私は夢をよく見る。夢といっても、将来、ユーチューバーになりたいだとか、花屋さんになりたいだとか、飛行機の運ちゃんになりたいだとかの類ではない。眠っているときに見る夢である。以前から眠りが浅く、齢を重ねるごとにさらに浅くなり続けているためか、夢の出現度は高くなり、一晩に豪華ニ十本立てなどということも珍しくない。もっとも、目が覚めるとすぐに場面の大半は記憶から消え去ってしまうため、夢を見たという意識は残っているもののそれは半覚醒時までのことで、その内容を起床後まで覚えていることはあまりない。たとえ朝食に紅茶に浸したプチ・マドレーヌを食したとしても思い出すことはないのだ。ただし、それでもごくまれに強い印象を受けた夢があり、粗筋であれば何年間も記憶しているということもなくはない。
これを記している日は約9時間(私の平均睡眠時間だ)寝ていたものの夜中に2度も目を覚まし、そのたびに夢の内容を追憶しようと試みたのだが、すでに薄ぼんやりとしており、思い出す前に次の眠りに入ってしまった。ただし、起床前の夢の内容は意外にはっきりと覚えていた。夢の中で私は政治・経済の授業をしており、生徒たちは私の話にとても良い反応を示していたのだった。こんなことは実際の教員時代にはまったくなかったはずなので、目覚めてみれば、やはり夢に違いないという確信を持てた。
いったい、夢はいつ見ているのだろうか?最近の大脳生理学の知見によれば、夢は眠っている間、ずっと見ているそうだ。かつては大脳皮質がより強く活動しているレム睡眠中にのみ見るとされていたが、現在ではより深い眠りであるノンレム睡眠中にも夢を見ている状態にあることが分かっているらしい。もっとも、記憶に残る夢は覚醒直前に見たものに限られるそうなので、私が豪華二十本立ての夢を見ているのは、睡眠中に19回も半覚醒しているということなのかもしれない。さらに、夢の続きを見たり夢の中でさらに夢を見ていたりという経験が何度もあるので、これまた、浅い眠りに由来すると考えられなくもない。平均睡眠時間が約9時間ということ自体、眠りの質が悪い証左といえるのかも。
夢の中で、これは夢であるという思いを抱きながら夢を見ているときもある。そんな場合では、夢の中にはもう一人の自分がいて、自分が自分の行動を客体視しているのだ。眠っている最中に今、夢を見ているという認識があるので、「これは夢である」という判断が夢の中でなされているのだが、「それは夢だった」という確定がおこなわれるのは目覚めた刹那なので、やはり夢は覚醒しなければ「夢を見た」という体験を自覚することはできないのだろう。
さしあたり、夢は目覚めたときにそれが夢であったと知るのであるとするのならば、人生の最後に見た夢は、それが夢であったとは確認されないまま永遠に保持されることになるのだろうか?夢を見た当のものはもはや目覚めることはないのだし、残されたものは彼・彼女の最後の夢の内容を知るすべを有してはいない。死とともに夢もまた消え去ると考えるのが通常だろうが、死者が夢を見ていないということを他者は知ることはできない。なぜなら、生者の夢すら他者には知ることはできないからだ。こんなとき、脳科学者は脳の働きの有無から死者の夢の存在を否定するあろうが、科学が判明できることなど現象のごく一部でしかないのにもかかわらず、まるですべてが分かるかのように科学者は夢のような説明をするのである。
夢とは少し異なるが、「デジャヴ(既視感)」も不思議な現象だ。初めて見る光景であるのに、それをすでに過去に見ているという感覚を抱く体験だ。実際、多くの人が経験したことがあると語る現象だが、その原因には諸説あるようだ。私がその説明に妥当性があると思うのは以下の2つである。
ひとつは夢との関連性だ。写真やテレビ映像などで印象に残る景色を見たとする。ある日、その景色が夢の中に現われる。ただ、夢はその景色をとくに印象深い部分だけ切り取って再構成しており、しかも夢の記憶は、そのまま心の深くに眠ってしまうことがほとんどなので、夢に出てきた光景が現実に見たものと異なっていることに気付くことはない。その後、現実世界で新たに印象深い景色に触れたとき、夢の記憶と眼前に展開されている景色との高い類似性を心が覚えると、デジャヴが生じるという説だ。初めて恋した美少女の面影をいつまでも記憶していて、映像か何かである美しい女性を見るとその映像を通じてかの美少女のことを思い出すというのと似ていなくはない。もっとも、こちらはデジャヴというよりプライミング(意識の流暢性)に近いかもしれない。
