終わりなき日常を旅する

徘徊老人・まだ生きてます

〔15〕ヨーコを探して港へ(2)ヨコハマ・ヨコスカ

横浜、そして横須賀へ

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港の見える丘公園のイングリッシュガーデンからベイブリッジを望む

  横浜に初めて行ったのは、10歳前後の頃である。横浜地方気象台に勤めていた叔父(母の弟)一家が山手町にある官舎に住んでいたので、夏休みに母と一緒に訪ねた。それが恒例になり横浜訪問は何年か続いた。叔父のところには私と同年代の男の子が2人おり、彼らと官舎の目の前にある外人墓地や、完成したばかりの「港の見える丘公園」に行って遊んだ。叔父の車で根岸の海水浴場に連れていってもらい、私は初めて海で泳いだ。それまでは自宅近くの市営プールや多摩川の是政付近のトロ場でしか泳いだことがなかったので、海水のしょっぱさには結構な衝撃を受けた。泳ぎはかなり得意なはずだったのだが、海水が目や鼻、口に入るときの違和感が気になって泳ぎに集中できず、いとこたちに負けてしまったことは本当に悔しかった。勉強の出来や知識、礼儀正しさでは2人には全くかなわなかったが、遊びや運動、喧嘩では絶対に負けない自信があったにもかかわらず、得意分野で後れをとったことは大いに私をくじけさせた。中学生になってからはますます遊びや運動に忙しくなり、親と出掛けることの気恥ずかしさもあって、横浜の叔父のところには行かなくなった。横浜は少し、遠い存在になった。

 山手町には現在も同じ場所に気象台はある。その施設も官舎も様子はすっかり変わってしまったが、官舎に通じる坂道は今でも敷地内にあり、はるか以前の出来事を昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。たった一本の狭い坂道なのだが。

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横須賀は軍港の町でもある

 今回は横浜だけでなく、横須賀にも出掛けてみた。ヨーコを探すための第4の啓示を見出したからである。それは「ハマから流れて来た」というものである。”ハマ”はもちろん横浜を指し、”流れた”ということは横浜には存在しない可能性を示し、”来た”とは最寄りの港周辺へ移ったということを明示していると考えられる。とすれば、横浜周辺で港のある町といえば、川崎、横須賀、藤沢、鎌倉、逗子が考えられるが、後三者の町は駄目だ。横浜とは山で隣接しているからだ。山には流れられない。山は越えるのだ。前二者なら海続きなので流れて行ける。何だかよくわからないが、ここは川崎か横須賀と考えるのが妥当だろう。しかし、川崎は工業地帯なので、ヨーコには相応しくない。武蔵小杉ならいいかもしれないが、残念ながらムサコは港町ではない。したがって、横須賀がこの啓示にはドンピシャの町と考えられた。これが、横須賀にも出掛けた理由なのだ。

中華街を散策してみた

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中華街のメインストリート。超有名店が集まっている

  中華街に初めて行ったのは40代後半のときだった。横浜には小さい頃から何度も行っていたにもかかわらず、その地に足を踏み入れることはなかった。中華料理が嫌いだったわけではない。私が好むのはラーメンに餃子。たまに懐が温かいときは五目そばに餃子となる。よって、わざわざ中華街に出掛けなくとも近くのラーメン屋で間に合うのだ。というより、中華料理は種類が豊富すぎるので、決断力のない私には餃子以外何を注文してよいのか分からずパニック状態になってしまう危険性が大いにある。そうした困難にわざわざこちらから出向く必要性はなかったので、中華街は避けていたのだ。かの叔父は、公務員の薄給が理由だったのかは不明だが、私たちを連れて行ってはくれなかった。

 それがたまたま20代の女性と中華街へ行く機会ができたのだった。彼女は中華街をよく知っているらしいので、連れられるままに私たちは名前だけは聞いたことのある大型店に入った。彼女もその店は初めてらしく何を注文してよいのか分からなかったようなので、私は「◎〇コース」を二人分頼んだ。そのときはたまたま財布の中身が充実していたので、一番高いコースを選択した。見栄を張ったのだ。美味しかった。まぁ、ラーメン50杯以上もする値段のコースなので、不味かったら店に火をつけたかもしれないが。

 中華街の成立は1859年、横浜開港当時に香港や広東省福建省出身の商人が横浜の一角に集まったことが端緒だ。当時は中国人だけでなくイギリスやフランス、アメリカの商人も集まり、雑多な外国人居留地だったらしい。町の区画自体は、63年頃には現在の形になっていたとのこと。

