがある。が、双方とも、いまでは縄文時代の新人であると判明しているようで、三ケ日人や明石人と呼ぶことはあっても、もはや原人とは呼ばないのである。原人は航海技術を有していないからだ。

 ところで原人だが、ダーウィンは猿と人とをつなぐ存在はいずれ発見されると考えており、ダーウィン主義者であったエルンスト・ヘッケルは、その存在を「ピテカントロプス」と名付けた。ピテクスが猿、アントロプスが人で、それを合わせるとピテカントロプス(猿人)となる。ミッシングリンクは1891年、オランダ人のデュボアがジャワ島のトリニールで直立猿人(ジャワ原人)の化石を発見することで一部がリンクされた。ヘッケルの造語のとおり、それは「ピテカントロプス・エレクトス」と名付けられた。のちには中国北京市の周口店でも原人の化石が発見され、それは「シナントロプス・ペキネンシス」と名付けられた。直訳すれば「北京の支那人」となる。現在は、どちらもホモ属に分類され、学名はそれぞれ”Homo erectus erectus" "Homo erectus pekinensis"となった。ピテカントロプスという強烈な印象をもつ名前が消えてしまったのはとても残念である。

 我々はジャワ原人の復元された人物像に触れることができ、その特徴的な顔つきを本や図鑑で目にすることがよくある。これはジャワ島のサンギラン遺跡でほぼ完全な姿の頭骨標本が発見されたことによる。その標本は17番目に発見された化石ということで「サンギラン17号」と命名されている。したがって、我々が目にするジャワ原人の顔は原人総体のものではなく、17号君の顔なのである。

 何かの拍子に2020年、人類が大絶滅し、ずっと先に「宇宙人」が地球にやってきて発掘調査をおこない、日本だったとされる場所では私の頭骨が、朝鮮半島では『愛の不時着』の主演男優であるヒョンビンの頭骨が発見され、それを復元したとき、2人の顔が驚くほどよく似ているので、地球人というのはとても美男子だったと「宇宙人」が感動するということもあり得なくない。いや、絶対に。

 先に、ホモ・サピエンス以外には渡海できないと述べたが、唯一の例外が2003年に発見された「フローレス原人」(ホモ・フローレシエンシス)である。インドネシアの島なのだが、寒冷期にはジャワ島、スマトラ島カリマンタン島などはマレー半島とは陸続きでスンダランドを形成していたが、フローレス島は寒冷期で海面が80~100mほど低くなったとしても、スンダランドとは決して陸続きにはならない場所にあるため、フローレス原人は大陸から渡海したという以外に考えられないのである。

 しかも、驚くことにフローレス原人の身長は1mほどしかなく、脳の容積も最新の計測では426ccであることが分かっている。

 フローレス原人は約100万年前に島に着き、70万年前頃に小型化(これを矮小化という)したと考えられている。他の島では発見されていないので、長期間、この島のみで暮らしていたようだ。このため、他の動物でもよく見られる「島嶼化」が起きたと考えられている。島嶼化とは、狭い環境の中に閉じ込められたときに選択圧が発生し、大きな動物は小型化、小さな動物は中型化することである。例えば、屋久島のシカ(ヤクシカ)やサル(ヤクシマザル。以前はヤクザルと言っていたが今はなぜかそう呼ばない)は、種としては本土と同じでありながら小型化している。

 フローレス原人は5、6万年前まで生きていたと考えられているが、どうやって島に渡ったのだろうか?航海技術があったとは考えられないので、大きな自然現象(台風など)で本土から島に流されてきたと考えるしかなさそうだ。ホモ属とはいえ、男だけの冒険心では子孫を残せないので、一定の数だけの男女が海に流され、大きな木などにつかまって生き延び、偶然にフローレス島にたどり着いたとしか考えられないのだ。

 広義の人類(サヘラントロプス・チャデンシスからホモ・サピエンスまで)の700万年の歴史に触れ始めると止まらなくなり、野川には戻れなくなるのでここで止めるが、野川遺跡では旧石器時代の貴重な遺物が無数に発見されていながら、発掘現場はすべて埋め戻され、現在ではただの空き地になっていて、東八道路を渡って野川公園に訪れる人々の自転車置き場に利用されるだけの存在になっている。

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野川公園。かつてゴルフ場だった姿が残っている

 野川公園は東京都がICUからゴルフ場の敷地を買収して整備し、1980年に開園された。後述する「自然観察園」だけでなく、芝生広場、テニスコート、バーベキュー広場、ゲートボール場などがある。写真のように芝生広場は、かつてゴルフコースであった面影を強く残している。こうした、何の設備もない広場こそ、今の時代にあってはもっとも重要な「施設」であると思われる。