もうひとつは、肉体的疲労と精神的緊張を感じているときに印象深い光景に触れると、視覚情報の差異が生じやすく、その結果、初めて見ているのに、神経回路のズレによってすでに過去に見ているという錯覚を抱くというもの。一般にはこの説が有力だとされている。
はるか昔のことなのに今でも鮮明に覚えているが、私は20代前半のときに摩周湖見学に出掛けてニ度、驚いたことがある。一度目はこのデジャヴに驚き、実は、高校時代の修学旅行で摩周湖見学に来ていたということをほどなく思い出して、また驚いたのである。私の場合、デジャヴよりもジャメヴ(未視感)の体験のほうがはるかに多い。ただ忘れっぽいというだけなのだが。
多磨霊園はディズニーの2.5個分
多磨霊園の敷地の大半は府中市にあり、北西のごく限られた一部だけが小金井市に属する。府中市が誇る大規模な公共施設は3つあり、ひとつは多磨霊園で、あとは府中刑務所と東京競馬場である。つい最近までは関東医療少年院があったのだが、残念ながら昭島市に移転してしまった。こうした大規模施設が府中に造られる理由は簡単明瞭で、田舎には広大な空き地があるからだ。しかも平地が多いので開発は容易だ。多磨霊園と刑務所と少年院は洪水が滅多に発生しない安心・安全の立川段丘面にある。一方、競馬場は多摩川の氾濫原であった沖積低地にある。競馬場は大洪水の前の避難は容易だろうが、霊園、刑務所、少年院は避難先の確保が難しい。霊園、刑務所、少年院を自然災害に遭遇する危険性が低い段丘面に造ったのは企画者に先見の明があったといえる。というより、府中にはそれだけ何もない場所がそこかしこに多くあっただけなのだが。
多磨霊園は1923年4月1日に開園した。敷地面積は128haある。東京ドーム27個分の広さだと言われるが、あまり参考にはならない。東京ディズニーランドが51haなので、ディズニーの2.5個分といったほうが合点がいくかも。ディズニーは「夢と魔法の王国」がキャッチコピーだが、遊園地の夢なぞしょせん、はかない。それに対し多磨霊園は、「はかない」どころか墓は無数にある。私はディズニーやUSJには一度ずつしか行ったことはないが、多磨霊園へは100回以上出掛けている。
多磨霊園はただ墓石が並んでいるだけの墓地ではなく、西洋式の公園的な要素を取り入れた日本最初の霊園である。開園当初は「多摩墓地」を名乗っていたが、1935年にはその成り立ちに相応しい「多磨霊園」に名称変更した。敷地面積は開園時は100haだったが、1939年に拡張工事がおこなわれて現在の敷地面積になった。
広げられた場所は浅間山の東裾部分が含まれているため、新しく造られた最南西端の26区の標高は56mあり、発足当初の最西端である4区の50mと比較してやや小高い場所にある。図面で見ても、当初に造られた部分の区画は整然としているが、拡張された部分は取って付けた(実際そうなのだが)形になっており、原図を引いた設計者の意図からはやや外れた形になっている。多磨霊園を仮に「庭園」に準えるとするなら、当初は平面幾何学的図式で造られた「フランス式」、拡張後は模様に乱れがあり、自然な、かつ立体的である「イギリス式」とでも評することができる。個人的には今の形のほうが好みである。もっとも、拡張前の姿を見たことはないのだが。
公園風墓地を名乗るだけあって、園内には緑が多い。高木の多くはアカマツだが、ソメイヨシノも多くあり、春には桜の園になって花見客でかなり賑わう。4、5月にはツツジの園になり、6月はアジサイの花が目立つ。7月初めの今現在は、アガパンサスの群生がよく似あう。
南北には一本、バス通りが敷地を貫いており、乗用車を含め交通量は比較的多いが、その道以外には車は少なく、墓参に来る人、仕事中に園内で休息を取る人、墓関係の仕事人、そして私のような自転車や徒歩、車で墓見物に訪れる人、ジョギングを楽しむ人、歳の差を気にせず不倫を重ねる人などの姿を見掛けるばかりで、暮石や緑を渡る風はとても心地良い。
