古代蓮は埼玉県行田市にもあった
今年は近年になく梅雨らしい天気が続くので鮎釣りには行けず不本意なのだが、この時期はハスの花があちこちの池や沼で咲くので、川遊びはほどほどにしてハスの花見物と洒落込んだ。
埼玉県行田市には「古代蓮の里」があり、ここでは数万本の「行田蓮」が6月末から8月初めまで咲き誇る。駐車場代(1日500円)はかかるものの入場料は不要なので連日、大満員である。近年はマスメディアもこの公園をよく取り上げるので、ハスの花にはとくに興味がない人でもここの存在を知っている人は多いようだ。ハスの開花時には、駐車場(約500台収容)は臨時の施設を使っても午前10時ごろには満車に近い状態になる。車のナンバープレートを見ると、品川、練馬、多摩、横浜、相模といったものも多く、最近では関東を代表する「蓮の里」になっているようだ。
古代蓮の原点は「大賀ハス」にある
1971年、行田市はごみ焼却施設を新たに建設するため同市の小針地区の水田を購入し造成工事をはじめた。このとき、地中深くに眠っていたハスの実が自然発芽し、73年に開花した。75年、市の依頼で研究者がこの地を掘削しハスの実と木片を採集した。放射性炭素年代測定をおこなったところ、1400年ほど前のものということが判明した。同じ場所から見つかった土器は3000年前のものと推定されたので、このハスは1400~3000年前のものと考えられた。行田市はこのハスを「行田蓮」と名付けて市の天然記念物に指定するとともに、92年からこの小針の沼一帯を「古代蓮の里」公園として整備して95年に開園、さらに2001年には高さ約60mのシンボルタワーを有した「古代蓮会館」を整備した。
古代蓮と聞くと私はすぐに「大賀ハス」を思い浮かべる。府中市生まれの府中市育ちだからだ。
大賀一郎博士(1883~1965)は古代蓮研究の第一人者で、1917年、中国の遼寧省で中国古代蓮の実の発芽を成功させている。これは推定で約1000年前のものらしい。50年には千葉県で見つかったハスの実(この実自体は32年に発見されていた)の発芽に成功したが、50日目に枯死させてしまっていた。これは約1200年のものと推定されている。
49年、千葉県の落合遺跡(花見川区)の泥炭地から丸木舟とハスの花托が発見されたということを知った大賀博士は51年、地元のボランティアの協力を得てこの地を採掘し、3粒のハスの実を発見した。博士はこれを府中市の自宅に持ち帰って発芽実験をおこない、そのうちの1粒が発芽した。そして52年にこのハスは見事な花を咲かせた。博士は同じ場所で発見された丸木舟の年代測定をアメリカの大学に依頼し、約3000年前のものとの報告を受けた。ハスの実は丸木舟が発見された層より若干上の層で見つかったことから、博士はこのハスは約2000年前のものであると推定した。この開花の成功は日本だけでなく海外でも話題となった。博士はこれを「二千年蓮」と命名したが、世では「大賀ハス」と呼ぶようになった。
大賀ハスの増殖に成功した大賀博士は、自宅のある府中市にもその蓮根を寄贈した。私が通っていた府中一小の池には「大賀ハス」があり、花が咲くと何が自慢なのか教師たちはしきりに「府中の宝」であることをガキンチョに吹き込んだ。私の場合、花にはまったく関心はなかったが、池の魚には多大なる興味を覚えていたので、それを網ですくおうとしては教師に叱られた。
小学校のすぐ北側の公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスが植えられていた。ここも私の遊び場だったので、ハスの花や葉は何度となく私の攻撃(石を投げ込んだり、葉や花を折ったり)を受けたのだった。しかし「府中の宝」なので、私以外の人々からは大事に管理され、今年も多くの花を咲かせている。
多摩川の左岸にある「府中市郷土の森公園」の「修景池」には大賀ハスをメインとして30種類ほどのハスが植えられており、公園内には博士の業績を称えるプレートとともに、写真の”大賀博士の胸像”もある。郷土の森や多摩川左岸の是政一帯は私の主要な徘徊場所なので毎年、ハスの開花を楽しみに散策している。池には大きなコイがたくさん泳いでいるが、今となっては網を持って出掛けることはしていない。
個人的には「シャワーヘッド」と呼んでいるが、ハスの業界では「花托」もしくは「果托」と名付けている。その上面に点々としてあるのがハスの子房で、この中にハスの種(心皮にくるまれた胚珠)が入っている。この花托が「ハチの巣」に似ているのでかつては「ハチス」と呼ばれ、それがつまって「ハス」と呼ばれるようになったというのが通説だ。