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華僑が集まる場所には必ず”関帝廟”ができる

 その地に、中国人居留地お定まりの「関帝廟」や「中華会館」ができると、次第に中国人中心の居留地となっていった。関帝とは三国志でお馴染みの「蜀」の劉備玄徳に仕えた武将、関羽(字は雲長)のことである。かれは魏の曹操から嘱望されていたにも関わらず、終生、劉備個人に忠誠を尽くした。このため、後の時代の皇帝は、自らの支配の正統性を徹底するために関羽を神格化し、全国各地に「関帝廟」を造らせた。清代には県には必ず「孔子廟」(文廟)と「関帝廟」(武廟)が建立されたそうだ。しかし、文化大革命の際の「批林批孔運動」(1973~76年)で各地の「孔子廟」が破壊された。その一方、関帝は商売の神としても崇められていたために中国の「資本主義化」には欠かせなかったのか、「関帝廟」は現在でも多く残っている。

 1923年の関東大震災で多くの欧米人が帰国したため、中華街は文字通り中国人の町となり、次第に中国料理店も増加していった。しかし、30年代に日中戦争が始まると中国人の移動は制限され中華街(当時は南京町と呼ばれていた)の人々は南京町に軟禁状態となった。

 大戦後、中国は戦勝国となったため大陸からは多くの物資が南京町に届くようになった。その結果、ここには横浜市最大の闇市が形成された。49年、中華人民共和国が建国されてからは共和国派と中華民国派の対立が激化したが、横浜市の「チャイナタウン復興計画」もあって、南京町は次第に落ち着きを取り戻し、55年、南京町の入口には牌楼門(現在の善隣門)が造られ、そこには「中華街」の名も掲げられた。以来、この地は中華街と呼ばれるようになった。

 写真にある関帝廟関東大震災以降に再建されたものである。それ以前のものはこれよりずっと豪華絢爛だったそうだ。

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現在の中華街は大通りよりも脇道の方が混雑する

 40代後半の頃は大通りの超有名店に何度か通ったが、横浜在住の中華街通に狭い通りにある格安お粥店を紹介されてからは、路地にある一般向けの店に通うようになった。当たり外れはあるものの大方は当たり店なので、50代以降は裏路地歩きが私の好みになった。お気に入りは中華街通に教えてもらった店だった。今回、久し振りにその店を訪ねたいと思って探したのだが、通りの様子はすっかり変わり、店舗も多くが新築、またはリフォームされてしまったため見つからなかった。そもそも、店の名前を憶えていなかったのが敗因だった。

 中華街はいつも混雑している。修学旅行生が多い。中国からの旅行客も多い。家族連れはもちろん女性だけのグループも多い。カップルも多い。単独行動派はオッサンかオバサンか若い女性。男だけのグループは案外少ない。店内利用よりも売店で中華まんや飲み物を買って土産物を物色しながら散策する人が多い。単品やコース品中心の店よりもバイキング形式の店が目立つようになった。価格もかなり庶民的レベルに設定されている。これからまた横浜に行く機会が増えそうなので、中華街探索を再開したい気分になっている。まだ健在なら、あの安くてボリュームがあり、なによりすこぶる美味だった件の店に今一度、出会いたい。

関内駅界隈

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横浜公園内にあるスタジアム。ベイスターズの専用球場だ

 1859年に開港した横浜は外国人居留地を定め周囲に運河を造り「第二の出島化」を図った。井伊直弼の策略だった。橋などの出入り口には”関門”や”番所”を作った。このため、外国人居留地をはじめとする港一帯は「関内」と呼ばれるようになった。

 開港とほぼ同時に造られたのが遊郭で、今の横浜公園辺りに「港崎(みよざき)遊郭」があった。港造りと並行して造られたらしい。江戸の吉原並みの規模だったそうだ。が、66年の”ぶたや火事”で全焼したため、この地は外国との取り決めによって公園として整備されることになった。そして76年に公園は完成した。これが現在の「横浜公園」である。公園内には広場があり、外国人のみが野球やクリケットを楽しんでいた。一方、73年には開成学校(のちの旧制一高)の米国人教師が生徒に野球を教えるとすぐに広まった。そして、96年、一高と横浜在住の外国人チームとの試合が横浜公園で行われることになった。日本で最初の国際野球大会だった。

 この球場は戦後、米軍に接収され「ゲーリック球場」と呼ばれた。ナイター設備があったので、1948年、巨人・中日戦が日本プロ野球初のナイトゲームとして行われた。占領が終わり、返還されてからは「平和球場」と呼ばれるようになった。横浜にもプロ球団をとの声が強まり、平和球場を大改修して「横浜スタジアム」を建造し、「大洋ホエールズ」を誘致した。78年のことである。

 私には横浜出身や在住の知人が多いが、そのうちの野球好きの連中はベイスターズのファンが大半である。阪神広島ファンほどではないが、ベイスターズファンもかなり熱狂的だ。私も何度か誘われて横浜スタジアムに出掛けたが、トラファンに負けないほど熱心な応援に驚かされた。それも若い女性が多いのも印象的だった。横浜は若い女性が好む町だということを実感した。