霊園には車、自転車、徒歩で訪れる人が多いようだが、公共交通機関もそれなりに整備されている。代表的なのは京王線・多磨霊園駅であろう。私は鉄道では京王線を利用することがもっとも多いので、小さい頃から多磨霊園駅はとても身近な存在だった。とはいえ、多磨霊園に行くためにこの駅を利用したことは一度もない。駅から霊園の正門までは約1.6キロあるので、駅から霊園まで歩くのは大変だし、たとえ正門までやっとの思いでたどり着いても今度は広大な園内を歩き回らねばならない。したがって、京王線を利用して出掛けるとするなら、駅からはバス利用が一般的だろう。
中央線沿線に住む人なら西武多摩川線の多磨駅が便利だ。中央線・武蔵境駅で多摩川線に乗り換え、2つめの駅が写真の多磨駅となる。以前はローカル線に相応しい古ぼけた駅舎だったが、最近になって様変わりした。駅の東側に東京外国語大学や武蔵野の森公園などができたので、おんぼろ駅舎は似合わなくなったとの考えによるのかも。多磨駅からは徒歩約5分で霊園の正門に着く。
霊園の北側には「小金井門」があり、ここは東八道路のすぐ南側にあるために車で訪れる人はこの入口を利用する人が多い。なお、正門は「表門」、小金井門は「裏門」とも表記されている。実際、管理事務所、みたま堂、合葬式墓地などは正門のすぐ近くにあるので、正門が表門、小金井門が裏門とされる理由は確かにある。
多磨霊園を訪ねる
私が霊園へ散策に訪れるときはほぼ100%、自転車で行く。家から浅間山の北東側にある西門までは直線距離で約2キロあるので徒歩ではややきつく、広大な園内を巡るときには自転車利用がとても具合が良いのだ。自宅を出て「府中の森公園」を突き抜けて浅間山の北側を通って西門に至るというのが通常のコースだ。が今回は、まず京王線・多磨霊園駅に寄って、バスのコースをたどって正門から入った。
正門を入るとすぐ右手に写真の管理事務所がある。墓に埋めてもらう予約をするわけではないので事務所に用はないのだが、ここには霊園の案内図などの資料が置いてあるので、その入手を兼ねて立ち寄ってみた。
管理事務所の北隣にある大きなドーム型の新納骨堂が「みたま堂」(1993年完成)である。ここには墓所が見つかるまで遺骨を一時保管してもらえる施設と、長期(30年、更新あり)収蔵してもらえる施設があり、今年の1月現在、一時保管場所に2554体、長期収蔵場所に10556体収容されている。
みたま堂には初めて立ち寄った。といっても入口に立って写真を撮ったのみ。私には参拝する習慣がないのでここにしばらく佇んでいただけだが、それでも少しだけ、居住まいを正したいという気持ちを抱いたことは確かだった。
ロータリーの西側にはやや古めの小さな建物がある。墓参に訪れた一団が手向けの花を購入し、借りた水桶を手にして墓に向かっていった。この小さな店の西隣に合葬式墓地(2003年完成)があり、そのさらに西側に芝生墓地がある。
霊園の敷地には限りがあるので、先に挙げた「みたま堂」や写真の芝生墓地などコンパクトに収まり、かつ手入れの簡単な墓地が増えているようだ。家族制度は崩壊しつつあり、家族のつながりそのものが希薄になっている現在では、こうした様式の墓地ですら用はなくなり、霊園そのものも、さらなる様変わりを強いられることだろう。
ロータリーの北側には「名誉霊域」がある。その名を象徴するがごとく、道幅にも区画にも他の場所とは異なり、かなりのゆとりを感じさせる。
名誉霊域に面した場所には著名人の墓が多い。多磨霊園には名の知られた人の墓が多いといわれるが、これは広大な敷地に数多くの人が眠っていること、郊外であっても一応は東京都にあるので、名を知られている人が埋葬される割合が比較的高いという理由が背後にあると考えられる。今年の1月現在、埋葬体数は44万8655体なので、その中に著名人が多数いるということは不思議でもなんでもない。都心部にある青山霊園なんかは、さらにその割合は高いのではないだろうか。なお、名誉霊域に面した場所の著名人は政治家や軍人が多いのが特徴的だ。