ハスの心皮は非常に硬いため、水や空気の侵入を防いでいる。胚珠の呼吸作用はとてもゆっくりなので、心皮の中に二酸化炭素が充満する(胚珠の死を意味する)までの期間はとても長い。大賀ハスの実の場合、さらに土中深くに”低温保存”されていたので2000年以上も命を長らえることができたのだそうだ。
ハスとスイレンとの違い
ハスの花が咲く時期になると、決まって知人からハス(蓮)とスイレン(睡蓮)の違いについて聞かれる。植物学的にはまったく違うというのがほぼ正解なのだろうが、見た目がよく似ているので、歴史的には”同じようなもの”とされている場合が多いようだ。たとえば、英名でハスは「ロータス」、スイレンは「ウォーターリリー」と呼ぶが、小型園芸種で私も以前にはよく育てていた「タイガーロータス」なる美しい植物はスイレンの仲間である。また、池や沼で巨大な葉を広げる「オニバス」もスイレンの仲間だ。いずれも名前だけ見るとハスの仲間のようなのだが。
「蓮華」の名は仏教の世界ではとてもよく目や耳にする言葉だ。蓮華は、通常では「ハスの花」のことだとよく記してあるが、実際に調べてみると、ハスでもありスイレンでもあるということが分かる。たとえば、浄土に咲く青い蓮華(ウトパラ)はスイレンであり、黄色い蓮華(クムダ)もスイレンと考えられている。黄色いスイレンは(黄色いハスも)アメリカ大陸にしか生育していないので、仏教の発展期には黄色い蓮華は誰も目にしてはいないはずなのだが。仏教とは直接には関係ないだろうけれど、中華料理によく使うサジを「蓮華」というが、これはハスの花びらの方が形体はより近いかもしれない。
ペルシャ戦争を主題にして『歴史』を著した古代ギリシャのヘロドトスは「エジプトでロートスといっている百合の類が無数に水中に生じる……ロートスの根も食用になり、丸みを帯びたリンゴほどの大きさで結構、甘い味がする」と書いているが、このロートス(ロータス)は「百合の類」や「根がリンゴ状」とあるので明らかにスイレンを指している。
ことほど左様に、園芸的にも宗教的にも歴史的にも、ハスとスイレンはきちんと区別されてはいなのだ。
一方、植物学的には、ハスとスイレンとでは、前者は「ヤマモガシ目」、後者が「スイレン目」で、”科”どころか”目”まで異なるのだ。ほとんど違う種類といってよい。ちなみに街路樹としてよく見かけるプラタナスは「ヤマモガシ目」なので、ハスの”遠い親戚”だ。見た目はまったく異なるにも関わらず。分類学では「見た目だけで判断」してはいけないのだろう。
しかし、ハスとスイレンの基本的な違いは「見た目」でも判断できる。ハスは花茎だけでなく葉茎も水上高くに伸ばす。一方、スイレンの葉は水面上にあり花も水面か水面近くにある。
ハスの花には花托があるがスイレンにはない。ハスは午前中によく花を開かせるが、スイレンは「未の刻」、つまり午後1時から3時ごろによく花が開き(これがスイレンをヒツジグサと呼ぶ理由)、それ以外の時間には眠っているように花を閉じる(これが睡蓮と名付けられた理由)。ハスは花びらを散らせるが、スイレンは花を散らさない。
水上からは分からないが、両者の根の形はまったく異なる。ハスの根はヒゲ状で、スイレンの根は塊根(サツマイモかリンゴ形)だ。ハスの根はレンコン(蓮根)ではないのかと思いがちだが、あれは地下茎で、茎と茎とをつなぐ部分にモジャモジャと生えているのが根なのである。レンコン料理、とくにレンコンの天ぷらは私の好物のひとつだが、その素材は茎で、もしも本当のハスの根が料理として出てきたら、見通しはまったく暗くなる。不思議だが本当なのだ。これでいいのか。
古代蓮の里を散策する
「古代蓮の里」公園を訪れるのは今回が4回目だ。が、ハスの開花期は今回が初めてだ。前の3回は、いずれも「吉見百穴」や八丁湖公園にある「黒岩横穴群」を見学した後に北上し、後述する「さきたま古墳群」を見て回り、それだけでは時間がやや余るので「古代蓮の里」にも立ち寄ってみるという感じだった。開花期以外は、よく整備された広々とした静かな公園として存在し、園内ではのんびりと散策を楽しむ人をちらほら見掛けるという風情である。テレビニュースや新聞紙面では毎年、7月上旬になるとここの公園がハスの花の見物客で大賑わいとなっている光景が報道されるので、いずれこの時期に訪ねてみようと前々から思っていたのだが、それが今回、実現することになったのだ。