 前回”大さん橋”の項で述べたが、私は伊豆諸島での釣りの帰りには大さん橋で降り、日本大通りから横浜公園を通って関内駅に向かった。ときにはスタジアムで試合が行われていて、大きな声援と、それ以上に大きなため息が聞こえてきた。なぜなら、ベイスターズ(かつてはホエールズ)は弱かったからである。

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かつての歓楽街も今はショッピングモールになっている

  今は”伊勢佐木あたりに灯がともる”が、かつて一帯は沼地で江戸時代に埋め立てられて”吉田新田”となった。1866年の”ぶたや火事”で港崎遊郭が全焼したのち69年、この地に遊郭が移転してきたため、関外にあるこの農地が一転、吉原町と呼ばれる歓楽街となった。その後、遊郭高島町に移転したが伊勢佐木の地には「蔦座」「羽衣座」といった演劇場ができて新たな賑わいを見せ始めた。20世紀に入ると演劇は廃れたが、代わって映画館が続々と出来、興行街として伊勢佐木町は横浜を代表する繁華街になった。1911年には「オデヲン座」という映画館がドイツ人貿易商によって作られ、洋画封切り第一号館となった。こうして神奈川だけでなく東京からも多くの人が訪れ、1910年代には”伊勢ブラ”などという言葉も流行ったそうだ。

 が、横浜駅西口の開発が進んでからは、こちらのほうがより利便性が高いゆえに繁華街は西口周辺に急速に広がった。その影響で伊勢佐木町の地位は相対的に低下した。現在、伊勢佐木町商店街(通称イセザキモール)は老舗商店と新しい店が共存しながら、観光地でもなくハイソでもない街として新たな顔を作り出している。

元町から山手町に向かってみた~私が最初に訪れた横浜

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ハマトラ”発祥の地も今はやや寂し気

 「ハマトラ」といっても横浜・阪神戦のことではない。横浜元町を発信源とした若い女性向けのファッションスタイルである「横浜トラディッショナル」の略語だ。山手町には”お嬢様大学”があり、さらに若い女性が好むカフェや公園、異国情緒あふれる街並みがあるため、そこに集まる女性の姿かたちをカテゴライズした、とあるファッション誌が生み出した造語だ。1970年代の後半から80年代の前半に「ハマトラ」はブームを呼び、元町がその中心となった。とくに10代半ばから後半の女の子に人気があったらしい。ブームは長く続かなかったものの、ファッションにはまったく無関心な私がその言葉をよく見聞きしたのは今から20年ほど前だったので、横浜辺りではまだ”死語”にはなっていなかったのだろう。

 前回でも触れたが、元町は「横浜村」に住んでいた住民が港を造るために強制移住させられてできた町である。当時は関外にあって丘のふもとののどかな村だったが、山の手が開発され外国人居留地として発展してからは、関内に通う外国人にとって利便性の良い商店街として発展した。戦後は一時荒廃したものの朝鮮戦争特需によって復興を遂げ、休戦後は国内向け、とくに若者をターゲットにした街づくりを進めた。その結果、多くの若い女性が「元町」「山手」の響きにつられて集うようになった。

 今回、十数年ぶりに元町を歩いてみたが、かつてのような賑わいはなかった。町自体からも活気は感じられなかった。ファッションが多様化したのか若者が窮乏化してファッションに関心を抱く余裕がなくなったのかは不明だが、全盛期を知るものにとっては一抹の寂しさを感じた。

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公園からはこの方向だけ港が見える

 元町から”谷戸坂”を上ると、左手に「港の見える丘公園」が見えてくる。この公園は1962年に公開された、横浜では比較的新しい公園である。私が初めて横浜に来たときにはまだ整備中だった。63年、何度目かに横浜を訪れたときは、真っ先にここに来た。叔父の住む官舎からわずか100mほどのところにできた公園だからである。その名の通り、港はよく見えた。山下ふ頭は整備されつつあったが、本牧ふ頭はまだなかった。大黒ふ頭はもちろんなかった。ベイブリッジ首都高速湾岸線もなかった。みなとみらいもなかった。今はそれらがすべてあるので海はあまり見えず、写真にあるベイブリッジ方向のみ海面が見える。なお、みなとみらいの高層ビル群は展望台からでは丘にある森が遮るために今でも見えない。

 山手町にあるここにはかつて、丘の上部がイギリス軍の、下部がフランス軍の駐屯地だった。1863年、下関海峡(現在の関門海峡)で砲撃を受けたイギリスは長州遠征に向かう前、艦隊は横浜港に集結し、幕府に駐屯地の設営を要求した。当時、山手町にはイギリス領事館があったので、その隣地を仮の駐屯地とした。64年、イギリス、さらにはフランスが駐屯施設整備を要求し、幕府はやむなくそれを受け入れた。資金は全額、幕府が負担した。