霊園の墓地は26区に分けられ、各区画の内、道路に面した部分は1種、内側は2種、さらに側、番に区分されている。例えば、本項の冒頭に挙げた「ゾルゲ」の墓は”17区1種21側16番”にある。管理事務所で入手できる案内図や道路の交差点に表示されている地図を頼りに大まかに場所の見当をつけ、小区画には上記の写真のような標識があるので、墓探しはそんなに苦にならない。ちなみに、写真の標識は「西園寺公望」の墓の横にあったものだ。標識には最後の「番」だけは表記されていないが、「側」まで分かればあとはその小区画を見て回れば、お目当ての墓は簡単に見つかる。
ただし、名誉霊域には上記の区分の例外があり、7区の特種がそれである。この場所には「東郷平八郎」「山本五十六」「古賀峯一」の墓がある。いずれも説明は不要なほどよく知られた海軍軍人である。東郷の死は1934年、山本は43年、古賀は44年なので、時代背景もあって特別な場所に墓が建てられたのだろう。
名誉霊域通りにはシンボル塔、写真の萬霊供養塔、忠霊塔が立ち並んでいる。シンボル塔はよく目立つ存在であり、かつては噴水塔としての役割を果たしていたが、現在では老朽化が進んでおり、事故防止のためか周囲をフェンスが取り囲んでいるのであまり良い景観ではない。その点、高さ12mもある巨大な灯篭は1941年に造られたとは思えないほど立派である。もっとも、この大灯篭は建設当初は正門近くに設置されていたのが、2002年に現在の場所に移築された。その際に手を入れられたから古ぼけてはいないのだと思える。
私が霊園を訪ねる訳は?
私が多磨霊園内を散策場所に選んだのは10年ほど前のことだ。それまではバス通りを車で通ったり、霊園に北側にある「運転免許試験場」へ免許の更新をしたり、3度の免許証紛失による再発行のために自転車で出掛ける際に、霊園内を通過するときぐらいだった。これは浅間山も同様で、家からは両者より少し遠い位置にある多摩丘陵にわざわざ出掛けていたのは、その近くには多摩川があるからだった。浅間山には湧水がほんの少しあるだけだったし、多磨霊園は敷地が広大であるにも関わらず池がない。この「水の不在」が、ここを遊び場や散策場に選ばなかった理由であった。
しかし、たまたま10年前、「ムサシノキスゲ」を探しに浅間山に出掛けた際、なんとなく多磨霊園の敷地内まで足を伸ばしてのんびりと徘徊してみると、その景観の「複雑さ」に魅せられてしまったのだった。『作庭記』には庭の価値は石の配置で決まるといったことが記されているということは前回に少しだけ触れたが、確かに、多磨霊園には石が無数に配置されており、そのどれもがひとつとして同じものはなく、だがしかし、総体としても個別にもここが霊園であることを強く表現していた。もっとも、それは当たり前で、ここにある石の多くは「墓石」なのだから。
先に挙げた芝生墓地も、13区にある写真の壁墓地も、限られた敷地を合理的に使用する新しい形式のお墓で、一見するとどれも同じように見えるが、細部の意匠は案外異なっている。しかも、この墓のひとつひとつを守っている人々の意志がそれぞれの墓の姿に反映されており、地面から伸びる草たち、添えられた花束、刻銘された文字、石の輝き具合など、どれひとつとして同じ表情を有しているものはない。墓の形相はそこに眠る人々が現世に残した生き様を反映しているとも考えられるのだ。
こうして、墓の様相の違いに気づくと、墓の姿かたちを見ることに俄然、興味が湧いてきた。通常、お寺にある墓地だと、たとえそれに興味を抱いたとしても散策地に選ぶことにはやや気が引けるが、多磨霊園はなにしろ公園風墓地なので通路もゆったりと取ってあるので散歩気分に浸れるし、宗派にはこだわりがないので変化に富んだ細工も多く見られるため、出掛けるたびに様々な発見ができる徘徊場所なのである。もちろん、緑が多いことも私の好みに合致しており、いろんな風媒花、虫媒花、鳥媒花、獣媒花を探す楽しみすらある。
ひとつ上の墓のように手入れが行き届き、立派な胸像まで飾られたものがある一方で、上の墓のようにすっかり忘れ去られたものも結構ある。全体が葛にほぼ覆われた状態で、今は人の手がまったく入っていない憐れな姿だが、墓自体は、敷地の広さといい、建造物の大きさといい、かつては立派に輝いていたであろう石碑といい、ここに眠る人や家族はさぞかし名のあった存在だったと想像できる。が、そうした人や家族の記憶でさえ、時の流れの中では消滅してしまうのである。しかし、考えてみれば最初期に造られた墓であったとしても、霊園の歴史はまだ100年も経ってはいない。儚い墓である。