ハスの花の鑑賞には午前中(7~9時頃)が適するといわれているが、それより遅い時間帯でも楽しめないことはないので、当日、ここには午前10時に到着した。この日は小雨混じりの平日だったためか想像したよりは人影は少なかったが、ものの一時間も経たないうちに満車に近い状態になった。さらに大型バスが続々と来るやら、近隣の駅からのシャトルバスが来るやらで、見物客の数はどんどん膨れ上がってきた。美しい姿勢で咲いている花の周囲には黒山の人だかりができていた。もっとも、ジジババといった高齢者が多いので、黒山だけでなく白山やはげ山もできていた。
横浜や横須賀でも目立つ存在だったが、ここでも若い(若くもない)女性が立派な一眼レフを構えている姿をよく目にした。コンパクトなデジタル一眼の普及が、女性カメラマンの増殖を進展させたのだろう。
園内にある池の大半は「行田蓮」だが、公園の正面入り口付近には約40種もの園芸種が揃えられており、ここには白系や八重咲系のものなど、古代蓮とはまた異なる色彩や形態をもつハスの花を鑑賞することができた。ただし、古代蓮に比べてやや早咲きのものが多いせいなのか、池(プールといったほうが適切か)の条件の違いなのかは不明だが、花期は終盤を迎えているものが多かったのは少し残念だった。それでも種類は豊富なので、十分に楽しむことができた。
ハスの話、あれやこれやと~園芸種の写真を並べながら
ハス属は2種あり、その学名は「ネルンボ・ヌキフェラ」(アジア系)と「ネルンボ・ペンタペタラ」(アメリカ系)である。Nelumboはスリランカの地名をとったもの、nuciferaは”硬い実”を、pentapetaraは”5つの花弁”を意味する。アジア系は赤や白、アメリカ系は黄色い花を付ける。原産地は不明だが、インド説が有力なようだ。
ハスの実の化石は世界各地で発見されており、最古のものは約1億4000万年前の白亜紀のもので10種見つかっている。日本の北海道でも約7000万年前の白亜紀後期のものが出土している。ただし、第4紀氷河時代にこれらのものは死滅したと考えられているので、現在生育するハスとの連続性は証明されていない。
京都山城で発見された約1万~2万年前のものはNelumbo nuciferaと考えられているので、氷河期の終盤には現在と同じものが生育していた可能性は高い。
ハスは観賞用よりも食用とするほうが一般的かもしれない。地下茎であるレンコンは天ぷらや煮物、揚げ物などによく利用される。713年に編まれた『常陸風土記』や『肥前風土記』には「食べるとおいしいし、薬用にもなる」といったような記述があるので、相当古くから食用品として認められていたようだ。しかし、仏教が隆盛になると「蓮華」は仏花として神聖なものになったため、”レンコンを食べると仏罰にあたる”とされ、食用としてのハスの栽培はさほど広がらなかったらしい。
しかし江戸時代になって朱子学が優位になったためか、前田家の加賀藩は水田耕作に適さない土地にはハスを植えることを奨励した。これが契機となって食糧用としての栽培が広がった。明治初期には多産系で味の良い”中国ハス”が日本に持ち込まれたこともあって、食用ハスの生産量は一気に拡大した。江戸期に”地蓮”として人気があった「加賀蓮根」も、今では中国系のハスにとって代わられているようだ。
現在、レンコンの生産高は茨城県がダントツで、日本の全生産高の半分を占めている。これは湿地帯が広がる霞ケ浦が県内にあるからで、市町村の生産高でも1位が土浦市、2位がかすみがうら市である。なお、都道府県別では2位が徳島県、3位が佐賀県となっている。
レンコンは「おせち料理」には欠かせないものになっている。これはレンコンには10ほどの穴が開いているため、「先を見通せる」という縁起物として考えられているからだ。私は小さい頃、よく台所からスライスされたレンコンを2枚盗み、それを目の前に当てながら「いいメガネだろう」と叫びながら近所を歩き回った。こんなことばかりしていたので、私の人生の見通しは暗かった。これでいいのだが。
鑑賞用としてのハスも『古事記』では河内、『日本書記』では奈良の地名とともに「花ハチス」が美しいものとして出てくる。古事記では5世紀頃の出来事としてハチスの名が出てくるので、食用としてだけでなく観賞にも耐えるものとしてハスは認知されていたようだ。
ひさかたの 雨もふらぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たむ見る ”万葉集”
夕立ちの 晴るれば月ぞ 宿りける 玉ゆり据うる 蓮の浮葉に ”西行”
傘に蝶 蓮の立葉に 蛙かな ”其角”
こうした歌が作られたように、ハスは見るものにある種の感慨をもたらした。
ハスの花は、中国では美人に例えられている。ハスの美名は芙蓉(ふよう)という。白楽天の『長恨歌』には「芙蓉は面のごとく、柳は眉のごとし」とあるが、もちろんこの芙蓉は楊貴妃を指す。また、越王勾践が呉国を弱体化するために王の夫差へ絶世の美女である西施を送ったことはよく知られているが、この西施も芙蓉に例えられている。