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旧イギリス領事館邸とイングリッシュローズの庭

 太平洋戦争後、この地はアメリカ軍が占領したが、返還されたのちに横浜市はここに公園を造ることを決め、1960年から整備を進め62年に完成・開園した。イギリス領事館邸には広い庭園があったのでここを”バラ園”として整備、さらに2016年、「イングリッシュローズの庭」としてリニューアルし、バラだけでなく多彩な園芸種で庭園を飾っている。私が訪れたときバラは終盤を迎えていたが、テッポウユリクレマチスなどがよく咲いていた。

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沈床花壇とその先にある大佛次郎記念館

 展望台のとなりの窪地には「沈床花壇」(香りの庭)がある。ここもメインはバラであるが、負けじとテッポウユリが存在を誇示していた。中央の噴水周りはブルーサルビアコリウスといった園芸種が色どりを添えていた。よく手入れをされている庭には必ずと言っていいほど庭師の姿があり、花柄摘みなど丁寧な作業をおこなっている。

 花壇の先に見えるのが「大佛(おさらぎ)次郎記念館」である。横浜市出身の大佛といえば『鞍馬天狗』があまりにも有名なので大衆小説家のイメージが強いが、パリコミューンを題材にした『パリ燃ゆ』や19世紀末にフランス第三共和政を揺るがせた『ドレフュス事件』など歴史小説やノンフィクションなども手掛けている。

 大佛は一時「ホテル・ニューグランド」を創作活動の拠点にしていたことがある。マッカーサーは315号室がお気に入りだったことは前回記したが、大佛が使っていたのは318号室で、鎌倉の自宅からホテルの部屋に行くとすぐに執筆活動ができるようにと、ホテルのボーイたちは必要な資料を大佛のために用意しておいたという。318号室は今でも、ホテル関係者には「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれているそうだ。

 記念館のとなりには「ティールーム霧笛」がある。知人の話では、ここのコーヒーは絶品らしい。『霧笛』は大佛の作品名で明治初期の横浜を舞台にした”無頼派”小説である。当時のイギリス人船員や南京町(現在の中華街)の日常が描かれている。なお、このティルームの名は大佛夫人が命名したとのことだ。

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外人墓地には平日は入れない。土休日は公開されている

 港の見える丘公園から横浜地方気象台をはさんだ向かいの傾斜地に「外人墓地(正式には横浜外国人墓地)」がある。私が初めて横浜に行ったときは、ここが最初の遊び場だった。そのときは自由に出入りできたが、墓場をデートに使う不埒ものが増加したので、現在は3~12月の土休日のみ公開されている。これは墓地を維持管理するための予算を集める募金活動の一環としておこなわれているとのことだ。

 1854年にペリー艦隊が和親条約調印のために横浜港を訪れた際、船員の一人がマストから墜落・死亡したことで、ペリーはその埋葬地を幕府に要求した。「海が見える場所」を望んだため、当時「増徳院」の境内だった一角を米側に提供した。これが外人墓地の端緒になった。以来、生麦事件で殺された英国人など攘夷の嵐の中で命を落とした外国人、開化期に鉄道技師として新橋・横浜間の鉄道敷設を指揮した人、ボーイスカウト運動を日本に紹介・指揮した人、日本で最初に英字新聞を発刊した人、居留地外国人のための劇場である「ゲーテ座」を開設した人など、多数の外国人がこの墓地に眠っている。

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山手からベイブリッジを望む

 ”街の灯りがとてもきれい”なヨコハマだが、ブルーライトのヨコハマは光が強すぎて目に悪いと思っている人は日中に横浜に来るだろうが、昼日中でも素敵な景色は無数にあり、歩いても歩いても訪ね尽くすことはできない。山手町にも名勝(広義の)は多く、とくに”ワシン坂”から望むベイブリッジは私のおすすめだ。港の見える丘公園を出たら谷戸坂とは反対方向、つまり本牧方向に道なりに進む。途中には山手らしい豪邸や韓国総領事館があるが、さらにその先に進むと見晴らしの良い場所に出る。ワシン坂上公園のすぐ手前だ。

 写真は当日の光の関係で、おすすめポイントからではうまく撮れなかったのでやむなく丘公園の北東端から写したものだが、紹介した場所からはもっとベイブリッジが間近にかつ車の行き来まで見える。可能なら、やはり夕方以降が良く、2本の主塔のブルーライト、路灯、行き交う車のヘッドライトとテールライトは、この上のない美しさを演出する。