墓碑銘の「またね」は意味深である。墓参する人もいずれは眠りにつくので、墓の中でまた会えるということなのだろうか?たぶんそうではなく、人間(じんかん)は生死の幅の中にあって、人が墓の主の存在を心に思い浮かべるだけで、その主は他者の中に「実在」するのであり、その限りにおいていつでも会えるのである。ただし、時を経ることで主を思う人もまた死に至る。そうして、主に関係する人のすべてが地上から消え去ったときに人間(じんかん)の幅はゼロになり、「またね」は跡を絶ち、墓石は葛に覆われていく。
後に挙げるが、著名な軍人や政治家の墓には立派な肩書が刻銘されている。それは確かに名誉なことだろう。しかし写真の兵士の墓のように、たとえ地位は低くとも、家族にとっては十分に誇れる「死」であり、平和の礎になった「死」であり、悲しい「死」であり、悔やまれる「死」であったという思いが込められた刻銘も多くある。
写真の記念石碑は墓石の数倍の高さがある。「開発者」というだけで素敵なのに、さらに、ただの電気炉ではなく「高周波」の電気炉なのである。それがどんなものであるかは皆目、見当がつかないが、こうして立派な石碑に刻銘されるだけの素晴らしい、そして価値のある業績であるに相違ない。なにしろ「高周波」だ。
著名人の墓を探し歩く
墓石には多くの場合、〇〇家之墓という刻銘がある。その近くに墓誌があり、その墓に眠る人の名が刻まれている。私は霊園内を散策するとき、この〇〇家の〇〇を見て、かつて出会った人の記憶を呼び覚ますことがよくあるし、それを頭の体操にしている。私には人の姓名を覚えることがほとんどできないという「特技」がある。何しろ、教員時代にクラス担任をしていても一年間、名前を覚えられなかった受け持ちの生徒が3割ぐらいいた。顔の記憶はあるのだが、名前とその存在とを結びつけることができないのだ。これは現在も同じで、今でも出会った人の名前がなかなか覚えられない。そのことで「ボケが進行したな」とよく言われるのだが、実際は、ボケが進行したのではなく、もともとボケていたのだ。
ところが、墓石の〇〇を見ると、突然、過去に出会った人の姓名と顔が浮かんでくるのである。例えば、「赤城家之墓」が目に入ると、そういえば赤城という姓の釣り仲間がいたことを思い出し、するとその人の顔や佇まいだけでなく、釣りの時の仕草、語り口調まで記憶が呼び覚まされるのである。これは実に大いなる発見であって、このことも私の「墓巡り」の興味のひとつになった。△△家之墓を見れば△△くんや△△さんを思い出し、「まだ元気でいるだろうか」とか「もう死んじゃっただろうな」とかを思いながら次々に墓碑銘を見て歩くのだ。実は姓名は記憶しているのである。ただし、その人と出会ったときに記憶を呼び覚ますことができないだけだったのだ。私にとっての現実は、夢の世界とさほど違わないかもしれない。
こうして、霊園内の墓碑銘を見て歩くと、家族名ではなく個人名を刻銘した墓も見掛け、中には著名な人のものも目にすることがあった。友人からは「多磨霊園には有名人の墓が多くあり、管理事務所でもらえるパンプレットに墓の場所が記されているので探すのには便利だ」と聞いてはいた。しかし、そうした方法での墓探しには興味がなく、偶然の出会いに妙味があると思っていたので、とくにパンフレットを入手する気持ちにはならなかった。反面、知った名前を発見し、その人物について思いを巡らせると、忘れていた記憶が呼び覚まされ、好奇心が増幅するという楽しみが生まれたのも事実だった。
それからは、△▼家の刻銘からは人生の中で出会った人のことを想い、著名人の墓からはその人物に関連する出来事や著作物や言動などを思うというように、霊園に訪れるという動機付けがいよいよ増大したのだった。
今回は、このブログの読んでくれる貴重な人への参考になればと考え、初めて管理事務所でパンフレットを入手し、それに記されている著名人墓所の所在地一覧から数十人を選び、墓巡りをおこなってみた。私にとっては、最初で最後の計画性のある霊園探訪だった。先に述べたように霊園には「区・種・側」が記された標識が設置されているので、墓探しはそんなに困難ではなかった。例えば、「新渡戸稲造」の墓であれば「7区1番5側11番」とパンプにあるので、まずは7区に行き、交差路に設置されている地図で1種と5側の場所を確認してそこを目指していけば「7区1番5側」の標識が見つかる。あとはひとつひとつ墓碑銘を見ながら「新渡戸家」もしくは「新渡戸稲造」の名を探せば良いのだ。ただし、著名な人の墓であるからといって墓の規模が大きいとは限らず、見過ごしてしまうことも多少はあった。