ところで、フヨウは夏に開花する樹木も有名なので、ハスを指す場合は”スイフヨウ”、樹木のほうは”モクフヨウ”と呼んで区別することがある。もっともフヨウには朝は白く午後は桃色、夕は紅色に染まる酔芙蓉という品種があるので、”スイフヨウ”の音だけでは混乱する場合があるかも。まぁ、話の流れの中で、どちらのフヨウなのは判断できるので心配は不要だ。
ハスやスイレンは、「再生するもの」「清らかなのも」として象徴化されてきた。
エジプトでは前29世紀に神の一人であるネフェルテムの像が造られたが、この像の頭部にはスイレンの花の飾りが、輪飾りにはスイレンの文様がある。エジプトでは1本のスイレンから世界が生まれたと考えられており、前27世紀に造られた王墓の木柱には蓮花の柱頭がある。
「エジプトはナイルの賜物」と歴史家のヘロドトスが記したように、毎年、必ず決まった日に始まるナイル川の氾濫は下流部に肥沃な土を運び、豊かな実りをもたらした。そのナイルにはほぼ周年、青いスイレンが咲く。それゆえ、スイレンは命の源、復活・再生の源を象徴するものと考えられた。なお、古代ペルシャに造られたペルセポリス宮殿には、エジプト様式の蓮台がある。
インダス文明の都市と考えられるモヘンジョダロやハラッパの遺跡には公衆浴場跡があるが、この浴場は蓮池(プシュカラ)と呼ばれていたらしい。また、この時期には多くのテラコット(テラコッタ=土の焼物)が作られたが、中でも蓮の飾りを付けた「ハスの女神」が有名である。
古代インドのアショーカ王はインド全土を統一したが、最後の統一戦争ともいわれる「カリンガ戦争」で多大な犠牲を生じさせたため、以降は武断政治から文治政治に改めた。彼は「ダルマによる政治」をおこなうため、各地に石柱詔勅を建てた。この石柱の上部には垂れ下がる蓮華の花弁の彫刻が施してある。なお、アショーカ王は「第3回仏典結集」をおこないパーリ語経典(上座部仏教)の教えを整理させた。
主要な仏典に『妙法蓮華経』があるように、仏教とハスとは切っても切れない関係がある。釈迦の弟子が「麗しい白蓮華が泥水に染められないように、あなた(釈迦のこと)は善悪の両者に汚されません」と語ったように、釈迦=白蓮華を最高存在と考えていた。したがって、『妙法蓮華経』は白蓮のような正しく崇高な教えを説いたものとされている。
仏像はインドのガンダーラ地方で造られたのが最初だが、当初はヘレニズム文化の影響を受けているため、釈迦の顔形は西洋人的である。奈良の大仏をはじめ、釈迦像の多くが「パンチパーマ」だが、これは釈迦が女房子を捨てた流れ者、すなわちやくざ者だったからではなく、当初の像がギリシャ的なウェーブのかかった髪型だったからである。それが東洋的に変化しパンチパーマ=螺髪(らほつ)になったのだ。確証はないが、実際の釈迦は剃髪していた蓋然性が高い。
仏像が蓮座や蓮台を有するようになったのは3世紀ころからである。ハスは生命の源なのだから、仏がハスの上にあるというより、仏はハスより出ると解釈するのが妥当だろう。
浄土教が広まってからは、さらに仏教とハスとの関係は密になった。極楽浄土には蓮池が満ち満ちていると考えられている。「極楽世界には金、銀、瑠璃、水晶、珊瑚、瑪瑙(めのう)、琥珀といった七種の宝石でできているもろもろの蓮池があり‥‥」などと形容されている。
「ハスは泥より出でて泥に染まらず」といわれるように、ドロンコの沼地から花茎を伸ばし、けがれのない麗しい花をつける。さらに、ハスの葉もけがれのないものの象徴とされる。これはよく「ロータス効果」と呼ばれる。ハスの葉の表面には0.01ミリ径ほどの突起が密に分布しているため、これが水をはじく効果を有するのだ。スイレンの葉はこの効果が低いので葉は水面にだけあるが、ハスの葉はこの効果が高いので、水を弾き水上高く伸びることができ、さらに大きく葉を広げても雨水がたまることはない。
今ではあまり使われないが、「蓮っ葉」という言葉がある。尻軽で品行の良くない女を指す言葉だが、これはハスの葉が軽々と水をコロコロと転がすように、あいつは軽々しい女であるという例えからきている。
バスを待つトトロは雨に濡れないように大きな葉っぱを傘代わりに使っているが、この葉はハスではなくサトイモの葉である。このサトイモの葉も水をはじく「ロータス効果」をもっている。トトロは所沢の狭山丘陵辺りに住んでいるので、サトイモの葉が身近にあったのだろう。これが行田か霞ケ浦周辺に住んでいたとしたら、きっと、ハスの葉を傘に使っていたに違いない。