本牧三之谷にある名園~三渓園

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正門付近から”大池”と三重塔を望む

 三渓園横浜市中区本牧三之谷にある敷地面積17.5haにも及ぶ広大な庭園である。各地から移設した建物は17棟ありその多くが国の重要文化財や市の有形文化財に指定されている。また庭園全域が国の名勝に指定されている。

 この庭園は、生糸輸出で財を成した横浜の実業家であった原富太郎(茶人としての号は三渓)が1902年から整備を進め、自身の住まいとして園内に「鶴翔閣」を建て、この地を本宅とした。原三渓は青木富太郎として岐阜県に生まれ、大学卒業後に女学校の教員となった。その教え子であった女性と結婚し原家に養子として入り、原富太郎になった。養祖父の原善三郎は生糸業で横浜の有力な実業家になり、明治初期に三渓園の土地を購入しており、この地に別荘を建てていた。善三郎の死後、原三渓はこの地の造園を本格的に進めたのだった。原三渓は芸術家や文学者との交流を深め、自らは茶の湯の道を究めようとした。なお、号の”三渓”はこの地の三之谷という地名に由来する。三渓は39年に死去した。

 第二次大戦の際の空襲によって大きな被害を受け、その後、三渓園は原家から横浜市に譲渡・寄贈され以来、財団法人が管理している。なお、1906年には三重塔がある「外苑」はすでに一般に向けて公開されていたが、戦争被害からの復旧工事が完了した58年には原家が個人的に利用していた「内苑」も一般公開され現在に至っている。開園時間は9~17時、入園料は700円(大人)である。

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内苑には桃山時代から江戸時代に造られた木造建築物が多数移築・保存されている

 正門から大池と蓮池の間の道を進み、三渓記念館の右手にある「御門」(これも江戸時代、京都に建築された)を通ると「内苑」に至る。先述したようにここは原家個人のものであった。三渓は谷筋の傾斜地に多くの木造建築物を移築した。その大半が重要文化財に指定されているほど価値の高い建物である。元は京都、和歌山、鎌倉にあったものなのでこの「寄せ集め」に価値を見出せない人も多いらしいが、移築されなければかの地で朽ち果てていた可能性は大きいので、三渓の行為は必ずしも金持ちの道楽とばかりは言えないだろう。

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外苑のランドマークである三重塔。元は室町時代の京都にあったもの

 外苑の高台にそびえる三重塔は、元は京都にあり室町時代に建築(1457年)された。木津川市にあった燈明寺から大正時代に移築したもの。燈明寺はその後、廃寺になっているので、移築しなければこの姿を留めていることはなかったに違いない。関東にある木造の塔としては最古のものらしい。

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外苑にある展望台から旧根岸海岸方向を望む

 三重塔の裏手(南側)には展望台があり、かつてはこの海食崖上から広大な海を望むことができた。かつて崖下は海岸線でありそこには海水浴場もあった。1960年代から埋め立てが進み、写真にあるようにここには首都高速湾岸線、JXTGエネルギー(旧日本石油を中核としたグループ)の根岸製油所の大型タンクが出来て、今ではかつての姿を想像することすらできない。が、私にはここが海だったという記憶が残っている。なぜなら、この根岸湾にあった小さな砂浜こそ、私が初めて海に接し、海水の塩辛さを知った場所だったからである。

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園内の片隅に咲いていた半夏生

 三渓園は花の名所としてもよく知られている。7月はハス、スイレンムクゲが咲く時期だが、私には写真の「半夏生」の群生が一番、心に残った。好みの野草だからである。

 半夏生(はんげしょう)は二十四節気のひとつ「夏至」の末候である。今年は7月2日から6日までが「半夏生」(七十二候のひとつ)で、7月7日から22日が「小暑」でその初候は「温風至」(あつかぜいたる・七十二候のひとつ)となる。

 この半夏生の時期、写真のように葉の一部が白くなり、白い尻尾のような花を付けるのが「半夏生」という野草だ。ドクダミの仲間なのであちこちの野原に群生している(湿地を好む)はずなのだが、いざ探してみると案外見つからない(大型の園芸店では見かけることがある)。三渓園では正門の左手にある「八つ橋」の際でたまたま見つけた。葉の一部が白くなることから「片白草」、葉が半分化粧をしたようなので「半化粧」とも呼ばれている。後者の半化粧と季節の半夏生と音が同じなので、現在では季節名と花期がピッタリ合うためか「半夏生」の漢字を充てることが多い。

 今回は先を急いでいたので三渓園内をゆっくりと散策することはできなかったが、園内にはカエデが多くあるので、紅葉シーズンに再訪したいと思っている。その時期、大混雑は必至だろうが。