以下、撮影した著名人の墓は40柱ほどある。誰もがよく知っている歴史上の人物もあれば、個人的に興味はあるが世間一般にはそれほどよく知られているわけではないという人の墓もいくつかある。それぞれ、その人物について解説を加えていけばよいのだが、そうなると本項の完成がいつになるか分からない。したがって、解説は省いているものが多い。というより、私の解説よりも本項を読んで頂いている奇特な方々のほうがより詳しく知っていると思っている。なお、適宜、私の感想を加えていきたいとは考えている。
死者の墓(生者の墓があるかどうかは不明だが)に出会い、たとえ死者であっても、その人物について思い巡らすことができる限りにおいて、その人物たちはそれを思う人の世界に「内在」しているのだということを、改めて再確認していただきたい。
所在地:8区・1種・16側・29番
内村鑑三の墓の存在は以前から知っていた。彼の信条は教員時代も予備校講師時代も「倫理」の授業でよく取り上げていた。しかし実際は彼についての解説書を数冊読んでいただけで、その著書を直接、読むことはなかった。「無教会主義」も「不敬事件」も「ふたつのJ」も足尾銅山鉱毒事件にコミットしたことも、日露戦争に際しては非戦論を貫いたことも、新渡戸稲造とは若い頃に出会い、彼の勧めでキリスト者になったことも、解説書に皆、それらについて記されていたので、授業でそれらの事柄を表面的に解説していたに過ぎなかった。
が、『代表的日本人』をたまたま読む機会があり、それを切っ掛けにして内村の宗教観を理解することに努めてみた。すると墓誌にある「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」という言葉が、著書を読む前とはまったく異なる意味をもつものとして私に立ち現れてきたのだった。
『代表的日本人』は、内村の思想を知るには最良の著作だと私は考えている。とくに私のように無信仰の人間にとっては。
所在地:16区1種17側3番
芸術についてはまったくの門外漢なので、岡本太郎の名前を聞いても「芸術は爆発だ!」と「太陽の塔」ぐらいしか思い出せない。岡本家の墓を訪れると、父親の一平の墓も、太郎の墓も彼らしさが滲み出ており、それぐらいしか知らなくても、ここが岡本太郎に関係する墓所であることはすぐに分かる。
がしかし、岡本太郎は本当に有能な芸術家なのであろうか?そう考えたとき、若い頃に知ったある言葉を思い出した。正確ではないが大意は次のようだった。「ベートーベンの曲に犬が吠え付いたとしたら、悪いのは犬のほうだ」。
芸術を理解するのは簡単ではないし、その価値を誰もが分かるとしたら、それは芸術ではなく大衆芸能であろう。良き芸術家を育てるためには幼いうちから良いものだけに触れさせることが大切であるとされるが、それは確かなことだと思われる。私のようにマンガやテレビの娯楽もの、映画は植木等の無責任男シリーズ、音楽は藤圭子やグループサウンズだけに触れて育つと、古典芸術の良さをまったく理解できない大人になる。子供の頃から私はクラッシック音楽に吠え付く犬であったし、現在もさして違いはない野良犬である。それゆえ、岡本太郎の良さは未だに理解できないのである。「なんだ、これは!」
村野四郎(1901~75) 詩人
所在地:8区1番14側
村野四郎は府中市出身の数少ない有名人の一人である。旧多磨村上染屋(現府中市白糸台)生まれだそうだ。わが愛する詩人である室生犀星が村野を高く評価したということ知ったときに彼の詩集を購入したという経験があった。が、今回、その本を探してみたけれど発見できなかった。購入したという記憶にあるが、その本を開いたという記憶はまったく残っていない。
最近はほとんど利用しないので今でも使用されているかは不明だが、京王線府中駅の下りフォームでは接近メロディとして村野作詞の『ぶんぶんぶん』が使われている。もっとも、メロディはボヘミア民謡なので村野とは直接には関係しないが、それを聞くと『ぶんぶんぶん』の詞を思い出すので、村野に関連するものとしても誤りではない。