太田道灌は突然の雨で近くの農家に蓑を借りに行き、小娘から八重山吹を指し示されても意味が分からずに大恥をかいた。このことが道灌を歌人として大成させる切っ掛けとなったのだが、道灌がこのロータス効果を知っていたら、ハスかサトイモの葉を探せば良かったのだ。もっともハスの葉をさす道灌は、別の恥をかいたかもしれないが。さらに彼は歌人としては名を成さず、その上に「バ」が付く歌人となっていたことだろう。いや、本当に。
行田はギョーザの町ではなかった
ギョーザが大好物である。「最後の晩餐」に何を食べるかと聞かれたら即座に「ギョーザ3人前」と答える。「あとは?」と尋ねられてもすぐには思い浮かばない。10秒後ぐらいに「サバの塩焼き」と返答するかもしれないが、そのあとは出てこない。学生時代にはよくギョーザ専門店に通った。その店ではある量を食べるとタダになるというルールがあった。体育系の奴ならばクリアー可能な量と思えたが、実際にはなかなか難しいらしい。私は「運動系?」だったがチャレンジしなかった。私なら簡単にクリアーできる量なので、仲間からも「やってみろ」と何度もいわれたが絶対にやらなかった。「体に悪いからか?」と聞かれたので否と答えた。体に悪いのではない、ギョーザに悪いのである。ギョーザは、ただ食べるのではなく善く食べるものなのだ。
今年の1月に体調不良で3週間ほど入院したが、医者からは「脂分」を徹底的に控えるようにといわれた。当方としても釣りや旅行に出掛けられないと楽しくないので、以来、ラーメン類、天ぷら、かつ丼、唐揚げなど脂分の濃い食べ物は以前の10分の1ほどにまで控えている。ただし、それでは油切れで関節がカクカクすると釣りにも旅行にも行けなくなるので、ギョーザだけは食べるようにしている。というより、回数は増えたような気もする。
行田市の中心街に来た。といってもどこが中心なのかわからないほど閑散としていたので、とりあえず行田市駅に来た。ギョーザ店を探すためである。10数年前だったか、アホそうな女性タレントのCMに「行田、ギョーザ」といったような馬鹿げたものがあったと記憶している。ダジャレは大嫌いだがギョーザは大好きなので、行田に来たのだから行田でギョーザを食べるという使命を感じたのだ。決して、コンビニのハンバーガーではない。
駅周辺を30分ほど歩いたが、ギョーザを扱いそうな店は見つからなかった。というより、開いている店自体があまりなかった。行田に限らず、地方都市のほとんどで駅前商店街は衰退し、店の多くは郊外のショッピングモールか街道筋に移ってしまったのだ。ギョーザを食べることを断念しようと思ったのだが、そう考えるとますますギョーザが頭や心から離れなくなるので結局、街道筋にあるチェーン店に入りギョーザを食べた。行田のギョーザではなく、行田店のギョーザになってしまった。
忍(おし)城は行田市駅から徒歩15分ほどのところにある。市役所の近くなのでわかりやすい。現在ある「御三階櫓」は1872年に取り壊されたものを1988年に再建(かつてあったものと同じ形かどうかは不明)したもので、歴史博物館に付随した建物になっている。櫓(やぐら)内に登ることは可能だが、私は一度も入ったことはない。今回も入館しなかったが、後で後悔した。
忍という地名は珍しく、ここを訪れる多くの人は「しのぶ」とか「しのび」とか読んでしまうそうである。「忍」とつくと忍者を連想し、この城を忍者屋敷と考えがちだ。忍を「おし」と読む例は山梨県にある。忍野村にある「忍野八海」が有名で、そっちは世界遺産(富士山)のひとつになっている。それゆえ、これを「おし」と読んでもさほど違和感はない。「おし」の語源は不明だそうだが、有力なものとして「川の縁(へり)」を意味するというものがあるらしい。確かに、この行田市の近くには利根川や荒川が流れ、それら以外にも中小河川が多いので、「川の縁」というのもあながち的外れではないだろう。
周囲に川が多いことからこの地には池や沼が多く、熊谷を本居地としていた成田親泰はこの地形を利用して、1491年に築城した。池や沼地を天然の堀とし、点在する島々に土塁、塀、曲輪、櫓、役所、住居などを造り、それらを橋で結んだ。このため、忍城は「水郷浮城」と呼ばれ難攻不落の城に数えられた。成田氏がこの城を築く直前に、事実上関東の地を仕切っていた太田道灌が暗愚な主君に殺されたため、関東の地は混乱に陥っていたのだった。親泰にとっては守りが固い城が必要だったのだろう。