トンネルと坂の町~ここは横須賀

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日本一トンネルが多いといわれる横須賀の町

 三浦半島の大半は丘陵地帯で、海岸まで尾根筋が走っている場所が多い。平地は少なく、現在市街地になっている大半の場所は埋立地だ。横須賀市はこの起伏に富んだ三浦半島の多くを占めているため、この地にある道路や鉄道にはトンネルが非常に多い。正確なところは不明だが、「日本一トンネルが多い町」とよく言われている。写真のトンネルは横須賀の辺鄙な場所にあるものではなく、ここを抜けると「汐入」「横須賀中央」といった横須賀第一の繁華街に出るすぐ手前にあるものだ。

 道路自体、山を削って造った「切通し」が多く、それすらできないときはトンネルを掘る。切通しの端のわずかな平地を利用して家々が造られ、それでも不足するので、尾根筋の天辺にも家が立ち並ぶ。尾根上やその傾斜地にある家にたどり着くためには急な坂道を上らなければならない。ほとんどが道幅の狭い階段なので、車はおろかバイクや自転車すら利用することはできない。私がこの写真を撮っていたとき、たまたま郵便配達人が丘にある家々に郵便物を配っているのを目にした。彼は写真にある道路の歩道にバイクを止め、急な坂道を駆け上がりながら数軒の家々を配達して回り、また駆け下ってバイクまで戻り、別の郵便物を手にして、先ほどとは異なる階段を駆け上がっては配達、下りてきて荷物を抱えては別な坂道を上るという行為を何度も繰り返していた。心底、彼には「配達、ご苦労様です」と言いたかった。もちろん、その家々に住むお年寄りたちにも。

軍港の町~ここも横須賀

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先のトンネルを抜けたところにある「ヴェルニー公園」

 ヴェルニー公園は前の写真にあるトンネルを抜けたその左手にある。以前から”臨海公園”として存在していたが、2001年、フランス式庭園様式を取り入れて大幅に改修されてオープンした。ヴェルニー記念館の前には”戦艦陸奥”の主砲が鎮座し、この公園の存在意義とその理由を明示している。ここは横須賀本港が目の前にあるため、アメリカの海軍施設と海上自衛隊横須賀基地を間近に望むことができる。写真の向かいにあるのは船を修復・整備するためのドックで、この日は日本の潜水艦が停泊していた。 

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バラ園として整備されているので園内にはバラの花壇が多い

 園内にはいろいろな形の花壇が配置されているが、すべてはバラが主役だ。このため、バラの開花期には写真のように、バラの花先に「海軍」「海上自衛隊」の姿を見ることができる。私はバラよりも潜水艦の姿に興味があったので、船の方にフォーカスを当ててみた。

 レオンス・ヴェルニー(1837~1908)はフランス人技師で、幕末から明治初期にかけて日本の設備の近代化を指導した。幕末には小栗忠順(ただまさ)とヴェルニーの協力体制で「横須賀製鉄所」を築いた。名前は製鉄所だが、製鉄以外にも軍艦の造船やその修復などをおこなった。個人的には、司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだ小栗に興味があるのだが、彼についてはいずれ触れる機会がある。

 ヴェルニ―は明治期には洋式灯台の設置に従事した。日本最古の洋式灯台である「観音埼灯台」や日本で5番目に古い「城ケ島灯台」はヴェルニーが設計したものだ。もっとも、現存する灯台はヴェルニーの設計そのものではないが。

 こうした業績により、ヴェルニーと小栗忠順の胸像が園内の「開明広場」に設置され、その功績をたたえている。

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”軍港めぐり”の遊覧船”のを利用すると陸からは見られない艦船と間近に接することができる

 丘陵ばかりで平地が少ない横須賀が発展を遂げたのは、ひとえにその地理上の位置と地形がその理由だ。

 江戸時代には江戸と各地を結ぶ水運が発達し、その安全をはかるため江戸湾の出入り口にある浦賀(ここも横須賀市)の岬に「燈明台」(和式灯台のこと)を設置した。ここは今でも残り、横須賀の観光名所のひとつになっている。

 幕末には外国船舶が多く出入りするようになったため、幕府でも江戸湾の守りを強固にするべく軍港の整備を進めることになった。そこで選ばれたのが横須賀の地だった。大きな港を造る場所は、波に強くなければならない。風に強くなければならない。水深がなければならない。その条件をすべて満たしているのが横須賀だったのだ。

 東京近辺に住んでいる人はご存じだろうが、この地では「北東風」「北西風」「南西風」が大半だ。横須賀では、北東風は東京湾を渡ってくるので波はさほど高くはならない。冬に多い北西風と春から夏に多い南西風は風力がとても強いので厄介だが、横須賀では背後の丘陵が風を遮るので波は立たない。つまり、風よけには最適な位置にある。