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崖線下に整備された「自然観察園」

 ゴルフコースは野川の北側の国分寺崖線下にもあり、古い地図によれば3~5番ホールがあったようだ。そこも野川公園に含まれるが、現在ではそのかなりの部分が「自然観察園」として整備されており、おもにボランティアの人々によって多種多彩な山野草が育てられている。また、湧水を蓄えた池などもあって、そこでは水生植物(ミズバショウなど)が育てられたりホタルの育成がおこなわれたりしている。

 私は春の山野草を求めて毎年、4月には5、6回はここに通うのだが、今年は新型コロナによる自粛期間に当たったため、肝心の開花期には残念ながら閉園されていた。その時期以外では秋のお彼岸期のヒガンバナの群生開花が見事で、見物客で大賑わいとなる。春秋以外の時期以外、観察園に入ることはないのだが、今回は春季の雪辱戦を兼ねて入場してみた。コロナ禍もあって手入れが行き届かず雑草だらけではあったが、それでも好みの花が咲いているのを確認できたので、以下、3点だけ挙げてみた。

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ヤブミョウガの花と若い実

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キツネノカミソリ

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ヒオウギ

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自然観察園前の野川の流れ

 自然観察園の東側は「わき水広場」になっていて、崖線からの湧水が小さな流れを作って野川に流れ込んでいる。その小川の周囲の広場にはお盆休みかつコロナ自粛もあって、数多くの子供連れが集結していた。そんな場所ではとてもカメラを向ける訳にはいかない。20年ほど前までならまったく問題はなかったのだが、昨今は子供たちにカメラを向けると親たちに睨みつけられるのである。つまらないトラブルが発生するのは気分が良くないのでその場は避けて、代わりに、橋の上から観察園前の野川の流れを写してみた。ここにも子供連れは多かったが、その多くは「わき水広場」の冷ややかな湧水を当てにして訪れたが、そこが満員御礼だったために野川本流に遊び場を移したのだろうと思われる。

 野川の上流に向かって撮影しているので、右手が左岸側であって、土手の右側(つまり崖線の下)に自然観察園がある。撮影場所の右真横に「わき水公園」があり、左真横に自転車置き場になり果てた「野川遺跡」がある。

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橋は東八道路のもの

 少しだけ下流方向に移動した。写真はやはり上流方向を見て撮影したものである。野川の上を通るのが「東八道路」で、道はこれから国分寺崖線を上がっていく。橋の下は日陰ができることもあって、休息を取るのに適した場所だ。が、ここは流れの幅がやや広がり、ということは川は浅く流れが緩やかになるため、小魚を玉網で捕獲するのに適した場所でもある。そうした理由もあって、より大勢の人々が集まることになる。

 前述した野川遺跡は東八道路の橋のすぐ西側にある。写真でいえば、自転車が写っている右岸側の遊歩道を上流方向に進み、橋をくぐった先のすぐ左手の少し高くなった場所にある。

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国分寺崖線には名のある坂は多いが、ここもそのひとつ

 帰りに「はけの道」を少しだけ歩いた。写真の「ムジナ坂」は上ると「連雀通り」に出られるのだが、下半分が階段になっているので車の通行はできない。名前の通り、この周辺にはタヌキが多かったのだろう。もっとも、国分寺崖線は開発が進む前は自然林が豊富にあったので、タヌキの生息地は無数にあったと思えるが。解説板には「昔、この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道であった。だれいうとなく、暗くなると化かされる……」とある。両側が山林の細い道ならどこにでもあるし、タヌキやキツネに化かされることもあったろう。にもかかわらず、あえてこの坂にその名が付けられたのは、案外、農民たちの往来が多かったからだと思われる。この坂の下には湧水点が多いので、崖線下と野川との間の土地はかなり豊かだったはずだ。それゆえ、人々は急坂を下りて田畑に通った。そうでなければ、ムジナが住み着いていたとしても、ムジナは人を騙すことができないからだ。

 このムジナ坂は新小金井橋の北詰から100m強のところにある。そう、ムジナ坂下辺りにあるのが「野川中洲北遺跡」で、ここでは旧石器文化だけでなく縄文文化も栄えていた。それだけ、この辺りは古くから水が豊かな場所だったのだと考えられる。

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開発には、タヌキも怒っている

 はけの道で見つけた看板だ。「はけのたぬきの伝言板」には道路建設に反対するビラが貼られている。はけ、野川、そして湧水は重要な社会共通資本である。それに対し、無駄な道路は社会資本であるより利権の源泉である。

 万国のタヌキと人よ、団結せよ!