成田氏は小田原の北条氏側に属していたため、豊臣秀吉軍の小田原攻め(1590)の際には守備側についた。忍城を攻撃したのは石田三成や真田昌幸といった武将を中心とした23000人の軍勢。一方、成田勢は800人の兵と約2000人の農民が城に立てこもり守りを固めた。石田三成は城の周囲に堤を築き「水攻め」をおこなったが、成田氏側はよく守り抜き、城内には一人の敵兵も入れなかった。しかし、小田原北条氏が秀吉勢に完敗したため、忍城は無傷のまま開城された。
その後、忍城は松平家や酒井家、阿部家など徳川幕府の譜代・親藩大名がここの主になった。明治維新後の廃藩置県によって忍藩10万石は忍県となり、1872年に城は取り壊された。さらにこの地の開発のために池や沼の大半は埋め立てられ、今は大沼の一部が「水城公園」の池として残っているだけである。私はこの地を初めて訪れた際、町の中心部に大きな池があることに感激したが、この地の歴史を調べてみると、この池は忍城の堀のほんの一角にすぎないのだということが分かり心底、驚きを覚えた。
歴史博物館の敷地内、御三階櫓のとなりにあるのが写真の「忍城の時鐘」である。この鐘は1717年に桑名で造られ、いったん火災にあったが修復された。1823年に桑名藩主が忍藩に移封された際、この鐘は忍城に持ち込まれたのだった。が、城が取り壊れたことで鐘楼もなくなり鐘は放置された。それを忍びなく思った地元の有志の協力によって、鐘は新設された小学校の玄関横に置かれることになった。しかし戦後、この場所を米軍が病院として利用することになったため、現在ある場所に移されたそうである。そんな鐘の遍歴を知ると、このどこにでもありそうな鐘楼に対して、襟を正して尊崇しなければならないと少しだけ思った。
古墳群に興奮する
「さきたま古墳群」は十数年前、私が行田市に来る切っ掛けとなった場所である。そのころ、日本各地にある古墳を見て歩いていたからだった。先に述べたように、ここの前には「吉見百穴」や「黒岩横穴群」を訪ね、それからここに来るのである。前二者も墓なので、何のことはない単なる”墓巡り”なのだ。そういえば、多摩墓地も私の散策場所のひとつだ。
私が古代史を好きになったのは、予備校(代ゼミ)の英語の授業が端緒だ。社会科の受験科目には日本史と地理を選択した。地理は小さい頃から地図を見るのが好きだったのでとくに問題はなかった。一方、日本史は覚えることが多く、しかし私は暗記が大の苦手だった。日本史はほとんど手付かずのままだったので成績は芳しくなく、ときおり思い出したように参考書を広げるのだが、いつも古墳時代まで進んではその本を投げ出していた。それゆえ、猿人や原人や旧人については友達のように馴染んだが、それ以降は怪しくなりつつなんとか前方後円墳まではたどり着いた。しかし、乙巳(いっし)の変(大化の改新)となると、ウマがどうしたイルカがどうしたカタマリがどうしたこうしたと訳がわからなくなった。
後期になっても相変わらず、授業中に欠伸をしたり漫画を読んだりしていると予備校で知り合った2人から、英文解釈の授業で面白い話が聞けるので来いとの誘いがあった。そこで、私より出来の悪い友人を無理やり引き連れ、その場を抜け出して4人でその授業がおこなわれている教室に入った。200人ほど入る大教室だったが、受講者は一番後ろの席に数人いるだけで、しかも誰も授業を聞いておらず自習していた。私たち4人は一番前の列に座った。講師は英語の授業にも関わらず、大声でしきりに日本古代史の話をしていた。まったく知らない人名や出来事が出てくるのだが、その内容は壮大な歴史ドラマのようで私はすぐに魅入られてしまった。人の話に没入できたのはこれが人生初のことだったといっても過言ではない。
私を誘った2人は東大志望で午前中は駿台予備校に通い、代ゼミで息抜きをして夕方から自宅で勉強。私の友人は東京芸大志望で、いつも漫画以下の絵を描いていた。私は教員免許さえ取れればどこの大学でも良かったので志望校はまったくなかった。受験本番が近づくにつれ、3人は英文解釈という日本史の授業には顔を出さなくなったが、私は一人で彼の話に聞きほれていた。あまつさえ、その講師は古代史の研究会を設立し現地調査も行っていたので私もそれに参加した。それにはさすがの講師も慌てた様子だったが、私が志望校の名前をいうと(もちろん適当に)”そこなら勉強しなくても大丈夫だな”と、受験日前日まで私を現地調査に付き合わせた。その場所は、大磯町にある高麗山だった。彼のお蔭で、私は初めて「知ることの楽しさ」を少し分かるようになった。