本ブログでは26回の「多摩川中流」の項で川の左岸にある「郷土の森」を少しだけ紹介し、その中で「旧府中高等尋常小学校」の校舎について述べているが、その中に「村野四郎記念館」があることは触れていない。実際、私はその中をのぞいたことはない。村野四郎について調べてみると、1969年に「府中市の歌」を作詞したと記されているのを見た。が、そんな歌が存在することは今回、初めて知った。
かように、村野四郎について私が知ることはほとんどないが、室生犀星が評価してるというからには、優れた詩人であるということは事実であると思う。
東郷平八郎(1848~1934) 海軍軍人
所在地:7区特種1側1番
東郷平八郎については本ブログの第15回(ヨーコを探して港へ)で少しだけ触れている。そのときは東郷についてではなく戦艦三笠のことが主だったが、それでも東郷の銅像を写真に収めてはいる。
東郷は死後に神格化され、乃木希典が神格化されて乃木神社が建立されたのと同じように東郷神社が建てられている。一方、東郷の別荘があった府中市清水が丘には東郷の生前の願いだった法華経の道場である日蓮宗の寺が建立された。これを「聖将山・東郷寺」という。「聖」といい「将」といい、神格化とは異なるが、やはりそれなりに開基である東郷を尊崇していることは確かである。この寺の境内は私の散策場のひとつであり、黒澤明の『羅生門』に登場する山門のモデルとなったといわれている山門は見事な姿をしている。また枝垂桜の存在もよく知られており、3月の開花期には大勢の人が訪れる。
山本五十六(1884~1943) 海軍軍人
所在地:7区特種1側2番
私の子供時代の愛読書は『少年サンデー』と『少年マガジン』であり毎週、欠かさずこの2冊を見て(購入費用は兄が出した)、科学や戦争、スポーツについて学んだ。山本五十六は当然のごとく戦記物の「悲劇のヒーロー」として扱われていたので名前はよく知っていた。が、個人的には「滝城太郎」により好感をもっていた。というより、作者の「ちばてつや」の描き方が素晴らしかったのだろう。とくにラストの「信子」と滝の母親が大分駅に到着するシーンが劇的な感動を与えてくれた。『紫電改のタカ』と山本五十六とは何も関係はないが、日本海軍という共通点だけはあり今回、山本の墓を訪ねた際に、滝城太郎と信子のことを思い出したのだった。
古賀峯一(1885~1944) 海軍軍人
所在地:7区特種1側3番
古賀峰一の墓は前の2人のヒーローに比べてかなり見劣りがする。彼も「元帥海軍大将」であったし、前の2人とは同格で、山本五十六の死後、連合艦隊司令長官の任に就いている。同じ名誉霊域の7区特種に存在するだけにその違いに驚かされる。一説によれば、彼の妻が立派な墓に建て替えることに反対したとされている。古賀は戦死ではなく彼の乗った飛行艇が消息不明となり、その後に殉職扱いとなったことがその理由のひとつらしい。 こういう墓があって良いし、改築されずに残っていること自体、心温まるものを感じてしまう。
田山花袋(1872~1930) 小説家
所在地:12区2種31側24番
田山花袋は群馬県館林市出身である。田山の作品はその独特の「暗さ」が好きで、『布団』や『田舎教師』は私の愛読書に加わっていた。田山が館林出身であるということは、以前、館林市が誇る「つつじが岡公園」を訪ねた際、その近くに「田山花袋記念文学館」があるのを見つけたことで知るに至った。敷地内には田山の「旧居」も残されていたが、私としてはこの手の記念館に立ち入ることは滅多にないはずなのに、そのときは文学館も旧居もじっくりと見学した。向かいには「向井千秋記念子ども科学館」があり、本来はそちらのほうを好むのだが、そのときばかりは田山花袋の暗さのほうを選んだ。
上に挙げた作品は再読したいと思っているのだが、なにしろコロナ禍の影響で読みたいと思う本を数多く購入してしまったためにその機会はたぶん訪れないだろう。ちなみに今、読書中なのは、坂靖の『ヤマト王権の古代学』、三中信宏の『系統体系学の世界』、エーコの『薔薇の名前』である。私はいつも、複数冊を同時並行に読む。それぞれ、田山の作品のような「暗さ」はないが「重さ」があって興味深い。