 一方、尾根筋が海岸まで迫っているということは、ここの海には水深があるということになる。私は磯釣り師なので釣り場近くの水深には一番の注意を払っている。水深があるところに好ポイントがある。したがって初めて釣りをする場所ではまず磯場の形状をよく観察する。陸の形状がそのまま海底に通じているからである。このことは海遊びをする人なら経験済みだろう。陸上がなだらかならば海は遠浅なはずだ。遠浅ということは波が立ちやすい。だからサーフィンは茅ヶ崎九十九里で盛んになる。

 上記のように、横須賀の港では風が避けられ、波が静かで、海は水深がある。これ以上、軍港に適した場所はないといえる。神奈川ではなく横浜が開港場に選ばれたのもほほ同じ条件を有していたからである。

  軍港を中心に順調に発展してきた横須賀市だが、1992年2月の43.7万人をピークに人口数は停滞し、2004年には明らかに減少方向に向かい、18年2月には40万人の大台を割り込んだ。1977年以来の30万人台である。2019年6月現在は39.6万人と減少が続いている。開発可能な平地は少なく、丘陵地の住宅は年配者に厳しいという現実が突き付けられているようだ。汐入駅前にあった超大型ショッピングモールの「ショッパーズプラザ」は19年3月末に閉店となった。これも人口減少が大きく影響しているのだろう。

 横須賀には観光資源が多くあるので、現在はこの面に力点を置いているようだ。1999年には「海軍カレー」、2009年には「ネイビーバーガー」を売り出し横須賀の名物になりつつある。また、地元の海運会社が始めた「軍港めぐり」は人気を博している。写真はその遊覧船が出港したときのものだが、陸地からははっきり見られない、あるいは島陰にあって見ることができない自衛艦や米軍艦船を間近に見ることができるために人気が高まった。私がここを訪れた日は小雨混じりの梅雨寒の天気が影響してか乗客は少なかったが、普段見かけるときはいつも満員御礼という感じだ。向かいに見える自衛隊護衛艦「きりしま」には、自衛隊の司令部がある長浦港を巡ったのちの帰り際に近づくはずだ。いずれにせよ、横須賀観光や名物にも「軍港」がついて回るようだ。

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国道16号線から「どぶ板通り」に入る細道

 どぶ板通りは横須賀の人気スポットである。正式には「本町商店会」というそうだが、その名を使う人に会ったことはなく、皆が”どぶ板通り”と呼ぶ。通りの中央にどぶ川の溝がありそれが邪魔なので、上に鉄板を被せたことからそう呼ばれるようになったが、現在は綺麗な通りに整備されているので、「どぶ板」を見ることはできない。

 外国人が立ち話をしているすぐ奥に国道16号線に平行する形に通りはある。写真に見える石柱には「明治天皇横須賀行在所入口」とあるが、それを目にとめる人はいなかった。

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どぶ板通りの人気店には順番待ちをしている人たちがいた

 どぶ板通りのすぐ近くには米海軍横須賀基地の正門があるので軍関係者が多く、この通りに出てきて、昼間は食事、夜は飲酒を楽しんでいる。このため、看板は英語がほとんどで、日本語は少ない。が、軍関係者だけを相手にしていたのでは「斜陽産業」になってしまうため、日本人観光客目当てに「海軍カレー」「ネイビーバーガー」「チェリーチズケーキ」を全面展開している。それで、飲食店だけは日本語が多くなっている。

 この通りは「スカジャン」の発祥地でもある。派手な刺繍を施した「ヨコスカジャンパー」はかつて、”ヤンキーの御用達”であったが、最近ではほとんど見ることはなくなった。昼間にこの通りを訪れる観光客は日常性の延長としてカレーやハンバーガーを食するようで、スカジャンの店を訪れる姿はほとんどなかった。

 どぶ板通りは”火灯し頃”から活況を呈するのだろう。灯りに照らされた通りは、人の姿は一変するはずだ。かつては、米兵に近づくだけのために日本の若い女性が通りにあふれていた。現況は知らないが、他の「健全な」街では見られない光景がきっと、今でも繰り広げられていることだろう。そうでなくては、横須賀に来る甲斐がない。

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三笠公園に通じる歩道は綺麗に整備されている

 国道16号線三笠公園入口交差点を曲がり、道なりに公園方向に進むと綺麗に整備された歩道が公園まで続いている。歩道脇には幼稚園から大学までいくつもの学校があるため、この歩道は幼児、児童、生徒、学生で賑やかである。その歩道上には写真の「日本丸」のミニチュアが置かれていた。横浜のランドマークタワー前にある帆船の模型だ。似てはいないと思うのだが、説明書きには本物の「日本丸」のことが記してある。これも「港町」ならではの景色かもしれない。私が訪れたのは学校の下校時間だったので大勢の児童・生徒がこの前を通り過ぎていったが、この存在を気にする様子はまったくなかった。毎日のことなので、この存在も風景のひとつでしかないのだろう。