その先生は明治大学教授(当時は助教授)のドイツ文学者だったが、日本古代史に興味を抱き、研究会まで発足させ事務局を仕切っていた。その運営費用を捻出するために予備校の授業を受け持っていたのである。私が大学生になってからたまたまテレビを見ていると、件の先生は「クイズダービー」の解答者としてレギュラー出演していたのだった。聞けば、研究会の運営費は「火の車」状態だったそうだ。先生は、知っていてもわざと答えを間違え、進んでピエロ役をやって出演料を稼ぎそれを研究会の費用に回していたようだ。残念ながら先生は43歳の若さでガンで亡くなり、解答者は篠沢教授に代わった。
ここには大型の古墳が9基あり、日本でも有数な古墳群だそうだ。国の史跡に指定されていて、最近では「世界遺産」の登録を目指しているらしい。この点では大阪の巨大古墳群に後れを取ってしまったが。写真の古墳は「日本最大級」の円墳で、長いほうの径は105mある。少し前までは「日本最大の円墳」を自慢していたが近年、奈良の「富雄丸山古墳」の径が110mありそうだということを主張し始めたのでこちらは慎重になり、「日本最大」から「日本最大級」に「格下げ」して推移を見守っている。
ひとつ前の写真にあるように、この古墳は上に登ることができる。「古墳を大切にしましょう」という看板が少し悲しいが。天辺や周囲には桜の大木があり、開花期はかなり眺めが良いらしい。この古墳の周りには「石田堤」がある。先述した石田三成が忍城を水攻めにするために築いた堤防だ。
古墳の上からは写真のように忍城の姿が見える。石田三成は、ここから城や周囲を見渡し、攻略作戦を練っていたのであろう。それゆえ、この古墳は相当に荒らされた可能性が高い。私がここを訪れた日には大勢の小学生が歴史の勉強のためなのか社会科見学なのか古墳を上り下りしていた。引率の教員の中にあの教授のような熱血漢がいれば、子供たちの多くが歴史好きになるだろう。いや絶対に。
丸墓山古墳上からは、となりにある「稲荷山古墳」や古代蓮の里にある高さ60mの展望塔を見て取ることができる。天辺はかつて物見台になっていたためか意外に広く、休息場所にも適している。大勢が墓上に訪れると騒々しいので墓の中で眠っている人は十分な睡眠はとれないだろう。もっとも、千数百年前に風になってもうそこには主はいないだろうが。
写真に見える稲荷山古墳は、長さ120mの前方後円墳である。1968年の発掘調査によって、「金錯銘鉄剣や帯金具、勾玉(まがたま)、鏡などの遺物が多数発見され、これらは国宝に指定されている。現在は、古墳群の敷地内にある「さきたま史跡の博物館」内に展示されている。鉄剣に刻まれた銘文によれば、この墓の主は「雄略天皇」に仕えた有力者であることが推測されるそうだ。
古墳時代は3世紀半ばから7世紀前半まで続き、土盛りの大きな墓を造るという特異な文化をもっていた。大きな墓はほとんどが前方後円墳で、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」がその始原とされている。この墓の主は「卑弥呼」だという説があり、個人的にはそうあってほしいと願っている。が、出土品からは4世紀頃のものも多いため、その真偽は確定していない。纏向(まきむく)にあるこの古墳は私が大好きな「山辺の道」(日本最古の道といわれる)からは少し外れた場所にあるが必ず、寄り道をしてこの箸墓古墳を訪ねている。
古墳群の存在は一時、今年の話題をさらった。「百舌鳥・古市古墳群」が、世界文化遺産への登録が決定されたからだ。もちろん、教科書にも出てくる大仙陵(伝仁徳天皇陵)はそこの代表的存在である。私も何度かその古墳を訪れているが、確かに敷地面積の広さには圧倒される。そこはかつて「世界最大の墓」といわれていたが、現在では「敷地面積としては」という但し書きが付いている。エジプトのクフ王のピラミッド、秦始皇帝の「兵馬俑坑」は「~としては世界一」と名乗っているのだろうか。
将軍山古墳は長さ90mの前方後円墳で、1894年に発掘され横穴式石室からは多くの副葬品が出土している。これらの多くは再現された石室の中に並べられ、「古墳展示館」として公開されている。現在は草が茂っているので写真ではよく分からないが、墳丘には模造された埴輪が並べられている。
無料駐車場のすぐ東側にある「愛宕山古墳」はこの古墳群では一番小さな前方後円墳で、長さは約55mだ。写真の通り、樹木がよく茂っていて、ここ一帯が古墳群であると知らなければ、小さな丘程度にしか見えない。が、イメージをきちんと膨らましさえすれば古墳に見えるし、それも前方後円墳以外の何物でもないとわかる。
写真には挙げなかったが、将軍山古墳と愛宕山古墳との間には「二子山古墳」がある。これは当地の古墳群では最大の前方後円墳で長さは132mある。しかし、旧武蔵国では最大であるという以外とくに但し書きはなく、埴輪や須恵器以外の出土品の説明もないようだった。