向田邦子(1929~81) 小説家、脚本家
所在地:12区1種29側52番
おもにテレビドラマの脚本家としてよく知られている。今回、彼女の作品を調べてみたが、私にも知っているドラマが数多くあった。もっとも、実際に見たことがあるのは『時間ですよ』のみだった。墓碑銘には「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」とある。これは森繁久彌の書を刻銘したそうだ。向田は飛行機嫌いであったが取材であちこちに出掛けなければならず、結果、51歳のときに台湾にて飛行機事故で死去した。
大賀一郎(1883~1965) 植物学者
所在地:20区1種33側15番
大賀博士については第16回の「古代蓮」の項で触れている。今年の7月も私の母校である府中一小の北側にある「ひょうたん池」では「大賀ハス」が開花している。
堀辰雄(1904~53) 小説家
所在地:12区1種3側29番
塚本虎二(1885~1973) 伝道者、聖書研究者
所在地:8区1種6側
高橋是清(1854~1936) 政治家
所在地:8区1種2側16番
西園寺公望(1849~1940) 政治家
所在地:8区1種1側16番
中野正剛(1886~1943) 政治家
所在地:12区1種1側2番
呉茂一(1897~1977) ギリシャ古典研究家
所在地:5区1種1側9番
北原白秋(1885~1942) 詩人、童謡作家
所在地:10区1種2側6番
ゾルゲ(1895~1944) ジャーナリスト、諜報員
所在地:17区1種21側16番
尾崎秀実(1901~44) ジャーナリスト、評論家
所在地:10区1種13側5番
所在地:3区2種11側2番
所在地:10区1種7側8番
所在地:6区1種8側13番
長谷川町子(1920~92) マンガ家
所在地:10区1種4側3番
所在地:25区1種24側1番
江戸川乱歩(1894~1965) 小説家
所在地:26区1種17側6番
鶴見俊輔(1922~2015) 思想家、評論家
所在地:5区1種12側
所在地:3区1種24側15番
所在地:2区1種13側8番
児玉源太郎(1852~1906)
所在地:8区1種17側1番
新渡戸稲造(1862~1933) 教育学者、思想家
所在地:7区1種5側11番
竹内好(1910~77) 中国文学者
所在地:10区1種14側
辻邦生(1925~1999) 小説家、フランス文学者
樺美智子(1937~60) 大学生
所在地:21区2種32側14番
仁科芳雄(1890~1951) 物理学者
所在地:22区1種38側5番
所在地:9区1種17側
下村観山(1873~1930) 日本画家
所在地:3区1種9側5番
所在地:10区1種13側32番
* * *
私は、つい最近、後々まで記憶に残るであろう総天然色の夢を見た。
私はある川に鮎の友釣りに出掛けた。川の名は不明だ。私は川の南岸にいた。川は北岸に向かって深くなり、しかもコケ付きの良い石は北岸側に無数に並んでいた。南岸上からは北の好ポイントまでオトリ鮎を送ることはできないので、川の流れの中に立ち込んで竿を出した。オトリはやや流れに押されながらも北岸側にある石群まで泳ぎ着いた。ほどなく、目印が2mほど素早く上流に向かって走り、同時に強烈な手ごたえを感じた。私は竿の弾力を最大限に活かすために竿を起こそうとしたがそれはかなわず、掛け鮎はオトリを引き連れてぐんぐんと上流に向かって泳いでいった。私はそれに付き従うように上流に向かって歩を進めざるを得なかった。
数十mも上ったのだろうか。鮎の動きは弱くなった。手に感じる抵抗感から、引き抜きは不可能であることを確信するほどの大型鮎と思えた。それゆえ、竿を十分に溜めて鮎が弱るのを待った。しばらくそのままの状態が続いたが、いっぽう、私は自分の周りの風が強くなってきたことを感じた。川の表面が波立ち、やがて渦を巻き始めた。私は竿を両手で強く握り、風に翻弄されまいと抵抗した。風の正体は小さな竜巻だった。
私は見た。竜巻がオトリ鮎と掛け鮎を川面から巻き上げる姿を!鮎を竿に繋ぎとめていたラインが切れ、両鮎は北岸側に飛ばされ、河原にある木の枝に引っかかった。
思わず、私はこう叫んだ。
「鮎の不時着」