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公園には本物の「戦艦三笠」が鎮座している

 三笠公園は「水と光と音」をテーマにした公園だそうで、スピーカーから流れる音楽に合わせて水が舞う噴水、水が流れ落ちる壁泉、高さのあるモニュメントなどとても美しく整備されている。辺りを見回すと、一方には米軍施設、一方には東京湾にある唯一の自然島の「猿島」、そしてこの公園の主役である戦艦三笠の姿が視界に入る。

 戦艦三笠は1902年、イギリスの造船所で竣工した。03年、横須賀港に入り連合艦隊の旗艦となった。日露戦争では東郷平八郎司令長官や秋山真之作戦参謀などの作戦により、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と闘い勝利した。23年、ワシントン軍縮条約で艦船保有を制限することになったので、三笠は除籍されることになった。

 しかし、その姿を残したいという声が広まり、記念艦として保存することが決まった。当初は芝浦港に係留するはずだったが、横須賀港に接岸中に関東大震災が発生して大きなダメージを受けたため、横須賀の現在の地に曳き入れられ、船首を皇居方向に向けて地面に固定されることになった。

 二次大戦後はソ連が三笠の解体を要求したが、艦橋や大砲、煙突やマストを撤去することで妥協がはかられ、横須賀市が保存・管理することになった。市から委託された業者はこれを遊興施設にしたが、客足が遠のくと次第に荒廃し、結果、近づくものさえなくなった。

 1958年、その荒れ果てた姿を見るに見かねた人々が「三笠保存会」に集まり、募金と政府予算を用いて復元することが決まった。そして61年、三笠復元式をおこなうまでに至った。その後はよく管理され、長官だった東郷平八郎の全身銅像も「記念艦みかさ」の前に屹立している。

 三笠公園は、賑やかな市街地からはやや離れた場所にあるためか訪れる人はそれほど多くはなかった。が、園内は芝生広場をはじめとして前記の施設などきちんと整備されているので、横須賀観光の骨休め場所には案外、向いているかもしれないと思った。

ヨーコはどこに?

 ヨーコを探すために横浜や横須賀の港周辺を訪ね歩いた。横浜には3回、横須賀にも2回来てみた。ヨーコの原像は見い出せたのかといえば、以下のように答えるしかない。

 ヨーコは「だまし絵」のような存在かもしれなかった。「若い娘と老婆」や「ルビンの壺」の絵を思い描いていただきたい。前者でいえば、ひとつの絵に若い娘と老婆が描かれているが、若い娘の姿を見出したときに老婆は見えない。一方、老婆を見出したときには若い娘は見えなくなっているというものだ。その絵は、人間の認知力の限界を示している。それと同じように、ひとりのヨーコを見出だしたときには他のヨーコは見えず、別のヨーコを見出したときは、すでに前のヨーコは消えている。これの繰り返しであった。すべてのヨーコを同時に見出すことは人のクオリアでは不可能なのである。同時に見出そうとすると、ときにはすべてのヨーコが消え去り、単なる風景と化してしまうのだった。実際、私には今回、こうした”ゲシュタルト崩壊”がよく起こった。

 また、ヨーコを見出したと思ったときには、すぐさまその否定形が現れた。より高次のヨーコが現れたと得心した刹那、やはりその否定形が心に浮かんだ。この繰り返しもあった。ヘーゲルのように「絶対知」というゴールがあれば良いのだが、一方、ゴールがあることが分かるなら、はじめから理想的なヨーコ像は存在しているはずだ。私にはそんな理想形を見いだせないから探し求めたのだ。が、この試みは結局、悪無限に陥るしかないのかも、とも考えた。

 さらに、ヨーコはヨーコではないものとして存在するのでは、とも思った。このため、帰謬法でヨーコの存在を探し求めたのだが、そこにはいつもヨーコではないものの存在が立ち現れたのだった。否定神学では「神は〇△ではない」という形でしか神の存在を定義できないように、ヨーコは「〇△はヨーコではない」とでしか表現できないのかもしれない。「ヨーコは存在しないものとして存在する」のだとすれば、ヨーコには永遠に出会えないのだと考えるしかないのかもしれない。

 そんなことを思いながら横須賀の町をふらふらと歩き、気付くと私は再び「どぶ板通り」にいた。なぜか、通りに人の姿は皆無だった。不思議に思いながら私は汐入方向に歩みを進めた。突然、とある店から老いさらばえた男が私の前に現れた。「この老人ならばヨーコの存在を知っているのでは」と思い、彼に尋ねた。

 彼は次の言葉を残し、忽然と虚空に消えた。

「あんた、あのこのなんなのさ」