古墳群の敷地内には行田市駅に通じる「古墳通り」が走っていて、ここまでに挙げた5つの古墳は通りの北側にある。通りを渡ってすぐのところに「はにわの館」があり、ここでは埴輪作りの体験ができる(有料)。その横にはレストハウスがあるが、その東にあるのが写真の瓦塚古墳だ。これも長さは73mとさほど大きくはない前方後円墳だ。
とくに記すべきものはなかったので写真は撮ったもののここに挙げる必要性は感じられなかったのだが、古墳のふもとには多数のオレンジ色の野草(ハルシャギク)が咲いいてそれが案外綺麗だったので、あえて挙げてみたという次第だ。
レストハウスのとなりには移設された古民家があった。入り口には「旧遠藤家住宅」との標識があった。武蔵野の地を散策するとあちこちで見かける、もしくは見かけた典型的な古民家の姿で、私の母の実家(調布市)もこんな造りの家だったのでこれには懐かしさを覚えた。そこは、いまでは大きなマンションになっているが、ほんの30年ほど前にはこうした姿で京王線西調布駅の近くに建っていた。なお、古民家の右手に見える丘は、瓦塚古墳の前方部である。
「さきたま史跡の博物館」には初めて入った。入場料は200円で「将軍山古墳展示館」との共通入場券になっている。なお「古代蓮の里公園」の駐車券を見せれば、ここは120円で利用できる。
1階が展示室になっており、「企画展示室」と「国宝展示室」がある。写真は「企画展示室」の内部で、埴輪や土器が数多く展示されていた。教科書や資料集、図鑑などで見かけたことがあるらしきものが多く並べられている。やはり実物には歴史の重みが感じられ、たまにはこうして資料館をのぞくことも歴史への興味がさらに膨らむのだということを実感した。
形象埴輪のうちの動物埴輪である馬形埴輪は想像していたよりもかなり大きいもので、しっかりと復元されていた。ガラスケースに入っているために写真では写り込みが多くて見づらいが、実際の場面では細部まできちんと見えるし、解説書だけでなく解説をしてくれる係員も常駐している。ガラスケースに収まった国宝の小型遺品に見るべきものが多くあったが、これらは撮影禁止だった。これからも訪れる機会は多々ある?ので、次回はじっくりと見物してみたい。そう思わせるほど、展示品は充実していたのである。
さきたま古墳群には、中心的存在である丸墓山円墳をのぞけば全国規模でみると中小型の前方後円墳があるのみで、最大でも二子山古墳の132mである。日本には200以上の長さを持つ大古墳は30基以上ある。その半数は奈良県にあるが、さらに300m以上の巨大古墳は全国に7基あり、大阪に4基、奈良に2基、岡山に1基である。もちろん最大のものは「大仙陵」で長さは525mにも達する。
奈良や大阪といえば古くから栄えた場所で、とくに巨大古墳がある場所はほぼ、先に述べた「山辺の道」や日本最古の官道といわれる「竹内街道」沿いにある。つまり大和から海の玄関口であった堺、やや詳細に述べれば、奈良県の桜井から二上山麓を通って太子町にある「近つ飛鳥」を抜け、羽曳野から堺に至る道沿いだ。ここらは日本成立期から発展していた場所なので、当然のごとく「大王の墓」が存在する。しからば、巨大な前方後円墳がその権威・権力の象徴になるのはいうまでもないことだ。
「さきたま古墳群」はいかなる権威・権力から生まれたのだろうか?いまだ、墓の主は同定されていない。『日本書記』の記述によって武蔵国造の笠原直使主(あたいおみ)一族の墓と推定する説が有力らしい。また、当地の伝説では「乙巳の変」の折りに蘇我石川麻呂一族が逃げてきて住み着いたので、麻呂の墓⇒丸墓になったというのがあるそうだ。
この古墳群がある場所は『万葉集』や『和名抄』に「前玉(さきたま)」、「佐吉多方(さきたま)」とあり、これが埼玉県の名前の語源となったとされている。これには異説もある(埼玉は多摩川の先にあるから先多摩⇒さいたまとなったなど)ようだが、少なくとも古墳群の地では「埼玉県名発祥の地」と考えており、その石碑もある。
いずれにせよ、墓の主といい、県名の由来といい、謎多き場所なのである。それゆえ、規模は中古墳でも心意気は大古墳であり、歴史好きは、その謎を追うと「大興奮」するのだ。
古代蓮の里があり、行田の名はギョーザを連想させ、そして大興奮してしまう大古墳がある。とても忍んではいられない面白い場所なのだ。これでいいのだ。いや本当に。
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この項を、私に勉強の面白さを初めて気づかせてくれた、天国におわします鈴木武樹先生に捧げます。